【桜井朔也】
昨夜の雷雨が嘘みたいに晴れた六月最後の日曜。
映画の余韻に浸る母さんをそのままにして、桜がテキパキと紙コップを回収し、俺が持つトレイに載せた。丸めたチュリトスの包装紙が端に追いやられる。
兄馬鹿と言われてもいい。
ウチの弟は優しく、気配りができて、存在自体が可愛い。
この可愛さは、歳が四つも離れているからか。
いや違う。
親戚のガキどもに足蹴りされたのを思いだしてイラッとした。
小学三年生なんて、煩くて、生意気で、ワンパクな時期だろう。
俺がそうだった。
俺のまわりも全員そうだった。
いや、大人しいヤツもいたか。けど、桜には及ばない。
桜は穏やかで、言うことをちゃんと聞いて、大変だったのは赤ん坊の時くらいだ。それでも、抱きあげて少しあやせば大人しくなった。
桜は生まれた時から出来たヤツと言ってもいい。
見た目もだ。桜はウチの血を引いているのか疑問になるほど可憐だ。
細く小さな手足に、日焼けしにくい肌。丸顔で小さな唇。サラサラな髪。パッチリとした大きな瞳に、長い睫毛。赤みのさした頬。
このまま順調に育てば、童顔で可愛いと清楚さを混ぜた感じになると見込んでいる。
桜には幸せになってほしい。
出来れば将来、年上で包み込んでくれる女性と結婚してほしい。
「じゃあ俺、先にゴミ捨ててくるから。母さん、パンフ買うんだろ?」
「当然じゃない!」
ハンカチを両手で握っていた母さんが、力強く答えた。
俺の腹が鳴った。
もう昼近くだ。
集中力が切れたからか、腹の減りを急速に自覚してきたぞ。
俺も母さんも、今頃仕事中の親父も、見た目から平凡だ。
桜が特別すぎるんだ。
母さんは、「アンタの桜の可愛がり方は異常よ」と言うが、こんなに可愛ければ当然だから納得出来ない。
映画を見る前に前掛けにしたボディバッグをそのままに、俺は立ちあがった。
「あれっ?」
五つほど前の席の通路から、出ていくヤツの横顔に見覚えがあった。
五月の席替えで俺の後ろになった男―ブッシだ。
名前は忘れた。
名字だけは覚えている。先生が呼ぶからだ。
藍染ブッシ。
ブッシと同じ小学校だったヤツらが、ブッシと呼んでいた。それがそのまま定着して、クラスでも大多数のヤツがブッシと呼んでいる。
ブッシは色々と勿体ない男だ。
一見、目立つのが苦手で、孤独を愛するオタク系のモテない地味眼鏡。
実際は、小学校時代の友達とよく爆笑してるし、新しい仲間とも気さくに会話している。
ブッシがオタクなのは本当だ。昼休みとかに、仏像の写真集とか熱心に眺めてたり、神様だらけの本を片肘ついて捲っている。
まわりに合わせることもできるが、基本マイペースなんだろう。
とはいえ、第一印象は大事だ。
結果、女子はブッシの隠されたポテンシャルに気づかず、必要がないかぎりブッシに話しかけない。
ブッシは顔がいい。
けど、長めの前髪で目が隠れてるから、気づかれない。女子が苦手で態と隠してるのかもしれないな。
全体的にショートヘアを少し放置したような野暮ったい髪型に加え、プラスチックの黒淵が太い眼鏡が重たい印象を与える。
裸眼の俺は、今年の初めに長めのスポーツ刈りを卒業して、ベリーショートヘアで落ち着いている。小学校時代、女子に子供呼ばわりされたのが嫌で、外見から変わってやろうと実行した。
髪型だけは、ブッシより爽やかでイケてる自信がある。
あと、ブッシは声もいい。完全な声変わりはまだだろうけど、小さな声でもよく通る。
それと身長。ブッシはクラスで四番目に高い。一五二センチの俺が少し見上げる高さだ。
しかも、頭もいい。授業中、先生に指名されたらすぐに答える。今のところ、間違えたり、「わかりません」と逃げた姿を見たことがない。俺とは雲泥の差だ。
そのうえ、運動もできる。春恒例の体力測定はクラスの同性でまとまって移動するから、個人能力がバレる。唯一、伏臥上体反らしの結果が酷くて、苦手もあるんだと安心した。
運動はまあまあ得意な俺は、握力と持久走でブッシとほぼ互角だった。
あと、ブッシは制服を着崩さない。だから、真面目に見える。ブレザーのボタンは着替えの時しか外さないし、夏服になってもネクタイを緩めない。
「桜、母さんをよろしくな」
感動しやすい母さんを桜に頼むと、俺はブッシを見失わないように歩きだした。
三人分のゴミを素早く分別しながら捨てると、通路を抜けて映画館内の売店にでた。
見回して探すが、買い物する客にブッシはない。
グッズに興味ないタイプか、先に購入するタイプか。
もうショッピングモールに繋がる出入口に向かってるかもとロビーにでれば、案の定、遠ざかるブッシの後ろ姿を発見。
俺は速足で近づくと、右手の人差し指だけ立てた状態で握り、そのままブッシの右肩を軽く叩いた。
肩をビクッとさせたブッシが振り返る。
作戦成功。俺の人差し指の先がブッシの頬にめり込んだ。
「よっ」
指をのめり込ませたまま、俺が空いている手をあげると、ブッシが胡散臭いものを見るように目を細めた。
「マジかよ」
ブッシはそっぽを向いて俺の指から逃れると、ノタノタと体の向きを半回転した。
「お前もアニメ映画観るんだな」
俺は、意外なブッシの一面にツッコミを入れた。
「母親が熱狂的なファンなんだよ。原作漫画は絵本代わり、主題歌は子守歌で育ったら、映画観るだろ」
「公開したの二ヵ月くらい前だろ。もしかして、常連?」
「二回目。で、お前は?」
「今日が初めて」
「遅っ!」
「色々ごたついてたんだよ」
嘘じゃない。二年ごとに小学校のクラス替えがある四月。弟はイジメに遭い、ゴールデンウィーク明けから不登校になった。
理由は名前だ。
今時、性別関係なく使える名前は多い。
響きは女の名前ぽくても、男だって人も多い。逆もだ。
本当は、俺が『桜』になる予定だった。
母さんが昔読んだ児童書で、ヒロインが「成海君と結婚したら、私、成海成美になる」と妄想するシーンがあったそうだ。それに憧れて、子供が生まれたら苗字と名前が同じ読みになるよう命名したいと思った。
名字が桜木だから、名前は桜。
さすがの母さんも、名前の読みに『さくらぎ』はないと思ったそうだ。
長男である俺が生まれた時、父さんが「次は女の子が生まれるかもしれないし、長男に桜は……」と母さんを説得して、成功。
俺は『朔也』になった。
そして、二人目が生まれた。
父さんは渋りつつ、「今時はそういう名前も増えてきたから」と母さんの願いを叶えた。
桜は名を体で表したように育った。俺も母さんも父さんも、桜にメロメロになった。
俺たち家族の幸せは、数人が始めた桜へのイジメで途絶えた。
「男なのに桜かよ」
クラス替え恒例の自己紹介。
桜が名前を口にした途端、一人のクソガキが大声を上げたそうだ。
クラス中が騒めき、桜が動揺する中、クズ担任が止めようとしたが、クソガキは「先生だって気持ちと思ったでしょ」と言い、クズ担任が「男の名前じゃないな」と答えたという。
調子に乗ったクソガキは、仲間とともに桜をイジメるようになった。
クズ担任はクソガキたちを見て見ぬふりした。
最初は、机やノートに落書きされたり、からかわれていたそうだ。
だが、すぐにイジメはエスカレートした。
登校するなりクソガキどもに押さえつけられた桜は、逃げないよう羽交い絞めにされた。仲間数人で、無理矢理穿いていた衣服をパンツごと全て足首まで下ろされ、パーカーを胸の上まで下着ごと捲られ、暴れると生意気だと拘束されたまま頭を殴られ、頬を叩かれ、教壇の横で見世物にされた。
ゴールデンウィーク明けの朝、桜の心はポキリと折れた。
最初に気づいたのは俺だった。
桜より家をでるのが遅い俺は、ドアの前で蹲る桜を発見して慌てた。サンダルに足を突っ込み、桜に駆け寄って声をかけた。
桜は体を震わせて、首を横に振った。
俺は狼狽えながら、声を張りあげて母さんを呼んだ。
母さんは現れるなり、サンダルを履かずに桜の前にしゃがみ、桜の両肩に手を置いて桜を呼んだ。
桜がようやく口を開いた。小さな声で「ごめんなさい」と呟く。少し間を開けて、また「ごめんなさい」と謝る。
ついに、壊れたように「ごめんなさい」を連呼し始めた桜が、涙声になった。
途端、母さんが朔良を覆い隠すように抱きしめた。
イベント会社勤務の父さんは出張中で、今日帰ってくる。それまで、この家で桜を守れるのは俺と母さんしかいない。
桜がしゃくりだした。
声を抑えようとして抑えられない声に、俺も母さんごと桜を抱きしめた。
そして、母さんと俺は桜より大きい声で泣いた。
理由を聞く前から泣けたのは、普段から桜が良い子過ぎたからだ。喜びで涙を浮かべることはあっても、声を漏らして泣くことがなかったからだ。
泣きながらも声を抑えようとする姿がいじらしくて、いつも弱音を吐かない桜が泣くほどの思いしたのかと悲しくて、泣かれるのがつらくて、落ち着くまで三人で泣き続けた。
桜はSOSをだしていた。
けど、俺も家族も気にはしていたけど、深く考えていなかった。
進級してから、桜はリビングでなく部屋で宿題をするようになったこと。いつもより元気が少ない笑顔をすることが増えたこと。全部、桜のSOSだったのに……。
リビングに移動して、ポツリポツリと桜が語るのを父さんに聞かせるために録音した。
ランドセルを開ければ、イジメの証拠だらけ。
「じゃあ、体操服が泥だらけだったのも……」
母さんがまた大泣きして、三人で互いに謝りながら、俺も桜も涙を零した。
それから今日まで、桜は学校を休んでいる。
明日からも当然休ませる。
帰宅部の俺は授業を終えると一目散に帰り、桜と勉強したり遊んだりする。
無神経に訪ねてくる学校関係者には、必要事項は父さんへメールするよう伝えて門前払いしている。
いつもは同級生と会うかもと出掛けるのに消極的な桜だが、今日は特別な日だからと俺の誘いに乗ってくれた。
家族会議を重ねて、今後同じことが起きないように家庭裁判所へ桜の改名を申請すると決めたからだ。
とはいえ、受理されない可能性もあるし、申請には新しい名前を記入しなければならなく、まだその名前は決まっていない。
決めるのは桜だ。
今日は桜の大きな決断を祝うため、移動中は怖いかもしれないが、映画なら安心して楽しめるだろうと俺がプランを練った。
提案しただけで、出資者は母さんなのがありがたい。
「そういえばお前、一週間くらい休んだのを五月病扱いされてキレてたよな。あれから、遊びに誘っても全部断られるって、曽根がボヤいてた」
ブッシって意外に人のこと見てるんだ。
マイペースなヤツと思ってたから、ちょっと意外だ。
「俺にも色々あるんだよ」
俺は口を尖らせた。
「単純そうなのに」
「るっせぇ! それより、お前はどうなんだよ。一人で来てんの? 寂しくない?」
「お前だって一人だろが」
「残念でした。母さんと弟が一緒で~す」
ドヤ顔したら、ブッシが盛大な溜め息をつきやがった。
「中学一年生にもなって、家族と一緒はないだろ?」
「ありだろ」
「ありなのは公開すぐとか、ランダムの入場者特典がある時だけだろ。通販あるのにグッズ戦争に強制参加を命じる親がいるとか。平気でネタバレトークされるからとか。ネタバレ、マジで腹が立つ!」
いきなり早口で何言ってるんだコイツ。
そんでもって、何一人でキレてるんだ?
「悪い。ウチの母親が怪盗と探偵推しでさ」
焦るブッシに、俺は噴きだした。
いかん。
マジでウケる。
こんなとこで爆笑したら目立つのに、腹がヒクヒクして堪えきれない。
「マジでブッシ、面白すぎだろ」
笑いを我慢しすぎたら、腹が痛くなってきた。
しゃがんだ俺に、ブッシが狼狽える。
「朔也」
母さんの呼ぶ声がした。
腹を抱えたまま、上体を捻る。
俺は「今行く」と言いかけて、俺は母さんの隣にいる桜が俺を見ていないのに気づいた。俺よりも上に視線を向けたまま、呆然としている。
愉快な気持ちがスーッと抜けた俺は、しゃがんだまま振り返り、桜が見ている何かを探して顔を上げていく。
ん?
なんで、ブッシまで立ち尽くしてるんだ?
俺はブッシの視線を追った。
えっ?
まさか?
どういうこと?
ブッシと桜が見つめあってる?
「おいブッシ」
俺が声をかけた瞬間、
「さくら?」
ブッシが呟いた。
一歩、二歩と、操られるようにブッシが前に進む。
「さくら!!」
ブッシが叫んだ。
間を置かず、
「あきともさん!!」
桜が声を上げた。
二人が駆けだ。
ぶつかる寸前。
ブッシが崩れるように両膝をついた。
桜がブッシに飛びついた。両腕をブッシの首にまわし、突然声を上げて泣きだす。赤ん坊の時以来の大号泣だ。
ブッシも桜の背中に両手をまわし、肩に顔を埋めている。
ちょっと待て。
どういうこと?
なんでブッシは桜を知ってんの?
ブッシって、あきともって名前だっけ?
二人は知り合いなわけ。
疑問だらけの俺は、驚いて立ち尽くす母さんと目を合わせた。
登校拒否になった日も声を殺して泣いていた桜が、今、人目もはばからず大号泣している。
俺は驚きながらゆっくりと立ちあがった。
ワンワン泣く桜と、それをヒシッと隙間なく抱きしめるブッシ。
母さんがキョロキョロまわりを見ながら二人に近づいて、俺を手招きした。
俺は頷くと、二人を観察しつつ母さんに駆け寄った。
「ちょっと朔也。この子誰? 桜とどんな関係? なんで桜が泣いてるのよ。今すぐ説明して‼」
「ちょっと俺もわかんないんだって」
「わかんないわけないでしょ! アンタ、ずっとこの子と喋ってたじゃない」
「本当にわかんないんだって。コイツとは中学で知り合ったし、同じクラスの席が後ろってだけで、ウチに遊びにいったこともないし。母さんこそ知らないわけ?」
言い合いをしているうちに、見物客が増えてきた。
「逃げるわよ」
母さんは俺の背中を二人に向かって押した。
「お母さん、あっちの角で場所取りするから、そこまで連れてきて」
言い終えると、窓がある端へと速足で向かっていく。
思わず、母さんに右手を伸ばした。
なんで俺に丸投げ?
残された俺は途方に暮れた。
これ、邪魔したら桜に嫌われるかな?
ブッシのヤツ、全然顔を上げないし。
俺は大きく呼吸すると、意を決してブッシに近づいた。
ブッシの肩を叩いて、隣にしゃがむ。
ブッシが俺を見た。
なんでお前まで泣いてるの?
マジでどうなってんだよ。
後で絶対に説明させてやる。
「桜を抱いて歩けるか?」
俺の耳打ちに、ブッシは驚いたように顔を上げた。
周囲を見遣り、俺に頷いた。
「ちゃんと、抱きついててね」
ブッシが桜に囁いた。
その声に、俺は悲鳴を上げそうになった。
顔中が熱くなる。
不可抗力だ。
声変わり中のコイツが、柔らかくて包み込むような優しいイケボをだすなんて想像出来なかった。
桜が小さく頷いた。
「ついてこいよ」
俺は立ち上がると、手を振っている母さんを見つけた。
昨夜の雷雨が嘘みたいに晴れた六月最後の日曜。
映画の余韻に浸る母さんをそのままにして、桜がテキパキと紙コップを回収し、俺が持つトレイに載せた。丸めたチュリトスの包装紙が端に追いやられる。
兄馬鹿と言われてもいい。
ウチの弟は優しく、気配りができて、存在自体が可愛い。
この可愛さは、歳が四つも離れているからか。
いや違う。
親戚のガキどもに足蹴りされたのを思いだしてイラッとした。
小学三年生なんて、煩くて、生意気で、ワンパクな時期だろう。
俺がそうだった。
俺のまわりも全員そうだった。
いや、大人しいヤツもいたか。けど、桜には及ばない。
桜は穏やかで、言うことをちゃんと聞いて、大変だったのは赤ん坊の時くらいだ。それでも、抱きあげて少しあやせば大人しくなった。
桜は生まれた時から出来たヤツと言ってもいい。
見た目もだ。桜はウチの血を引いているのか疑問になるほど可憐だ。
細く小さな手足に、日焼けしにくい肌。丸顔で小さな唇。サラサラな髪。パッチリとした大きな瞳に、長い睫毛。赤みのさした頬。
このまま順調に育てば、童顔で可愛いと清楚さを混ぜた感じになると見込んでいる。
桜には幸せになってほしい。
出来れば将来、年上で包み込んでくれる女性と結婚してほしい。
「じゃあ俺、先にゴミ捨ててくるから。母さん、パンフ買うんだろ?」
「当然じゃない!」
ハンカチを両手で握っていた母さんが、力強く答えた。
俺の腹が鳴った。
もう昼近くだ。
集中力が切れたからか、腹の減りを急速に自覚してきたぞ。
俺も母さんも、今頃仕事中の親父も、見た目から平凡だ。
桜が特別すぎるんだ。
母さんは、「アンタの桜の可愛がり方は異常よ」と言うが、こんなに可愛ければ当然だから納得出来ない。
映画を見る前に前掛けにしたボディバッグをそのままに、俺は立ちあがった。
「あれっ?」
五つほど前の席の通路から、出ていくヤツの横顔に見覚えがあった。
五月の席替えで俺の後ろになった男―ブッシだ。
名前は忘れた。
名字だけは覚えている。先生が呼ぶからだ。
藍染ブッシ。
ブッシと同じ小学校だったヤツらが、ブッシと呼んでいた。それがそのまま定着して、クラスでも大多数のヤツがブッシと呼んでいる。
ブッシは色々と勿体ない男だ。
一見、目立つのが苦手で、孤独を愛するオタク系のモテない地味眼鏡。
実際は、小学校時代の友達とよく爆笑してるし、新しい仲間とも気さくに会話している。
ブッシがオタクなのは本当だ。昼休みとかに、仏像の写真集とか熱心に眺めてたり、神様だらけの本を片肘ついて捲っている。
まわりに合わせることもできるが、基本マイペースなんだろう。
とはいえ、第一印象は大事だ。
結果、女子はブッシの隠されたポテンシャルに気づかず、必要がないかぎりブッシに話しかけない。
ブッシは顔がいい。
けど、長めの前髪で目が隠れてるから、気づかれない。女子が苦手で態と隠してるのかもしれないな。
全体的にショートヘアを少し放置したような野暮ったい髪型に加え、プラスチックの黒淵が太い眼鏡が重たい印象を与える。
裸眼の俺は、今年の初めに長めのスポーツ刈りを卒業して、ベリーショートヘアで落ち着いている。小学校時代、女子に子供呼ばわりされたのが嫌で、外見から変わってやろうと実行した。
髪型だけは、ブッシより爽やかでイケてる自信がある。
あと、ブッシは声もいい。完全な声変わりはまだだろうけど、小さな声でもよく通る。
それと身長。ブッシはクラスで四番目に高い。一五二センチの俺が少し見上げる高さだ。
しかも、頭もいい。授業中、先生に指名されたらすぐに答える。今のところ、間違えたり、「わかりません」と逃げた姿を見たことがない。俺とは雲泥の差だ。
そのうえ、運動もできる。春恒例の体力測定はクラスの同性でまとまって移動するから、個人能力がバレる。唯一、伏臥上体反らしの結果が酷くて、苦手もあるんだと安心した。
運動はまあまあ得意な俺は、握力と持久走でブッシとほぼ互角だった。
あと、ブッシは制服を着崩さない。だから、真面目に見える。ブレザーのボタンは着替えの時しか外さないし、夏服になってもネクタイを緩めない。
「桜、母さんをよろしくな」
感動しやすい母さんを桜に頼むと、俺はブッシを見失わないように歩きだした。
三人分のゴミを素早く分別しながら捨てると、通路を抜けて映画館内の売店にでた。
見回して探すが、買い物する客にブッシはない。
グッズに興味ないタイプか、先に購入するタイプか。
もうショッピングモールに繋がる出入口に向かってるかもとロビーにでれば、案の定、遠ざかるブッシの後ろ姿を発見。
俺は速足で近づくと、右手の人差し指だけ立てた状態で握り、そのままブッシの右肩を軽く叩いた。
肩をビクッとさせたブッシが振り返る。
作戦成功。俺の人差し指の先がブッシの頬にめり込んだ。
「よっ」
指をのめり込ませたまま、俺が空いている手をあげると、ブッシが胡散臭いものを見るように目を細めた。
「マジかよ」
ブッシはそっぽを向いて俺の指から逃れると、ノタノタと体の向きを半回転した。
「お前もアニメ映画観るんだな」
俺は、意外なブッシの一面にツッコミを入れた。
「母親が熱狂的なファンなんだよ。原作漫画は絵本代わり、主題歌は子守歌で育ったら、映画観るだろ」
「公開したの二ヵ月くらい前だろ。もしかして、常連?」
「二回目。で、お前は?」
「今日が初めて」
「遅っ!」
「色々ごたついてたんだよ」
嘘じゃない。二年ごとに小学校のクラス替えがある四月。弟はイジメに遭い、ゴールデンウィーク明けから不登校になった。
理由は名前だ。
今時、性別関係なく使える名前は多い。
響きは女の名前ぽくても、男だって人も多い。逆もだ。
本当は、俺が『桜』になる予定だった。
母さんが昔読んだ児童書で、ヒロインが「成海君と結婚したら、私、成海成美になる」と妄想するシーンがあったそうだ。それに憧れて、子供が生まれたら苗字と名前が同じ読みになるよう命名したいと思った。
名字が桜木だから、名前は桜。
さすがの母さんも、名前の読みに『さくらぎ』はないと思ったそうだ。
長男である俺が生まれた時、父さんが「次は女の子が生まれるかもしれないし、長男に桜は……」と母さんを説得して、成功。
俺は『朔也』になった。
そして、二人目が生まれた。
父さんは渋りつつ、「今時はそういう名前も増えてきたから」と母さんの願いを叶えた。
桜は名を体で表したように育った。俺も母さんも父さんも、桜にメロメロになった。
俺たち家族の幸せは、数人が始めた桜へのイジメで途絶えた。
「男なのに桜かよ」
クラス替え恒例の自己紹介。
桜が名前を口にした途端、一人のクソガキが大声を上げたそうだ。
クラス中が騒めき、桜が動揺する中、クズ担任が止めようとしたが、クソガキは「先生だって気持ちと思ったでしょ」と言い、クズ担任が「男の名前じゃないな」と答えたという。
調子に乗ったクソガキは、仲間とともに桜をイジメるようになった。
クズ担任はクソガキたちを見て見ぬふりした。
最初は、机やノートに落書きされたり、からかわれていたそうだ。
だが、すぐにイジメはエスカレートした。
登校するなりクソガキどもに押さえつけられた桜は、逃げないよう羽交い絞めにされた。仲間数人で、無理矢理穿いていた衣服をパンツごと全て足首まで下ろされ、パーカーを胸の上まで下着ごと捲られ、暴れると生意気だと拘束されたまま頭を殴られ、頬を叩かれ、教壇の横で見世物にされた。
ゴールデンウィーク明けの朝、桜の心はポキリと折れた。
最初に気づいたのは俺だった。
桜より家をでるのが遅い俺は、ドアの前で蹲る桜を発見して慌てた。サンダルに足を突っ込み、桜に駆け寄って声をかけた。
桜は体を震わせて、首を横に振った。
俺は狼狽えながら、声を張りあげて母さんを呼んだ。
母さんは現れるなり、サンダルを履かずに桜の前にしゃがみ、桜の両肩に手を置いて桜を呼んだ。
桜がようやく口を開いた。小さな声で「ごめんなさい」と呟く。少し間を開けて、また「ごめんなさい」と謝る。
ついに、壊れたように「ごめんなさい」を連呼し始めた桜が、涙声になった。
途端、母さんが朔良を覆い隠すように抱きしめた。
イベント会社勤務の父さんは出張中で、今日帰ってくる。それまで、この家で桜を守れるのは俺と母さんしかいない。
桜がしゃくりだした。
声を抑えようとして抑えられない声に、俺も母さんごと桜を抱きしめた。
そして、母さんと俺は桜より大きい声で泣いた。
理由を聞く前から泣けたのは、普段から桜が良い子過ぎたからだ。喜びで涙を浮かべることはあっても、声を漏らして泣くことがなかったからだ。
泣きながらも声を抑えようとする姿がいじらしくて、いつも弱音を吐かない桜が泣くほどの思いしたのかと悲しくて、泣かれるのがつらくて、落ち着くまで三人で泣き続けた。
桜はSOSをだしていた。
けど、俺も家族も気にはしていたけど、深く考えていなかった。
進級してから、桜はリビングでなく部屋で宿題をするようになったこと。いつもより元気が少ない笑顔をすることが増えたこと。全部、桜のSOSだったのに……。
リビングに移動して、ポツリポツリと桜が語るのを父さんに聞かせるために録音した。
ランドセルを開ければ、イジメの証拠だらけ。
「じゃあ、体操服が泥だらけだったのも……」
母さんがまた大泣きして、三人で互いに謝りながら、俺も桜も涙を零した。
それから今日まで、桜は学校を休んでいる。
明日からも当然休ませる。
帰宅部の俺は授業を終えると一目散に帰り、桜と勉強したり遊んだりする。
無神経に訪ねてくる学校関係者には、必要事項は父さんへメールするよう伝えて門前払いしている。
いつもは同級生と会うかもと出掛けるのに消極的な桜だが、今日は特別な日だからと俺の誘いに乗ってくれた。
家族会議を重ねて、今後同じことが起きないように家庭裁判所へ桜の改名を申請すると決めたからだ。
とはいえ、受理されない可能性もあるし、申請には新しい名前を記入しなければならなく、まだその名前は決まっていない。
決めるのは桜だ。
今日は桜の大きな決断を祝うため、移動中は怖いかもしれないが、映画なら安心して楽しめるだろうと俺がプランを練った。
提案しただけで、出資者は母さんなのがありがたい。
「そういえばお前、一週間くらい休んだのを五月病扱いされてキレてたよな。あれから、遊びに誘っても全部断られるって、曽根がボヤいてた」
ブッシって意外に人のこと見てるんだ。
マイペースなヤツと思ってたから、ちょっと意外だ。
「俺にも色々あるんだよ」
俺は口を尖らせた。
「単純そうなのに」
「るっせぇ! それより、お前はどうなんだよ。一人で来てんの? 寂しくない?」
「お前だって一人だろが」
「残念でした。母さんと弟が一緒で~す」
ドヤ顔したら、ブッシが盛大な溜め息をつきやがった。
「中学一年生にもなって、家族と一緒はないだろ?」
「ありだろ」
「ありなのは公開すぐとか、ランダムの入場者特典がある時だけだろ。通販あるのにグッズ戦争に強制参加を命じる親がいるとか。平気でネタバレトークされるからとか。ネタバレ、マジで腹が立つ!」
いきなり早口で何言ってるんだコイツ。
そんでもって、何一人でキレてるんだ?
「悪い。ウチの母親が怪盗と探偵推しでさ」
焦るブッシに、俺は噴きだした。
いかん。
マジでウケる。
こんなとこで爆笑したら目立つのに、腹がヒクヒクして堪えきれない。
「マジでブッシ、面白すぎだろ」
笑いを我慢しすぎたら、腹が痛くなってきた。
しゃがんだ俺に、ブッシが狼狽える。
「朔也」
母さんの呼ぶ声がした。
腹を抱えたまま、上体を捻る。
俺は「今行く」と言いかけて、俺は母さんの隣にいる桜が俺を見ていないのに気づいた。俺よりも上に視線を向けたまま、呆然としている。
愉快な気持ちがスーッと抜けた俺は、しゃがんだまま振り返り、桜が見ている何かを探して顔を上げていく。
ん?
なんで、ブッシまで立ち尽くしてるんだ?
俺はブッシの視線を追った。
えっ?
まさか?
どういうこと?
ブッシと桜が見つめあってる?
「おいブッシ」
俺が声をかけた瞬間、
「さくら?」
ブッシが呟いた。
一歩、二歩と、操られるようにブッシが前に進む。
「さくら!!」
ブッシが叫んだ。
間を置かず、
「あきともさん!!」
桜が声を上げた。
二人が駆けだ。
ぶつかる寸前。
ブッシが崩れるように両膝をついた。
桜がブッシに飛びついた。両腕をブッシの首にまわし、突然声を上げて泣きだす。赤ん坊の時以来の大号泣だ。
ブッシも桜の背中に両手をまわし、肩に顔を埋めている。
ちょっと待て。
どういうこと?
なんでブッシは桜を知ってんの?
ブッシって、あきともって名前だっけ?
二人は知り合いなわけ。
疑問だらけの俺は、驚いて立ち尽くす母さんと目を合わせた。
登校拒否になった日も声を殺して泣いていた桜が、今、人目もはばからず大号泣している。
俺は驚きながらゆっくりと立ちあがった。
ワンワン泣く桜と、それをヒシッと隙間なく抱きしめるブッシ。
母さんがキョロキョロまわりを見ながら二人に近づいて、俺を手招きした。
俺は頷くと、二人を観察しつつ母さんに駆け寄った。
「ちょっと朔也。この子誰? 桜とどんな関係? なんで桜が泣いてるのよ。今すぐ説明して‼」
「ちょっと俺もわかんないんだって」
「わかんないわけないでしょ! アンタ、ずっとこの子と喋ってたじゃない」
「本当にわかんないんだって。コイツとは中学で知り合ったし、同じクラスの席が後ろってだけで、ウチに遊びにいったこともないし。母さんこそ知らないわけ?」
言い合いをしているうちに、見物客が増えてきた。
「逃げるわよ」
母さんは俺の背中を二人に向かって押した。
「お母さん、あっちの角で場所取りするから、そこまで連れてきて」
言い終えると、窓がある端へと速足で向かっていく。
思わず、母さんに右手を伸ばした。
なんで俺に丸投げ?
残された俺は途方に暮れた。
これ、邪魔したら桜に嫌われるかな?
ブッシのヤツ、全然顔を上げないし。
俺は大きく呼吸すると、意を決してブッシに近づいた。
ブッシの肩を叩いて、隣にしゃがむ。
ブッシが俺を見た。
なんでお前まで泣いてるの?
マジでどうなってんだよ。
後で絶対に説明させてやる。
「桜を抱いて歩けるか?」
俺の耳打ちに、ブッシは驚いたように顔を上げた。
周囲を見遣り、俺に頷いた。
「ちゃんと、抱きついててね」
ブッシが桜に囁いた。
その声に、俺は悲鳴を上げそうになった。
顔中が熱くなる。
不可抗力だ。
声変わり中のコイツが、柔らかくて包み込むような優しいイケボをだすなんて想像出来なかった。
桜が小さく頷いた。
「ついてこいよ」
俺は立ち上がると、手を振っている母さんを見つけた。
