【藍染明友】
空腹で食べるお蕎麦は最高だった。
いつもは笊蕎麦だけど、空腹すぎて汁も飲みたい俺は、温かい蕎麦に鶏天とイカ天とエビ天とちくわ天をトッピングした。
「野菜が見事にないですねえ」
そう言って笑う蓮顕さんは、大根おろし笊蕎麦を注文した。
移動代すべてを払ってもらいながら、さすがに蕎麦まで払ってもらう訳にはいかなくて、自分で払おうと財布を取りだしたら、蓮顕さんがトイレのついでだったと、すでに払ってくれていた。
蓮顕さんのリクエストで、新幹線で豆大福とペットボトルのお茶だけは奢らせてもらえたが、金額の差を考えると申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
俺は相当疲れていたみたいで、帰りの新幹線は品川駅の手前まで寝てしまった。
帰っても問題ない時間なのを確認して、アパートに帰って台所に直行したら、早く帰っていた兄ちゃんにニヤニヤされ、お袋からは盛大な悲鳴を上げられてしまった。
悲鳴は悲鳴でも、黄色い悲鳴だ。
「何? ヤダッ? どうしたの? ついに解禁なのね。全部解禁なのね。ヤバいわ。どうしましょう。ウチの子、二人とも元がいいから、母さん生んだ甲斐があるわ。こういう時に限って、お父さんは遅いんだから」
母さんが一人で興奮しまくって、俺の両肩を掴んだ。
「車がなくても、歩きでも全然余裕で間に合うわ。ご飯は後。新しい眼鏡を買いに行くわよ。その眼鏡もいいけど、ちょっと田舎臭いのよねえ。その髪型なら、インテリ系のハンサム眼鏡が合うと思うの。シルバーの細いスクエアで、角に丸みがあるヤツね。レンズ込みで三万円以内なら、奮発してあげるから」
ボサボサ風の髪をちょっとスッキリさせて、前髪を眉毛が隠れる程度にしただけなんだけど、そんなに盛り上がることか?
自分の親だけど、引いてしまう。
「お前、やっぱり裸眼が一番いいわ」
お兄ちゃんに言われて、ヤバッと思いだす。
蓮顕さんと別れてから、ネットで探した安くて空いてる美容院に飛び込んで、案内された椅子に座った時だった。鏡に映る自分を見て、コンタクトも眼鏡もしていないことに気づいた。
美容院に出るときに眼鏡をかけて、このまま知り合いと会いたくないなと家路を急いでいたら、コンタクトのことが頭から抜けてしまった。
俺の後ろには良太とその母親が守護霊としてついているし、桃花さんと蓮顕さんにも知られ、多分病室でその話を聞かされただろう宗也さんのことを考えると、朔也と朔良に知られるのも時間の問題だしと、コンタクトを外して生活しようと考えていたが、母さんがこんなに盛り上がるとは思わなかった。
「もう……本当に……母さん嬉しくて……」
突然、お袋が涙声になったかと思ったら、本格的に泣きだして、俺はワタワタしてしまった。
そこに、「ただいま~っ」と親父の声が聞こえたかと思うと、お袋が猛ダッシュで玄関に向かった。
追いかければ、「今すぐ眼鏡屋さんに連れてって~」と号泣するお袋を抱きしめて、肩をトントンする親父がいた。
「一体どうしてた……」
顔を俺に向けた親父が固まった。
そして、「眼鏡屋だな。どこがいい。今ならまだ梯子出来るぞ」と母さんを宥めだした。
後ろから現れた兄ちゃんが、その辺の女にやったら一発で惚れられてしまうだろう顎クイを俺にして、顔をマジマジと見つめてきた。
「盛大な親孝行、おめでとう」
それだけを言って、俺の背中を軽く叩いたお兄ちゃんが「俺もついてくから準備してくる。待ってて」と部屋に向かっていった。
愛されているって、こういうことなんだよな。
実感して、俺は溢れてくる涙を食いしばって堪えた。
うん。
コンタクトがないって便利だ。
溢れてきた涙をこっそり拭っても、コンタクトがズレたり外れる心配がないのだから。
翌日の朝から、藍染家は俺を取り残して盛り上がっていた。
居間では、俺が完成させた鬼子母神像の撮影会が繰り広げられている。
さっきまで、玄関の端で白い布と毛布で覆われて置かれていたはずなのに……。
お袋の「これ何? こんな大きいの持ってくの?」の質問に、「学校行く前に、桃花さんが完成した鬼子母神像を取りに来てくれるんだ」と答えた。瞬間、お袋の目の色が変わった。「見せなさい!!」と、勝手に木仏の身包みを剝がされて、今に至る。
すべては俺のミスだ。
いや、不可抗力だ。
昨日、別れ間際に蓮顕さんから「明日、呪いを終わらせます」と言われた。そのために、俺が彫った木仏を貸してほしいとい頼まれたら、貸す以外の選択肢はない。
夜に送られてきたメッセージには、桃花さんが朝、木仏を受け取りに来てくれることと、一緒に車で来るように書かれていた。
俺が病室に入っても大丈夫か心配になったけど、指示にあるんだし、何かやらかす前に剣の護法童子が俺をぶっ飛ばしてくれるだろう。
だから、待たせたらいけないと時間に余裕をもって準備した。
そしたら、余裕がありすぎてこんなことになった。
俺が朔良のために木仏を彫っていたことは、家族全員が知っている。
だから、渡すことには文句言われなかった。
だが、完成したら一番に披露する相手は家族だと叱られた。
お袋は「勝手に布を剥ぐって見ちゃいけないと思って、時々しか捲らないようにしてたんだから」と拗ねた口調になったかと思うと、「こんなに凄いの彫っちゃうなら、仏師になるべくして生まれたと思って応援するしかないわよね」と諦めた顔をしたかと思いきや、親馬鹿発言でべた褒めしてきたりと大変だった。
親父も兄ちゃんも、母さんの肩を持つし……。
居たたまれなくなった俺は、俺台所に批難してお茶を飲むしかなかった。
チャイムが鳴った。
「桜木さんでしょ? ちょっと時間稼ぎしてきて」
お袋の指示が居間から飛んできた。
桃花さんだろうと、確認せずに「おはようございます」とドアを開けた。
途端、
「明友さん‼」
飛び込んできた朔良にタックルくらった形で尻餅をついた。
朔良は俺の胸に顔を埋めて抱きついたまま、肩を震わせていた。
今日、呪いが終わるまで会えないと思っていた朔良の温もりに、俺の我慢は呆気なく崩壊した。
俺は弾かれたように朔良を抱きしめると、歯を食いしばった。
朔良の首筋に鼻を当てて、朔良の匂いを吸い込む。
「会いたかった」
先に嘘をついて避けて、不安にさせてしまったことを謝らなければいけないのに、口から洩れたのは、俺の本心。
どんなに朔良のことを考えて行動したところで、一番の願いは変わらない。
「ずっと……ただただ会いたかった」
ヤバい。
涙腺が緩んできた。
「朔良を抱きしめたかった」
朔良だけに聞こえるように囁くと、朔良の腕に力が入ったのが伝わってきた。
「僕も、明友さんに会いたくて……会いたくて……」
朔良が顔を上げて俺と目を合わせた。
朔良の目に涙が溢れていく。
朔良が涙を隠すに俺の肩に顔を当てて、ギュッと俺のブレザーを掴んだ。
可愛すぎて、尊すぎて、愛しくて、俺は再び朔良を強く抱きしめた。
その時だった。
「あの~っ、熱い抱擁中に申し訳ないんですが」
朔也の声に顔を上げたものの、朔也より朔良だと朔良を見つめる。
「ちょっと待て! 勝手に俺の存在をないものにするなっ」
朔也にツッコまれて、俺は渋々顔をあげた。
「俺のビックリが朔良の暴走で半減してるんですけど」
「ビックリすることなんてないだろ。こっちはお前がいてビックリなんだけど」
蓮顕さんからは、桃花さんが来るとしか聞いていない。
「いやいや、こっちがビックリだって。色々ツッコミたいけど、イメチェンにカラコンはやり過ぎだろ」
焦る朔也に、俺は一瞬意味がわからなくてポカンとした。
ああ、そうだ。
自分で自分は見えないから忘れてた。
髪を切って、コンタクトをやめて、お袋と兄ちゃんが一緒になって選びに選んだ眼鏡をかけてたんだ。
俺は朔良の背中を撫でながら、小さく唸った。
「カラコンを外しました」
とりあえず、間違いを訂正する。
「えっ?」
朔也が豆鉄砲を食らったような顔になる。
「ずっと隠してたけど、青い目が裸眼で、黒いのがカラコンなの」
「……オジサンかオバサンが外で作った子? それとも、養子縁組の貰わっれ子?」
「遺伝だよ」
「オバサンもオジサンも日本人じゃん」
「ご先祖様に外人がいて、時々こういうのが生まれるの。わかる? 中学ん時の生物の授業で習ってるよね。A型とB型が結婚してO型が生まれてもビビらないだろ? 劣性遺伝子かはわかんないけど、つまりはそんな感じだ」
「ちょっと待て……ああ……理解した」
コイツ、絶対今、なんでO型と思って考えただろ。
「つまりだ。そんなカッコイイ隠し玉を今になって披露して、髪切って、眼鏡まで変えて……。どっかの芸能事務所にでも入ったか?」
どうしたら、そうなるんだ。
こんなポジティブ思考のヤツに、今まで必死になって隠してたなんて馬鹿みたいじゃないか。
朔良の温もりで心が満たされた俺は、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。
今までにない余裕が、俺の中に生まれる。
うん。
もう大丈夫。
コンタクトがなくても外で生活できる。
自身が芽生えた。
「まったく、いい加減にしなさい!」
後ろで笑いを堪えていた桃花さんが、朔也の脳天に拳骨を落とした。
「ゴメンなさいね、明友君。朔良が明友君のメッセージを見てから情緒不安定になってしまって、本当は家に残らせるつもりだったんだけど、蓮顕さんが万が一のことがあったら困るからって許可してくださったの。そしたら、この子までついてきちゃって……」
桃花さんが困った顔で頬に片手を当てた。
蓮顕さんのことだから、仕方がないと許可したのか、こうなると見越していたのかわからない。
「蓮顕さんが来てから、ウチん中、マジでヤバくて、ポルターガイスト祭りよ。多分今、日本一幽霊に耐性がある一般人だと思う訳よ」
朔也が胸を張る。
それって、威張れることか?
何があったかは後で訊こう。
ここだと、家族に聞かれたらマズい。
「誰が?」
わかっているけど、一応訊いておく。
「俺が」
やっぱりの答えに、俺は苦笑した。
「ほら朔良、そろそろ明友さんから離れて」
やんわりと注意する桃花さんに、朔良が嫌々と首を振って俺を離さない。
「朔良にいっぱい心配かけて、不安にしてゴメンね」
俺の声に、朔良が頭を俺にくっつけたまま頷いた。
「そうだそうだ。全部お前が悪い」
朔也がしゃがんで、朔良の頭を撫でた。
「いつもは口でも文字でもゲロ甘な言葉を羅列するお前が、たった一文しか送らないって天地がひっくり返るくらいヤバいだろって、俺も思ったからさあ。まあ、なんだ。明友が元気で良かったな、朔良」
朔也の手が離れていくのが名残惜しいのか、ようやく朔也が俺から顔を反して頷いた。
「ところで朔良。お前は明友の変わりっぷりに驚かないわけ?」
ヤンキー座りになった朔也に、鼻の頭や頬や耳を真っ赤にして、目を潤ませていた朔良が首を傾げた。
「ほら、目の色が違うし、眼鏡も違うし、前髪短いし」
「明友さんがいてくれるなら、どれでもいい」
俺が変わったことより、俺がいないことが重大だってことか?
この可愛い答え、神過ぎるだろ!
俺が感じ入っていたら、朔良がすぐに「あっ」と小さく声をあげた。
「前髪が長いと、掻きあげてくれてもすぐに目がほとんど隠れちゃうから、今みたいに目が見えてるのがいい」
「わかった。これからずっと、目が隠れないように髪を切るよ」
朔良の手を握って誓いを立てた俺の頭を、誰かが叩いた。
「痛っ!」
振り返ると兄ちゃんが立っていた。
「おはようございます。今、お渡しの仏像を用意してますので、もうちょっとお待ちください。あと、朝からウチの弟が朔良ちゃんを誑してスミマセン」
蓮顕さんばりの外面スマイルの兄ちゃんが、俺の肩を叩いて後ろを指さした。
見れば、お袋がこちらを覗いて、手招きしている。
「最後に、仏師としてのお前も入れた写真が撮りたいんだと。サッサと親孝行しないと遅刻するぞ」
ああそうでした。
朔良を味わっていたら、時間を忘れてました。
病院の面会時間は午前一〇時から。
蓮顕さんは電車で先に病院へ向かったそうだけど、どういう手を使って病院に入るつもりだろうか。
受診の振りをして、病室まで向かう気だろうか。
早く着き過ぎないように、途中で駐車場のある店舗に入り、買ってきたドリンクとスイーツや菓子で休憩を取ってから、病院の駐車場へ向かった。
その車内で、俺はとんでもないものを目撃してしまった。
バックミラーが勝手に動いたのだ。
そして、そこに映る着物姿の五歳くらいのおかっぱの女の子。しかし、車内にいるのは桃花さんと朔也と朔良と俺の四人だけ。
息を飲んで固まる俺に逸早く気づいたのが、俺に凭れて眠りかけていた朔良だった。
朔良は両手で俺がプレゼントしたヌイグルミを持ち、俺に凭れてうつらうつらしていたが、すぐにパッと上体を起こした。
「座敷童さん、ダメだよ。勝手にバックミラー触っちゃ」
朔良が注意した途端、バックミラーに映る女の子は消えた。
「言い忘れてたけど、この車、座敷童が乗ってるから」
なんでもないように朔也が言うと、朔良は朔也にすべてを任せたようにまた俺に凭れてきた。よほど眠いのだろう。
だが、俺は逆だ。
目も頭も冴えてしまった。
「座敷童って、蓮顕さんのですか?」
「そうなのよ。万が一、何かあったらいけないからってウチに置いていってくださってね。全然姿は見えないんだけど、電気がついたり消えたりしたり、誰もいない階段で走る足音がしたりねえ」
桃花さんが愉快そうに笑った。
そんな話を聞いてしまうと、短期間で色んな目に遭いすぎて、壊れたか吹っ切れた人の笑いにしか見えない。
「一番凄かったのはアレな。お前が心配で泣きじゃくる朔良が、ずっとお前から貰ったヌイグルミを持ってるから、座敷童にヌイグルミ好きだと思われたんだろうな。俺、蓮顕さんにベッドを貸してたから、朔良の部屋で一緒に寝てたんだけど、夜中に目が覚めて、トイレに行こうと電気をつけたらヌイグルミだらけよ。ウチ中にあるヌイグルミが集められてて、あれはマジでビビった。ビビりすぎてへたり込んでさあ。声も出なかった」
朔也まで愉快そうに笑って、俺は顔を引き攣らせたまま話を聞くしかなった。
ほぼ面会開始時間についた俺たちは、いかにも怪しい大荷物を二人掛かりで持って、宗也さんの病室に辿りついた。
「今日が退院日なんだけど、無事に退院出来るかしら」
絶対に恐怖の感覚が麻痺しているだろう桃花さんが、パイプ椅子に座って笑っている。
こんな光景見せられたら、もう覚悟を決めるしかないよな。
ドアのガラスは何枚ものコピー紙で塞がれいた。
窓のカーテンは閉ざされ、壁すべてに無数の札が貼られている。
床には水と塩が撒かれていて、すべてが終わったら掃除はもちろんだが、病院側から叱られそうだ。
ベッドテーブルはベッドのフットサイドに寄せられていて、そこには小さなツボが置かれ、香が焚かれていた。
香水の匂いが苦手な俺は、安い香や奇抜な香りの線香もダメなんだけど、花のようなこの香りは欲しいと思った。
蓮顕さんは改良衣でなく、大衣に袈裟を羽織っていた。大きな儀式などでする格好だ。見た目は似ているが、大きな違いは、着物の袖の長さだ。
「みなさん、ヒトカタの準備は出来ましたね。霊にバレないように外から見えない状態で携帯してください」
蓮顕さんに言われて、来てすぐに書かされたヒトカタをちゃんとブレザーのポケットに入れたのを確認する。
そういえば、昨日のヒトカタ、入れっぱなしだっけ。
反対側のポケットに手を突っ込み、取りだしたヒトカタを見て、俺は「うわっ!」と声をあげてしまった。
左端だけ白く、あとは真っ黒に変色していた。これは……変色じゃない炭だ。
「いい見本がありますね」
俺の持っているヒトカタへと、蓮顕さんが片手を向けた。
「何かあった場合、このようにヒトカタが身代わりになり、本人を助けてくれる。それはもういらないですから、そのまま手を動かさないでいてくださいね」
言われるまま持っていると、突然ヒトカタが発火して消えた。
あまりに一瞬で、悲鳴を上げる間もなかった。
見遣れば、桜木家全員が目を丸くしている。
「昨日、明友さんはいっぱい手伝ってくださいましたからね。ありがとうございます」
蓮顕さんに頭を下げられて、俺もつられて頭を下げた。
宗也さんはベッドヘッドに身を寄せていた。
「明友君、色々迷惑をかけて済まないね。何回も学校休ませた上に、桜木家の先祖が碌でもないヤツらばかりで」
血の気の失せた宗也さんに頭を下げられて、俺は慌てて頭を振った。
「ここにいる全員が被害者なんで、誰も悪くないです」
「キミがそう言ってくれると救われるよ」
宗谷さんは力のない笑みを浮かべた。
「祖先がいなかったら、今こうして出会えなかったので、悪いことばかりではないと思います」
この気持ちは本当だ。
窓側の空いたスペースの端に、借りてきたのだろう低めの上り台が置かれていた。
蓮顕さんの指示に従って、朔也がそこにバスタオルを敷き、ベッドの上で毛布を解いた鬼子母神像を朔也が一人で持ち上げて運んだ。
「正面は角の対角線に向けてください。はい、大変結構です。それにしても素晴らしい出来ですねえ。彫りかけだったとはいえ、画像で観たの全然違います。見る人が見れば、何百万と支払うでしょうねえ」
蓮顕さんの世辞は話半分で聞くのがよさそうだ。
「本当に凄いわねえ。あとでゆっくり見せてもらいましょう」
桃花さんが動きの取れない宗也さんに、話しかける。
朔良が角度を変えながら鬼子母神像を見つめて、うっとりした表情をしている。
「これ、僕のなんだよね」
朔良が嬉し気に俺を見た。
答えようと口を開けた時、
「名前が彫ってあったじゃん。『朔良へ 明友』って」
朔也が口を挟んだ。
「お前、それを見たのか?」
羞恥のあまりに、俺は朔也の腕を引っ張って小声で訊いた。
顔が熱い。
仏像は置くものだから、一生気づかれないと思ったのに……。
「毛布から取りだす時、仏像が横になってたろ。台座の下に何か書いてあるなあと思って、しゃがんだら見えた」
ケロッとしている朔也は悪気がないのだろう。
けど、みんなの前で暴露してほしくなかった。
素人の俺が刻印するなんて、プロを気取っているみたいだろう。カッコ悪すぎて、穴があったら入りたい。
「僕も見たい」
朔良がキラキラした目でおねだりしてくる。
「これから蓮顕さん行う儀式が終わったら、見ようか」
「うん」
ご満悦な朔良に、俺は完敗した。
朔良が見たいならいいんだ。
もう、ヤケクソだ。
「ではそろそろ始めたいと思いますが、お手洗いに行きたい人がいたら、今行ってください」
蓮顕さんが緊迫感のないにこやかな笑顔で、見渡した。
「誰もいないようですので、軽く説明させていただきます。病院側には、しばらく近づかないでほしいと伝えています。勝手にドアを開けられますと困りますので、今から封印します。もしものために、剣の護法童子にはドアを開けようとする者がいたら、邪魔をするように伝えてあります。座敷童にはそのお手伝いをするように伝えてあります。何かあったら、どの病室でもいいから駆け込んで、ナースコールを押しまくったり、相手の持ち物を奪って逃走し、こちらから気を逸らせるのが仕事です」
「座敷童にピッタリの仕事すぎる」
朔也の呟きは、被害に遭った人間の重さが滲んでいた。
「まずは今、扉を封印します」
蓮顕さんは言うなり、ドアにお札を貼った。左手に数珠をかけ、右手をピースの人差し指と中指をくっつけた手刀にして、その先で宙に文字を書きながら念仏を唱える。
そしていきなり「キン」と叫んだ。
「はい。これで外側からはドアが開きません。床の水や塩、壁やドアの札は霊が通り抜け出来ないようにするためのものです。ただし、天井には札がございません。儀式が始まりましたら、この部屋の護りを弱めますので、天井の弱まった護りを破って霊が現れます。ずっと手出し出来ずにいましたから、このチャンスを見逃さないはずです。霊は短絡的ですからね。全部の呪いがこの部屋に入ったところで再び護りを強めて、霊の逃げ口を塞ぎます。
「私と一緒にいらっしゃる毘沙門天様には、ここにいる人間に被害が及ばないように手伝っていただきます。朔也さんはこれからの出来事が一段落したなと思うまで、桃花さんと宗也さんの傍にいてください」
「朔良さんは自由にしていても構いませんが、これから鬼子母神像の開眼を行いますので、それが終わったと私が言うまでは、朔也さんには近づかず、一言も発しないでください。宗也さんと朔也さんもです。開眼を行うと、鬼子母神像に鬼子母神様の魂が宿ります。今回、鬼子母神様の力を借りて解決していきたいと思います」
毘沙門天と鬼子母神の組み合わせは、相性がいいだろう。
毘沙門天と鬼子母神が夫婦だという話や、毘沙門天の部下と鬼子母神が夫婦で、その子供である吉祥天は毘沙門天の妻だという話もある。
どれが正しいかはわからないけれど、妻の母親が鬼子母神であれば、妻との仲のためにも鬼子母神に力を貸すだろう。鬼子母神も子供の幸せを思うなら、子供の旦那とは仲良くするだろう。
「開眼が終わるまでの間、明友さんには霊の標的になってもらいます。眼鏡を外して、霊の息子である良太と思わせてください」
「俺だけ演技力がいるんですね」
「大丈夫ですよ。自分と同じ血を感じて、目が青ければ良太だと思うでしょう。足止め役ですから注目されれば十分です。霊が騙されなかったとしても、体を乗っ取れる血族として、アナタは大変魅力的です」
「今のところ大丈夫ですけど、俺、乗っ取られて、宗也さんを殺したりしないですよね」
「安心してください。昨日から守護霊になった霊と、襲ってくる霊は同じだったもの。彼女が守ってくださっている限りは、アナタが諦めさえしなければ大丈夫です」
「ハードルが高いですね」
「頑張りましょう」
ダメだ。
蓮顕さんには嫌味が通じない。
「では、始めましょうか」
蓮顕さんは数珠をかけた手を合わせ、低い声で念仏を唱えだした。
カーテンから漏れる光。
カーテンの向こうで、黒い何かが横切ったのが見えた。
けれど、ここは五階だ。
天井から、大きな鉄の塊をいくつもぶつけられてるんじゃないかと思うほどの音が幾つもして、室内が震度五強くらの強さで縦に揺れた。
「地震?」
呟いた俺に、蓮顕さんが唱えながら首を横に振った。
つまり、これは霊の仕業ということだ。
五分ほど続いたそれが止まったと思った瞬間、雷が落ちたような音が部屋中に響いた。
桃花さんが悲鳴をあげた。
俺は身を竦めて、ベッドを見遣った。
四人が身を寄せ合って、不安な表情で俺や蓮顕さんを見つめていた。
突如、店長から黒いネットリした何かが、蜂蜜のように垂れてきた。
それは床に到達して、大きく広がっていく。
「なんだこれ」
足元まで広がってきたそれから二歩離れて、もう垂れてこないかと上を見上げれば、ドラム缶ほどある顔がヌッと現れ出てきた。
それは、長い黒髪を垂らし、水膨れた般若のような形相で、目のまわりの肉が溶けて落ち、青い目が剝き出しになっていた。
蓮顕の念仏が激しいものに変わる。
般若の唇から、黒いネットリとした液体が垂れてきた。
これが、さっき垂れてきたヤツか。
一気に押し寄せる重たい淀んだ空気と、腐った生ゴミとヘドロが合わさったような臭いに、俺は腕で鼻と口を覆いながら、広がる液体から更に離れた。
窓を閉め切った室内なのに、突風が渦のよに吹き、カーテンが舞った。棚に乗っていたタオルや小物などを、部屋中に散乱していく。
天井の顔が更に降りてきて、口を広げた。
口の中は真っ暗だった。
顔が這いずるような音を立てて、宗也さんに近づいていく。
俺はガクガクと震えそうになる膝を踏ん張って止めると、
「その人を襲うなよ。母さん」
女に向かって声をかけた。
女の顔がこっちを向いた。
女の顔の化け物が黒く溶けて垂れ、すでに落ちている溜まりと一緒になる。
俺は逃げきれず、溜まりに片足が浸かった。
顔が溶け切ると当時に、落ちた溜まりが泥人間のような形になり、それが人の形へと変わっていく。
現れたのは、昨日良太と同調して見えることができた良太の母親だった。
女は涙を流しながら嬉しそうに俺を抱きしめてきた。
昨日、経験していなかったら、悲鳴をあげていただろう。
多分、これは抱きしめ返すのが正解だろうと、俺は女の背中に腕を回した。
俺は震えを止めようと歯を食いしばった。
触れる振りをして重なった部分が、氷のように冷たい。臭気で息が出来ない。
もしかして、俺のヒトカタはもう全部灰になってるのかも。
『お母さんよ。大きくなったわねえ。逞しくなったわねえ。さあ、一緒に私たちを不幸にした桜井家に復讐しましょう。今度こそ、お母さんがアナタを守ってあげる。アナタの優しい気持ちを……アナタからの唯一の贈り物を……アイツらは壊した。やっぱり、根絶やしにしなきゃ駄目なのよ。良太なら、お母さんの気持ちがわかるでしょう?』
「わかるよ。でも、もういいんだ。やめよう。このままだと、母さんは地獄に落ちてしまう。俺、母さんには極楽に行ってほしいんだ」
女が俺から体を離した。顔が天井に現れたのとそっくりになる。
俺は目を見開くと、悲鳴を堪えた。
『なんでそんなこと言うの? 地獄とか極楽じゃないの。アナタの幸せのためなら、お母さんは不幸になっていいの。それが私の幸せだから』
女の声が低くなって震えた。
俺、もしかして女を怒らせたかも。
『だから、その体を貸しなさい。お母さんのお願い、聞いてくれるわよね。肉体がないと相手が死んでくれるのに時間がかかって困るの。アナタは何もしなくていい。私がその体で殺すだけだから。アナタは幸せになれるのを待っていればいいの』
狂ってる!!
言ってることが支離滅裂だ。
「意味わかんないんだけど。アンタが俺の体で殺したら、その罪は俺が被るんだよ? 俺が殺したことになるんだよ? どのみち、俺が不幸になるんだよ? 何が母親だよ。子供の不幸を願う母親なんて、ただの私欲に子供利用してるだけじゃん‼」
叫んだ俺の前に、朔良が飛び出してきた。
両手を横に伸ばして、俺と女の間に立つ。
「朔良‼」
俺は慌て朔良を抱きしめると、女に背を向けて身を低くした。
今、狙われているのは宗也さんだ。
けど、ここで割って入ってきたら。殺される順番が変わる可能性がある。
『誰だ。それは』
女が朔良に顔を近づけてきた。
俺は朔良の頭を隠すように腕を動かした。
もしかしたら、女は朔良が桜木家の血を引いているとわかってないのかも。
だとしたら説明がつく。
亡くなった桜木家の人々はみんな、自分が殺される番になって女の霊を目撃していた。
だとしたら、女が一人ずつしか認識できないという可能性もないか?
宗也さんが死に、次に朔也が死なないかぎり、この女は朔良を殺すべき桜木家の人間だと認識出来ないことなる。
でも、今ここで朔良が飛びだしてきたってことは、朔良に見えてるわけだ。
いや違う。
桃花さんにも見えていたから、蓮顕さんが準備したこの空間だけ、誰でも女が見えるのだろう。
だったら、開眼するなと言ったのは何故だ。
特別な空間だからこそ、声を発したら桜木家の人間だとバレるということか?
「アナタに関係ないでしょう」
俺はキッパリ言い切って、朔良をただただ強く抱きしめた。
温かいを超えて、熱く感じる小さな体が尊い。
俺のことが心配で、蓮顕さんの約束を守って声だけは出さずに、俺を守ろうとしたのだろう。
このまま、蓮顕さんが開眼をするまで持ちこたえれるか?
いや違う。
持ちこたえて見せる。
俺はずっと、こうして櫻を守りたかった。
強く思ったところで、俺は違和感がした。
……櫻って誰だ?
この感じ、もしかして昨日の良太の時と同じヤツ?
だとしたら……。
「クソッ‼」
俺はデカい声で叫んだ。
守護霊だろうがなんだろうが、これだけは譲れない。
朔良を守るのは俺だ。
「これは俺ので、お前には関係ねえんだよ」
『お母さんに対してお前って……』
女が信じられないものを見るような目でよろけた。
『そうか……あの男か。お前を桜木家から連れだしてくれて感謝していたが、アイツがお前にそういう態度を教えたんだな?』
女の目が吊り上がった。口が裂ける。眼球が飛びだし、爪が武器のように長く伸びる。
落ち着け俺。
相手はまだ呪い殺せるほど強くない。
血族の体を乗っ取れるようになったのは、力をつけてきた証拠かもしれない。
けど、宗也さんの弟以外の死は、すべて不注意で説明がつく。女が見えたことで驚いて足を滑らせたとか。女に立ち向かったらそこには女がいなくて落ちたとか。
子供の飛びだしは女が手招きしたのかもしれないが、後はすべて見えたり感じたりしたものだろう。精々、女にできたことは、脅すことと、手形や足形を残すこと。
感受性の高い人間がいたら、女が見えていたかもしれない。それくらいの存在だ。
人が死に過ぎて惑わされたけど、これが真実だろう。昔の呪いも同じだ。女の霊を相手にしなければ死ななかった。
今、体験しているからそう言える。
「自信過剰もいい加減にしろよ。お前なんか、全然怖くねえんだよ。馬鹿じゃないの? みんな自分が殺したと思いあがってるんだろう。ほとんど、勝手に死んでくれただけじゃん。それもわかんなくて、よく強気な態度をとれるよな」
俺は朔良をそのままに立ちあがって、女を正面から見遣った。
「それに俺、アンタの血筋だけど、アンタの息子じゃないし。命令すんの、やめてくれる?」
俺が女に喧嘩を売った瞬間、女は耳鳴りがするほど悲鳴に似た甲高い叫び声をあげた。
「開眼!!」
蓮顕が叫んだ。
途端、鬼子母神像が一回りも二回りも大きくなり、ふくよかで美しい女性になった。
それと同時に、四方八方からバッドか何かで叩きつけるような音が雨のようにする。
それは、数秒の出来事だった。
壁、天井、床、ドアに、無数の赤黒い手形と足形が隙間なくついていた。
蓮顕さんが更に呪文を唱えていく。
異変を感じたのか、女が鬼子母神像へと振り返った。
人間の姿となった鬼子母神は、片腕にキャッキャと笑う赤ん坊を抱いていた。
朔良が立ちあがり、明友の手を握った。
明友はその手を握り返し、朔良と一緒に神々しい鬼子母神を見つめた。
『なんでアンタが抱いてるの? その子、私の子よ。私の良太を返して‼』
女が鬼子母神に掴みかかった。
途端、女の姿が鬼子母神の中へと消えてく。
最後、残った右足の先が消えかかった時、鬼子母神の中から女の泣き叫ぶ声が聞こえた。
「返してっ! 私の良太を返してー‼」
そして、つま先が消えた。
蓮顕さんがパンと手を叩いた。
途端、子供を連れたふくよかな女性は消えた。今、目の前にあるのは、俺が彫った鬼子母神像だ。
「はい、終わりました」
蓮顕さんがニコニコと笑う。
「もう終わりですか?」
あまりの呆気なさに、俺はポカンとした。
「もう終わりですよ。神仏の力は強力ですからね。まだまだ育っていない霊でしたから、あっという間でした。
「あの霊、どうなったんですか」
朔良が不安そうな顔をする。
「今頃、この像の中で、鬼子母神が体験したのと同じ思いをなさってるんじゃないですかね。そこからどうなるかは霊しだいです。子を持つ母同士、どうなりますかね。それよりも」
蓮顕さんが部屋を見渡した。
「明友さんが挑発するから、凄い量の手形と足形が残りましたねえ」
他人事のように言うと、蓮顕さんが香を部屋の端に避けて、札を剥がし始めた。
ベッドを見れば、朔也たちが肩を寄せ合って放心状態だ。
「もういいですよ」
蓮顕さんがドアに声をかけた。
途端、ドアが開いて数人の看護師と事務服の男が駆けこんできた。そして、あんぐりと口を開いて病室を見渡している。
変な臭いも淀んだ感じもない普通の散らかり過ぎた病室で、俺はへたり込んだ。
今更だけど、手足が震えてきた。
そんな俺に、朔也が笑顔で抱きついてきた。
俺は宇宙一愛している朔良を、思い切りだきしめて、その温もりと感触を存分に味わいながら、朔良の匂いを吸い込んだ。
空腹で食べるお蕎麦は最高だった。
いつもは笊蕎麦だけど、空腹すぎて汁も飲みたい俺は、温かい蕎麦に鶏天とイカ天とエビ天とちくわ天をトッピングした。
「野菜が見事にないですねえ」
そう言って笑う蓮顕さんは、大根おろし笊蕎麦を注文した。
移動代すべてを払ってもらいながら、さすがに蕎麦まで払ってもらう訳にはいかなくて、自分で払おうと財布を取りだしたら、蓮顕さんがトイレのついでだったと、すでに払ってくれていた。
蓮顕さんのリクエストで、新幹線で豆大福とペットボトルのお茶だけは奢らせてもらえたが、金額の差を考えると申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
俺は相当疲れていたみたいで、帰りの新幹線は品川駅の手前まで寝てしまった。
帰っても問題ない時間なのを確認して、アパートに帰って台所に直行したら、早く帰っていた兄ちゃんにニヤニヤされ、お袋からは盛大な悲鳴を上げられてしまった。
悲鳴は悲鳴でも、黄色い悲鳴だ。
「何? ヤダッ? どうしたの? ついに解禁なのね。全部解禁なのね。ヤバいわ。どうしましょう。ウチの子、二人とも元がいいから、母さん生んだ甲斐があるわ。こういう時に限って、お父さんは遅いんだから」
母さんが一人で興奮しまくって、俺の両肩を掴んだ。
「車がなくても、歩きでも全然余裕で間に合うわ。ご飯は後。新しい眼鏡を買いに行くわよ。その眼鏡もいいけど、ちょっと田舎臭いのよねえ。その髪型なら、インテリ系のハンサム眼鏡が合うと思うの。シルバーの細いスクエアで、角に丸みがあるヤツね。レンズ込みで三万円以内なら、奮発してあげるから」
ボサボサ風の髪をちょっとスッキリさせて、前髪を眉毛が隠れる程度にしただけなんだけど、そんなに盛り上がることか?
自分の親だけど、引いてしまう。
「お前、やっぱり裸眼が一番いいわ」
お兄ちゃんに言われて、ヤバッと思いだす。
蓮顕さんと別れてから、ネットで探した安くて空いてる美容院に飛び込んで、案内された椅子に座った時だった。鏡に映る自分を見て、コンタクトも眼鏡もしていないことに気づいた。
美容院に出るときに眼鏡をかけて、このまま知り合いと会いたくないなと家路を急いでいたら、コンタクトのことが頭から抜けてしまった。
俺の後ろには良太とその母親が守護霊としてついているし、桃花さんと蓮顕さんにも知られ、多分病室でその話を聞かされただろう宗也さんのことを考えると、朔也と朔良に知られるのも時間の問題だしと、コンタクトを外して生活しようと考えていたが、母さんがこんなに盛り上がるとは思わなかった。
「もう……本当に……母さん嬉しくて……」
突然、お袋が涙声になったかと思ったら、本格的に泣きだして、俺はワタワタしてしまった。
そこに、「ただいま~っ」と親父の声が聞こえたかと思うと、お袋が猛ダッシュで玄関に向かった。
追いかければ、「今すぐ眼鏡屋さんに連れてって~」と号泣するお袋を抱きしめて、肩をトントンする親父がいた。
「一体どうしてた……」
顔を俺に向けた親父が固まった。
そして、「眼鏡屋だな。どこがいい。今ならまだ梯子出来るぞ」と母さんを宥めだした。
後ろから現れた兄ちゃんが、その辺の女にやったら一発で惚れられてしまうだろう顎クイを俺にして、顔をマジマジと見つめてきた。
「盛大な親孝行、おめでとう」
それだけを言って、俺の背中を軽く叩いたお兄ちゃんが「俺もついてくから準備してくる。待ってて」と部屋に向かっていった。
愛されているって、こういうことなんだよな。
実感して、俺は溢れてくる涙を食いしばって堪えた。
うん。
コンタクトがないって便利だ。
溢れてきた涙をこっそり拭っても、コンタクトがズレたり外れる心配がないのだから。
翌日の朝から、藍染家は俺を取り残して盛り上がっていた。
居間では、俺が完成させた鬼子母神像の撮影会が繰り広げられている。
さっきまで、玄関の端で白い布と毛布で覆われて置かれていたはずなのに……。
お袋の「これ何? こんな大きいの持ってくの?」の質問に、「学校行く前に、桃花さんが完成した鬼子母神像を取りに来てくれるんだ」と答えた。瞬間、お袋の目の色が変わった。「見せなさい!!」と、勝手に木仏の身包みを剝がされて、今に至る。
すべては俺のミスだ。
いや、不可抗力だ。
昨日、別れ間際に蓮顕さんから「明日、呪いを終わらせます」と言われた。そのために、俺が彫った木仏を貸してほしいとい頼まれたら、貸す以外の選択肢はない。
夜に送られてきたメッセージには、桃花さんが朝、木仏を受け取りに来てくれることと、一緒に車で来るように書かれていた。
俺が病室に入っても大丈夫か心配になったけど、指示にあるんだし、何かやらかす前に剣の護法童子が俺をぶっ飛ばしてくれるだろう。
だから、待たせたらいけないと時間に余裕をもって準備した。
そしたら、余裕がありすぎてこんなことになった。
俺が朔良のために木仏を彫っていたことは、家族全員が知っている。
だから、渡すことには文句言われなかった。
だが、完成したら一番に披露する相手は家族だと叱られた。
お袋は「勝手に布を剥ぐって見ちゃいけないと思って、時々しか捲らないようにしてたんだから」と拗ねた口調になったかと思うと、「こんなに凄いの彫っちゃうなら、仏師になるべくして生まれたと思って応援するしかないわよね」と諦めた顔をしたかと思いきや、親馬鹿発言でべた褒めしてきたりと大変だった。
親父も兄ちゃんも、母さんの肩を持つし……。
居たたまれなくなった俺は、俺台所に批難してお茶を飲むしかなかった。
チャイムが鳴った。
「桜木さんでしょ? ちょっと時間稼ぎしてきて」
お袋の指示が居間から飛んできた。
桃花さんだろうと、確認せずに「おはようございます」とドアを開けた。
途端、
「明友さん‼」
飛び込んできた朔良にタックルくらった形で尻餅をついた。
朔良は俺の胸に顔を埋めて抱きついたまま、肩を震わせていた。
今日、呪いが終わるまで会えないと思っていた朔良の温もりに、俺の我慢は呆気なく崩壊した。
俺は弾かれたように朔良を抱きしめると、歯を食いしばった。
朔良の首筋に鼻を当てて、朔良の匂いを吸い込む。
「会いたかった」
先に嘘をついて避けて、不安にさせてしまったことを謝らなければいけないのに、口から洩れたのは、俺の本心。
どんなに朔良のことを考えて行動したところで、一番の願いは変わらない。
「ずっと……ただただ会いたかった」
ヤバい。
涙腺が緩んできた。
「朔良を抱きしめたかった」
朔良だけに聞こえるように囁くと、朔良の腕に力が入ったのが伝わってきた。
「僕も、明友さんに会いたくて……会いたくて……」
朔良が顔を上げて俺と目を合わせた。
朔良の目に涙が溢れていく。
朔良が涙を隠すに俺の肩に顔を当てて、ギュッと俺のブレザーを掴んだ。
可愛すぎて、尊すぎて、愛しくて、俺は再び朔良を強く抱きしめた。
その時だった。
「あの~っ、熱い抱擁中に申し訳ないんですが」
朔也の声に顔を上げたものの、朔也より朔良だと朔良を見つめる。
「ちょっと待て! 勝手に俺の存在をないものにするなっ」
朔也にツッコまれて、俺は渋々顔をあげた。
「俺のビックリが朔良の暴走で半減してるんですけど」
「ビックリすることなんてないだろ。こっちはお前がいてビックリなんだけど」
蓮顕さんからは、桃花さんが来るとしか聞いていない。
「いやいや、こっちがビックリだって。色々ツッコミたいけど、イメチェンにカラコンはやり過ぎだろ」
焦る朔也に、俺は一瞬意味がわからなくてポカンとした。
ああ、そうだ。
自分で自分は見えないから忘れてた。
髪を切って、コンタクトをやめて、お袋と兄ちゃんが一緒になって選びに選んだ眼鏡をかけてたんだ。
俺は朔良の背中を撫でながら、小さく唸った。
「カラコンを外しました」
とりあえず、間違いを訂正する。
「えっ?」
朔也が豆鉄砲を食らったような顔になる。
「ずっと隠してたけど、青い目が裸眼で、黒いのがカラコンなの」
「……オジサンかオバサンが外で作った子? それとも、養子縁組の貰わっれ子?」
「遺伝だよ」
「オバサンもオジサンも日本人じゃん」
「ご先祖様に外人がいて、時々こういうのが生まれるの。わかる? 中学ん時の生物の授業で習ってるよね。A型とB型が結婚してO型が生まれてもビビらないだろ? 劣性遺伝子かはわかんないけど、つまりはそんな感じだ」
「ちょっと待て……ああ……理解した」
コイツ、絶対今、なんでO型と思って考えただろ。
「つまりだ。そんなカッコイイ隠し玉を今になって披露して、髪切って、眼鏡まで変えて……。どっかの芸能事務所にでも入ったか?」
どうしたら、そうなるんだ。
こんなポジティブ思考のヤツに、今まで必死になって隠してたなんて馬鹿みたいじゃないか。
朔良の温もりで心が満たされた俺は、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。
今までにない余裕が、俺の中に生まれる。
うん。
もう大丈夫。
コンタクトがなくても外で生活できる。
自身が芽生えた。
「まったく、いい加減にしなさい!」
後ろで笑いを堪えていた桃花さんが、朔也の脳天に拳骨を落とした。
「ゴメンなさいね、明友君。朔良が明友君のメッセージを見てから情緒不安定になってしまって、本当は家に残らせるつもりだったんだけど、蓮顕さんが万が一のことがあったら困るからって許可してくださったの。そしたら、この子までついてきちゃって……」
桃花さんが困った顔で頬に片手を当てた。
蓮顕さんのことだから、仕方がないと許可したのか、こうなると見越していたのかわからない。
「蓮顕さんが来てから、ウチん中、マジでヤバくて、ポルターガイスト祭りよ。多分今、日本一幽霊に耐性がある一般人だと思う訳よ」
朔也が胸を張る。
それって、威張れることか?
何があったかは後で訊こう。
ここだと、家族に聞かれたらマズい。
「誰が?」
わかっているけど、一応訊いておく。
「俺が」
やっぱりの答えに、俺は苦笑した。
「ほら朔良、そろそろ明友さんから離れて」
やんわりと注意する桃花さんに、朔良が嫌々と首を振って俺を離さない。
「朔良にいっぱい心配かけて、不安にしてゴメンね」
俺の声に、朔良が頭を俺にくっつけたまま頷いた。
「そうだそうだ。全部お前が悪い」
朔也がしゃがんで、朔良の頭を撫でた。
「いつもは口でも文字でもゲロ甘な言葉を羅列するお前が、たった一文しか送らないって天地がひっくり返るくらいヤバいだろって、俺も思ったからさあ。まあ、なんだ。明友が元気で良かったな、朔良」
朔也の手が離れていくのが名残惜しいのか、ようやく朔也が俺から顔を反して頷いた。
「ところで朔良。お前は明友の変わりっぷりに驚かないわけ?」
ヤンキー座りになった朔也に、鼻の頭や頬や耳を真っ赤にして、目を潤ませていた朔良が首を傾げた。
「ほら、目の色が違うし、眼鏡も違うし、前髪短いし」
「明友さんがいてくれるなら、どれでもいい」
俺が変わったことより、俺がいないことが重大だってことか?
この可愛い答え、神過ぎるだろ!
俺が感じ入っていたら、朔良がすぐに「あっ」と小さく声をあげた。
「前髪が長いと、掻きあげてくれてもすぐに目がほとんど隠れちゃうから、今みたいに目が見えてるのがいい」
「わかった。これからずっと、目が隠れないように髪を切るよ」
朔良の手を握って誓いを立てた俺の頭を、誰かが叩いた。
「痛っ!」
振り返ると兄ちゃんが立っていた。
「おはようございます。今、お渡しの仏像を用意してますので、もうちょっとお待ちください。あと、朝からウチの弟が朔良ちゃんを誑してスミマセン」
蓮顕さんばりの外面スマイルの兄ちゃんが、俺の肩を叩いて後ろを指さした。
見れば、お袋がこちらを覗いて、手招きしている。
「最後に、仏師としてのお前も入れた写真が撮りたいんだと。サッサと親孝行しないと遅刻するぞ」
ああそうでした。
朔良を味わっていたら、時間を忘れてました。
病院の面会時間は午前一〇時から。
蓮顕さんは電車で先に病院へ向かったそうだけど、どういう手を使って病院に入るつもりだろうか。
受診の振りをして、病室まで向かう気だろうか。
早く着き過ぎないように、途中で駐車場のある店舗に入り、買ってきたドリンクとスイーツや菓子で休憩を取ってから、病院の駐車場へ向かった。
その車内で、俺はとんでもないものを目撃してしまった。
バックミラーが勝手に動いたのだ。
そして、そこに映る着物姿の五歳くらいのおかっぱの女の子。しかし、車内にいるのは桃花さんと朔也と朔良と俺の四人だけ。
息を飲んで固まる俺に逸早く気づいたのが、俺に凭れて眠りかけていた朔良だった。
朔良は両手で俺がプレゼントしたヌイグルミを持ち、俺に凭れてうつらうつらしていたが、すぐにパッと上体を起こした。
「座敷童さん、ダメだよ。勝手にバックミラー触っちゃ」
朔良が注意した途端、バックミラーに映る女の子は消えた。
「言い忘れてたけど、この車、座敷童が乗ってるから」
なんでもないように朔也が言うと、朔良は朔也にすべてを任せたようにまた俺に凭れてきた。よほど眠いのだろう。
だが、俺は逆だ。
目も頭も冴えてしまった。
「座敷童って、蓮顕さんのですか?」
「そうなのよ。万が一、何かあったらいけないからってウチに置いていってくださってね。全然姿は見えないんだけど、電気がついたり消えたりしたり、誰もいない階段で走る足音がしたりねえ」
桃花さんが愉快そうに笑った。
そんな話を聞いてしまうと、短期間で色んな目に遭いすぎて、壊れたか吹っ切れた人の笑いにしか見えない。
「一番凄かったのはアレな。お前が心配で泣きじゃくる朔良が、ずっとお前から貰ったヌイグルミを持ってるから、座敷童にヌイグルミ好きだと思われたんだろうな。俺、蓮顕さんにベッドを貸してたから、朔良の部屋で一緒に寝てたんだけど、夜中に目が覚めて、トイレに行こうと電気をつけたらヌイグルミだらけよ。ウチ中にあるヌイグルミが集められてて、あれはマジでビビった。ビビりすぎてへたり込んでさあ。声も出なかった」
朔也まで愉快そうに笑って、俺は顔を引き攣らせたまま話を聞くしかなった。
ほぼ面会開始時間についた俺たちは、いかにも怪しい大荷物を二人掛かりで持って、宗也さんの病室に辿りついた。
「今日が退院日なんだけど、無事に退院出来るかしら」
絶対に恐怖の感覚が麻痺しているだろう桃花さんが、パイプ椅子に座って笑っている。
こんな光景見せられたら、もう覚悟を決めるしかないよな。
ドアのガラスは何枚ものコピー紙で塞がれいた。
窓のカーテンは閉ざされ、壁すべてに無数の札が貼られている。
床には水と塩が撒かれていて、すべてが終わったら掃除はもちろんだが、病院側から叱られそうだ。
ベッドテーブルはベッドのフットサイドに寄せられていて、そこには小さなツボが置かれ、香が焚かれていた。
香水の匂いが苦手な俺は、安い香や奇抜な香りの線香もダメなんだけど、花のようなこの香りは欲しいと思った。
蓮顕さんは改良衣でなく、大衣に袈裟を羽織っていた。大きな儀式などでする格好だ。見た目は似ているが、大きな違いは、着物の袖の長さだ。
「みなさん、ヒトカタの準備は出来ましたね。霊にバレないように外から見えない状態で携帯してください」
蓮顕さんに言われて、来てすぐに書かされたヒトカタをちゃんとブレザーのポケットに入れたのを確認する。
そういえば、昨日のヒトカタ、入れっぱなしだっけ。
反対側のポケットに手を突っ込み、取りだしたヒトカタを見て、俺は「うわっ!」と声をあげてしまった。
左端だけ白く、あとは真っ黒に変色していた。これは……変色じゃない炭だ。
「いい見本がありますね」
俺の持っているヒトカタへと、蓮顕さんが片手を向けた。
「何かあった場合、このようにヒトカタが身代わりになり、本人を助けてくれる。それはもういらないですから、そのまま手を動かさないでいてくださいね」
言われるまま持っていると、突然ヒトカタが発火して消えた。
あまりに一瞬で、悲鳴を上げる間もなかった。
見遣れば、桜木家全員が目を丸くしている。
「昨日、明友さんはいっぱい手伝ってくださいましたからね。ありがとうございます」
蓮顕さんに頭を下げられて、俺もつられて頭を下げた。
宗也さんはベッドヘッドに身を寄せていた。
「明友君、色々迷惑をかけて済まないね。何回も学校休ませた上に、桜木家の先祖が碌でもないヤツらばかりで」
血の気の失せた宗也さんに頭を下げられて、俺は慌てて頭を振った。
「ここにいる全員が被害者なんで、誰も悪くないです」
「キミがそう言ってくれると救われるよ」
宗谷さんは力のない笑みを浮かべた。
「祖先がいなかったら、今こうして出会えなかったので、悪いことばかりではないと思います」
この気持ちは本当だ。
窓側の空いたスペースの端に、借りてきたのだろう低めの上り台が置かれていた。
蓮顕さんの指示に従って、朔也がそこにバスタオルを敷き、ベッドの上で毛布を解いた鬼子母神像を朔也が一人で持ち上げて運んだ。
「正面は角の対角線に向けてください。はい、大変結構です。それにしても素晴らしい出来ですねえ。彫りかけだったとはいえ、画像で観たの全然違います。見る人が見れば、何百万と支払うでしょうねえ」
蓮顕さんの世辞は話半分で聞くのがよさそうだ。
「本当に凄いわねえ。あとでゆっくり見せてもらいましょう」
桃花さんが動きの取れない宗也さんに、話しかける。
朔良が角度を変えながら鬼子母神像を見つめて、うっとりした表情をしている。
「これ、僕のなんだよね」
朔良が嬉し気に俺を見た。
答えようと口を開けた時、
「名前が彫ってあったじゃん。『朔良へ 明友』って」
朔也が口を挟んだ。
「お前、それを見たのか?」
羞恥のあまりに、俺は朔也の腕を引っ張って小声で訊いた。
顔が熱い。
仏像は置くものだから、一生気づかれないと思ったのに……。
「毛布から取りだす時、仏像が横になってたろ。台座の下に何か書いてあるなあと思って、しゃがんだら見えた」
ケロッとしている朔也は悪気がないのだろう。
けど、みんなの前で暴露してほしくなかった。
素人の俺が刻印するなんて、プロを気取っているみたいだろう。カッコ悪すぎて、穴があったら入りたい。
「僕も見たい」
朔良がキラキラした目でおねだりしてくる。
「これから蓮顕さん行う儀式が終わったら、見ようか」
「うん」
ご満悦な朔良に、俺は完敗した。
朔良が見たいならいいんだ。
もう、ヤケクソだ。
「ではそろそろ始めたいと思いますが、お手洗いに行きたい人がいたら、今行ってください」
蓮顕さんが緊迫感のないにこやかな笑顔で、見渡した。
「誰もいないようですので、軽く説明させていただきます。病院側には、しばらく近づかないでほしいと伝えています。勝手にドアを開けられますと困りますので、今から封印します。もしものために、剣の護法童子にはドアを開けようとする者がいたら、邪魔をするように伝えてあります。座敷童にはそのお手伝いをするように伝えてあります。何かあったら、どの病室でもいいから駆け込んで、ナースコールを押しまくったり、相手の持ち物を奪って逃走し、こちらから気を逸らせるのが仕事です」
「座敷童にピッタリの仕事すぎる」
朔也の呟きは、被害に遭った人間の重さが滲んでいた。
「まずは今、扉を封印します」
蓮顕さんは言うなり、ドアにお札を貼った。左手に数珠をかけ、右手をピースの人差し指と中指をくっつけた手刀にして、その先で宙に文字を書きながら念仏を唱える。
そしていきなり「キン」と叫んだ。
「はい。これで外側からはドアが開きません。床の水や塩、壁やドアの札は霊が通り抜け出来ないようにするためのものです。ただし、天井には札がございません。儀式が始まりましたら、この部屋の護りを弱めますので、天井の弱まった護りを破って霊が現れます。ずっと手出し出来ずにいましたから、このチャンスを見逃さないはずです。霊は短絡的ですからね。全部の呪いがこの部屋に入ったところで再び護りを強めて、霊の逃げ口を塞ぎます。
「私と一緒にいらっしゃる毘沙門天様には、ここにいる人間に被害が及ばないように手伝っていただきます。朔也さんはこれからの出来事が一段落したなと思うまで、桃花さんと宗也さんの傍にいてください」
「朔良さんは自由にしていても構いませんが、これから鬼子母神像の開眼を行いますので、それが終わったと私が言うまでは、朔也さんには近づかず、一言も発しないでください。宗也さんと朔也さんもです。開眼を行うと、鬼子母神像に鬼子母神様の魂が宿ります。今回、鬼子母神様の力を借りて解決していきたいと思います」
毘沙門天と鬼子母神の組み合わせは、相性がいいだろう。
毘沙門天と鬼子母神が夫婦だという話や、毘沙門天の部下と鬼子母神が夫婦で、その子供である吉祥天は毘沙門天の妻だという話もある。
どれが正しいかはわからないけれど、妻の母親が鬼子母神であれば、妻との仲のためにも鬼子母神に力を貸すだろう。鬼子母神も子供の幸せを思うなら、子供の旦那とは仲良くするだろう。
「開眼が終わるまでの間、明友さんには霊の標的になってもらいます。眼鏡を外して、霊の息子である良太と思わせてください」
「俺だけ演技力がいるんですね」
「大丈夫ですよ。自分と同じ血を感じて、目が青ければ良太だと思うでしょう。足止め役ですから注目されれば十分です。霊が騙されなかったとしても、体を乗っ取れる血族として、アナタは大変魅力的です」
「今のところ大丈夫ですけど、俺、乗っ取られて、宗也さんを殺したりしないですよね」
「安心してください。昨日から守護霊になった霊と、襲ってくる霊は同じだったもの。彼女が守ってくださっている限りは、アナタが諦めさえしなければ大丈夫です」
「ハードルが高いですね」
「頑張りましょう」
ダメだ。
蓮顕さんには嫌味が通じない。
「では、始めましょうか」
蓮顕さんは数珠をかけた手を合わせ、低い声で念仏を唱えだした。
カーテンから漏れる光。
カーテンの向こうで、黒い何かが横切ったのが見えた。
けれど、ここは五階だ。
天井から、大きな鉄の塊をいくつもぶつけられてるんじゃないかと思うほどの音が幾つもして、室内が震度五強くらの強さで縦に揺れた。
「地震?」
呟いた俺に、蓮顕さんが唱えながら首を横に振った。
つまり、これは霊の仕業ということだ。
五分ほど続いたそれが止まったと思った瞬間、雷が落ちたような音が部屋中に響いた。
桃花さんが悲鳴をあげた。
俺は身を竦めて、ベッドを見遣った。
四人が身を寄せ合って、不安な表情で俺や蓮顕さんを見つめていた。
突如、店長から黒いネットリした何かが、蜂蜜のように垂れてきた。
それは床に到達して、大きく広がっていく。
「なんだこれ」
足元まで広がってきたそれから二歩離れて、もう垂れてこないかと上を見上げれば、ドラム缶ほどある顔がヌッと現れ出てきた。
それは、長い黒髪を垂らし、水膨れた般若のような形相で、目のまわりの肉が溶けて落ち、青い目が剝き出しになっていた。
蓮顕の念仏が激しいものに変わる。
般若の唇から、黒いネットリとした液体が垂れてきた。
これが、さっき垂れてきたヤツか。
一気に押し寄せる重たい淀んだ空気と、腐った生ゴミとヘドロが合わさったような臭いに、俺は腕で鼻と口を覆いながら、広がる液体から更に離れた。
窓を閉め切った室内なのに、突風が渦のよに吹き、カーテンが舞った。棚に乗っていたタオルや小物などを、部屋中に散乱していく。
天井の顔が更に降りてきて、口を広げた。
口の中は真っ暗だった。
顔が這いずるような音を立てて、宗也さんに近づいていく。
俺はガクガクと震えそうになる膝を踏ん張って止めると、
「その人を襲うなよ。母さん」
女に向かって声をかけた。
女の顔がこっちを向いた。
女の顔の化け物が黒く溶けて垂れ、すでに落ちている溜まりと一緒になる。
俺は逃げきれず、溜まりに片足が浸かった。
顔が溶け切ると当時に、落ちた溜まりが泥人間のような形になり、それが人の形へと変わっていく。
現れたのは、昨日良太と同調して見えることができた良太の母親だった。
女は涙を流しながら嬉しそうに俺を抱きしめてきた。
昨日、経験していなかったら、悲鳴をあげていただろう。
多分、これは抱きしめ返すのが正解だろうと、俺は女の背中に腕を回した。
俺は震えを止めようと歯を食いしばった。
触れる振りをして重なった部分が、氷のように冷たい。臭気で息が出来ない。
もしかして、俺のヒトカタはもう全部灰になってるのかも。
『お母さんよ。大きくなったわねえ。逞しくなったわねえ。さあ、一緒に私たちを不幸にした桜井家に復讐しましょう。今度こそ、お母さんがアナタを守ってあげる。アナタの優しい気持ちを……アナタからの唯一の贈り物を……アイツらは壊した。やっぱり、根絶やしにしなきゃ駄目なのよ。良太なら、お母さんの気持ちがわかるでしょう?』
「わかるよ。でも、もういいんだ。やめよう。このままだと、母さんは地獄に落ちてしまう。俺、母さんには極楽に行ってほしいんだ」
女が俺から体を離した。顔が天井に現れたのとそっくりになる。
俺は目を見開くと、悲鳴を堪えた。
『なんでそんなこと言うの? 地獄とか極楽じゃないの。アナタの幸せのためなら、お母さんは不幸になっていいの。それが私の幸せだから』
女の声が低くなって震えた。
俺、もしかして女を怒らせたかも。
『だから、その体を貸しなさい。お母さんのお願い、聞いてくれるわよね。肉体がないと相手が死んでくれるのに時間がかかって困るの。アナタは何もしなくていい。私がその体で殺すだけだから。アナタは幸せになれるのを待っていればいいの』
狂ってる!!
言ってることが支離滅裂だ。
「意味わかんないんだけど。アンタが俺の体で殺したら、その罪は俺が被るんだよ? 俺が殺したことになるんだよ? どのみち、俺が不幸になるんだよ? 何が母親だよ。子供の不幸を願う母親なんて、ただの私欲に子供利用してるだけじゃん‼」
叫んだ俺の前に、朔良が飛び出してきた。
両手を横に伸ばして、俺と女の間に立つ。
「朔良‼」
俺は慌て朔良を抱きしめると、女に背を向けて身を低くした。
今、狙われているのは宗也さんだ。
けど、ここで割って入ってきたら。殺される順番が変わる可能性がある。
『誰だ。それは』
女が朔良に顔を近づけてきた。
俺は朔良の頭を隠すように腕を動かした。
もしかしたら、女は朔良が桜木家の血を引いているとわかってないのかも。
だとしたら説明がつく。
亡くなった桜木家の人々はみんな、自分が殺される番になって女の霊を目撃していた。
だとしたら、女が一人ずつしか認識できないという可能性もないか?
宗也さんが死に、次に朔也が死なないかぎり、この女は朔良を殺すべき桜木家の人間だと認識出来ないことなる。
でも、今ここで朔良が飛びだしてきたってことは、朔良に見えてるわけだ。
いや違う。
桃花さんにも見えていたから、蓮顕さんが準備したこの空間だけ、誰でも女が見えるのだろう。
だったら、開眼するなと言ったのは何故だ。
特別な空間だからこそ、声を発したら桜木家の人間だとバレるということか?
「アナタに関係ないでしょう」
俺はキッパリ言い切って、朔良をただただ強く抱きしめた。
温かいを超えて、熱く感じる小さな体が尊い。
俺のことが心配で、蓮顕さんの約束を守って声だけは出さずに、俺を守ろうとしたのだろう。
このまま、蓮顕さんが開眼をするまで持ちこたえれるか?
いや違う。
持ちこたえて見せる。
俺はずっと、こうして櫻を守りたかった。
強く思ったところで、俺は違和感がした。
……櫻って誰だ?
この感じ、もしかして昨日の良太の時と同じヤツ?
だとしたら……。
「クソッ‼」
俺はデカい声で叫んだ。
守護霊だろうがなんだろうが、これだけは譲れない。
朔良を守るのは俺だ。
「これは俺ので、お前には関係ねえんだよ」
『お母さんに対してお前って……』
女が信じられないものを見るような目でよろけた。
『そうか……あの男か。お前を桜木家から連れだしてくれて感謝していたが、アイツがお前にそういう態度を教えたんだな?』
女の目が吊り上がった。口が裂ける。眼球が飛びだし、爪が武器のように長く伸びる。
落ち着け俺。
相手はまだ呪い殺せるほど強くない。
血族の体を乗っ取れるようになったのは、力をつけてきた証拠かもしれない。
けど、宗也さんの弟以外の死は、すべて不注意で説明がつく。女が見えたことで驚いて足を滑らせたとか。女に立ち向かったらそこには女がいなくて落ちたとか。
子供の飛びだしは女が手招きしたのかもしれないが、後はすべて見えたり感じたりしたものだろう。精々、女にできたことは、脅すことと、手形や足形を残すこと。
感受性の高い人間がいたら、女が見えていたかもしれない。それくらいの存在だ。
人が死に過ぎて惑わされたけど、これが真実だろう。昔の呪いも同じだ。女の霊を相手にしなければ死ななかった。
今、体験しているからそう言える。
「自信過剰もいい加減にしろよ。お前なんか、全然怖くねえんだよ。馬鹿じゃないの? みんな自分が殺したと思いあがってるんだろう。ほとんど、勝手に死んでくれただけじゃん。それもわかんなくて、よく強気な態度をとれるよな」
俺は朔良をそのままに立ちあがって、女を正面から見遣った。
「それに俺、アンタの血筋だけど、アンタの息子じゃないし。命令すんの、やめてくれる?」
俺が女に喧嘩を売った瞬間、女は耳鳴りがするほど悲鳴に似た甲高い叫び声をあげた。
「開眼!!」
蓮顕が叫んだ。
途端、鬼子母神像が一回りも二回りも大きくなり、ふくよかで美しい女性になった。
それと同時に、四方八方からバッドか何かで叩きつけるような音が雨のようにする。
それは、数秒の出来事だった。
壁、天井、床、ドアに、無数の赤黒い手形と足形が隙間なくついていた。
蓮顕さんが更に呪文を唱えていく。
異変を感じたのか、女が鬼子母神像へと振り返った。
人間の姿となった鬼子母神は、片腕にキャッキャと笑う赤ん坊を抱いていた。
朔良が立ちあがり、明友の手を握った。
明友はその手を握り返し、朔良と一緒に神々しい鬼子母神を見つめた。
『なんでアンタが抱いてるの? その子、私の子よ。私の良太を返して‼』
女が鬼子母神に掴みかかった。
途端、女の姿が鬼子母神の中へと消えてく。
最後、残った右足の先が消えかかった時、鬼子母神の中から女の泣き叫ぶ声が聞こえた。
「返してっ! 私の良太を返してー‼」
そして、つま先が消えた。
蓮顕さんがパンと手を叩いた。
途端、子供を連れたふくよかな女性は消えた。今、目の前にあるのは、俺が彫った鬼子母神像だ。
「はい、終わりました」
蓮顕さんがニコニコと笑う。
「もう終わりですか?」
あまりの呆気なさに、俺はポカンとした。
「もう終わりですよ。神仏の力は強力ですからね。まだまだ育っていない霊でしたから、あっという間でした。
「あの霊、どうなったんですか」
朔良が不安そうな顔をする。
「今頃、この像の中で、鬼子母神が体験したのと同じ思いをなさってるんじゃないですかね。そこからどうなるかは霊しだいです。子を持つ母同士、どうなりますかね。それよりも」
蓮顕さんが部屋を見渡した。
「明友さんが挑発するから、凄い量の手形と足形が残りましたねえ」
他人事のように言うと、蓮顕さんが香を部屋の端に避けて、札を剥がし始めた。
ベッドを見れば、朔也たちが肩を寄せ合って放心状態だ。
「もういいですよ」
蓮顕さんがドアに声をかけた。
途端、ドアが開いて数人の看護師と事務服の男が駆けこんできた。そして、あんぐりと口を開いて病室を見渡している。
変な臭いも淀んだ感じもない普通の散らかり過ぎた病室で、俺はへたり込んだ。
今更だけど、手足が震えてきた。
そんな俺に、朔也が笑顔で抱きついてきた。
俺は宇宙一愛している朔良を、思い切りだきしめて、その温もりと感触を存分に味わいながら、朔良の匂いを吸い込んだ。
