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結局八千賀が休んだのは数日どころではなかった。
爪が剥がれていると知った両親はひどく驚き、学校で問題はないかとずいぶん熱心に、そして慎重に尋ねたが、まさか幽霊に怪我させられましたと言えるはずもない。言葉を濁すしかなく、大丈夫、大丈夫、とだけ繰り返した。
テレビの反射とともに写るトオノさんは穏やかで、怒ってもいなければ狂喜もしていなかった。見慣れたトオノさんである。それでも怪我をする前の、あの異様な喜びの表情で遠野と八千賀を見下げているトオノさんを思い出し、ひっと喉奥が引き攣る。
遠野が何かあるたびに「怖いから」と言っていた真髄を、ようやく理解した気がする。
スマホ含む液晶の類のものは触らなかった。テレビはまだ明るい方が反射が少ないので、付けっぱなしにしておく。外に出るのも億劫で、ドアを開けること、腕一本分の隙間、そんな些細なことがひどく恐ろしかった。
けれどスマホに関しては例外が二つあった。
遠野から着信があった。
倒れた直後の保健室で、遠野にメッセージを送ったが返事はこず、電話をかけても彼が出ることはなかった。遠野が以降何をしているのか、どうしているのかさっぱり分からない。しかしクラスメイトに尋ねる気はない。「遠野に殴られた」だなんて話は聞きたくなかった。
望んでいた名前に驚きと安堵から慌ててスマホを手にする。
「もしもし?遠野……」
『持って行ったの見たよな?』
ノイズが耳障りな、知らない青少年の声だった。
その一言で、電話は切れた。
二つ目は藤宮に連絡をいれたことである。進捗を尋ねると、問題はあるが八千賀が予想した通りあと一週間とちょっとで準備は終わりそうだ、とのことだ。なので八千賀は最終日の二日間だけ出るから後は休みたい旨を申し出た。藤宮は快く了承し、ありがたいことに遠野との関係を聞かずに話を終わらせてくれた。
宣言通り、最終日から二日目に八千賀はようやく登校した。玄関前の姿見にいるトオノさんを横目に太陽の下を歩く。陽炎で建物がすっかり硬さを失い、モザイク画として鎮座している。久しぶりの外は足を重くしたが、酷暑のせいだと言えばその通りである。
もうすっかり慣れた電車に揺られ、人の多い改札口をくぐり、また頭を太陽に焼かれながら歩く。昇降口に付近にはユニホームを着た数人の生徒が足早に歩いていき、八千賀は上履きに履き替えて階段を登った。
さて、教室棟には階段が二つある。一組と二組の間と、八組と予備教室の間だ。八千賀の下駄箱はやや一組二組の階段の方が近いが、予備教室に行くのだからと夏休みはずっと後半クラスの階段を使用していた。
予備教室に向かうにつれ緊張が強くなってくる。周りの人に指摘されないように、と自身の頬を手のひらで揉んでいると、二階の廊下に出たあたりで丘が駆け寄ってくるのが見えた。その数歩後ろには椎名がいる
「おはよ〜!」
「おはよ。あれ、どした?」
「やっぱスマホ見てなかったな。一応送ったんだけど、未読だったから」
「それがね、教室が移動になって。みんな四組で準備してるんだ」
「え?なんで?」
「……色々あったんだよ」
「なんだそれ」
しかし予備教室でないのならありがたい。二人について行き、我らが四組の教室に入ると、一斉に視線が突き刺さった。
「八千賀!お前大丈夫かよ!」
「ねぇ、遠野は?」
バンバンと背中を叩かれながら教室に招き入れられた八千賀は、藤宮ではない女子実行委員・坂下に声をかけられた。彼女はどうしてか声をひそめて、警戒するように八千賀の後ろを睨んでいる。
「遠野?知らないけど。そういえば遠野ってどうなってる?」
一瞬で教室が静まり返った。中にいるのは四組の生徒数の三分の一ほどで、やや女子が多い。怯えているのか、全員の強ばった空気が四組に充満した。
たしかに遠野はクラスから浮き気味であったが、ここまであからさまな反応をされたことはない。八千賀が驚いて丘と椎名へと振り返った。視線で何事か問うが、椎名だけでなく丘も言いにくそうに口を閉ざしている。
「お前さ。もう遠野と付き合うのやめろよ」
「……急になに?もしかしてクラスと遠野が喧嘩でもしたん?」
「遠野ヤバいって。だってほら、噂になってるの知ってるでしょ」
「噂?知らないって」
「知らないフリしてるだけでしょ。八千賀、あんなに人と話してて知らないわけないじゃん」
「遠野、呪われてるんだよ」
「そんなのみんな知ってるだろ。本人がずっと言ってるんだからさ」
「そうじゃなくて!ガチなんだって!」
「遠野といたら八千賀も死んじゃう」
「調子にのってるって思ってたけど、そういう問題じゃねぇって。その怪我も遠野が原因なんだろ?遠野がやったんだ」
「んなわけないだろ」
だんだんと教室が騒がしくなってきた。全員じりじりと八千賀の方へと歩み寄ってきて、中には眼が血走った生徒もいる。あまり話したことないクラスメイトすら目を開いたままじっと八千賀を見て、クラスの空気に肯定の意を示している。
様子がおかしい。八千賀が怪我をして、そこに遠野が絡んでいるだけの理由ではない。一様に尋常ではない恐怖を抱いている。
「遠野のこと追い出してよ」
「なー。聞いてきたけど先生が……」
坂下が忌々しげに吐き捨てたその直後に藤宮が顔を出した。そういえば、教室に藤宮はいなかった。
藤宮は重苦しいクラスの雰囲気と、困惑している八千賀を見て察したらしい。しかしすぐに坂下と、それからクラスに対して首を振った。
「聞いてきたけど、出し物の変更はやっぱだめっぽい」
「やだ!ねぇ、本当にだめ?」
「もう決まってるからって。準備もしてるし、これから変えるとなると間に合わないんじゃないのって。じゃあせめて場所かえるとか、一クラス分にするとかは?って聞いても駄目そうだった。一応実害出てるし、夏休み終わってから職員会議してみるけどって」
「夏休み終わり?変更しても間に合わないじゃん!今職員会議は出来ないのかよ」
「むりそう」
「クソが。学校ってマジで使えねー」
藤宮の話はそれで終わったようだ。方々から不服と悲観の声がして、しかし渋々とクラスメイトが持ち場に戻った。
八千賀が休む前は、すぐに作業にとりかかっていた。だが今は多くの人数がスマホを手にして床にぺたりと座りながら、アプリを開いたり身を寄せて雑談をしている。楽しんでサボっている、というよりはなにか気を紛らわせているようだ。集中しておらず、しきりに教室の二箇所の出入口へ視線をやっている。よく見れば、広げられている作業はどれも進んでいない。これではあと二日で終わらせることは出来ないだろう。
あー、と唸ると藤宮は八千賀に手招きをした。
「八千賀、こっち来て」
カバンを置いて藤宮を追いかけようとドアまで歩みを進めた。だがその前に、八千賀はくるりと振り返ってクラス全体を見渡して、ひどく冷静に告げた。
「追い出さないよ。俺のは遠野関係ない怪我だし、なんか……今のこの……感じ?もおかしいって。全員ちょっと頭冷やせよ」
いい終わってから教室から出ていく。ドア越しに小声で声が聞こえるが、どれもこれも不安と不満を混ぜたもので、やはり空気が浮ついている。誰も地に足がついていないようだ。
藤宮は特にどこの教室などに行くわけでもなく、少しだ教室から離れ、一組と二組の間にある階段の踊り場付近まで歩いていった。
「とりあえず、怪我とか体調大丈夫か?なんかクラスの奴らに言われたろ。ちょっと今、うーん。色々あって……」
「椎名も言ってた。何があったんだ?……俺のせい?」
「八千賀は関係ないって。遠野がさ……」
藤宮が頭を搔く。何度目かの唸り声を上げると、ようやく意を決したのか口を開いた。長いんだけど、と前置きがあった。
藤宮曰く、四組はもう文化祭へのやる気がなくなっているらしい。理由は察しの通り遠野と、そして遠野の振りまく呪いである。
八千賀が倒れて保健室に運ばれた日はまだ平和だった。遠野が喧嘩を吹っかけただなんだのと比較的「まとも」な噂だけで、クラスメイトの態度も変わらずである。元々遠野の物言いや空気に反発していた生徒はこの流言にのっかって遠野を批判したが、そもそも八千賀から遠野に絡んでいたのは明白なのだし、ことあるごとに八千賀が遠野を庇っていたのもありおおよそが流していた。
問題は次の日から始まった。
遠野が来た。
彼は遠野嫌い派からすると「こっちを見下している」態度で横柄に、挨拶もそこそこに予備教室に入ってくると、丘と椎名の隣に来て八千賀の作業の引き継ぎをしたいと申し出た。
丘と椎名の横に座り、大人しく作業をしている遠野は、クラスの中に存在はしていたが馴染んではいなかった。誰かと親しく話すこともしなければ、遠野が人を気にかけることもしない。クラスも過度に遠野を刺激したり追い出すような素振りも見せず、ただ一定の距離を保っている。
それが崩壊したのは正午に差しかかろうという時だった。八千賀は言われるまで思い出さなかったが、その日は強い雨が降っていた。厚い雲はあんなにも主張の強かった太陽を覆い隠して光を遮断し、そのくせ気温ばかりが高く、湿気はべったりと腕にまとわりついてくる。けれども室内は適温だし、雑談と雨音が混ざり合って心地がよかった。のどかだった。
「なぁ、誰が持ってる?」
突然そんな声が、後方の出入口から聞こえてきた。前も後ろも冷房のために閉め切っているため、少し声がくぐもっていた。だから最初、クラスメイトは廊下を歩いている誰かの話し声だと思ったらしい。しかし三度ほど「誰が持ってる?」と繰り返し、同じ声の主が尋ねた。男子生徒らしい。
ロッカーの付近で作業をしていた丘と椎名、それから遠野が顔を上げた。
「これ俺らに言ってね?」
「え、気のせいじゃないの?」
「なぁ、だから誰が持ってるんだよ」
「……」
二人が顔を見合わせる。声は止まない。そのうち、コンコンとドアを叩かれた。ここでようやく丘が「気のせいじゃないのかも?」と、やっぱりのんびり答えた。
「おい、誰だよ」
中央付近で作業をしていた生徒が立ち上がり、ドアを引いた。そして怪訝な表情を作ると廊下に出てきょろきょろと辺りを見渡した。
「どうしたの?」
「……さっき教室から見てた時、人が見えなかったんだよ。だから誰かがしゃがんでんのかなって思ったんだけど、誰もいない」
「ええ?隣のクラスに逃げ込んだとか?」
「八組にいくの見えたか?俺は見えなかったぞ。屈んで逃げたんじゃのろいだろ?俺が開けるまでに間に合わねぇんじゃねぇの?」
「そっちじゃなくて階段側じゃない?」
男子生徒が「そうかもな」と肩を竦めたところで、今度は前方から聞こえた。
「なぁ、誰が持ってる?」
窓が風によってガタンと揺れた。雨粒が建物を叩く音がそこら中で発生しているので、教室内で全員が喋るのを止めても賑やかな音は聞こえてくる。吹奏楽が同じフレーズを吹いていて、それが雨音を飾り立てていた。
ドアをあけた男子生徒はまだその付近にいて、丘も椎名も一緒になって廊下側に身を出していた。
「……誰もいない」
椎名が驚愕の色をのせて顔を引っ込める。
教室側から見た前方のドアは、やっぱり人影らしきものは見えなかった。でも確かに声が聞こえたのだ。
全員が息をのみ、衣擦れ一つでも起こせば銃弾で撃ち抜かれてしまうような、時代錯誤も甚だしい、そんな緊張感が走った。
「なぁ、誰が持ってる?」
「俺」
遠野が発言した。彼は汗も流さずに目を伏せて、はっきりと答えた。
水の粒が窓を叩きつける音さえやんだ。そんな気がする。
そしてすぐに、「わぁあああああ!!!!」と歓声の声が”教室内”に響いた。
まるで教室内にはクラス全員が集まっており、男子も女子も両手を上げて飛び上がって大袈裟に喜ぶような、甲高い絶叫だ。
誰も何も、教室内では話していないというのに。
それからはまさしく阿鼻叫喚だった。遠野以外の全員が教室から飛び出し、廊下でひとかたまりになって騒ぎ始めた。藤宮もさすがに逃げたらしい。すぐに先生を呼んで事情は話したものの、先生は上手く話が飲み込めずに困惑していた。
七組から生徒がわらわらと出てきて、ついでに六組からも面白半分で廊下の様子を伺うために数名が出てきた。そして七組の、とある生徒が言った。
「四組、さっきめっちゃ嬉しそうな絶叫?が聞こえたけど何かあった?」
四組はまた悲鳴に包まれた。
次の日に集まった生徒は、前日の半数だった。
前日に休んで噂を聞きつけたクラスメイトが面白半分で参加し、坂下が部活の友達を誘って登校した。遠野は休みだったようだ。
生徒達の怯えようがただ事ではないと感じたらしいのと、遠野が、としきりに訴える生徒達を見て、受け持つクラスがない古典の先生が気を利かせて一緒にいてくれたようだった。
しかしその日は何事もなく、先生も気のせいだろうと判断し、例の声を聞いていない生徒も面白がって笑うだけだった。
そしてまた翌日。三日目である。
遠野が来た。
サボりがちのくせに、こういう不測の事態にばかりやってきては囃し立てる生徒達と、実行委員の藤宮と坂下。それから十人程度のクラスメイトが集まった。丘も椎名もいたようである。
そしてまた正午付近に事が起きた。
一部の生徒がしきりにドアを気にしているなか、今度は前方のドアから女子生徒の声で、こう言った。
「ねぇ。ちゃんと持ってる?」
もちろん視認性は良好な透明の窓である。はっきりと廊下が奥が見える。つまり、今度も人影は見えずに声だけが投げかけられたのだ。
ぎくりと複数人の生徒が強ばったことに気がついたらしい、「歓声」を聞いていなかった男子生徒がニヤニヤしながらドアをあけた。
「んだよ!誰もいねえじゃん!」
ケラケラと笑うが、だからこそ恐ろしいのだ。
「ねぇ、持ってる?」
しかし二回目で、ようやく違和感に気がついたらしい。
遠野はパレットを持ったまま座って静止している椎名の腕をとり、「見て」と立たせた。そして教室の真ん中辺りを指さし、鏡が視界に入る位置にいるよう指示をした。
その付近から、中で作業をしていた半分ほどの生徒がすでに廊下に出ていた。
遠野が鏡のちょうど真ん中ほどで止まる。くるりと振り返って、青い顔をした椎名に向き直った。
「どう見える?」
椎名が答える前に、逃げ遅れた、遠野のすぐ近くにいた生徒が悲鳴を上げた。
鏡の中では机と椅子が全て普段通りに並べてあり、見知らぬ制服の男子生徒と女子生徒が何人も座っていた。全員前ではなく後ろを振り返り、白目のない真っ黒な二対の瞳が遠野を凝視していた。肌は恐ろしい程に白かったという。
椎名が廊下に走り出すと、残っていた生徒も全員転がるように出て行った。遠野だけは教室に残っていて、ゆっくりと歩いてくると、つま先が下レールから出ない位置に立った。
「作業する教室を変えた方がいい」
遠野だけは汗もかかずにいる。遠野だけは顔色が変わっていない。
それから、やっぱり午後は作業にならなかった。何人かの女子生徒は泣き出しさえした。
遠野は背筋をぴんと伸ばしたまま、教室にある私物を廊下に出し始め、全員分の荷物を運び出すと、自分の荷物を背負って帰ってしまった。
クラスラインでは全員が予備教室に行くことを拒否していたし、実行委員としても無視は出来ない。とりあえず四組で作業をする話になり、作業していたものを全て四組に移す算段をたてたが、誰からも手伝うとの返事は来なかった。
椎名は、もう無理だ、と直接藤宮に告げたそうだ。
「悪い。しばらく遠野無理かもしんね。……遠野が悪いっていうか、遠野見てると思い出してダメだわ。だってさ、鏡に写ったってことはあの黒い目の奴らが遠野の周りにいたってことだろ?」
それって俺達の周りにもいたってことだよな。
仕方なく藤宮は遠野に頼んでみた。彼の連絡を交換したはいいが、交換し始めの頃に数度やり取りをした程度だし、遠野がほとんど返事がこないことも知っている。だからダメ元ではあった。だが予想に反して遠野から了承の返事が貰えたのだという。
「それでさ、悪い。さきに八千賀に謝っとく」
藤宮が口ごもったと思うと、首を軽く下に曲げた。謝罪のようである。
「八千賀に何かしたってわけじゃなくてさ。あー……。三年の先輩に教えちゃったんだよ。こう、話の一環として。話題みたいな?でももうSNSでこの話めっちゃ出てて、遠野がどうとかも結構噂になっててさ。だからまぁ、向こうから「これガチ?」って感じできて、そうっすって返した、みたいな」
三年の先輩は、去年まさしく八組と予備教室でお化け屋敷をやったらしい。そんな変なことなかったけどな、とそれで話は終わった。
さて翌日、藤宮と遠野は荷物運びのために登校した。遠野が教室から廊下に荷物を並べ、藤宮が四組にせっせと運んで行った。床を掃き、ほこりや紙くずなどを遠野がゴミ箱にすてて机と椅子を全て元に戻す。藤宮はその間に荷物を運び終え、その日はそれで解散となった。余談だが、遠野にコンビニでアイスを奢ると提案したら断られたらしい。
五日目。四組での作業が始まった。この時点で「出し物の変更」もしくは「四組でのお化け屋敷」の打診が出た。藤宮は坂下とともに他の実行委員や生徒会、そして実行委員の顧問の先生に事情を説明するために奔走することとなった。実行委員を初めとする皆は同情的で、そしてこの時点ですでに遠野は恐ろしい化け物に成り果てていたらしい。
遠野は五日目もやって来た。八千賀が休み、遠野が代わりに登校してきた初日は、積極的に受け入れる空気でもなかったが排斥する動きもなかった。けれど五日目はどうだろうか。誰も彼も遠野から距離をとり、怯え、遠野を避けるようになった。例外は丘と椎名だけである。彼ら二人はまだ遠野とまともに話をしていたし、ある程度クラスを落ち着かせるような働きをしていたのだった。
教室は灰塵が舞っているように息がしづらく、誰も彼も沈んだ顔をしており、動きが鈍かった。挨拶一つとっても静かで、皆一様に口を噤んでいる。作業中、刺さるように遠野に視線をやっては、誰かの舌打ちが響く。そういった有様だった。
そのうちに一人が手を止め二人が筆をパレットに置き、三人が課題などを取り出し、結局ほとんどの人間が作業を放棄した。
遠野だけが黙々と作業をしていた。
さて、もはや何時に何があったか仔細を語る必要もないだろう。太陽が真上にある、夏らしい爽やかな空気に包まれているあの時間にまた声がした。男子生徒の声だ。
「持って行ったんじゃないのか?」
「なんで?」と誰かが呟いた。続いて、「予備教室じゃないのに」とも。動揺と恐怖が伝播し、さざ波のようなざわめきがやがて喧騒になった。例のごとく、教室の外から声が聞こえるのにガラスの向こうには誰もいない。きっと廊下に出ても物理的な姿はないのだろう。
「なぁ。持って行ったんだよな?」
「持って行っただろ?」
畳み掛ける声は焦りを含んでおり、震えさえ感じられる。
「置いてきた」
遠野が何食わぬ顔で返事をした。
一瞬の間の後、ガンっと両側のドアが外側から殴られた。叩きつける音とともにドアが大きく軋み、レールから車輪が外れそうになった。そして、怒声が響いた。
「持って行けって言っただろうがっ!!」
悲鳴が上がる。
遠野だけが立ち上がり、無遠慮に引き戸を開けた。なめらかにドアは滑り、陰鬱な内部ともはや異世界にも感じられる外部が繋がる。どちらが薄気味悪いのか問われれば、もしかしたら幾分か教室の方がいいかもしれない。
ドアの先には、当たり前だが味気のない、白い校舎の廊下がある。教室内に差し込む日差しと同じように朗らかで麗らかな、けれど眩しいばかりの日光が廊下を照らしていた。ぽんぽんと綿を積み上げたような高くて真っ白な雲が地平線の下の方で幾つも繋がっている。絵に描いたような快晴、晴天、好晴だ。なのにどうしてこんなにも恐ろしくて気味が悪いのか。
開けた先、扉の向こうと教室内は何は変わらない。けれど一目散に、我先にと全員が飛び出した。教室は膨らみきった風船のような危機感に溢れていた。
自分たちの教室からなるべく距離をとり、もう嫌だと男子も女子も潤みをのせた声音で喚めく。
件の四組がまた絶叫したので、案の定野次馬が隣のクラスからぞろぞろと出てきた。階段からも人が来ていたので、一年生も三年生もわざわざ来たのかもしれない。
しかし藤宮は、野次馬が四組だけを見ているのではないことに気がついた。後半のクラスはクラスで、なぜか人だかりがある。そして彼らは四組ではなく、さらに後ろを見ている。
ぴんときた。彼らが見ているのは──────予備教室だ!
藤宮があっと、本当に文字通り「あっ」ともらしたと同時に遠野が走った。続いて丘と椎名もかけて行く。藤宮はクラスと三人を交互に見やり、そして彼らについて行くことにした。
ふと、三年の先輩のことを思い出したのだ。
やはり人だかりは予備教室を囲っていた。
遠野は乱暴に人を押しのけると、教室の後方のドアに向かった。掃除用具入れと大鏡がある方のドアだ。
ドンドンと内側からドアを殴る人影がある。件の先輩達だった。何かを訴えているのか口が大きく、ぱくぱくと開いている。防音室でもないのに声は聞こえず、けれどドアを蹴ったり殴ったりする音はきちんと届いている。
藤宮が教室内を見ると─────彼らはは複数人に囲まれていた。目が真っ黒の、知らない制服の人達に囲まれていた。
遠野が引手に手をかけた瞬間にドアが開いた。中にいた先輩達は三人で、彼らは目に涙をためて教室から踊り出た。両足がもつれたのか、遠野を突き飛ばしてから廊下の窓に突撃する勢いで転がる。一呼吸もつけず、彼らはそのまま階段に向かって走り出した。
その後、すぐにぎゃっと潰れる声がこだました。
藤宮が教室を横目で見ると、予備教室には誰もいなくて、もちろん黒い目の他校の生徒なんていなくて、そして慌てて階段に向かうと、先輩達は折り重なるように踊り場に落ちていた。
うう、と呻き声が耳に届く。まるでサンドイッチを作るみたいに、ぎゅっと押されたみたいだ、と藤宮は漠然と思ったらしい。別に人体の薄さが半分になったわけではない。ただ三人が同じ場所に折り重なって”落ちていた”だけだ。
教師が職員室から飛び出してきて、階段から落ちたらしい先輩達の元に駆け寄った。騒然とした階段で、必死に大人が意識があるのかを問いかける。
「知らねぇよ。持ってねぇよ、持ってねぇって」
一番下にいる先輩が呟いた言葉を、藤宮は遠野の横顔を伺いながら聞いた。
やはり彼は圧倒的な綺麗なおもてで、眉を寄せただけの相貌で、まさに見下すように事件の現場を眺めていた。
遠野の呪いだ、と誰かが呟いた。
「で、それが昨日の話。なんか、先輩が友達連れて予備教室行ったらしくて。今病院なんだけど、わりとひどい怪我っぽくて。まぁそんな感じで、一週間後ヤバかったのが遠野の呪いのせいだって……」
現場を見ていないが、八千賀は冗談だろと笑うことは出来なかった。「持って行った?」の声は自分自身も聞いたのだから。
「……俺たち、どうしたらいいかわかんなくてさ。今日来てる連中は八千賀が来るから来てるんだぜ」
「俺?」
「お前が、遠野を追い出してくれないかなって思ってんだよ。みんな遠野と話したくないみたいだし」
「……なんだそれ。てかさ、話聞いてて思ったけど、遠野は守ってくれてる方で……」
八千賀はそこで言葉を切った。藤宮も八千賀ではなく、階段下へ意識を向けた。
遠野がいたのだ。
「遠野!お前、大丈夫か!?話聞いたけど……」
すぐさま駆け寄った八千賀を、まるで存在しないかのように遠野は避けた。止まらずに階段を登り、藤宮に「おはよう」と低い声音で挨拶をすると、四組に入っていった。
「えぇ……。何今の。いくら何でも酷くね?」
「俺戻るわ。教えてくれてありがとな」
「八千賀。あのさ、俺もあんま言いたくないけど、やっぱ遠野と距離おけよ。お前までハブられるぞ」
八千賀は歩くために持ち上げていた足をその場に下ろすと、ひとまず笑った。
「別にそれでもいいよ。ごめんな。心配してくれたのに」
教室は、極寒の地にでも転移したのかと思った。この寒々しさはもはや真冬である。いや、日本の冬よりも体感気温が低い。シベリアかフィンランドか北極あたりの寒さだ。
遠野は廊下側の壁際に一人だけ座っていて、藤宮の話通り周りなど目もくれずに一人だけ作業を進めるために道具の用意をしていた。
「八千賀」
いざ行かん。よしと一歩踏み出したところで声をかけられた。勢いが削がれてしまい気落ちしたことを相手に悟られないよう、普段通りの笑顔を浮かべて振り向いた。
「ん、どした?」
「はいこれ。ありがと」
「……ん?」
「あれ?八千賀のでしょ?」
差し出されたボールペンは身に覚えがないものだ。そもそも夏休み中に人にペンを貸した記憶がないため、勘違いだと告げようと思ったところで、後ろから手が伸びてきた。
「俺の」
遠野が八千賀の手をやんわりと押さえつけ、黒いボールペンを受け取った。話しかけた生徒は頬を引き攣らせると、無言で去っていき、おそらく先程までいたのであろう、友達の元に戻って行った。
「遠野、そんなの持ってたっけ」
やはり無反応である。一瞥すらせずに遠野は自身の作業スペースまで足早に向かうと、なんとおろしたはずのリュックを背負い、教室から出て行ってしまった。
「何あれ」
「てか何しに来たんだよアイツ」
「……」
もしかして八千賀がいるから帰ったのだろうか。作業をしてみようかと思っていたけど、八千賀が変わらずに話しかけてくるから嫌になったに違いない。
それでも一週間前は一人で寝こけていた八千賀にわざわざ声をかけてくれたし、怪我の心配までしてくれた。愛情深い人なのだ。その情にあつい人をあそこまで怒らせるって……と失恋の落ち込みが再び心中に込み上げて来た時、”唐突に思い出した”。
「ごめん藤宮!俺も帰る!」
「え、八千賀!?」
八千賀は慌ててカバンを引っつかむと、教室から飛び出した。
そうだ。あまりに色々あってすっかり忘れてしまった。一週間前、怪我をする直前にみた夢でボールペンが出てきたではないか。何が怖かったって、あのボールペンが夢と現実両方にあったことも怖かったのだ。「俺のだ」と言って遠野が回収したボールペンは、あの時のものではなかっただろうか。
「遠野!」
八千賀が追いかけ始めた時には既に廊下に姿が無く、急いで階段へ向かって階下を覗き見ても彼らしい姿は見えなかった。上履きからスニーカーへと履き替えたところで、遠野が駐輪場を抜けて校門に向かっていた。
すれ違う生徒たちが全員八千賀の声で振り向くので、聞こえない声量のはずはない。しかし遠野は全く聞こえないとでも言いたげに、一切の反応を示さずに進んでいく。追いつくためにに全力で駆け抜け、指先が遠野の腕に触れそうなところまで距離を縮めた。
さて、昇降口から校門までそれほど距離はない。玄関のすぐ正面には体育館と第2体育館があるのですぐに右折をしなければらないが、迂回するように道なりに進んでいけば良いだけだ。
「遠……遠野!」
そして彼が校門から足を踏み出したその瞬間、自転車が横から遠野に向かって早い速度で突っ込んできた。
「っ……!!」
息を飲んだ遠野の腕を掴み、思いっきり自分の方へと引っ張る。さすがに驚いたらしい遠野は踏ん張ることをせず、力に任せて自然と後退した。足がもつれたのか身体が傾き、転びそうになったのをなんとか支える。
「………」
どっどっと心臓が早鐘を打つ。遠野と二人で校門前を向くと、そこにはもう自転車はおらず、いくつかの車が車道を走っているだけだった。
藤宮の話が頭の中をぐるぐると巡っていく。階段から落ちた先輩は、見た目の怪我は酷くなさそうだったのに実際はそうではなかったという。短絡的ではあるし思い込みかもしれないが、もしかして昨日の転落はただの事故ではなくてトオノさんのような心霊現象なのではないだろうか。
そして遠野や八千賀達はつい先ほど例の「持って行った」の声を聞いた。そして間髪入れずに”ボールペン”を持っている遠野が事故に巻き込まれそうだったのだ。なにか作為的なものを感じる。
─────きっと「持って行った」と何度も確認しているのはボールペンのことだ。
「と、遠野、大丈」
「ゆう!怪我は!」
炎天下の中での全力疾走における生理的な汗と、驚愕と恐怖からの冷や汗とで背中のシャツが張り付いている。一瞬間抜けにも遠野にしがみついたまま放心してしまったが、そんな場合ではない。無事を確認しようとすると、その前に遠野が肩を掴んできた。
「俺じゃなくて遠野だろ!?」
「爪!」
「え?」
遠野の剣幕に押され、わけも分からず自分の爪を見る。剥がれてしまった二本の爪以外はなんの変化もない。手の甲を太陽側にして指を広げると、遠野はあからさまにほっとした表情をして、しかしすぐに眉も目も、全ての顔をくしゃりと中心に寄せると、八千賀の肩をかき抱いた。泣きたいのか苦しいのか判断がつかない。
首筋に遠野の髪の毛が触れ、本当に小さな声で「良かった」と震える声が耳に届く。
「また怪我をするかと……」
肩に回された指がくい込んで少し痛かった。けれど喉と一緒にその指すら震えているので、八千賀は何も言えなかった。その代わり両手を同じように背中に回し、ぽんぽんとあやす様に軽く叩く。
「………お前、本当は俺の事好きだろ」
遠野はしばらく押し黙った。躊躇っているのかはわからないが、けれどそのやや後にようやく観念したのか、これまた小さな小さな声で「うん」と肯定の二文字が聞こえてきた。
結局八千賀が休んだのは数日どころではなかった。
爪が剥がれていると知った両親はひどく驚き、学校で問題はないかとずいぶん熱心に、そして慎重に尋ねたが、まさか幽霊に怪我させられましたと言えるはずもない。言葉を濁すしかなく、大丈夫、大丈夫、とだけ繰り返した。
テレビの反射とともに写るトオノさんは穏やかで、怒ってもいなければ狂喜もしていなかった。見慣れたトオノさんである。それでも怪我をする前の、あの異様な喜びの表情で遠野と八千賀を見下げているトオノさんを思い出し、ひっと喉奥が引き攣る。
遠野が何かあるたびに「怖いから」と言っていた真髄を、ようやく理解した気がする。
スマホ含む液晶の類のものは触らなかった。テレビはまだ明るい方が反射が少ないので、付けっぱなしにしておく。外に出るのも億劫で、ドアを開けること、腕一本分の隙間、そんな些細なことがひどく恐ろしかった。
けれどスマホに関しては例外が二つあった。
遠野から着信があった。
倒れた直後の保健室で、遠野にメッセージを送ったが返事はこず、電話をかけても彼が出ることはなかった。遠野が以降何をしているのか、どうしているのかさっぱり分からない。しかしクラスメイトに尋ねる気はない。「遠野に殴られた」だなんて話は聞きたくなかった。
望んでいた名前に驚きと安堵から慌ててスマホを手にする。
「もしもし?遠野……」
『持って行ったの見たよな?』
ノイズが耳障りな、知らない青少年の声だった。
その一言で、電話は切れた。
二つ目は藤宮に連絡をいれたことである。進捗を尋ねると、問題はあるが八千賀が予想した通りあと一週間とちょっとで準備は終わりそうだ、とのことだ。なので八千賀は最終日の二日間だけ出るから後は休みたい旨を申し出た。藤宮は快く了承し、ありがたいことに遠野との関係を聞かずに話を終わらせてくれた。
宣言通り、最終日から二日目に八千賀はようやく登校した。玄関前の姿見にいるトオノさんを横目に太陽の下を歩く。陽炎で建物がすっかり硬さを失い、モザイク画として鎮座している。久しぶりの外は足を重くしたが、酷暑のせいだと言えばその通りである。
もうすっかり慣れた電車に揺られ、人の多い改札口をくぐり、また頭を太陽に焼かれながら歩く。昇降口に付近にはユニホームを着た数人の生徒が足早に歩いていき、八千賀は上履きに履き替えて階段を登った。
さて、教室棟には階段が二つある。一組と二組の間と、八組と予備教室の間だ。八千賀の下駄箱はやや一組二組の階段の方が近いが、予備教室に行くのだからと夏休みはずっと後半クラスの階段を使用していた。
予備教室に向かうにつれ緊張が強くなってくる。周りの人に指摘されないように、と自身の頬を手のひらで揉んでいると、二階の廊下に出たあたりで丘が駆け寄ってくるのが見えた。その数歩後ろには椎名がいる
「おはよ〜!」
「おはよ。あれ、どした?」
「やっぱスマホ見てなかったな。一応送ったんだけど、未読だったから」
「それがね、教室が移動になって。みんな四組で準備してるんだ」
「え?なんで?」
「……色々あったんだよ」
「なんだそれ」
しかし予備教室でないのならありがたい。二人について行き、我らが四組の教室に入ると、一斉に視線が突き刺さった。
「八千賀!お前大丈夫かよ!」
「ねぇ、遠野は?」
バンバンと背中を叩かれながら教室に招き入れられた八千賀は、藤宮ではない女子実行委員・坂下に声をかけられた。彼女はどうしてか声をひそめて、警戒するように八千賀の後ろを睨んでいる。
「遠野?知らないけど。そういえば遠野ってどうなってる?」
一瞬で教室が静まり返った。中にいるのは四組の生徒数の三分の一ほどで、やや女子が多い。怯えているのか、全員の強ばった空気が四組に充満した。
たしかに遠野はクラスから浮き気味であったが、ここまであからさまな反応をされたことはない。八千賀が驚いて丘と椎名へと振り返った。視線で何事か問うが、椎名だけでなく丘も言いにくそうに口を閉ざしている。
「お前さ。もう遠野と付き合うのやめろよ」
「……急になに?もしかしてクラスと遠野が喧嘩でもしたん?」
「遠野ヤバいって。だってほら、噂になってるの知ってるでしょ」
「噂?知らないって」
「知らないフリしてるだけでしょ。八千賀、あんなに人と話してて知らないわけないじゃん」
「遠野、呪われてるんだよ」
「そんなのみんな知ってるだろ。本人がずっと言ってるんだからさ」
「そうじゃなくて!ガチなんだって!」
「遠野といたら八千賀も死んじゃう」
「調子にのってるって思ってたけど、そういう問題じゃねぇって。その怪我も遠野が原因なんだろ?遠野がやったんだ」
「んなわけないだろ」
だんだんと教室が騒がしくなってきた。全員じりじりと八千賀の方へと歩み寄ってきて、中には眼が血走った生徒もいる。あまり話したことないクラスメイトすら目を開いたままじっと八千賀を見て、クラスの空気に肯定の意を示している。
様子がおかしい。八千賀が怪我をして、そこに遠野が絡んでいるだけの理由ではない。一様に尋常ではない恐怖を抱いている。
「遠野のこと追い出してよ」
「なー。聞いてきたけど先生が……」
坂下が忌々しげに吐き捨てたその直後に藤宮が顔を出した。そういえば、教室に藤宮はいなかった。
藤宮は重苦しいクラスの雰囲気と、困惑している八千賀を見て察したらしい。しかしすぐに坂下と、それからクラスに対して首を振った。
「聞いてきたけど、出し物の変更はやっぱだめっぽい」
「やだ!ねぇ、本当にだめ?」
「もう決まってるからって。準備もしてるし、これから変えるとなると間に合わないんじゃないのって。じゃあせめて場所かえるとか、一クラス分にするとかは?って聞いても駄目そうだった。一応実害出てるし、夏休み終わってから職員会議してみるけどって」
「夏休み終わり?変更しても間に合わないじゃん!今職員会議は出来ないのかよ」
「むりそう」
「クソが。学校ってマジで使えねー」
藤宮の話はそれで終わったようだ。方々から不服と悲観の声がして、しかし渋々とクラスメイトが持ち場に戻った。
八千賀が休む前は、すぐに作業にとりかかっていた。だが今は多くの人数がスマホを手にして床にぺたりと座りながら、アプリを開いたり身を寄せて雑談をしている。楽しんでサボっている、というよりはなにか気を紛らわせているようだ。集中しておらず、しきりに教室の二箇所の出入口へ視線をやっている。よく見れば、広げられている作業はどれも進んでいない。これではあと二日で終わらせることは出来ないだろう。
あー、と唸ると藤宮は八千賀に手招きをした。
「八千賀、こっち来て」
カバンを置いて藤宮を追いかけようとドアまで歩みを進めた。だがその前に、八千賀はくるりと振り返ってクラス全体を見渡して、ひどく冷静に告げた。
「追い出さないよ。俺のは遠野関係ない怪我だし、なんか……今のこの……感じ?もおかしいって。全員ちょっと頭冷やせよ」
いい終わってから教室から出ていく。ドア越しに小声で声が聞こえるが、どれもこれも不安と不満を混ぜたもので、やはり空気が浮ついている。誰も地に足がついていないようだ。
藤宮は特にどこの教室などに行くわけでもなく、少しだ教室から離れ、一組と二組の間にある階段の踊り場付近まで歩いていった。
「とりあえず、怪我とか体調大丈夫か?なんかクラスの奴らに言われたろ。ちょっと今、うーん。色々あって……」
「椎名も言ってた。何があったんだ?……俺のせい?」
「八千賀は関係ないって。遠野がさ……」
藤宮が頭を搔く。何度目かの唸り声を上げると、ようやく意を決したのか口を開いた。長いんだけど、と前置きがあった。
藤宮曰く、四組はもう文化祭へのやる気がなくなっているらしい。理由は察しの通り遠野と、そして遠野の振りまく呪いである。
八千賀が倒れて保健室に運ばれた日はまだ平和だった。遠野が喧嘩を吹っかけただなんだのと比較的「まとも」な噂だけで、クラスメイトの態度も変わらずである。元々遠野の物言いや空気に反発していた生徒はこの流言にのっかって遠野を批判したが、そもそも八千賀から遠野に絡んでいたのは明白なのだし、ことあるごとに八千賀が遠野を庇っていたのもありおおよそが流していた。
問題は次の日から始まった。
遠野が来た。
彼は遠野嫌い派からすると「こっちを見下している」態度で横柄に、挨拶もそこそこに予備教室に入ってくると、丘と椎名の隣に来て八千賀の作業の引き継ぎをしたいと申し出た。
丘と椎名の横に座り、大人しく作業をしている遠野は、クラスの中に存在はしていたが馴染んではいなかった。誰かと親しく話すこともしなければ、遠野が人を気にかけることもしない。クラスも過度に遠野を刺激したり追い出すような素振りも見せず、ただ一定の距離を保っている。
それが崩壊したのは正午に差しかかろうという時だった。八千賀は言われるまで思い出さなかったが、その日は強い雨が降っていた。厚い雲はあんなにも主張の強かった太陽を覆い隠して光を遮断し、そのくせ気温ばかりが高く、湿気はべったりと腕にまとわりついてくる。けれども室内は適温だし、雑談と雨音が混ざり合って心地がよかった。のどかだった。
「なぁ、誰が持ってる?」
突然そんな声が、後方の出入口から聞こえてきた。前も後ろも冷房のために閉め切っているため、少し声がくぐもっていた。だから最初、クラスメイトは廊下を歩いている誰かの話し声だと思ったらしい。しかし三度ほど「誰が持ってる?」と繰り返し、同じ声の主が尋ねた。男子生徒らしい。
ロッカーの付近で作業をしていた丘と椎名、それから遠野が顔を上げた。
「これ俺らに言ってね?」
「え、気のせいじゃないの?」
「なぁ、だから誰が持ってるんだよ」
「……」
二人が顔を見合わせる。声は止まない。そのうち、コンコンとドアを叩かれた。ここでようやく丘が「気のせいじゃないのかも?」と、やっぱりのんびり答えた。
「おい、誰だよ」
中央付近で作業をしていた生徒が立ち上がり、ドアを引いた。そして怪訝な表情を作ると廊下に出てきょろきょろと辺りを見渡した。
「どうしたの?」
「……さっき教室から見てた時、人が見えなかったんだよ。だから誰かがしゃがんでんのかなって思ったんだけど、誰もいない」
「ええ?隣のクラスに逃げ込んだとか?」
「八組にいくの見えたか?俺は見えなかったぞ。屈んで逃げたんじゃのろいだろ?俺が開けるまでに間に合わねぇんじゃねぇの?」
「そっちじゃなくて階段側じゃない?」
男子生徒が「そうかもな」と肩を竦めたところで、今度は前方から聞こえた。
「なぁ、誰が持ってる?」
窓が風によってガタンと揺れた。雨粒が建物を叩く音がそこら中で発生しているので、教室内で全員が喋るのを止めても賑やかな音は聞こえてくる。吹奏楽が同じフレーズを吹いていて、それが雨音を飾り立てていた。
ドアをあけた男子生徒はまだその付近にいて、丘も椎名も一緒になって廊下側に身を出していた。
「……誰もいない」
椎名が驚愕の色をのせて顔を引っ込める。
教室側から見た前方のドアは、やっぱり人影らしきものは見えなかった。でも確かに声が聞こえたのだ。
全員が息をのみ、衣擦れ一つでも起こせば銃弾で撃ち抜かれてしまうような、時代錯誤も甚だしい、そんな緊張感が走った。
「なぁ、誰が持ってる?」
「俺」
遠野が発言した。彼は汗も流さずに目を伏せて、はっきりと答えた。
水の粒が窓を叩きつける音さえやんだ。そんな気がする。
そしてすぐに、「わぁあああああ!!!!」と歓声の声が”教室内”に響いた。
まるで教室内にはクラス全員が集まっており、男子も女子も両手を上げて飛び上がって大袈裟に喜ぶような、甲高い絶叫だ。
誰も何も、教室内では話していないというのに。
それからはまさしく阿鼻叫喚だった。遠野以外の全員が教室から飛び出し、廊下でひとかたまりになって騒ぎ始めた。藤宮もさすがに逃げたらしい。すぐに先生を呼んで事情は話したものの、先生は上手く話が飲み込めずに困惑していた。
七組から生徒がわらわらと出てきて、ついでに六組からも面白半分で廊下の様子を伺うために数名が出てきた。そして七組の、とある生徒が言った。
「四組、さっきめっちゃ嬉しそうな絶叫?が聞こえたけど何かあった?」
四組はまた悲鳴に包まれた。
次の日に集まった生徒は、前日の半数だった。
前日に休んで噂を聞きつけたクラスメイトが面白半分で参加し、坂下が部活の友達を誘って登校した。遠野は休みだったようだ。
生徒達の怯えようがただ事ではないと感じたらしいのと、遠野が、としきりに訴える生徒達を見て、受け持つクラスがない古典の先生が気を利かせて一緒にいてくれたようだった。
しかしその日は何事もなく、先生も気のせいだろうと判断し、例の声を聞いていない生徒も面白がって笑うだけだった。
そしてまた翌日。三日目である。
遠野が来た。
サボりがちのくせに、こういう不測の事態にばかりやってきては囃し立てる生徒達と、実行委員の藤宮と坂下。それから十人程度のクラスメイトが集まった。丘も椎名もいたようである。
そしてまた正午付近に事が起きた。
一部の生徒がしきりにドアを気にしているなか、今度は前方のドアから女子生徒の声で、こう言った。
「ねぇ。ちゃんと持ってる?」
もちろん視認性は良好な透明の窓である。はっきりと廊下が奥が見える。つまり、今度も人影は見えずに声だけが投げかけられたのだ。
ぎくりと複数人の生徒が強ばったことに気がついたらしい、「歓声」を聞いていなかった男子生徒がニヤニヤしながらドアをあけた。
「んだよ!誰もいねえじゃん!」
ケラケラと笑うが、だからこそ恐ろしいのだ。
「ねぇ、持ってる?」
しかし二回目で、ようやく違和感に気がついたらしい。
遠野はパレットを持ったまま座って静止している椎名の腕をとり、「見て」と立たせた。そして教室の真ん中辺りを指さし、鏡が視界に入る位置にいるよう指示をした。
その付近から、中で作業をしていた半分ほどの生徒がすでに廊下に出ていた。
遠野が鏡のちょうど真ん中ほどで止まる。くるりと振り返って、青い顔をした椎名に向き直った。
「どう見える?」
椎名が答える前に、逃げ遅れた、遠野のすぐ近くにいた生徒が悲鳴を上げた。
鏡の中では机と椅子が全て普段通りに並べてあり、見知らぬ制服の男子生徒と女子生徒が何人も座っていた。全員前ではなく後ろを振り返り、白目のない真っ黒な二対の瞳が遠野を凝視していた。肌は恐ろしい程に白かったという。
椎名が廊下に走り出すと、残っていた生徒も全員転がるように出て行った。遠野だけは教室に残っていて、ゆっくりと歩いてくると、つま先が下レールから出ない位置に立った。
「作業する教室を変えた方がいい」
遠野だけは汗もかかずにいる。遠野だけは顔色が変わっていない。
それから、やっぱり午後は作業にならなかった。何人かの女子生徒は泣き出しさえした。
遠野は背筋をぴんと伸ばしたまま、教室にある私物を廊下に出し始め、全員分の荷物を運び出すと、自分の荷物を背負って帰ってしまった。
クラスラインでは全員が予備教室に行くことを拒否していたし、実行委員としても無視は出来ない。とりあえず四組で作業をする話になり、作業していたものを全て四組に移す算段をたてたが、誰からも手伝うとの返事は来なかった。
椎名は、もう無理だ、と直接藤宮に告げたそうだ。
「悪い。しばらく遠野無理かもしんね。……遠野が悪いっていうか、遠野見てると思い出してダメだわ。だってさ、鏡に写ったってことはあの黒い目の奴らが遠野の周りにいたってことだろ?」
それって俺達の周りにもいたってことだよな。
仕方なく藤宮は遠野に頼んでみた。彼の連絡を交換したはいいが、交換し始めの頃に数度やり取りをした程度だし、遠野がほとんど返事がこないことも知っている。だからダメ元ではあった。だが予想に反して遠野から了承の返事が貰えたのだという。
「それでさ、悪い。さきに八千賀に謝っとく」
藤宮が口ごもったと思うと、首を軽く下に曲げた。謝罪のようである。
「八千賀に何かしたってわけじゃなくてさ。あー……。三年の先輩に教えちゃったんだよ。こう、話の一環として。話題みたいな?でももうSNSでこの話めっちゃ出てて、遠野がどうとかも結構噂になっててさ。だからまぁ、向こうから「これガチ?」って感じできて、そうっすって返した、みたいな」
三年の先輩は、去年まさしく八組と予備教室でお化け屋敷をやったらしい。そんな変なことなかったけどな、とそれで話は終わった。
さて翌日、藤宮と遠野は荷物運びのために登校した。遠野が教室から廊下に荷物を並べ、藤宮が四組にせっせと運んで行った。床を掃き、ほこりや紙くずなどを遠野がゴミ箱にすてて机と椅子を全て元に戻す。藤宮はその間に荷物を運び終え、その日はそれで解散となった。余談だが、遠野にコンビニでアイスを奢ると提案したら断られたらしい。
五日目。四組での作業が始まった。この時点で「出し物の変更」もしくは「四組でのお化け屋敷」の打診が出た。藤宮は坂下とともに他の実行委員や生徒会、そして実行委員の顧問の先生に事情を説明するために奔走することとなった。実行委員を初めとする皆は同情的で、そしてこの時点ですでに遠野は恐ろしい化け物に成り果てていたらしい。
遠野は五日目もやって来た。八千賀が休み、遠野が代わりに登校してきた初日は、積極的に受け入れる空気でもなかったが排斥する動きもなかった。けれど五日目はどうだろうか。誰も彼も遠野から距離をとり、怯え、遠野を避けるようになった。例外は丘と椎名だけである。彼ら二人はまだ遠野とまともに話をしていたし、ある程度クラスを落ち着かせるような働きをしていたのだった。
教室は灰塵が舞っているように息がしづらく、誰も彼も沈んだ顔をしており、動きが鈍かった。挨拶一つとっても静かで、皆一様に口を噤んでいる。作業中、刺さるように遠野に視線をやっては、誰かの舌打ちが響く。そういった有様だった。
そのうちに一人が手を止め二人が筆をパレットに置き、三人が課題などを取り出し、結局ほとんどの人間が作業を放棄した。
遠野だけが黙々と作業をしていた。
さて、もはや何時に何があったか仔細を語る必要もないだろう。太陽が真上にある、夏らしい爽やかな空気に包まれているあの時間にまた声がした。男子生徒の声だ。
「持って行ったんじゃないのか?」
「なんで?」と誰かが呟いた。続いて、「予備教室じゃないのに」とも。動揺と恐怖が伝播し、さざ波のようなざわめきがやがて喧騒になった。例のごとく、教室の外から声が聞こえるのにガラスの向こうには誰もいない。きっと廊下に出ても物理的な姿はないのだろう。
「なぁ。持って行ったんだよな?」
「持って行っただろ?」
畳み掛ける声は焦りを含んでおり、震えさえ感じられる。
「置いてきた」
遠野が何食わぬ顔で返事をした。
一瞬の間の後、ガンっと両側のドアが外側から殴られた。叩きつける音とともにドアが大きく軋み、レールから車輪が外れそうになった。そして、怒声が響いた。
「持って行けって言っただろうがっ!!」
悲鳴が上がる。
遠野だけが立ち上がり、無遠慮に引き戸を開けた。なめらかにドアは滑り、陰鬱な内部ともはや異世界にも感じられる外部が繋がる。どちらが薄気味悪いのか問われれば、もしかしたら幾分か教室の方がいいかもしれない。
ドアの先には、当たり前だが味気のない、白い校舎の廊下がある。教室内に差し込む日差しと同じように朗らかで麗らかな、けれど眩しいばかりの日光が廊下を照らしていた。ぽんぽんと綿を積み上げたような高くて真っ白な雲が地平線の下の方で幾つも繋がっている。絵に描いたような快晴、晴天、好晴だ。なのにどうしてこんなにも恐ろしくて気味が悪いのか。
開けた先、扉の向こうと教室内は何は変わらない。けれど一目散に、我先にと全員が飛び出した。教室は膨らみきった風船のような危機感に溢れていた。
自分たちの教室からなるべく距離をとり、もう嫌だと男子も女子も潤みをのせた声音で喚めく。
件の四組がまた絶叫したので、案の定野次馬が隣のクラスからぞろぞろと出てきた。階段からも人が来ていたので、一年生も三年生もわざわざ来たのかもしれない。
しかし藤宮は、野次馬が四組だけを見ているのではないことに気がついた。後半のクラスはクラスで、なぜか人だかりがある。そして彼らは四組ではなく、さらに後ろを見ている。
ぴんときた。彼らが見ているのは──────予備教室だ!
藤宮があっと、本当に文字通り「あっ」ともらしたと同時に遠野が走った。続いて丘と椎名もかけて行く。藤宮はクラスと三人を交互に見やり、そして彼らについて行くことにした。
ふと、三年の先輩のことを思い出したのだ。
やはり人だかりは予備教室を囲っていた。
遠野は乱暴に人を押しのけると、教室の後方のドアに向かった。掃除用具入れと大鏡がある方のドアだ。
ドンドンと内側からドアを殴る人影がある。件の先輩達だった。何かを訴えているのか口が大きく、ぱくぱくと開いている。防音室でもないのに声は聞こえず、けれどドアを蹴ったり殴ったりする音はきちんと届いている。
藤宮が教室内を見ると─────彼らはは複数人に囲まれていた。目が真っ黒の、知らない制服の人達に囲まれていた。
遠野が引手に手をかけた瞬間にドアが開いた。中にいた先輩達は三人で、彼らは目に涙をためて教室から踊り出た。両足がもつれたのか、遠野を突き飛ばしてから廊下の窓に突撃する勢いで転がる。一呼吸もつけず、彼らはそのまま階段に向かって走り出した。
その後、すぐにぎゃっと潰れる声がこだました。
藤宮が教室を横目で見ると、予備教室には誰もいなくて、もちろん黒い目の他校の生徒なんていなくて、そして慌てて階段に向かうと、先輩達は折り重なるように踊り場に落ちていた。
うう、と呻き声が耳に届く。まるでサンドイッチを作るみたいに、ぎゅっと押されたみたいだ、と藤宮は漠然と思ったらしい。別に人体の薄さが半分になったわけではない。ただ三人が同じ場所に折り重なって”落ちていた”だけだ。
教師が職員室から飛び出してきて、階段から落ちたらしい先輩達の元に駆け寄った。騒然とした階段で、必死に大人が意識があるのかを問いかける。
「知らねぇよ。持ってねぇよ、持ってねぇって」
一番下にいる先輩が呟いた言葉を、藤宮は遠野の横顔を伺いながら聞いた。
やはり彼は圧倒的な綺麗なおもてで、眉を寄せただけの相貌で、まさに見下すように事件の現場を眺めていた。
遠野の呪いだ、と誰かが呟いた。
「で、それが昨日の話。なんか、先輩が友達連れて予備教室行ったらしくて。今病院なんだけど、わりとひどい怪我っぽくて。まぁそんな感じで、一週間後ヤバかったのが遠野の呪いのせいだって……」
現場を見ていないが、八千賀は冗談だろと笑うことは出来なかった。「持って行った?」の声は自分自身も聞いたのだから。
「……俺たち、どうしたらいいかわかんなくてさ。今日来てる連中は八千賀が来るから来てるんだぜ」
「俺?」
「お前が、遠野を追い出してくれないかなって思ってんだよ。みんな遠野と話したくないみたいだし」
「……なんだそれ。てかさ、話聞いてて思ったけど、遠野は守ってくれてる方で……」
八千賀はそこで言葉を切った。藤宮も八千賀ではなく、階段下へ意識を向けた。
遠野がいたのだ。
「遠野!お前、大丈夫か!?話聞いたけど……」
すぐさま駆け寄った八千賀を、まるで存在しないかのように遠野は避けた。止まらずに階段を登り、藤宮に「おはよう」と低い声音で挨拶をすると、四組に入っていった。
「えぇ……。何今の。いくら何でも酷くね?」
「俺戻るわ。教えてくれてありがとな」
「八千賀。あのさ、俺もあんま言いたくないけど、やっぱ遠野と距離おけよ。お前までハブられるぞ」
八千賀は歩くために持ち上げていた足をその場に下ろすと、ひとまず笑った。
「別にそれでもいいよ。ごめんな。心配してくれたのに」
教室は、極寒の地にでも転移したのかと思った。この寒々しさはもはや真冬である。いや、日本の冬よりも体感気温が低い。シベリアかフィンランドか北極あたりの寒さだ。
遠野は廊下側の壁際に一人だけ座っていて、藤宮の話通り周りなど目もくれずに一人だけ作業を進めるために道具の用意をしていた。
「八千賀」
いざ行かん。よしと一歩踏み出したところで声をかけられた。勢いが削がれてしまい気落ちしたことを相手に悟られないよう、普段通りの笑顔を浮かべて振り向いた。
「ん、どした?」
「はいこれ。ありがと」
「……ん?」
「あれ?八千賀のでしょ?」
差し出されたボールペンは身に覚えがないものだ。そもそも夏休み中に人にペンを貸した記憶がないため、勘違いだと告げようと思ったところで、後ろから手が伸びてきた。
「俺の」
遠野が八千賀の手をやんわりと押さえつけ、黒いボールペンを受け取った。話しかけた生徒は頬を引き攣らせると、無言で去っていき、おそらく先程までいたのであろう、友達の元に戻って行った。
「遠野、そんなの持ってたっけ」
やはり無反応である。一瞥すらせずに遠野は自身の作業スペースまで足早に向かうと、なんとおろしたはずのリュックを背負い、教室から出て行ってしまった。
「何あれ」
「てか何しに来たんだよアイツ」
「……」
もしかして八千賀がいるから帰ったのだろうか。作業をしてみようかと思っていたけど、八千賀が変わらずに話しかけてくるから嫌になったに違いない。
それでも一週間前は一人で寝こけていた八千賀にわざわざ声をかけてくれたし、怪我の心配までしてくれた。愛情深い人なのだ。その情にあつい人をあそこまで怒らせるって……と失恋の落ち込みが再び心中に込み上げて来た時、”唐突に思い出した”。
「ごめん藤宮!俺も帰る!」
「え、八千賀!?」
八千賀は慌ててカバンを引っつかむと、教室から飛び出した。
そうだ。あまりに色々あってすっかり忘れてしまった。一週間前、怪我をする直前にみた夢でボールペンが出てきたではないか。何が怖かったって、あのボールペンが夢と現実両方にあったことも怖かったのだ。「俺のだ」と言って遠野が回収したボールペンは、あの時のものではなかっただろうか。
「遠野!」
八千賀が追いかけ始めた時には既に廊下に姿が無く、急いで階段へ向かって階下を覗き見ても彼らしい姿は見えなかった。上履きからスニーカーへと履き替えたところで、遠野が駐輪場を抜けて校門に向かっていた。
すれ違う生徒たちが全員八千賀の声で振り向くので、聞こえない声量のはずはない。しかし遠野は全く聞こえないとでも言いたげに、一切の反応を示さずに進んでいく。追いつくためにに全力で駆け抜け、指先が遠野の腕に触れそうなところまで距離を縮めた。
さて、昇降口から校門までそれほど距離はない。玄関のすぐ正面には体育館と第2体育館があるのですぐに右折をしなければらないが、迂回するように道なりに進んでいけば良いだけだ。
「遠……遠野!」
そして彼が校門から足を踏み出したその瞬間、自転車が横から遠野に向かって早い速度で突っ込んできた。
「っ……!!」
息を飲んだ遠野の腕を掴み、思いっきり自分の方へと引っ張る。さすがに驚いたらしい遠野は踏ん張ることをせず、力に任せて自然と後退した。足がもつれたのか身体が傾き、転びそうになったのをなんとか支える。
「………」
どっどっと心臓が早鐘を打つ。遠野と二人で校門前を向くと、そこにはもう自転車はおらず、いくつかの車が車道を走っているだけだった。
藤宮の話が頭の中をぐるぐると巡っていく。階段から落ちた先輩は、見た目の怪我は酷くなさそうだったのに実際はそうではなかったという。短絡的ではあるし思い込みかもしれないが、もしかして昨日の転落はただの事故ではなくてトオノさんのような心霊現象なのではないだろうか。
そして遠野や八千賀達はつい先ほど例の「持って行った」の声を聞いた。そして間髪入れずに”ボールペン”を持っている遠野が事故に巻き込まれそうだったのだ。なにか作為的なものを感じる。
─────きっと「持って行った」と何度も確認しているのはボールペンのことだ。
「と、遠野、大丈」
「ゆう!怪我は!」
炎天下の中での全力疾走における生理的な汗と、驚愕と恐怖からの冷や汗とで背中のシャツが張り付いている。一瞬間抜けにも遠野にしがみついたまま放心してしまったが、そんな場合ではない。無事を確認しようとすると、その前に遠野が肩を掴んできた。
「俺じゃなくて遠野だろ!?」
「爪!」
「え?」
遠野の剣幕に押され、わけも分からず自分の爪を見る。剥がれてしまった二本の爪以外はなんの変化もない。手の甲を太陽側にして指を広げると、遠野はあからさまにほっとした表情をして、しかしすぐに眉も目も、全ての顔をくしゃりと中心に寄せると、八千賀の肩をかき抱いた。泣きたいのか苦しいのか判断がつかない。
首筋に遠野の髪の毛が触れ、本当に小さな声で「良かった」と震える声が耳に届く。
「また怪我をするかと……」
肩に回された指がくい込んで少し痛かった。けれど喉と一緒にその指すら震えているので、八千賀は何も言えなかった。その代わり両手を同じように背中に回し、ぽんぽんとあやす様に軽く叩く。
「………お前、本当は俺の事好きだろ」
遠野はしばらく押し黙った。躊躇っているのかはわからないが、けれどそのやや後にようやく観念したのか、これまた小さな小さな声で「うん」と肯定の二文字が聞こえてきた。
