恋の障害が幽霊なんですけど





パシンと音を立てて手を叩き落とされた。
「嫌だったらごめん」と一応断りをいれたものの、返事を待たずに遠野の野暮ったくて長い前髪に触れたからだ。そして問答無用で指でかきあげた。授業が終わり、遠野がまだノートと教科書をしまい終えていないうちの出来事である。
「触るな」
「や、ごめん。でもお前……かっこよくないか?」
切れ長の瞳が丸くなったと思ったら、すぐに細められた。眉間の深い溝からして、半分睨んでいるのだろう。
「え、かっこよくない?お前なん、お前、髪髪!絶対そうだと思ったけど本当にかっこいいな!」
「知ってる」
「……おぉ?」
「俺の顔がいいことぐらい知ってる」
「…………………」
遠野が後ろの席になり、夏休みを挟んで三ヶ月経った。八千賀は休み時間の度に遠野に話しかけ、遠野は話しかけられるといつも本を閉じてくれた。しかし首はかくりと曲がったままで、隠れるように顔ごと下を向いている点は気になった。
最初の方こそ「呪われるぞ」「俺に構うな」と、思春期特有の暗黒面を全面に出していたが、構わずに話しかけていたらだんだんとその類のセリフは口にしなくなった。そしてそろりと前髪越しに瞳だけは八千賀を追っているのも知っていた。
遠野と話をする度に「もしかして素の顔はそこそこいいのでは?」という疑問が沸き上がり、ついに好奇心が抑えられなくなり、そして今その直感が当たったのである。いや、予想以上だ。そこそこではなくものすごく顔が良かった。そんな漫画みたいなことなど有り得るのか。ヘアセットって大事だ。
と、思っていたらこの返しである。堂々と当然のように返され、興奮していた感情がすんと大人しくなった。
「遠野さ、あんまりモテとか興味無い?それともモテすぎて面倒だからわざとそういう風にしてるとか?」
「鏡の前に立ちたくない」
「なんで?怖いから?」
遠野が極度の怖がりで、どこしらで譲れないこだわりがあるのはうっすらわかってきた。なので特別に驚くこともせずに、先回りして聞くと彼はやはり頷いた。
「じゃあ、鏡の前で変顔しててやるよ」
「意味がわからない」
「何が怖いのかわからないけど、とりあえず俺のこと見てれば余計なこと考えないでいいんじゃない?めっちゃ笑わせてやるよ。だからトイレ行こ。ちょっと髪の毛弄らせて」
「……やっぱり意味わからない」
ふ、と遠野が小さく息を吐いた。明らかに唇の端が上がり、声音も柔らかい。
それだけだが、妙に八千賀の気分は軽くなった。
「髪の毛弄っていいか?」
「嫌だ」
「えー残念。かっこいい遠野くんとお出かけしたかったな〜」
「なんだ、お出かけって」
「今日の放課後、どっか行こ」
「行かない。かっこいい遠野くんじゃないからな」
「悪かったって。かっこよくなくても遠野は遠野。遠野と遊びたいな」
遠野の机の上には次の授業の道具が並んでいるが、読書のための本は出されていなかった。
「で、どこに行くんだ」
八千賀が大げさに喜んだのは言うまでもないだろう。




さて、その週の土日を挟んでから日曜日。遠野は新生遠野となって登校してきたのだった。



「……………………」
「……………………」
「………え!?遠野!?髪切った!?」
お互い無言だったが、気まずいのか恥ずかしいのかわざとらしささえ感じさせるほど落ち着きがなさそうにしている遠野と、呆然としてアクションが遅れた八千賀では流れる空気が全く違っていた。
遠野は伸ばしっぱなしの髪の毛にハサミをいれ、ずいぶんと頭が軽くなっていた。前髪は依然として長いものの、目元まで適当に伸ばしているのではなくきちんとセットされている。
髪の毛以外は昨日までの遠野だ。いつもと同じ制服で、いつも通りの姿勢で、背負っている黒いリュックもいつもと変わらない。けれど、あの圧倒的な陰キャはなりを潜め、目の前にいるのは挨拶でさえ控えるほどの輝きを持っている男になっていた。
遠野が教室のドアをくぐった瞬間、すでに登校していたクラスメイトは全員押し黙った。そして八千賀が素っ頓狂な声を上げるまで息を殺していた彼らがバタバタと急に集まってきた。特に女子は瞳を輝かせ、八千賀と遠野を交互に見ている。
「うそ。八千賀、何したの?めっちゃかっこいいじゃん!」
「遠野これいつも隠してたの?もったいな〜!美容院正解だって!」
「おっ前〜!ずるいなぁ。髪切るだけで別人じゃん。てかなんで急に髪切ったん?」
「変か?」
「いやいやいやいや、お前が変だったら俺なに?」
確かに金曜日、容姿について話はした。けれど少しだったし遠野は興味なさそうにしていた。一体なぜ。疑問は一つだけではない。いくつもある。
そもそも彼は頑固で、決めたことは基本的に譲らない。自分の顔がいいことを自覚しているのにあえて身だしなみを整えなかったということは、彼にとって何かしらの規定があったはずだ。
当然ながらクラスにとんでもない顔のいい男が紛れていたことに気がついた女子が放っておくわけがない。彼女達は浮き足立った声音で遠野に話しかけたが、何度も言うが遠野が変わったのは髪型だけである。
「………………」
無言だ。気まずさとか照れとか、そんないじらしい反応は一つもなかった。ほぼ無視である。なんなら少しだけうるさそうに眉を寄せている。
「……あー、ごめんね。話しかけて」
「行こ」
結局女子達は連れ立って離れて自分達の席に戻って行った。
「やっぱ遠野は遠野だわ」
「つまんな〜」
という声が耳に届き、急いで遠野の腕を引っ掴んだ。すでに六限目まで授業を終えたような、死んだ目をしている棒の男を連れて廊下に出た。
「遠野くん遠野くん」
「なんだ」
「もうちょっと会話してやれよ。せっかく褒められたのに」
「別に褒められたくて切ったわけじゃない」
「じゃあなんで切ったんだよ。モテたいからじゃないのか?」
暗に意外だと告げると、下がり気味だった遠野のテンションがさらに下降した。心外だという文字が顔に百個ほど並んでいる。
「違う」
「えぇ?でもさ〜……せっかくの会話チャンスっていうか……。みんなお前に気遣って、仲良くなりたくて話しかけてるのにあの態度はないだろ。優しくしろよ」
「………俺が土曜から鏡をちゃんと見たのは、お前がかっこいい俺と出かけたいって言ったからだ」
「………ん?」
「八千賀が、言うから」
遠野は不機嫌さを隠すこともなくつっけんどんに放った。掴まれていた腕を乱暴に外すと、校舎一階分程度の深さだった眉間のしわが屋上ほどの標高まで深くなった。
「まだお前にかっこいいって言われてない」
「……遠野。ものすごく真面目な話だし、心して聞いて欲しい」
背伸びをするほど背丈の差があるわけではないが、八千賀は雰囲気を出すためにやや踵を上げて顔を耳に寄せた。ふんわりと香る匂いは香水なのかスタイリング剤なのか。どちらにせよ、清涼感があり柔らかな匂いは遠野によく合っている。
「すごくかっこいい」
遠野は満足そうに頷いた。おかげで八千賀のなんかのなにかがなにかしらの衝撃を受けた。
恐らくこの時が明確な「一HIT」だっただろう。
さて、遠野の厭人癖は筋金入りだ。教師ですら最低限の会話しかせず、クラスメイトに至っては例の「俺に近づくと呪われるぞ」の一点張りで会話を持たせようとする気概がない。これでも八千賀と話をするようになってから、ずいぶん軟化はしているのに、だ。
けれどどうだろうか。解放された遠野は教室に入ってきてからすぐに先程話しかけてきた女子生徒達のもとに自分から向かうと「さっきは悪かった」と神妙に謝ったではないか。
これには教室の雑音が全て消えた。出入口の付近にいた八千賀は歩くことも出来ず、ただ成り行きを見守るしか出来なかった。衝撃が強すぎて呆然となり、身動きが出来なかったのである。
女子達は周りと一緒になって一瞬黙ったものの、勇気ある一人が「いいよ。なに。八千賀に怒られたの?」と声をかけた。
「そう」
「それで謝りに来たの?笑える〜」
そこからは早かった。
あの遠野が「近寄るな」と牽制せず、女子の話に答えられる範囲で相槌を打っている。少しだけ居心地悪そうにしているが、それでもあの氷壁は存在していない。
​─────いい事だ!
八千賀は大きく頷いた。
実は少し心配していたのだ。遠野は何故かクラスメイトと距離をおきたいようだし、クラスメイトもその空気を感じ取って必要以上に遠野と関わりを持たない。ある程度は話をするが、それだけだ。もったいない。とても、かなり、非常にもったいない。
遠野は頭もいいし話をしていても面白い。ちょっとばかり素っ気ないところもあるが、それさえ遠野ならば愛嬌のうちの一つだろう。許される可愛さだ。
五分ほど経ったのち、さすがに疲れたのか遠野が脇目もふらず自分の席に戻ってきた。さっさと本を開き、これまでの日常の遠野にすっかり戻っている。
それでも遠野は話をしたのだ。自分から、クラスメイトに声をかけて輪を広げようとしたのだ。

遠野の外見が真逆になってからいやでも校内全体から注目されるようになった。そして友達が増えていった。ぎこちないものの人と会話するようになり、八千賀の友達ともポツポツと話すようになった。やや遠野独特の怖がりと意固地なところに面食らう様子もあったが、遠野は順調にクラスの輪に馴染んでいるように見えた。
僥倖である。
遠野が自分から進んで人と関係を持とうとするのが嬉しくて、八千賀は色んな人に遠野を紹介した。先輩だろうと構わずに遠野を連れていき、彼が個人的に話をするのを大いに満足して頷いた。
冬になるころには遠野は立派な人気者になった。男子からも女子からも彼は声をかけられるようになったし、淀みなく対話をするようになった。たまに会話の流れを切って反応が無くなることがあるが、もはや一種の発作みたいなものだと全員が受け入れた。
順風満帆とはこのことである。この事実は八千賀を満たした。どうやら八千賀は好きな人は世界におすすめをしたいタイプのようだった。
「……ん?」
ここまで考えて、八千賀は一人首を捻った。はて、「好きな人は」とはどういう意味だろうか。親友として、だろうか。確かに休み時間に話すだけのクラスメイトという位置から、彼の外見についてこねくり回しているうちに休日も遊んだりして付き合いが深くなった。
なるほどなるほど。そうかもしれない。遠野はクラスメイトから親友になったのだ。八千賀は納得をした。

「八千賀」
「んお」
二学期の期末考査の最終日、解放感から少しだけ騒がしい教室棟を抜け、遠野から体育館前に設置してある自動販売機に誘われた。そして缶コーヒーを無言で渡された。
きちんと季節にそってホットが自動販売機に用意されているため、外に出ただけで悴んでいた指先がじんわりと温まる。遠野がボタンを押したホットコーヒーの列は「売り切れ」との文字が赤く光るのを、顔には出さずに疑問を持ちながらぼんやり眺めていた。
てっきり遠野も自分のものを買うのかと思ったが、彼は一本だけ買うとスマホをコートの中にしまったのだった。
「ん?なになに。俺、奢られるようなことした?てか自分のは?」
「俺はいらない。これはテストお疲れ様のコーヒー」
「おお、ありがと……」
「英語苦手だっただろ」
軽く笑みを浮かべる。遠野はごく自然に「お疲れ様のコーヒー」を八千賀に渡したが、八千賀としては釈然としない。「お疲れ様」は奢る理由にならないだろう。遠野だって期末考査を受けたのだから。
「……。遠野、手冷たくない?」
「冬だからな」
「よし。遠野のあったかコーヒーでほかほかにしてやる」
八千賀は遠野の右手にコーヒーを握りこませると、その上から自分の手を包み込んだ。八千賀もそれなりに手は大きいが、遠野に比べればやや小さい。冬のせいでさらに真っ白に見える遠野の手をぎゅうぎゅうと握る。
体育館前は部活をしている生徒達が多く通りかかる。やはり八千賀達の前を忙しなく過ぎていく生徒たちは何人も目だけをこちらに寄越していた。いわゆる手繋ぎだからだ。あからさまな反応がないのは、もう八千賀が遠野に絡みまくっていることをほとんどの生徒が知っているからだろう。
「……あったかい?」
遠野は答えなかった。仮に耳と鼻先が赤らんでいるのは冬のせいだとしても、視線が一箇所に落ち着かずに彷徨い、靴のつま先が浮いたりしてコンクリートの石を踏んでいる音がするのは寒いからではないだろう。
遠野の赤面につられて、八千賀の手が汗ばんだ。
遠野は八千賀が離すまで手を振り払わなかった。

どちらかともなくクリスマスに予定を入れ、自然と年始に会う約束をした。人混みは嫌だが初詣は平気という、またもや遠野の謎ルールに首を傾げたが無問題である。
痛みを与える冷風に身体を晒している間、一際強い風が参拝客の間を縫って行った。八千賀はもちろん、遠野の髪の毛も四方八方に乱れていたので当たり前の仕草で手を伸ばした。張り付いた前髪をはらって、ついでに一等暖かい耳を摘む。
「おい」
「はははは」
文句ありげに睨まれたが、それだけだ。調子づいて耳たぶを揉んでも何も言わない。触れている皮膚の温度はじわじわと高くなり、気が済んだところでぱっと離すと遠野は下を向いて無言で砂利を蹴り飛ばしていた。

二人の間に言葉はなかったが、なくても伝わるものがあるだろう。
八千賀はそう思っていたし、友達と言えども同性にあからさまに触れられて黙っているのだから「許可」はされているのかと思っていた。

だからキスをした。

二年に進級した春頃だった。遠野を自宅に招き、二人で課題を進めていた最中だ。
丁寧で小さな字を真新しい物理の問題集に敷き詰めている遠野の、唇が目を引くような赤さが気になったからかもしれない。
頬を引っ張ってキスをした。
遠野の黒い瞳が眼前にあった。鼻先がつんと触れ合っていて、長い睫毛を遠野は揺らした。瞬きをしたのだ。
遠野の前髪は相変わらず長いが、入学した当初の時のような野暮ったさはない。綺麗に眉下で整えられていて、目に入らないようになっている。逆に八千賀は降ろすと目にかかる前髪をかきあげていて、額が見えていた。その八千賀の額はつい先程、遠野の額にこつりと当たった。
「…………」
「…………」
お互い無言だった。
遠野は驚いたり、考え事をする時にひどくあどけなくなる。今もまさに猫みたいに目をまん丸にして、きょとんとしている。ぽかんと空いた口がさらに幼さを助長させていた。
その唇が甘やかだったことを八千賀は知った。味がついている訳ではなく気分ではあるが。
わからないのならともう一度顔を近づけた時、ドンッと肩を押された。
「八千賀」
「うん?」
「……何するんだ」
「え、キス」
「なんで」
「したかったから。嫌じゃなかっただろ」
困惑した口調の遠野に、じわじわと焦りが芽生えたのは八千賀の方だった。彼はともすれば不快そうに、心外だとばかりに眉を寄せていて八千賀から距離をとっている。
あれ、と心中に黒い染みが広がった。
「……駄目だった?」
「駄目だろ」
「……なんで?」
遠野と同じ言葉を繰り返す。床についている遠野の手をそっと触れると、慌てて彼は引っ込めてしまった。
「そういうのは、付き合ってからするものだろ」
「じゃあ付き合ってよ。てか俺たち、半分付き合ってる感じじゃなかった?」
確かめるように、拗ねた面持ちで尋ねてから後悔した。遠野の眉は下がっていて、八千賀の人間観察と表情解釈が間違っていなければ、彼は明らかに困っていたからだ。誰しもあの表情を見ればすぐに察せられる。「そんなつもりじゃなかった」と口に出したわけではないのに、はっきりと遠野はそう告げていた。
「えっと……。あれ、勘違いしてた?」
「………」
「ごめん、俺そういうつもりだったんだけど」
「………俺はそうじゃなかった」
くらりと目眩がする、という小説やドラマに有ありがちか感覚を初めて味わった。やたら口の中に唾がたまるが、上手く飲み込める気がしない。
心臓が早鐘を打つ。青くなっている遠野の輪郭がぼやけ、次第に水飴みたいにどろりと溶けた。
「八千賀」
指先が触れて、初めて頬が濡れていることに気がついた。自覚したら途端に喉が熱くなって、ひ、と引きつった声が漏れた。息は細く、どうやって今まで酸素を吸っていたのかほんの数秒わからなくなってしまった。
「悪い。その、……。俺は……」
「や、あー……。待って、恥ずいから。ごめん、勘違い、した。ごめん」
「八千賀」
「ご、ごめん。今日帰った方がいいかも。悪い。今日の忘れて」
「……」
「わ、忘れて。それで、あ……明日もまた一緒にいて」
嗚咽とともに吐き出した。
あまりにも身勝手な要求だ。けれど止められなかった。
本当なら、どんなに回らない頭だろうと謝らなければならない。確かにそうだ。付き合うという確認をせずに勝手にキスをするなど本来なら忌避すべきではないだろうか。異性間ならまだしも遠野は同性だ。早合点して舞い上がった八千賀が悪い。
きちんと謝って、それからもう近づかない方がいい。誰だって友達だと思っていた相手からそういう目で見られたら嫌だろう。平身低頭して謝れ。
​─────だのに、八千賀はまず最初に「離れたくない」と願った。口に出たのは自分のことだ。
「む、無理。離れたくない。ごめん」
自覚をしたら駄目だった。堰を切ったように濁流となって涙がしたたり落ちる。引き攣った声音が口から零れなかったのはまだ羞恥心と自制心が心臓にしがみついていたからだろう。
「……八千賀」
ぽん、と背中を撫でられる。優しい手つきだった。憎らしくて、殴ってしまいほうなほど丁寧だ。いっそ遠野が怒鳴って飛び出してくれたらよかったのに。理性を押しのけた憤懣やるかたない理不尽さが胸中を暴れ回るが、幸か不幸か出てくるのは水滴だけだ。小さなその粒は八千賀の心情そのままの泥水であるような気がした。
ぽん、ぽん、と遠野がずっと背を叩く。
結局彼は八千賀の涙が枯れるまで傍にいた。



「……ごめん」
「何度も聞いた」
指摘通り、八千賀は数えるのやめるほどの謝罪をし、今もまた凝りもせずにそれだけ言った。謝罪以外の言葉はぽんっと音を立てて忘れてしまったらしい。
「……八千賀。言っておきたいことがある」
「なに。明日から話すのやめるとか?ちょっとしんどすぎるから、挨拶ぐらいはさせて欲しいかも」
「違う」
首を横に振った遠野は数秒息をとめると、
深く深く肺の中の空気以外もまとめて吐き出したようだった。呼吸の音がやたらに部屋に響き、無意識に生唾を飲み込つ。断罪でも待つ気分だ。どれぐらい経ったのかはわからないが、一つに何秒か時間をかけながらしっかり息を出し切った遠野が緊張した面持ちで向き直った。
「たとえ付き合っても、八千賀はすぐに俺が嫌いになる」
「ネガティブ拗らせすぎじゃない?理由は?」
「……俺は呪われてるから」
「………………」
「もう嫌になっただろう」
「全然全然全然!てかそれ一年の頃から聞いてたし!そういえばそういう設定だったなって思っただけ!」
「嘘をつくな。意味わからないキモい消えろって思っただろ」
「急に早口になってない!?なんで今そんなネガってんの!?」
振られたのはこちらだというのに、何故か遠野の方が失恋したとでも言いたげに項垂れている。
「……兄さんの話はしてないよな」
「聞いてないかも。あんまり家族の話聞いてない……」
「兄さんが行方不明になって、まだ見つかってない。発狂したって噂がたって地元に居にくくて、俺の受験を機にこっちに来た」
「………」
「行方不明になった理由は、多分うちの親戚一同呪われてるから。俺たちは「トオノさん」に末代まで祟られてる。俺はまだ見えてなかったけど、あの人は見えてたから耐えられなくなったんだろ」
遠野が矢継ぎ早に言葉を吐き出した。まさに吐き出した、という表現に違いない。忌々しさが半分、やるせなさが半分、そしてその半分ずつのものを諦めという風呂敷で包んでぽいと八千賀に向かって投げ捨てた。
当然八千賀は言葉を失った。想定していた呪いは「俺の封じられた右目が……」とかそういう類のもので、ましてや家族の失踪などと言った事件が絡んでくるとは思わなかったのだ。
「……っと……。トオノさん?……呪いって、えーと……怨霊にとかそういう感じ?」
「そう」
「なんだろ……。呪いって、不幸が訪れるとかそういうの?」
「そういう人もいた。でもそういうのよりもっと直接的かもしれない」
「直接的?」
「見てるから。ずっとこっちのこと」
「………」
ここまで語らせて、ようやく八千賀も察することが出来た。液晶が怖い理由。鏡が怖い理由。八千賀もそのまま「怖い」と受け取っていたけど、真実彼は怖がっていたのだ。
「ずっとって今も?」
「今はいない」
「あ、そうなん……」
「お邪魔する時、玄関前にあった姿見には”いた”」
遠野が再び大きく胸を上下させた。いつの間にか正座をして両手は握りこぶしになって太ももの上に置かれている。
「……トオノさんは」
トオノさんは明治だが大正だかに実際にいた女性らしい。
自分たちの血縁が短命だったり大小様々な不幸の多いことに疑問を感じた遠野の先祖の人達が懸命に調べたようだ。亡くなった直接の原因は様々だか、一つだけ共通していることがあった。「女性がこちらを見ている」ということである。
始まりは実勒という骨董品店の男だった。彼はとある旧家から「蔵の整理をして欲しい」と依頼された。つい先日奥方を亡くしたようで、家の主人はそれからしばらくしてすぐに別の女性を妻に迎え入れたようだ。
記録はそれだけだった。どうして実勒がトオノさんに呪われたのか詳しいことは定かではない。
「最初から変な奴だったら、トオノさん絡みで何かあっても変な奴のままだし、まだマシだろ」
フローリングに視線を落としたまま、遠野の握りこぶしが開かれた。緩く握って、やんわり開いて、また緩く握って、と繰り返される。
「嫌になっただろう」
「……全然!」
思わず八千賀は遠野の両手を掴んだ。ほのかな温かさがある遠野の手先は冷たくなっていて、それがなんだか悲しくてぎゅっと握りこんだ。
「俺、別に気にしないけど。幽霊とか呪いとか。霊感とかないしそういうの全然わからない。そんなことで遠野を嫌いになったりしない」
ぴくりと遠野の指が曲げられ、遠野が正座のまま少しだけ後退した。逃がさないように指の間に自身の指を滑り込ませて絡ませる。
「……遠野が好きだよ。あのさ、もしかしてそのトオノさん?のことで振った?」
否定も肯定もない。言いにくそうに唇を結んでいる遠野はしかし、生理的嫌悪があるとは到底思えない。むしろ八千賀の変わらない態度に困惑している。
「自分で言っただろ。遠野って最初から変な奴だったんだから、今そんなことを言われてもマイナスにはならないんだけど」
遠野、と名前を呼ぶ。縋るみたいだ。けれど間違ってはいない。実際八千賀は遠野と離れたくなくて、愚直になるしかない。
「俺が遠野のこと怖がったり、嫌になったりとかしなかったら俺の事好きになってくれる?」
「それは……」
「信じて遠野。遠野が好きだよ。……俺、これからはちゃんと言葉にする。好きって毎日言う。それで遠野も好きになったらちゃんと付き合って」
「困る」
「お願い遠野」
繋いでる右手の甲にキスをする。驚いている遠野のことを見ないふりをして、次は遠野の唇の端にキスをした。
「………、好きにしろ。けど、付き合うことは絶対にない」
「わからないよ。もしかしたらすごく俺のこと好きになるかも。……だって遠野、今すでに俺が好きでしょ」
好きになって、の間違いだろうと頭の中だけでは自嘲する。しかし出てくる言葉は変わらず遠野はため息をつくだけで、八千賀を突き放さなかった。



◾︎




少しだけ肌寒かった。屋敷の中全体がひんやりと冷たい空気が漂っていて、ぶるりと震えた肩を摩った。右手にある縁側から隙間風でも吹いているのだろうか。
夜間だというのに明かりが一つも灯っていない室内をぼんやりと眺めていた八千賀は、唐突に「あ、これ夢だ」と理解した。
洋風の屋敷にいる。しかしアメリカやイギリスのような、ヴィンテージあふれる洋館ではなく、あくまで日本独特のアイデンティティが詰め込まれた「洋風」の屋敷である。年季が入っている煤けた赤茶の板の間は、八千賀が足踏みをする度に軋む音が響く。
柱の見える真壁は白く、暗がりの中では妙に浮かび上がって見える。壁には飾りなど何も無いが天井はそれなりに高く、やはり煤けている木材が貼り付けられていた。
夢の中の八千賀は制服を身につけていて、そして自由に手足が動いた。意識もしっかりと夢だと自覚もあるし、いやに明瞭である。きっと怪我をしたら痛覚が鋭く刺すだろう。
ドラマか何かのセットみたいだなとのんびり考えていた八千賀はけれど、だんだんと焦燥感が湧き上がってきた。どうしてかはわからないが、一刻も早くここから去らねばならない。
自身の感情に従った八千賀は足早に縁側を進んでいく。行き止まりを左に曲がると、すぐに荒組障子が見えた。障子の中もどうやら明かりはついていないらしく、やはり白い和紙が浮かんでいるようだった。この部屋は無視をしようとし、一枚分の障子を通り過ぎたところで「あら」と女性の声が中から聞こえた。
足を止め、それから息も止まった。
「まぁ、あなた。帰ってらしたの?」
身体は廊下に対して水平に向けられているので、見える範囲は限られている。首は曲がらなかった。いや、曲げたくなかった。中の様子は伺えないが、漠然と「中は無人のはず」という考えがべったりと頭にこびりついている。
「返事をしてくださらないの」
耳元で、そんな声がした。鳥肌が全身を駆け抜け、八千賀は声が聞こえた方の耳を咄嗟に抑えた。反射で振り返るが後ろにも横にも人はいない。当然だ。何度も言うが、”いるはずがないのだから。”
呼吸は浅くなり、けれどもう根が生えたように足は動かない。”早くここから逃げなければならない”と気が急っているというのに、だ。
今度はドタドタドタという駆け回る音が屋敷中に響いた。音の出処は全くわからない。二階か、縁側か、それとも現在いる周辺か。板の間は古いから、当然ミシミシと軋む音もする。四方八方から聞こえてくる不可解なそれらに、八千賀は耐えられずに走り出した。鳴り響く足音は八千賀のものか、そうではないのかもう区別はつかなかった。
外に出なければならない。一番は縁側から飛び出すことだ。けれど縁側からは外に出られない。”そこから出ると通りかかる”からだ。廊下を道なりに真っ直ぐ進み、開け放たれている居間を突っ切っていく。赤いカウチはふっくらしていて、高めの天井には丸みを帯びたシャンデリアが下がっている。八千賀が走り抜けると、シャンデリアが頭上でぐらんぐらんと揺れた。タッセルにまとめられてこそいないが、カーテンも開けられていて、風もないのにこれも揺れていた。居間から土間へとたどり着いた八千賀は、裸足のまま土間の勝手口から外に躍り出た。
そして驚愕した。
目の前には蔵があった。
白塗りで瓦屋根で、木造の扉の大きな蔵である。
”ここにあるべきではない”蔵だ。本来ならこの蔵は縁側の方にあり、この勝手口から向かうには門とは逆方向に進まなければならない。なのになぜここにあるのだろうか。
こんなことを考えて、八千賀はいよいよ耐えきれなくなってきた。この屋敷の間取りなんて知るはずはない。ここに蔵があろうがなかろうが、八千賀には関係のないことであり、疑問に思うことも不審がることもない。無視をして通り過ぎるべきだ。
すると突然内側から扉をけたたましく叩く音が聞こえた。
垂直に飛び跳ねるかと思った。心臓が口から出なかったことに感謝しつつ、ゆっくりと後ずさった。
音はだんだんと大きくなる。ダンダン、と扉を殴りつけるものに始まり引っ掻くカリカリという細い音も聞こえる。その二種類の音に混じって、耳から直接心音さえも聞こえる。もはや何が八千賀の胸を震えさせるのか、鼓膜を揺らしているのかすら判断がつかない。
踵を返したいがそもそも後ろは勝手口で、中に入ればまた異様な足音や女の声がするだろう。後戻りは嫌どころかほの少しでさえ首を動かして振り向くことすら嫌だった。
嫌な夢だ、とぎゅっと目を瞑ってからふと遠野のことを思い出した。遠野というよりも、今日遠野が語った呪いの話である。
遠野は呪い「トオノさん」を説明してくれはしたが、詳細はわからない。そもそも遠野自体が概要しか把握していなかった。けれども妙に「遠野の呪いはこれでは」という確信があった。それは八千賀の胸に鋭い爪となってくい込み、やたらと引っ掻いてくる。
「……俺、遠野のことが好きだから」
口をついて出たのは、そんな言葉だった。
もしこの夢が「トオノさん」だとしたら、怖がってはいけない。なにせ遠野に言ったのだ。「怖がらない」と。
ならここで逃げ出すのは愚の骨頂。どんなに恐ろしくとも耐えなければならない。
ある意味で冷静になった八千賀は、蔵の扉にかんぬきがかかっていることに気がついた。ためしに触れてみると、腐ってもいないし簡単に抜けそうだ。

八千賀はかんぬきを両手でぐっと掴んだ。







◾︎






驚いたのは、寝起きなのに身体が重くて起き上がれなかったことだ。「まだ眠い」の気持ちが勝って目をしょもしょもと瞑ることはあるが、こんなにも身体が動かないのは初めてだ。疲れが取れていないにしても異様な怠さである。それでもなんとか両手を使って上体を起こし、何とか足を使って立ち上がる。こめかみがズキズキと痛み、視界が鮮明ではない。
風邪でも引いたのだろうか。しかし喉の痛みや発熱の気配がない。なら単純に、昨日遠野と一悶着あったのでそれで精神的に疲れたのだろう。休むと遠野に会えないので、たとえ高熱だろうと八千賀は無理やりにでも登校するつもりである。今日遠野と笑顔で会わなければ、きっと二度と彼は話しかけてくれないだろうと直感が告げている。
私室からふらふら出ていき、立ち止まりそうになる身体を叱咤しながら身支度を整えている時だった。
「さっきね、お父さんが出ていったんだけど、玄関で叫んだの。結構大きかったんだけど聞こえなかった?どうしたのって聞いたら、鏡の中に女の人が写ってたんだって!怖いこと言わないで欲しいよねぇ」

八千賀は口に運びかけた食パンを机に落とし、ダイニングテーブルにベリージャムを飾りつけることとなった。





恐らく、八千賀が間違えたのはここからだろう。
校門前で八千賀を待っていた遠野に手を振り、「おはよ」といつも通りに声をかけた。遠野は映画のノベライズ小説をリュックにしまうと、疲れてるのかと聞いてきた。よく見ている。昨日八千賀に振り回されらあまつさえ無理やり唇を奪われたというのに遠野の態度は至って平常である。勇んで登校したものの、素っ気なくされるだけでなくあからさまに嫌われた態度をとられるかもしれないと不安だったが、八千賀の体調にいち早く気がついてくれたことが嬉しくてすぐに舞い上がった。
「や、変な夢みてさ。それで疲れたんだと思う」
「へえ」
「遠野が付き合ってくれたらすぐ元気になるんだけど」
突然躓いた遠野が、さも「石か何かに引っかかりました」と意味ありげに地面を見たが、足を引っ掛けるものなど何もない。ただ八千賀の言葉に動揺しただけである。
「好きって言うって言ったじゃん」
「人に聞かれるだろ。何考えてるんだ」
「聞かれてもいいだろ。こういうのは逆にオープンにした方が怪しまれないっていうか、スルーされるもんだし」
「お前もまとめて避けられて終わりだぞ」
「そうかな」
遠野の片手を掬って、一瞬だけ指を絡める。
遠野の顔色は見ていて愉快だった。振り払うこともせず、ただ朱色に頬を染めて立ちすくんでいた。八千賀の言葉よりも遠野の態度の方がよっぽど周りに宣言していることを、本人は気がついていないのだろう。
やっぱり遠野はちゃんと意識しているし、なんなら八千賀のことを好いている。嫌っているのなら赤くなる必要も無いはずだ。
だとすれば、やはり遠野が八千賀を振ったのは「トオノさん」のせいに決まっている。
胸がすいた八千賀は、ふふんと鼻を鳴らして追撃した。
言い訳をするなら、「ほら、大丈夫だって言っただろ?」と伝えたかっただけである。何があっても遠野のことが好きなんだと、そう言いたかった。しかし遠野にとってそれは地雷源でしかなく、何一つ安心できる要素ではなかったらしい。

「夢の中でさ、変なお屋敷みたいな所にいたんだよな。女の人の声が聞こえたりしてすげぇ怖かった。えーと、洋風の家で蔵とかあって……。よく考えると追いかけられたとか、そういうのも特になかったんだけど、でもとりあえず怖くてさ。たまにあるよな、そういう夢。それで思ったんだけど、これってトオノさんと関係あったりする?。まぁ話を聞いたから夢を見ただけかもしれないけど。んで、もっと怖かったことがあって。朝起きたは父さんが鏡の中で女の人を見たんだって。昨日遠野が言ってたやつみたいだよな」

遠野の強ばり方は普通ではなかった。これでもかと目を見開き、赤かったはずのおもては色を失い、唇は真冬のように青い。

「遠野?」
「その女……八千賀は見たのか?夢に出た家ってどんなだった?」
「父さんが見たやつ?それは見てないけど。夢の家は……どんなって言われても。ほら、ドラマとかなんかそういうのに出てきそうなでっかいお屋敷だった。古めの旅館みたいな。あ、でも新しいとかじゃなくて、リノベーションしたタイプあるじゃん。あの感じかな。明治とか大正らへんの、ああいう感じの建物」
あくまで軽くて明るい口調の八千賀と違い、遠野は声を潜め、八千賀の言葉に返事をせずに黙りこくってしまった。
「遠野?」
返事はない。無視、と言えるだろう。早足の遠野を追いかけて、隣であれこれと話しかけるが一切言葉は帰って来なかった。
二年生になってから席は離れているため、カバンを机に置くとすぐに遠野の席に向かった。顔色は悪いままで、さすがの八千賀もどう声をかければいいか分からず閉口した。一体何が彼の逆鱗に触れたのか、もしくは沸点だったのか見当がつかない。
「遠………」
「うわ!」
前方の窓際から男子生徒の声が数人分上がり、八千賀も遠野も二人ともそちらに向いた。登校している、クラス内のほとんどが短く悲鳴を上げた生徒達を横目で見ている。
彼らは「見た?」「見た」「え、気のせいだろ?」と口々に言い合っていて、自分達が注目されていることに気がついてはいるが、それどころではないようだった。
うっすらとした予感があり、聞いてみたいと思った。しかし同じぐらい、聞いたら後戻りが出来ないと警鐘が脳に鳴り響いている。しっかりしろ。どうせろくな事ではない。風で登校中の女子生徒のスカートがめくれたとか、そういう嫌に思春期っぽいものを「見た」のだろう。
「……なにー?何見たん?」
八千賀がその場で声をかけると、件の生徒達がへらりと笑った。だが表情は強ばっていて口角の片方しか上がっていない。心拍数でも上がっているのか少し息が浅かった。
「窓の外に女?がいて……」
ガン、と遠野が椅子を倒して立ち上がった。ちらちらと視線を送るだけだった教室内の生徒が、今度こそ視線だけではなく首ごと回して見ていた。この騒ぎに畳み掛けるように派手な音を出して椅子を転がしたのだから当然だ。遠野は立ったまま動かない。だからひっくり返った椅子は直されず、そのままである。
貧血でも起こしてるんじゃないか、というほど青白い額をした遠野が心配で、名前を呼ぼうとした。呼ぼうとしたのだけれど、結果として言葉はでなかった。
反射で身体を仰け反らせ、数歩後退する。ろくに周りを確認しないで後ずさったためにまだ誰も座っていない机に太ももが当たる。机と椅子の脚が床を削り、規則正しく垂直と水平に並んでいたそれらが一つだけ斜めになった。ただでさえ水を打ったような室内に、机の脚が引きずられる音がやたらに響いた。
遠野の後方はミニ黒板が掛かっており、ミニ黒板の左側には清掃用具が入っているロッカーが設置してある。ロッカーのすぐ横は教室の出入口で、少しだけ隙間があった。隙間は人が入れるほどで広くはなく、かろうじて腕が一本入るぐらいだろう。

その隙間から、確かに人間の目がこちらを凝視していたのだ。




「朝、なんかあったの?」
昼休みに丘が何気なく口にした。遠野は一日青白い顔でいたので、教壇に立った教師全員から心配をされていた。無論八千賀も心配をしたが、普段なら「大丈夫」と一言でも言うのに、遠野は八千賀をまるっきり無視をし始めたのだった。
さすがにただ事ではないことを、クラスの誰もが気がついた。何人かが気を使って遠野に何があったのか聞いても、遠野は首を振るだけで答えない。その態度もどこか不自然だったからさらに心配が重なる。
昼休みに出ていこうとした遠野を八千賀は懸命に引き止めた。椎名も加わり、保健室に行かないんならここで食えば、と提案をしてなんとか四人で食事をしている。だが遠野は黙ったままで、八千賀も声をかけていいのか考えあぐねている具合だ。
「あー、それ俺も気になった。なんか幽霊出たんだって?」
椎名が答え、丘は「えー?」と笑った。信じられないから明るく跳ね除けたのだろう。けれど八千賀は笑えなかった。遠野が箸を置いて、食べかけの弁当箱に蓋をしたからだ。
「幽霊って、どういうの?」
「知らんけど、女の人が空に浮いてたとかなんとか。結構騒ぎになったっぽいけど。その後八千賀と遠野も見たんだって?そっちも話になってたよな」
「え?あ、あー、いや。俺は見てないって。遠野も。なぁ?」
「……でもロッカーに向かってなんか言ったっぽいじゃん」
「言ってないって。……あ、遠野!」
弁当箱とお茶のペットボトルを抱えると、無言で教室から出ていこうとする遠野を慌てて引っ張った。
「何?」
「どこ行くんだよ。食う場所かえんの?俺も……」
「いい。来るな」
「……えぇ。酷いこというなよ〜。寂しいじゃん。ほら、今日は朝あんな騒ぎあったし……」
「迷惑だ」
「え?」
「付きまとわれるのは迷惑だ」
「……なんで怒ってんの?昨日のこと?でも今日の朝は怒ってなかったじゃん」
「八千賀って、あまり引き際がわかってないよな。もういい、話しかけるな。うざいから」







異変があったのは次の日からだった。
遠野が新生遠野となってから、彼は八千賀以外と交流があった。それは男子でも女子でもだ。二年になってもそれは続いていて、ある程度登下校は一緒だったが、遠野は遠野のコミュニティが存在していた。いわゆる人気者だったのだ。

それが、学校に行くと誰も遠野に話しかけなかった。あんなにも誰かしらと話して、一人になることは稀であったのに、遠野は小説だけに視線を固定して、休憩時間は透明人間みたいにじっとしていた。
メッセージで何を怒っているのか聞いても返事は帰ってこず、学校で話しかけても八千賀のことは存在しないように扱う。
そして八千賀にやってることをそのまま周りが遠野にやっている。
それが三日続いて、一週間続いて、なんとか話しかけてもずっと無視をされるのを一ヶ月続けた時、たまらず別のクラスの友人にに零した。
ちなみにその間八千賀は至るところで視線を感じていたし、大小様々な異変が起きていた。直近で背筋が凍ったのは、配達の人が怯えた様子で「和服姿の女の人がドアアイから中を覗いていたんですけど、警察とか……」とインターホン越しに告げたことだ。八千賀家のインターホンはカメラ付きなのだが、そう告げた配達員の後ろには目を三角に細めて笑っている女の顔が”いた”。
「俺が無視されるのはまぁいいとして、なんで遠野はぼっちになっちゃってんの?」
「なんでって、当たり前じゃん。だって遠野って八千賀のおかげでちやほやされてたのに急に無視するとかウザくね」
「……えっとー。え、なになに?どういうこと?ウザイって、そんなことないだろ」
「元々遠野って変なやつだし。ほとんどの奴がアイツと話あわんだろ。八千賀がいるし顔がいいから絡んでただけだよ。それなのに勘違いして八千賀にキレるとか違うでしょ。八千賀ももう遠野とかよくね?周りみんな言ってるよ。そもそもアイツの家、なんかヤバいって噂だし」
「……噂って?」
「よく知らんけど。なんか宗教がどうとか?あれ、メンタルヤバいとかだっけ?」
「……でも一ヶ月前まで普通に遠野に話しかけてたじゃん。遊びにさそったりとかさ」
「まぁそうだけど。でも皆、八千賀が一生懸命輪の中にいれようとしてたからやってて、本人もその気があったから誘ってた感じだよ。それに遠野に話しかけてた女子、多分ほとんどが八千賀狙いだし」
何も言えなかった。なんだか急に八千賀の存在している世界が、遠野と八千賀だけを残して別の世界に入れ替わってしまったみたいだった。