一瞬で相思相愛って怪異すぎるだろ!!

【桜木朔也】

 スーツケースを引きながら最寄り駅の改札を通り抜ける瞬間、マラソンのゴールテープを切った達成感が湧いてきた。
 やっと、修学旅行が終わった。
 小学校も中学校も、あっという間に終わった修学旅行を舐めていた。
 精神が不安だと、こんなに長いのか。
 背中のリュックが、石を積み込んだみたいに重い。疲れのピークかもしれない。
「やっとついた」
 ぐったりした明友が、遅れて隣の改札を抜けた。
 途端、
「お兄ちゃん! 明友さん‼」
 駆けてきた朔也が、俺と明友に抱きついた。
「ただいま、朔良」
 俺はポンポンと朔良の頭を軽く叩いた。
「ただいま」
 明友が少しだけはにかんだ。けど、すぐに蕩けるような甘い表情になる。
 お前、現金すぎるだろ。新幹線でもバスでも心身共に限界みたいな態度してたくせに、朔良と会った途端に疲れが消えるのかよ。
 朔良の無事な姿に安堵して、奥を見れば壁沿いで母さんが「早くこっちにこい」と言わんばかりに手招きしている。
 帰宅する人たちが行き交う改札の前で、足を止めるわけにはいかない。
 邪魔そうに、すれ違う白髪交じりの中年サラリーマンが舌打ちしていった。
 朔良もそれに気づいたのか、俺と明友の腕を掴んで、グイグイと歩きだす。
 ぶつかりそうになったり、よけてもらったりで、なんとか人の波を突っ切ると、
「二人ともお帰り~っ」
 疲れが滲む笑みを浮かべて、母さんが出迎えてくれた。少しばかりやつれて見えるのは気のせいかな。
「ただいま~」
 クタクタな俺とは対照的に、
「今帰りました」
 明友が爽やかに答えた。
「これ、俺からのお土産です」
 明友がスーツケースにもリュックにも入れずにいた紙袋を差しだした。
「あらヤダ。こっちがお世話になってるのに……。二つも入ってるじゃない。美味しそう。きんつば、大好きなのよ。抹茶のクリームサンドはコーヒーといただくわね。ありがとう。旅行は楽しかった?」
「はい。いろんな仏像を見ることができて、勉強になりました」
 優等生な返事をしても、俺は知ってるぞ。仏像に集中出来ないどころか、つまらなそうに眺めてたくせに。
「なら良かったわ。出かける前日に心配かけさせちゃったから不安だったの」
 母さん、無理して口角を上げてない?
「で、アンタは何買ってきたの?」
「帰ってからのお楽しみ~」
 奈良漬けを本命にして、菓子はウケ狙いで鹿の糞シリーズを二つ選んだ。明友みたいな安全パイではなく、攻めた俺のセレクション。これぞ、男子学生だろ。
「朔良」
 明友が朔良へと両手を広げた。
「改めてただいま」
 表情だけでなく声まで激甘の明友へと、目を潤ませた朔良が飛び込んでいく。
「お帰りなさい」
 朔良の噛みしめるような声に、明友の笑みが深くなる。
「ずっと会いたかった」
 明友が朔良をキュッと抱えた。
「僕もっ」
 朔良が額を明友に押し当てる。
 激甘を通り越してゲロ甘だ。
「朔良、相当寂しかったのね」
 抱きしめあう二人を眺めながら、母さんが肩の荷が下りたように軽く笑った。
 その姿がより一層疲れて見えて、俺は恐る恐る唇を開いた。
「父さんは?」
「仕事よ」
「変なことない?」
「今のところないわよ。こっちはね」
 ん? こっちは?
「叔父さん、大丈夫なの?」
 声を潜めた俺に、母さんが首を傾げた。
「よくわかんないのよ。朔良が寝たら話すわ」
 不自然に打ち切られた会話に、俺は胸騒ぎがした。
 目の前では、明友と朔良がイチャイチャしている。明友が片膝をつき、つられるように朔良がしゃがんだ。
 不安ばかりが膨らんでいるせいか、二人が眩しい。尊く思えてくるから重症かもしれない。
「朔良、両手出してくれる?」
 明友に言われるまま、朔良が手の平を上にして両手を揃えてだした。
 ブレザーの左ポケットから、明友がボールチェーン付きの小さなヌイグルミを取りだした。
 最終日の昼食時間が迫るなか、同じ建物内のお土産屋で明友が迷いに迷って買った品だ。お菓子は一通り店内を見てからサクサク選んでいたのに、最後の最後で雑貨辺りをグルグルしていたが、朔良の土産を選んでいたのか。
「朔良へのお土産。猫と鹿が一緒になったマスコット」
 笑顔に不安を滲ませた明友が、朔良の手にヌイグルミを置いた。
 朔良は花が咲くような笑みで、ヌイグルミを顔に近づけると、
「明友君、ありがとう」
 キュッと両手で包み、胸に当てた。
 あれは相当嬉しい顔だ。一目で気に入ったんだろう。
「ちょっとあれ、私にはないわけ?」
 母さんが俺に、声を抑えて責めるように訊いてきた。
「次、奈良に行く機会があったら買ってくる」
 厳粛に受け止める振りだけして、頬を赤らめて幸せいっぱいの朔良に癒される。
「それと、朔良にお願いがあるんだ」
 明友が右のポケットから、さっきのヌイグルミ程度の膨らみがあるタオルハンカチを取り出した。
 デフォルメされた鹿がたくさんプリントされたタオルハンカチは、坊さんと別れた後、明友が慌てて買ったヤツだ。
 明友がハンカチを開くと、案の定、木彫りのヒヨコが出てきた。
 勝手に「竹刀を構えるヒヨコ」と名づけたら、明友に「思っても言うな」と念を押された。後は説明なし。
 俺は二人に近づいて、木仏を覗き込んだ。
 遅れて、母さんも覗く。
「借り物の木仏なんだけど、朔良に任せたいんだ。安心して過ごせるようになるまで持っていてほしい。凄く強力な木仏だから、不安な時は持ち歩いてほしい。絶対に朔良の力になるから」
「棒を持ったヒヨコ?」
 母さんのツッコミに、
「だよな。そうとしか見えないよな」
 俺は手を叩いて母さんを指した。
「思っても言ったらダメです。罰が当たります」
 険しい顔をした明友の強めな声と、
「違うよ。剣をいっぱい持った子供の像だよ!」
 メッと怒るように頬を膨らませて、朔良が俺と母さんを見上げてきた。
「「「えっ?」」」
 俺と母さんだけでなく、明友の声も重なった。
「そうなの?」
 正解を求めて明友を見れば、
「ああ。朔良が言った通りの姿をしてる」
「マジかよ」
「剣の護法童子って名前で、甲冑を着た神様の眷属なんだ」
「凄いな朔良」
 目を見開いた俺に、朔良が照れくさそうに笑った。
 しかし、よくわかるよな。百人いたら百人がヒヨコと答えるぞ。
 朔良がヌイグルミのボールチェーンを左手の人差し指にかけると、再び両手を合わせて明友に差しだした。
 明友がハンカチごと丁寧に、ヒヨコもどきを朔良の手に置いた。
「そういえば、お前が彫ってた仏像は? あれのほうがご利益ありそうじゃん」
 朔良と漫画喫茶代わりに何回か明友の家に行った時、見せてもらったんだよな。母さんは明友にスマホの画像を見せてもらってたけど、大きさといい、動きだしそうなリアルさといい、ヒヨコもどきより効き目がありそうだけど、今、どうなってるんだ?
「ほぼ完成しているけど、これには敵わないって。それに、開眼しなきゃただの置き物だから、役に立たないんだよ」
「カイゲン? すればいいじゃん」
「それやると、途端に扱いが難しくなるんだよ。あと金な。万単位かかる」
「無理だわ」
「だろ?」
 明友が朔良の頭を丁寧に優しく撫でると、立ち上がった。
 ヒヨコもどきを両手で包み、朔良も立ち上がある。
 明友が身長差を埋めるように、少しだけ屈んだ。朔良と別れる時、必ず明友がする癖だ。
「じゃあね、朔良。明日、学校の帰りに寄るから。そしたら、また一緒に勉強しような」
 明友の名残惜しそうな笑みに、朔良が頷いた。
 毎回毎回、しばしの別れが遠距離恋愛の恋人並みになるのはこの二人だけだろう。
「待ってる」
 待ちきれないとばかりに顔をクシャリとさせる朔良に、俺はやれやれと息を吐いた。


【藍染明友】


 修学旅行から二週間が経った金曜日。
 テストも無事に終わり、表面上、いつもの日々が始まった。
 学校が終われば、朔也と他愛もない話をしながら電車に乗り、最寄り駅で駐輪場によっている間に先を行く朔也を追って合流。自転車を押しながらお喋りを再会し、桜木家に寄って朔良と共に過ごし、夕食に間に合うように帰宅する。
 雨の降らない平日は、大体この繰り返しだ。
 けれど、今日はすべてがいつも通りとはいかなった。朔良が出迎えてくれたところまではいつも通りだ。
 けど、奥から「おかえり」と返してくれる桃花の声がない。
 パートで在宅ワークをしている桃花さんだけれど、この時間は食事の準備を始めていることが多い。
 リビングに入れば、畳みかけの洗濯物が広がっていた。
 俺は瞬きをした。
「桃花さんは?」
 朔也に大まかな事情を前以て聞いていなかったら、声が鋭くなっていただろう。
「部屋で休んでる」
 朔良が寂し気に微笑み、
「ちょっと待ってね。今、全部畳んじゃうから」
 洗濯物が広がる真ん中の小さな空きスペースに正座した。
 朝、朝礼の予鈴が響く中、珍しくギリギリに登校した朔也が、挨拶もなしに「今朝早くに、伯父さんが亡くなった」と淡々と告げた瞬間からこうなるんじゃないかって、予想していた。
 朔也がパンの入ったビニール袋を掲げて、席に戻っていく。その背中に、遅れた理由を察した。朔也が桃花さん特製の弁当を持参していないのは、俺が知る限り今日が初めてだった。
 休み時間になるたび、朔也が家に電話をかけていた。家の電話にかけて、朔良と短い話して切る。その繰り返しだ。メッセージアプリには、数回、宗也から無事だというメッセージが家族のグループ宛に送られてきていることも、スマホを持たない桜に伝えていた。
 宗也さんの叔父は離婚していて、子供の親権がないそうだ。
 本当に立て続けの不幸が呪いならば、順番的に宗也さんが標的になるたろう。その次は、朔也か宗也さんの弟。朔也が狙われれば、次は朔良。
 桃花さんの精神は完全に崩壊するだろう。
 集中治療室で亡くなった原因は、殺人。重態だった叔父の元へ、「一目彼女の無事を見て息子が犯した罪をお詫びしたい」と現れた犯人の母親が豹変し、医師や看護師を女性とは思えぬ力で突き飛ばして侵入。馬乗りになって叔父の首を絞めていたのを羽交い絞めにするが、母親は暴れて叔父の頭部を蹴ったという。
 治療室で亡くなるまでの期間、突然機械が異常発生の音を立てて停止したり、シーツや床に赤黒い手型や足型がついていたり、女の高らかな笑い声がしたなど、異常が続いてそうだ。
 それがすべて本当ならば呪しか説明がつかない。
「朔良、母さんはお昼食べてた?」
 朔也が鞄をソファに投げた。
「うん。遅かったけど、ちゃんと食べたよ」
「朔良がハムエッグを焼いてくれたんだ。食欲なくても、母親としての使命感で食べたんだろうな」
「美味しいって言ってくれたよ?」
 ようやく、朔良が笑った。
 けど、どこか疲れた優等生な笑いに見えた。
 テーブルには、開いたままの参考書とノート。あと、俺がプレゼントしたマスコットが載っている。
 来るたびに確認していた剣の護法童子が、いつもの場所にない。
 朔良に渡した翌日には、リビングの棚に飾られていた。隅に作られた神棚の横で、神棚は朔良では手の届かない高さだが、剣の護法童子は朔良の目線くらいの高さに置かれていた。四つくらいに畳まれた白いタオルの真ん中奥に畳まれた鹿のハンドタオルを座布団にした剣の護法童子が置かれ、前には水の入ったガラスのコップと個別包装されたお菓子が二つとバナナが一本供えられていた。
 こっそり朔也に訊けば、珍しい朔良の我儘に、帰ってきた宗也さんが読み終わって飾りにしていた本を退かしてスペースを作ってくれたそうだ。
 今、そこには畳まれたタオルしかない。
 剣の護法童子がどこにあるかは、簡単に想像できた。
 朔良に託したのだから、俺に何か言える権利はない。
 坊さんは剣の護法童子に異常があったら連絡するように言っていたが、朔良が必死に大丈夫な振りをする今、宗也さんが無事に帰ってくるまで訊かないほうがいいだろう。不安を煽る真似はしたくない。
「よっし! 今日は勉強なしだ。宿題も全部明日にまわして、これからご飯作るぞ」
 俺は明るくやる気に満ちた振りをして、鞄をカーペットに置き、ブレザーを抜いてソファの背凭れにかけた。
「えっ? マジ? お前が作るの?」
 目を見開いて、本気で驚く朔也に俺は盛大な溜め息をついた。
「朔良、風呂掃除済んでる?」
「まだ!」
「だってよ。お前、風呂掃除な」
 俺はポンポンと朔也の肩を叩いて、台所に向かった。


 凝った料理は一人で作らない。
 お袋が勝手に作った藍染家のルールだ。
 近くのスーパーでパート勤めをするお袋は、負担はなるべく家族平等に精神で家事をしている。
 とはいえ、当然お袋の負担が一番大きい。
 俺としては、料理の手伝いは楽しいし、味見出来る役得感もあって不満はない。
 土日や祝日、昼から朔良のところに行くときは洗濯を干したり昼食準備を手伝うし、朝から出掛けるときは早めに帰って夕食を手伝う。それが当たり前になっていた。手伝い分とか言って、時給にしたら違法分をプラスして、月々の小遣いが少し潤うのもいい。
 そんなわけで、俺は炊けたご飯がどれくらい残っているかを確認してから、桜木家の冷蔵庫を物色し、二品を作った。
 一つ目は、白米が進む居酒屋料理を母さんがアレンジしたので、一口分にキャベツを大量に作り、そこに塩気の聞いた雑魚を少なめに入れ、白ごまを振りかけてから、ごま油と麵つゆと鶏がらスープの素をベースに作ったタレをかけて、混ぜただけのもの。
 二品目は、具は玉ねぎと卵だけで、めんつゆをベースに味を調えた簡単卵丼。鍋で大量に作ったから、明日の朝まで持つだろう。丼にかける刻み葱とかまぼこを準備して完成。
「お前、いつでも嫁に行けるな」
 とんでもないことをほざく朔也の腹に、軽く拳をお見舞いすると、そのまま腕を掴まれて、抜け出すのが大変だったのは誤算だ。
「明日は朝から来るから」
 玄関のあがりに腰を下ろして靴を履いていると、隣で朔良がちょこんと座った。
「ごめんなさい。明友さんから預かった護法童子、お父さんに持たせたの。一人で行かせたら、絶対に死んじゃう気がして、怖くて……」
 両膝に顔を埋めて涙声になる朔良の頭を、俺は優しくポンポンと撫でるように叩いた。
 宗也さんが持っているなら、最悪なことが起きたとしても命を落とすことはないだろう。
 不思議だけど、そう言い切れる自分がいた。
「朔良がそう判断したなら、それが正しい。朔良は間違ってないよ」
 俺はそっと朔良を抱きしめた。
 朔良が俺のブレザーを縋るように掴んで、肩を震わせる。
 抱く腕に力を込めた途端、朔良は声を漏らして泣き始めた。朔良の泣き声は次第に大きくなり、号泣に変わった。こんなに朔良が泣くのは、出会った日以来だ。
 二階まで朔良の声は聞こえているだろう。
 桃花さんはきっと、子供たちに不安を見せないように一人で耐えているだろう。
 そうして俺は、一度も桃花さんに会うことなく、朔良が泣きやんでから桜木家を後にした。


 ファミリータイプのアパートの四階にある自宅に帰ると、母さんが小さな廊下でスマホを耳に当てて、誰かと会話していた。
 顔の前で右手を揃えて立てて、俺にゴメンねのポーズをする。
 俺は二度頷いて、わかったと大丈夫を伝えると、台所から顔をだした兄ちゃんが手招きしているのに気づいた。
 俺は鞄をかけたまま、母さんが避けてくれた隅をそそくさと速足で抜け、台所に入った。
「ただいま」
 挨拶は基本中の基本な我が家のおかげで、最初の一声は考えなくても出てくる。
「おかえり~っ」
 ランニングシャツとスラックス姿の親父が、ビールを持った手を軽く上げて挨拶を返してきた。
 親父は少し前に帰ってきたばかりらしい。
「おかえり。毎日毎日、ご苦労さん」
 兄ちゃんは、俺が桜木家で家庭教師もどきをしながら自分の勉強もしているのを知っているので、普段から帰るとこんな感じで挨拶してくる。
「本当に苦労してないから。癒されにいってるだけだから」
 間違いを訂正してから、俺は台所から繋がる居間に鞄とブレザーを置いてから、水道で手を洗い、軽くうがいをすると、「ここですんなよ」と兄ちゃんが嫌そうな声をだした。
 大学生の兄ちゃんは、俺より少し背が高く、見た目もまあまあだからモテるようだけど、真面目だからこの時間には帰ってくることが多い。母方の親戚の骨董関係でバイトをしているから、時間の融通が利きやすいのもあるだろう。
「洗面所の前、お袋が電話してんだもん」
 言い訳しながら、ガラスのコップをテーブルに置いて、自分のご飯を盛り、みそ汁をよそう。
 定位置の兄ちゃんの横の席について、手を合わせて「いただきます」。
 生姜焼きのいい匂いに、空腹を思いだしたように腹が鳴った。
 コップにはすでに麦茶が注がれていた。
 気の利く兄ちゃん、サイコーすぎる。
 オクラのマヨネーズと鰹節のネバネバ和えもいいが、やはり一口目は生姜焼きだろう。
 テーブルの真ん中には、べったら漬けと沢庵。
 どれも、好物ばかりだ。
「ご高齢で刑務所は無理よ」
 廊下から、母さんの声が響いてくる。
「お祓いしたほうがいいんじゃない? だって、そんなことする人たちじゃないでしょう?」
 こんな時間に長電話は珍しい。
 俺はご飯をかき込むと、ゆっくり咀嚼しながらマヨネーズを千切りキャベツにかけた。
「お孫さんとかいらっしゃるけど、もうそこには住めないでしょうし。こっちに引っ越してくるなら、何かお手伝いしたいわ」
 母方の親戚は特殊な事情から結束力が強く、こまめに連絡を取り合ったり、近場に住んでいる親戚の主婦たちでお茶会をすることもある。
 聞き耳を立てながら、生姜焼きのタレに浸かったキャベツにマヨネーズを軽く混ぜて、口に放り込む。
 いつもなら、シャクシャクと口腔で響くキャベツの咀嚼音を楽しむところだが、聞こえた単語が単語なだけに、食事に集中ができない。
「何かあったの?」
 俺はご飯が半分減った茶碗に、オクラを全部入れた。
 最初は混ぜずに食べる。
 オクラのネバネバは納豆よりあっさりしていて、糸を引く心配が少ないから食べやすい。
「バイト先で少し聞いたんだけど、静岡に嫁いだ親戚と、その子供が殺人を犯したんだって」
 静岡の単語が引っ掛かった俺に、あらかた食べ終わっていた兄ちゃんがデコピンしてきた。
「なんでお前が悲壮な顔すんだよ。眉間に皺を寄せると跡になるぞ」
「殺人ってオオゴトじゃん」
「でも、犯すってことは相手との間に何かあったってことだろう? 良好だったみたいなこと言ってたけど、疑わしいじゃん。心配かけたくなくて言いたくないこととか、田舎だと村八分とかさあ」
「まあ……そうだけどさあ」
「子供っていっても立派な大人だけど、先に子供が殺人未遂を起こしたんだと。相手の頭を激しく地面に叩きつけたんだってさ」
「え?」
 聞いたことがある内容に、俺の手が止まった。
「ビックリするよな。そんなの、相当の恨みがなきゃやらないだろう」
 兄ちゃんがべったら漬けを口に放り込む。
「相手は重態で入院」
「まあ、そうなるだろうなあ」
 親父が呑気に相槌を打った。
「その後、相手の入院先に母親が突撃。止めに入った医師とかを蹴散らして、トドメを刺したんだと。ヤバすぎでしょ」
 兄ちゃんが俺の顔の前で手をヒラヒラさせた。
「どうした?」
 言われて、茶碗を持ったまま固まっていたのに気づいた。
「ちょっと、似た話を聞いた気がしたから思いだそうとしてた」
「だとしたら、それを話していたヤツは事件の関係者か目撃者かもな」
「世間なんて、広いようで狭いからなあ」
 親父がキャベツを生姜焼きで巻いて、半分を嚙み切って咀嚼する。
 被害者が朔也の伯母だったとしたら、俺の血縁者が殺したことになる。
 殺人者の親戚が、被害者の親戚と仲良くするのは許されることだろうか。
 それだけじゃない。
 この呪いに、俺の親戚が関係しているのだろうか。
 だとしたら、このまま桜木家に通い続けたら、俺が彼らを不幸にする可能性もあるんじゃ……。
 指先が冷たくなる。
 背筋が強張り、食欲が失せていく。
 いやいや、今日何も起きなかった。
 今までずっと何も起きなかった。
 今、狙われるとしたら宗也さんで、その宗也さんがいなかったから何もなかった?
 いいや、違う。
 俺は頭を振った。
 桜木家は俺にとって第二の家族だ。
 血縁による因縁の呪いなら、どうして今になって殺し始めた?
 血縁の呪いとかなら、もうすでに桜木家は途絶えているはずだ。
 俺はゆっくりと呼吸をした。
 大丈夫。
 ただの考えすぎだ。
 俺が宗也さんを殺すこともないし、朔良や朔也に危害を加えるはずがない。
 そういえば、青い目の女の霊がって朔也が怪談で言っていた。
 青い目って……。
「被害者の名字ってわかる?」
 堪えきれずに微かに声が震えた。
「聞いたかもしれないけど、覚えてないわ。後でお袋に訊いてみれば?」
「そうする」
「知り合いが関係者かもしれないのはちょっとツラいかもな」
 兄ちゃんは俺の髪をクシャクシャにすると立ち上がった。

【桜木朔也】

 明友が家に来るようになってから、俺まで家で勉強する時間が増えてしまった。
 勉強する朔良と明友がリビングを占領するから、教科書開いておかないと同じ空間に居づらい。だからといって、俺だけ自室にこもったり、遊びに出掛ける気にもならなくて、結局、二人よりは多めに休憩を取りつつ勉強してしまう。
 何より、明友に褒められている時の朔良が可愛いんだ。集中している時の朔良も、模擬問題で苦戦して眉間に皺を作ってしまう朔良も可愛い。
 要は、兄馬鹿というヤツだ。
 自覚はある。
 それもこれも、朔良がいい子で謙虚で頑張り屋なのに加え、全部が可愛いのだから仕方がない。
 そんな幸せに浸れるはずの土日が、不安ばかりの重苦しい空気に包まれていた。
 とはいえ、昨日よりはマシか。
  通夜なしの一日葬にしたとかで、今日、父さんが静岡から帰ってくる。
 今朝、無事に静岡を脱出した連絡を父さんから貰い、母さんの具合もかなり良くなった。朔良が明友に歴史を教わるのを、ソファに寝転がって眺められる程度にだが……。
 俺は母さんに特等席を奪われて、二人の後ろにあるソファでライトノベルを読みつつ、二人のやり取りに耳を傾けていた。
 真っ直ぐ帰ってくればいいのに、父さんは今度イベントを行う東京の会場を見学してくるそうで、母さんが普段程度に動けるようになるのは夕方辺りだろう。
 昨日の昼食と夕食は、明友が献立を決めて、朔良が助手になって作ってくれた。
 お昼はもやしが傷むからと、インスタントの味噌ラーメンにひき肉入り野菜炒めを大盛にしたラーメン。
 午後四時頃に、朔良が明友に見守られながら米を洗って、炊飯器にセット。
 夕方は、大皿に千切りしたキャベツとニンジンを混ぜたのを敷き、その上に焼き肉のタレで炒めた豚肉を載せたものと、油揚げと長ネギとこんにゃくが入ったみそ汁に、梅干しを叩いて作った梅肉と刻んだ大葉を載せて、麵つゆをかけて食べる冷ややっこ。
 片手を猫の手にして、一生懸命キャベツを切る朔良の可愛さときたら……。千切りというより百切りな出来なのも可愛かった。
 俺が手伝ったことといえば、スライサーで人参を千切りにしたことくらいだ。
 今朝は、昨日明友が差し入れしてくれた食パンのトーストと昨日の残りのみそ汁で、昼食は母さんがキッチンに立ち、はんぺんを適当に切ったのと小松菜をバター醤油で炒めたのと、インスタントカレー。明友と朔良が手伝っていた。お茶を飲みながら、俺はそれを眺めていた。
 ようやく、普段に近づいていく光景が嬉しくて、幸せを実感した。
 そろそろオヤツの時間になる。
 ここは俺が動くべきだろう。
 煎餅があったはずだ。
 さあ動くぞと伸びをした瞬間、家の電話がけたたましく鳴った。

   【藍染明友】

 朔良を連れて病室のドアを開けた俺は、ベッドから上体を起こして笑顔で片手を振る宗也さんに緊張が切れて蹲った。
 同時に、兄ちゃんの教えてくれた話が脳裏に浮かんだ。
 結局、被害者の名字はわからなかった。
 あれから何度も考えた。
 それは、桜木家が本当に大切で、何かあったら出来るかぎり支えたい気持ちは本物だという再確認でしかなかった。
 俺が宗也さんを殺すはずがないし、朔也や朔良に危害を加えるはずがない。
 それだけは自信を持てる。
「お父さん!!」
 朔良が宗也さんへ飛びだした。
 ベッドに両手をついて勢いよく身を乗りだした朔良を、パイプ椅子に座りベッドに突っ伏していた桃花さんが抱きしめて、声を上げて泣き出す。
 どうやら、一度泣きやんだものの、必死な朔良に再び涙腺が崩壊したらしい。
 反対側のベッドサイドの端で腰を下ろしていた朔也が立ちあがって近づいてきた。
「ほれっ」
 朔也が俺に手を差しだした。
 このまましゃがんでいるわけにもいかず、俺はその手を掴んだ。
 朔也が俺を引っ張るが、脱力した体は思うように動かない。
 ここに来るまで、気丈な振りを続けていたけれど、心身共に限界だったみたいだ。
「お前、全体重掛けてるだろ」
 朔也が力を入れて引っ張り、なんとか俺は立ち上がった。
「朔良を連れてきてくれてありがとな」
 朔也がはにかんだ。
 ストレートに礼を言うなんていつもの朔也らしくないが、家にかかってきた電話が警察からと知った瞬間から桃花さんが大パニックして、朔也は狼狽えるばかりだったのだから仕方がない。
 あの時、最初に受話器を取ったのは桃花さんだった。
「はい、どちら様でしょうか」
 強張った声で尋ねてから数秒で、桃花さんが泣き崩れた。
 朔也は固まり、朔良は俺の服をギュッと掴んで泣きそうな顔で見上げてきた。
 俺は朔良の掴んできた手をポンポンと優しく叩いて放させると、「ちょっと待ってて」と立ち上がり、急いで桃花さんの手から受話器を奪い取ろうとした。
 けど、驚くほど桃花さんの握力が強くて互いに受話器を引っ張りあう形になった。
 あの時の桃花さんの握力は、必死さの表れだったのだろう。
 受話器から「もしもし」と男の声が漏れるのが聞こえて、俺は乱暴に受話器を奪い取った。
 俺も気が動転していたから、桃花さんを気遣う余裕なんてなかった。
 朔良が泣き崩れる桃花さんを抱きしめると、桃花さんは縋るように朔良を抱きしめて号泣した。
 朔也がふらつくように俺に近づいてきたが、あと一歩で止まる。
 俺は朔也に背を向けると、
「はい、桜木ですが」
 慌てて返事をした。
 相手が警察を名乗った瞬間、最悪な状態を想像して意識が飛びかけた。
 けど、気合いで意識を繋ぎ、相手に桜木家の長男で朔也だと嘘をついて会話を続けた。気が逸り、口調が早く攻撃的になるのが抑えられない俺に、警察は穏やかな声を崩さなかった。
 途中、
「宗也さんは怪我してるけど無事だって」
 振り返って声を上げると、桃花さんはカーペットに突っ伏して泣き、朔良は桃花さんを守るように覆いかぶさって肩を震わせてないた。
 朔也はストンと腰を下ろすと、うつむいたまま髪をクシャクシャにして、両手で顔を覆った。
 俺は電話横のペンをとり、メモに警察の言う病院名と病室に住所、その電話番号と管轄の警察署と電話してきた警官の名前を走り書きしていく。
 崩れた平仮名と数字ばかりのメモを破り、不安を少しでも軽減させるために事故については触れず、たまたまコンクリートの蓋がない溝に片足を突っ込んで引っ繰り返ってしまった際に、片足を捻挫して、地面についた左腕にヒビが少し入ったことだけを説明した。
 病院名を言うと、桃花さんがつんのめりながらテレビ台に置かれた車の鍵を掴み、駆けだすのを慌てて止めて、朔也に鍵を奪わせた。
 この状態で車を運転させるわけにはいかない。
 電車は突然情緒不安定になって迷惑をかける場合がある。
 俺はスマホで大まかなタクシー代を検索すると、朔也と桃花さんに所持金を確認してもらい、タクシーを呼ぶことを勝手に決めた。
 乗車料金が高額になることと、桃花さんを一人で行かせるのは危険と判断して、朔也を付き添わせることにした。
 俺と朔良は電車で向かうことにして、朔也と互いのスマホで病院名を検索して確認。メモは朔也に渡す前に、スマホで画像を残した。
 万が一のことを考え、財布に入れっぱなしにしていた修学旅行で使わなかった俺の小遣いから一万円を朔也に持たせる。
 電話してタクシーを呼び、二人を見送る際、朔良が桃花さんにエコバックを渡した。中を覗くと、水筒とタオルが数枚にティッシュがボックスごと入っていた。
 朔良の気配りに涙腺崩壊した桃花さんが、さっそくタオルに顔を埋めた。
 今も桃花さんは泣いている。
 けど、一旦別行動する前の悲壮感は感じられない。
 ただただ、安堵でいっぱいなんだろう。
 問題は、いつまでも安堵していられないことだ。
 朔也に引っ張られて立つと、簡素な室内を見遣った。
「個室なんだな」
「でも、検査の結果が良ければすぐ退院だって。包帯巻いてるだろ? 軽く頭を打ったから、明日詳しく検査だって。また警察が来るって言ってたし。大したことないけど、騒がしくなるから個室になったんだと思う」
「そっか」
 命にかかわらないというだけで喜ぶ家族に、かける言葉が見つからない。
「明友君、久しぶり。迷惑かけたみたいでゴメンね。俺がそそっかしいばかりに、しなくていい怪我しちゃってさ」
 薄い青の患者着を着用した宗也さんが、声をあげて笑った。
 左腕を三角巾で吊っている。
 布団で隠れているが、足も手当されているだろう。
 俺はベッドのフッド側に進んで、宗也さんの真正面に立った。
「俺こそ頻繁にタダでご飯を食べさせてもらってるので、こういう時に役立たないと申し訳なくて」
「妻が感謝してたよ。本当にありがとう」
 深々と頭を下げられて、俺も頭を下げた。
「あの……警察から簡単に話は聞いたんですけど、どうして怪我を?」
 警察の話では、駆けつけた時、宗也さんは「殺される」と連呼していたそうで、事件と事故の両方の可能性があると言っていた。
「仕事先に向かっていたら、子供の『危ない!』っていう叫び声が耳元でしてね。ビックリして辺りを見回しても、それらしい子供はいないし、さあ行こうと歩きだしたら、大通りから赤い乗用車が突っ込んできてね。逃げようと振り返った一歩目が溝に落ちて、そのままドテーンと転がったんだよ。つい手をついたらこのザマでさあ」
 全然笑い話でないのに、宗也さんは声を上げて笑い、落ち着き始めた桃花さん目元を指で拭った。
 朔良は薄い唇を少し突きだして、納得のいかない顔をしている。
「車は衝突しなかったんですよね」
「縁石手前で急カーブだよ。驚いたね。あのまま縁石を乗りあげられてたら、お陀仏だったよ」
「運転手が気を失って車を暴走させたんでしょうか。寸でで意識が回復して、ハンドルを切ったとか」
「いやいや、パンクしたんだよ」
「え?」
「前輪が一個パンクして、グワッて車が回ったの。後から来てた車も、対向車線の向こうもビックリしたと思うよ。玉突きに事故にはなったけど、みんな無事だったって」
「そんなタイミングでパンクなんて、奇跡の生還ですよね」
「それがさあ、普通のパンクじゃないんだよ」
「どういうことですか?」
「タイヤが裂けてたんだって。スパーンと切られたみたいに」
 何かに反応したように、朔良の頭がピョンと上がった。
「朔良もビックリしたか」
 宗也が朔良の頭を撫でた。
「運転手はうたた寝したのを誤魔化しているのか、持病があったで捜査してるみたいだけど、体が勝手に動いたと言い張ってるそうだ」
 宗也さんが、ベッドサイドに置かれる多機能な収納台に手を伸ばした。
「はい、アナタ」
 目のまわりを腫らした桃花さんが、テレビの前に置かれていたペットボトルを宗也さんに渡す。
 そこには、頭が黒く汚れた剣の護法童子が置かれていた。
 まさか、剣の護法童子が変色している?
 だとしたら、宗也さんが助かったのは剣の護法童子のお陰か?
 確かめたくて収納台に近づこうとした足を踏みだした瞬間、
「これ以上、男に近づくな!!」
 耳元で鋭い子供の声がした。男の子だ。
 見回すが、ここにいるのは俺と桜木家だけだ。
 ハッキリ聞こえたけど、幻聴気だったのかな。
 もう一歩前に踏みだした瞬間、体中の血が濁ったような感覚がした。
 呼吸が荒くなり、ムシャクシャしてくる。
 なんだか無性に殴りたくなって、首を絞めたくなって……締めるなら……アイツだろと、俺は宗也さんを見て、慌てて数歩下がった。
 肩で息をする。
 心臓がバクバクする。
 今のは一体……。
 目をキラキラさせた朔良が、両手で宝物を掬うように剣の護法童子を持ち上げた。
 男に近づくなって、宗也さんのこと?
 まさか俺、宗也さんに殺意を抱いた?
 愕然とする俺に、剣の護法童子を胸に抱きしめた朔良が駆けてきた。
「ありがとう、明友さん。この護法童子がお父さんを守ってくれたんだよ。子供の声も、タイヤがパンクしたのも、全部護法童子のお陰だよ」
 朔良が俺へと護法童子を差しだした。
 そっと手に取り、恐る恐る変色した頭部を撫でる。
 これ、汚れじゃない。
 焦げてるんだ。
 剣についている黒いのは汚れだ。
 鼻を近づけて臭いを嗅ぐ。
 焦げたゴム臭さに、慌てて顔を話す。
 背筋がゾクリとした。
 坊さんの言葉が甦る。
 俺、今すぐ蓮顕さんに連絡しなきゃ。
 このままだと、俺が宗也さんを殺してしまう。
 そこで捕まらなければ、次に朔也を……そして朔良を殺してしまう。
 指先から全身にかけて、体が冷えていく。
 絶望で意識が遠のきそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
「朔良、剣の護法童子を病室に置いておこうか。このまま、宗也さんを守ってもらおう」
 俺はやるせなさを隠して、朔良の頭を撫でて微笑んだ。
「うん!!」
 朔良は踵を返して宗也さんに剣の護法童子を渡すと、戻ってきて俺にくっついた。
「お母さん、頑張ってくれた護法童子にありがとうのお供えしたいから、明友君と売店に行ってきていい?」
 こんな時だけど、俺の傍にいてくれる朔良が愛おしくて抱きしめたくなる。
 このままだと、もう二度と会ってはいけない相手なのに……。
 朔也もだ。
 親友を自分の手で亡くしたくない。
「俺も売店ついてくわ。俺の分のお茶、父さんに取られてないんだよ」
 朔也が近づいてきて、俺の肩を叩いた。
「さっさと行こうぜ」
 俺を追い越した朔也が振り返った。
 朔良が走って、朔也の腕に抱きついた。
「あのっ。そろそろ帰らないと叱られるんで帰ります」
 俺は早くここを離れたくて、桃花さんと宗也さんに頭を下げた。
「今日は本当にありがとうね」
 満面の笑みを浮かべる桃花さんと、
「すぐ退院するから、家で待っててくれ」
 恵比須様みたな笑みを保ったままの宗也さんに手を振られて、俺はもう一度頭を下げると足早に廊下へ出た。
 とりあえず、今は宗也さんから離れることだ。
 宗也さんが生きているかぎり、多分朔良たちといても大丈夫だ。
「明友、これ」
 朔也が指に挟んだ紙を俺に差しだした。
 受け取って広げれば、折りたたまれた一万円だ。
「母さんが電子マネーで払ったから大丈夫だった。お前がいて、本当に助かった」
 朔也が照れくさそうに軽く頭を下げてきた。
「ありがとうございます」
 朔良も深々と頭を下げる。
「別にいいって。俺は売店に寄ったら帰るけど、お前と朔良はどうするの?」
「朔良が寝る時間までに電車で帰るよ」
「朔良はこの時間の電車に乗りなれてないから、ちゃんと上野についたら始発のに乗れよ」
「わかってる。俺も座りたい。で、売店ってこの棟の一階にあると思う?」
 いきなり、軽いノリで話題を変えられて、俺は呆気にとられた。
「俺が知るかよ!」
 気が抜けて、いつものノリになってしまう。
「何でも知ってるのが明友のいいとこじゃん」
「人を都合よく使うな」
「僕、看護師さんに訊いてくる」
 朔也が見回して、看護師を探す。
「とりあえず、ナースステーション探すか」
 今はまだ二人から遠ざからなくていい。
 ただそれだけのことが、泣きたいくらい嬉しくて、叫び散らしたいほど切ない。
 当たり前だったことが当たり前でなくなるって、こうも精神的にくるのか。
 廊下が続くほうへと歩きだした俺に、二人がついてきた。
 ただそれだけのことで、涙腺が緩んできて鼻をすすった。