恋の障害が幽霊なんですけど







持って行かなければならない。

昨日は××が死にかけたから。今度は自分が持って行く番なのだろう。そのようにクラスで決まってしまった。
八千賀は階段を登りながらぼんやりと考えた。昇降口から上履きに履き替え、クラスに向かう登校中の生徒達の間をぬっている最中だった。しかしふと、はてそう言えば何を持って行くのだろうかと疑問が芽生え、しばらく足を止めて踊り場の天井を見上げた。天井には蛍光灯が吊るしてあり、ちょうど八千賀の目の前には大鏡が壁に貼りつけてある。大鏡がある踊り場はここだけだ。そこでようやく思い出した。
◻︎が遺した何の変哲もないボールペンだ。あれをどうにかしなければならない。
◻︎の遺体を見つけたのは八千賀だった。あれ、そうだったっけ。そのはずだ。そうだったと思う。うまく頭が働かず、確信が持てない。それでも脳みそを絞るみたいに記憶を抽出しようと一人で躍起になってみる。
たしか、たしかそう、委員会の仕事があるからと、まだ誰もいない校舎を歩いているとぶら下がっている蛍光灯に縄をかけ、同じく◻︎本人もぶら下がっている姿を目撃した。首から下が鏡にうつり、重力に逆らわずにだらりと全てを落としていた。
◻︎が死んだ理由は全員知っている。だから始めは○が階段から落ちて怪我をして圧縮されたようにぺしゃんこになったし、△は下校中に自転車に突っ込まれて首がぽろりと取れてしまった。昨日の××はボールペンを持ちかえると宣言するまで校庭で◻︎と同じような目にあって、帰り際に公園の遊具に縄をかけたらしい。
八千賀の胸ポケットにはボールペンが一本入れてある。下駄箱に入っていたのを持って来たのだ。本当なら××が持っているはずだが、どうして八千賀の下駄箱に入っていたのかはわからない。誰かが忍ばせたのか、あるいはボールペンが一人でに下駄箱まで歩いてきたのかもしれない。
廊下の窓は全て開けられているが、風が入ってくるのはごくたまにしかない。じわじわした暑さが不快で、歩く速度が遅くなる。そもそもこの学校は人数が多すぎるのだ。

通い慣れた教室にたどり着き、引き手に手をかけたところで​、今度こそ本当に”思い出した”。

「っ……!?」

声が出ない。八千賀はすりガラスの教室のドアの前で棒立ちになり、全身を硬直させた。この身体は八千賀のものなのに神経が命令を無視している。引き手に伸びた手は引っ込めないし、足は前に出すことは出来るが後ずさりも回れ右も出来ない。
「っ、……っ!」
はくはくと口を動かす。声も出ずに唇だけ上下させる様は傍から見れば魚のようで滑稽だろう。しかし本人にはそれを笑う余裕は無かった。

ここはどこだ。見覚えのない校舎だ。

八千賀は清進高校の文化祭のお化け屋敷でお化けをしていたはずである。それで、鏡の中の少年と目が合って​……。
そこからの記憶がない。
混乱が収まらず、額から汗が滴り落ちる。今すぐ逃げなればならないと指先や足先の末端まで身体中が警告を出している。それなのに、八千賀の腕は意思に反して動き、教室のドアを引いた。

縦横と規則正しく整列された机に生徒たちが座っているが空席が目立つ。けれど座っている全員が八千賀を見ていた。穴が空いたような、真っ黒な瞳がひとつ残らずこちらに向けられている。

「持って行くよな?」

念を押すようにクラスの中の誰かに問われる。首を水平に振りたかったが、頭がかくんと縦に動いた。
瞬間、わぁっと半狂乱にも近い歓声が響いた。男子も女子も、全員涙を涙を流して喜んでいる。とある生徒などは立ち上がって、机の上でぴょんぴょんと飛び跳ねていた。
けれど八千賀は喜べない。

「持って行くよな?そうだよな?やったあ!持って行け!」

違う。持って行かない。そもそも八千賀はボールペンを持っていないし、あれは遠野が供養をしたはずだ。この件は解決したのではなかったのか。
八千賀の混乱などないように足はどんどん進んでいく。まっすぐに、開け放たれている窓へと向かっている。
じわじわと頭のてっぺんが痺れてきて、心臓の動きが早い。鷲掴みにされた心臓を耳元に宛てがわれていると錯覚するほど、体内の心音が激しく鳴り響いている。
駄目だ駄目だ。このまま歩くと、洒落にならないことになる。きっと死ぬ。”これ”は”そういうこと”だ。終焉の一幕だ。

助けて欲しい。

そう叫びたくても口は動くのに喉は振動しない。息は吐けるのに音が転がり落ちない。
ふと、開けられている窓に目が行った。窓。透明。反射。写る。犠牲。爪。
窓まであと十歩の距離だ。五、四、三歩の距離。手が窓のサッシに両手がかかり、身体がぐっと前に倒れる。風が頬を撫でた。いやに優しくて生々しくて、そして柔らかかった。

息を深く吸い、そしてようやく助かる術を思い出した。
​──────名前を呼べ!























































「奏依!!」

ぐわん、と脳が一回転するような耳鳴りが鼓膜の内側で鳴り響いた。腹部の辺りをぐっと引っ張られる感覚のあと、身体がふわりと浮き、バランスを崩して頭から倒れる。甲高い音は悲鳴なのか耳鳴りなのか判断はつかなかった。
「ゆう!!」
「っ……、!!」
衝撃に耐えるために目を瞑っていると、聞きなれた声がして八千賀の瞼が勢いよく持ち上がった。
「………、と、遠野」
眼前には遠野の顔があった。八千賀自身も息を乱しているが、遠野はその比ではない。顔を真っ青にして、額からはいくつか汗がしたたり落ちている。暑さのせいかもしれない。
八千賀は遠野に後ろから抱きしめられている形で、床に倒れ込んでいた。起き上がって顔をぐるりと見渡すと、何人かが遠野と八千賀を囲っていて、少しだけ冷静になれば外と内からのざわめきが一気に耳に流れ込んできた。

四組の作ったお化け屋敷だ。

ダンボールで作った背の高い仕切りによる迷路と、照明を落としただけではない意図的な、けれどチープな暗さ。だが八千賀の目の前の窓は開け放たれていて、生ぬるいどころかドライヤーの熱風よりも高いと思わせる熱が、冷房の効いている室内をぐるりと一周していた。遮光カーテンは何度か風によって膨らみ、そしてゆっくりと萎んでいる。
「あ、あれ、俺、何……?」
「嫌な予感がして、教室の前に来てたら悲鳴が聞こえた。間に合ってよかった」
「間に合って、って……」
「窓から飛び降りようとしていた」
びゅう、と強い風が吹いて再びカーテンが膨らんだ。汗がどっと吹き出たのは、外気の熱が身体を舐め回すように絶え間なく襲ってきてくるからだろうか。

「持って行くんじゃなかったのか!?」

声。声がした。聞き慣れない声の聞き覚えのある台詞である。隠しきれていない怒りを含んだ調子で、ずいぶんと暴力性のある吐き捨て方だった。
今教室にいるのはお化け役として近くにいた四組のクラスメイトと、お化け屋敷に遊びに来た他校生が二組ほどだった。他校生は突然の怒声が、一体どこから聞こえてくるのかとおっかなびっくりの様子で必死に辺りを見渡していたが、クラスメイト達は皆一様に顔を青くして、最初は教室の前方のドアを見た。
そしてすぐに八千賀の方へ視線を向けた。もっと厳密に言えば、八千賀の横である。なお八千賀と遠野を囲うように見ている生徒達にとっては後方で間違いはない。
声は鏡から聞こえてきた。
遠野に寄りかかりながら八千賀は、上げる悲鳴も叫び尽くしたらしい、とにかく石膏像のように指先までぴたりと固まってしまった生徒と一緒に、自分の横を振り返った。

真っ黒い瞳がいくつも八千賀を見ていた。ガラス越しだとでも思っているのか、白いシャツに黒色いスラックスの男子生徒と紺のジャンバースカートの女子生徒の複数人が鏡に手をついてこちらを覗き込んでいる。

「持って行くんだよな?」
「持って行かない!」

いやに寒くて、やけに喉が乾いて、ごくんと唾を飲み込みながら首を横に振った瞬間だった。

「っ、ゆう!」

再び遠野が八千賀を抱き込んだ。目の前が遠野の腕に塞がれ、一瞬だけ真っ暗になる。けたたましい音がした。鋭利なものが壊れたような、砕けたような、そんな高い音だった。方々から男女関係ない悲鳴が上がり、その絶叫が収まるころにようやく八千賀は覚醒して遠野の身体から顔を出した。
「遠野、大丈夫か!?今の何が……」

「触るな!」

遠野が突然叫んだので、八千賀は一瞬怯んでしまった。しかし​遠野は、八千賀ではない場所を見ている。
遮るものがなくなったため、教室は随分と明るい。頭上で輝く白い太陽の光が、床に散らばっているガラスを明かりのように輝かせている。
人形の後ろにあった、予備教室の大鏡が割れて散乱していた。
「二度とゆうに近づくな!」
たとえ粉々になっていようとも、役割を忘れていない鏡は教室を写し出していた。天井にある蛍光灯、ガムテープに貼りつけて吊るされているビニールテープ。八千賀と遠野を覗き込んでいる生徒。そして、天井にはいないはずなのに鏡の中だけに存在している女の顔。
女の顔は、一言で言えば「凹んでいる」というふうだった。歯を食いしばっているが真横にぐっと引き伸ばされ、目尻と眉がこれでもかと言うほど下がっている。頬骨が浮き出ており、眉と眉の間にはぼこぼことした山がいくつかできている。

「俺のゆうだ!お前がどう陥れようとしても、絶対に渡さない!」

教室が静まり返る。お化け屋敷の効果音として、恐ろしげなフリー楽曲が数箇所から聞こえてはいるが、それでもこの場の雰囲気を説明するなら「静寂」である。
「遠……」
「絶対に渡さない。ゆうが好きなのは俺だ!」
ぐっと肩に力をいれ、引き寄せられる。頭が胸にとんと置かれ、外界を遮るように全身で抱きしめられる。遠野の息はまだ荒く、八千賀の額に自身の額を押し付けるようにぐっと身体を丸めた。

窓の外に溢れている校舎を行き交うざわめきも、教室内のBGMであるフリー楽曲でさえも痛いほどの静けさに飲み込まれていた中、校内放送用のスピーカーから突然雑音が流れた。
きぃい、とハウリングのような不快な音が何度か繰り返されたあと、今度はしくしくと女性のすすり泣く音が校舎中に響いた。

そしてきっと、清進高校にいる在校生も教師も他校生も、遊びにやってきた地元の子供たちも全員がその女性の声を聞いただろう。

『あぁ、悔しい。今度は名前を呼んでくださいませ』