「それで遠野くん、何か言い訳とかあるなら言えよな」
「……………」
とても涼しい。店内中央から届く冷風はまさしく文明の利器であり、ずいぶんと頭を冷やしてくれる。ありがたいものだ。八千賀と遠野は壁際の小さなスクエア型のテーブルに向かい合いながら座っており、真ん中には「とりあえず」と頼んだポテトと、二人が思い思いに頼んだコールドドリンクが表面に汗をたらしながら鎮座している。駅前にあるファーストフード店である。
八千賀も椅子に腰かけると足が余りがちだが、遠野はさらに長い足をおさまり悪そうに机の下に押し込んでいる。上半身も同じように棒のごとく身体をきゅっと縮こませていた遠野は視線を泳がし、ドリンクに手を伸ばした。
「いつから俺の事好きだった?」
「それ、今する話か?」
「大事な話だろ!いつから?」
「……」
「遠野くん〜?」
背もたれに身体を預けていたのを、今度はテーブルに肘をついて前のめりになる。二人席のこじんまりした席だとほんの少し身体を寄せればそれなりに距離は近くなる。遠野の、長いまつ毛が揺れた。いつもなら、特に人前であればとくにばにべもなく「近い」と拒絶するが、今の遠野は真っ直ぐに八千賀と瞳を合わせている。やや居心地悪そうにしてはいるが。
「去年の」
「うん」
「文化祭あたり」
「早っ……。え、嘘。ガチで?」
「……」
今度はおもむろにポテトを食べ始めた。咀嚼する顎すらゆっくりとしか動いていない。よほど恥ずかしいらしい。夏のせいだけではないだろう朱色が頬全体を染めている。
「お前!それでよくそんなつもりじゃなかったとか言えたな!絶対そんなつもりあっただろ!」
「…………」
「肯定じゃんそれ!あったじゃん!お前俺のこと好きじゃん!」
「あぁ」
照れるどころか一拍すら置かない間で素直に頷かれ、八千賀の方が言葉を詰まらせた。
「………、遠野俺の事好きじゃん」
「だからそう言ってる」
何故か呆れたかのようにため息をはかれた。まるで聞き分けのない子供を諭すような口ぶりである。しかもトドメのように遠野の指先が頬をそっと撫でた。
「………………………えっと」
「何?」
「……俺もポテト食べる」
「ん」
「いや、自分で食べ……。んむ……」
声がひっくり返る。火を吹くとはこの事だ。顔中どころか首全体まで熱に覆われている感覚に、あからさまに話題を逸らした八千賀の口にポテトが押し込まれた。
「この間は悪かった」
「んぇ、えっ?いつ?あ、怪我した日のこと?あれは俺が悪かっただろ。てかもしかして床とか掃除してくれたんじゃね?ごめん。汚かったろ」
「その日じゃなくて、その前。昇降口でひどいことを言った」
「………あ〜!」
飲み込んだポテトとともにあらゆるものが喉元を過ぎたので、心当たりを探り当てるまでに時間を要した。そういえば遠野に面と向かって振られたのだった。なんならつい三十分前までは遠野の事で世界の終わりと言っても過言ではないほど落ち込んでいたのにもう忘れてしまっていた。
「ま、まぁ結局俺の事好きだったし……。うん、気にしてな……………いや、なんで俺の事振ったん?」
良くはなかった。遠野が肩を落としてさも反省しているという態度なので流すところだったが、というか自分でもそんなことはすっかり忘れていたが、やはり思い出してくるとあんなに冷たくされる理由が思い当たらない。
「……一年の時に好きだと思った」
「ん?うん。……おう」
唐突な独白のような発言にやはり呆気にとられ、間抜けな返事をする。いや、正直に言えば呆けたのではなく照れた。
「好きで、でもトオノさんの事があるから嫌われるのが怖かった。いつか気味悪がられるかもしれない、いつか口も聞いてもらえなくなるかもしれないと思って。だからなるべく深入りしないように、これ以上好きにならないようにしたかった。無理だったけど。……ゆうの言う通りだ。本当にやめて欲しいなら最初からそれらしい態度をとればよかった。でもゆうが俺に優しくしてくれることに甘えて、これぐらいなら友達の範疇だって勝手に思って、……結果、ゆうを傷つけた。ごめん」
遠野が頭を下げるので、誇張表現ではなく驚いた八千賀が慌てて肩を押した。宥める手つきで肩を叩くと、遠野はようやく身体を起こした。
「謝んなくていい。けど……、えっと、じゃあ俺が言った通り、トオノさんのことが平気だったら付き合うってやつは合ってた?合ってるっていうのも変か……。えっと……」
「合ってるし嬉しかった。けど後からフラれるのが嫌だから絶対に付き合うのやめようって思ってた」
「なんでだよ!」
「一度でも手に入ったら、もう逃がしたくなくなるから」
「………」
「大丈夫かゆう。熱中症にでも……」
「だ、大丈夫、大丈夫。素直な遠野の破壊力を噛み締めていただけだから……」
身体を大きく折り曲げて唸るという奇行に遠野が本気で心配をし、椅子から立ち上がりかけた。慌てて制止してから、相変わらず茹で蛸色をしているであろう頬に手で仰いで風を送った。涼しかったはずの室温が急激に上がっている気がする。もしかして冷房の温度を上げたのだろうか。
「うん……うん。わかった。遠野がちゃんと好きなのは分かったけど……。えっと、トオノさんの事だけであんな態度だったん?」
「……。……最初は友達としてそばにいるつもりだった。ゆうは俺といても別に俺を嫌いになる素振りがなかったし。けど、……覚えてるか?お前、俺が一度振った日の夜に夢を見たって言ってた」
「んー?んん……?わかんない……覚えてないかも……」
よしんば覚えていたとしても、今日このタイミングでは頭の引き出しを全てひっくり返して探るのは無理そうである。
「ゆうが説明してくれた夢は、俺がトオノさんを本格的に見る前に見た夢だ。でも本来、トオノさんは俺の家の血筋の人しか見えないはずなんだ」
「え?そうなん!?でもたまに見えてる人いるよな?」
「そうだ。だからおかしい。血筋じゃないから母さんだってトオノさんは見えてない。なのにゆうが夢を見たあと、クラスの奴もトオノさんを見たし、お前も見た。ゆうに至っては俺と同じぐらいの頻度だ」
ここまで珍しく流暢に語っていた遠野は、次は少し言い淀んだ。言葉を切った様子に、今回は彼が何を言いたいのかすぐに思い当たった。
「……自分に関わったせいでこうなったって思った?」
果たして、遠野は小さく頷いた。
「……確実に俺のせいだ。だからなるべく遠ざけるべきだと……。けど、……これは俺の八つ当たりだけど、お前がそれでも関わってくるから、やめろって言ってもずっと変わらずに接してくれるから、……どうしても、離れられなくて中途半端な態度になった。何度も何度も、どうせこんな半端なことしてるなら素直に、お前に告白したらいいって、自分に言い聞かせて、でもその度にトオノさんに怖がってるお前を見て、それはダメだって。なのに、……わかってるのに好きで。どうしようもなくて、……許してくれるなら、このままでいいかと。でもあの日、本当に耐えられなくなった。これ以上我慢するのが辛かった。……お前に触れられたくて、ずっと一緒にいたくなって、でも出来ないのが辛い。だからあんな態度をとった。……お前が、俺を嫌いになってくれたらよかった。お前を、ゆうを、俺が嫌いになれないんだから、お前が俺を嫌ってくれればよかった。意味がわからないって他の人と同じように距離をとって欲しかった」
「……本当に八つ当たりだな」
片手で顔を覆いながら呟かれたセリフに肩を竦めた。遠野にしては一息でよく話す。おそらく、それほど溜め込んでいたのだろう。
思わず抱きしめたくなって、しかしここは大勢の人が見ている店の中だと思い至って拳を握った。けれど遠野があまりにも泣きそうな声音で「ごめん」というので、八千賀は立ち上がった。
「遠野、遠野。俺こそごめん。……どうしてもお前のこと嫌ってやれない」
「っ……」
どうせ二人ともクラスからは浮いているのだし、世の中多様性だし、一瞬ならば平気だろう。というかすでに遠野と八千賀は校門前で抱きしめあっていた。場所なんて関係ない。一際力を込めて抱きしめてから、ゆっくりと離れる。遠野の目は心なしか潤んでいて、それが可愛かった。やっぱり遠野は可愛い。左手で頬に手を添えて、むにっと軽く摘む。遠野は突然触れられても拒絶はせず、むしろ少しだけぽかんとしてから八千賀の左手を両手で掬うように握った。
「……家に帰って反省して、明日になったら謝ろうかと思ったら、お前から『間違えて電車に乗った』ってメッセージが来た。ちょうどいいと思って学校に行って、そうしたら……。……多分、この爪の怪我はトオノさんだ」
「トオノさんだとは限らなくないか?予備教室の……待って。大事なことを聞くぞ。お前が自分のって持っていったボールペン、あれ遠野のじゃないだろ」
「……」
無言。すなわち肯定である。
「返せよ」
「ゆうのでもないだろ」
「そうだけど!あれって今回の騒ぎのきっかけか何かだろ。「持って行った」とかどうのって、そのボールペンのことだ。最初は俺が持ってたのに、いつの間にとってたんだ?てか全体的にどうなってるんだ?」
遠野は両手を離すと、今度は怪我をしていない方の手をぎゅっと握りこんだ。決まりが悪いとでも言いたげな控えめな力加減と、叱られた子供が甘えるような触れ方に思わず「可愛いな」と心中で唸る。「怒らないで」と言わずに誤魔化してるようだ。
「……ボールペンはゆうが保健室に行く時に拾った。あれを見た時、お前の様子がおかしかったし何かあるのかもと思って。あのボールペンはお前の言う通り今回の原因で、呪いのペンってやつだろうな」
「呪い!?じゃあ早く出せよ!よこせって!」
「嫌だ。お前に持たせる方が危ない」
「遠野こそ事故りかけてたじゃん!じゃああれも呪いってことか!?」
「落ち着け。俺はアテがある。多分問題ない」
「あて?」
「……怪我のこともふくめて説明する。だからゆうも、俺に話してないことを言って欲しい。……今度はちゃんと聞くから」
「……遠野」
「なんだ」
「……近くない?」
「別に普通だ。というか、やめろって言ってもお前はいつもこの距離だっただろ」
「そ、そうだっけ……」
遠野がぐっと身体を前に倒している。「よこせ」と身を乗り出した八千賀も同じく前方顔を出しているため、鼻先が擦れるほどの距離だ。さらに片手は繋がっていて、遠野は不服を訴えているが、八千賀の接し方よりもよほど─────空気が、甘い。それに加え、加えてなのだが、口調が柔らかくて優しい気がする。一年の頃はどうだったっけと思い出そうとするが、もう長いこと四角張った低い声しか聞いていなかったのでどうにも思い出せない。
すり、と指が関節を撫でるのでぴくりと肩が跳ねた。
「……」
「な、なんだよ」
「……自分からこういうことするくせにされる方は苦手なのかと」
「に、苦手っていうか。ずっと遠野は嫌がってたから慣れないだけで……、そうじゃなくて!説明をしろ!全部だ!」
遠野は従順に頷いた。
最初、原因は鏡だと思ったらしい。八千賀もそれに同意した。
鏡と怖い話、というのは親和性があるのだし、他の教室にはない大鏡といえばそれだけで”らしく”なる。さらにそもそもの話、鏡や窓はトオノさんが写りやすいので教室に大きなものが飾ってあるだなんて、ご遠慮願いたい。というわけで、予備教室にはなるべく行かないと決めたようだった。
けれども全く行かないのも角が立つし────遠野曰く、きっと八千賀が間に入って自分への文句を引き受けるだろうから、一度は行った方がいいと思い直したらしい。そして夏休みの初登校が、昇降口で喧嘩別れをしたあの時だった。
その時の遠野の心情は先程これでもかと言うほど吐露されたので、言わずとも、というところだろう。
さて、これも遠野の発言通りであるが、八千賀から電車に乗り遅れたとメッセージが来て、迷った末謝るために登校することにした。勉強のためと言い訳を小脇にかかえ、予備教室に向かった遠野は寝ている八千賀を見つけた。
けれど様子がおかしかった。寝てはいるのだが唸るっているのか、小声で何事かを呟いている。さらに浮かべている苦悶の表情は異変としか言いようがない。
それ以降は、八千賀の見た通りである。
「もしかしたら予備教室から出られなかったのはトオノさんのせいかもしれない」
「でも理由なくないか?”持っていけ”の奴は藤宮の先輩も含めて何度か閉じ込めたりしてたからわかるけど。トオノさんが俺たちを閉じ込める理由って?」
「……けど、そうするとトオノさんが怪我をさせた理由がわからない。”持って行け”は大きな怪我はさせるが、それこそわざわざ手に怪我をさせる意味はないだろ。それに、そういうちまちましたやり方はトオノさんに合ってる」
「合ってるって……」
いやに敵意のある言い方だが、事実遠野はトオノさんに困らされてきたので仕方がないのだろう。
「じゃあ、一旦手の怪我は置いておこう。その後の、俺が休んでた時の事は?」
「まず原因を特定しようと思って、とりあえずボールペンを持って登校した。けどボールペンが怪しいとは思っていたけど、この時点ではまだ鏡の方が危ないと思ってた。だから準備を予備教室から教室にするようにしてもらって、とりあえず危なそうなボールペンは予備教室に置いてきた」
「それで藤宮の先輩が来てあの騒ぎ……って感じか。……でも遠野が置いたとしたら、あのボールペンって誰が持ち出したんだろうな。俺のだって誰かが言ったってことか?」
「わからない。ただ、ありがちとはいえ”戻ってくる”のはヒヤッとするな」
「……やっぱ怖かった?」
「当たり前だろ。ゆうが絡んでなければ絶対無視してた」
「ふーん」
「………」
わざとらしく口角をあげて目を細めると、ため息でもつかんばかりに仕方なさげにしていた遠野が拗ねた視線を送ってきた。音声をつけるとしたら「何か文句あるのか」だろう。
「遠野、口ではそう言うけど無視はしないと思う。俺が関係なくても結局は何かしらやっただろ」
「俺はそこまでいい人じゃない」
「どうかな。今回だって、別にボールペンなんて放置しとけばよかったのに。なんやかんや準備にも顔だしてくれるしさ」
そんなんじゃない、と遠野が呟いてからポテトをつまんだ。確実に照れている。
「どっちにしろ、放ってはおけないよな。先輩とかが怪我してるんだから。うちの学年でも怪我人が出そうだし、文化祭で何か起きたら大変だ。下手したら来年から中止とかありそうだよな。……それで遠野は結局、どうするつもりだったんだ?」
「トオノさんの件でお世話になってるお寺があるから、ボールペンを供養してもらうつもりだった。昨日予備教室を見てみたらボールペンはなかったし、俺も持ってないしで今日は探しに来た」
「そんなかかりつけ医みたいなお寺あるんだ……」
「あぁ。何かあるか分からないから、そういうのは大事だ」
「そうなんだ…。えっと、突っ込んでごめん。それでボールペンな。最初は俺が持ってて、次に遠野で、教室に置いてきたら行方不明。それで今日俺が持ってる、と。……ていうか、なんでボールペンが今現れたんだろうな。去年だって一昨年だって予備教室はお化け屋敷で使ってたのに、なんもなかっただろ?」
「……トオノさんがきっかけってことはあるかもな」
「……幽霊が引き金的な?」
「たまにある。……予備教室に俺が入ったのはお前が怪我をした日が初めてだし。怪我の時にトオノさんが呼び覚ましてしまったとか」
「それだとなんか違和感が……。だってさ、遠野は予備教室に入ってなくてもトオノさん自体は予備教室にいたぞ。俺は見たし。それならもっと早くボールペンが現れたりとか、なんかこう……あってもよくないか?」
八千賀の言い分に遠野がむぅ、と黙り込む。予想ではあるが、遠野は今までトオノさんやあらゆる「怖いもの」を避けてきたのでこの手の事に詳しいわけではないのだろう。
「……だいたいこういうのって、やっちゃ行けないこととか見ちゃいけないのを見たりとかが定番だよな」
「予備教室にそんなことがあったらもっと噂になってるはずだ。見ちゃいけないもの、なんて聞いた事はない」
「だよなぁ。そうなると、確かにトオノさんがきっかけで目覚めた……が一番しっくりくるんだけど。……あ。そういえば、俺あん時夢見たわ」
「夢?」
「そうそう。爪の怪我の時にさ。うとうとしてて、それで目が覚めたら予備教室じゃない教室にいて、教室の外から「持って行ったか?」って聞かれたんだよ。んで気がついたら目の前に遠野が居た。自分としては寝てた意識がなかったから、寝てたのに気がつかなかんかったわ。てかトオノさんの時も最初は夢見るんだっけ?なんかある前に夢見るのってあるあるだったりする?」
「夢を見るのが心霊現象あるあるかは分からない。けど洋風の屋敷とかじゃなく教室でそういう内容なら、ボールペン関連の夢だろうな」
「やっぱりそう思うよな。うーん。じゃあ何かがきっかけで俺が夢見ちゃって、トオノさんがさらに活性化させちゃったとか?でも今まで俺と予備教室にいたのになんで何も起きなかったんだろ。俺もトオノさんにまとめて呪われてるのにな」
遠野の眉がなんとも素直に下がった。気持ち肩も落ちているし、どうやら相当凹んでいるらしい。申告した通り、遠野は八千賀がトオノさんを見てしまっていることに負い目があるようだ。
「お前がトオノさんに呪われたのは、俺が近づいたからだ」
「違う違う!逆だって!そうだ、これさっき言おうと思ったんだけどさ。俺が遠野に近づいたからトオノさんはキレてんの!」
「……どういうことだ?」
「だって俺とトオノさんって恋敵みたいなものじゃん?」
「何言ってるんだ」
そのまま「何言ってるんだ」の表情で、いや、さらに言えば若干引いた顔である。真実を言ったまでなのになんて反応だろうか。
「ほら、遠野がトオノさんを怖がらなければ付き合っていいって言ったじゃん?いやまぁ言ってはないんだけど。でさ、だから俺的には恋の障害みたいな感じだし、なんならもうほぼライバルに近い。アイツがいなければ俺が今頃!みたいな……?」
「発想力豊かだな」と相槌を打たれたが、依然として納得はしていないようだ。しかし八千賀の解釈に間違いはないはずである。
「だからさ、そういう俺の”遠野に近づくな!”ってオーラがトオノさんに伝わって俺に怒ってるとか………あ!思い出した!夢、確かに見たかも!」
長い時間をかけ、ようやく今の今で「トオノさんの夢」を思い出し、一人芝居のように自分の話の腰を折った。曲がりなりにも記念すべきトオノさんとの初対面であるのに、忘れていたということはよほど先程は興奮していたのだろう。
「その時、俺トオノさんに宣言したわ」
「宣言?」
「遠野のこと好きだから!って。それでトオノさんがいるっぽい白い建物のドア開けた」
「……………」
「や、なんか言いたいことはわかる。でもほら、こう、トオノさんに負けないぜ!って気持ちがさ……!だからつい啖呵切ったっていうか!」
「……扉を開けたのか?確か蔵だろう?」
「そこまでは覚えてないけど……。蔵だったのかな」
「多分そうだ。何度か夢で見た事があるし、トオノさんの話にも蔵が出てくる。で、開けたのか?あの蔵を?夢の中で?」
「え?ダメだった?だって外からだったら普通に開けられたし……」
「……。………逆じゃないか?」
「え?何が?逆って?」
「もしかしてお前、トオノさんに気に入られてるんじゃ……」
「どの辺が!?俺、生爪剥がされたのにごめんって!軽口軽口!落ち込むなって!」
予想外の発言に目を丸くし、とても素直に目を丸くする。しかしすぐにあからさまにまとう空気の温度が下がったのを感じ取り、いそいで彼の肩をポンポンと叩いた。
「怪我をするのって普通は呪いとか、そういうのだろ?気に入られてるのは違うんじゃないか?」
「いや。逆に好かれても問題行動を起こされるものらしい」
両頬を揉んだり髪の毛をなでつけたりとしばらく遊んだらようやく持ち直したらしい遠野が、背筋を伸ばして何事もなかったかのように話し始めるので少しだけ笑いそうになってしまった。ちなみにここで笑ったら確実に遠野は拗ねる。
「八千賀が怪我をした時、俺達は閉じ込められていた。もし閉じ込めたのが”持っていった”で、お前の爪を犠牲にしてお前を助けたとしたら?」
「そ、それは少し暴論じゃ……。二枚目爪は?別に閉じ込められたりとか、そういうのなかっただろ?絶対それは違うって!」
「足を掴まれていただろ。あのまま掴まれてたら危なかったんじゃないか?……俺の推測でしかないけど、トオノさんは生前、蔵に閉じ込められたたかそこで殺されたかしたんじゃないんか?多分トオノさんはそこから出たがってる」
「………」
「それで、”トオノが好き”って言いながら、蔵を開けたのか?」
「……………。いやいやいやいや。待て待て待て。そうなんだけど、たしかに状況的にそうなんだけど!そうじゃなくないか!?」
「そういえばお前、トオノさんはいつも笑顔だって言ってたよな」
「それは言ったかも!でも遠野もそうだろ!?」
「俺は違う」
遠野が真っ直ぐに八千賀の瞳を捉えた。トオノさんについて確信めいた光を宿しているが、そこに混じっている感情的な部分の深い色を八千賀は見たことがなかった。今まで遠野をよくよく観察してきたので、ある程度の感情は読み取れると思っていたが、今八千賀の目に写っている彼の表情は初めて見るものだ。
「……もしかして嫉妬してる?」
咄嗟に思いついたことを口に出し、まさかと一人で笑った。八千賀ならまだしも、遠野である。まさか遠野が幽霊相手に嫉妬などするわけがない。
「してる」
「ははは。だよな。……えっ?」
「俺がいつも見てるトオノさんは、般若みたいな顔だ。……本当にトオノさんに好かれてるんじゃないのか?」
■
ある意味では爽やかなのかもしれない。鏡の中の、水槽の壁に張り付く両生類のごとくべたりと額を”内側から”へばりつけているトオノさんを見て、八千賀は思わず後ずさりをした。
自宅の玄関の、いつもの場所にあるいつもの鏡にうつる、いつものトオノさんである。
ひく、と頬が引きつったのを遠野はきちんと見ていたらしい。一歩後ろにいる遠野の方に後退した時、支えるように八千賀の腰に手を回してぐっと引き寄せた。頭がぽんと遠野の肩に乗り、やや顎を上げると遠野とぱちりと目が合った。
「大丈夫か」
「……だ、大丈夫」
ずいぶんスマートである。八千賀がトオノさんと目が合ったということは遠野にも見えているということだ。つい数日前、というか数時間前であれば遠野はトオノさんの気配があると不自然に目を逸らし、視界にあるあらゆるものを切り離そうとして俯いていたはずだ。それなのにトオノさんなど見えていないかのような振る舞いだ。
─────なんだか妙に悔しい。
いつもなら一緒に怖がったりしているのに、むしろ心配しているまである。
「トオノさんは笑ってるか?」
「え、あっ、……うん。笑ってる」
「……俺には怒ってるようにしか見えない」
「同じもの見てるのに表情が違うとか気がつかなかったよな」
「そうだな」
遠野はちらりと横目で鏡の中のトオノさんを見やった。言わずもがな、彼が自主的にトオノさんのいる場所に視線を投げるのは珍しい。なんなら少しだけ鏡を睨んでいるかのようなに目を細めていて、「そうだな」にもトゲがある、気がする。
冷えたポテトを消費している間、遠野は早く帰ってボールペンを供養しに行くと言ったが、八千賀がそれを留まらせた。
わかっている。冷静に、理性的に考えれば”呪いのボールペン”などと言った爆弾を早いところ処理してしまった方がいい。そもそも遠野は今日、ボールペンを回収するために登校したのだ。
けれどこのまま別れるのは惜しかった。理由なんて一つしかない。イチャイチャしたかったのだ。
なにせせっかくの両思いだ。待ち望んでいた瞬間である。
そうだ。ずっと待っていた。ずっと欲しかった。彼が八千賀を受け入れて、身を委ねてくれるのを待っていた。遠野自身が欲しかった。必死だと馬鹿にされても、たとえまともな思考回路じゃないと幻滅されても、中途半端に差し出された興奮を抑えることは出来なかった。
トオノさんの件も相まってか、「何があるかわからないから危ない」と断り続ける遠野と、良いから大丈夫だからと我儘を押し通した八千賀とでしばらく交戦し、結局遠野が折れたのだった。
「そういうわけで、キスするぞキス」
「………」
「えっ、なんでちょっと引いてるんだよ!付き合ったらするだろ!?」
部屋に招き、とりあえず遠野を床に座らせた後に膝立ちになって宣言をすると、苦虫を噛むというよりも肩あたりに落ちていて、振り払うにも振り払えないような微妙な顔をされた。
やっぱり引かれたか、と小さなショックを「いつも通りの反応だし」と大きな言い訳で包み込む。
「八千賀、結構キス魔だな」
「そんなことないだろ!?ていうか好きな人とキスはしたいだろ!?」
「それには同意する」
「そう……っ、えっ、あっ………うん。あ、ありがと……?」
反論の一つでもくるかと思いきや至極当然であると頷かれ、時間をかけて意味を咀嚼してから逆にどもってしまった。しかしそれにしても出てきた言葉が「ありがとう」というのはどうなんだ、と自分に対して突っ込んでいると、何故か遠野の方が目を丸くしている。それからどこか楽しむように口角を上げた。
「な、なんだよ……」
「照れてる」
「て、照れてない」
「ゆう」
「っ……」
膝立ちになった遠野に軽く腕を引っ張られた。むき出しになっている二の腕あたりに、遠野の少しかための手のひらが触れている。おそらく遠野は八千賀を見ている。きっと顔が近い。けれど本当に見られているかどうかは八千賀にはわからなかった。遠野がいつもするように、八千賀がうろうろと目を泳がせているからだ。ようやく定まった視点は遠野ではなく、見慣れた自室のフローリングだ。
そっと頬に手が添えられ、びくんっと思わず肩が跳ねた。自分から誘ったものの、怖がっているような素振りをしてしまったことに慌てて弁明しようと口を開いたところで、ふにっと唇に柔らかいものが触れた。
「………」
この感触は知っている。一度だけ味わって、そしてもう二度と与えられない温もりだと思っていた。あの時と同じように長いまつ毛が目の前にあり、鼻と鼻の先がやや触れ合っている。小さな動きに合わせ、さらりと耳にかけてあった遠野の前髪が一筋流れた。
だから、ぼたりと顎から一粒の雫が落ちた。
「ゆう?」
「ち、違う。嫌だったとかしゃなくて、逆、逆で」
とりとめなく溢れてくる涙に狼狽えている遠野が、数歩下がった。みるからに慌てており、名前を呼ぶ声も驚きからか上擦っていた。
違う、と繰り返し伝えて遠野の制服のシャツを握った。首を振って、落ち続ける水滴を拭うこともせずに遠野の肩に額を押し付けた。
「と、遠野が、好きだ。好き。ずっと好きで、それで、……っん、ぅ……」
まるで子供のうわ言だ。悲しいのではなく嬉しいのに、熱くなって痛む喉を必死に動かして言葉を吐き出していると、再び口が塞がれた。
先程よりも深いキスに目を大きくさせると、さらに身体全体を強く抱きしめられた。後ろに倒れそうになるほどの押す力に、思わず縋るように背中に腕を回す。遠野の制服の白いシャツがシワになっても構わずに、ぐっと強く握った。八千賀の指が震えていることに遠野が気がついているのかはわからない。
「は……っ」
長い、と思った。実際はどれほどの時間だったかはわからない。八千賀は食らいつくのに必死で、ようやく離れた時には涙は止まったものの、今度は頭がぼんやりと白く霞んでいる。
けれど遠野が、きっと泣いていた八千賀と同じように、目元を赤らめているのだけは鮮明だった。
「……俺も」
四角張った声だった。その一言はとても短くて、ともすれば素っ気ないとも言えただろう。しかし八千賀と同じく背中をやや曲げ、肩に頭を押し付けてながら絞りだしたその言葉を「冷たい」とは誰も判断はしなかっただろう。氷が瓦解した。ふとそんな表現が頭を過ぎった。
「俺も、ゆうが 好きだ。……ずっと言いたかった」
