9
「よぉ。遠野と遠野のゆう」
「……………」
「おはよ〜遠野、遠野のゆう〜」
「…………………………」
「おはよ八……遠野のゆう〜」
「……………………………………」
「そ、そこまでにしてやれよ……」
ガン無視を決め込んでいた遠野がついに顔をしかめ、外界シャットダウン用の小説を閉じたので八千賀もついに口を出すことにした。
教室に入ってきてからわざわざ遠野に挨拶をしに来た椎名や丘、それから遠くで軽く挨拶をするだけだが、実際は確信犯のクラスメイト全員から隠すように両手を広げて遠野の前に立つ。
「だって俺のゆうって教室内で宣言したのコイツだろ」
「遠野ってそんなに八千賀のこと好きなんだね」
「……………好きだ」
「あ、そこは素直に言うんだ」
文化祭から二週間、こんな風であった。
例の文化祭二日目は、あのあとあっけなく終わった。
予備教室での騒動と、誰もいない放送室からの放送に騒然となり、不審者が校内にいるかもしれないとすぐに現場は忙しなくなり、安全性を考えてその日はお昼に文化祭が終了してしまった。本来なら16時に終わり、あとは閉会式となるので大幅な予定の変更である。なお閉会式も中止となり生徒達も帰宅となった。文化祭二日目の振り返りはなしだ。
”遠野の呪い”はもはや撤回も弁護もできないところまで膨れ上がった。
三年生の謎の怪我、四組の集団ヒステリー、そして八千賀の自殺未遂。これら全てが遠野が操っていることになっている。この間、遠野はエスパーじゃないかとSNSでまことしやかに囁かれていると聞いたので、さすがに吹き出してしまった。設定が盛りに盛られている。
傍からから見れば、四組の怪奇事件は集団ヒステリーで間違いないだろう。好奇と興奮と、少しの恐怖で四組全体が今や腫れ物扱いにも似た立ち位置だ。
けれど文化祭のあの日、全校生徒どころか校舎にいた人達全員が、おそらくトオノさんらしい声を聞いた。あれは「集団ヒステリー」では片付けられないだろう。放送委員はその時間は活動をしておらず、いたのは放送部の面々だ。彼らはラジオを流すために代わる代わる放送室にいたが、女の人など来ていないという。いまだに解決していない不可解な現象だ。
そして問題の四組と言えば、意外なことに遠野を受け入れたようだった。
「おはよ!遠野のゆう!遠野!」
─────受け入れたというより、新しい遠野の接し方を学んだと言うべきか。
よほど「俺のゆうだ」発言が気に入ったのか、八千賀は最近めっきり名前を呼ばれなくなった。かわりに「遠野のゆう」が代名詞となっている。
「おい、遠野のゆうが嫌がってんぞ。遠野はいいのかよ」
「……そっちがやめろって言っても呼ぶからだろ。それに嫌がってない」
「遠野のゆう、嫌がってないの?」
「嫌がってんじゃなくてあんまり奏依で遊んでやるなって……」
やけに全員ノリがいいのは、逆にメーターが振り切れて開き直っているのだろうか。
「そういえば球技大会、中止になるかもだってね」
「またガラス割れるかもしんねぇしな」
「ガラスが割れたのは俺のせいじゃない」
それは嫌味では。椎名のちくっとした言い方に八千賀の方がそわそわとして、なんてフォローをすべきかと考えていると遠野がすっぱりと言い切った。少しだけ語気が厳しめだったが、怒ってはいないようである。
肩透かしを食らったのは八千賀だった。
この二週間、明らかにクラスと遠野の距離感が変わった。遠野は相変わらず人を避けがちではあるはずなのに、淡々としつつもクラスメイトと話はするし、クラスメイトもなんやかんや遠野をいじっている。弄りにたいして遠野は本気で怒ることはなく、多少の煩わしさは見せていたとしても、彼の態度にクラスメイトが辟易することはなかった。
「お前、やるならバスケやれば?タッパあるし」
「空いてるやつでいい」
「いいじゃん。バスケやりなよ。モテるよ〜」
「そういうのはいらないし興味がない」
「でも遠野のゆうは遠野がモテてるのが好きだよ」
「………」
遠野がおそろしく真面目に思案し始めた。同じ無言であるが、無視ではなく思考を張り巡らせ、結論を導き出そうとしている無言である。
「ゆう、そうなのか?」
「え?」
「俺がモテてるのが好きなのか」
「あ、うん。そうだな……?」
「ちゃんと言って欲しい」
「い、言う?」
「そう。俺が好き?」
今現在、遠野は机に座っていて八千賀と椎名、丘は立っている。八千賀は机の上にカバンをおいていて、自分の席の椅子を引っ込ませて遠野の目の前にいた。だから遠野が少しだか身体を八千賀の方に寄せ、目を合わせようとすると必然的に上目遣いになる。
「っ……」
真っ直ぐに見つめられて、思わず視線が泳いだ。どうやら教室の空調が上手く機能していないらしい。やたら手が汗ばむし頬に熱が集まっている。
「す、好き……」
「もう一回」
「奏依が、……好き」
遠野がするりと指を絡めた。うん、と低くて落ち着いた声が頷いて、その唇から「嬉しい」と小さく零れた。
顔を見ることが出来ず、やや俯き気味で遠野の指に視線を合わせていた。決して顔を合わせたくない、というわけではないがちゃんと遠野に分かっているだろうか。それとも、顔を逸らしたから嫌われてしまったと考えるだろうか。
少々態度が悪かったかもしれない。やや反省をした八千賀がぱっと顔を上げ、そして窓の外にいるトオノさんと目が合った。
遠野の席は窓側なので、彼に向き直すと必然的に広々とした窓が景色として視界に入るのである。
髪を逆立てる、とはこのことを言うのだろう。平素から乱れ気味だったとはいえ、もはや血でも通っているかのように彼女の髪は膨らみ、前髪も顔にかかっている。隙間からのぞく彼女の形相は穏やかではなかった。血走った眼球が零れそうなほど大きく見開かれ、結ばれた横一文字の唇は噛み締められている。眉はこれでもかというぐらい逆八の字で、眉間に影を作っている。生気のない青白かった肌は今では赤くて黒く、ある意味では生気があるとも言えだろう。
「ゆう」
遠野は八千賀の視線の先のトオノさんに気がついているはずだ。しかし彼は、夏休み前であれば明らかにトオノさんを意識して警戒するように背を向けていただけであったのに、今はただただ八千賀しか見ていない。結果背を向けているだけであり、そこにトオノさんへの意図は絡んでいなかった。
「っあ、うん。悪い。えっと、球技大会だろ?」
「違う。お前が俺の事が好きかどうかって話だった」
「えっ、そんな話だった?バスケの話してたじゃん」
「ゆうは俺がモテてるのを見るのが好きだって聞いた」
「うん、そうだな。……さっきこの流れやったよな?よし、じゃあもう満足しただろ。奏依は……」
「してない」
「えっ」
「してない。もっと言って」
「な、何を?」
「好きって」
「も、もう十分だろ」
いつの間にか遠野が立ち上がっていて、八千賀のすぐ近くの距離にいた。ほんの少し動けば、遠野の前髪が八千賀の肌に触れるかもしれない。
「もう一回」
「も、もうよくない?ダメ?えっと……、す、好き………」
「振った俺らも悪いけど、こいつら一生これやってね?」
「そろそろ先生来るんじゃない〜?」
こういう感じであった。
「遠野の性格がマシになったからだろ。前まですげぇギスギスしてたけど、八千賀とも普通に話すようになったし」
「えっ俺?」
「そうそう、八千賀。なんかお前らも妙にギクシャクしてるっていうか、無理してたじゃん。だからこっちだってなんとなく関わり辛いよな」
「あー……。そうだったんだ。全然見えてなかった」
「てか遠野に関してはお前もピリピリしてたし。逆に遠野に触んなって感じだったじゃん」
図星かもしれない。否定はしきれなかった。
お昼休みに藤宮を誘って購買に来ていた。清進高校は購買の店舗が備え付けられていたり、食堂や学食といったものはないが、その代わり昇降口近くの多目的室でパンやお弁当を販売している。
八千賀は結構な頻度で購買を利用しているが、藤宮もしかりである。今回は八千賀が藤宮を誘ったのだった。
「ふぅん……。まぁ、奏依が浮いてないならそれでいいんだけど……」
「……八千賀、やっぱり遠野が最優先なんだな。嫌とかキモイとかねぇの?」
「あったら最初から絡んでないし、そもそも俺から絡み始めたし」
「確かにな。そういえば、いつの間にか名前呼びだよな。やっぱ付き合うと下の名前になったりすんの?」
「それは人それぞれじゃね?」
だが八千賀が遠野のことを「奏依」と呼ぶようになったのは理由がある。
トオノさんに全面降伏をしたからだ。
具体的に言えば、トオノさんとの縁を切るためである。
校内放送で流れた女性のすすり泣きが、どういう存在で何がどうしてそうなったのかは四組でさえ理解していない。きっと彼女の「悔しい」の意味を正しく受け取れたのは八千賀と、そして遠野だけだろう。放送室の謎の女はいつまでも不可思議で不可解な、文化祭の七不思議として君臨するに違いない。
けれど八千賀と遠野はしっかり分かっている。
あの日、八千賀が意識を取り戻した時に「奏依」ではなく「遠野」と呼んでいたら、間違いなく八千賀は殺されていた。「持って行け」の仕組んだ飛び降り自殺ではなく、トオノさんに正真正銘呪い殺されていただろう。
たとえあの時に本当に助けを求めた相手が「遠野奏依」であっても関係がない。トオノという名前はトオノさんの事も指すのだから。
遠野の言う通り、八千賀の「好き」は全てトオノさんに向かっていたのだ。そこに八千賀の思惑も感情も関係なければ、現実すらもはやトオノさんにとっては意味をなさない。ただただ「トオノが好き」と何度も繰り返し伝えていた事実があるだけだ。
これも遠野の考えと同じく、トオノさんが怨霊らしく今回の事件を引き起こした可能性はきっとゼロではない。彼女は八千賀が「トオノ」と呼ぶのを待っていて、さらには擬似的な神頼みをすることを望んだ。神頼みをした先の八千賀の運命は、供述した通りだろう。
ただし。
「あのボールペン、持って来たのって藤宮じゃね?」
「……」
藤宮は肯定も否定もしなかったが、経験上何も言わないというのは肯定に近い。食べ盛りの高校生らしく、唐揚げ弁当とカップラーメンを手に取った藤宮は息を吐いた。観念したような、どちらかと言えば軽めの空気だ。
「詳しいことなんてわかんないし、そもそもあれが何なのかも知らないけどさ。もしかして、本当は持って行けって言われたのは藤宮だったんじゃねぇの。なんで俺に押し付けたのかも、知らないけど」
「………八千賀は、漠然と死なないだろうなって」
「それで自分の代わりに死んでくれる奴に認定されたんだ、俺」
「いや、死ねとか思ってないって。ただほら、悪運強そうだなって。てかもうゲロった俺が言うのもなんだけど、なんで俺だって思ったんだよ」
「勘?なんか、若干の作為的なものを感じて…というか。藤宮が一番動きやすそうだなって」
「勘かよ。なんだ。すっとぼけとけばよかった」
「お前さぁ。……多分、予備教室って呪いがあるとかそういうのは本当になくて、ただたまたま”ボールペン”と”踊り場の鏡”の関係に似ちゃってたんだと思ってるんだけど。それで今回変なことになったというか」
「踊り場?八千賀、お前何言ってんの?」
「え、踊り場の鏡って関係ない?」
「………知らねぇよ。俺は、ただ……俺……」
「……予備教室の鏡割れたじゃん。そん時、俺たちの後ろにいたお前の顔が映ってたよ。すごい笑顔だったな」
藤宮が唐揚げ弁当を落とした。きっちりラップに包んであったため、弁当の中身は飛び散ることはなかったがミニカップに入ったきんぴらごぼうと漬物がプラスチック容器の中で散乱した。
落とした事に気がついていても拾う気力がないのか、それとも動けないのか、立ったままで一向に膝を曲げない藤宮のかわりにしゃがんで弁当を拾った。はい、と渡すと、藤宮の右の口の端が上がった。紙を乱暴に潰したみたいに、藤宮の表情はくしゃくしゃになった。それなのに、口角は右端しか上がっていない。
「ほ、本当に死ねとか思ってねぇよ。でもさ、お前さぁ……。そんだけいいもん持ってんだから、少しぐらい悪いことあってもいいだろ。それに、なんで遠野は守んのに俺のことは助けてくんねぇの?」
「どういう意味だよ」
「俺だって呪われてんのに、遠野は可哀想で俺はさっさと諦めて死ねってことか?おかしいだろうが。俺にはお前みたいに、かわりに矢面にたってなんでもしてくれるやつはいないんだから、別の人間に押し付けてもいいだろ」
「……」
「顔が良い奴は顔が良い奴を助けて、それで終わりだもんな。お前って、遠野の面が良くなきゃ絡んでないだろ。そうじゃないなら、俺を助けないのはおかしい」
「……さすがに死ねって思われてるやつのために死ねないし、ていうかごめん。本当に何言ってんのかわかんないわ」
「偽善者」
「藤宮、落ち着けって。……つついてごめん」
「と、遠野のために死ねるなら俺のために死んでくれてもいいだろ。同じだろ。同じじゃなきゃおかしい」
「何もおかしくないだろ」
横からすっと手が伸びてきて、「ごめん」と謝ろうとした口元を手で隠された。ここ最近、八千賀にこのような仕草をする人は一人しかおらず、そもそもこの安心感のある声音の持ち主も一人しか知らない。
奏依、と呼ばずに視線を投げる。ぽん、と背中を軽く叩かれて思わず遠野の後ろに隠れるように下がった。本当は遠野に笑って「なんでここにいんの?」と明るく聞きたかったのに、それは出来なかった。珍しく、本当に珍しく八千賀は口をぎゅっと閉じた。
「同じ呪われ者同士なら言うけど、人に移そうとか思わない。一人で耐えろ。死ぬ時は死ぬ時だろ。足掻いてもいいけど暴走はするな」
「……は?」
「助けて欲しい、ということが身代わりになれってことなら、誰も藤宮のこと助けてやれない。ましてやゆうは誰の身代わりにもならない。お前のかわりも、俺のかわりにも。人の優しさにつけ込んで同情心を煽るな。酷いことを言ってる自覚がないのか?ゆうが俺のために何かをしてくれるのはゆうの優しさだ。それは他人が強要すべきじゃない。ゆうの優しさはゆうが自分で選んで与えるべきものだ。全員がもらえるものじゃないだし、欲しければそれなりの態度にしたらいい。それに」
遠野が藤宮に数歩近づく。自分よりも頭一つ高い遠野から見下ろされて圧倒されたのか、八千賀がこの話を持ち出した時点で許容量を超えたのか、藤宮の弁当がガタガタと震えている。
「俺と他人を同じように扱われたら困る。ゆうに特別扱いされるのは俺だけでいい。これは差別じゃない。区別と特権だ。逆恨みもいい加減にしろ」
藤宮と一緒に弁当を購入しようと考えていたのだが、タイミングを逃してしまった。けれれど今さら藤宮がいる弁当のスペースに行く気になれず、八千賀は結局残っているパンをいくつか購入し、遠野を連れて空き教室へと向かった。今日は椎名や丘と食べる予定だったが、二人はもう慣れたのか突っ込むのも面倒になったのか、「二人だけで食べてくる」と言っても軽く返事をするだけだった。もしかしたら八千賀の気分が下がっているから、気を使ったのかもしれない。
空き教室に着いてから、すぐに八千賀は遠野の身体に肩をゴンとぶつけた。遠野はやや考える素振りを見せると、くるりと振り向いて唐突に八千賀を抱きしめた。
「うわ」
「……嫌だったか?」
「んん、全然。このままがいい」
「ん」
遠野の体温は高めだ。だから冬に彼に触れると眠くなって、なんだか胸も暖かくなる。惚れた欲目だろうと言われればそれまでだ。
「……やっぱ藤宮って俺のこと死んでいいって思ってんのかな」
「もしかしたら本当にそうは思ってないのかもな。まだ実感がないんだろう。呪いで人が死ぬってことがどういうことかわからないんだ。呪いを移すってことがどういうことかも」
「……俺、今回ト……んんさんの顔とか”持って行け”の顔とか見たけど、割れた鏡に映った藤宮のあの顔が一番怖かった。俺が死ぬのを喜んでた顔だよ。やー、結局人間が怖いって本当なんだな!」
努めて明るく告げる。遠野は少し目尻を下げると、両頬を挟んで額に唇を寄せた。
「……積極的じゃん」
「トオノさんといい藤宮といい、ゆうが勝手に消費されるだろ。こうやって見せつけてた方が結果いい」
「消費って」
「みんな自分勝手にゆうを欲しがってる。……俺も人の事言えないけど」
ちゅ、と何度か口付けが鼻先に落ちてくる。この時間の西館は人が疎らとはいえ、全く来ないわけではない。窓もカーテンなど閉めていないので、覗こうと思えば覗けるだろう。
しばらくちゅうちゅうと子供がするみたいに頬やら鼻やらを吸われていたが、唐突に遠野が離れた。さぞ晴れやかな顔をしているのかと思いきや、何故か彼は肩を落としている。
「……悪い」
「突然?なになに、なんで謝ってんの?」
「俺が怖くないか?」
「ど、どのへんが…??なんで急にネガってんの?」
「……俺もトオノさんと藤宮と変わらない。自分で勝手にお前を欲しがってる。お前が、好きだ。お前の優しさにつけ込んでるのは、俺も変わらない。結局お前を振り回して、傷つけたし」
あれだけ散々人を貪っていたくせに、遠野はみるからにしょんぼりと落ち込んでいる。八千賀が言えたことではないが、人目を憚らず場所も気にせず、人を吸った後で一人で勝手に落ち込まれるとこっちも呆れてしまう。
─────けれど、まぁ。これが遠野なのだろう。
案外気が弱くて、落ち込みやすくて考えやすい。消極的。すぐに自己完結をする。そのくせ強がりで頑固。
「あのさ。俺、奏依ことが好きだから奏依のかわりなら死んでもいいって思ってるよ。けど、そもそも奏依は俺に死んでくれなんて絶対言わないだろ」
パチン、と乾いた音がするほど勢いよく遠野の頬を挟んだ。空気音が大袈裟だっただけで、実際痛くはないと信じたい。八千賀の両の手のひらはそんなに痛くないからだ。
遠野はぱちりと瞬いて、言われたことを咀嚼し、理解したのか忠犬のようにこくんと素直に頷いた。
「だから他のやつと一緒とかいうなよ。お前なぁ、それは本人が言っちゃいけないやつだから。奏依が怖かった時なんて一度もないし、俺たちは相思相愛!」
遠野は黙って聞いていたが、いいか?と聞くとこれまた恐ろしく素直に縦に首を振った。それでも自信がなさそうにしているのは、顔をみればすぐにわかる。視線がやや下を向いて、俯き気味のために前髪が落ちている。遠野は緊張する時にきゅっと唇を小さく噛み締めるので、これは確実にまだまだ落ち込んでいる。八千賀にははっきりとわかった。
「だから、奏依はずっと俺のゆうって言い続けてればいいんだよ!」
なにせ、遠野が好きなので。
「よぉ。遠野と遠野のゆう」
「……………」
「おはよ〜遠野、遠野のゆう〜」
「…………………………」
「おはよ八……遠野のゆう〜」
「……………………………………」
「そ、そこまでにしてやれよ……」
ガン無視を決め込んでいた遠野がついに顔をしかめ、外界シャットダウン用の小説を閉じたので八千賀もついに口を出すことにした。
教室に入ってきてからわざわざ遠野に挨拶をしに来た椎名や丘、それから遠くで軽く挨拶をするだけだが、実際は確信犯のクラスメイト全員から隠すように両手を広げて遠野の前に立つ。
「だって俺のゆうって教室内で宣言したのコイツだろ」
「遠野ってそんなに八千賀のこと好きなんだね」
「……………好きだ」
「あ、そこは素直に言うんだ」
文化祭から二週間、こんな風であった。
例の文化祭二日目は、あのあとあっけなく終わった。
予備教室での騒動と、誰もいない放送室からの放送に騒然となり、不審者が校内にいるかもしれないとすぐに現場は忙しなくなり、安全性を考えてその日はお昼に文化祭が終了してしまった。本来なら16時に終わり、あとは閉会式となるので大幅な予定の変更である。なお閉会式も中止となり生徒達も帰宅となった。文化祭二日目の振り返りはなしだ。
”遠野の呪い”はもはや撤回も弁護もできないところまで膨れ上がった。
三年生の謎の怪我、四組の集団ヒステリー、そして八千賀の自殺未遂。これら全てが遠野が操っていることになっている。この間、遠野はエスパーじゃないかとSNSでまことしやかに囁かれていると聞いたので、さすがに吹き出してしまった。設定が盛りに盛られている。
傍からから見れば、四組の怪奇事件は集団ヒステリーで間違いないだろう。好奇と興奮と、少しの恐怖で四組全体が今や腫れ物扱いにも似た立ち位置だ。
けれど文化祭のあの日、全校生徒どころか校舎にいた人達全員が、おそらくトオノさんらしい声を聞いた。あれは「集団ヒステリー」では片付けられないだろう。放送委員はその時間は活動をしておらず、いたのは放送部の面々だ。彼らはラジオを流すために代わる代わる放送室にいたが、女の人など来ていないという。いまだに解決していない不可解な現象だ。
そして問題の四組と言えば、意外なことに遠野を受け入れたようだった。
「おはよ!遠野のゆう!遠野!」
─────受け入れたというより、新しい遠野の接し方を学んだと言うべきか。
よほど「俺のゆうだ」発言が気に入ったのか、八千賀は最近めっきり名前を呼ばれなくなった。かわりに「遠野のゆう」が代名詞となっている。
「おい、遠野のゆうが嫌がってんぞ。遠野はいいのかよ」
「……そっちがやめろって言っても呼ぶからだろ。それに嫌がってない」
「遠野のゆう、嫌がってないの?」
「嫌がってんじゃなくてあんまり奏依で遊んでやるなって……」
やけに全員ノリがいいのは、逆にメーターが振り切れて開き直っているのだろうか。
「そういえば球技大会、中止になるかもだってね」
「またガラス割れるかもしんねぇしな」
「ガラスが割れたのは俺のせいじゃない」
それは嫌味では。椎名のちくっとした言い方に八千賀の方がそわそわとして、なんてフォローをすべきかと考えていると遠野がすっぱりと言い切った。少しだけ語気が厳しめだったが、怒ってはいないようである。
肩透かしを食らったのは八千賀だった。
この二週間、明らかにクラスと遠野の距離感が変わった。遠野は相変わらず人を避けがちではあるはずなのに、淡々としつつもクラスメイトと話はするし、クラスメイトもなんやかんや遠野をいじっている。弄りにたいして遠野は本気で怒ることはなく、多少の煩わしさは見せていたとしても、彼の態度にクラスメイトが辟易することはなかった。
「お前、やるならバスケやれば?タッパあるし」
「空いてるやつでいい」
「いいじゃん。バスケやりなよ。モテるよ〜」
「そういうのはいらないし興味がない」
「でも遠野のゆうは遠野がモテてるのが好きだよ」
「………」
遠野がおそろしく真面目に思案し始めた。同じ無言であるが、無視ではなく思考を張り巡らせ、結論を導き出そうとしている無言である。
「ゆう、そうなのか?」
「え?」
「俺がモテてるのが好きなのか」
「あ、うん。そうだな……?」
「ちゃんと言って欲しい」
「い、言う?」
「そう。俺が好き?」
今現在、遠野は机に座っていて八千賀と椎名、丘は立っている。八千賀は机の上にカバンをおいていて、自分の席の椅子を引っ込ませて遠野の目の前にいた。だから遠野が少しだか身体を八千賀の方に寄せ、目を合わせようとすると必然的に上目遣いになる。
「っ……」
真っ直ぐに見つめられて、思わず視線が泳いだ。どうやら教室の空調が上手く機能していないらしい。やたら手が汗ばむし頬に熱が集まっている。
「す、好き……」
「もう一回」
「奏依が、……好き」
遠野がするりと指を絡めた。うん、と低くて落ち着いた声が頷いて、その唇から「嬉しい」と小さく零れた。
顔を見ることが出来ず、やや俯き気味で遠野の指に視線を合わせていた。決して顔を合わせたくない、というわけではないがちゃんと遠野に分かっているだろうか。それとも、顔を逸らしたから嫌われてしまったと考えるだろうか。
少々態度が悪かったかもしれない。やや反省をした八千賀がぱっと顔を上げ、そして窓の外にいるトオノさんと目が合った。
遠野の席は窓側なので、彼に向き直すと必然的に広々とした窓が景色として視界に入るのである。
髪を逆立てる、とはこのことを言うのだろう。平素から乱れ気味だったとはいえ、もはや血でも通っているかのように彼女の髪は膨らみ、前髪も顔にかかっている。隙間からのぞく彼女の形相は穏やかではなかった。血走った眼球が零れそうなほど大きく見開かれ、結ばれた横一文字の唇は噛み締められている。眉はこれでもかというぐらい逆八の字で、眉間に影を作っている。生気のない青白かった肌は今では赤くて黒く、ある意味では生気があるとも言えだろう。
「ゆう」
遠野は八千賀の視線の先のトオノさんに気がついているはずだ。しかし彼は、夏休み前であれば明らかにトオノさんを意識して警戒するように背を向けていただけであったのに、今はただただ八千賀しか見ていない。結果背を向けているだけであり、そこにトオノさんへの意図は絡んでいなかった。
「っあ、うん。悪い。えっと、球技大会だろ?」
「違う。お前が俺の事が好きかどうかって話だった」
「えっ、そんな話だった?バスケの話してたじゃん」
「ゆうは俺がモテてるのを見るのが好きだって聞いた」
「うん、そうだな。……さっきこの流れやったよな?よし、じゃあもう満足しただろ。奏依は……」
「してない」
「えっ」
「してない。もっと言って」
「な、何を?」
「好きって」
「も、もう十分だろ」
いつの間にか遠野が立ち上がっていて、八千賀のすぐ近くの距離にいた。ほんの少し動けば、遠野の前髪が八千賀の肌に触れるかもしれない。
「もう一回」
「も、もうよくない?ダメ?えっと……、す、好き………」
「振った俺らも悪いけど、こいつら一生これやってね?」
「そろそろ先生来るんじゃない〜?」
こういう感じであった。
「遠野の性格がマシになったからだろ。前まですげぇギスギスしてたけど、八千賀とも普通に話すようになったし」
「えっ俺?」
「そうそう、八千賀。なんかお前らも妙にギクシャクしてるっていうか、無理してたじゃん。だからこっちだってなんとなく関わり辛いよな」
「あー……。そうだったんだ。全然見えてなかった」
「てか遠野に関してはお前もピリピリしてたし。逆に遠野に触んなって感じだったじゃん」
図星かもしれない。否定はしきれなかった。
お昼休みに藤宮を誘って購買に来ていた。清進高校は購買の店舗が備え付けられていたり、食堂や学食といったものはないが、その代わり昇降口近くの多目的室でパンやお弁当を販売している。
八千賀は結構な頻度で購買を利用しているが、藤宮もしかりである。今回は八千賀が藤宮を誘ったのだった。
「ふぅん……。まぁ、奏依が浮いてないならそれでいいんだけど……」
「……八千賀、やっぱり遠野が最優先なんだな。嫌とかキモイとかねぇの?」
「あったら最初から絡んでないし、そもそも俺から絡み始めたし」
「確かにな。そういえば、いつの間にか名前呼びだよな。やっぱ付き合うと下の名前になったりすんの?」
「それは人それぞれじゃね?」
だが八千賀が遠野のことを「奏依」と呼ぶようになったのは理由がある。
トオノさんに全面降伏をしたからだ。
具体的に言えば、トオノさんとの縁を切るためである。
校内放送で流れた女性のすすり泣きが、どういう存在で何がどうしてそうなったのかは四組でさえ理解していない。きっと彼女の「悔しい」の意味を正しく受け取れたのは八千賀と、そして遠野だけだろう。放送室の謎の女はいつまでも不可思議で不可解な、文化祭の七不思議として君臨するに違いない。
けれど八千賀と遠野はしっかり分かっている。
あの日、八千賀が意識を取り戻した時に「奏依」ではなく「遠野」と呼んでいたら、間違いなく八千賀は殺されていた。「持って行け」の仕組んだ飛び降り自殺ではなく、トオノさんに正真正銘呪い殺されていただろう。
たとえあの時に本当に助けを求めた相手が「遠野奏依」であっても関係がない。トオノという名前はトオノさんの事も指すのだから。
遠野の言う通り、八千賀の「好き」は全てトオノさんに向かっていたのだ。そこに八千賀の思惑も感情も関係なければ、現実すらもはやトオノさんにとっては意味をなさない。ただただ「トオノが好き」と何度も繰り返し伝えていた事実があるだけだ。
これも遠野の考えと同じく、トオノさんが怨霊らしく今回の事件を引き起こした可能性はきっとゼロではない。彼女は八千賀が「トオノ」と呼ぶのを待っていて、さらには擬似的な神頼みをすることを望んだ。神頼みをした先の八千賀の運命は、供述した通りだろう。
ただし。
「あのボールペン、持って来たのって藤宮じゃね?」
「……」
藤宮は肯定も否定もしなかったが、経験上何も言わないというのは肯定に近い。食べ盛りの高校生らしく、唐揚げ弁当とカップラーメンを手に取った藤宮は息を吐いた。観念したような、どちらかと言えば軽めの空気だ。
「詳しいことなんてわかんないし、そもそもあれが何なのかも知らないけどさ。もしかして、本当は持って行けって言われたのは藤宮だったんじゃねぇの。なんで俺に押し付けたのかも、知らないけど」
「………八千賀は、漠然と死なないだろうなって」
「それで自分の代わりに死んでくれる奴に認定されたんだ、俺」
「いや、死ねとか思ってないって。ただほら、悪運強そうだなって。てかもうゲロった俺が言うのもなんだけど、なんで俺だって思ったんだよ」
「勘?なんか、若干の作為的なものを感じて…というか。藤宮が一番動きやすそうだなって」
「勘かよ。なんだ。すっとぼけとけばよかった」
「お前さぁ。……多分、予備教室って呪いがあるとかそういうのは本当になくて、ただたまたま”ボールペン”と”踊り場の鏡”の関係に似ちゃってたんだと思ってるんだけど。それで今回変なことになったというか」
「踊り場?八千賀、お前何言ってんの?」
「え、踊り場の鏡って関係ない?」
「………知らねぇよ。俺は、ただ……俺……」
「……予備教室の鏡割れたじゃん。そん時、俺たちの後ろにいたお前の顔が映ってたよ。すごい笑顔だったな」
藤宮が唐揚げ弁当を落とした。きっちりラップに包んであったため、弁当の中身は飛び散ることはなかったがミニカップに入ったきんぴらごぼうと漬物がプラスチック容器の中で散乱した。
落とした事に気がついていても拾う気力がないのか、それとも動けないのか、立ったままで一向に膝を曲げない藤宮のかわりにしゃがんで弁当を拾った。はい、と渡すと、藤宮の右の口の端が上がった。紙を乱暴に潰したみたいに、藤宮の表情はくしゃくしゃになった。それなのに、口角は右端しか上がっていない。
「ほ、本当に死ねとか思ってねぇよ。でもさ、お前さぁ……。そんだけいいもん持ってんだから、少しぐらい悪いことあってもいいだろ。それに、なんで遠野は守んのに俺のことは助けてくんねぇの?」
「どういう意味だよ」
「俺だって呪われてんのに、遠野は可哀想で俺はさっさと諦めて死ねってことか?おかしいだろうが。俺にはお前みたいに、かわりに矢面にたってなんでもしてくれるやつはいないんだから、別の人間に押し付けてもいいだろ」
「……」
「顔が良い奴は顔が良い奴を助けて、それで終わりだもんな。お前って、遠野の面が良くなきゃ絡んでないだろ。そうじゃないなら、俺を助けないのはおかしい」
「……さすがに死ねって思われてるやつのために死ねないし、ていうかごめん。本当に何言ってんのかわかんないわ」
「偽善者」
「藤宮、落ち着けって。……つついてごめん」
「と、遠野のために死ねるなら俺のために死んでくれてもいいだろ。同じだろ。同じじゃなきゃおかしい」
「何もおかしくないだろ」
横からすっと手が伸びてきて、「ごめん」と謝ろうとした口元を手で隠された。ここ最近、八千賀にこのような仕草をする人は一人しかおらず、そもそもこの安心感のある声音の持ち主も一人しか知らない。
奏依、と呼ばずに視線を投げる。ぽん、と背中を軽く叩かれて思わず遠野の後ろに隠れるように下がった。本当は遠野に笑って「なんでここにいんの?」と明るく聞きたかったのに、それは出来なかった。珍しく、本当に珍しく八千賀は口をぎゅっと閉じた。
「同じ呪われ者同士なら言うけど、人に移そうとか思わない。一人で耐えろ。死ぬ時は死ぬ時だろ。足掻いてもいいけど暴走はするな」
「……は?」
「助けて欲しい、ということが身代わりになれってことなら、誰も藤宮のこと助けてやれない。ましてやゆうは誰の身代わりにもならない。お前のかわりも、俺のかわりにも。人の優しさにつけ込んで同情心を煽るな。酷いことを言ってる自覚がないのか?ゆうが俺のために何かをしてくれるのはゆうの優しさだ。それは他人が強要すべきじゃない。ゆうの優しさはゆうが自分で選んで与えるべきものだ。全員がもらえるものじゃないだし、欲しければそれなりの態度にしたらいい。それに」
遠野が藤宮に数歩近づく。自分よりも頭一つ高い遠野から見下ろされて圧倒されたのか、八千賀がこの話を持ち出した時点で許容量を超えたのか、藤宮の弁当がガタガタと震えている。
「俺と他人を同じように扱われたら困る。ゆうに特別扱いされるのは俺だけでいい。これは差別じゃない。区別と特権だ。逆恨みもいい加減にしろ」
藤宮と一緒に弁当を購入しようと考えていたのだが、タイミングを逃してしまった。けれれど今さら藤宮がいる弁当のスペースに行く気になれず、八千賀は結局残っているパンをいくつか購入し、遠野を連れて空き教室へと向かった。今日は椎名や丘と食べる予定だったが、二人はもう慣れたのか突っ込むのも面倒になったのか、「二人だけで食べてくる」と言っても軽く返事をするだけだった。もしかしたら八千賀の気分が下がっているから、気を使ったのかもしれない。
空き教室に着いてから、すぐに八千賀は遠野の身体に肩をゴンとぶつけた。遠野はやや考える素振りを見せると、くるりと振り向いて唐突に八千賀を抱きしめた。
「うわ」
「……嫌だったか?」
「んん、全然。このままがいい」
「ん」
遠野の体温は高めだ。だから冬に彼に触れると眠くなって、なんだか胸も暖かくなる。惚れた欲目だろうと言われればそれまでだ。
「……やっぱ藤宮って俺のこと死んでいいって思ってんのかな」
「もしかしたら本当にそうは思ってないのかもな。まだ実感がないんだろう。呪いで人が死ぬってことがどういうことかわからないんだ。呪いを移すってことがどういうことかも」
「……俺、今回ト……んんさんの顔とか”持って行け”の顔とか見たけど、割れた鏡に映った藤宮のあの顔が一番怖かった。俺が死ぬのを喜んでた顔だよ。やー、結局人間が怖いって本当なんだな!」
努めて明るく告げる。遠野は少し目尻を下げると、両頬を挟んで額に唇を寄せた。
「……積極的じゃん」
「トオノさんといい藤宮といい、ゆうが勝手に消費されるだろ。こうやって見せつけてた方が結果いい」
「消費って」
「みんな自分勝手にゆうを欲しがってる。……俺も人の事言えないけど」
ちゅ、と何度か口付けが鼻先に落ちてくる。この時間の西館は人が疎らとはいえ、全く来ないわけではない。窓もカーテンなど閉めていないので、覗こうと思えば覗けるだろう。
しばらくちゅうちゅうと子供がするみたいに頬やら鼻やらを吸われていたが、唐突に遠野が離れた。さぞ晴れやかな顔をしているのかと思いきや、何故か彼は肩を落としている。
「……悪い」
「突然?なになに、なんで謝ってんの?」
「俺が怖くないか?」
「ど、どのへんが…??なんで急にネガってんの?」
「……俺もトオノさんと藤宮と変わらない。自分で勝手にお前を欲しがってる。お前が、好きだ。お前の優しさにつけ込んでるのは、俺も変わらない。結局お前を振り回して、傷つけたし」
あれだけ散々人を貪っていたくせに、遠野はみるからにしょんぼりと落ち込んでいる。八千賀が言えたことではないが、人目を憚らず場所も気にせず、人を吸った後で一人で勝手に落ち込まれるとこっちも呆れてしまう。
─────けれど、まぁ。これが遠野なのだろう。
案外気が弱くて、落ち込みやすくて考えやすい。消極的。すぐに自己完結をする。そのくせ強がりで頑固。
「あのさ。俺、奏依ことが好きだから奏依のかわりなら死んでもいいって思ってるよ。けど、そもそも奏依は俺に死んでくれなんて絶対言わないだろ」
パチン、と乾いた音がするほど勢いよく遠野の頬を挟んだ。空気音が大袈裟だっただけで、実際痛くはないと信じたい。八千賀の両の手のひらはそんなに痛くないからだ。
遠野はぱちりと瞬いて、言われたことを咀嚼し、理解したのか忠犬のようにこくんと素直に頷いた。
「だから他のやつと一緒とかいうなよ。お前なぁ、それは本人が言っちゃいけないやつだから。奏依が怖かった時なんて一度もないし、俺たちは相思相愛!」
遠野は黙って聞いていたが、いいか?と聞くとこれまた恐ろしく素直に縦に首を振った。それでも自信がなさそうにしているのは、顔をみればすぐにわかる。視線がやや下を向いて、俯き気味のために前髪が落ちている。遠野は緊張する時にきゅっと唇を小さく噛み締めるので、これは確実にまだまだ落ち込んでいる。八千賀にははっきりとわかった。
「だから、奏依はずっと俺のゆうって言い続けてればいいんだよ!」
なにせ、遠野が好きなので。
