【桜井朔也】
桜が落ち着いたのを見計らって、母さんは断るブッシも連れて、ショッピングセンター内の二階の角にある和食処に入った。
店員の女性に誘導されるまま、唯一空いていた角の四人掛けテーブルに、俺と母さんが壁側、ブッシと桜が向かいに座る。
桜は泣きやんでも、ブッシから離れようとしなかった。
ブッシは俺や母さんには困った顔を向け、桜には蕩けるような笑みを浮かべる。
どうしたら、二人は今日が初めましてだと信じられるんだ。
名前を呼びあって抱きあったくせに、どうして互いの名前を知らないと言い切れるんだ。
ブッシが母さんに名乗るまで、ブッシの名前を忘れていた俺も俺だが、二人とも呼びあった名前が大正解ってどうなんだよ。
疑問が更なる疑問を呼んで、俺は今、思考がほぼ停止していた。
テーブルに四人分の水が置かれる。
「お決まりになりましたら、ボタンを押してください」
店員が軽く一礼して去っていく。
「明友君は豚カツ食べられる?」
メニューを手早く開いた母さんの一言に、ブッシがキョトンとした。
「はっ、はいっ」
恐縮しきるブッシに、
「私が奢るから心配しないで。アナタが選べるのはタレのみよ。大根おろし付きの出汁醬油か、和風ソースか、味噌ダレかよ」
「俺、ソース」
即答した俺に、
「じゃあ、私は味噌にしようかしら」
母さんが続いた。
桜がブッシを見上げた。
学校とは違い、前髪で顔を隠そうとしないブッシが桜の頭を撫でた。
俺は、甘すぎる二人にやられて背凭れに倒れた。目を逸らそうと天井を見上げかけて、壁に頭を激突させる。
「痛っ」
頭を押さえて丸まった俺の腿を、母さんが容赦なくペシッと叩く。
「桜君はどうする?」
ああああああぁぁ~っ‼
甘い甘い甘いっ。
ブッシの桜に対するすべてが甘い。
表情がしっかり見えると、マジでヤバい。
イケメン怖い。
ノンケの俺がこのザマだ。ちょっとその気になれば、どんな女もイチコロに違いない。
ニコニコ笑顔の桜が「出汁醤油にする」と答え、「俺も醤油でお願いします」と桜に向けた笑顔のままこっちを向いた。
母さんが両手で目より下を覆った。
母さんが尊いモノに出会った時の癖だ。
呼び出しボタンを押した俺の耳に、母さんが口を寄せてきた。
「桜って面食いだったかしら?」
「母さんの教育のタマモノなんじゃねぇの?」
俺は投げやりに答えた。
品が届くのを待ちながら、俺と母さんは目の前で繰り広げられるイチャイチャを眺めていた。
好きな食べ物や好きな色なんかを質問しあっては答えて笑いあう二人に、母さんは両手を合わせて尊ぶように息を吐いた。
世には不思議なことがあるといえ、理解の範疇を超えている。
「さっき会ったばっかりで、名前も本当に知らなくてを全部信じたとして、涙の抱擁からのこんなに仲いいってありえる?」
俺の疑問に、
「ないわよね。普通は」
母さんが即答した。
「こんなに幸せそうな桜、初めて見たかも」
ヤバいッ。
涙声になった母さんが、バッグからハンカチを取りだして目にあてる。
「桜が幸せなら、お母さんはなんだっていい」
桜が引きこもりになってから、俺も父さんも母さんも恨みと苦しみと悲しみばかりだった。明かりをつけても暗く感じる部屋。重い空気。心が引き裂かれそうな毎日だった。
なのに今、心が軽い。
桜が笑っているだけで、つられてこっちも笑顔になる。
「あの二人、初々しくみせかけて、実は長年両思いの年の差バカップルにしか見えないんだけど」
俺は冷静になりたくて水を一口飲んだ。
同性だけど、桜がまだ幼いのと、歳の差があるからか嫌悪感はない。イチャイチャしているけど、エロさがないのも大きい。
「運命かしら? 前世の恋人が巡りあい、一瞬で魅かれて恋に落ちる」
「……」
「ちょっと、ここはツッコミ入れるとこでしょう」
母さんが容赦なく俺の肩を叩いた。
ゴメン。
あの二人を見てたら、一瞬ありかもと思ってしまった。
「豚カツ定食、味噌とソースです」
両手でお盆を持った店員が現れて、俺は「ソースです」と手上げ、隣に手を向けて「味噌はこっちに」と誘導した。
すぐに桜とブッシの分も届く。
「あのさあ、好物だからいいんだけど、なんで注文が豚カツ縛りなの?」
ブッシが俺に、少し遠慮気味に訊いてきた。
「今更? それは……」
箸を割った俺は、答えかけたものの言葉に詰まった。笑顔をなくした桜が俯いたからだ。
これは、どこまで喋ればいい?
母さんを見れば、眉間に皺を寄せて困った顔をする。
説明は不可避だろう。
次に会った時、多分桜の名前は変わってる。こんなに仲良くなって、もう会わないはないだろうし……。
「ご飯が冷めるから、美味しく食べてから説明する。以上」
俺は言い切ると、箸でカツの真ん中の切り身を掴んで、口に放り込んだ。
ソースがタップリなのに、ガッツリ豚の味がする豚カツサイコー‼
「私も一つ気になってるんだけど、どうして明友君はブッシなの? 名字や名前をモジってもブッシにならないでしょう?」
母さんからの質問に、俺は一瞬固まった。
「それは……あれだ。ブッシが答えるから。なっ、ブッシ」
すべてを丸投げすると、挑む大食いファイターのようにご飯を頬張り、味噌汁の碗を持ち上げた。
ショッピングモール内の書店でも、母さんとブッシの意気投合が止まらない。
もはや、暴走列車だ。肝心の桜を置き去りにしている。
ついさっき、勉強まみれの人生がほぼ決定したのに、桜は笑顔で二人を見つめている。
この状態で一人漫画コーナーに行くのも気が引けて、俺はヒートアップする二人から桜を少し後ろに離した。
「桃花さん、こんなのもありますよ」
いつの間にか、ウチの母さんを名前呼びしている明友がスマホ画面を見せた。
「算数検定、いいわねえ。参考書はあるかしら」
すでに何冊も本を抱えてる母さんが、ウキウキしながら棚を指さし確認していく。
「検定を取得すればこっちのものよね」
「もちろんです。テストを受けなくても勉強ができる証明になります」
「聞いてくれる? あのクソ馬鹿担任、留守電に『学校に来ないと勉強出来ないままですよ。このままだと、通知表はすべて一評価になりますがいいんですか?』って脅しを吹き込んでんの。こっちばかり悪いみたいに言って、謝りもしないの。お前なんかに教えてもらわなくても、桜は出来る子だって思い知らせてやる。あんなヤツに教わったら、一〇出来る子も一しか出来んわ‼」
「だったら、来年の全国統一テストなんて最高ですよ。結果をコピーして、校長宛てに送りましょう」
ヤバい。
母さんとブッシが、悪代官並みの笑みを浮かべてる。
ブッシの由来は、仏像を彫る職人じゃなかったのかよ。小学校低学年の時、将来の夢という作文をみんなの前で発表してから、ブッシって呼ばれるようになったって言ってたじゃないか。
今のお前は、母さんと一緒に悪魔を召喚しようとする魔術師みたいだぞ。
しかも、なんでか俺も漢字検定三級に挑戦する流れになってるし……。
内容までは教えなかったけど、桜がイジメで引きこもりになったのを知った時のブッシの顔といったら……。凶悪すぎて、思いだすだけで寒気が襲ってくる。
けど、一度記憶を辿りだしたら、否応なしに思いだしてしまう。
和食処で無料のお茶を飲みながら、追加で頼んだ黒蜜ときな粉がタップリのバニラアイスを食べてる時だった。
「そんな学校、行く必要ないですよ」
キッパリハッキリと言い切ったブッシの目は、笑っていなかった。
桜が自分の新しい名前を決める。
その門出の前祝と、『イジメた豚野郎と、クソ豚担任と、豚ガキどもをやんわり擁護するクズ豚校長に勝つ』というゲン担ぎで、豚カツ縛りメニューを食べると前以て決まっていたのだが、そこにブッシを巻き込んだのがマズかった。
俺は同感してくれた喜びと、赤の他人に何がわかるんだと苛立ちが混じり、アイスの味がわからなくなった。
「俺もイジメられた経験があるんで、桜君の気持ちがよくわかります。それで引っ越しました」
ブッシの衝撃発言に、俺は固まった。
ブッシは一見陰気そうだから、イジメられた経験があると言われたら納得してしまう。
けど、普通言えるか?
しかも、引っ越すなんて大事だったってことだろ?
俺だったら絶対に言えない。
もし、俺が桜と同じことをされたら、誰も知り合いがいない土地に住んで、死ぬまで隠し続ける。
「俺が桜君の勉強を見ます。今までの通知表や答案用紙、必要なら全部持ってきます。あと、英検四級と漢検二級持ってます。漢検は三級以上なので履歴書に書けます。小学六年の時、中学に提出する書類に書きました」
前のめりになったブッシに、母さんは目を輝かせた。
「明友君、頭良すぎじゃない?」
「仏師になりたいなら、本気を勉強で示せと両親に言われたんです。だから、兄にわからないとこを聞いたり、古くて捨てる教科書とか全部貰ったりして勉強しました」
「塾は?」
「兄が行ってます。俺は兄の使い終わった参考書とかもらってます。少し通ったんですけど、合わなくて……」
その後、ブッシが自転車登校なのが判明し、学校帰りに中学校に近い俺んちに寄ることが決まった。
土日祝日も、可能なかぎり午後から来るとかなんとか……。そんでもって、その勉強会には俺も強制参加となり……検定も……。
桜は最初、ほぼ毎日ブッシに会えると目を輝かせたものの、すぐに「明友さんの迷惑じゃないですか?」と不安そうに瞳を揺らした。
ブッシはというと、目線を桜に合わせて、
「教えながら自分の勉強するから大丈夫。俺が桜君と勉強したいんだ。桜君と一緒なら;って考えるだけで楽しくなるし、やる気がでてくるんだ。俺のために一緒に勉強しよう?」
とんでもないセリフを吐いて、桜の頭を撫でたんだ。
トドメに、「ダメかな?」としおらしい態度をするブッシに、俺は「誰だよコイツ。こんなのブッシじゃねえ」と漏らし、両肘をテーブルについて頭を抱えた。
桜は簡単に絆された。
そうして、今になる。
「桜、ゴメンな。ご飯食べたらちょっと洋服見て帰る約束だったのに。早く帰りたいよな」
俺は桜の頭をポンポンと軽く叩いた。
桜が左右に首を振った。俺の弟なのが信じられないくらい良い子すぎる。
「母さんもブッシもそこまでにしたら? あとはネットで選べばいいじゃん」
「そうね」
母さん、生返事しないで。
「ねえねえ、明友君。プログラミングも教えられる?」
「パソコンあります? それかタブレット」
「共同のノートパソコンがあるわ。私、パソコン派なの」
ああ、二人とも俺の話を聞いていない。
「俺はともかく、桜を放置したままなの気づいてる?」
俺の一言に二人が固まった。
すぐにブッシが動いて、桜の前にしゃがみ込んだ。
「ゴメン桜君。たくさん待たせて疲れたよね。座る? 帰りたい?」
ブッシが桜の両手を握り、忠犬みたいに答えを待つ。
首を横に振った桜もしゃがみ込んだ。
「僕のために、いっぱいありがとうございます」
頭をちょんと下げた桜に、ブッシが微笑んで頭を振った。
「なんでだろう。桜君に出会ってから、桜君にいっぱい出来ることをしてあげたくてたまらないんだ。なのに、蔑ろにしちゃってゴメンね」
「いいの。見てて幸せな気持ちになってたから、全然いいの。それより、明友さんはいいの? 行きたいお店とか、買いたい物はないの? あったら、僕も一緒に行くよ」
あれだけ同級生と会うのが怖いと、近所のスーパーさえ出掛けたがらない桜が、自分から行くと言いだすなんて……。
「朔也、ちょっとこれ持って」
母さんは持っていた本を俺に押しつけ、ハンカチを取りだして目頭を押さえた。
桜が落ち着いたのを見計らって、母さんは断るブッシも連れて、ショッピングセンター内の二階の角にある和食処に入った。
店員の女性に誘導されるまま、唯一空いていた角の四人掛けテーブルに、俺と母さんが壁側、ブッシと桜が向かいに座る。
桜は泣きやんでも、ブッシから離れようとしなかった。
ブッシは俺や母さんには困った顔を向け、桜には蕩けるような笑みを浮かべる。
どうしたら、二人は今日が初めましてだと信じられるんだ。
名前を呼びあって抱きあったくせに、どうして互いの名前を知らないと言い切れるんだ。
ブッシが母さんに名乗るまで、ブッシの名前を忘れていた俺も俺だが、二人とも呼びあった名前が大正解ってどうなんだよ。
疑問が更なる疑問を呼んで、俺は今、思考がほぼ停止していた。
テーブルに四人分の水が置かれる。
「お決まりになりましたら、ボタンを押してください」
店員が軽く一礼して去っていく。
「明友君は豚カツ食べられる?」
メニューを手早く開いた母さんの一言に、ブッシがキョトンとした。
「はっ、はいっ」
恐縮しきるブッシに、
「私が奢るから心配しないで。アナタが選べるのはタレのみよ。大根おろし付きの出汁醬油か、和風ソースか、味噌ダレかよ」
「俺、ソース」
即答した俺に、
「じゃあ、私は味噌にしようかしら」
母さんが続いた。
桜がブッシを見上げた。
学校とは違い、前髪で顔を隠そうとしないブッシが桜の頭を撫でた。
俺は、甘すぎる二人にやられて背凭れに倒れた。目を逸らそうと天井を見上げかけて、壁に頭を激突させる。
「痛っ」
頭を押さえて丸まった俺の腿を、母さんが容赦なくペシッと叩く。
「桜君はどうする?」
ああああああぁぁ~っ‼
甘い甘い甘いっ。
ブッシの桜に対するすべてが甘い。
表情がしっかり見えると、マジでヤバい。
イケメン怖い。
ノンケの俺がこのザマだ。ちょっとその気になれば、どんな女もイチコロに違いない。
ニコニコ笑顔の桜が「出汁醤油にする」と答え、「俺も醤油でお願いします」と桜に向けた笑顔のままこっちを向いた。
母さんが両手で目より下を覆った。
母さんが尊いモノに出会った時の癖だ。
呼び出しボタンを押した俺の耳に、母さんが口を寄せてきた。
「桜って面食いだったかしら?」
「母さんの教育のタマモノなんじゃねぇの?」
俺は投げやりに答えた。
品が届くのを待ちながら、俺と母さんは目の前で繰り広げられるイチャイチャを眺めていた。
好きな食べ物や好きな色なんかを質問しあっては答えて笑いあう二人に、母さんは両手を合わせて尊ぶように息を吐いた。
世には不思議なことがあるといえ、理解の範疇を超えている。
「さっき会ったばっかりで、名前も本当に知らなくてを全部信じたとして、涙の抱擁からのこんなに仲いいってありえる?」
俺の疑問に、
「ないわよね。普通は」
母さんが即答した。
「こんなに幸せそうな桜、初めて見たかも」
ヤバいッ。
涙声になった母さんが、バッグからハンカチを取りだして目にあてる。
「桜が幸せなら、お母さんはなんだっていい」
桜が引きこもりになってから、俺も父さんも母さんも恨みと苦しみと悲しみばかりだった。明かりをつけても暗く感じる部屋。重い空気。心が引き裂かれそうな毎日だった。
なのに今、心が軽い。
桜が笑っているだけで、つられてこっちも笑顔になる。
「あの二人、初々しくみせかけて、実は長年両思いの年の差バカップルにしか見えないんだけど」
俺は冷静になりたくて水を一口飲んだ。
同性だけど、桜がまだ幼いのと、歳の差があるからか嫌悪感はない。イチャイチャしているけど、エロさがないのも大きい。
「運命かしら? 前世の恋人が巡りあい、一瞬で魅かれて恋に落ちる」
「……」
「ちょっと、ここはツッコミ入れるとこでしょう」
母さんが容赦なく俺の肩を叩いた。
ゴメン。
あの二人を見てたら、一瞬ありかもと思ってしまった。
「豚カツ定食、味噌とソースです」
両手でお盆を持った店員が現れて、俺は「ソースです」と手上げ、隣に手を向けて「味噌はこっちに」と誘導した。
すぐに桜とブッシの分も届く。
「あのさあ、好物だからいいんだけど、なんで注文が豚カツ縛りなの?」
ブッシが俺に、少し遠慮気味に訊いてきた。
「今更? それは……」
箸を割った俺は、答えかけたものの言葉に詰まった。笑顔をなくした桜が俯いたからだ。
これは、どこまで喋ればいい?
母さんを見れば、眉間に皺を寄せて困った顔をする。
説明は不可避だろう。
次に会った時、多分桜の名前は変わってる。こんなに仲良くなって、もう会わないはないだろうし……。
「ご飯が冷めるから、美味しく食べてから説明する。以上」
俺は言い切ると、箸でカツの真ん中の切り身を掴んで、口に放り込んだ。
ソースがタップリなのに、ガッツリ豚の味がする豚カツサイコー‼
「私も一つ気になってるんだけど、どうして明友君はブッシなの? 名字や名前をモジってもブッシにならないでしょう?」
母さんからの質問に、俺は一瞬固まった。
「それは……あれだ。ブッシが答えるから。なっ、ブッシ」
すべてを丸投げすると、挑む大食いファイターのようにご飯を頬張り、味噌汁の碗を持ち上げた。
ショッピングモール内の書店でも、母さんとブッシの意気投合が止まらない。
もはや、暴走列車だ。肝心の桜を置き去りにしている。
ついさっき、勉強まみれの人生がほぼ決定したのに、桜は笑顔で二人を見つめている。
この状態で一人漫画コーナーに行くのも気が引けて、俺はヒートアップする二人から桜を少し後ろに離した。
「桃花さん、こんなのもありますよ」
いつの間にか、ウチの母さんを名前呼びしている明友がスマホ画面を見せた。
「算数検定、いいわねえ。参考書はあるかしら」
すでに何冊も本を抱えてる母さんが、ウキウキしながら棚を指さし確認していく。
「検定を取得すればこっちのものよね」
「もちろんです。テストを受けなくても勉強ができる証明になります」
「聞いてくれる? あのクソ馬鹿担任、留守電に『学校に来ないと勉強出来ないままですよ。このままだと、通知表はすべて一評価になりますがいいんですか?』って脅しを吹き込んでんの。こっちばかり悪いみたいに言って、謝りもしないの。お前なんかに教えてもらわなくても、桜は出来る子だって思い知らせてやる。あんなヤツに教わったら、一〇出来る子も一しか出来んわ‼」
「だったら、来年の全国統一テストなんて最高ですよ。結果をコピーして、校長宛てに送りましょう」
ヤバい。
母さんとブッシが、悪代官並みの笑みを浮かべてる。
ブッシの由来は、仏像を彫る職人じゃなかったのかよ。小学校低学年の時、将来の夢という作文をみんなの前で発表してから、ブッシって呼ばれるようになったって言ってたじゃないか。
今のお前は、母さんと一緒に悪魔を召喚しようとする魔術師みたいだぞ。
しかも、なんでか俺も漢字検定三級に挑戦する流れになってるし……。
内容までは教えなかったけど、桜がイジメで引きこもりになったのを知った時のブッシの顔といったら……。凶悪すぎて、思いだすだけで寒気が襲ってくる。
けど、一度記憶を辿りだしたら、否応なしに思いだしてしまう。
和食処で無料のお茶を飲みながら、追加で頼んだ黒蜜ときな粉がタップリのバニラアイスを食べてる時だった。
「そんな学校、行く必要ないですよ」
キッパリハッキリと言い切ったブッシの目は、笑っていなかった。
桜が自分の新しい名前を決める。
その門出の前祝と、『イジメた豚野郎と、クソ豚担任と、豚ガキどもをやんわり擁護するクズ豚校長に勝つ』というゲン担ぎで、豚カツ縛りメニューを食べると前以て決まっていたのだが、そこにブッシを巻き込んだのがマズかった。
俺は同感してくれた喜びと、赤の他人に何がわかるんだと苛立ちが混じり、アイスの味がわからなくなった。
「俺もイジメられた経験があるんで、桜君の気持ちがよくわかります。それで引っ越しました」
ブッシの衝撃発言に、俺は固まった。
ブッシは一見陰気そうだから、イジメられた経験があると言われたら納得してしまう。
けど、普通言えるか?
しかも、引っ越すなんて大事だったってことだろ?
俺だったら絶対に言えない。
もし、俺が桜と同じことをされたら、誰も知り合いがいない土地に住んで、死ぬまで隠し続ける。
「俺が桜君の勉強を見ます。今までの通知表や答案用紙、必要なら全部持ってきます。あと、英検四級と漢検二級持ってます。漢検は三級以上なので履歴書に書けます。小学六年の時、中学に提出する書類に書きました」
前のめりになったブッシに、母さんは目を輝かせた。
「明友君、頭良すぎじゃない?」
「仏師になりたいなら、本気を勉強で示せと両親に言われたんです。だから、兄にわからないとこを聞いたり、古くて捨てる教科書とか全部貰ったりして勉強しました」
「塾は?」
「兄が行ってます。俺は兄の使い終わった参考書とかもらってます。少し通ったんですけど、合わなくて……」
その後、ブッシが自転車登校なのが判明し、学校帰りに中学校に近い俺んちに寄ることが決まった。
土日祝日も、可能なかぎり午後から来るとかなんとか……。そんでもって、その勉強会には俺も強制参加となり……検定も……。
桜は最初、ほぼ毎日ブッシに会えると目を輝かせたものの、すぐに「明友さんの迷惑じゃないですか?」と不安そうに瞳を揺らした。
ブッシはというと、目線を桜に合わせて、
「教えながら自分の勉強するから大丈夫。俺が桜君と勉強したいんだ。桜君と一緒なら;って考えるだけで楽しくなるし、やる気がでてくるんだ。俺のために一緒に勉強しよう?」
とんでもないセリフを吐いて、桜の頭を撫でたんだ。
トドメに、「ダメかな?」としおらしい態度をするブッシに、俺は「誰だよコイツ。こんなのブッシじゃねえ」と漏らし、両肘をテーブルについて頭を抱えた。
桜は簡単に絆された。
そうして、今になる。
「桜、ゴメンな。ご飯食べたらちょっと洋服見て帰る約束だったのに。早く帰りたいよな」
俺は桜の頭をポンポンと軽く叩いた。
桜が左右に首を振った。俺の弟なのが信じられないくらい良い子すぎる。
「母さんもブッシもそこまでにしたら? あとはネットで選べばいいじゃん」
「そうね」
母さん、生返事しないで。
「ねえねえ、明友君。プログラミングも教えられる?」
「パソコンあります? それかタブレット」
「共同のノートパソコンがあるわ。私、パソコン派なの」
ああ、二人とも俺の話を聞いていない。
「俺はともかく、桜を放置したままなの気づいてる?」
俺の一言に二人が固まった。
すぐにブッシが動いて、桜の前にしゃがみ込んだ。
「ゴメン桜君。たくさん待たせて疲れたよね。座る? 帰りたい?」
ブッシが桜の両手を握り、忠犬みたいに答えを待つ。
首を横に振った桜もしゃがみ込んだ。
「僕のために、いっぱいありがとうございます」
頭をちょんと下げた桜に、ブッシが微笑んで頭を振った。
「なんでだろう。桜君に出会ってから、桜君にいっぱい出来ることをしてあげたくてたまらないんだ。なのに、蔑ろにしちゃってゴメンね」
「いいの。見てて幸せな気持ちになってたから、全然いいの。それより、明友さんはいいの? 行きたいお店とか、買いたい物はないの? あったら、僕も一緒に行くよ」
あれだけ同級生と会うのが怖いと、近所のスーパーさえ出掛けたがらない桜が、自分から行くと言いだすなんて……。
「朔也、ちょっとこれ持って」
母さんは持っていた本を俺に押しつけ、ハンカチを取りだして目頭を押さえた。
