7
いいか悪いかで言えばあまりよくはないのだろうが、しかし八千賀には問題なかった。
「遠野くーん。おはよ」
「おはよう」
西棟の空き教室の入口から目的地までクラスメイトに挨拶をしながら進んでいき、廊下側の壁際にいる遠野に声をかける。彼は周りに一切人を寄せ付けずに黙々と立ったまま読書をしていたが、八千賀が声をかけるとすぐに本を閉じた。そう、分かるだろうか。遠野が挨拶を返すのである。
教室には半分ほどの人数が集まっていて、二箇所ほど女子達が固まって髪の毛をセットしたりしている。
今使っている西棟二階の教室は、八千賀達四組が使っている倉庫代わりの場所だ。使わない机や椅子をこちらに運び出し、文化祭中に荷物は全てここに置いておくことになっている。
「遠野、今日午後一緒にまわろ」
「他に回る人はいないのか?今日は一般公開だけど」
「俺は遠野くんとデートしたいって言ってんの。する?」
「する」
これも分かるだろうか。遠野は誰が判断しても笑顔だと頷く微笑みを浮かべながら頷いているのだ。
付き合うようになってから、彼の態度は軟化した。それはもう、もしかして遠野は双子で夏休みの間に入れ替わったとか、そうでなければ記憶喪失にでもなって八千賀が弱みにつけ込んだかどうかを疑うほどである。実際、夏休み明けてから登校した時、遠野の様子を一目見た椎名は「やっぱ遠野って呪いでおかしくなった?」などとのたまいやがったのである。失礼すぎではなかろうか。なんて言い草だ。
確かに遠野が笑顔で八千賀の「遠野好き!」と頷くことに驚愕するのは理解できるが、それにしても「お前ら距離が……、いや、なんか……おかしいだろ」とケダモノを見る目で言われたのはいただけない。手を繋ぐのはさすがに断られたので、そんな変なことはしていない。隣同士で普通に会話をするという、いたって正常な友達同士に擬態できているはずだ。
なお丘は「えっもしかしてヤッ…」まで言いかけて椎名に頭を殴られていた。
「ねぇ八千賀ぁ。ちょっといい〜?」
「おー。なにー?」
「お願いがあるんだけどさ」
女子生徒が声をかけてきたので、ぱっと視線を彼女に移す。女子生徒は遠野が嫌なのか、二人から離れたところにいて八千賀に対して手を招いた。来い、ということだろう。
文化祭二日目である。
清進高校の文化祭は二日間であり、二日目に一般公開をしている。八千賀と遠野は二日目の午前にクラスの仕事を割り振られており、午後は自由となっている。
結果として、出し物はお化け屋敷から変更することはなかった。
どんなに先生や生徒会に抗議をしても「決まったことだから」と渋られ、そもそもこれから準備をして間に合うのか、という問題もある。予備教室を使いたくないというのであれば移動してもよい、と一応提案はされていたがクラスの意見としては「お化け屋敷をやりたくない」で、もっと言えば「遠野といたくない」だ。八千賀と遠野の気持ちが通じあったあの日、教室に”持って行った”が出てこなければ歓迎した提案であろうが、場所は関係ないことが証明されてしまったため、もはや何をどうしたらいいのかわからない状態だった。
クラスで何度も話し合ったが、一度混乱したクラスメイト達の話はまとまらなかった。結局のところ、もはややる気が低下している以上、新しい企画を考え直して巻き返すをはかることは出来ないのだ。
けれどクラスメイト達は夏休みが終わってからいくらかは冷静になったらしく、あの異様な重苦しい空気はほとんどなくなっていた。露骨な排斥と、過剰な怯えがなくなっていた。
ただし直接的な原因は「持って行った」の声を聞くことがなく、不可思議な現象が二学期以降起きなかったからだろう。遠野が「ボールペンはきちんと供養できた」と言っていたので、そのおかげにちがいない。とにかく正午近くの一番明るい時間に不可解な現象が起きることはあれ以降全くなくなった。
クラスの雰囲気も夏休み前のものに似ている。とは言え、やはり以前と以降ではどうしても遠野を奇異の目で見ることは増えているのだが。
それでも日々は少しずつ日常に戻って行った。あの一週間が特別なだけでこれからは何も起こらない、と怖々と過ごしていたが、喜ばしいことに一日目は平穏無事だった。四組はお通夜のような空気で文化祭を迎え、終わり頃には全員が気の抜けた顔で、静かに喜んでいた。
このお化け屋敷を乗り越えれば怪異は消滅したと思ってもいいだろう。
遠野と言えば、彼は八千賀以外には態度を変えていなかった。短い挨拶と消極的な関わり合いで厚い壁を作っているままだ。夏休みの件で今まで以上に学校中から噂話や注目を浴びているので、八千賀としては仕方がないのだろうと思う。腫れ物扱いや好奇の視線に晒されていて、愛想良くするのも難しい。それにむしろ遠野が周りに溶け込むことなく独りでいることを、周りは安堵すらしているのだ。
それでも遠野は普段通りに背を伸ばし、誰かの言葉には揺れることなく凛として学校にいる。
「八千賀、悪いんだけど中のお化けやってくれる?」
「お化け?それってもう決まってなかった?」
話しかけてきた女子生徒からの要望に少なからず面食らった。八千賀は受付係をすることになっていて、お化け役はすでに配役と場所が決定しているはずである。しかし実行委員ではない女子生徒は、一緒に不思議そうにする様子もなく素直に「うん」と頷いている。
「ほら、あの子らさ……。あんま参加してないじゃん?だからお化け役やらせようよって話になってて」
女子生徒が少し小声になって、黒板前に集まっている数人の女子生徒を視線で指した。確かに彼女達は準備も積極的に参加するわけでもなく、そもそもがクラスの行事自体にあまり参加をしたがらない静かなグループだ。よくもわるくも受動的な子達である。
そして今まさに藤宮が彼女達へと話かけていた。おそらく要件は彼女が話していることだろう。
他のクラスはどこまできっちり決めるのかは知らないが、四組は一度出し物ができるかどうかの瀬戸際まで進行不可になったので忙しないところがあった。土壇場で変更があるのも仕方がない。
「あー……」
だが、そうは言ってもあまり頷きたくはなかった。お化け役で、そもそも八千賀に話が回ってきたということは十中八九「皆がやりたくないこと」だ。そして四組の「みんながやりたくないこと」はこれまでの流れ上、八千賀だけはなんとかしてくれると信じている節がある。結局のところ、「やりたくないこと」には何でもかんでも遠野がどうのという言い訳がつくからだ。
「遠野のせい」「遠野がいるから」。なんとも便利な言葉だ。八千賀は絶対に使いたくはない。
果たして、彼女は言いにくそうに「予備教室の」と続け、八千賀は軽く唸った。この反応は四組ならば許されるだろう。
「鏡の前に椅子と机があって、等身大の人形があるじゃん?なんか適当にそこでお化けっぽいことしてて」
「テキトーすぎね?てかそれ俺必要?」
「必要っていうか……。あの子たちをお化けに入れようとすると、どうしてもそれ必要?みたいなお化けが出てきちゃうんだよね。で、空いてるところでお化け役いけそうなところに人いれてるんだけど。……まぁでも、みんな予備教室いたくないじゃん?あの子らがそれで断るの困るから、一番みんながやりたくない鏡の前を八千賀にいてもらおうって思って……。別のお化けやってた人に受付はやってもらうことになったの」
まさしくハズレくじである。押し付けとも言えるが、彼女の言い分もわかるため八千賀はまたもや唸った。女子生徒はまさか八千賀に断られるとは思っていないようで、申し訳ないという素振りも見せていない。
「だってみんなそこはヤダって言うじゃん?鏡の前ってさ、前に遠野が……」
「……わかった」
ここで八千賀がごねたところで不服は聞き届けられないだろう。これ以上クラスの輪を乱すのも気が引けるし、ただの勘であるが八千賀が怖がるとクラス全体にまたもや恐怖の波が広がる気がする。
頷くと、彼女は「ありがと!」と軽く礼を言うと藤宮の方へ歩いて行った。
「幽霊役?受付じゃなく?」
「そうそう。変更になってさ」
一日目には回らなかった、一年生のクラスのフランクフルトと焼きそばを片手に中庭のすみで遠野と腰を下ろす。ベンチと言った気の利いたものはないが、その代わり半円になっている段差があるのでそこに座っている。
中庭は現在書道部が、大きな紙の上で腰ほどの大きさの筆を握ってパフォーマンスをしており、八千賀達の周りにも何人か座って見ている観客がいた。中庭は渡り廊下からも見下ろせるようになっており、顔をあげると渡り廊下からもスマホを持っている生徒達が見える。友人の姿を撮影しているのだろう。
遠野は登校前にコンビニで購入したらしい烏龍茶の蓋をあけたまま止まっていて、非常に厳しい顔をしている。ちなみに理由はよくわかる。
”持って行け”ではなくトオノさんだ。
クラスでは怪奇現象が一切起きていないが、八千賀と遠野は違う。やはり気を抜くとあらゆる反射物、あやるゆ透明物、そこかしこに存在する建物の構造上の隙間に女性の顔が空に浮かんでいる。ただこちらを見ているだけではなく、たまに傍に来ているのだろう足音や布を引きずる音さえ耳に届く。
そういう時は大抵後ろや真横に本当にいるのだが、八千賀の怪我がよほど嫌だったらしい遠野が守ろうとして抱きしめてきたりするので、実は満更でもない。怖いのを隠して必死に立ち向かう遠野は可愛い。役得である。八千賀の「いいか悪いかでいえば悪い」けれど「問題ない」のはここである。”持って行け”の件は解決したもののトオノさんは相変わらずだ。が、それはそれとして遠野と合法的にイチャイチャできるのでわりと楽しんでいた。
八千賀と違って遠野は「八千賀がトオノさんに好かれている」と信じて疑っていない。とても真剣にトオノさんと八千賀の仲を────この言い方もどうかと思うのだが────引き裂こうとしている。今も彼が書道部の方、つまり正面を向いて眉を寄せているのはトオノさんが気になるのだろう。
「鏡の前だろう?……俺がかわりにやる」
二言目には「怖いから嫌だ」と断りの姿勢を貫く遠野の真摯な提案に思わず破顔した。遠野は高校生による手作りお化け屋敷という、どんなにロークオリティな会場でも絶対に「お化け」「ホラー」のジャンルには近づかないのだ。それが真剣な面持ちで、心配そうに代理を申し出るのだから胸が熱くならない訳がない。嬉しくてやたら口の端が上がりそうになり、お化け役の変更を告げられた時とは真逆のテンションで、ご機嫌に手を振った。
「いいって。まぁちょっと怖いけど、あれから怪我とかとくにしてないし。逆に暗いからトオノさむぐ」
「名前を呼ぶな」
遠野の手で口を塞がれ、今度こそ顰めっ面になった遠野が顔を近づけてきた。
「名前を呼ぶとますます気に入られる。ゆうはすでに目をつけられてるから、気をつけろ。とくにお前はこれから、何があっても名前を呼ばない方がいい」
ゆっくり手を離しながら返事を促される。こくり、と頷くと遠野が雪解けを思わせる笑顔を浮かべた。
「よかった」
「……遠野ってさ、結構ヤキモチ妬く?それとも今のってただの忠告?」
「嫉妬の割合の方が大きい」
むに、と頬を摘まれる。痛くは無い。痛みよりも触れられたところが擽ったくて、そしてやたら熱を持っている。
「そ、そっか……」
居心地が悪いわけでもないのに、何故か気持ちが落ち着かない。名前を呼ぶのでさえ上ずってしまい、そわそわとして浮きかけた手は結局控えめに遠野の手の甲に伸びた。
「ねー、あれが清進名物の不仲匂わせアイドル?」
「そうそう。でも最近は不仲匂わせはやめたらしいよ。ただの匂わせになってる」
初めて八千賀は自分達が周りからどう見られているのか気になった。
その不仲匂わせアイドルってもしかして自分達のこと?
「遠野ってアイドルだったりする?」
「は???」
◾︎
四組のお化け屋敷は「絶叫学級」というなんの捻りもないいかにもな名前である。廊下の教室側の壁は模造紙とダンボールを駆使してそれらしい外観を演出していた。赤いペンキで書かれた絶叫学級という名前の横にはこれまた素直に、恐ろしくストレートに赤い手形などが散らばっている。その手形の中には八千賀のものもあった。古今東西赤い手形は恐怖の象徴である。
中はダンボールで作った仕切り板で迷路になっていて、窓は黒いビニール袋できっちりと覆い、さらに遮光カーテンを締めている。企画を練っている段階では、さらにダンボールで窓を塞ぐ案が出ていたが実行はされなかった。真っ暗だと怖いからだ。
メイク係の女子達にあれこれとお化けらしい化粧を施された八千賀は、手に血を模した絵の具をベッタリ塗られた。扱いに気をつけなければ制服についてしまうだろう。ちなみに絶叫学級のテーマは言わずもがな学校の怪談である。
教室の後ろにある大鏡の前には机と椅子が、黒板と教壇に向かって二セット置いてある。椅子の上には手作りの等身大人形が腰を掛けていて、人形は新聞紙で作った胴体に藤宮の制服を身につけさせている。暗い中で見ると制服を来ているだけでそれらしくなるので不思議だ。
八千賀は人形の隣の机の椅子をひき、人形と同じポーズになるように座った。深呼吸をして、なるべく鏡に意志を向けないように背を向ける。お化け役に具体的な指示はなく、適当にその付近にいればいいということなので、故意に怖がらせなくても座っていれば許されだろう。
お化けの交代をするのに10分ほど入場を止め、時間を過ぎてからまた人が入り始めた。
やって来るのはほとんどが同年代の高校生であとは中学生が多かったが、たまに小学生のグループと保護者と一緒に遊びに来た小学生以下の子供も怖々とやってくるので、案外年齢層は幅広い。
彼ら達は迷路を道なりに進んでいき、曲がり角すぐに備え付けの鏡を見て反応を示すので、まずまずと言うところだった。おそらく驚きポイントは背後の鏡であり、八千賀の中途半端なお化けの扮装は皆見ていないだろう。あ、いるんだ程度である。
そのうちに男女二人組みの高校生がやって来て、女子生徒の方が悲鳴を上げた。
お化け屋敷らしく暗くはしているが、教室内は「真っ暗」とは程遠い。特に鏡付近は窓も近いのでやや明るめである。
そのせいか、少し驚いた素振りを見せるもののお化け屋敷自体を怖がっている人は少ない。悲鳴など上がらないし、なんならスタッフである八千賀達の方がこの会場を恐れている。
女子生徒の声につられたのか、隣の男子生徒はゆっくりとした足取りで八千賀の方へと向かってきた。彼の目は大きく見開かれ、八千賀の肩付近へ視線を固定しつつも何度も後ろを振り返っている。
冷や汗と、嫌な予感が背中を這った。トオノさんだろうか。トオノさんの可能性は多いにある。お化け屋敷の中で、怒り顔か笑顔か、とにかく鏡の中にしかいない「何か」が見えていたら誰だって恐怖を覚える。
お化け役としての役割を放棄し、八千賀も一緒に振り返った。
真っ黒の瞳の学生服の男が、鏡の中から八千賀を凝視していた。
不可解なのは、鏡の中から手が伸びていたことだ。青白いマネキンのような手が、八千賀の肩を掴んでいた。
いいか悪いかで言えばあまりよくはないのだろうが、しかし八千賀には問題なかった。
「遠野くーん。おはよ」
「おはよう」
西棟の空き教室の入口から目的地までクラスメイトに挨拶をしながら進んでいき、廊下側の壁際にいる遠野に声をかける。彼は周りに一切人を寄せ付けずに黙々と立ったまま読書をしていたが、八千賀が声をかけるとすぐに本を閉じた。そう、分かるだろうか。遠野が挨拶を返すのである。
教室には半分ほどの人数が集まっていて、二箇所ほど女子達が固まって髪の毛をセットしたりしている。
今使っている西棟二階の教室は、八千賀達四組が使っている倉庫代わりの場所だ。使わない机や椅子をこちらに運び出し、文化祭中に荷物は全てここに置いておくことになっている。
「遠野、今日午後一緒にまわろ」
「他に回る人はいないのか?今日は一般公開だけど」
「俺は遠野くんとデートしたいって言ってんの。する?」
「する」
これも分かるだろうか。遠野は誰が判断しても笑顔だと頷く微笑みを浮かべながら頷いているのだ。
付き合うようになってから、彼の態度は軟化した。それはもう、もしかして遠野は双子で夏休みの間に入れ替わったとか、そうでなければ記憶喪失にでもなって八千賀が弱みにつけ込んだかどうかを疑うほどである。実際、夏休み明けてから登校した時、遠野の様子を一目見た椎名は「やっぱ遠野って呪いでおかしくなった?」などとのたまいやがったのである。失礼すぎではなかろうか。なんて言い草だ。
確かに遠野が笑顔で八千賀の「遠野好き!」と頷くことに驚愕するのは理解できるが、それにしても「お前ら距離が……、いや、なんか……おかしいだろ」とケダモノを見る目で言われたのはいただけない。手を繋ぐのはさすがに断られたので、そんな変なことはしていない。隣同士で普通に会話をするという、いたって正常な友達同士に擬態できているはずだ。
なお丘は「えっもしかしてヤッ…」まで言いかけて椎名に頭を殴られていた。
「ねぇ八千賀ぁ。ちょっといい〜?」
「おー。なにー?」
「お願いがあるんだけどさ」
女子生徒が声をかけてきたので、ぱっと視線を彼女に移す。女子生徒は遠野が嫌なのか、二人から離れたところにいて八千賀に対して手を招いた。来い、ということだろう。
文化祭二日目である。
清進高校の文化祭は二日間であり、二日目に一般公開をしている。八千賀と遠野は二日目の午前にクラスの仕事を割り振られており、午後は自由となっている。
結果として、出し物はお化け屋敷から変更することはなかった。
どんなに先生や生徒会に抗議をしても「決まったことだから」と渋られ、そもそもこれから準備をして間に合うのか、という問題もある。予備教室を使いたくないというのであれば移動してもよい、と一応提案はされていたがクラスの意見としては「お化け屋敷をやりたくない」で、もっと言えば「遠野といたくない」だ。八千賀と遠野の気持ちが通じあったあの日、教室に”持って行った”が出てこなければ歓迎した提案であろうが、場所は関係ないことが証明されてしまったため、もはや何をどうしたらいいのかわからない状態だった。
クラスで何度も話し合ったが、一度混乱したクラスメイト達の話はまとまらなかった。結局のところ、もはややる気が低下している以上、新しい企画を考え直して巻き返すをはかることは出来ないのだ。
けれどクラスメイト達は夏休みが終わってからいくらかは冷静になったらしく、あの異様な重苦しい空気はほとんどなくなっていた。露骨な排斥と、過剰な怯えがなくなっていた。
ただし直接的な原因は「持って行った」の声を聞くことがなく、不可思議な現象が二学期以降起きなかったからだろう。遠野が「ボールペンはきちんと供養できた」と言っていたので、そのおかげにちがいない。とにかく正午近くの一番明るい時間に不可解な現象が起きることはあれ以降全くなくなった。
クラスの雰囲気も夏休み前のものに似ている。とは言え、やはり以前と以降ではどうしても遠野を奇異の目で見ることは増えているのだが。
それでも日々は少しずつ日常に戻って行った。あの一週間が特別なだけでこれからは何も起こらない、と怖々と過ごしていたが、喜ばしいことに一日目は平穏無事だった。四組はお通夜のような空気で文化祭を迎え、終わり頃には全員が気の抜けた顔で、静かに喜んでいた。
このお化け屋敷を乗り越えれば怪異は消滅したと思ってもいいだろう。
遠野と言えば、彼は八千賀以外には態度を変えていなかった。短い挨拶と消極的な関わり合いで厚い壁を作っているままだ。夏休みの件で今まで以上に学校中から噂話や注目を浴びているので、八千賀としては仕方がないのだろうと思う。腫れ物扱いや好奇の視線に晒されていて、愛想良くするのも難しい。それにむしろ遠野が周りに溶け込むことなく独りでいることを、周りは安堵すらしているのだ。
それでも遠野は普段通りに背を伸ばし、誰かの言葉には揺れることなく凛として学校にいる。
「八千賀、悪いんだけど中のお化けやってくれる?」
「お化け?それってもう決まってなかった?」
話しかけてきた女子生徒からの要望に少なからず面食らった。八千賀は受付係をすることになっていて、お化け役はすでに配役と場所が決定しているはずである。しかし実行委員ではない女子生徒は、一緒に不思議そうにする様子もなく素直に「うん」と頷いている。
「ほら、あの子らさ……。あんま参加してないじゃん?だからお化け役やらせようよって話になってて」
女子生徒が少し小声になって、黒板前に集まっている数人の女子生徒を視線で指した。確かに彼女達は準備も積極的に参加するわけでもなく、そもそもがクラスの行事自体にあまり参加をしたがらない静かなグループだ。よくもわるくも受動的な子達である。
そして今まさに藤宮が彼女達へと話かけていた。おそらく要件は彼女が話していることだろう。
他のクラスはどこまできっちり決めるのかは知らないが、四組は一度出し物ができるかどうかの瀬戸際まで進行不可になったので忙しないところがあった。土壇場で変更があるのも仕方がない。
「あー……」
だが、そうは言ってもあまり頷きたくはなかった。お化け役で、そもそも八千賀に話が回ってきたということは十中八九「皆がやりたくないこと」だ。そして四組の「みんながやりたくないこと」はこれまでの流れ上、八千賀だけはなんとかしてくれると信じている節がある。結局のところ、「やりたくないこと」には何でもかんでも遠野がどうのという言い訳がつくからだ。
「遠野のせい」「遠野がいるから」。なんとも便利な言葉だ。八千賀は絶対に使いたくはない。
果たして、彼女は言いにくそうに「予備教室の」と続け、八千賀は軽く唸った。この反応は四組ならば許されるだろう。
「鏡の前に椅子と机があって、等身大の人形があるじゃん?なんか適当にそこでお化けっぽいことしてて」
「テキトーすぎね?てかそれ俺必要?」
「必要っていうか……。あの子たちをお化けに入れようとすると、どうしてもそれ必要?みたいなお化けが出てきちゃうんだよね。で、空いてるところでお化け役いけそうなところに人いれてるんだけど。……まぁでも、みんな予備教室いたくないじゃん?あの子らがそれで断るの困るから、一番みんながやりたくない鏡の前を八千賀にいてもらおうって思って……。別のお化けやってた人に受付はやってもらうことになったの」
まさしくハズレくじである。押し付けとも言えるが、彼女の言い分もわかるため八千賀はまたもや唸った。女子生徒はまさか八千賀に断られるとは思っていないようで、申し訳ないという素振りも見せていない。
「だってみんなそこはヤダって言うじゃん?鏡の前ってさ、前に遠野が……」
「……わかった」
ここで八千賀がごねたところで不服は聞き届けられないだろう。これ以上クラスの輪を乱すのも気が引けるし、ただの勘であるが八千賀が怖がるとクラス全体にまたもや恐怖の波が広がる気がする。
頷くと、彼女は「ありがと!」と軽く礼を言うと藤宮の方へ歩いて行った。
「幽霊役?受付じゃなく?」
「そうそう。変更になってさ」
一日目には回らなかった、一年生のクラスのフランクフルトと焼きそばを片手に中庭のすみで遠野と腰を下ろす。ベンチと言った気の利いたものはないが、その代わり半円になっている段差があるのでそこに座っている。
中庭は現在書道部が、大きな紙の上で腰ほどの大きさの筆を握ってパフォーマンスをしており、八千賀達の周りにも何人か座って見ている観客がいた。中庭は渡り廊下からも見下ろせるようになっており、顔をあげると渡り廊下からもスマホを持っている生徒達が見える。友人の姿を撮影しているのだろう。
遠野は登校前にコンビニで購入したらしい烏龍茶の蓋をあけたまま止まっていて、非常に厳しい顔をしている。ちなみに理由はよくわかる。
”持って行け”ではなくトオノさんだ。
クラスでは怪奇現象が一切起きていないが、八千賀と遠野は違う。やはり気を抜くとあらゆる反射物、あやるゆ透明物、そこかしこに存在する建物の構造上の隙間に女性の顔が空に浮かんでいる。ただこちらを見ているだけではなく、たまに傍に来ているのだろう足音や布を引きずる音さえ耳に届く。
そういう時は大抵後ろや真横に本当にいるのだが、八千賀の怪我がよほど嫌だったらしい遠野が守ろうとして抱きしめてきたりするので、実は満更でもない。怖いのを隠して必死に立ち向かう遠野は可愛い。役得である。八千賀の「いいか悪いかでいえば悪い」けれど「問題ない」のはここである。”持って行け”の件は解決したもののトオノさんは相変わらずだ。が、それはそれとして遠野と合法的にイチャイチャできるのでわりと楽しんでいた。
八千賀と違って遠野は「八千賀がトオノさんに好かれている」と信じて疑っていない。とても真剣にトオノさんと八千賀の仲を────この言い方もどうかと思うのだが────引き裂こうとしている。今も彼が書道部の方、つまり正面を向いて眉を寄せているのはトオノさんが気になるのだろう。
「鏡の前だろう?……俺がかわりにやる」
二言目には「怖いから嫌だ」と断りの姿勢を貫く遠野の真摯な提案に思わず破顔した。遠野は高校生による手作りお化け屋敷という、どんなにロークオリティな会場でも絶対に「お化け」「ホラー」のジャンルには近づかないのだ。それが真剣な面持ちで、心配そうに代理を申し出るのだから胸が熱くならない訳がない。嬉しくてやたら口の端が上がりそうになり、お化け役の変更を告げられた時とは真逆のテンションで、ご機嫌に手を振った。
「いいって。まぁちょっと怖いけど、あれから怪我とかとくにしてないし。逆に暗いからトオノさむぐ」
「名前を呼ぶな」
遠野の手で口を塞がれ、今度こそ顰めっ面になった遠野が顔を近づけてきた。
「名前を呼ぶとますます気に入られる。ゆうはすでに目をつけられてるから、気をつけろ。とくにお前はこれから、何があっても名前を呼ばない方がいい」
ゆっくり手を離しながら返事を促される。こくり、と頷くと遠野が雪解けを思わせる笑顔を浮かべた。
「よかった」
「……遠野ってさ、結構ヤキモチ妬く?それとも今のってただの忠告?」
「嫉妬の割合の方が大きい」
むに、と頬を摘まれる。痛くは無い。痛みよりも触れられたところが擽ったくて、そしてやたら熱を持っている。
「そ、そっか……」
居心地が悪いわけでもないのに、何故か気持ちが落ち着かない。名前を呼ぶのでさえ上ずってしまい、そわそわとして浮きかけた手は結局控えめに遠野の手の甲に伸びた。
「ねー、あれが清進名物の不仲匂わせアイドル?」
「そうそう。でも最近は不仲匂わせはやめたらしいよ。ただの匂わせになってる」
初めて八千賀は自分達が周りからどう見られているのか気になった。
その不仲匂わせアイドルってもしかして自分達のこと?
「遠野ってアイドルだったりする?」
「は???」
◾︎
四組のお化け屋敷は「絶叫学級」というなんの捻りもないいかにもな名前である。廊下の教室側の壁は模造紙とダンボールを駆使してそれらしい外観を演出していた。赤いペンキで書かれた絶叫学級という名前の横にはこれまた素直に、恐ろしくストレートに赤い手形などが散らばっている。その手形の中には八千賀のものもあった。古今東西赤い手形は恐怖の象徴である。
中はダンボールで作った仕切り板で迷路になっていて、窓は黒いビニール袋できっちりと覆い、さらに遮光カーテンを締めている。企画を練っている段階では、さらにダンボールで窓を塞ぐ案が出ていたが実行はされなかった。真っ暗だと怖いからだ。
メイク係の女子達にあれこれとお化けらしい化粧を施された八千賀は、手に血を模した絵の具をベッタリ塗られた。扱いに気をつけなければ制服についてしまうだろう。ちなみに絶叫学級のテーマは言わずもがな学校の怪談である。
教室の後ろにある大鏡の前には机と椅子が、黒板と教壇に向かって二セット置いてある。椅子の上には手作りの等身大人形が腰を掛けていて、人形は新聞紙で作った胴体に藤宮の制服を身につけさせている。暗い中で見ると制服を来ているだけでそれらしくなるので不思議だ。
八千賀は人形の隣の机の椅子をひき、人形と同じポーズになるように座った。深呼吸をして、なるべく鏡に意志を向けないように背を向ける。お化け役に具体的な指示はなく、適当にその付近にいればいいということなので、故意に怖がらせなくても座っていれば許されだろう。
お化けの交代をするのに10分ほど入場を止め、時間を過ぎてからまた人が入り始めた。
やって来るのはほとんどが同年代の高校生であとは中学生が多かったが、たまに小学生のグループと保護者と一緒に遊びに来た小学生以下の子供も怖々とやってくるので、案外年齢層は幅広い。
彼ら達は迷路を道なりに進んでいき、曲がり角すぐに備え付けの鏡を見て反応を示すので、まずまずと言うところだった。おそらく驚きポイントは背後の鏡であり、八千賀の中途半端なお化けの扮装は皆見ていないだろう。あ、いるんだ程度である。
そのうちに男女二人組みの高校生がやって来て、女子生徒の方が悲鳴を上げた。
お化け屋敷らしく暗くはしているが、教室内は「真っ暗」とは程遠い。特に鏡付近は窓も近いのでやや明るめである。
そのせいか、少し驚いた素振りを見せるもののお化け屋敷自体を怖がっている人は少ない。悲鳴など上がらないし、なんならスタッフである八千賀達の方がこの会場を恐れている。
女子生徒の声につられたのか、隣の男子生徒はゆっくりとした足取りで八千賀の方へと向かってきた。彼の目は大きく見開かれ、八千賀の肩付近へ視線を固定しつつも何度も後ろを振り返っている。
冷や汗と、嫌な予感が背中を這った。トオノさんだろうか。トオノさんの可能性は多いにある。お化け屋敷の中で、怒り顔か笑顔か、とにかく鏡の中にしかいない「何か」が見えていたら誰だって恐怖を覚える。
お化け役としての役割を放棄し、八千賀も一緒に振り返った。
真っ黒の瞳の学生服の男が、鏡の中から八千賀を凝視していた。
不可解なのは、鏡の中から手が伸びていたことだ。青白いマネキンのような手が、八千賀の肩を掴んでいた。
