翌朝。
キソガワの目覚めは、前世ではあり得ないほど爽快だった。
ふかふかの天蓋付きベッド、窓から差し込む柔らかな朝日、そして何より――「胃が痛くない」。
前世の彼は、毎朝鳴り響くアラーム音と共に「行きたくない」と絶望し、満員電車に揺られていたのだ。それがどうだ。
今は徒歩ゼロ分で職場(屋敷の一階が職場。二階が執務室、三階が住居)だ。
「……悪くない」
キソガワが伸びをしていると、控えめなノックの音が響き、扉が開いた。
「し、失礼いたします……旦那様」
入ってきたのは、喪服のような黒いメイド服に身を包んだ、銀髪の美女だった。
記憶をたどる。
(確か……エリザ、だったか)
エリザ。キソガワの専属秘書であり、身の回りの世話をするメイドも兼任している。
切れ長の瞳に、陶器のように白い肌。誰もが振り返るほどのクールビューティーだが、その表情は死人のように暗い。
無理もない。記憶によれば、前任のキソガワ(クズ)は、朝の着替えのどさくさに紛れて彼女の体を触り、少しでも手際が悪いと罵倒し、花瓶を投げつけるのが日課だったらしい。
エリザにとって、この寝室は拷問部屋に等しいのだ。
(……朝から陰気な顔だ)
キソガワは内心で舌打ちをした。
彼は「効率」を愛する男だ。秘書のメンタル不調は、そのまま業務効率の低下に直結する。
エリザが震える手で、着替えのシャツを持って近づいてくる。
「お、お着替えを……」
「待て」
キソガワが手を突き出して制止すると、エリザがビクリと肩を跳ねさせ、ギュッと目を閉じた。殴られると思ったのだ。
だが、衝撃は来なかった。
「自分で着る。置いておけ」
キソガワは彼女の手からシャツをひったくると、手早く袖を通し始めた。
「え……?」
エリザがポカンと口を開ける。
キソガワはボタンを留めながら、淡々と言い放つ。
「お前に着せさせると遅いんだ。他人の手が入れば、それだけ動作にラグが生じる。俺が自分でやった方が、三十秒は短縮できる」
「は、はあ……」
「突っ立っている暇があったら、朝食の準備をしておけ。メニューは消化に良く、スプーン一本で食えるリゾットだ。ナイフとフォークを使う時間は無駄だからな」
そう言って、キソガワはさっさと部屋を出て行った。
残されたエリザは、主人の背中を呆然と見送る。
(体を……触られなかった……? それに、私の手際が悪いと怒鳴りもせず……?)
奇妙な違和感を抱きつつ、彼女は慌てて後を追った。
◇
二階、ギルド執務室へとやってきた
室内には重苦しい沈黙が流れていた。
隣に控えるエリザは、膝の上で拳を握りしめ、視線を床に落としている。いつ理不尽な命令が飛んでくるかと、身を縮めているのだ。
キソガワは組んだ足の上で指をトントンと動かしながら、彼女を観察していた。
その視線に気づき、エリザの顔色がさらに青くなる。
(……顔色が悪いな。目の下にクマもできている)
キソガワの「管理職センサー」が警告音を鳴らした。
秘書が倒れれば、スケジュールの調整や書類の整理が滞る。代わりの人間を一から教育するコストを考えれば、現状の戦力を維持するのが最適解だ。
「……おい」
「ひっ! は、はいっ! 申し訳ありません!」
声をかけただけで、エリザが弾かれたように謝罪した。
「すぐに化粧を直します! 不快な思いをさせてしまい……どうか、お仕置きだけは……!」
「は? 何を言っている」
キソガワは、机の中に常備して置いた小瓶を取り出し、エリザの方へ放り投げた。
エリザが慌ててキャッチする。
それは、高級な滋養強壮ポーションだった。
「飲んでおけ」
「え……これは……?」
「顔色が悪い。そんな死にそうな顔で客前に出られたら、ギルドの品位に関わる。それに、集中力が落ちてミスをされては、俺の仕事が増えて迷惑だ」
キソガワは窓の外に視線を戻し、つまらなそうに付け加えた。
「代金は経費で落としていい。……さっさとコンディションを戻せ。俺は無能な秘書を使うつもりはない」
エリザの手が震える。
かつてなら、「俺の視界に入るな」と窓から突き落とされていたかもしれない。
それなのに、この暴君は今、高価なポーションを与え、あろうことか「体調を戻せ」と言ったのだ。
業務のため、という冷たい理由ではあったが、エリザにとってこれほど実利のある「配慮」は初めてだった。
「……あり、がとう、ございます……」
エリザはポーションを握りしめ、困惑と微かな安堵を滲ませた。
◇
一階、ギルドへ向かう。
キソガワが足を踏み入れると、職員たちが一斉に作業を止め、直立不動になる。全員の顔に「次は誰がクビになるのか」という恐怖が張り付いていた。
特に女性職員たちは、視線を合わせようともしない。
(どいつもこいつも、死んだ魚のような目をしやがって……)
キソガワはフロア全体を見渡した。
目の下にクマを作った男、子供の迎えが気になって時計ばかり見ている女、眠気で舟を漕ぎかけている若手。
非効率の博覧会だ。
(前の職場でもそうだったな……。こんな状態で仕事をしても進みが悪い。それが結果的に、俺に仕事が回ってくることになる)
「全員、手を止めろ」
キソガワの声が響くと、職員たちの肩がビクリと跳ねた。
キソガワは中央に進み出ると、宣言する。
「業務連絡だ。今日から勤務体制を変更する」
ざわ、と空気が揺れた。
誰もが「さらなる重労働」か「給与カット」を予想した。
「まず、そこのお前。クロエと言ったか」
「は、はいぃっ!」
指名されたのは、幼い子供を二人抱える女性職員だ。彼女は青ざめ、クビを宣告される覚悟で震えていた。
「子供がいるそうだな」
「は、はい……ですが、仕事には支障をきたさないよう……!」
「今日から一六時に帰れ」
「……え?」
クロエが間の抜けた声を上げる。
「子供が急に熱を出しただの何だので、当日の朝に休まれると予定が狂うんだ。だったら最初から勤務時間を短く設定し、その時間だけ集中してもらった方が、俺にとって『計算が立つ』」
「で、ですが……そんなことをしたら、お給料が……」
「変わらん。……俺はな、『長く働く奴』が大嫌いなんだ。ダラダラ残業してやった気になっている無能を見ると反吐が出る」
キソガワはさらに、隅の方で眠そうにしていた若手職員・アランを指差した。
「それと、そこの寝不足顔。お前は朝が弱いらしいな」
「あ、ハイ……すいません……」
「明日から昼に出勤しろ。その代わり、夜の閉め作業はお前がやれ。寝ぼけた頭で書類を作ってミスをされると、修正する俺の手間が増える。迷惑だ」
キソガワはぐるりと全員を睨みつけた。
「いいか。俺は定時で帰りたい。そのためには、お前らが万全の状態で、ミスなく、最短で仕事をこなす必要がある。疲れた顔でデスクにへばりついている奴がいたら、業務妨害とみなして処分する。……以上だ」
キソガワは踵を返し、執務室へと消えていった。
残された職員たちは、しばらく言葉を失っていた。
やがて、クロエが震える声で呟く。
「……私の家庭の事情を……考慮してくださったの……?」
「俺も……朝苦手なの、バレてたのか……? ていうか、本当に昼からでいいのか?」
「(セクハラ目的で残業させられると思ってたのに……むしろ早く帰してくれた!?)」
本来なら「俺のために働け」と言うはずの暴君が、各々の適性と生活を考慮した「最適配置」を行った。
その事実は、恐怖に凝り固まっていた職員たちの心を、劇的に解凍していった。
◇
その日の午後。
Sランク冒険者パーティ『黄昏の竜』が遠征から帰還した。
彼らは国でも五指に入る実力者たちだが、今は受付カウンターの前で、酷く不機嫌そうに騒いでいた。
「あーもう! だからよぉ! ドラゴン倒したっつってんだろ! なんで作文なんか書かなきゃなんねぇんだよ!」
「規定ですので……詳細な報告書を提出していただかないと、報酬がお出しできません」
「うるせえ! 俺たちは剣を振るうのが仕事なんだよ! 文字なんか書いてられるか!」
リーダーの大剣使いが、羽ペンをへし折って怒鳴り散らしている。
エリザは胃が痛くなった。
この手のトラブルは、最終的にギルドマスターの出番になる。だが、前のキソガワなら「俺を煩わせるな」と、受付嬢ごと冒険者を処刑しかねない。
「チッ、うるさいな」
案の定、執務室のドアが開き、不機嫌全開のキソガワが出てきた。
エリザは「終わった」と天を仰いだ。
「おい、そこな脳筋ども」
「あぁん!? んだテメェ……って、ギルマスのキソガワじゃねえか」
リーダーが睨みつける。一触即発の空気。
だが、キソガワが差し出したのは、処刑宣告ではなく、一枚の紙だった。
「報告書を書くのが面倒だと言ったな?」
「おうよ! 俺たちに詩人みたいな文章をかけってのが無理な話だろ!」
「同感だ。俺もお前らの汚い字で書かれた、主語も述語もない怪文書を読むのは苦痛でしかない」
「なっ、んだと!?」
「だから、これを使え」
キソガワが渡したのは、彼が考案し、ミリスに作らせた『討伐報告チェックシート』だった。
魔物の種類、出現場所、ドロップ品などの項目が並び、横にある四角い枠にチェックを入れるだけの仕様になっている。
「〇をつけるだけでいい。作文はいらん。数字だけ正確に入れろ」
「は……? こ、これだけでいいのか?」
「事実確認さえできればいい。『苦戦した』だの『俺の剣技が冴え渡った』だのという感想文は、業務に必要ない」
冒険者たちは顔を見合わせた。
試しにリーダーがペンを取り、チェックを入れていく。
サラサラサラ……ポン。
わずか三十秒で、全ての報告が終わった。
「す、すげぇ……!」
「終わったぞ! いつもの十分の一の時間だ!」
「マジかよ! これなら酒場に直行できるじゃねえか!」
むさ苦しい男たちが、歓喜の声を上げて抱き合った。
リーダーがキソガワの手をガシッと掴む。
「あんた……天才か!? 俺たちの苦労を、分かってくれてたんだな……!」
(いや、俺が楽をしたいだけだが)
キソガワの困惑をよそに、Sランク冒険者たちは「このギルドは最高だ!」「一生ついていく!」と大盛り上がりで去っていった。
その光景を、エリザは信じられない思いで見つめていた。
あの荒くれ者たちが、マスターに笑顔で感謝している。
この男は、一体何者なのだろうか。
◇
午後五時。
定時を告げる鐘が鳴ると同時に、キソガワは席を立った。
「帰るぞ」
「えっ……も、もうですか?」
エリザが驚く。まだ日は高い。今までのキソガワなら、ここから夜の街に繰り出すか、屋敷で宴会を開くのが常だった。
だが、今のキソガワは「残業」の二文字を何よりも憎んでいる。
「業務時間終了だ。ここにいても光熱費の無駄だ」
さっさと三階へ戻る。
到着後、食事を済ませると、キソガワはすぐに寝室へと向かった。
エリザは覚悟を決めた。
夜は長い。朝や昼は機嫌が良かったが、夜こそが本番かもしれない。
彼女は震える手で寝室のドアを開け、主人のベッドの脇に立った。
「……旦那様。……夜のお相手を……」
屈辱に唇を噛みながら、服の紐に手をかける。
だが。
「何をしている?」
ベッドの中から、冷ややかな声が飛んできた。
キソガワはすでに布団を被り、アイマスクを装着していた。
「風邪を引くぞ。さっさと自分の部屋に戻れ」
「え……? で、ですが……」
「明日は七時起きだ。睡眠不足はパフォーマンスを低下させる。お前もさっさと寝て、体力(スペック)を回復させろ。……おやすみ」
それきり、キソガワは身じろぎもしなくなった。
数秒後には、規則正しい寝息が聞こえ始める。
取り残されたエリザは、ほどきかけた紐を握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。
「……おやすみ、なさい……?」
指一本、触れられなかった。
罵倒もされず、ただ「体調を整えろ」とだけ言われた。
エリザの胸を占めていた恐怖の塊が、ほんの少しだけ崩れ落ちる。
彼女は眠る主人の顔を、初めてまじまじと見つめた。
その寝顔は、悪徳ギルドマスターとは思えないほど、安らかで、どこか子供のようにも見えた。
キソガワの目覚めは、前世ではあり得ないほど爽快だった。
ふかふかの天蓋付きベッド、窓から差し込む柔らかな朝日、そして何より――「胃が痛くない」。
前世の彼は、毎朝鳴り響くアラーム音と共に「行きたくない」と絶望し、満員電車に揺られていたのだ。それがどうだ。
今は徒歩ゼロ分で職場(屋敷の一階が職場。二階が執務室、三階が住居)だ。
「……悪くない」
キソガワが伸びをしていると、控えめなノックの音が響き、扉が開いた。
「し、失礼いたします……旦那様」
入ってきたのは、喪服のような黒いメイド服に身を包んだ、銀髪の美女だった。
記憶をたどる。
(確か……エリザ、だったか)
エリザ。キソガワの専属秘書であり、身の回りの世話をするメイドも兼任している。
切れ長の瞳に、陶器のように白い肌。誰もが振り返るほどのクールビューティーだが、その表情は死人のように暗い。
無理もない。記憶によれば、前任のキソガワ(クズ)は、朝の着替えのどさくさに紛れて彼女の体を触り、少しでも手際が悪いと罵倒し、花瓶を投げつけるのが日課だったらしい。
エリザにとって、この寝室は拷問部屋に等しいのだ。
(……朝から陰気な顔だ)
キソガワは内心で舌打ちをした。
彼は「効率」を愛する男だ。秘書のメンタル不調は、そのまま業務効率の低下に直結する。
エリザが震える手で、着替えのシャツを持って近づいてくる。
「お、お着替えを……」
「待て」
キソガワが手を突き出して制止すると、エリザがビクリと肩を跳ねさせ、ギュッと目を閉じた。殴られると思ったのだ。
だが、衝撃は来なかった。
「自分で着る。置いておけ」
キソガワは彼女の手からシャツをひったくると、手早く袖を通し始めた。
「え……?」
エリザがポカンと口を開ける。
キソガワはボタンを留めながら、淡々と言い放つ。
「お前に着せさせると遅いんだ。他人の手が入れば、それだけ動作にラグが生じる。俺が自分でやった方が、三十秒は短縮できる」
「は、はあ……」
「突っ立っている暇があったら、朝食の準備をしておけ。メニューは消化に良く、スプーン一本で食えるリゾットだ。ナイフとフォークを使う時間は無駄だからな」
そう言って、キソガワはさっさと部屋を出て行った。
残されたエリザは、主人の背中を呆然と見送る。
(体を……触られなかった……? それに、私の手際が悪いと怒鳴りもせず……?)
奇妙な違和感を抱きつつ、彼女は慌てて後を追った。
◇
二階、ギルド執務室へとやってきた
室内には重苦しい沈黙が流れていた。
隣に控えるエリザは、膝の上で拳を握りしめ、視線を床に落としている。いつ理不尽な命令が飛んでくるかと、身を縮めているのだ。
キソガワは組んだ足の上で指をトントンと動かしながら、彼女を観察していた。
その視線に気づき、エリザの顔色がさらに青くなる。
(……顔色が悪いな。目の下にクマもできている)
キソガワの「管理職センサー」が警告音を鳴らした。
秘書が倒れれば、スケジュールの調整や書類の整理が滞る。代わりの人間を一から教育するコストを考えれば、現状の戦力を維持するのが最適解だ。
「……おい」
「ひっ! は、はいっ! 申し訳ありません!」
声をかけただけで、エリザが弾かれたように謝罪した。
「すぐに化粧を直します! 不快な思いをさせてしまい……どうか、お仕置きだけは……!」
「は? 何を言っている」
キソガワは、机の中に常備して置いた小瓶を取り出し、エリザの方へ放り投げた。
エリザが慌ててキャッチする。
それは、高級な滋養強壮ポーションだった。
「飲んでおけ」
「え……これは……?」
「顔色が悪い。そんな死にそうな顔で客前に出られたら、ギルドの品位に関わる。それに、集中力が落ちてミスをされては、俺の仕事が増えて迷惑だ」
キソガワは窓の外に視線を戻し、つまらなそうに付け加えた。
「代金は経費で落としていい。……さっさとコンディションを戻せ。俺は無能な秘書を使うつもりはない」
エリザの手が震える。
かつてなら、「俺の視界に入るな」と窓から突き落とされていたかもしれない。
それなのに、この暴君は今、高価なポーションを与え、あろうことか「体調を戻せ」と言ったのだ。
業務のため、という冷たい理由ではあったが、エリザにとってこれほど実利のある「配慮」は初めてだった。
「……あり、がとう、ございます……」
エリザはポーションを握りしめ、困惑と微かな安堵を滲ませた。
◇
一階、ギルドへ向かう。
キソガワが足を踏み入れると、職員たちが一斉に作業を止め、直立不動になる。全員の顔に「次は誰がクビになるのか」という恐怖が張り付いていた。
特に女性職員たちは、視線を合わせようともしない。
(どいつもこいつも、死んだ魚のような目をしやがって……)
キソガワはフロア全体を見渡した。
目の下にクマを作った男、子供の迎えが気になって時計ばかり見ている女、眠気で舟を漕ぎかけている若手。
非効率の博覧会だ。
(前の職場でもそうだったな……。こんな状態で仕事をしても進みが悪い。それが結果的に、俺に仕事が回ってくることになる)
「全員、手を止めろ」
キソガワの声が響くと、職員たちの肩がビクリと跳ねた。
キソガワは中央に進み出ると、宣言する。
「業務連絡だ。今日から勤務体制を変更する」
ざわ、と空気が揺れた。
誰もが「さらなる重労働」か「給与カット」を予想した。
「まず、そこのお前。クロエと言ったか」
「は、はいぃっ!」
指名されたのは、幼い子供を二人抱える女性職員だ。彼女は青ざめ、クビを宣告される覚悟で震えていた。
「子供がいるそうだな」
「は、はい……ですが、仕事には支障をきたさないよう……!」
「今日から一六時に帰れ」
「……え?」
クロエが間の抜けた声を上げる。
「子供が急に熱を出しただの何だので、当日の朝に休まれると予定が狂うんだ。だったら最初から勤務時間を短く設定し、その時間だけ集中してもらった方が、俺にとって『計算が立つ』」
「で、ですが……そんなことをしたら、お給料が……」
「変わらん。……俺はな、『長く働く奴』が大嫌いなんだ。ダラダラ残業してやった気になっている無能を見ると反吐が出る」
キソガワはさらに、隅の方で眠そうにしていた若手職員・アランを指差した。
「それと、そこの寝不足顔。お前は朝が弱いらしいな」
「あ、ハイ……すいません……」
「明日から昼に出勤しろ。その代わり、夜の閉め作業はお前がやれ。寝ぼけた頭で書類を作ってミスをされると、修正する俺の手間が増える。迷惑だ」
キソガワはぐるりと全員を睨みつけた。
「いいか。俺は定時で帰りたい。そのためには、お前らが万全の状態で、ミスなく、最短で仕事をこなす必要がある。疲れた顔でデスクにへばりついている奴がいたら、業務妨害とみなして処分する。……以上だ」
キソガワは踵を返し、執務室へと消えていった。
残された職員たちは、しばらく言葉を失っていた。
やがて、クロエが震える声で呟く。
「……私の家庭の事情を……考慮してくださったの……?」
「俺も……朝苦手なの、バレてたのか……? ていうか、本当に昼からでいいのか?」
「(セクハラ目的で残業させられると思ってたのに……むしろ早く帰してくれた!?)」
本来なら「俺のために働け」と言うはずの暴君が、各々の適性と生活を考慮した「最適配置」を行った。
その事実は、恐怖に凝り固まっていた職員たちの心を、劇的に解凍していった。
◇
その日の午後。
Sランク冒険者パーティ『黄昏の竜』が遠征から帰還した。
彼らは国でも五指に入る実力者たちだが、今は受付カウンターの前で、酷く不機嫌そうに騒いでいた。
「あーもう! だからよぉ! ドラゴン倒したっつってんだろ! なんで作文なんか書かなきゃなんねぇんだよ!」
「規定ですので……詳細な報告書を提出していただかないと、報酬がお出しできません」
「うるせえ! 俺たちは剣を振るうのが仕事なんだよ! 文字なんか書いてられるか!」
リーダーの大剣使いが、羽ペンをへし折って怒鳴り散らしている。
エリザは胃が痛くなった。
この手のトラブルは、最終的にギルドマスターの出番になる。だが、前のキソガワなら「俺を煩わせるな」と、受付嬢ごと冒険者を処刑しかねない。
「チッ、うるさいな」
案の定、執務室のドアが開き、不機嫌全開のキソガワが出てきた。
エリザは「終わった」と天を仰いだ。
「おい、そこな脳筋ども」
「あぁん!? んだテメェ……って、ギルマスのキソガワじゃねえか」
リーダーが睨みつける。一触即発の空気。
だが、キソガワが差し出したのは、処刑宣告ではなく、一枚の紙だった。
「報告書を書くのが面倒だと言ったな?」
「おうよ! 俺たちに詩人みたいな文章をかけってのが無理な話だろ!」
「同感だ。俺もお前らの汚い字で書かれた、主語も述語もない怪文書を読むのは苦痛でしかない」
「なっ、んだと!?」
「だから、これを使え」
キソガワが渡したのは、彼が考案し、ミリスに作らせた『討伐報告チェックシート』だった。
魔物の種類、出現場所、ドロップ品などの項目が並び、横にある四角い枠にチェックを入れるだけの仕様になっている。
「〇をつけるだけでいい。作文はいらん。数字だけ正確に入れろ」
「は……? こ、これだけでいいのか?」
「事実確認さえできればいい。『苦戦した』だの『俺の剣技が冴え渡った』だのという感想文は、業務に必要ない」
冒険者たちは顔を見合わせた。
試しにリーダーがペンを取り、チェックを入れていく。
サラサラサラ……ポン。
わずか三十秒で、全ての報告が終わった。
「す、すげぇ……!」
「終わったぞ! いつもの十分の一の時間だ!」
「マジかよ! これなら酒場に直行できるじゃねえか!」
むさ苦しい男たちが、歓喜の声を上げて抱き合った。
リーダーがキソガワの手をガシッと掴む。
「あんた……天才か!? 俺たちの苦労を、分かってくれてたんだな……!」
(いや、俺が楽をしたいだけだが)
キソガワの困惑をよそに、Sランク冒険者たちは「このギルドは最高だ!」「一生ついていく!」と大盛り上がりで去っていった。
その光景を、エリザは信じられない思いで見つめていた。
あの荒くれ者たちが、マスターに笑顔で感謝している。
この男は、一体何者なのだろうか。
◇
午後五時。
定時を告げる鐘が鳴ると同時に、キソガワは席を立った。
「帰るぞ」
「えっ……も、もうですか?」
エリザが驚く。まだ日は高い。今までのキソガワなら、ここから夜の街に繰り出すか、屋敷で宴会を開くのが常だった。
だが、今のキソガワは「残業」の二文字を何よりも憎んでいる。
「業務時間終了だ。ここにいても光熱費の無駄だ」
さっさと三階へ戻る。
到着後、食事を済ませると、キソガワはすぐに寝室へと向かった。
エリザは覚悟を決めた。
夜は長い。朝や昼は機嫌が良かったが、夜こそが本番かもしれない。
彼女は震える手で寝室のドアを開け、主人のベッドの脇に立った。
「……旦那様。……夜のお相手を……」
屈辱に唇を噛みながら、服の紐に手をかける。
だが。
「何をしている?」
ベッドの中から、冷ややかな声が飛んできた。
キソガワはすでに布団を被り、アイマスクを装着していた。
「風邪を引くぞ。さっさと自分の部屋に戻れ」
「え……? で、ですが……」
「明日は七時起きだ。睡眠不足はパフォーマンスを低下させる。お前もさっさと寝て、体力(スペック)を回復させろ。……おやすみ」
それきり、キソガワは身じろぎもしなくなった。
数秒後には、規則正しい寝息が聞こえ始める。
取り残されたエリザは、ほどきかけた紐を握りしめたまま、呆然と立ち尽くした。
「……おやすみ、なさい……?」
指一本、触れられなかった。
罵倒もされず、ただ「体調を整えろ」とだけ言われた。
エリザの胸を占めていた恐怖の塊が、ほんの少しだけ崩れ落ちる。
彼女は眠る主人の顔を、初めてまじまじと見つめた。
その寝顔は、悪徳ギルドマスターとは思えないほど、安らかで、どこか子供のようにも見えた。
