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入学当初の遠野奏依に関して、第一印象などなかった。多分教室のどこかにいたのだとは思うが、なんにせよ記憶にない。はっきりと彼の姿かたちを認識したのは一年生の梅雨明け頃の、またもや席替え以降である。だから第一印象を述べるのなら、その席替えの時の感想になるだろう。
遠野は八千賀の真後ろの席になった。ちなみに廊下側の前から四列目なのでわりと許容範囲内の位置である。
周りによくつるむ人がいなかったため、席替えをした最初の休み時間になんとなく遠野に話しかけてみた。
ずいぶんと綺麗な姿勢で読書をするんだな、と思った。けれどそれだけであり、容姿だけを見るならば、申し訳ないが彼は圧倒的陰キャ、だった。
髪の毛はセットなどされずにそのままで、前髪が不自然に長い。シャツにシワと汚れはないが、それは到底加点にはならなかった。なにせまず空気が暗い。そして八千賀は彼が休み時間や放課後に誰かと話をしているのを見たことがなかった。そういえば授業で当てられた時しか声を聞いていない気がする。多分ぼそぼそした喋り方で、早口なんじゃないだろうか。
「何読んでんの?」
とりあえず無難な話題を投げかけると、遠野は長い前髪越しにぱちりと瞬いた。
そして無言で本をひっくり返し、表紙が見えるように八千賀の方に向きを変えた。
てっきり文豪とかそのあたりの意識が高そうな小説とか、もしくはいかにもな女の子の絵がでかでかと表紙に描いてあるような類の小説かと思ったが、予想とは全く違うものだった。
『コンセプトとアイデア。考える力を育てる方法』
可愛いポップな絵とタイトルではあるが、どう見てもビジネス書である。少々面食らった八千賀は、「それおもしろい?」と対しておもしろみのない質問をしてしまった。
「別に。そこそこ」
「……」
いい声してるじゃん。次に瞼を上下させたのは八千賀の方だった。
「そういうのが好きなん?」
「別に。いつも本屋で平積みされてるのを適当に選んで読んでる」
もっと喉に張り付いた、ねっとりとしていて舌にまとわりついている声を想像していた。けれど目の前の人物から届く音は、適度に低くて一音一音がはっきりしていて聞き取りやすい。もったいないな、と素直に思った。もっと話せばいいのに。これで歌が上手だったらギャップが受けるのではないだろうか。
「ふーん。あ、なぁ。遠野はゲームとかやる?じゃなくて動画見る方とか?俺、女子からおすすめされたVTuber見たんだけど、結構おもしろくってさ。なんかゲームの話するやつ。遠野もそういうの好き?」
話題作りの一つではあったが、見た目で「ゲームが好きそう」は早合点だったかもしれない。小説がビジネス書なんだし、彼は雰囲気がオタクっぽいだけでもしかしたら趣味はゲームやアイドルではないかもしれない。どうかな、と思っていると遠野が本を閉じた。あ、会話してくれるんだ、と少しだけ嬉しくなる。
「液晶は見ない」
「……ん?」
”そういうのは”見ない、ではなく”液晶は”見ない? ずいぶん独特な言い回しである。というか、若干意味がわからない。
「ふーん……?そうなんだ〜……。液晶って……えーと、スマホとかタブレットとか?スマホあんまりいじんない系?」
「そう」
「えっ。現代社会でそういうことある?SNSとかやってないってこと?」
「やってない」
「え!?じゃあ学校始まる前に友達作れないじゃん!」
「始まってから作ればいいだろ」
「いやいや、知り合いがいた方が始まってから楽じゃん!ぼっちの入学式とか嫌すぎる。じゃあ普段なにやってんの?」
「読書とか勉強とか」
「遠野真面目〜。じゃあなに。スマホ見ないのも勉強に邪魔だからとかそういう感じ?」
「そうじゃない」
「じゃあなんで?」
「怖いから」
「……??うん……??」
またもや理解の及ばない返しをされた。スマホの何が怖いのだろうか。止まらないSNSの更新だったり中毒性か。ならばやっぱり「勉強の邪魔」が最適な答えではないだろうか。
「もういいか」
「え?」
「これ以降話しかけるな」
「……お〜。読書の邪魔しちゃったな。悪かった。じゃあ次は本読んでない時に話しかけるわ」
「やめろ」
「……あー、迷惑?」
「そうだ」
それから遠野は、明瞭で引っかかりなどひとつも無い滑らかな声で宣言した。
「俺に近寄るとお前も呪われる」
◾︎
スリープ状態のスマホを制服のポケットから取り出し、そしてすぐにスマホを落としそうになった。
スリープ画面の、真っ黒な画面は鏡のように周りの景色を映し出すものだ。だから、八千賀の後ろから覗き込むようにしている笑顔の女がちょうど顔の横にはっきりと映っていたのをしっかり見てしまった。画面越しに目が合ったのを感じ取り、息が止まる。
慌ててスマホをポケットにしまい、深呼吸を三度ほどする。ここで驚いて周りを見渡してはいけない。電車の中であるため変な人だと思われたくないし、なにより大抵の場合映りこむと本当に”いる”からだ。息遣いなどは聞こえないものの、それでも気配というのはわかるものである。
手持ち無沙汰になってしまった。ため息でもつきたいところを我慢して、カバンから英単語帳を取り出した。あと二駅ほど我慢すれば友達が乗ってくるので、それまで気を紛らわせられればいい。
紙書籍とは素晴らしいものである。文字や絵を追っていると他のものが視界に入ってこないし、なによりも周りの景色が反射で”映らない”。
八千賀はここ最近、とんとスマホを触らなくなった。理由は”怖いから”の一択だ。
さて、八千賀は現在電車に乗っており、さらにシートに座っている。窓が背中側にある対面式のあの長いシートだ。そして八千賀の真正面には、大学生ぐらいの女性が座っていた。彼女の両隣は同じく女性で、社会人らしい年齢とおばあさんだった。真ん中にいる女子大生の彼女は透明のスマホカバーに男性のステッカーを挟んでいて、人に取り繕う必要もないせいか真顔でスマホをタップしていた。彼女はしばらくそうやって自分の手元に集中していたが、顔を上げたようだった。ようだった、と分かったのは彼女がスマホを落としたからだ。
大きな音に八千賀も咄嗟に前を向いてしまった。見渡すと、同じ車両の何人か、もちろん彼女の両隣と八千賀の隣の男性も女性と落ちたスマホを目で追っている。だが視線の的になっている女性は床を滑った自身のスマホではなく、八千賀の方を向いてかちんこちんに固まっていた。氷漬けされた人間もきっとあんなふうに固まるのではないだろうか。それほど見事に女性は動きを止めていた。
だからそう、こういう反応なのだから彼女がスマホを落としたのは”八千賀を見た”からだろうし、八千賀を見たということは、顔を上げたのだろう。
ふう、と今度こそ息を吐いた。スマホをすぐにしまってよかった。
きっと手元の英単語帳がなにかしらの液晶画面だったら、八千賀の後ろ──────窓の外にへばりついている笑顔の”何か”をもう一度映していたに違いない。
■
結論から言うと出し物はお化け屋敷に決まった。てっきりジャンケンに勝ってしまったのかと思い、やっぱり自分が出るべきだったかと心中で独りごちたが、なんと今回お化け屋敷を希望したのは自分たち四組だけだったらしい。
そして前提として、お化け屋敷は定番も定番のため人気の高い出し物である。
ちなみに去年、八千賀のクラスは校門前に設置する大きな看板を制作した。「常陵祭へようこそ」という類の文句を、木の板を切って組んでアーチ型にした渾身の作である。
出し物決めの時、それなりに分散はしたものの看板作りに票を入れた人は多かった。八千賀もその一人である。飾るものを作っておけば、文化祭の二日間は自由であり、あとは遊ぶだけ、というわけだ。つまり八千賀達のクラスはかのお祭りの日に向けて一致団結をし当日に絆を深めるのではなく、それまでにやることをさくっと済ませて遊ぶことだけを考えていた。
ある意味では「やる気がないので事前にやる気を出しておく」という点で素晴らしい団結力を発揮したともいえよう。なにせその制作物は夏休み前に終わったのだから。皆全力でやり切ったのだ。
だから去年の夏は学校に行くことはなかったし、遠野も放課後に率先して残って看板製作に勤しんでいた。あの頃の遠野はまだ柔らか遠野だったのでクラスに馴染んでいたのだ。
案外人といる事が好きなので、「迷惑をかけない」という範囲でこつこつ何かをするのは彼にとってもよかったのだろう。中心とまでは行かないが、それなりに自分から周りに話しかけ、アイデアを出したり笑顔を浮かべたりしていた。断言するが、多分あの看板製作中に遠野を好きになった人は複数人いる。だって可愛かったし。遠野が笑ったら好きになるに決まっている。間違いない。
こじんまりと座って、ちまちまと細い絵の具で指定された場所を塗り、褒められたりしたら大きな目が細くなって、ちょっと恥ずかしそうに俯いて笑うのである。惚れないわけがない。今思えば百回は惚れ直した。
閑話休題。では他のクラスはどうだったのかと言うと、八クラス中四クラスがお化け屋敷を希望していた。八クラス中四クラス。八分の四。四分の二。二分の一。半分、である。他クラスの熱意に圧倒された。
と、いうわけで今年もどこかしらと被るだろうなと思っていたのだがそうは問屋が卸さなかったらしい。逆にどんな奇跡が起きてしまったのか。まさかのお化け屋敷の希望なしだ。
さて、ここからは仕様の話である。
まず清進高等学校の教室棟の部屋は全部で九つあり、使われていないところは「予備教室」と呼ばれてる。いわゆるただの空き教室であるが、今年の三年は七学級なので予備教室が二つ、八千賀達二年生と一年生は八学級なので予備教室は一つ、という具合だ。
そして件のお化け屋敷なのだが、どこから始まった慣例なのか詳細を誰も知らないが、自分の教室ではなく八組と予備教室の二つを使うことになっている。注目すべきは、「使っていい」ではなく「使うことになっている」という点だ。
そのため当然八組は自分の教室が使えない。なのでお化け屋敷を選んだクラスの教室を使用するか────今年の二年生であれば四組のクラスを使う─────、はたまた西館に行くか、となる。もちろん八組の出し物がお化け屋敷ならば移動せずに八組の教室と予備教室を使うことになる。
清進高校の文化祭は比較的自由度が高いので、クラスの実行委員同士で交渉すれば隣と合わせて二つ分の教室を使った催しを企画できるし、教室を他クラスに提供したとしても西館に行けば問題はない。さらに演劇や一年の時の八千賀達のように、当日教室を必要としない企画のクラスがたまたま隣にいた場合に、借りるという例もある。歴代を見ると清進高校は案外文化祭に熱を入れているようなので、結構二つ分の教室を使ったり移動したりすることに躊躇いはない。実際一年の時、八千賀のクラスは隣のクラスが迷路をやるというので場所を提供した。蛇足になるが、どこも使用しない場合は空いた教室を締め切り、廊下を擬似的な掲示板にしている。
だがなぜかお化け屋敷だけは八組と予備教室の固定だ。例えば四組が体育館での演劇に決まり、三組がお化け屋敷なので三組の教室だけを使ってお化け屋敷をする、もしくは四組の教室と併用して三組と四組をお化け屋敷の会場にする……ということは絶対にできない。
前述の通り、どうしてこんな面倒なことになっているのか詳細は誰もしらない。ただ噂ではあるが、昔西館でお化け屋敷を企画したクラスが他校の生徒と揉めたため、職員室が近くて教師が見張りやすいこの二つの教室でやることにした────との説が有力だ。信ぴょう性があるので、八千賀はこれが理由なんじゃないかと考えている。
ちなみに眉唾な話だと、「実は本命なのは二階の予備教室であり、毎年そこでお化け屋敷をしないと二年生全員が呪われてしまうから」というのがある。あまりにも現実感がないので、まぁ信じている人はいないだろう。
けれど学校とは噂が流れるものだし、清進高校が母校だった先生の話によると「俺の先輩が二年の年にお化け屋敷をやらなかったら死んだ人が出たって聞いた」という話がまことしやかに流れていたらしい。ちなみにその先生は嘘であると一刀両断していた。先生が生徒だった過去数十年と未来、そして現在にいたるまでこの学校で死亡者はでていない。検索したら分かるだろ、と手元のスマホを指さしたらしい。当時の新聞にもその手の記載はないという。さもありなん。
なのだが、これに難色を示しているのが遠野である。
彼は噂の根拠となる事件がなくとも、「二年生の予備教室にその手の噂があり、かつそこに自分が関わる」ということに非常に敏感になっている。何故、と聞いたら彼は真っ直ぐに飾りなくこう言うだろう。怖いから、と。
それもそうだ。遠野は背後だけでなく前方左右、手元のスマホ、毎日生徒達によって雑に磨かれている教室の窓、枚数の多い洗面所の鏡、ロッカーと壁の隙間、あらゆるガラスの向こう側、などおよそ「世界」と呼べる全てから視線を逸らす必要があるのだ。
たった今、能面笑顔の女性が昇降口の窓に張り付いていたので、慌てて俯いた八千賀と同じである。
一緒に登校した友人は八千賀があからさまに顔を水平に動かしたことを疑問に思ったようだったが、口には出されなかった。
開け放たれている透明ガラスドアを潜り、二つ隣の下駄箱に手を振りながら向かって行った。八千賀が登校した理由は文化祭の大道具の制作であるが、彼は部活をやりにきたのだ。
ふと後ろを振り向く。昇降口のガラスの引き戸は下駄箱や廊下を反射させながらも、玄関前の伸び放題になっている低木を透かしている。電車の中だけでなく、さきほども視界に唐突に現れた不可解な顔はなかった。
ニタニタとも違う、形容しがたい不気味な笑みを浮かべるその女のことを遠野は「トオノさん」と呼んだ。
トオノさん。─────八千賀の恋の障害である。
「なになになに!」と予備教室から、高い声音が数人分聞こえたので八千賀は一瞬教室のドアを開けるのを躊躇った。けれどもすりガラスならまだしも透明ガラスなので、ドアの前に八千賀が立っているのが教室内からでもはっきりわかるだろう。そして中から見えるということは、外にいる八千賀も伺えるということだ。
十数人ほど集まっている四組のクラスメイトは、ほぼ全員廊下側に寄って固まっていた。
窓から逃げているので、ぼんやりとトオノさんでも出たのかなぁと考えつつ、ドアの引手に手をかけた。
「はよー。なに?どしたん?」
「虫虫!」
女子生徒が天井の蛍光灯に向かって指をさした。トオノさんじゃなくて良かった、とのんびりした感想を抱きながら「へー」とまの抜けた反応をしたが、飛んでいる黒いものが蜂だったので八千賀も一緒になって黒板の方へ走って行った。
「虫じゃん!」
「だからそう言ってるじゃん!あれ人刺すかな?誰かとってよ!」
「八千賀!八千賀いけ!」
「俺も虫苦手なんだけど!」
「情けな〜!蜂ぐらいで騒……わぁ!」
バチンバチンと音を立てながら蜂が蛍光灯に突撃していく。悲しいかな、ここにいる全員が蜂を捕まえることは出来なかった。大きくて針があるのに加え、飛ぶ早さが問題だ。それに虫取り網も無いので震えることしかできない。
「おは……何?どうしたの?」
「丘!蜂!上!」
「え?………うわ」
もう一人哀れな子羊が呑気にドアを開けて入ってきた。丘は突然頭上を指されたので、きょとんとしながらのんびりと上を向いた。忙しなく動き回る、反射で黒く見える物体に気がつくと、一番低いテンションで叫び────多分「叫ぶ」にも該当しない、ものすごく薄い反応である─────、身をひょいと屈めた。すると蜂は綺麗に丘の頭の上を通り抜け、そのまま廊下へ出ていったのだった。
「びっくりした〜。何だったの?」
「蜂が窓から入ってきて最悪だった」
「まじこんなに人いんのに誰も蜂追っ払えなかったのうける」
「八千賀が捕まえてくんないから〜」
「だからなんで捕まえるの俺なんだよ。てか暑いし、もう窓閉めていい?」
八千賀が手で首元を仰ぐと、その場にいた全員が頷いた。
七月のど真ん中の午前中。天気予報では酷暑だと報じられた本日は、登下校するだけで汗が吹き出し、下手をしたら人が倒れても仕方がない気候である。
夏休みが始まり、予定通り文化祭に向けて本格的な準備が始まった。夏休み前に作る物の大まかな設計図や企画を立て、今は会場に設置する大道具やベニヤ板の看板の製作などを行っている。衣装は市販のものでいいだろう、という話になった。
教室内を飾る段階ではないため教室で準備を進めても良かったが、予備教室にそのままものを放置できるのが楽なので、お化け屋敷の特権として八千賀達はありがたく予備教室を使わせてもらっている。なので集合場所は二階の予備教室で、大抵午前の九時ぐらいに集まり十四時前に解散する、という流れをもう1週間ほど続けていた。
「なんか、ちょっと窓空けたいな〜って思って換気してたの。空き教室だからかもしれないけど、ここちょっと空気悪くない?あーあ、でも騒いだから余計に暑くなっちゃった。ごめんね」
「換気大切だもんな。もうそろそろ閉めていいか?」
「うん。ありがと」
だが空いていた窓は一番後ろで、流れで自分から申し出たくせに八千賀は少しばかり怯んでしまった。
予備教室の机と椅子は三十八個で、黒板は他の教室と同じように上下スライド式である。後ろにはミニ黒板があり、ミニ黒板には長方形の枠の中に一からは三十二まで数字が振ってある。これはどの教室にも共通している、1ヶ月間の行事を書き込むためのマンスリーカレンダーだ。四組だったらこのマンスリーカレンダーの横に各委員会からのお知らせや職員室からの注意、ボランティア活動の呼びかけなど数枚のプリントが磁石で貼られている。ミニ黒板には木造の二段組ロッカーが、ドア側には細長いロッカーがある。木で作られているそれの用途はおそらく生徒の私用ロッカーになるもので、左側のものは中身は変わらずにホウキとバケツ、それから雑巾だ。予備教室というだけあってほとんどが普段使っている教室と変わらない。けれど、背面の壁窓側、つまりミニ黒板の右側にある壁掛けの大きな鏡が異質だった。
木造のロッカーは二段で十列ほどで、右側の壁にスペースがある。大鏡はそこに設置されていた。木枠などがなく、むき出しの鏡面が壁にペタリと貼り付けられている。普通、この手の鏡は廊下とか階段にあるのではなかろうか。
さて、今空いている窓はこの鏡のすぐ近くだ。今日はもうすでに二度もトオノさんを見てしまったので普通に怖い。
けれど自分から「閉める」と言ってしまったので仕方がない。挙動不審にならないよう、素知らぬ顔で窓へと向かう。鏡を視界に入れないように真っ直ぐに首と眼球を正面に固定した。
手を伸ばし、太陽の熱で暖まった窓に触れる。背後からは数人が作業について話したり、もしくは思い思いに雑談に花を咲かせている声が聞こえてくる。のんびりとした風景だ。素早く窓を閉め、息が止まるほどの外部の熱気を遮断し、パチンとクレセントをあげた。
トオノさんが八千賀に付きまとい初めてはや数ヶ月。ただ生きているなら決して必要のない用心深さと警戒心でひどく疲れる。
無意識に息を止めてしまったらしく、肺に溜まった酸素を深く吐き出す。そして振り返ろうとして、八千賀は一歩後ずさった。
トオノさんがいた。
目の前の窓に、顔を押し付けるようにへばりついている。緩やかな三角を描くように目を細め、穏やかそうに上がっている口角がいつものトオノさんだが、しかし八千賀の眼前にいる彼女は相貌がまるっきり違っていた。血色がなく青紫の唇が大きく横に開き、歯を食いしばっている。瞼は大きく開かれて充血した眼球が意志を持って八千賀を捉えていた。
「きゃ!」
バチン、と蛍光灯から何かが弾く音がして、咄嗟に振り向いた。
「何?また蜂?」
自分の持ち場に行き、作業を初めかけていたクラスメイト達が数人ぞろぞろと蛍光灯の下に集まる。たしかに蜂が突進していた音に似ているが、八千賀の頭はそれを否定していた。そうじゃないとこれまでの経験が告げている。後ろを向くのが怖い。多分まだ、トオノさんが見ている。
「丘、蜂がまた入ってきたら追っ払って」
「追っ払ったんじゃなくて勝手に出て行っただけなんだけどなぁ。いいよ」
「いいの!?」
血液が軋むように唸りをあげ、手足の末端がびりびりと震えているのに気がつかないように、努めて明るく丘に声をかけた。丘の返答もあり、クラスの誰もがわけも分からずに張り詰めていた空気がふと和らぐ。
そこから八千賀は丘と、あと五分ほどで着くらしい椎名を待ちながら藤宮と話をすることにした。ガラスや窓、鏡が目に入らない場所に移動をし、自分に与えられた仕事をこなす為に背を丸くして床に座り込む。墓地の絵をダンボールに描くのだ。
黙って作業をするより話しながら手を動かす方がかえって作業が進む。適度な雑談も耳に馴染んだ。だから八千賀は、自分達の話に夢中で隅で模造紙を広げている女子の会話があまり耳に届かなかった。
「さっきすごいびっくりした……」
「どうしたの?」
「……見間違いかもしれないんだけど、見たんだよ。八千賀さんが窓閉めに行ったじゃん?その時、手前に八千賀さんがいて、後ろに私たちがいて、真ん中に人はいなかったよね」
「そうだね」
「なのに、鏡に知らない制服の男子が立ってて、八千賀さんのことガン見してた。教室にはそんな人いないよね?でも本当に、鏡の中にいたんだってば!」
■
「あ、遠野今日来るって。昇降口にいるってきた」
「よかったな」
「迎えに行ってくる」
椎名の雑な返事と、灰色の絵の具がたっぷりついた筆を放り投げると八千賀は立ち上がった。なお筆はきちんとパレットの上に投げている。
八千賀が遠野の話をすることに、クラス中がもはや突っ込むことをしないため、わざわざ出迎えに行くと宣言しても、それについて言及はされなかった。椎名から「お母さんをやめろ」との評を踏まえると、もしかしたらほとんどの人間が八千賀の「好き」の種類は母性だか父性だが、あとは庇護欲か何かだと思っているのだろう。
予備教室から出て、階段を一段飛ばしで降りていく。夏休みといえども、文化祭の準備や部活動などで校内にいる生徒は多いため、何人かと途中にすれ違った。
「遠野!」
「……」
『行くから待ってて』とメッセージを送ったが、果たして遠野はきちんと自分の下駄箱の前で待っていた。本日の根負け遠野である。スニーカーではなく上履きに履き替えた遠野の額から、汗が二粒ほど滴り落ちた。
待ってはくれたが反応はない。無視である。
ひどいな、とも言わずに遠野の隣に軽い足取りで向かい、手に持っていた制汗シートを渡した。
「汗やばいな。な、今日暑くね?昨日も暑かったけどさぁ」
「自分のがある」
「俺が拭いてやるよ」
「絶対やめろ」
頬に触れる手振りをするとぴしゃりと断られた。制汗シートを八千賀に押し返し、自分のリュックから別のメーカーの制汗シートを取り出した。
「そういや、今日もうすでに二回ぐらいトオノさんを見てるんだけど、いつもと顔が違うんだよな」
「……顔が違う?別人ってことか?」
「そうじゃなくて、表情が違う。すっごい怒ってんの。いつも笑顔なんだけどさ。遠野もそうだろ?」
「………」
「遠野?」
返事がなかったため、顔を覗き込むようにして上目て見た。遠野は険しいと渋いの中間の顔をしており、決して穏やかな表情ではない。何考えてるんだろうなとぼんやり思考を宙に漂わせていた八千賀は、彼の面持ちではなくちらりと光る額の水滴にふと視線を止めた。
張り付いた前髪と、頬骨を伝う汗にやたら目がいく。口の中が無性に乾いて無意識に唾を嚥下した。塩味が口の中に広がっている気がする。八千賀の前で、ぽたりと雫が涙のように目尻から一粒落ちた。
「触るな」
無意識だったらしい。耳の後ろを撫でると、今度こそ手を叩き落とされた。
指先が濡れていて、けれどそれが気持ち悪いと思わなかった。遠野といると自分がとんでもない変態になったようで、こういった時にひどく気まずくなる。
「や、あー……。ごめん」
嫌気がさしたらしい遠野が無言で歩いていく。慌ててついて行き、今回ばかりは茶化す気持ちもなく謝った。
「遠野、遠野。ごめんって。さすがにキモかったよな」
「………」
「なぁ遠野」
「今日は教室に行かない。皆に言ってくれ」
「は?じゃあ何しに来たんだよ」
「手伝いに来た」
「だろ?それでなんで教室来ないんだよ」
「お前がいるから」
「……えぇ。じゃあなに、遠野は俺がいなかったら今日は参加したってこと?」
「そうだ」
「……」
遠野は前方、というより足元ばかりを見ながら素っ気なく答えた。言い淀む素振りさえない。本心だと言わんばかりだ。
「……急に触ったのはキモかったかもしれないけど、別にそこまで嫌がることないだろ。だってお前……」
「俺がなんだ」
「……、………お前、俺の事好きじゃん」
そもそもの話。遠野と八千賀は両思いである。あるべきだし、あるはずだ。
遠野が八千賀を遠ざけるのは「トオノさん」のせいで、遠野自身は八千賀を嫌ってはいないはずなのだ。
けれど遠野は嫌悪感あらわに睨んで歩くスピードを早めた。
「何度言ったらわかるんだ?しつこい。好きじゃない」
「……俺のこと意識してるだろ」
「自意識過剰」
「俺に優しいし」
「よくわかってるな。お前がうるさいから聞いてやってる」
「遠野が」
だんだんと声が大きくなる。口調も荒くなって舌の回りが速くなった。
けれど一呼吸置いてから、今度はあまりにも弱々しく呟いた。縋る気持ちで遠野を見る。冷たくて、迷惑そうに目を細め、隣に居ることが耐えられないと全身で訴えている遠野を見た。
「遠野が、トオノさんを怖がらなかったら俺と付き合ってくれるって言ったんだろ」
「記憶の改ざんをするな。勝手にしろとはいったけど、付き合うとは言ってない」
「お、れと」
「何」
「キスした」
「お前が勝手にしたんだろ。俺はもう嫌だ。何かある度に近寄ってくるのも、そういう素振り見せられるのも迷惑だ」
息を飲む。遠野の言葉が真実だ。それはわかっている。あの件は真実八千賀が勝手に遠野にキスをして、遠野はハッキリと受け入れられないと伝えた。
けれどそれは口だけで本心では受け入れていたはずだし、それに何度も話し合って、結局今の距離と関係に落ち着いたのではないか。八千賀の行いを許したのは遠野だ。
「遠野」
「何度も言う。いい加減にしてくれ。お前とは付き合わないし、なんとも思ってない。……もう耐えられないから、これっきりにしてくれ」
指先が冷たい。ほんの一瞬感遠野の体温を感じたその部分だけがぎりぎりと圧迫されている。
遠野は予備教室に向かわず、本当に渡り廊下の方へと身体を回転させ、西館に向かった。
入学当初の遠野奏依に関して、第一印象などなかった。多分教室のどこかにいたのだとは思うが、なんにせよ記憶にない。はっきりと彼の姿かたちを認識したのは一年生の梅雨明け頃の、またもや席替え以降である。だから第一印象を述べるのなら、その席替えの時の感想になるだろう。
遠野は八千賀の真後ろの席になった。ちなみに廊下側の前から四列目なのでわりと許容範囲内の位置である。
周りによくつるむ人がいなかったため、席替えをした最初の休み時間になんとなく遠野に話しかけてみた。
ずいぶんと綺麗な姿勢で読書をするんだな、と思った。けれどそれだけであり、容姿だけを見るならば、申し訳ないが彼は圧倒的陰キャ、だった。
髪の毛はセットなどされずにそのままで、前髪が不自然に長い。シャツにシワと汚れはないが、それは到底加点にはならなかった。なにせまず空気が暗い。そして八千賀は彼が休み時間や放課後に誰かと話をしているのを見たことがなかった。そういえば授業で当てられた時しか声を聞いていない気がする。多分ぼそぼそした喋り方で、早口なんじゃないだろうか。
「何読んでんの?」
とりあえず無難な話題を投げかけると、遠野は長い前髪越しにぱちりと瞬いた。
そして無言で本をひっくり返し、表紙が見えるように八千賀の方に向きを変えた。
てっきり文豪とかそのあたりの意識が高そうな小説とか、もしくはいかにもな女の子の絵がでかでかと表紙に描いてあるような類の小説かと思ったが、予想とは全く違うものだった。
『コンセプトとアイデア。考える力を育てる方法』
可愛いポップな絵とタイトルではあるが、どう見てもビジネス書である。少々面食らった八千賀は、「それおもしろい?」と対しておもしろみのない質問をしてしまった。
「別に。そこそこ」
「……」
いい声してるじゃん。次に瞼を上下させたのは八千賀の方だった。
「そういうのが好きなん?」
「別に。いつも本屋で平積みされてるのを適当に選んで読んでる」
もっと喉に張り付いた、ねっとりとしていて舌にまとわりついている声を想像していた。けれど目の前の人物から届く音は、適度に低くて一音一音がはっきりしていて聞き取りやすい。もったいないな、と素直に思った。もっと話せばいいのに。これで歌が上手だったらギャップが受けるのではないだろうか。
「ふーん。あ、なぁ。遠野はゲームとかやる?じゃなくて動画見る方とか?俺、女子からおすすめされたVTuber見たんだけど、結構おもしろくってさ。なんかゲームの話するやつ。遠野もそういうの好き?」
話題作りの一つではあったが、見た目で「ゲームが好きそう」は早合点だったかもしれない。小説がビジネス書なんだし、彼は雰囲気がオタクっぽいだけでもしかしたら趣味はゲームやアイドルではないかもしれない。どうかな、と思っていると遠野が本を閉じた。あ、会話してくれるんだ、と少しだけ嬉しくなる。
「液晶は見ない」
「……ん?」
”そういうのは”見ない、ではなく”液晶は”見ない? ずいぶん独特な言い回しである。というか、若干意味がわからない。
「ふーん……?そうなんだ〜……。液晶って……えーと、スマホとかタブレットとか?スマホあんまりいじんない系?」
「そう」
「えっ。現代社会でそういうことある?SNSとかやってないってこと?」
「やってない」
「え!?じゃあ学校始まる前に友達作れないじゃん!」
「始まってから作ればいいだろ」
「いやいや、知り合いがいた方が始まってから楽じゃん!ぼっちの入学式とか嫌すぎる。じゃあ普段なにやってんの?」
「読書とか勉強とか」
「遠野真面目〜。じゃあなに。スマホ見ないのも勉強に邪魔だからとかそういう感じ?」
「そうじゃない」
「じゃあなんで?」
「怖いから」
「……??うん……??」
またもや理解の及ばない返しをされた。スマホの何が怖いのだろうか。止まらないSNSの更新だったり中毒性か。ならばやっぱり「勉強の邪魔」が最適な答えではないだろうか。
「もういいか」
「え?」
「これ以降話しかけるな」
「……お〜。読書の邪魔しちゃったな。悪かった。じゃあ次は本読んでない時に話しかけるわ」
「やめろ」
「……あー、迷惑?」
「そうだ」
それから遠野は、明瞭で引っかかりなどひとつも無い滑らかな声で宣言した。
「俺に近寄るとお前も呪われる」
◾︎
スリープ状態のスマホを制服のポケットから取り出し、そしてすぐにスマホを落としそうになった。
スリープ画面の、真っ黒な画面は鏡のように周りの景色を映し出すものだ。だから、八千賀の後ろから覗き込むようにしている笑顔の女がちょうど顔の横にはっきりと映っていたのをしっかり見てしまった。画面越しに目が合ったのを感じ取り、息が止まる。
慌ててスマホをポケットにしまい、深呼吸を三度ほどする。ここで驚いて周りを見渡してはいけない。電車の中であるため変な人だと思われたくないし、なにより大抵の場合映りこむと本当に”いる”からだ。息遣いなどは聞こえないものの、それでも気配というのはわかるものである。
手持ち無沙汰になってしまった。ため息でもつきたいところを我慢して、カバンから英単語帳を取り出した。あと二駅ほど我慢すれば友達が乗ってくるので、それまで気を紛らわせられればいい。
紙書籍とは素晴らしいものである。文字や絵を追っていると他のものが視界に入ってこないし、なによりも周りの景色が反射で”映らない”。
八千賀はここ最近、とんとスマホを触らなくなった。理由は”怖いから”の一択だ。
さて、八千賀は現在電車に乗っており、さらにシートに座っている。窓が背中側にある対面式のあの長いシートだ。そして八千賀の真正面には、大学生ぐらいの女性が座っていた。彼女の両隣は同じく女性で、社会人らしい年齢とおばあさんだった。真ん中にいる女子大生の彼女は透明のスマホカバーに男性のステッカーを挟んでいて、人に取り繕う必要もないせいか真顔でスマホをタップしていた。彼女はしばらくそうやって自分の手元に集中していたが、顔を上げたようだった。ようだった、と分かったのは彼女がスマホを落としたからだ。
大きな音に八千賀も咄嗟に前を向いてしまった。見渡すと、同じ車両の何人か、もちろん彼女の両隣と八千賀の隣の男性も女性と落ちたスマホを目で追っている。だが視線の的になっている女性は床を滑った自身のスマホではなく、八千賀の方を向いてかちんこちんに固まっていた。氷漬けされた人間もきっとあんなふうに固まるのではないだろうか。それほど見事に女性は動きを止めていた。
だからそう、こういう反応なのだから彼女がスマホを落としたのは”八千賀を見た”からだろうし、八千賀を見たということは、顔を上げたのだろう。
ふう、と今度こそ息を吐いた。スマホをすぐにしまってよかった。
きっと手元の英単語帳がなにかしらの液晶画面だったら、八千賀の後ろ──────窓の外にへばりついている笑顔の”何か”をもう一度映していたに違いない。
■
結論から言うと出し物はお化け屋敷に決まった。てっきりジャンケンに勝ってしまったのかと思い、やっぱり自分が出るべきだったかと心中で独りごちたが、なんと今回お化け屋敷を希望したのは自分たち四組だけだったらしい。
そして前提として、お化け屋敷は定番も定番のため人気の高い出し物である。
ちなみに去年、八千賀のクラスは校門前に設置する大きな看板を制作した。「常陵祭へようこそ」という類の文句を、木の板を切って組んでアーチ型にした渾身の作である。
出し物決めの時、それなりに分散はしたものの看板作りに票を入れた人は多かった。八千賀もその一人である。飾るものを作っておけば、文化祭の二日間は自由であり、あとは遊ぶだけ、というわけだ。つまり八千賀達のクラスはかのお祭りの日に向けて一致団結をし当日に絆を深めるのではなく、それまでにやることをさくっと済ませて遊ぶことだけを考えていた。
ある意味では「やる気がないので事前にやる気を出しておく」という点で素晴らしい団結力を発揮したともいえよう。なにせその制作物は夏休み前に終わったのだから。皆全力でやり切ったのだ。
だから去年の夏は学校に行くことはなかったし、遠野も放課後に率先して残って看板製作に勤しんでいた。あの頃の遠野はまだ柔らか遠野だったのでクラスに馴染んでいたのだ。
案外人といる事が好きなので、「迷惑をかけない」という範囲でこつこつ何かをするのは彼にとってもよかったのだろう。中心とまでは行かないが、それなりに自分から周りに話しかけ、アイデアを出したり笑顔を浮かべたりしていた。断言するが、多分あの看板製作中に遠野を好きになった人は複数人いる。だって可愛かったし。遠野が笑ったら好きになるに決まっている。間違いない。
こじんまりと座って、ちまちまと細い絵の具で指定された場所を塗り、褒められたりしたら大きな目が細くなって、ちょっと恥ずかしそうに俯いて笑うのである。惚れないわけがない。今思えば百回は惚れ直した。
閑話休題。では他のクラスはどうだったのかと言うと、八クラス中四クラスがお化け屋敷を希望していた。八クラス中四クラス。八分の四。四分の二。二分の一。半分、である。他クラスの熱意に圧倒された。
と、いうわけで今年もどこかしらと被るだろうなと思っていたのだがそうは問屋が卸さなかったらしい。逆にどんな奇跡が起きてしまったのか。まさかのお化け屋敷の希望なしだ。
さて、ここからは仕様の話である。
まず清進高等学校の教室棟の部屋は全部で九つあり、使われていないところは「予備教室」と呼ばれてる。いわゆるただの空き教室であるが、今年の三年は七学級なので予備教室が二つ、八千賀達二年生と一年生は八学級なので予備教室は一つ、という具合だ。
そして件のお化け屋敷なのだが、どこから始まった慣例なのか詳細を誰も知らないが、自分の教室ではなく八組と予備教室の二つを使うことになっている。注目すべきは、「使っていい」ではなく「使うことになっている」という点だ。
そのため当然八組は自分の教室が使えない。なのでお化け屋敷を選んだクラスの教室を使用するか────今年の二年生であれば四組のクラスを使う─────、はたまた西館に行くか、となる。もちろん八組の出し物がお化け屋敷ならば移動せずに八組の教室と予備教室を使うことになる。
清進高校の文化祭は比較的自由度が高いので、クラスの実行委員同士で交渉すれば隣と合わせて二つ分の教室を使った催しを企画できるし、教室を他クラスに提供したとしても西館に行けば問題はない。さらに演劇や一年の時の八千賀達のように、当日教室を必要としない企画のクラスがたまたま隣にいた場合に、借りるという例もある。歴代を見ると清進高校は案外文化祭に熱を入れているようなので、結構二つ分の教室を使ったり移動したりすることに躊躇いはない。実際一年の時、八千賀のクラスは隣のクラスが迷路をやるというので場所を提供した。蛇足になるが、どこも使用しない場合は空いた教室を締め切り、廊下を擬似的な掲示板にしている。
だがなぜかお化け屋敷だけは八組と予備教室の固定だ。例えば四組が体育館での演劇に決まり、三組がお化け屋敷なので三組の教室だけを使ってお化け屋敷をする、もしくは四組の教室と併用して三組と四組をお化け屋敷の会場にする……ということは絶対にできない。
前述の通り、どうしてこんな面倒なことになっているのか詳細は誰もしらない。ただ噂ではあるが、昔西館でお化け屋敷を企画したクラスが他校の生徒と揉めたため、職員室が近くて教師が見張りやすいこの二つの教室でやることにした────との説が有力だ。信ぴょう性があるので、八千賀はこれが理由なんじゃないかと考えている。
ちなみに眉唾な話だと、「実は本命なのは二階の予備教室であり、毎年そこでお化け屋敷をしないと二年生全員が呪われてしまうから」というのがある。あまりにも現実感がないので、まぁ信じている人はいないだろう。
けれど学校とは噂が流れるものだし、清進高校が母校だった先生の話によると「俺の先輩が二年の年にお化け屋敷をやらなかったら死んだ人が出たって聞いた」という話がまことしやかに流れていたらしい。ちなみにその先生は嘘であると一刀両断していた。先生が生徒だった過去数十年と未来、そして現在にいたるまでこの学校で死亡者はでていない。検索したら分かるだろ、と手元のスマホを指さしたらしい。当時の新聞にもその手の記載はないという。さもありなん。
なのだが、これに難色を示しているのが遠野である。
彼は噂の根拠となる事件がなくとも、「二年生の予備教室にその手の噂があり、かつそこに自分が関わる」ということに非常に敏感になっている。何故、と聞いたら彼は真っ直ぐに飾りなくこう言うだろう。怖いから、と。
それもそうだ。遠野は背後だけでなく前方左右、手元のスマホ、毎日生徒達によって雑に磨かれている教室の窓、枚数の多い洗面所の鏡、ロッカーと壁の隙間、あらゆるガラスの向こう側、などおよそ「世界」と呼べる全てから視線を逸らす必要があるのだ。
たった今、能面笑顔の女性が昇降口の窓に張り付いていたので、慌てて俯いた八千賀と同じである。
一緒に登校した友人は八千賀があからさまに顔を水平に動かしたことを疑問に思ったようだったが、口には出されなかった。
開け放たれている透明ガラスドアを潜り、二つ隣の下駄箱に手を振りながら向かって行った。八千賀が登校した理由は文化祭の大道具の制作であるが、彼は部活をやりにきたのだ。
ふと後ろを振り向く。昇降口のガラスの引き戸は下駄箱や廊下を反射させながらも、玄関前の伸び放題になっている低木を透かしている。電車の中だけでなく、さきほども視界に唐突に現れた不可解な顔はなかった。
ニタニタとも違う、形容しがたい不気味な笑みを浮かべるその女のことを遠野は「トオノさん」と呼んだ。
トオノさん。─────八千賀の恋の障害である。
「なになになに!」と予備教室から、高い声音が数人分聞こえたので八千賀は一瞬教室のドアを開けるのを躊躇った。けれどもすりガラスならまだしも透明ガラスなので、ドアの前に八千賀が立っているのが教室内からでもはっきりわかるだろう。そして中から見えるということは、外にいる八千賀も伺えるということだ。
十数人ほど集まっている四組のクラスメイトは、ほぼ全員廊下側に寄って固まっていた。
窓から逃げているので、ぼんやりとトオノさんでも出たのかなぁと考えつつ、ドアの引手に手をかけた。
「はよー。なに?どしたん?」
「虫虫!」
女子生徒が天井の蛍光灯に向かって指をさした。トオノさんじゃなくて良かった、とのんびりした感想を抱きながら「へー」とまの抜けた反応をしたが、飛んでいる黒いものが蜂だったので八千賀も一緒になって黒板の方へ走って行った。
「虫じゃん!」
「だからそう言ってるじゃん!あれ人刺すかな?誰かとってよ!」
「八千賀!八千賀いけ!」
「俺も虫苦手なんだけど!」
「情けな〜!蜂ぐらいで騒……わぁ!」
バチンバチンと音を立てながら蜂が蛍光灯に突撃していく。悲しいかな、ここにいる全員が蜂を捕まえることは出来なかった。大きくて針があるのに加え、飛ぶ早さが問題だ。それに虫取り網も無いので震えることしかできない。
「おは……何?どうしたの?」
「丘!蜂!上!」
「え?………うわ」
もう一人哀れな子羊が呑気にドアを開けて入ってきた。丘は突然頭上を指されたので、きょとんとしながらのんびりと上を向いた。忙しなく動き回る、反射で黒く見える物体に気がつくと、一番低いテンションで叫び────多分「叫ぶ」にも該当しない、ものすごく薄い反応である─────、身をひょいと屈めた。すると蜂は綺麗に丘の頭の上を通り抜け、そのまま廊下へ出ていったのだった。
「びっくりした〜。何だったの?」
「蜂が窓から入ってきて最悪だった」
「まじこんなに人いんのに誰も蜂追っ払えなかったのうける」
「八千賀が捕まえてくんないから〜」
「だからなんで捕まえるの俺なんだよ。てか暑いし、もう窓閉めていい?」
八千賀が手で首元を仰ぐと、その場にいた全員が頷いた。
七月のど真ん中の午前中。天気予報では酷暑だと報じられた本日は、登下校するだけで汗が吹き出し、下手をしたら人が倒れても仕方がない気候である。
夏休みが始まり、予定通り文化祭に向けて本格的な準備が始まった。夏休み前に作る物の大まかな設計図や企画を立て、今は会場に設置する大道具やベニヤ板の看板の製作などを行っている。衣装は市販のものでいいだろう、という話になった。
教室内を飾る段階ではないため教室で準備を進めても良かったが、予備教室にそのままものを放置できるのが楽なので、お化け屋敷の特権として八千賀達はありがたく予備教室を使わせてもらっている。なので集合場所は二階の予備教室で、大抵午前の九時ぐらいに集まり十四時前に解散する、という流れをもう1週間ほど続けていた。
「なんか、ちょっと窓空けたいな〜って思って換気してたの。空き教室だからかもしれないけど、ここちょっと空気悪くない?あーあ、でも騒いだから余計に暑くなっちゃった。ごめんね」
「換気大切だもんな。もうそろそろ閉めていいか?」
「うん。ありがと」
だが空いていた窓は一番後ろで、流れで自分から申し出たくせに八千賀は少しばかり怯んでしまった。
予備教室の机と椅子は三十八個で、黒板は他の教室と同じように上下スライド式である。後ろにはミニ黒板があり、ミニ黒板には長方形の枠の中に一からは三十二まで数字が振ってある。これはどの教室にも共通している、1ヶ月間の行事を書き込むためのマンスリーカレンダーだ。四組だったらこのマンスリーカレンダーの横に各委員会からのお知らせや職員室からの注意、ボランティア活動の呼びかけなど数枚のプリントが磁石で貼られている。ミニ黒板には木造の二段組ロッカーが、ドア側には細長いロッカーがある。木で作られているそれの用途はおそらく生徒の私用ロッカーになるもので、左側のものは中身は変わらずにホウキとバケツ、それから雑巾だ。予備教室というだけあってほとんどが普段使っている教室と変わらない。けれど、背面の壁窓側、つまりミニ黒板の右側にある壁掛けの大きな鏡が異質だった。
木造のロッカーは二段で十列ほどで、右側の壁にスペースがある。大鏡はそこに設置されていた。木枠などがなく、むき出しの鏡面が壁にペタリと貼り付けられている。普通、この手の鏡は廊下とか階段にあるのではなかろうか。
さて、今空いている窓はこの鏡のすぐ近くだ。今日はもうすでに二度もトオノさんを見てしまったので普通に怖い。
けれど自分から「閉める」と言ってしまったので仕方がない。挙動不審にならないよう、素知らぬ顔で窓へと向かう。鏡を視界に入れないように真っ直ぐに首と眼球を正面に固定した。
手を伸ばし、太陽の熱で暖まった窓に触れる。背後からは数人が作業について話したり、もしくは思い思いに雑談に花を咲かせている声が聞こえてくる。のんびりとした風景だ。素早く窓を閉め、息が止まるほどの外部の熱気を遮断し、パチンとクレセントをあげた。
トオノさんが八千賀に付きまとい初めてはや数ヶ月。ただ生きているなら決して必要のない用心深さと警戒心でひどく疲れる。
無意識に息を止めてしまったらしく、肺に溜まった酸素を深く吐き出す。そして振り返ろうとして、八千賀は一歩後ずさった。
トオノさんがいた。
目の前の窓に、顔を押し付けるようにへばりついている。緩やかな三角を描くように目を細め、穏やかそうに上がっている口角がいつものトオノさんだが、しかし八千賀の眼前にいる彼女は相貌がまるっきり違っていた。血色がなく青紫の唇が大きく横に開き、歯を食いしばっている。瞼は大きく開かれて充血した眼球が意志を持って八千賀を捉えていた。
「きゃ!」
バチン、と蛍光灯から何かが弾く音がして、咄嗟に振り向いた。
「何?また蜂?」
自分の持ち場に行き、作業を初めかけていたクラスメイト達が数人ぞろぞろと蛍光灯の下に集まる。たしかに蜂が突進していた音に似ているが、八千賀の頭はそれを否定していた。そうじゃないとこれまでの経験が告げている。後ろを向くのが怖い。多分まだ、トオノさんが見ている。
「丘、蜂がまた入ってきたら追っ払って」
「追っ払ったんじゃなくて勝手に出て行っただけなんだけどなぁ。いいよ」
「いいの!?」
血液が軋むように唸りをあげ、手足の末端がびりびりと震えているのに気がつかないように、努めて明るく丘に声をかけた。丘の返答もあり、クラスの誰もがわけも分からずに張り詰めていた空気がふと和らぐ。
そこから八千賀は丘と、あと五分ほどで着くらしい椎名を待ちながら藤宮と話をすることにした。ガラスや窓、鏡が目に入らない場所に移動をし、自分に与えられた仕事をこなす為に背を丸くして床に座り込む。墓地の絵をダンボールに描くのだ。
黙って作業をするより話しながら手を動かす方がかえって作業が進む。適度な雑談も耳に馴染んだ。だから八千賀は、自分達の話に夢中で隅で模造紙を広げている女子の会話があまり耳に届かなかった。
「さっきすごいびっくりした……」
「どうしたの?」
「……見間違いかもしれないんだけど、見たんだよ。八千賀さんが窓閉めに行ったじゃん?その時、手前に八千賀さんがいて、後ろに私たちがいて、真ん中に人はいなかったよね」
「そうだね」
「なのに、鏡に知らない制服の男子が立ってて、八千賀さんのことガン見してた。教室にはそんな人いないよね?でも本当に、鏡の中にいたんだってば!」
■
「あ、遠野今日来るって。昇降口にいるってきた」
「よかったな」
「迎えに行ってくる」
椎名の雑な返事と、灰色の絵の具がたっぷりついた筆を放り投げると八千賀は立ち上がった。なお筆はきちんとパレットの上に投げている。
八千賀が遠野の話をすることに、クラス中がもはや突っ込むことをしないため、わざわざ出迎えに行くと宣言しても、それについて言及はされなかった。椎名から「お母さんをやめろ」との評を踏まえると、もしかしたらほとんどの人間が八千賀の「好き」の種類は母性だか父性だが、あとは庇護欲か何かだと思っているのだろう。
予備教室から出て、階段を一段飛ばしで降りていく。夏休みといえども、文化祭の準備や部活動などで校内にいる生徒は多いため、何人かと途中にすれ違った。
「遠野!」
「……」
『行くから待ってて』とメッセージを送ったが、果たして遠野はきちんと自分の下駄箱の前で待っていた。本日の根負け遠野である。スニーカーではなく上履きに履き替えた遠野の額から、汗が二粒ほど滴り落ちた。
待ってはくれたが反応はない。無視である。
ひどいな、とも言わずに遠野の隣に軽い足取りで向かい、手に持っていた制汗シートを渡した。
「汗やばいな。な、今日暑くね?昨日も暑かったけどさぁ」
「自分のがある」
「俺が拭いてやるよ」
「絶対やめろ」
頬に触れる手振りをするとぴしゃりと断られた。制汗シートを八千賀に押し返し、自分のリュックから別のメーカーの制汗シートを取り出した。
「そういや、今日もうすでに二回ぐらいトオノさんを見てるんだけど、いつもと顔が違うんだよな」
「……顔が違う?別人ってことか?」
「そうじゃなくて、表情が違う。すっごい怒ってんの。いつも笑顔なんだけどさ。遠野もそうだろ?」
「………」
「遠野?」
返事がなかったため、顔を覗き込むようにして上目て見た。遠野は険しいと渋いの中間の顔をしており、決して穏やかな表情ではない。何考えてるんだろうなとぼんやり思考を宙に漂わせていた八千賀は、彼の面持ちではなくちらりと光る額の水滴にふと視線を止めた。
張り付いた前髪と、頬骨を伝う汗にやたら目がいく。口の中が無性に乾いて無意識に唾を嚥下した。塩味が口の中に広がっている気がする。八千賀の前で、ぽたりと雫が涙のように目尻から一粒落ちた。
「触るな」
無意識だったらしい。耳の後ろを撫でると、今度こそ手を叩き落とされた。
指先が濡れていて、けれどそれが気持ち悪いと思わなかった。遠野といると自分がとんでもない変態になったようで、こういった時にひどく気まずくなる。
「や、あー……。ごめん」
嫌気がさしたらしい遠野が無言で歩いていく。慌ててついて行き、今回ばかりは茶化す気持ちもなく謝った。
「遠野、遠野。ごめんって。さすがにキモかったよな」
「………」
「なぁ遠野」
「今日は教室に行かない。皆に言ってくれ」
「は?じゃあ何しに来たんだよ」
「手伝いに来た」
「だろ?それでなんで教室来ないんだよ」
「お前がいるから」
「……えぇ。じゃあなに、遠野は俺がいなかったら今日は参加したってこと?」
「そうだ」
「……」
遠野は前方、というより足元ばかりを見ながら素っ気なく答えた。言い淀む素振りさえない。本心だと言わんばかりだ。
「……急に触ったのはキモかったかもしれないけど、別にそこまで嫌がることないだろ。だってお前……」
「俺がなんだ」
「……、………お前、俺の事好きじゃん」
そもそもの話。遠野と八千賀は両思いである。あるべきだし、あるはずだ。
遠野が八千賀を遠ざけるのは「トオノさん」のせいで、遠野自身は八千賀を嫌ってはいないはずなのだ。
けれど遠野は嫌悪感あらわに睨んで歩くスピードを早めた。
「何度言ったらわかるんだ?しつこい。好きじゃない」
「……俺のこと意識してるだろ」
「自意識過剰」
「俺に優しいし」
「よくわかってるな。お前がうるさいから聞いてやってる」
「遠野が」
だんだんと声が大きくなる。口調も荒くなって舌の回りが速くなった。
けれど一呼吸置いてから、今度はあまりにも弱々しく呟いた。縋る気持ちで遠野を見る。冷たくて、迷惑そうに目を細め、隣に居ることが耐えられないと全身で訴えている遠野を見た。
「遠野が、トオノさんを怖がらなかったら俺と付き合ってくれるって言ったんだろ」
「記憶の改ざんをするな。勝手にしろとはいったけど、付き合うとは言ってない」
「お、れと」
「何」
「キスした」
「お前が勝手にしたんだろ。俺はもう嫌だ。何かある度に近寄ってくるのも、そういう素振り見せられるのも迷惑だ」
息を飲む。遠野の言葉が真実だ。それはわかっている。あの件は真実八千賀が勝手に遠野にキスをして、遠野はハッキリと受け入れられないと伝えた。
けれどそれは口だけで本心では受け入れていたはずだし、それに何度も話し合って、結局今の距離と関係に落ち着いたのではないか。八千賀の行いを許したのは遠野だ。
「遠野」
「何度も言う。いい加減にしてくれ。お前とは付き合わないし、なんとも思ってない。……もう耐えられないから、これっきりにしてくれ」
指先が冷たい。ほんの一瞬感遠野の体温を感じたその部分だけがぎりぎりと圧迫されている。
遠野は予備教室に向かわず、本当に渡り廊下の方へと身体を回転させ、西館に向かった。
