恋の障害が幽霊なんですけど

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たった一票の差で謎解き脱出ゲームではなくお化け屋敷に決まった時、八千賀は普段は冷静を装っている遠野の目がやや丸くなり、かと思えばすぐに視線を下げて右手の人差し指が机を引っ掻い。なにせ遠野のことが好きなので。そしてこれは確実に「嫌だ」と思っている態度と顔だ。八千賀にははっきりとわかった。
なにせ遠野が好きなので。


幸運にも好きな人の真横という、片思いにはありがたい席をくじ引きで引き当てた瞬間に八千賀は大袈裟に腕を上に上げて騒いだがこの喜びは窓際の一番後ろの席になったからだとクラス中は思ったらしい。「っしゃあ!」と唸るんだが叫ぶんだがすると、その時に後ろの席だったクラスメイト​────彼は残念ながら真ん中の列の前から二列目だった​────に頭を叩かれた。「うるせぇ!嫌味か!」と忌々しそうに吐き捨てられ、ついでに軽く机の足も蹴られた。野蛮なことこの上ない。しかし八千賀はたった今起きた奇跡に随分と心が広くなっていたので、笑顔でうんうん頷くだけにした。この喜びに比べたら、持たざる者の嫉妬などそよ風の如く。まるで蚊の……いや、蚊は結構うざいのでこの例えはやめにしておこう。なんにせよ、ちっとも痛くない。
そして件の遠野はというと、やや眉を寄せながら「そんなに後ろが良かったのか」と席を運んでいる最中に、ほとんど独り言に近い声量で、八千賀に尋ねているのかも分からない自己完結に近い言葉を呟いた。
手足の長さ故か、肌の白さ故か、校内一の身長のせいか、はたまた物とも人とも視線を合わせようとせずにいる性格故か、浮世離れした遠野が椅子をひっくり返して机に重ねて集団と同じように移動している姿はなかなか面白い。遠野の雰囲気は人を使う側に見えるからだ。
八千賀はくるりと振り返ると身体を遠野に近づけて囁いた。
「わかんない?」
遠野は答えなかったが、答えは是である。
席替えの前日に、八千賀は遠野に告白をした。そしてはっきりと彼は八千賀を振った。なお通算……数えるのは無駄に脳内の記憶メモリを消費するのでやめた。



さて、黒板に正の字が一本分書き足され、正真正銘謎解き脱出ゲームよりもお化け屋敷が正数の背比べにて勝利を手にした瞬間を渋々と見届けた遠野は、八千賀が横目で様子を伺っていることに気がついたらしい。ばつが悪そうに歯を軽く下唇に押し当ててすぐにすまし顔に戻った。
「……なんだよ」
「んや。そんなに嫌なら俺が言ってやろうか?」
「いい。構うな」

「えー、というわけで、二年四組はお化け屋敷に決まりました!とはいえお化け屋敷は学年につき一クラスしか出来ない決まりなので、他のクラスと被ったらジャンケンで決めることになると思いまーす。んで、明日実行委員会があるので……」

実行委員・藤宮のよく通る声と、クラスの浮き足立ったわぁわぁと四方八方から届く雑談に紛れて遠野に耳打ちをする。とんとわざと肩をぶつけたが、遠野は布越しに触れ合った箇所を流し見るだけで特段反応は見せなかった。
「……もう決まっただろ。蒸し返すなよ」
彼はお化け屋敷が嫌らしいが、それはそれとしてクラスに水を差すのは気が進まないようだ。予想通りだ。けれどそう思っているのはきっと八千賀だけだろう。
クラスメイトも先生も、そして去年遠野と同じクラスだった人も同じ委員会の人もみんな口を揃えてこう言うだろうからだ。

”遠野って自分勝手だし、訳わかんないよな。”

「……てことで、被った時、自分がジャンケンで勝つ絶対の自信がある人は挙手お願いしまーす」
「そんなハードル上げられてやるわけねぇだろ!」
「やっちゃんやりなよ。ジャンケン強いじゃん」
「えー。絶対嫌。めんどいし、てかそんな強くないし。ねー。松岡さんどうー?こないだ後ろの方でさぁ、ジャンケンで盛り上がってたじゃん。なんだっけ?推しのアクスタとかだっけー?」
「はーい。じゃあ俺やる」
八千賀のお行儀よく上に伸びた手に一番驚いたのは遠野で、次に黒板前にいる男女一人ずつの実行委員が顔を合わせて首を振った。
「八千賀絶対負けるじゃん」
「……おい、いいって」
袖を遠野の白い指が引っ張る。案外骨が太くて、関節がしっかりしているが、印象だけはほっそりしているというちぐはぐな手だ。
「いやいや、勝てるから。信じろよ。俺は席替えで後ろを勝ち取ったんだからな」
「後ろの席になったやつ、お前の他にあと五人いるんだけど」
「こいつ根拠が席替えのクジしかねぇ。てかあれジャンケンじゃねぇし」
随分と信用がないが、それも当然である。圧倒的に八千賀はジャンケンに弱かった。というより、全体的に運が悪かった。どんな抽選でも当たったことはないし、掃除でゴミを捨てに行くジャンケンも、ドリンクバーで誰が飲み物を持ってくるか決めるかも、果てには小学校低学年の時の鬼ごっこの鬼決めでさえ八千賀はずっと負け続けてきた。たとえばビンゴでも真ん中以外が空くことすら稀である。大小さまざまなビンゴ大会でリーチを三つも四つも作っている人が複数人いる中、穴の空いていないビンゴ用紙を持ち続けているのには笑うしかなかった。
そんな八千賀であるが、そもそも今回の目的は負けることなのでちょうどいい。そして遠野はその企みをしっかり見抜いたらしく、余計なことはするなと珍しくうっすら睨みすら効かせている。
何も言ってないのにわかるなんて愛だね遠野。愛を込めてウィンクするとついに視線を外された。わかってるわかってる、照れ屋なんだよな遠野。可愛い奴め。
「……八千賀が出るなら普通に俺らでやってくるわ」
「ひどくね?」
「八千賀は……あー、なんか負けていい時に出てきて」
「いやそれいつ??」
正しく負けていい時が今なんだけどな。心中で反論をしつつなんと言おうか考えていると、担任の「はい、じゃあ決まったね」という一声とちょうどチャイムが重なって響いた。






「何するつもりだったんだ」
「いやだから、さくっと負けて来ようかなって。てか遠野は分かってたじゃん。だから袖引っ張ったんだろ」
「構うなって言っただろ」
遠野は緑のお弁当箱をの蓋を開けながら、さも面倒くさそうにため息をついた。対して八千賀は購買で買ったパンが昼食だ。今日は焼きそばパンを購入したが、毎回ここのパンはラップがやたらぐるぐる巻かれていて取るのに苦労するのである。
「え、八千賀やっぱ負ける気だったの?」
「やっぱってなんだよ。やっぱって」
「なに、遠野がお前に負けて来いって言ったん?」
「違う違う。ほら、遠野って怖がりだからお化け屋敷とか嫌だろうな〜、じゃあ俺の出番だなって。俺が勝手に出張っただけ。遠野、俺の事好きになった?気の利くやつって好きにならん?」
机を四つ、二つずつを向かいあわせにして食べている。今顔を突き合わせている四人はクラスの中で、とりあえずつるんでいるメンバーであり、括りで行くと「仲良し」である。あくまで括りという大雑把な概念では、だが。
八千賀は基本的に遠野から距離をとられているので、たいがい無理やり遠野をグループ内に引っ張るのだ。今日も文化祭の話し合いをしたLHR後、さっさと昼休憩の一式を持って教室から出ていこうとした遠野を引き止めた。
冗談ではなく本気で迷惑そうにノーを突きつけた遠野だが、結局は根負けして四人で座っている。
「遠野が」と八千賀が口にすると、うち一人である椎名が少しばかり気分を害したように強い語気で言ったため、あわてて八千賀が首を振り、話題を変えた。おどけた様子で遠野の顔を覗き込むが、遠野は心頭滅却堅忍不抜、八千賀自体が火であるかのように存在をまるっと無視をしている。
「そういえば遠野ってモザイクアートに入れてたね。美術とか好きなんだっけ?」
八千賀の台詞がわざとらしかったのを察したのか、見るに耐えなかったのか、助け舟のようにまた別の話題が振られる。変えてくれたのは丘というクラスメイトで、黒い箸で冷凍エビグラタンのエビを摘んでいた。八千賀が安堵をし、遠野は素直に「別に」と首を振り、さてこの話も終わりになるかなと考えたところでまたもや椎名が低い声音で質問をした。
「本当にお化け屋敷嫌だったのか?」
「あぁ」
「なんで」
「怖いから」
「……」
八千賀も含め、全員「そうだろうな」と納得の沈黙が流れる。遠野が極度の怖がりで、ちょっとしたことでも神経質になるのはクラス中が知っていることだ。
「……まぁ、怖いってもさ。……お前、まさか当日に休むとか言わないよな?」
「さすがにないでしょ〜」
「休む。面倒だし」
「あ?……でも、あー……夏休みの準備には出るよな?」
八千賀達の通う清進高校の文化祭は、夏休みが終わってからそれなりにすぐである。そのためだいたいのクラスが夏休みに準備を進めるのだ。当然、八千賀と遠野のクラスである二年四組も例外ではない。
「やらない。関わりたくないから」
「………」
「……、………買い出しとかでいいなら」
重くなった空気をさしもの遠野も感じたらしい。八千賀以外にはやや態度は軟化するためフォローのように付け加えたが、椎名のしかめっ面は直っていない。
「……」
遠野はそれ以降黙りっきりになり、数分もしないうちに「ご馳走様」と告げると、カバンからスマホと飲み物、それから比較的薄い参考書とペンケースを持ってさっさと教室から出ていってしまった。遠野の弁当箱の中身は半分以上残っていた。
「なぁ。遠野なんだって?」
首を振った椎名と、成り行きを見守っていた丘に実行委員の藤宮が話しかけてきた。ちらりと遠野の姿に目をやってから、ほとんど椎名と同じような表情になった。
「準備もやらないし当日も来ないって」
「は?何それ」
「なんやかんや遠野は来るよ。いつも最後は参加するじゃん。それに、あいつ受験組だし。それでいくと参加しないのは遠野だけじゃないだろ」
「あ〜……」
さりげなく、を意識して口を出すと藤宮の実行委員として害された心証は幾分か浮上したらしい。それとも呆れに変わった、に近いだろうか。
八千賀の言う通り、二年の夏から受験に向けて勉強をする人は多いだろうし、来ない人だって遠野だけではない。
むしろ遠野は自分から「買い出しなら」と言った通り、買い出しをすると言ったらする。自分が浮いている自覚もあるので、さすがにいくらかは来いよ、と誰かが言えば腰は上げるだろう。その場合は八千賀でない方がいい。
それよりも遠野の影に隠れて、一度も来ない人の方が実行委員としては頭が痛いことを思い出したようだ。いわゆる”受験組”と校内で括られている彼らは受験生の前からこつこつと進学に向けて準備をしている真面目な生徒達だ。彼らの志望校はレベルが高いのだろうし、勉強をしたいのならせっかくの夏休みに強要すべきでないとわかってはいるため、あまり口うるさくは言えない。だが先程参考書を持ち出した遠野のような、本当に真面目な生徒ではなくただただ準備をしたくない生徒は確実にいる。
夏休み明け、全く準備に参加しない生徒はおそらく遠野以外だろう。
表立った問題児扱いされているが、遠野の後ろで好き勝手している人達が息を潜めている。それなのに何かある度に遠野が矢面に立たされるのだ
きっと遠野が目立つからだろう。
彼は人より一つ分背が高く、運動部ではないのに不健康な細さではなくきちんと筋肉があり、それなのに肌は白いし睫毛がやたら長い。目を伏せると影をつくるそれを、八千賀はじっと見たことがある。普通にしているだけで嫌でも注目をされる人だ。
ただでさえ噂になりやすい容姿に加え、彼自身の性格があまりにも素直ではない。あれこそ捻くれているというのか、一筋縄ではいかないと唸るべきか。兎にも角にも、彼はクラスや学年、学校中に指をさされてもつねに背筋を伸ばして、他人の流言など意に介さずと黙ったままだ。弁解も擁護も何も言わない。誰も遠野の世界に入れない。
だからこそ高みにいる人物に見下げられているのだと勝手に劣等感を刺激されている人達から足を引っ張られ、そしてやたらめったら攻撃されるのだ。
けれど八千賀は、「だからお前もその態度を直せよ」とは言わないし人に言わせたくない。惚れた欲目のほかに彼の生まれもった本来の性質は真逆であることを知っているからだ。
「買い出し行くって言ってるし一緒に行ってくるよ。皆が来いって言えば来るだろ」
「だからって……。はぁ。つーか最初からああいう言い方することはないだろ」
「口は悪いんだよな。でもほら、可愛い遠野の顔に免じて許してやって」
「………」
「え?何?」
「遠野は別に可愛くないだろ」
「え!?眼科いけよ!」
「うぜぇー。てかお前もそろそろ遠野の”お母さん”をやめろよ。もう十分だろ」
「………」
椎名の言葉に一瞬口を噤んだ。そうだな、と同意など出来るはずもなく、八千賀はただ口角を上げて曖昧に笑った。
だってまだ十分ではない。全く満たされていない。
「別に母ちゃんしてるつもりはないんだけどな」
「……三年は違うクラスだといいな」
絶対嫌だ。それを飲み込んで、しかし椎名は他の有象無象の生徒とは違って本当に八千賀を心配しており、わりと本気で遠野の気まぐれにも思える硬い性格に振り回されている友人であるので、やはりぼんやりとした答えを口にした。
「えぇ?俺はまた遠野と同じクラスだったら嬉しいけどな」
なにせ、遠野のことが好きなので。






「遠野くんに差し入れ」
しゃがんでいた八千賀が机の下から顔を出し、登校前のコンビニで買ったお菓子と、購買で売れ残っていたツナマヨおにぎりを机の上に置く。遠野は視線をちらりと投げると、手の甲でその二つを八千賀の方に押した。
「ゆうが自分で食べろ」
遠野は苗字ではなく名前で呼ぶ。そうしろと八千賀が言ったからだ。彼の罪悪感につけこんで、そうさせた。これは彼が根負けした数少ない事例である。他に遠野が負けたのは、椎名や丘とのグループに無理やり入れたり放課後に遊びに連れ出したり連絡先を聞いたり、と考えたところでまだあるのでもしかしたら遠野の根負けしたものは実際は恐ろしくあるかもしれない。
「でも遠野、メシ半分しか食ってなかっただろ」
「……。そんなに空いてないから平気だ」
「嘘つけ。お前、結構食うじゃん。かっこつけて出て行っちゃったんだろうけどさ、授業中に腹鳴るんじゃねぇの。あ、もしそうなったら俺が「すみませーん!もう腹減っちゃって〜!」って言ってやろうか?それでもいいけど。遠野の尊厳守ってやって俺ってめっちゃいい人だなぁ」
「…………………」
顔をしかめた遠野が黙っておにぎりを手に取る。いかにも駄々っ子のわがままに付き合いました、という顔と態度でふてぶてしいことこの上ないが、こちらからすれば遠野の意固地の方が問題である。

遠野が逃げ込む場所は決まっていて、教室棟ではなく西館と呼ばれる、多目的室や理科室などがある棟に行く。そこは準備室や空き教室がたくさんあり、図書室ももちろん西館にあるのだが、遠野は空き教室の一つを使っている。その教室はほとんど遠野専用となっていた。
放課後ならまだしも、昼休みにわざわざ渡り廊下を歩いて西館に来る人は少ないというのもそうだが、だいたいの生徒は遠野を見ると遠巻きにして去っていく。なので放課後に数人の生徒たちが輪になって仲良く歩きながら空き教室を探しに来ても、遠野がいたら横目で見て通り過ぎる。遠野曰く静かで助かっている、らしい。
そして八千賀は遠野がここに来ると大抵顔を出すのだった。おそらく彼がいても平気で入ってくるのは八千賀しかいないだろう。他にいたら嫉妬してしまう。瞬間脳内に、つい三日ほど前に担任がわざわざ遠野をここまで探しに来て、二人でしばらく話をしていた記憶がぱっと流れたが忘れたことにしておいた。遠野に会いに来る生徒はきっと八千賀一人だけだろう。
「あとで金払う」
「いらない。その代わりキスして」
「馬鹿じゃないのか」
一刀両断。遠野は空き教室だと比較的口数は多くなるが、それでもまだつれない。おにぎりをもぐもぐと小動物のように頬張っている遠野は一切八千賀の方を見ていないのだ。
いつも通りカバンひとつか二つ分離れていた隣の席をぴったりとくっつけ、椅子も遠野の傍に寄せて頬杖をついた。
「皆怒ってないよ」
「……お前が宥めてくれたんだろ」
「や。遠野はなんやかんや協力的なのみんな知ってるし。てか俺が宥めるとかフォロー苦手なの知ってるだろ」
「それは知らない。……俺の知ってるゆうは優しいしそういうのが上手い」
「え?俺口説かれてる?」
「出てけ」
「ふーん?遠野くんさぁ、さっきから全然問題進んでなくない?」
「お前がいるからだろ。邪魔するな。出、て、い、け」
「それって俺がいると集中出来ないってこと?やっぱ口説かれてるじゃん、俺」
「そういう意味じゃない」
こっち見ないかな、と八千賀は下から覗き込むようにさらに顔を近づけた。光に当たっても黒い髪から耳と頬がのぞく。うっすらと赤くなっている皮膚に呼応するように八千賀の心臓もとくとくと跳ねている。ぞくりと、意地が悪いような痒い感覚がうなじを走った。
「……近い」
「お、意識した?」
教室ではどんなに近寄っても素知らぬ顔をしていたが、ようやく反応返ってきたことに思わずにやりと目が細まった。
遠野のことが嫌いな、ろくに遠野を知らない他の人のことはさておいて、八千賀は一つだけ彼に対して加虐性が芽生えることがある。
それが今まさに、この瞬間の遠野だった。
俯いたまま、シャーペンの先がくるくると小さく動いている。しかしノートに芯は引っかからず、ただ空をかいているだけである。突き放したいがそうすることもできず、集中したいが無視が出来ない。頭が働かないから気を紛らわすために指先を無意味に動かしているだけだ。
「遠野遠野」
ついうっかり手を伸ばしそうになったのをぐっと堪える。あまり追いすぎても良くないのだ。
「……なんだ」
「遠野が好きだよ」
無駄に円を書くだけの、本来の用途には使われていない哀れなシャーペンの動きが止まった。1センチ以上無駄に出ていた芯がボキッと折れた。遠野がやたら素早くノブを押していたからだ。握っている手に力が入ったのか青い血管が浮き出ており、その素直な様子が楽しくて思わず八千賀は声をあげて笑った。
「遠野」
今日はやり過ぎないようにしようと思ったのに、結局八千賀は肩をこつんと遠野にぶつけた。顔は正面で、しかし視線は問題集と芯が折れたシャーペンを見ている。そんな遠野を気にすることなく、頭を肩の上に乗せた。ぎくりと肩が強ばったのが、表情を伺わずともわかった。
「……だから、近い」
声が上ずっている。「普通の距離だって」と適当に答えながら、むずむずする口角を抑えて正面にある上下二段組の黒板を見た。拭き方が雑だったせいかチョークの粉がまばらに残っていて、指の第一関節ほどしかないチョークが三本ほど粉受けに転がっている。黒板を見て、真横に設置されている校内放送用のスピーカーへと何気なく視線を移していき、高窓まで来たところで八千賀は思わず立ち上がった。倒れはしなかったものの椅子は音を立てて勢いよく下がり、机は前方にややズレた。
三度ほど深呼吸をした後、八千賀は急いで震える手で椅子を直し、もう一度腰を下ろした。
遠野がしているように、他のものが目に入らないように日本史の問題集を覗き込む。身体を限界まで遠野に寄せ、しかし視線は決して遠野へ移さなかった。少しでも意識を外に向ければ、”見える”のは確実だからだ。
ゆっくりと設問一を脳内で音読し、先程までとは全く違う意味で暴れ回っている心臓をなんとか落ち着かせる。
八千賀と違って遠野は慣れたものだ。彼は視線も表情も変えず、首をぽっきりと折るようにして自分のシャーペンの先端を注視していた。昔はそんなに首を曲げて座ることはないんじゃないかと不思議に思っていたが、今ではその理由がよく分かる。
「”いた”だろ」
頷いたせいで視界がぶれてしまい、問題集以外が目に入るのが嫌だったので無反応でいた。しかし無視とも言えるそんな失礼な態度をとっても遠野は文句を言わなかった。いつも自分が他者にこういった態度でいることを知っているからだろう。正確には、そうならざるを得ない、という反応なのだが。

能面のように目を細めてニコリと笑っている女性の顔が、高窓越しにこちらを凝視していた。

高窓から覗き込めるほどの身長がある女性が校内にはいないはずで、そもそも見えたのは高窓越しの顔だけで”身体はなかった”。
女が視界に入ったのは一瞬だか、気のせいでは決してない。

ガラガラ、と教室のドアが引かれた音がした。ズルズルと何かを引きずって、教室に入ってくる。引きずっているのは足なのか布なのか分からないが、ごくたまに、うっかり目に入ってしまう足は真っ青で、そして裸足であることを知っている。

「”これ”でも俺が好きなのか?」

当たり前だろ。
かっこよく宣言したかったが、遠野と反対側に第三者の影が出来たので声がひっくり返った。影はゆらゆらと揺れていて、いや、頭部を思わせる丸みを帯びた影はぐらんぐらんと大袈裟に揺れていた。赤べこか何かを連想させる。首が座ってないようなぐにゃぐにゃした動きととも言える。
「ま、前にも言ったけど、俺幽霊には負けないから」

なにせ遠野のことが好きなので。​