【藍染明友】
ヤマネさんの車に乗り、最初の呪いがあったと婆さんが言っていた土地に向かう。
「昼食、出なかったですねえ」
俺は残した歌舞伎揚げを蓮顕さんに分けた。もちろん、二つ多く渡した。
トイレ休憩で購入していたペットボトルで水分を補給していたら、腹が鳴った。
いつもは他人の車内での飲食は気を遣うが、今日は別にいいだろうと残った歌舞伎揚げを食べていく。
「帰りにお蕎麦を食べましょう。明友さんは天ぷら山盛りにしてください。私は大根おろしがいいですねえ」
返事をしてくれるものの、蓮顕さんはどこか上の空だ。
婆さんが言うには、土地購入者の親族から「いわくつきの場所を買わされた。更地にして売らなかったのは、呪われると知っていたからだ」と難癖をつけられた土地だとか。
婆さんは現在、土地購入代の全額返金と、途中までの工事費全額負担を求められており、購入者本人は原因不明の病気で入院中だそうだ。
親族の死はどうでもいいが、自身が入居する老人ホームの資金は逃したくないと、婆さんは清々しいまでに言い切っていた。
霊障と思われる事象が発生したのは、工事の途中から。建物をすべて崩し、後ろの森を伐採し始めたところで工事はストップ。作業を再開するたびに機材が止まり、作業員が怪我や病気で次々リタイア。健康診断で問題のなかった人間が突然の末期癌で死亡。今現在、会社全体が機能しなくなっているそうだ。
婆さんが俺たちをすんなり会ってくれたのは、昨日の昼過ぎに宗也さんから連絡があったからで、「原因が霊障かを確認するだけなら、無料で引き受けてくれるお坊さんがいる」と言われ、タダならととっとと寄こせとトントン拍子に話が進み、今日に至ったそうで、俺がその事実を知ったのは、家を後にする一〇分ほど前。普通に家系図を見せてもらって、話を伺うんだと思っていた俺は、蓮顕さんの営業スマイルがしたり顔に見えるようになってしまっていた。
車に乗り、二〇分ほど経過した。
目的地はまだなのだろうかと思った時、蓮顕さんが居住まいを正した。
「車を停めてください」
蓮顕さんの言葉に、ヤマネさんが「ヒィッ!」と小さく悲鳴を上げた。
点在する民家と田畑しかない道は、舗装はされているがセンターラインがなく、ギリギリ二台の乗用車が擦れ違える道幅だ。
対向車も後ろを走る車もなく、ヤマネさんは路肩の舗装されていた草むらに車体の半分を突っ込ませて停車した。
「ずっと毘沙門天様に相談していたのですが、このまま行けば確実にこの中から死者がでます」
淡々とした蓮顕さんとは真逆に、ヤマネさんがいきなり「誰です? 死ぬのは誰です? 私じゃないですよね」と運転席と助手席の間から身を乗りだしてきた。
「誰一人死なず、障りもないように、今から渡す紙に生年月日と年齢、性別と名前もお書きいただき、それで自身の体を撫でていただきます。終わりましたら、その髪に息を吹きかけて、自分のポケットに仕舞ってください。注意事項はただ一つ。ポケットから紙を食みださせないことです。少しでも食みだしたら死ぬと考えてください。筆記用具はなんでも構いません。では、お配りします」
蓮顕さんは、最初にヤマネさんに紙を差しだした。ヤマネさんはそれを引っ手繰ると、グローブボックスを開け、物を掻き出しながらペンをとりだした。助手席を散らかしたまま窓を台代わりにして書いていく。
俺も紙を受け取った。神社で何回か貰って書いたことがある人型の紙だ
俺はリュックから引き用具を取りだした。
蓮顕さんにもシャープケンも渡して、言われたことをすべて終えると、蓮顕さんから「ありがとうございます」とペンを返された。
「これって、神道ですねよ」
気になって尋ねると、
「神仏習合と神仏分離は授業で習い、ご存じですよね」
ようやく蓮顕さんの顔に笑顔が戻った。
「そろそろ神仏分離をやめていただきたいところですが、神仏習合の名残は様々あるんですよ。それに、どちらも取得される方もいましてね。私もその一人なんですよ。それに、同じ神を寺も神社も祀っていたりするでしょう」
「大黒天や弁財天とか有名ですよね」
「日本は融合と調和に優れていますからね。そこは柔軟に考えていいと思いますよ。修験者がまさにそれですね」
「そろそろ気を引き締めてください。後一〇分くらいで着きますから」
蓮顕さんはお茶を軽く飲むと、
「向かってください」
萎縮しているヤマネさんに声をかけた。
再び目的地に向かい始めたものの、徐々に空気が重く淀んできた気がして、窓を少し開けた。
だが、空気はますます悪くなるばかりで、軽く車に酔い始めてきた。
晴れているのに空が暗い。
体が重くて息苦しい。
軽い耳鳴りと頭痛がして、俺はジャスミンティーを少し飲んだ。
「ちょっとスミマセン」
俺は上体を猫のように丸くして、グッタリトシートに横たわった。
「俺は奥様に頼まれて仕方なくついてきてるだけなんですよ。頼まれたこと以上は無理なんで、俺の車で吐かないでくださいよ。吐いたら子供だろうが弁償させますから」
ビビりながらも嫌そうに捲し立ててきたヤマネさんは元気そうだ。弱ってる人間には強気になるタイプらしい。手下は主に似るんだろうな。性根が腐ってるとこが婆さんにそっくりだ。
車が進むにつれて、具合が悪化していく。
車が停まった。
「つきましたよ。吐くなら外で吐けよ。」
最後の、ヤマネさんが俺に向けた言葉だけ、容赦なくキツイい。
俺は外に出ると、しゃがみ込んだ。
なんだこれ。
車内にいるほうがまだマシなんですけど。
「コイツ死ぬんですか?」
なるほど、ヤマネが俺に強気なのは、死ぬのは自分でなく俺だと思っているからか。
「さあ、どうでしょうか」
蓮顕さんははぐらかすと、俺の横にしゃがんだ。
「大丈夫ですよ。形代はちゃんと機能しています。今、修行をさせられていると思ってください。アナタについている神仏が、今後のアナタの役に立つと考え、態と体験だけさせているだけです。カタシロがなければ、彼も私も同じ状態になっていますよ」
蓮顕さんが俺だけに聞こえるように囁くと、少し後ろへ体を向けた。
「お考えには賛同しますが、人の身は弱く、このまま続けますと、彼は本懐を遂げられません。どうか、少し緩めていただけないでしょうか」
蓮顕さんが俺の後ろに語り掛けた。
「明友さん、少し堪えてくださいね」
蓮顕さんは俺の体を支えながら、俺の肩甲骨の間を強く三回叩いた。
途端に、体が楽になった。
「立てますか?」
蓮顕さんに言われて、俺は「立てます」と答えながらスクッと立ち上がった。
さっきの不調は一体なんだったんだ?
思わず首を傾げる俺に、蓮顕さんもホッとした表情で立ち上がった。
「仏師として一生高みを目指すならば、こうした霊障を体験させるのもよいだろうという神仏の慈愛ですよ」
「今のは、亡くなっていった桜木さんたちが味わったものと同じですか?」
「全然違います。前を見てください」
言われて、俺はやっと辺りを見遣った。
後は、小道を挟んだ両方に耕作放棄地らしい草だらけの土地が広がり、前には赤のカラーコーンが二つ倒れていて、その両方に折れたコーンバーが刺さっている。
その向こうには、瓦礫がと山になって点々と放置された。木材の山が二カ所、瓦の山、土と竹と木材が混ざっている山は蔵を解体して出た瓦礫だろうか。他に割れた電球など不用品らしきものが山になっている。
「悪徳業者に更地を依頼したのでしょうね。配線のゴミがないので、日本人の解体業者ではない可能性がありますね」
蓮顕さんは静かに怒っていた。
「まずは井戸ですね。あそこです。いつから使用していないかわかりませんが井戸があります。近づきたくありませんのでここからお話しますが、元々は蓋がしてあったとしたら、何かの理由で亡くなったんでしょう。あそこ、何人かの人間が落ちて亡くなっています。犬や猫も落としていますね。もう井戸を使わないからと、最後にそうやって楽しんだのが見えます。
次に瓦礫がありますが、この開けた土地にも問題があります。神棚がずっとない生活をしていたのでしょう。先祖供養も碌にせず、周辺に無数の死骸が埋められています。人も動物もまばらに埋められていますね。
ああなるほど。桜木家の先祖は代々その性質を受け継いでいますね。跡取りのほとんどが、客人が来た際にここで家畜を解体して、見世物にしていましたね。手下どもに命令して、客の目の前で牛を溺死させた跡取りがいますね。暴れた牛によって出た死傷者も見世物になっていたようですね」
蓮顕さんは事務的に話しているが、内容は人間の所業じゃない。悪魔そのものだ。
「抱きたければ、所構わず女を抱き、犯して殺したこともありますね。近親相姦された女の子が、奥のすでに倒されている木で首を吊っています。身ごもった女を抱いて、喜んでいるなんて……最悪だ」
蓮顕さんが感情を抑えきれず、最後を吐き捨てた。
今、一番ツラいのは、俺に見えないものが見えている蓮顕さんだろう。
「蓮顕さん、もう大丈夫です」
俺はそれしか言えなかった。
「……そうですか」
蓮顕さんが冷ややかな眼差しを俺の後ろに向けた。
見遣れば、ヤマネさんが尻餅をついたまま放尿していた。濡れた部分のスラックスの色が濃くなっている。
「今の話、全部聞いたことあるんじゃないですか?」
蓮顕さんの一言に、ヤマネが「違う」と懸命に首を振るが、恐怖に染まった顔は隠せない。
「だったら、なぜ小便を大量に漏らしてるんですか? こんな野蛮な男どもが代々地主を続けていたら、村人は陰で文句をいい、不幸をよろこぶでしょうね。ヤマネさん、あなたもそうしてきたのでしょう? 歴代の地主に比べたら大したことない暴力でも、されたらつらいですよね。ここ出身の村人たちは、先祖から地主の所業を聞いて育ち、自分たちも被害に遭い、互いにされたことや先祖代々の恨みをぶちまけて生きてきた。そこに、ミカ子さんみたいに他所から来た人間も加わっていった」
男がガタガタ震えながら、まるで殻に閉じこもろうとするかのように体を丸めた。
蓮顕さんが飽きたように踵を返した。
「解体清払いしていないようですが、したところで無意味ですね。この開けた土地に神仏はいません。年中行事を疎かに、年末年始はバカ騒ぎする日と勘違いし、それ以前に、地鎮祭も竣工式も何一つまともにやってなかったでしょう」
蓮顕さんが奥へと歩きだした。
俺はそれについていく。
「ああ」
蓮顕さんが振り返った。
「今すぐタクシーを呼んでくださるなら、帰っても結構ですよ。説明は数日中にご連絡するとミカ子さんに伝えてください。そうそう、タクシーが来るまではここにいてください。万が一のとき、逃げる手段がないと困りますので。それと、タクシー代は自分で出しますので、気になさらないでください。私が小便の臭いがする車に乗りたくないだけですから」
言いたいことを言い終わったのか、蓮顕さんが再び奥へと足を進めた。
「年を重ねてもこれだけ残留思念が残っているのですから、桜木家は本当に碌でもない一族ですよ。宗也さんは本当によく耐えましたよ」
「あの、なんで宗也さんは先祖の影響を受けなかったんですか?」
「神仏が彼を選んだんです。子が親を選んで生まれてくるというでしょう? それは本当ですが、稀に神仏が決めることもあるんですよ。
酷い家系に生まれたのは、神仏が選んだ修行。
これは内緒にするべきでしょうが、明友さんについている神仏から止められないので言いますね。桃花さんも朔也さんも、神仏が選んだ魂です。すべては、朔良さんが現世で修行をしながら悲願を達成するために采配された魂なんです。朔也さんの場合は前世の朔良さんとのご縁もあり選ばれたそうです。おっと、これ以上は私からは言えません」
蓮顕さんが足を止めた。
そこは敷地と森の境だった。
とはいえ、ハッキリしていただろう境は、拡張工事による木の伐採で、一〇本近く無秩序に倒されて、少しあやふやになっていた。倒された木のうち、三本ほどが瓦礫の山を半壊させている。森へと倒れている木もあれば、切られたものの倒れていない木に支えられて斜めになっているものもある。
「明友さんが体験した霊障の正体がこれです」
「もしかして、伐採された木ですか」
「ええ。神仏系の本をいくつか読んでいらしたら、知っているんじゃないですか。木霊の恐ろしさを」
蓮顕さんが溜め息をついた。
俺は顔面を引き攣らせて、数歩後じさりした。
「ご想像通りですよ。木霊鎮めがされていません。細い木は太さがさほどでない木はいいんですが、ほら、結構太い木があるでしょう。こういう木には木霊という精霊がついていることがあります。ついている木を切ったら、祟り殺されたりするでしょうね。
まさに今、木霊たちは祟っている最中ですよ。だから、桜木家の血縁でない人が次々死んでいく。土地購入者は現場を見に来たんじゃないでしょうか。その時に祟られた。まあ、今祟られなくても、順番に祟られるでしょうからね」
「全部込みでお祓いできるんですか?」
「出来なくはないでしょうが、出来る人は少ないし、命がけになります。私なら絶対に引き受けません」
「だから、原因を見るだけなんですね」
「さすがにここまで呪いと祟りのオンパレードだとは思いませんでしたよ。この森の広範囲も呪われています。ここの木で丑の刻詣りした人もいますし、蛇や猫を釘で打ちつけたり、人間を木に縛りつけて放置したまま死なせたり……。足を踏み入れたくないですね」
そう言いながら、木々が倒されたところに蓮顕さんが入っていく。
俺も後を追うべきか迷っていると、蓮顕さんが足を止めた。
「ここですね、ここ。まわりの影響もあり、もう消え去りそうですけど、救わなければならない霊の欠片が残っています」
蓮顕さんが優し気に微笑んだ。
蓮顕さんの横に転がる石に目が釘付けになる。真っ二つで割れていなければ、蓮顕さんの頭くらいのサイズだ。
石のところに透けている女性が見える。
長い黒髪の女性だ。
割れた石を抱きかかえるように覆いかぶさり、泣いている。
あれ?
どうしてか、女の声が聞こえてきた。
女はすすり泣きながら、『ごめんなさい』と繰り返していた。
何故だか、俺は泣きたくなった。
この感覚に似たのを知ってる。
イジメで家に閉じこもるようになった俺は、ちょっとしたことで癇癪を起してはお袋を泣かせていた。激しく叩いてくる俺を、親父は黙って身を固くして受け止めてくれた。兄ちゃんは、投げつけて割れた皿を黙って拾ってくれることもあれば、「お前が今投げた本は、お前を傷つけたことがあるか? ないだろ! なのに、お前は投げてボロボロにするのか! そんなのお前をイジメたヤツと同じだろ‼」と激しく叱ってくれたりした。
けど、俺は自分が悪いことを理解しながら謝らなかった。
大切な人を傷つけた罪悪感だ。
「『ごめんなさい』」
勝手に俺の口から声が漏れた。
感情を堪えきれずに唇が震え、声も震えた。
「『……ごめんなさい。お母さん、ごめんなさいっ‼』」
俺の足が勝手に走りだす。
倒れている木々に足を取られるが、体は前のめりになり、女に向かう。
体も感情も何かに乗っ取られたように、勝手に動く。
誰かの感情と一緒に、俺の知らない記憶が一気に流れてくる。
目頭が熱い。
視界が滲む。
涙が溢れてきて、俺は鼻をすすった。
「『お母さん! お母さん‼』」
俺は両膝をついて、石に抱きついた。
いや、女を抱きしめていた。
体温も感触もないけれど、しっかりと女を抱いていた。
女が顔を上げて、信じられない顔をして俺の両頬を確かめるように触れてきた。
「『りょう……た?』」
「『そうだよ。お母さんの息子の良太だよ」』
「『良太っ。良太!!』」
女が俺を抱きしめ、俺の両腕が女の背中にまわされる。
二人でヒシと抱き合い、俺はむせび泣き、女は号泣する。
段々と色鮮やかになるように、相手の体温が伝わってきて、触れている感覚がしてくる。
俺を乗っ取る男の名前は良太で、良太の母親には名前がなかった。あったのかもしれないが、誰も女を名前で呼ばなかった。「あれ」「それ」「女」などと呼ばれていた。
良太に名がついたのは、家長の気まぐれだった。名前の由来は知らない。適当につけたのだろう。
良太の母親は、性奴隷だった。
少し日本人離れした美しい見た目はもちろん、異国の血により青い目をしていた。
母親を生んだ親は、出島で外人の接客を強要され、身ごもってしまった末に生まれた子だと、良太は聞かされていた。
桜木家の家長は母親をいたく気に入り、買い取って蔵の二階の座敷牢に入れると、毎日のように抱いた。家長が留守や寝ているのを見計らい、その祖父や兄弟が、母親を無理に抱いたこともあった。
座敷牢には小さな竹格子の窓があったが、それを閉じる板や障子なく、開けっ放しの状態だった。そのため、朝昼晩関係なく男女の声が外に丸聞こえとなっていた。排泄などを地面に落とすための小さな穴もあった。
蔵から聞こえる声をオカズに自慰する者もいれば、家長の妻は汚らしい物を見るかのように顔を歪めて通り過ぎたりと、酷い有り様だった。
良太は誰かが母親を孕ませ、生まれた子供だった。だから、存在しない者として扱われた。性奴隷の母親もそうだ。
桜木家の男ども以外に、家長が気に入った客人などに母親を犯させて楽しんでいた。
だから、良太は桜木家の血を引いていない可能性があった。
堕胎させられなかったのは、家長の気まぐれだ。
生まれてから、何度も聞かされた。
「青い目で生まれなかったら、家畜の餌だったんだぞ。青い目に生まれて良かったなあ。もう少し大きくなったら、ここに俺のをぶち込んで可愛がってやるかなあ。男だから身ごもる心配もないし、可愛い顔してるし、本当にいい買い物をした」
家長にとって、母親も良太も玩具だった。
時に家長は、牢屋式の前で未発達な良太の体を弄ぶことがあった。良太はペニスを舐められ、吸われ、口腔を舐めまわされ、ない胸を揉まれて吸われ、小さな肛門に舌や指を入れられた。良太が泣く姿を見て、家長は「そんなに喜んで、母親に似てヤラシイ子だ」と喜んだ。
「やめて! 私が変わりますから、やめてください」
座敷牢の格子を掴み、隙間から必死に良太へと手を伸ばして泣き叫ぶ母親を見て、家長は興奮し、勃起するようなヤツだった。
母親は大概、白の長襦袢に豪華な内掛けを一枚羽織っていて、男はいつ見ても母親が一番綺麗だと思っていた。
そして、ツラい生活の中で、ただ一人だけ自分を大切に思ってくれている母親が大好きだった。近くで会えても格子越しで、一度も抱きしめてもらえなかったけれど、良太にとって母親はかけがえのない存在だった。
良太が八歳を迎えるときには、男たちに抱かれるようになっていた。
桜木家の女たちには嫌われていたが、傷をつけたら自分たちの命がないからと、食事を抜かれたり暴力を振るわれることはなかった。
子供たちからは罵声を浴びせられたり、軽く暴力を振られたりしていた。時には、大人たちの真似だと良太を犯して笑っていた。
蔵の前で青姦される良太を助けようと、小さな窓から母親が泣いて叫ぶことが増えた。
母親は無力だった。
悲しいことに良太も無力だった。
親子揃って性奴隷となっていた良太に、転機が訪れたのは一〇歳の時だった。
初夏の昼過ぎだった。
晴れ渡った空の下、家長が一人の旅商人を連れてきた。
二〇代くらいの男である旅商人は、江戸にある問屋の息子で、修行として全国を行脚しながら小間物を売り買いしていたという。
旅商人を気に入った家長は、さっそくいつもの悪い癖がでた。
旅商人の前で、旅商人と自分が食べるためだけに牛を溺死させ、汚らしく解体させた。
客のためだけに一頭を殺すのは、権力と富の見せつけであり、冷蔵庫がない当時、贅沢すぎる行為だった。
旅商人はずっと笑顔だった。
横で家長が解体ショーを楽しみながら良太に猥褻行為をしていても、旅商人はにこやかにしていた。
家長はますます旅商人を気にって、「お前は俺と気が合うな。持っている小間物を全部倍の値段で買ってやろう。オマケでコイツを夜のお供につけてやる」と、良太の尻を叩いた。
すぐに宴会を始めると家長が告げて、みんなが大慌てで支度する中、旅商人に金が支払われた。
体を綺麗に洗われた良太は、白い寝間着姿で誰いない客間に連れてこられた。
漏れてくる宴会の賑わいを聞きながら、良太は眠気に耐え切れず、そのまま寝てしまった。
「良太君、起きて。良太君」
繰り返し聞こえる小声に良太が目を開けると、部屋は明るかった。
障子越しに満月が部屋を照らしていたからだ。
良太を起こしたのは、旅商人だった。
旅商人は身支度を整えていた。
「声を絶対に出しちゃいけないよ。私の指示に従うこと」
旅商人の言葉に良太は黙って頷いた。
家長が気に入っている旅商人の言葉は絶対だ。守らなければ、激しい折檻か、家長の親族による輪姦か。今まで受けた処罰が脳内を駆け巡った。
旅商人はそっと障子を開けると縁側へと良太を引っ張り、懐から草鞋を取りだした。
「今は一刻も早く遠くに行くことだからね、良太君の草鞋は後で渡すね」
そう言って、旅商人は草鞋を履き、良太をおんぶすると足早に歩きだした。
蔵の前を通る時、良太は窓へと顔を向けた。
母親が見ていた。
母親は何も言わなかった。
良太は声を出すなと旅商人に言われていた。
その時の良太は、これが母親との一生の別れになると思わなかった。
それからの良太は、文字や計算を習い、江戸にある大店の丁稚になった
ヤマネさんの車に乗り、最初の呪いがあったと婆さんが言っていた土地に向かう。
「昼食、出なかったですねえ」
俺は残した歌舞伎揚げを蓮顕さんに分けた。もちろん、二つ多く渡した。
トイレ休憩で購入していたペットボトルで水分を補給していたら、腹が鳴った。
いつもは他人の車内での飲食は気を遣うが、今日は別にいいだろうと残った歌舞伎揚げを食べていく。
「帰りにお蕎麦を食べましょう。明友さんは天ぷら山盛りにしてください。私は大根おろしがいいですねえ」
返事をしてくれるものの、蓮顕さんはどこか上の空だ。
婆さんが言うには、土地購入者の親族から「いわくつきの場所を買わされた。更地にして売らなかったのは、呪われると知っていたからだ」と難癖をつけられた土地だとか。
婆さんは現在、土地購入代の全額返金と、途中までの工事費全額負担を求められており、購入者本人は原因不明の病気で入院中だそうだ。
親族の死はどうでもいいが、自身が入居する老人ホームの資金は逃したくないと、婆さんは清々しいまでに言い切っていた。
霊障と思われる事象が発生したのは、工事の途中から。建物をすべて崩し、後ろの森を伐採し始めたところで工事はストップ。作業を再開するたびに機材が止まり、作業員が怪我や病気で次々リタイア。健康診断で問題のなかった人間が突然の末期癌で死亡。今現在、会社全体が機能しなくなっているそうだ。
婆さんが俺たちをすんなり会ってくれたのは、昨日の昼過ぎに宗也さんから連絡があったからで、「原因が霊障かを確認するだけなら、無料で引き受けてくれるお坊さんがいる」と言われ、タダならととっとと寄こせとトントン拍子に話が進み、今日に至ったそうで、俺がその事実を知ったのは、家を後にする一〇分ほど前。普通に家系図を見せてもらって、話を伺うんだと思っていた俺は、蓮顕さんの営業スマイルがしたり顔に見えるようになってしまっていた。
車に乗り、二〇分ほど経過した。
目的地はまだなのだろうかと思った時、蓮顕さんが居住まいを正した。
「車を停めてください」
蓮顕さんの言葉に、ヤマネさんが「ヒィッ!」と小さく悲鳴を上げた。
点在する民家と田畑しかない道は、舗装はされているがセンターラインがなく、ギリギリ二台の乗用車が擦れ違える道幅だ。
対向車も後ろを走る車もなく、ヤマネさんは路肩の舗装されていた草むらに車体の半分を突っ込ませて停車した。
「ずっと毘沙門天様に相談していたのですが、このまま行けば確実にこの中から死者がでます」
淡々とした蓮顕さんとは真逆に、ヤマネさんがいきなり「誰です? 死ぬのは誰です? 私じゃないですよね」と運転席と助手席の間から身を乗りだしてきた。
「誰一人死なず、障りもないように、今から渡す紙に生年月日と年齢、性別と名前もお書きいただき、それで自身の体を撫でていただきます。終わりましたら、その髪に息を吹きかけて、自分のポケットに仕舞ってください。注意事項はただ一つ。ポケットから紙を食みださせないことです。少しでも食みだしたら死ぬと考えてください。筆記用具はなんでも構いません。では、お配りします」
蓮顕さんは、最初にヤマネさんに紙を差しだした。ヤマネさんはそれを引っ手繰ると、グローブボックスを開け、物を掻き出しながらペンをとりだした。助手席を散らかしたまま窓を台代わりにして書いていく。
俺も紙を受け取った。神社で何回か貰って書いたことがある人型の紙だ
俺はリュックから引き用具を取りだした。
蓮顕さんにもシャープケンも渡して、言われたことをすべて終えると、蓮顕さんから「ありがとうございます」とペンを返された。
「これって、神道ですねよ」
気になって尋ねると、
「神仏習合と神仏分離は授業で習い、ご存じですよね」
ようやく蓮顕さんの顔に笑顔が戻った。
「そろそろ神仏分離をやめていただきたいところですが、神仏習合の名残は様々あるんですよ。それに、どちらも取得される方もいましてね。私もその一人なんですよ。それに、同じ神を寺も神社も祀っていたりするでしょう」
「大黒天や弁財天とか有名ですよね」
「日本は融合と調和に優れていますからね。そこは柔軟に考えていいと思いますよ。修験者がまさにそれですね」
「そろそろ気を引き締めてください。後一〇分くらいで着きますから」
蓮顕さんはお茶を軽く飲むと、
「向かってください」
萎縮しているヤマネさんに声をかけた。
再び目的地に向かい始めたものの、徐々に空気が重く淀んできた気がして、窓を少し開けた。
だが、空気はますます悪くなるばかりで、軽く車に酔い始めてきた。
晴れているのに空が暗い。
体が重くて息苦しい。
軽い耳鳴りと頭痛がして、俺はジャスミンティーを少し飲んだ。
「ちょっとスミマセン」
俺は上体を猫のように丸くして、グッタリトシートに横たわった。
「俺は奥様に頼まれて仕方なくついてきてるだけなんですよ。頼まれたこと以上は無理なんで、俺の車で吐かないでくださいよ。吐いたら子供だろうが弁償させますから」
ビビりながらも嫌そうに捲し立ててきたヤマネさんは元気そうだ。弱ってる人間には強気になるタイプらしい。手下は主に似るんだろうな。性根が腐ってるとこが婆さんにそっくりだ。
車が進むにつれて、具合が悪化していく。
車が停まった。
「つきましたよ。吐くなら外で吐けよ。」
最後の、ヤマネさんが俺に向けた言葉だけ、容赦なくキツイい。
俺は外に出ると、しゃがみ込んだ。
なんだこれ。
車内にいるほうがまだマシなんですけど。
「コイツ死ぬんですか?」
なるほど、ヤマネが俺に強気なのは、死ぬのは自分でなく俺だと思っているからか。
「さあ、どうでしょうか」
蓮顕さんははぐらかすと、俺の横にしゃがんだ。
「大丈夫ですよ。形代はちゃんと機能しています。今、修行をさせられていると思ってください。アナタについている神仏が、今後のアナタの役に立つと考え、態と体験だけさせているだけです。カタシロがなければ、彼も私も同じ状態になっていますよ」
蓮顕さんが俺だけに聞こえるように囁くと、少し後ろへ体を向けた。
「お考えには賛同しますが、人の身は弱く、このまま続けますと、彼は本懐を遂げられません。どうか、少し緩めていただけないでしょうか」
蓮顕さんが俺の後ろに語り掛けた。
「明友さん、少し堪えてくださいね」
蓮顕さんは俺の体を支えながら、俺の肩甲骨の間を強く三回叩いた。
途端に、体が楽になった。
「立てますか?」
蓮顕さんに言われて、俺は「立てます」と答えながらスクッと立ち上がった。
さっきの不調は一体なんだったんだ?
思わず首を傾げる俺に、蓮顕さんもホッとした表情で立ち上がった。
「仏師として一生高みを目指すならば、こうした霊障を体験させるのもよいだろうという神仏の慈愛ですよ」
「今のは、亡くなっていった桜木さんたちが味わったものと同じですか?」
「全然違います。前を見てください」
言われて、俺はやっと辺りを見遣った。
後は、小道を挟んだ両方に耕作放棄地らしい草だらけの土地が広がり、前には赤のカラーコーンが二つ倒れていて、その両方に折れたコーンバーが刺さっている。
その向こうには、瓦礫がと山になって点々と放置された。木材の山が二カ所、瓦の山、土と竹と木材が混ざっている山は蔵を解体して出た瓦礫だろうか。他に割れた電球など不用品らしきものが山になっている。
「悪徳業者に更地を依頼したのでしょうね。配線のゴミがないので、日本人の解体業者ではない可能性がありますね」
蓮顕さんは静かに怒っていた。
「まずは井戸ですね。あそこです。いつから使用していないかわかりませんが井戸があります。近づきたくありませんのでここからお話しますが、元々は蓋がしてあったとしたら、何かの理由で亡くなったんでしょう。あそこ、何人かの人間が落ちて亡くなっています。犬や猫も落としていますね。もう井戸を使わないからと、最後にそうやって楽しんだのが見えます。
次に瓦礫がありますが、この開けた土地にも問題があります。神棚がずっとない生活をしていたのでしょう。先祖供養も碌にせず、周辺に無数の死骸が埋められています。人も動物もまばらに埋められていますね。
ああなるほど。桜木家の先祖は代々その性質を受け継いでいますね。跡取りのほとんどが、客人が来た際にここで家畜を解体して、見世物にしていましたね。手下どもに命令して、客の目の前で牛を溺死させた跡取りがいますね。暴れた牛によって出た死傷者も見世物になっていたようですね」
蓮顕さんは事務的に話しているが、内容は人間の所業じゃない。悪魔そのものだ。
「抱きたければ、所構わず女を抱き、犯して殺したこともありますね。近親相姦された女の子が、奥のすでに倒されている木で首を吊っています。身ごもった女を抱いて、喜んでいるなんて……最悪だ」
蓮顕さんが感情を抑えきれず、最後を吐き捨てた。
今、一番ツラいのは、俺に見えないものが見えている蓮顕さんだろう。
「蓮顕さん、もう大丈夫です」
俺はそれしか言えなかった。
「……そうですか」
蓮顕さんが冷ややかな眼差しを俺の後ろに向けた。
見遣れば、ヤマネさんが尻餅をついたまま放尿していた。濡れた部分のスラックスの色が濃くなっている。
「今の話、全部聞いたことあるんじゃないですか?」
蓮顕さんの一言に、ヤマネが「違う」と懸命に首を振るが、恐怖に染まった顔は隠せない。
「だったら、なぜ小便を大量に漏らしてるんですか? こんな野蛮な男どもが代々地主を続けていたら、村人は陰で文句をいい、不幸をよろこぶでしょうね。ヤマネさん、あなたもそうしてきたのでしょう? 歴代の地主に比べたら大したことない暴力でも、されたらつらいですよね。ここ出身の村人たちは、先祖から地主の所業を聞いて育ち、自分たちも被害に遭い、互いにされたことや先祖代々の恨みをぶちまけて生きてきた。そこに、ミカ子さんみたいに他所から来た人間も加わっていった」
男がガタガタ震えながら、まるで殻に閉じこもろうとするかのように体を丸めた。
蓮顕さんが飽きたように踵を返した。
「解体清払いしていないようですが、したところで無意味ですね。この開けた土地に神仏はいません。年中行事を疎かに、年末年始はバカ騒ぎする日と勘違いし、それ以前に、地鎮祭も竣工式も何一つまともにやってなかったでしょう」
蓮顕さんが奥へと歩きだした。
俺はそれについていく。
「ああ」
蓮顕さんが振り返った。
「今すぐタクシーを呼んでくださるなら、帰っても結構ですよ。説明は数日中にご連絡するとミカ子さんに伝えてください。そうそう、タクシーが来るまではここにいてください。万が一のとき、逃げる手段がないと困りますので。それと、タクシー代は自分で出しますので、気になさらないでください。私が小便の臭いがする車に乗りたくないだけですから」
言いたいことを言い終わったのか、蓮顕さんが再び奥へと足を進めた。
「年を重ねてもこれだけ残留思念が残っているのですから、桜木家は本当に碌でもない一族ですよ。宗也さんは本当によく耐えましたよ」
「あの、なんで宗也さんは先祖の影響を受けなかったんですか?」
「神仏が彼を選んだんです。子が親を選んで生まれてくるというでしょう? それは本当ですが、稀に神仏が決めることもあるんですよ。
酷い家系に生まれたのは、神仏が選んだ修行。
これは内緒にするべきでしょうが、明友さんについている神仏から止められないので言いますね。桃花さんも朔也さんも、神仏が選んだ魂です。すべては、朔良さんが現世で修行をしながら悲願を達成するために采配された魂なんです。朔也さんの場合は前世の朔良さんとのご縁もあり選ばれたそうです。おっと、これ以上は私からは言えません」
蓮顕さんが足を止めた。
そこは敷地と森の境だった。
とはいえ、ハッキリしていただろう境は、拡張工事による木の伐採で、一〇本近く無秩序に倒されて、少しあやふやになっていた。倒された木のうち、三本ほどが瓦礫の山を半壊させている。森へと倒れている木もあれば、切られたものの倒れていない木に支えられて斜めになっているものもある。
「明友さんが体験した霊障の正体がこれです」
「もしかして、伐採された木ですか」
「ええ。神仏系の本をいくつか読んでいらしたら、知っているんじゃないですか。木霊の恐ろしさを」
蓮顕さんが溜め息をついた。
俺は顔面を引き攣らせて、数歩後じさりした。
「ご想像通りですよ。木霊鎮めがされていません。細い木は太さがさほどでない木はいいんですが、ほら、結構太い木があるでしょう。こういう木には木霊という精霊がついていることがあります。ついている木を切ったら、祟り殺されたりするでしょうね。
まさに今、木霊たちは祟っている最中ですよ。だから、桜木家の血縁でない人が次々死んでいく。土地購入者は現場を見に来たんじゃないでしょうか。その時に祟られた。まあ、今祟られなくても、順番に祟られるでしょうからね」
「全部込みでお祓いできるんですか?」
「出来なくはないでしょうが、出来る人は少ないし、命がけになります。私なら絶対に引き受けません」
「だから、原因を見るだけなんですね」
「さすがにここまで呪いと祟りのオンパレードだとは思いませんでしたよ。この森の広範囲も呪われています。ここの木で丑の刻詣りした人もいますし、蛇や猫を釘で打ちつけたり、人間を木に縛りつけて放置したまま死なせたり……。足を踏み入れたくないですね」
そう言いながら、木々が倒されたところに蓮顕さんが入っていく。
俺も後を追うべきか迷っていると、蓮顕さんが足を止めた。
「ここですね、ここ。まわりの影響もあり、もう消え去りそうですけど、救わなければならない霊の欠片が残っています」
蓮顕さんが優し気に微笑んだ。
蓮顕さんの横に転がる石に目が釘付けになる。真っ二つで割れていなければ、蓮顕さんの頭くらいのサイズだ。
石のところに透けている女性が見える。
長い黒髪の女性だ。
割れた石を抱きかかえるように覆いかぶさり、泣いている。
あれ?
どうしてか、女の声が聞こえてきた。
女はすすり泣きながら、『ごめんなさい』と繰り返していた。
何故だか、俺は泣きたくなった。
この感覚に似たのを知ってる。
イジメで家に閉じこもるようになった俺は、ちょっとしたことで癇癪を起してはお袋を泣かせていた。激しく叩いてくる俺を、親父は黙って身を固くして受け止めてくれた。兄ちゃんは、投げつけて割れた皿を黙って拾ってくれることもあれば、「お前が今投げた本は、お前を傷つけたことがあるか? ないだろ! なのに、お前は投げてボロボロにするのか! そんなのお前をイジメたヤツと同じだろ‼」と激しく叱ってくれたりした。
けど、俺は自分が悪いことを理解しながら謝らなかった。
大切な人を傷つけた罪悪感だ。
「『ごめんなさい』」
勝手に俺の口から声が漏れた。
感情を堪えきれずに唇が震え、声も震えた。
「『……ごめんなさい。お母さん、ごめんなさいっ‼』」
俺の足が勝手に走りだす。
倒れている木々に足を取られるが、体は前のめりになり、女に向かう。
体も感情も何かに乗っ取られたように、勝手に動く。
誰かの感情と一緒に、俺の知らない記憶が一気に流れてくる。
目頭が熱い。
視界が滲む。
涙が溢れてきて、俺は鼻をすすった。
「『お母さん! お母さん‼』」
俺は両膝をついて、石に抱きついた。
いや、女を抱きしめていた。
体温も感触もないけれど、しっかりと女を抱いていた。
女が顔を上げて、信じられない顔をして俺の両頬を確かめるように触れてきた。
「『りょう……た?』」
「『そうだよ。お母さんの息子の良太だよ」』
「『良太っ。良太!!』」
女が俺を抱きしめ、俺の両腕が女の背中にまわされる。
二人でヒシと抱き合い、俺はむせび泣き、女は号泣する。
段々と色鮮やかになるように、相手の体温が伝わってきて、触れている感覚がしてくる。
俺を乗っ取る男の名前は良太で、良太の母親には名前がなかった。あったのかもしれないが、誰も女を名前で呼ばなかった。「あれ」「それ」「女」などと呼ばれていた。
良太に名がついたのは、家長の気まぐれだった。名前の由来は知らない。適当につけたのだろう。
良太の母親は、性奴隷だった。
少し日本人離れした美しい見た目はもちろん、異国の血により青い目をしていた。
母親を生んだ親は、出島で外人の接客を強要され、身ごもってしまった末に生まれた子だと、良太は聞かされていた。
桜木家の家長は母親をいたく気に入り、買い取って蔵の二階の座敷牢に入れると、毎日のように抱いた。家長が留守や寝ているのを見計らい、その祖父や兄弟が、母親を無理に抱いたこともあった。
座敷牢には小さな竹格子の窓があったが、それを閉じる板や障子なく、開けっ放しの状態だった。そのため、朝昼晩関係なく男女の声が外に丸聞こえとなっていた。排泄などを地面に落とすための小さな穴もあった。
蔵から聞こえる声をオカズに自慰する者もいれば、家長の妻は汚らしい物を見るかのように顔を歪めて通り過ぎたりと、酷い有り様だった。
良太は誰かが母親を孕ませ、生まれた子供だった。だから、存在しない者として扱われた。性奴隷の母親もそうだ。
桜木家の男ども以外に、家長が気に入った客人などに母親を犯させて楽しんでいた。
だから、良太は桜木家の血を引いていない可能性があった。
堕胎させられなかったのは、家長の気まぐれだ。
生まれてから、何度も聞かされた。
「青い目で生まれなかったら、家畜の餌だったんだぞ。青い目に生まれて良かったなあ。もう少し大きくなったら、ここに俺のをぶち込んで可愛がってやるかなあ。男だから身ごもる心配もないし、可愛い顔してるし、本当にいい買い物をした」
家長にとって、母親も良太も玩具だった。
時に家長は、牢屋式の前で未発達な良太の体を弄ぶことがあった。良太はペニスを舐められ、吸われ、口腔を舐めまわされ、ない胸を揉まれて吸われ、小さな肛門に舌や指を入れられた。良太が泣く姿を見て、家長は「そんなに喜んで、母親に似てヤラシイ子だ」と喜んだ。
「やめて! 私が変わりますから、やめてください」
座敷牢の格子を掴み、隙間から必死に良太へと手を伸ばして泣き叫ぶ母親を見て、家長は興奮し、勃起するようなヤツだった。
母親は大概、白の長襦袢に豪華な内掛けを一枚羽織っていて、男はいつ見ても母親が一番綺麗だと思っていた。
そして、ツラい生活の中で、ただ一人だけ自分を大切に思ってくれている母親が大好きだった。近くで会えても格子越しで、一度も抱きしめてもらえなかったけれど、良太にとって母親はかけがえのない存在だった。
良太が八歳を迎えるときには、男たちに抱かれるようになっていた。
桜木家の女たちには嫌われていたが、傷をつけたら自分たちの命がないからと、食事を抜かれたり暴力を振るわれることはなかった。
子供たちからは罵声を浴びせられたり、軽く暴力を振られたりしていた。時には、大人たちの真似だと良太を犯して笑っていた。
蔵の前で青姦される良太を助けようと、小さな窓から母親が泣いて叫ぶことが増えた。
母親は無力だった。
悲しいことに良太も無力だった。
親子揃って性奴隷となっていた良太に、転機が訪れたのは一〇歳の時だった。
初夏の昼過ぎだった。
晴れ渡った空の下、家長が一人の旅商人を連れてきた。
二〇代くらいの男である旅商人は、江戸にある問屋の息子で、修行として全国を行脚しながら小間物を売り買いしていたという。
旅商人を気に入った家長は、さっそくいつもの悪い癖がでた。
旅商人の前で、旅商人と自分が食べるためだけに牛を溺死させ、汚らしく解体させた。
客のためだけに一頭を殺すのは、権力と富の見せつけであり、冷蔵庫がない当時、贅沢すぎる行為だった。
旅商人はずっと笑顔だった。
横で家長が解体ショーを楽しみながら良太に猥褻行為をしていても、旅商人はにこやかにしていた。
家長はますます旅商人を気にって、「お前は俺と気が合うな。持っている小間物を全部倍の値段で買ってやろう。オマケでコイツを夜のお供につけてやる」と、良太の尻を叩いた。
すぐに宴会を始めると家長が告げて、みんなが大慌てで支度する中、旅商人に金が支払われた。
体を綺麗に洗われた良太は、白い寝間着姿で誰いない客間に連れてこられた。
漏れてくる宴会の賑わいを聞きながら、良太は眠気に耐え切れず、そのまま寝てしまった。
「良太君、起きて。良太君」
繰り返し聞こえる小声に良太が目を開けると、部屋は明るかった。
障子越しに満月が部屋を照らしていたからだ。
良太を起こしたのは、旅商人だった。
旅商人は身支度を整えていた。
「声を絶対に出しちゃいけないよ。私の指示に従うこと」
旅商人の言葉に良太は黙って頷いた。
家長が気に入っている旅商人の言葉は絶対だ。守らなければ、激しい折檻か、家長の親族による輪姦か。今まで受けた処罰が脳内を駆け巡った。
旅商人はそっと障子を開けると縁側へと良太を引っ張り、懐から草鞋を取りだした。
「今は一刻も早く遠くに行くことだからね、良太君の草鞋は後で渡すね」
そう言って、旅商人は草鞋を履き、良太をおんぶすると足早に歩きだした。
蔵の前を通る時、良太は窓へと顔を向けた。
母親が見ていた。
母親は何も言わなかった。
良太は声を出すなと旅商人に言われていた。
その時の良太は、これが母親との一生の別れになると思わなかった。
それからの良太は、文字や計算を習い、江戸にある大店の丁稚になった
