俺は振り返ってその背中を追いかけようとした。
けれど、足がすくんだように動かなかった。
文彦。
その名前が脳裏によぎり、呪いのように俺を縛りつける。
「くそっ……!」
吐き捨て、奥歯をきつく噛み締める。
あの掠れた声だけが、いつまでも耳に残って離れなかった。
*
その後、俺は一人で自宅に戻った。
部屋がいつもより広く見えた。
テーブルの上に、昨日の朝の食器がそのままになっていた。片付けるのを忘れていた。俺のぶんだけじゃなく、シオリのぶんも。
洗ったら消えてしまいそうで、手が伸びなかった。
冷蔵庫を開ける。二人前の冷やし中華がラップをかけたまま入っている。シオリが好きだからと思って多めに作ったやつだ。食欲はない。閉める。
なんとなくテレビをつけた。バラエティ番組の笑い声が部屋に広がる。うるさくて、すぐに消した。
シオリがいた頃は、テレビをつけているだけで文句を言ってきた。「つまらんぞ」とか「こっちの番組にせい」とか。うるさいと思っていた。なのに今は、その声がないことのほうがずっとうるさかった。
ベッドに倒れ込む。隣が空いている。
シオリはいつも勝手に俺のベッドに入り込んでいたから、向こう側の端がへこんでいる。そのへこみを手で触れてから、俺は目をつぶった。
「…………」
一人でいることには、慣れているはずだった。
シングルマザーの母さんが仕事にかかりっきりになったのは、俺が小学校に上がった頃だった。
生活のために必死でお金を稼ぐ母さんの代わりに、家のことは何でもやった。
掃除。洗濯。簡単な料理。辛くはなかった。それが当たり前だったから。
一人でいるのも仕方のないことだと思っていた。母さんが帰ってきたとき、迎えてくれる人がいないと悲しいだろうから。
それでも、たまに寂しさを感じることはあった。
そういう時に俺がいつも描いていたのが、絵だった。
「シオリ……」
無意識のうちにスケッチブックを手繰り寄せ、テーブル上に広げる。
鉛筆を握り、静かに筆先を紙に滑らせる。
止まらずに手だけをひたすらに動かしていく。
どれだけの時間が経っただろうか。
気づけば窓の外は、もう真っ暗になっていた。
夏休みが終わってもシオリは戻ってこなかった。
捜しに行かなきゃと頭では思っていたのに、俺はどうしてか一歩踏み出すことができなかった。
あいつがいない間、俺はただ引きこもって完成しない絵をひたすら描き続けた。
描いては消し。破っては捨て。納得のいく答えが得られないまま、時間だけが過ぎた。
「勇次郎! 良かった、来てくれたんだな……!」
新学期初日。遅刻ギリギリの時間で正門に着いた俺を、待っていたらしい大輝が手を振って迎えてくれた。
俺は鞄の肩紐をぎゅっと掴み、目を逸らした。
夏休み中、心配した大輝や律先輩からは毎日のようにLI○Eが来ていた。俺はそれを全部未読無視していた。
「あいつは……シオリは結局、戻ってこなかったのか?」
「……」
「でっ、でもさ! あいつのことだし、どーせすぐお供え物はまだか! って戻ってくるって! あいつ生活力なさそうだしな!」
空笑いする大輝に俺は何も言えなかった。
そんな期待、とっくにしてた。あいつの好きなコンビニスイーツを買っておいたり、夏休み中飽きずに食べていた冷やし中華を作って置いといたりした。でもそんなの無意味だった。部屋はあいつがいた頃のままなのに、あいつの気配だけが不在だった。
「まっ、とにかく行こうぜ! 始業式から遅れたら不味いしなー」
大輝に腕を引っ張られ、俺は言われるがままに連れて行かれた。
教室のドアをくぐるとほんの少し、普段と雰囲気が違う気がした。
大輝もそれを感じ取ったようで、入り口で足を止める。
「なん、だ……?」
もうクラス全員が登校してきているはずの時間なのに、がらんとしている。
教室の三分の一くらいが空席になっている異様な光景。
近くに座っていた女子生徒に、大輝が訊ねる。
「なぁ、もしかしてインフルエンザでも流行ってる感じ?」
夏場だけどありえない話ではない。
だが女子生徒は不安そうな顔で、首を横に振っていた。
「タクミくんも休んでるけど……三日前の部活の後から連絡が付かないの。今まで毎日寝る前に通話してたのに、こんなのおかしくない?」
「それって浮気でもされたんじゃあ……」
「私も最初は疑ったよ! でも、学校を休むほどじゃなくない!?」
涙ぐみながら訴えかける女子に「悪い」と謝る大輝。
よくよく教室を見回してみると、欠席しているのは全員男子生徒のようだった。
けれど、足がすくんだように動かなかった。
文彦。
その名前が脳裏によぎり、呪いのように俺を縛りつける。
「くそっ……!」
吐き捨て、奥歯をきつく噛み締める。
あの掠れた声だけが、いつまでも耳に残って離れなかった。
*
その後、俺は一人で自宅に戻った。
部屋がいつもより広く見えた。
テーブルの上に、昨日の朝の食器がそのままになっていた。片付けるのを忘れていた。俺のぶんだけじゃなく、シオリのぶんも。
洗ったら消えてしまいそうで、手が伸びなかった。
冷蔵庫を開ける。二人前の冷やし中華がラップをかけたまま入っている。シオリが好きだからと思って多めに作ったやつだ。食欲はない。閉める。
なんとなくテレビをつけた。バラエティ番組の笑い声が部屋に広がる。うるさくて、すぐに消した。
シオリがいた頃は、テレビをつけているだけで文句を言ってきた。「つまらんぞ」とか「こっちの番組にせい」とか。うるさいと思っていた。なのに今は、その声がないことのほうがずっとうるさかった。
ベッドに倒れ込む。隣が空いている。
シオリはいつも勝手に俺のベッドに入り込んでいたから、向こう側の端がへこんでいる。そのへこみを手で触れてから、俺は目をつぶった。
「…………」
一人でいることには、慣れているはずだった。
シングルマザーの母さんが仕事にかかりっきりになったのは、俺が小学校に上がった頃だった。
生活のために必死でお金を稼ぐ母さんの代わりに、家のことは何でもやった。
掃除。洗濯。簡単な料理。辛くはなかった。それが当たり前だったから。
一人でいるのも仕方のないことだと思っていた。母さんが帰ってきたとき、迎えてくれる人がいないと悲しいだろうから。
それでも、たまに寂しさを感じることはあった。
そういう時に俺がいつも描いていたのが、絵だった。
「シオリ……」
無意識のうちにスケッチブックを手繰り寄せ、テーブル上に広げる。
鉛筆を握り、静かに筆先を紙に滑らせる。
止まらずに手だけをひたすらに動かしていく。
どれだけの時間が経っただろうか。
気づけば窓の外は、もう真っ暗になっていた。
夏休みが終わってもシオリは戻ってこなかった。
捜しに行かなきゃと頭では思っていたのに、俺はどうしてか一歩踏み出すことができなかった。
あいつがいない間、俺はただ引きこもって完成しない絵をひたすら描き続けた。
描いては消し。破っては捨て。納得のいく答えが得られないまま、時間だけが過ぎた。
「勇次郎! 良かった、来てくれたんだな……!」
新学期初日。遅刻ギリギリの時間で正門に着いた俺を、待っていたらしい大輝が手を振って迎えてくれた。
俺は鞄の肩紐をぎゅっと掴み、目を逸らした。
夏休み中、心配した大輝や律先輩からは毎日のようにLI○Eが来ていた。俺はそれを全部未読無視していた。
「あいつは……シオリは結局、戻ってこなかったのか?」
「……」
「でっ、でもさ! あいつのことだし、どーせすぐお供え物はまだか! って戻ってくるって! あいつ生活力なさそうだしな!」
空笑いする大輝に俺は何も言えなかった。
そんな期待、とっくにしてた。あいつの好きなコンビニスイーツを買っておいたり、夏休み中飽きずに食べていた冷やし中華を作って置いといたりした。でもそんなの無意味だった。部屋はあいつがいた頃のままなのに、あいつの気配だけが不在だった。
「まっ、とにかく行こうぜ! 始業式から遅れたら不味いしなー」
大輝に腕を引っ張られ、俺は言われるがままに連れて行かれた。
教室のドアをくぐるとほんの少し、普段と雰囲気が違う気がした。
大輝もそれを感じ取ったようで、入り口で足を止める。
「なん、だ……?」
もうクラス全員が登校してきているはずの時間なのに、がらんとしている。
教室の三分の一くらいが空席になっている異様な光景。
近くに座っていた女子生徒に、大輝が訊ねる。
「なぁ、もしかしてインフルエンザでも流行ってる感じ?」
夏場だけどありえない話ではない。
だが女子生徒は不安そうな顔で、首を横に振っていた。
「タクミくんも休んでるけど……三日前の部活の後から連絡が付かないの。今まで毎日寝る前に通話してたのに、こんなのおかしくない?」
「それって浮気でもされたんじゃあ……」
「私も最初は疑ったよ! でも、学校を休むほどじゃなくない!?」
涙ぐみながら訴えかける女子に「悪い」と謝る大輝。
よくよく教室を見回してみると、欠席しているのは全員男子生徒のようだった。
