ガン、と頭を殴られたような衝撃と共に、男は目を覚ました。
視界が明滅する。重たい瞼を持ち上げると、そこは無機質なオフィスのデスクではなく、重厚なマホガニーの執務机の上だった。
「……ここは」
男は額を押さえながら、周囲を見渡す。
壁には高そうなタペストリー。床にはふかふかの絨毯。窓の外には、コンクリートジャングルではなく、中世ヨーロッパ風の街並みが広がっている。
夢か。いや、それにしては感覚が鮮明すぎた。
指先の感触、革張りの椅子の軋む音、そして何より、体の中に脈打つ異質な奔流――魔力とでも呼ぶべきエネルギーの感覚が、ここが現実であることを告げている。
男はふらりと立ち上がり、部屋の隅に置かれた姿見の前に立った。
そこに映っていたのは、くたびれたスーツ姿の中年サラリーマンではない。
身長一九〇センチはあろうかという巨躯。オールバックに撫で付けた黒髪。鋭い三白眼に、頬には古傷。
どう見ても、堅気の人間ではなかった。裏社会のドンか、あるいは――。
「……キソガワ。そうだ、俺はキソガワだ」
呟いた瞬間、脳裏に断片的な記憶がフラッシュバックする。
中身は、木曽川 善亮。
日本の商社で、いかに仕事をサボり、定時で帰るかに全力を注いでいた窓際係長だ。
だが同時に、彼はこの世界――RPGのような剣と魔法の世界にある、巨大ギルドのマスター「キソガワ」でもあるらしかった。
記憶は混濁している。自分がなぜここにいるのか、この「キソガワ」が今までどんな人生を歩んできたのか、詳細は霧がかかったように曖昧だ。
ただ一つ、本能レベルで理解していることがあった。
この「キソガワ」という男、どうやら相当なワルだということだ。
部下を道具のように使い潰し、裏金を貯め込み、私利私欲のために権力を振るう。典型的な悪徳上司。
普通なら、悪役に転生したことに絶望したり、改心して善行を積もうとしたりするのかもしれない。
だが、キソガワの反応は違った。
「……ふん。まあ、役職が係長から社長(マスター)になったと思えば悪くない」
彼は窓際族だ。周囲からどう思われようが、自分の平穏と睡眠時間が確保できればそれでいい。
むしろ、この強面と権力があれば、面倒な人付き合いを拒否して、堂々とサボれるのではないか。
そう前向きに結論づけ、キソガワは再び執務机に戻った。
そして、そこで動きを止める。
机の上に、うず高く積まれた紙の塔があったからだ。
「……なんだ、これは」
一番上の書類を手に取る。『遠征費用の決裁申請』『魔物討伐の報告書』『備品購入の稟議書』。
そのすべてに、決裁者の印鑑が押されていない。
未処理。未処理。未処理。
ざっと見て、三百件はある。インクと古紙の乾いた匂いが、鼻腔を刺激した。
「これを……今日中にやれと?」
キソガワの顔から血の気が引いた。
悪役に転生したことなど些細な問題だ。だが、残業確定の業務量は、彼にとって死の宣告に等しい。
現在時刻は、部屋の掛け時計によれば午後二時。
定時を一七時とするなら、あと三時間しかない。
「ふざけるな……! 俺は定時で帰って、ふかふかのベッドで寝たいんだ!」
ダンッ! と机を叩く。
その時だった。
執務室のドアが、ノックもなしに乱暴に蹴破られた。
「ようキソガワ! 約束通り、ゴミ処理に来てやったぜ!」
入ってきたのは、金髪の軽薄そうな男だ。煌びやかな鎧を着込み、腰には高そうな剣を差している。
男の後ろには、ボロボロのローブを纏った小柄な少女が一人、地面に引きずられるようにして連れてこられていた。
キソガワの眉間に皺が寄る。
誰だ、こいつは。
記憶の断片を探る。カイル。Aランクパーティ『紅蓮の牙』のリーダー。
そして、キソガワとは裏で繋がりがある男だ。
カイルは少女を乱暴に床へ突き飛ばすと、ニヤニヤと笑いながらキソガワの机に歩み寄った。
「ほらよ、ギルド脱退届だ。さっさとハンコ押してくれよ。この『役立たず』をギルドから追い出して、退職金代わりの装備没収も済ませてぇんだ」
少女――ミリスと呼ばれたその子は、床に倒れ込んだまま、怯えたように震えている。
栗色の髪は汚れ、大きな瞳には涙が溜まっていた。服のあちこちが破れ、痛々しい擦り傷も見えた。
キソガワはあずかり知らないことだが……本来のシナリオであれば、ここは序盤の重要イベントだ。
悪徳ギルマスとクズリーダーが結託してヒロインを追放し、絶望した彼女が真の勇者と出会うための『ざまぁ』の布石。
だが、今のキソガワにそんな知識はない。
彼にあるのは、「書類仕事が終わらない」という焦りと、「忙しい時にアポなしで来るな」という苛立ちだけだ。
「……おい」
キソガワが低い声を出す。
カイルがビクリと肩を震わせた。
「な、なんだよ。早くしろよ。俺たちは忙しいんだ。こんな攻撃魔法一つ使えねえ寄生虫、置いておくだけ無駄だろ?」
カイルはミリスを指差して嘲笑う。
「回復だって遅ぇし、支援魔法なんて地味で何の効果があるかわかりゃしねえ。こんなゴミ、さっさと捨てちまえ」
ゴミ。寄生虫。
(本当か……? こんな前途ある若者が……?)
その瞬間、キソガワの中で何かが反応した。
無意識に、スキル《鑑定眼》が発動する。
彼の網膜に、床に伏せるミリスのステータス情報がウィンドウとして浮かび上がった。
【名前】ミリス
【職業】支援術師(エンチャンター)
【固有スキル】
・《精神統一(メンタルクリア)》:対象の集中力を極限まで高め、作業効率を三倍にする。
・《広域疲労回復(ハイ・リフレッシュ)》:対象の肉体的・精神的疲労を即座に除去する。
・《思考加速(ヘイスト)》:思考速度を加速させ、並列処理能力を向上させる。
【未習得スキル】
・《身体加速《アクセラレーション》》等
・
・
キソガワの目が、カッと見開かれた。
その瞳は、獲物を狙う猛獣のそれではない。
決算期に超優秀な派遣社員を見つけた、人事担当者の目だった。
(……は? なんだこの神スペックは)
思考加速に、疲労回復。さらには集中力強化。
これがあれば、目の前の書類の山など、一時間……いや、三十分で片付くのではないか。
それを、ゴミだの役立たずだのと言って、追放しようとしているのか。
(それにまだ未習得のスキルまであるのに……)
「……正気か?」
「あ? だから、こいつは役に立たねえって……」
「貴様だ。貴様は正気なのかと聞いている」
キソガワは立ち上がった。
二メートル近い巨躯が、カイルを見下ろす。その威圧感に、カイルが一歩後ずさる。
「け、経営判断だろ! 無能を切るのがギルマスの仕事じゃねえか!」
「その通りだ」
キソガワは手元の『追放届』を掴むと、カイルの目の前でビリビリに破り捨てた。
紙吹雪が舞う。
「なっ……!?」
「だから、無能な貴様との契約を切ることにした」
「は、はあぁ!? ふざけんな! 俺たちが稼ぎ頭だぞ! 俺たちが抜けたら、このギルドはどうなるんだ!」
「構わん。代わりはいくらでもいる」
キソガワは冷たく言い放った。
実際、Aランク冒険者など掃いて捨てるほどいるが、これほど事務処理に適したスキルを持つ人材は希少だ。
替えが効かないのは、どう見てもミリスの方である。
カイルの顔が怒りで赤く染まった。
「ナメやがって……! だったら力ずくで認めさせてやるよ! 死ねぇ、悪党が!」
カイルが剣を抜き、キソガワに斬りかかる。
殺気。そして刃の煌めき。
だが、キソガワは動じなかった。
ただ、「うるさいハエだ」と鬱陶しそうに腕を振るっただけだ。
ドォォォォン!!
それだけで、暴風が発生した。
キソガワの持つ規格外の魔力が、突風となってカイルを襲う。
「ぐあぁぁぁぁッ!?」
カイルは悲鳴を上げる間もなく、紙切れのように吹き飛ばされた。
執務室の頑丈なドアごとなぎ倒し、廊下の彼方へと消えていく。キラーン、と星になる勢いだった。
後に残されたのは、壊れたドアと、静寂。
そして、呆然と口を開けているミリスだけ。
「あ……あ……」
ミリスは震えていた。
小動物のように肩を縮め、涙目でキソガワを見上げている。
目の前で、Aランク冒険者が一撃で倒されたのだ。次は自分が殺される番だと思ったのだろう。
キソガワが、重い足取りで彼女に近づく。
コツ、コツ、と革靴の音が響くたび、ミリスの体が一層小さくなった。
彼女はギュッと目を閉じ、死を覚悟して首をすくめる。
「ひっ……ご、ごめんなさい、殺さないで……!」
「ミリス君」
頭上から、ドスの効いた低い声が降ってきた。
「き、きみが必要だ」
「え……?」
ミリスが恐る恐る目を開ける。
そこには、鬼のような形相で、しかし真剣な眼差しを向けるキソガワがいた。
「定時まであと三時間しかない。君の能力がなければ、俺は死んでしまう」
「わ、私の力が……必要……?」
ミリスの瞳が揺れた。
今まで、誰からも必要とされなかった。ずっと「役立たず」と言われ続けてきた。
それなのに、この最強のギルドマスターは、自分を必要だと言ってくれた。
しかも、「君がいなければ死ぬ」とまで。
ミリスの心の中で、何かが劇的に書き換わっていく。
彼女は瞳を潤ませ、頬を紅潮させた。
「……はいっ! 私でよければ、なんでもします! 命に代えても!」
ミリスは感極まり、瞳をキラキラと輝かせて平伏した。尻尾があれば、千切れんばかりに振っていただろう。
キソガワは満足げに頷く。
「いい返事だ。では早速、俺に《思考加速》と《精神統一》をかけろ。全力でだ」
「はいっ! マスター!」
その一時間後。
ミリスの強力なバフを受けたキソガワは、残像が見えるほどの速度で書類を処理し、見事に定時退社を決めた。
夕日に照らされながら帰路につくキソガワの背中を見送りながら、ミリスは頬を赤らめて胸の前で手を組む。
「強いだけでなく、あんなに仕事熱心で……しかも私のような落ちこぼれを救ってくださるなんて。あの方こそ、私の待ち望んだ英雄……!」
完全に誤った解釈で、忠誠心リミッターが振り切れた瞬間だった。
◇
こうして、窓際おじさんの勘違いギルド運営が幕を開ける。
だが、キソガワはまだ知らないし、ミリスもまた、知る由もなかった。
ここが、剣と魔法の王道RPG『デジタルマスターズ2』の世界であるということを。
そしてミリスこそが、本来ならばこの後、追放された絶望の淵で「真の主人公(勇者)」と運命的な出会いを果たし、伝説の聖女として覚醒して世界を救うはずの「メインヒロイン」だったということを。
世界の命運を握るはずだった壮大なシナリオは、たった一人の「定時退社したいおじさん」によって、完全に粉砕されてしまったのだ。
視界が明滅する。重たい瞼を持ち上げると、そこは無機質なオフィスのデスクではなく、重厚なマホガニーの執務机の上だった。
「……ここは」
男は額を押さえながら、周囲を見渡す。
壁には高そうなタペストリー。床にはふかふかの絨毯。窓の外には、コンクリートジャングルではなく、中世ヨーロッパ風の街並みが広がっている。
夢か。いや、それにしては感覚が鮮明すぎた。
指先の感触、革張りの椅子の軋む音、そして何より、体の中に脈打つ異質な奔流――魔力とでも呼ぶべきエネルギーの感覚が、ここが現実であることを告げている。
男はふらりと立ち上がり、部屋の隅に置かれた姿見の前に立った。
そこに映っていたのは、くたびれたスーツ姿の中年サラリーマンではない。
身長一九〇センチはあろうかという巨躯。オールバックに撫で付けた黒髪。鋭い三白眼に、頬には古傷。
どう見ても、堅気の人間ではなかった。裏社会のドンか、あるいは――。
「……キソガワ。そうだ、俺はキソガワだ」
呟いた瞬間、脳裏に断片的な記憶がフラッシュバックする。
中身は、木曽川 善亮。
日本の商社で、いかに仕事をサボり、定時で帰るかに全力を注いでいた窓際係長だ。
だが同時に、彼はこの世界――RPGのような剣と魔法の世界にある、巨大ギルドのマスター「キソガワ」でもあるらしかった。
記憶は混濁している。自分がなぜここにいるのか、この「キソガワ」が今までどんな人生を歩んできたのか、詳細は霧がかかったように曖昧だ。
ただ一つ、本能レベルで理解していることがあった。
この「キソガワ」という男、どうやら相当なワルだということだ。
部下を道具のように使い潰し、裏金を貯め込み、私利私欲のために権力を振るう。典型的な悪徳上司。
普通なら、悪役に転生したことに絶望したり、改心して善行を積もうとしたりするのかもしれない。
だが、キソガワの反応は違った。
「……ふん。まあ、役職が係長から社長(マスター)になったと思えば悪くない」
彼は窓際族だ。周囲からどう思われようが、自分の平穏と睡眠時間が確保できればそれでいい。
むしろ、この強面と権力があれば、面倒な人付き合いを拒否して、堂々とサボれるのではないか。
そう前向きに結論づけ、キソガワは再び執務机に戻った。
そして、そこで動きを止める。
机の上に、うず高く積まれた紙の塔があったからだ。
「……なんだ、これは」
一番上の書類を手に取る。『遠征費用の決裁申請』『魔物討伐の報告書』『備品購入の稟議書』。
そのすべてに、決裁者の印鑑が押されていない。
未処理。未処理。未処理。
ざっと見て、三百件はある。インクと古紙の乾いた匂いが、鼻腔を刺激した。
「これを……今日中にやれと?」
キソガワの顔から血の気が引いた。
悪役に転生したことなど些細な問題だ。だが、残業確定の業務量は、彼にとって死の宣告に等しい。
現在時刻は、部屋の掛け時計によれば午後二時。
定時を一七時とするなら、あと三時間しかない。
「ふざけるな……! 俺は定時で帰って、ふかふかのベッドで寝たいんだ!」
ダンッ! と机を叩く。
その時だった。
執務室のドアが、ノックもなしに乱暴に蹴破られた。
「ようキソガワ! 約束通り、ゴミ処理に来てやったぜ!」
入ってきたのは、金髪の軽薄そうな男だ。煌びやかな鎧を着込み、腰には高そうな剣を差している。
男の後ろには、ボロボロのローブを纏った小柄な少女が一人、地面に引きずられるようにして連れてこられていた。
キソガワの眉間に皺が寄る。
誰だ、こいつは。
記憶の断片を探る。カイル。Aランクパーティ『紅蓮の牙』のリーダー。
そして、キソガワとは裏で繋がりがある男だ。
カイルは少女を乱暴に床へ突き飛ばすと、ニヤニヤと笑いながらキソガワの机に歩み寄った。
「ほらよ、ギルド脱退届だ。さっさとハンコ押してくれよ。この『役立たず』をギルドから追い出して、退職金代わりの装備没収も済ませてぇんだ」
少女――ミリスと呼ばれたその子は、床に倒れ込んだまま、怯えたように震えている。
栗色の髪は汚れ、大きな瞳には涙が溜まっていた。服のあちこちが破れ、痛々しい擦り傷も見えた。
キソガワはあずかり知らないことだが……本来のシナリオであれば、ここは序盤の重要イベントだ。
悪徳ギルマスとクズリーダーが結託してヒロインを追放し、絶望した彼女が真の勇者と出会うための『ざまぁ』の布石。
だが、今のキソガワにそんな知識はない。
彼にあるのは、「書類仕事が終わらない」という焦りと、「忙しい時にアポなしで来るな」という苛立ちだけだ。
「……おい」
キソガワが低い声を出す。
カイルがビクリと肩を震わせた。
「な、なんだよ。早くしろよ。俺たちは忙しいんだ。こんな攻撃魔法一つ使えねえ寄生虫、置いておくだけ無駄だろ?」
カイルはミリスを指差して嘲笑う。
「回復だって遅ぇし、支援魔法なんて地味で何の効果があるかわかりゃしねえ。こんなゴミ、さっさと捨てちまえ」
ゴミ。寄生虫。
(本当か……? こんな前途ある若者が……?)
その瞬間、キソガワの中で何かが反応した。
無意識に、スキル《鑑定眼》が発動する。
彼の網膜に、床に伏せるミリスのステータス情報がウィンドウとして浮かび上がった。
【名前】ミリス
【職業】支援術師(エンチャンター)
【固有スキル】
・《精神統一(メンタルクリア)》:対象の集中力を極限まで高め、作業効率を三倍にする。
・《広域疲労回復(ハイ・リフレッシュ)》:対象の肉体的・精神的疲労を即座に除去する。
・《思考加速(ヘイスト)》:思考速度を加速させ、並列処理能力を向上させる。
【未習得スキル】
・《身体加速《アクセラレーション》》等
・
・
キソガワの目が、カッと見開かれた。
その瞳は、獲物を狙う猛獣のそれではない。
決算期に超優秀な派遣社員を見つけた、人事担当者の目だった。
(……は? なんだこの神スペックは)
思考加速に、疲労回復。さらには集中力強化。
これがあれば、目の前の書類の山など、一時間……いや、三十分で片付くのではないか。
それを、ゴミだの役立たずだのと言って、追放しようとしているのか。
(それにまだ未習得のスキルまであるのに……)
「……正気か?」
「あ? だから、こいつは役に立たねえって……」
「貴様だ。貴様は正気なのかと聞いている」
キソガワは立ち上がった。
二メートル近い巨躯が、カイルを見下ろす。その威圧感に、カイルが一歩後ずさる。
「け、経営判断だろ! 無能を切るのがギルマスの仕事じゃねえか!」
「その通りだ」
キソガワは手元の『追放届』を掴むと、カイルの目の前でビリビリに破り捨てた。
紙吹雪が舞う。
「なっ……!?」
「だから、無能な貴様との契約を切ることにした」
「は、はあぁ!? ふざけんな! 俺たちが稼ぎ頭だぞ! 俺たちが抜けたら、このギルドはどうなるんだ!」
「構わん。代わりはいくらでもいる」
キソガワは冷たく言い放った。
実際、Aランク冒険者など掃いて捨てるほどいるが、これほど事務処理に適したスキルを持つ人材は希少だ。
替えが効かないのは、どう見てもミリスの方である。
カイルの顔が怒りで赤く染まった。
「ナメやがって……! だったら力ずくで認めさせてやるよ! 死ねぇ、悪党が!」
カイルが剣を抜き、キソガワに斬りかかる。
殺気。そして刃の煌めき。
だが、キソガワは動じなかった。
ただ、「うるさいハエだ」と鬱陶しそうに腕を振るっただけだ。
ドォォォォン!!
それだけで、暴風が発生した。
キソガワの持つ規格外の魔力が、突風となってカイルを襲う。
「ぐあぁぁぁぁッ!?」
カイルは悲鳴を上げる間もなく、紙切れのように吹き飛ばされた。
執務室の頑丈なドアごとなぎ倒し、廊下の彼方へと消えていく。キラーン、と星になる勢いだった。
後に残されたのは、壊れたドアと、静寂。
そして、呆然と口を開けているミリスだけ。
「あ……あ……」
ミリスは震えていた。
小動物のように肩を縮め、涙目でキソガワを見上げている。
目の前で、Aランク冒険者が一撃で倒されたのだ。次は自分が殺される番だと思ったのだろう。
キソガワが、重い足取りで彼女に近づく。
コツ、コツ、と革靴の音が響くたび、ミリスの体が一層小さくなった。
彼女はギュッと目を閉じ、死を覚悟して首をすくめる。
「ひっ……ご、ごめんなさい、殺さないで……!」
「ミリス君」
頭上から、ドスの効いた低い声が降ってきた。
「き、きみが必要だ」
「え……?」
ミリスが恐る恐る目を開ける。
そこには、鬼のような形相で、しかし真剣な眼差しを向けるキソガワがいた。
「定時まであと三時間しかない。君の能力がなければ、俺は死んでしまう」
「わ、私の力が……必要……?」
ミリスの瞳が揺れた。
今まで、誰からも必要とされなかった。ずっと「役立たず」と言われ続けてきた。
それなのに、この最強のギルドマスターは、自分を必要だと言ってくれた。
しかも、「君がいなければ死ぬ」とまで。
ミリスの心の中で、何かが劇的に書き換わっていく。
彼女は瞳を潤ませ、頬を紅潮させた。
「……はいっ! 私でよければ、なんでもします! 命に代えても!」
ミリスは感極まり、瞳をキラキラと輝かせて平伏した。尻尾があれば、千切れんばかりに振っていただろう。
キソガワは満足げに頷く。
「いい返事だ。では早速、俺に《思考加速》と《精神統一》をかけろ。全力でだ」
「はいっ! マスター!」
その一時間後。
ミリスの強力なバフを受けたキソガワは、残像が見えるほどの速度で書類を処理し、見事に定時退社を決めた。
夕日に照らされながら帰路につくキソガワの背中を見送りながら、ミリスは頬を赤らめて胸の前で手を組む。
「強いだけでなく、あんなに仕事熱心で……しかも私のような落ちこぼれを救ってくださるなんて。あの方こそ、私の待ち望んだ英雄……!」
完全に誤った解釈で、忠誠心リミッターが振り切れた瞬間だった。
◇
こうして、窓際おじさんの勘違いギルド運営が幕を開ける。
だが、キソガワはまだ知らないし、ミリスもまた、知る由もなかった。
ここが、剣と魔法の王道RPG『デジタルマスターズ2』の世界であるということを。
そしてミリスこそが、本来ならばこの後、追放された絶望の淵で「真の主人公(勇者)」と運命的な出会いを果たし、伝説の聖女として覚醒して世界を救うはずの「メインヒロイン」だったということを。
世界の命運を握るはずだった壮大なシナリオは、たった一人の「定時退社したいおじさん」によって、完全に粉砕されてしまったのだ。
