4
「あ、やば」
電車にのってからようやく間違いに気がついて、八千賀はうっかり声に出してしまった
今日のお化け屋敷の準備は午後からだった。すっかり忘れてしまっていた。
今から午後一時まで時間をつぶさなければならないが、どこにも行く気は起きなかった。人がどんなにいようとトオノさんは八千賀の周りに出没するため、スマホと同じくどこかにいく頻度もすっかり落ちてしまった。人の誘いを断るのは角がたつためついて行くが、自分から進んで出かけることはなくなった。かと言って自室も安心出来ないのが辛いところである。うっかりベッドの下のトオノさんを目撃してしまった日には、様々な意味で寝れなくなる。
足の上に置いたバックを抱えて頭を押し付ける。電車の中は冷房が効いていて涼しいが、この後の炎天下を思うと気が重い。
『間違えて電車乗っちゃった。今日って午後からだったんだよな』
液晶画面を見たくない、と宣言している遠野はメッセージを送っても気が付かないことがある。八千賀のメッセージはすぐに気がつくが、椎名は未読無視が多すぎると不満を口にしていた。逆になぜ八千賀のメッセージには早く返事のか、と問えば理由は一つしかない。遠野は八千賀のことが好きで、意識しているからだ。そのはずだった。けれどついに昨日「いい加減にしろ」と今度こそ振られてからとうとう返事は返ってこなくなった。
「…………」
しばらく待ってみても通知が届く様子はない。ガタガタとひとり寂しく電車に揺られ、ぼんやりと窓の外をみた。トオノさんはおらず、いささか顔色の悪い男子高校生が脱力してシートにもたれかかっているだけだ。
「あ〜……」
項垂れ、カバンに額を押し付けた。スリープ画面になったスマホをひっくり返してから乱暴にカバンに入れ、トントンと靴のつま先で電車の床を叩く。今日どころか永久にこのまま返事などないだろう。
終わってしまった。ずいぶんとあっさりとした幕引きではないか。
八千賀の想定では、遠野が根負けをするはずだった。これまでの彼はなんだかんだと言いつつも八千賀のわがままに素直に頷いていたから。トオノさんにもめげずに健気に好きと言い続けていれば、いつか恋人同士になれると思っていた。そうでなくとも、一年の時みたいに普通に話してくれるだろうと。
しかし結果はどうだろうか。
遠野からは完全に呆れられ、最も恐れていた「離れられる」という事態に陥っている。きっとこれから遠野は「構うな」とすら言わないだろう。
腕を目元にあて、ずっと鼻をすする。瞼が押し当てられている腕が、生暖かく濡れる感触がする。朝から電車の中で泣き腫らしている、などとみっともない真似は晒したくはない。そうだ。だというのに、喉が焼け付いて少し痛くて、「お終い」の三文字が瞼の奥で点滅してはバラバラと崩れ去っていく。
遠野がクラスどころか学年から浮きかけていた春も終わりごろ、八千賀は逃げ回る遠野を追いかけて追いかけて不満をぶちまけた。それはもう泣いて縋って泣いて散々喚いた。そうしたら、その時は遠野が根を上げたのだった。「ゆう」と名前を呼ぶようになったのはそこからである。彼なりの歩み寄りと、そもそも優しいので言うことを聞いてくれたのだろう。
八千賀とあまり会話をしてくれなくなり、遊びにいくことは全くなくなってしまったが、それでも返事はしてくれていた。
しかしその恩情さえなくなった。
なんでだろう。何がいけなかったんだろう。遠野は自分を好きではなかったんだろうか。
いかにそれらしく悩んでも、答えなど考えるまでもなくはっきりしている。八千賀がしつこくまとわりついていたせいであり、遠野は本当にただの友人として接していただけだ。堪忍袋の緒を切ったのは八千賀だ。我慢して我慢して、縁だけは切らずにいた遠野をついに怒らせてしまったのだ。
予備教室はすっかり変わり果て、夏休み前とは違い散らかっていた。机と椅子は重ねて前方に寄せ、作業できるスペースを広く使えるようにしてある。模造紙やダンボール、ベニヤ板などの材料はすみに積まれ、壁には絵の具で描き終えたダンボールが立てかけてある。教室の中央には絵の具、パレット、新聞紙や筆が何ヶ所か点在していた。
八千賀の作業スペースは鏡が目に入らない、ロッカーの前を陣取っている。出入口のドア付近なので、若干邪魔そうにされるのが問題ではあるが。
夏休みは八月に差し掛かった。文化祭の日にちまでを逆算すると、あと一週間ほどで切り上げてもいいだろう。進み具合によっては一週間もいらないかもしれない。
前に片付けられている机と椅子を一つ元に戻し、そこに座って突っ伏した。
数日前に鬼の形相のトオノさんを見てから、遠野と同じように予備教室に忌避感を抱くようになった。かと言って他のクラスに遊びにいくのも、なんだか疲れてしまった。人と会う気分ではない。
灼熱地獄の中を歩いて来たせいか、一人だけの教室にかかった冷房が存外心地よかったせいか、八千賀は本当にうとうととしてきた。重い瞼に抵抗せずに委ねていたが─────横に人が立っている気配がして頭を起こした。
「藤宮?」
真面目で頑張り屋の藤宮は実行委員らしく、準備期間中はほぼ一番に教室に来ている。午前中に学校についてしまった、遠野だけしか伝えていないが、もしかしたら藤宮も間違えてしまったのかもしれない。
上体を起こすが、視線の先には誰もいなかった。
「……ん?」
それだけではなく、教室の様子が変わっていた。
まず、八千賀が座っていた机と椅子以外は全て重ねて前方に寄せていたのに、元に戻っていた。しかし机も椅子も見慣れたものではない。予備教室の机は二本足だったが、八千賀が座っている机は四足だ。机の表面には落書きや掘られている痕があるが、これも見覚えがない。
前方を向く。黒板は上下スライド式のものではなくシンプルな木枠黒板だった。右端には「日直」とチョークで書かれているが、予備教室の黒板はまっさらだったはずである。それに壁にかかっていた、お化け屋敷の飾りが全て無くなっていた。
ゆっくりと振り返る。後ろには清掃用具が入ったロッカーがあり、ミニ黒板もあるがミニ黒板はマンスリーカレンダーになっていなかった。その代わり黒板には手書きの文字が書き込まれており、プリントが四枚ほど貼り付けられている。そのまま右手側には大鏡が貼りつけてあった。この教室で覚えがあるものは、その大鏡だけである。
「………」
背中に汗が伝う。窓は空けられており、涼しい風が入ってきている。そう、涼しいのだ。たしかに気温は高くはあるが、黄色いカーテンを揺らしている風はきちんと清涼さを運んできている。息が詰まるような熱風ではない。
─────ここは清進高校ではない。
ならば一体どこだというのか。
ジワジワと鳴き続けるセミと、ミンミンと唸るセミと、とにかく虫が賑やかだ。
もう思考に耽る余裕もなく、思わず八千賀が立ち上がると、何かが机から落ちた。
黒い、シンプルなノック式のボールペンが転がっていた。本体のボディ部分は透明で、黒いインクが透けて見える。
「なーぁ」
間延びした声が聞こえた。前の出入口からである。ドアに嵌められているガラスはどうやらすりガラスのようで、廊下側を伺えない。けれどぼんやりと、生徒らしい人物が立っているのはわかる。
「それ、持って行けよ」
八千賀は答えなかった。喉が張り付いて言葉が出なかったのだ。
「持って行けよ」
もう一度、念を押すように言われる。何を?と疑問に思ってから、転がったままのボールペンを拾い上げた。
「これのことか?」
「それ、持って行けよ」
声が繰り返す。
「持って行けよ」
「持って行くよな」
「なぁ、持って行ったか?」
立て続けに三回も言われ、八千賀は再び黙った。指の先が痺れるような、セミの声がうるさいせいか頭ががんがんするような、とにかく足元が柔らかくて床がぐにゃりと沈んだ気がする。手からボールペンが滑り落ち、カタンと軽快に硬いものがぶつかる音が響く。
シン、と一瞬だけうって変わって静かになり、セミの合唱も止んだようだった。だが意識せずに呼吸を止めていたせいで苦しくなり、はっと喘ぐように息を吐いた瞬間、決壊したようにセミがあちこちで鳴き始めた。
「持って行けよ」
「持って行け」
「持って行ったか?」
「おい、持って行けよな」
セミの鳴き声にかき消されることなく、男子生徒が続けざまに言う。だんだんと声量が大きくなり、苛立っているのか早口になり、最後は怒声となって叫んだ。
「持って行けって言ってんだろ!!」
「ゆう!」
「─────っ!!」
肩を強く揺すられ、八千賀は飛び上がった。
「………っ、は……ぁれ、え」
荒い呼吸のまま辺りを見渡す。教室内には絵の具や絵筆、パレットが床に置かれていて机と椅子は前方に寄せてある。壁には夏休みが始まってからこつこつと用意した飾りがかけられている。八千賀の知っている、これまで通ってきた予備教室の風景だ。
─────さっき見たものは夢だろうか。
「……あ、遠野?」
いつからいたのか、遠野が机の横に立っている。彼はやや眉を下げ、八千賀の肩に手を伸ばしかけていたが、八千賀が前に出ている腕を見やると彼はぱっと下ろしてなかったことにした。
「……本物?」
「本物じゃなきゃなんなんだ」
「ははは、確かにそうだわ。ごめん」
息が苦しい。喉が乾いて少し痛い。心臓が忙しなく伸び縮みを繰り返して血液を送るせいか、太鼓顔負けの音が耳元まで響く。ドンドンとうるさくて気が散ってしまう。
前髪は汗でべっとりとはりついていて、腕も背中もしとどに濡れた感触がある。不快だ。ぶるりと方が震え、少しばかり驚いた。なぜか寒気がする。汗で冷えたのかもしれない。
誤魔化すわけでもなかったが、カバンからタオルを取り出していかにも何事もなかったかのように会話を続けた。カバンからタオルを探し当てるために手を突っ込んで、しかし中々見つからず時間がかかったので不自然に思われたかもしれない。
「なんでいるんだ?」
「……勉強しに来た」
嘘だ、と直感が判断した。遠野はわざわざ休みの日に学校に勉強をしに来ない。彼の家の周辺にはカフェや図書館があったはずで、それらを利用するはずだ。そもそも彼は学校自体を避けている節がある。それにもし勉強をしにくるなら今日以外だって頻繁に来るだろう。だが遠野が登校してくるのは文化祭の準備のためだ。
もっと言えば、遠野のその、顔ごと伏す姿は気まづさや申し訳なさを感じている時に見る。
だがここで「嘘」と決めつけてはいけない。「そのはずだ」と思い込んで行動した結果が、昨日の遠野の怒りであるのだから。
「そうなんだ。あー、今日は準備、午後からでさ。メッセージ送っ……あ、や、なんでもない。時間間違えて電車乗っちゃったんだよな。はは。間抜けすぎる」
顔がまともに見れないだけでなく、普段どのようなトーンで会話をしていたのかすら忘れてしまった。いかな八千賀でも昨日の今日で平静を装うことは不可能らしい。
「……ゆう。大丈夫か?」
「えぁ?あー、うん。平気平気」
「……寝言を、言っていた」
「えー。恥ずすぎる。なんて言ってた?」
「……持って行った、って何度も繰り返してた」
ド、と落ち着きかけていた心臓が再び跳ねた。
「……お、れが言ってたの?」
「あぁ。しきりに言ってて……。何かあったのかと」
「……」
人間、不測の事態に陥ると楽しくもないのにへらりと笑うものである。気の抜けた笑顔を浮かべ、全身にまとわりつく悪寒を振り払おうとした。落ち着きなく身動ぎをすると、何かが机から落ちた。
「ん?」
ころころと転がったのはボールペンだった。
誰かの忘れ物だろう。かがんでボールペンを拾い上げる。特にこれと言った特徴のない、シンプルなつくりのボールペンだ。ボディは透明で、インクチューブの中のインクの黒が見えている。予備教室の教壇の上にメモ用紙とともに置いておこう。きっと気がつくだろう。しかしふとどこかで見たな、と首を捻ってから思わずボールペンを落とした。再びボールペンが転がったが、八千賀が床に転がるボールペンを見たのは本日三回目だ。
「ゆう?」
「……っ、ぁ、ああ、うん」
記憶が正しければ──────このボールペンは予備教室ではない教室に落ちていた、あのボールペンだ。なぜこんなところにあるのだろうか。
拾いたくない。咄嗟に浮かんだ考えは、放っておくのは不自然だろうからと必死に押しとどめて拾い上げた。
何の変哲もない、ただのボールペンのはずだ。なのになぜこんなにも気味が悪いのか。
汗が止まらないが、これは夏のせいではない。薄ら寒いのも冷房だけの問題では無い。
「ゆう、……本当に大丈夫か?」
大丈夫ではない。怖い。
八千賀がこれまでトオノさんを見ても気丈でいられたのは遠野がいるからだった。恐怖を分かち合うことが出来るし、なにより彼に好いてもらうためだ、と怖気付いても奮い立たせていた。
けれども今の八千賀は遠野に見放されており、関わるなときっぱりと振られてしまった。彼とはもうろくに話ができないはずだ。それでも遠野がここにいるのは、きっと八千賀が一人でいたので心配だったのだろう。
元々遠野は予備教室を警戒していたし、「近づくな」と言い放って初対面の人を驚かすが、心が冷たいわけではない。
「……心配かけた?悪かったな。本当に大丈夫だから!勉強してたってことは空き教室にいたんだろ?早く戻……いっ!?」
「ゆう!」
突然バチンッと指先を挟んだような、弾けた痛みが身体を駆け抜け、反射で声を上げた。痛みが襲ったのはボールペンを持っていない方側だ。
なに、と呆けたのは八千賀で、遠野はすぐに動いた。八千賀の手を強く掴んで引き寄せ、眼前に持ってきた。
「えっ」
左手の人差し指、それも爪先からぼたぼたと血が流れている。指先に切り傷などの損傷は見えないが流血は激しく、ぱちぱちとやたら瞬きをしている間にもとめどなく流れ落ちていく。遠野が慌ててポケットからハンカチを取り出してぐるりと巻いた。
「いっ、いた、いて、なに?」
「すぐ保健室に……」
焦りを滲ませた遠野が一旦区切り、ぱっと顔を上げた。彼が「どこか」を見るのは珍しい。トオノさんに怯える遠野は、基本的に天井ではなくつま先や手先ばかりに集中し、兆候や予感があるとすぐに自分の身体の一部分以外を視界から排除しようとするからだ。自身の後方、つまり廊下側の高窓を見た遠野の姿につられ、八千賀も咄嗟に振り返り、おそらく同じ場所に視線をやった。
「……ぁ」
トオノさんがいた。目を限界まで細め、口角がこれでもかと上がっており、前歯だけでなく歯茎さえ覗いている。
指先の痛みとトオノさんの狂気ともいえる様相に思わず後ずさると、強く肩を掴まれた。
遠野が抱くようにして肩に手を回し、足早に出入口に向かった。前方の黒板横の出入口だ。触れている手がやけに熱いが、それでも人肌というものは安堵を与える。
遠野がともすれば乱暴に引手を掴み、勢いよく引いた。
「………」
だが扉は開かなかった。がつん、と引っかかったように動かない。施錠でもされたというのだろうか。いまだ校舎中のいたるところに人がいる、この明るい時間に。太陽が地平線に沈みかけているわけでもないのに。
「え、ぇ、何で?」
「ゆう、どっちから入ってきた?」
「え、あっ、……後ろかも」
狼狽えている八千賀の腕を引っ張り、遠野が場所を移動する。耐えきれなくてふと覗き見たトオノさんはガラスに額を押し付けて楽しげに笑っている。
これまでに何度もトオノさんを見てきたと言うのに皮膚が粟立つ。思わず肩を抱いている遠野の方に身体を寄せかけて、だがすぐに理性が戻ってきた。続く奇怪な現象と止まない痛みとで頭が沸騰しかけていたが、それでも遠野に振られているという事実だけは忘れないらしい。
「大丈夫だ」
「っ……」
二歩ほど距離を取り、慌てて離れようとしたが遠野が再び引き寄せた。引っ張られたせいでバランスを崩し、身体がとんと密着する。遠野に比べてやや地面に近い八千賀の頭が肩に乗せられた。
まるで正面から抱きしめられているようだ。
ぽんぽんと背中を撫でられて、ふぅと息を吐いた。触れ合う面積が広いせいか、それのも悪寒で気持ちの悪かった背中を好きな人に撫でられているせいか、足先まで強ばっていた力がゆっくりと抜けていく。とくとくと一定の心音が洋服越しに自身の胸に呼応し、浅くて早かった肺がようやく活動を始めた。どうやらほ乳類として必要な呼吸の仕方を忘れていたらしい。
温かい。こんなことになっているというのに遠野が近くにいるだけで、あまつさえ包容のように触れ合っているという現状に気が向いてしまう。
辛い。嬉しい。振ったならそれらしくして欲しい。触れないで。いいな。恋人として抱きしめられたらもっと温かいのだろうか─────いや、今はそれどころではない!
遠野が引手を何度か動かす。しかしこちらの扉も遠野が力を入れる方向に合わせて小刻みに震えるだけで一向に開く気配はない。
「いて!!」
再び痛みが襲った。先程と同じで、一瞬指先が弾かれたのかと思った。それから急激に指先の脈が速くなり、心臓のように膨らんだり萎んだりしている錯覚に襲われる。まさか二度目の怪我を負うなどと想像だにていなかった八千賀は、一本目の痛みがずっと続いているとはいえ、油断していたところで発生した痛覚の衝撃で、わけも分からず咄嗟に手を後ろに引っ込めた。
「ぇあ、えっ、えっ?」
今度は左手の中指だった。同じように爪の先から流血している。
直後、ぐらりと身体が動き、縺れながら前に倒れかけた。転ばなかったのは遠野が支えていたからだ。
いつのまにか予備教室からは抜け出せていた。見慣れた廊下は休みの日らしく静寂そのものだ。吹奏楽部の金管楽器や打楽器が奏でるメドレーと、軽音部がギターをかき鳴らして演奏しているカバー曲とが混ざり合いながらも教室棟に届くが、あくまでも教室棟は静まっている。
廊下は無人だった。生徒はみな自分たちの教室に行き、来る文化祭にむけての準備に精を出しているのだろう。
遠野と八千賀だけが肩で息をして、二人して呆気なく開いた扉に目を向けていた。
「っ、ゆう!」
先に我に返ったのは遠野で、汗ばんだ手で両手を掴むと自身の眼前に引っ張った。八千賀の右手はボールペンを握っており、左手は二本の指に怪我を負っている。
いまだ呼吸は浅く、痛みのせいで思考がまとまらず自分の指先に何が起きたのかを時間をかけて考え、そしてようやく理解した。二本とも爪が剥がされている。
息を飲む。二人で呆然としていると急に足を引っ張られる感覚があった。
「それ、ちゃんと持って行けよ」
八千賀の足は、教室から伸びている青白い手首にしっかりと掴まれてた。手首は床に”落ちて”いて、肘から先が見えない。
その手首は、教室の内側から聞こえた声とともにすぐに消えてしまった。
ぼた、と顔から何かがしたっている。それは鼻から下に向かってゆっくりと真下に落ちているようだ。唇にも生暖かい液体がつたう感覚がある。
暑さでゆだったのか知恵熱の類いか、頭がぐらんぐらん揺れだ。眼球及び視界が一回転して、そこで記憶は途切れた。
「あ、やば」
電車にのってからようやく間違いに気がついて、八千賀はうっかり声に出してしまった
今日のお化け屋敷の準備は午後からだった。すっかり忘れてしまっていた。
今から午後一時まで時間をつぶさなければならないが、どこにも行く気は起きなかった。人がどんなにいようとトオノさんは八千賀の周りに出没するため、スマホと同じくどこかにいく頻度もすっかり落ちてしまった。人の誘いを断るのは角がたつためついて行くが、自分から進んで出かけることはなくなった。かと言って自室も安心出来ないのが辛いところである。うっかりベッドの下のトオノさんを目撃してしまった日には、様々な意味で寝れなくなる。
足の上に置いたバックを抱えて頭を押し付ける。電車の中は冷房が効いていて涼しいが、この後の炎天下を思うと気が重い。
『間違えて電車乗っちゃった。今日って午後からだったんだよな』
液晶画面を見たくない、と宣言している遠野はメッセージを送っても気が付かないことがある。八千賀のメッセージはすぐに気がつくが、椎名は未読無視が多すぎると不満を口にしていた。逆になぜ八千賀のメッセージには早く返事のか、と問えば理由は一つしかない。遠野は八千賀のことが好きで、意識しているからだ。そのはずだった。けれどついに昨日「いい加減にしろ」と今度こそ振られてからとうとう返事は返ってこなくなった。
「…………」
しばらく待ってみても通知が届く様子はない。ガタガタとひとり寂しく電車に揺られ、ぼんやりと窓の外をみた。トオノさんはおらず、いささか顔色の悪い男子高校生が脱力してシートにもたれかかっているだけだ。
「あ〜……」
項垂れ、カバンに額を押し付けた。スリープ画面になったスマホをひっくり返してから乱暴にカバンに入れ、トントンと靴のつま先で電車の床を叩く。今日どころか永久にこのまま返事などないだろう。
終わってしまった。ずいぶんとあっさりとした幕引きではないか。
八千賀の想定では、遠野が根負けをするはずだった。これまでの彼はなんだかんだと言いつつも八千賀のわがままに素直に頷いていたから。トオノさんにもめげずに健気に好きと言い続けていれば、いつか恋人同士になれると思っていた。そうでなくとも、一年の時みたいに普通に話してくれるだろうと。
しかし結果はどうだろうか。
遠野からは完全に呆れられ、最も恐れていた「離れられる」という事態に陥っている。きっとこれから遠野は「構うな」とすら言わないだろう。
腕を目元にあて、ずっと鼻をすする。瞼が押し当てられている腕が、生暖かく濡れる感触がする。朝から電車の中で泣き腫らしている、などとみっともない真似は晒したくはない。そうだ。だというのに、喉が焼け付いて少し痛くて、「お終い」の三文字が瞼の奥で点滅してはバラバラと崩れ去っていく。
遠野がクラスどころか学年から浮きかけていた春も終わりごろ、八千賀は逃げ回る遠野を追いかけて追いかけて不満をぶちまけた。それはもう泣いて縋って泣いて散々喚いた。そうしたら、その時は遠野が根を上げたのだった。「ゆう」と名前を呼ぶようになったのはそこからである。彼なりの歩み寄りと、そもそも優しいので言うことを聞いてくれたのだろう。
八千賀とあまり会話をしてくれなくなり、遊びにいくことは全くなくなってしまったが、それでも返事はしてくれていた。
しかしその恩情さえなくなった。
なんでだろう。何がいけなかったんだろう。遠野は自分を好きではなかったんだろうか。
いかにそれらしく悩んでも、答えなど考えるまでもなくはっきりしている。八千賀がしつこくまとわりついていたせいであり、遠野は本当にただの友人として接していただけだ。堪忍袋の緒を切ったのは八千賀だ。我慢して我慢して、縁だけは切らずにいた遠野をついに怒らせてしまったのだ。
予備教室はすっかり変わり果て、夏休み前とは違い散らかっていた。机と椅子は重ねて前方に寄せ、作業できるスペースを広く使えるようにしてある。模造紙やダンボール、ベニヤ板などの材料はすみに積まれ、壁には絵の具で描き終えたダンボールが立てかけてある。教室の中央には絵の具、パレット、新聞紙や筆が何ヶ所か点在していた。
八千賀の作業スペースは鏡が目に入らない、ロッカーの前を陣取っている。出入口のドア付近なので、若干邪魔そうにされるのが問題ではあるが。
夏休みは八月に差し掛かった。文化祭の日にちまでを逆算すると、あと一週間ほどで切り上げてもいいだろう。進み具合によっては一週間もいらないかもしれない。
前に片付けられている机と椅子を一つ元に戻し、そこに座って突っ伏した。
数日前に鬼の形相のトオノさんを見てから、遠野と同じように予備教室に忌避感を抱くようになった。かと言って他のクラスに遊びにいくのも、なんだか疲れてしまった。人と会う気分ではない。
灼熱地獄の中を歩いて来たせいか、一人だけの教室にかかった冷房が存外心地よかったせいか、八千賀は本当にうとうととしてきた。重い瞼に抵抗せずに委ねていたが─────横に人が立っている気配がして頭を起こした。
「藤宮?」
真面目で頑張り屋の藤宮は実行委員らしく、準備期間中はほぼ一番に教室に来ている。午前中に学校についてしまった、遠野だけしか伝えていないが、もしかしたら藤宮も間違えてしまったのかもしれない。
上体を起こすが、視線の先には誰もいなかった。
「……ん?」
それだけではなく、教室の様子が変わっていた。
まず、八千賀が座っていた机と椅子以外は全て重ねて前方に寄せていたのに、元に戻っていた。しかし机も椅子も見慣れたものではない。予備教室の机は二本足だったが、八千賀が座っている机は四足だ。机の表面には落書きや掘られている痕があるが、これも見覚えがない。
前方を向く。黒板は上下スライド式のものではなくシンプルな木枠黒板だった。右端には「日直」とチョークで書かれているが、予備教室の黒板はまっさらだったはずである。それに壁にかかっていた、お化け屋敷の飾りが全て無くなっていた。
ゆっくりと振り返る。後ろには清掃用具が入ったロッカーがあり、ミニ黒板もあるがミニ黒板はマンスリーカレンダーになっていなかった。その代わり黒板には手書きの文字が書き込まれており、プリントが四枚ほど貼り付けられている。そのまま右手側には大鏡が貼りつけてあった。この教室で覚えがあるものは、その大鏡だけである。
「………」
背中に汗が伝う。窓は空けられており、涼しい風が入ってきている。そう、涼しいのだ。たしかに気温は高くはあるが、黄色いカーテンを揺らしている風はきちんと清涼さを運んできている。息が詰まるような熱風ではない。
─────ここは清進高校ではない。
ならば一体どこだというのか。
ジワジワと鳴き続けるセミと、ミンミンと唸るセミと、とにかく虫が賑やかだ。
もう思考に耽る余裕もなく、思わず八千賀が立ち上がると、何かが机から落ちた。
黒い、シンプルなノック式のボールペンが転がっていた。本体のボディ部分は透明で、黒いインクが透けて見える。
「なーぁ」
間延びした声が聞こえた。前の出入口からである。ドアに嵌められているガラスはどうやらすりガラスのようで、廊下側を伺えない。けれどぼんやりと、生徒らしい人物が立っているのはわかる。
「それ、持って行けよ」
八千賀は答えなかった。喉が張り付いて言葉が出なかったのだ。
「持って行けよ」
もう一度、念を押すように言われる。何を?と疑問に思ってから、転がったままのボールペンを拾い上げた。
「これのことか?」
「それ、持って行けよ」
声が繰り返す。
「持って行けよ」
「持って行くよな」
「なぁ、持って行ったか?」
立て続けに三回も言われ、八千賀は再び黙った。指の先が痺れるような、セミの声がうるさいせいか頭ががんがんするような、とにかく足元が柔らかくて床がぐにゃりと沈んだ気がする。手からボールペンが滑り落ち、カタンと軽快に硬いものがぶつかる音が響く。
シン、と一瞬だけうって変わって静かになり、セミの合唱も止んだようだった。だが意識せずに呼吸を止めていたせいで苦しくなり、はっと喘ぐように息を吐いた瞬間、決壊したようにセミがあちこちで鳴き始めた。
「持って行けよ」
「持って行け」
「持って行ったか?」
「おい、持って行けよな」
セミの鳴き声にかき消されることなく、男子生徒が続けざまに言う。だんだんと声量が大きくなり、苛立っているのか早口になり、最後は怒声となって叫んだ。
「持って行けって言ってんだろ!!」
「ゆう!」
「─────っ!!」
肩を強く揺すられ、八千賀は飛び上がった。
「………っ、は……ぁれ、え」
荒い呼吸のまま辺りを見渡す。教室内には絵の具や絵筆、パレットが床に置かれていて机と椅子は前方に寄せてある。壁には夏休みが始まってからこつこつと用意した飾りがかけられている。八千賀の知っている、これまで通ってきた予備教室の風景だ。
─────さっき見たものは夢だろうか。
「……あ、遠野?」
いつからいたのか、遠野が机の横に立っている。彼はやや眉を下げ、八千賀の肩に手を伸ばしかけていたが、八千賀が前に出ている腕を見やると彼はぱっと下ろしてなかったことにした。
「……本物?」
「本物じゃなきゃなんなんだ」
「ははは、確かにそうだわ。ごめん」
息が苦しい。喉が乾いて少し痛い。心臓が忙しなく伸び縮みを繰り返して血液を送るせいか、太鼓顔負けの音が耳元まで響く。ドンドンとうるさくて気が散ってしまう。
前髪は汗でべっとりとはりついていて、腕も背中もしとどに濡れた感触がある。不快だ。ぶるりと方が震え、少しばかり驚いた。なぜか寒気がする。汗で冷えたのかもしれない。
誤魔化すわけでもなかったが、カバンからタオルを取り出していかにも何事もなかったかのように会話を続けた。カバンからタオルを探し当てるために手を突っ込んで、しかし中々見つからず時間がかかったので不自然に思われたかもしれない。
「なんでいるんだ?」
「……勉強しに来た」
嘘だ、と直感が判断した。遠野はわざわざ休みの日に学校に勉強をしに来ない。彼の家の周辺にはカフェや図書館があったはずで、それらを利用するはずだ。そもそも彼は学校自体を避けている節がある。それにもし勉強をしにくるなら今日以外だって頻繁に来るだろう。だが遠野が登校してくるのは文化祭の準備のためだ。
もっと言えば、遠野のその、顔ごと伏す姿は気まづさや申し訳なさを感じている時に見る。
だがここで「嘘」と決めつけてはいけない。「そのはずだ」と思い込んで行動した結果が、昨日の遠野の怒りであるのだから。
「そうなんだ。あー、今日は準備、午後からでさ。メッセージ送っ……あ、や、なんでもない。時間間違えて電車乗っちゃったんだよな。はは。間抜けすぎる」
顔がまともに見れないだけでなく、普段どのようなトーンで会話をしていたのかすら忘れてしまった。いかな八千賀でも昨日の今日で平静を装うことは不可能らしい。
「……ゆう。大丈夫か?」
「えぁ?あー、うん。平気平気」
「……寝言を、言っていた」
「えー。恥ずすぎる。なんて言ってた?」
「……持って行った、って何度も繰り返してた」
ド、と落ち着きかけていた心臓が再び跳ねた。
「……お、れが言ってたの?」
「あぁ。しきりに言ってて……。何かあったのかと」
「……」
人間、不測の事態に陥ると楽しくもないのにへらりと笑うものである。気の抜けた笑顔を浮かべ、全身にまとわりつく悪寒を振り払おうとした。落ち着きなく身動ぎをすると、何かが机から落ちた。
「ん?」
ころころと転がったのはボールペンだった。
誰かの忘れ物だろう。かがんでボールペンを拾い上げる。特にこれと言った特徴のない、シンプルなつくりのボールペンだ。ボディは透明で、インクチューブの中のインクの黒が見えている。予備教室の教壇の上にメモ用紙とともに置いておこう。きっと気がつくだろう。しかしふとどこかで見たな、と首を捻ってから思わずボールペンを落とした。再びボールペンが転がったが、八千賀が床に転がるボールペンを見たのは本日三回目だ。
「ゆう?」
「……っ、ぁ、ああ、うん」
記憶が正しければ──────このボールペンは予備教室ではない教室に落ちていた、あのボールペンだ。なぜこんなところにあるのだろうか。
拾いたくない。咄嗟に浮かんだ考えは、放っておくのは不自然だろうからと必死に押しとどめて拾い上げた。
何の変哲もない、ただのボールペンのはずだ。なのになぜこんなにも気味が悪いのか。
汗が止まらないが、これは夏のせいではない。薄ら寒いのも冷房だけの問題では無い。
「ゆう、……本当に大丈夫か?」
大丈夫ではない。怖い。
八千賀がこれまでトオノさんを見ても気丈でいられたのは遠野がいるからだった。恐怖を分かち合うことが出来るし、なにより彼に好いてもらうためだ、と怖気付いても奮い立たせていた。
けれども今の八千賀は遠野に見放されており、関わるなときっぱりと振られてしまった。彼とはもうろくに話ができないはずだ。それでも遠野がここにいるのは、きっと八千賀が一人でいたので心配だったのだろう。
元々遠野は予備教室を警戒していたし、「近づくな」と言い放って初対面の人を驚かすが、心が冷たいわけではない。
「……心配かけた?悪かったな。本当に大丈夫だから!勉強してたってことは空き教室にいたんだろ?早く戻……いっ!?」
「ゆう!」
突然バチンッと指先を挟んだような、弾けた痛みが身体を駆け抜け、反射で声を上げた。痛みが襲ったのはボールペンを持っていない方側だ。
なに、と呆けたのは八千賀で、遠野はすぐに動いた。八千賀の手を強く掴んで引き寄せ、眼前に持ってきた。
「えっ」
左手の人差し指、それも爪先からぼたぼたと血が流れている。指先に切り傷などの損傷は見えないが流血は激しく、ぱちぱちとやたら瞬きをしている間にもとめどなく流れ落ちていく。遠野が慌ててポケットからハンカチを取り出してぐるりと巻いた。
「いっ、いた、いて、なに?」
「すぐ保健室に……」
焦りを滲ませた遠野が一旦区切り、ぱっと顔を上げた。彼が「どこか」を見るのは珍しい。トオノさんに怯える遠野は、基本的に天井ではなくつま先や手先ばかりに集中し、兆候や予感があるとすぐに自分の身体の一部分以外を視界から排除しようとするからだ。自身の後方、つまり廊下側の高窓を見た遠野の姿につられ、八千賀も咄嗟に振り返り、おそらく同じ場所に視線をやった。
「……ぁ」
トオノさんがいた。目を限界まで細め、口角がこれでもかと上がっており、前歯だけでなく歯茎さえ覗いている。
指先の痛みとトオノさんの狂気ともいえる様相に思わず後ずさると、強く肩を掴まれた。
遠野が抱くようにして肩に手を回し、足早に出入口に向かった。前方の黒板横の出入口だ。触れている手がやけに熱いが、それでも人肌というものは安堵を与える。
遠野がともすれば乱暴に引手を掴み、勢いよく引いた。
「………」
だが扉は開かなかった。がつん、と引っかかったように動かない。施錠でもされたというのだろうか。いまだ校舎中のいたるところに人がいる、この明るい時間に。太陽が地平線に沈みかけているわけでもないのに。
「え、ぇ、何で?」
「ゆう、どっちから入ってきた?」
「え、あっ、……後ろかも」
狼狽えている八千賀の腕を引っ張り、遠野が場所を移動する。耐えきれなくてふと覗き見たトオノさんはガラスに額を押し付けて楽しげに笑っている。
これまでに何度もトオノさんを見てきたと言うのに皮膚が粟立つ。思わず肩を抱いている遠野の方に身体を寄せかけて、だがすぐに理性が戻ってきた。続く奇怪な現象と止まない痛みとで頭が沸騰しかけていたが、それでも遠野に振られているという事実だけは忘れないらしい。
「大丈夫だ」
「っ……」
二歩ほど距離を取り、慌てて離れようとしたが遠野が再び引き寄せた。引っ張られたせいでバランスを崩し、身体がとんと密着する。遠野に比べてやや地面に近い八千賀の頭が肩に乗せられた。
まるで正面から抱きしめられているようだ。
ぽんぽんと背中を撫でられて、ふぅと息を吐いた。触れ合う面積が広いせいか、それのも悪寒で気持ちの悪かった背中を好きな人に撫でられているせいか、足先まで強ばっていた力がゆっくりと抜けていく。とくとくと一定の心音が洋服越しに自身の胸に呼応し、浅くて早かった肺がようやく活動を始めた。どうやらほ乳類として必要な呼吸の仕方を忘れていたらしい。
温かい。こんなことになっているというのに遠野が近くにいるだけで、あまつさえ包容のように触れ合っているという現状に気が向いてしまう。
辛い。嬉しい。振ったならそれらしくして欲しい。触れないで。いいな。恋人として抱きしめられたらもっと温かいのだろうか─────いや、今はそれどころではない!
遠野が引手を何度か動かす。しかしこちらの扉も遠野が力を入れる方向に合わせて小刻みに震えるだけで一向に開く気配はない。
「いて!!」
再び痛みが襲った。先程と同じで、一瞬指先が弾かれたのかと思った。それから急激に指先の脈が速くなり、心臓のように膨らんだり萎んだりしている錯覚に襲われる。まさか二度目の怪我を負うなどと想像だにていなかった八千賀は、一本目の痛みがずっと続いているとはいえ、油断していたところで発生した痛覚の衝撃で、わけも分からず咄嗟に手を後ろに引っ込めた。
「ぇあ、えっ、えっ?」
今度は左手の中指だった。同じように爪の先から流血している。
直後、ぐらりと身体が動き、縺れながら前に倒れかけた。転ばなかったのは遠野が支えていたからだ。
いつのまにか予備教室からは抜け出せていた。見慣れた廊下は休みの日らしく静寂そのものだ。吹奏楽部の金管楽器や打楽器が奏でるメドレーと、軽音部がギターをかき鳴らして演奏しているカバー曲とが混ざり合いながらも教室棟に届くが、あくまでも教室棟は静まっている。
廊下は無人だった。生徒はみな自分たちの教室に行き、来る文化祭にむけての準備に精を出しているのだろう。
遠野と八千賀だけが肩で息をして、二人して呆気なく開いた扉に目を向けていた。
「っ、ゆう!」
先に我に返ったのは遠野で、汗ばんだ手で両手を掴むと自身の眼前に引っ張った。八千賀の右手はボールペンを握っており、左手は二本の指に怪我を負っている。
いまだ呼吸は浅く、痛みのせいで思考がまとまらず自分の指先に何が起きたのかを時間をかけて考え、そしてようやく理解した。二本とも爪が剥がされている。
息を飲む。二人で呆然としていると急に足を引っ張られる感覚があった。
「それ、ちゃんと持って行けよ」
八千賀の足は、教室から伸びている青白い手首にしっかりと掴まれてた。手首は床に”落ちて”いて、肘から先が見えない。
その手首は、教室の内側から聞こえた声とともにすぐに消えてしまった。
ぼた、と顔から何かがしたっている。それは鼻から下に向かってゆっくりと真下に落ちているようだ。唇にも生暖かい液体がつたう感覚がある。
暑さでゆだったのか知恵熱の類いか、頭がぐらんぐらん揺れだ。眼球及び視界が一回転して、そこで記憶は途切れた。
