名前を呼んでくるシオリに、俺は今すぐ駆け寄ってやりたかった。
それなのに、身体は動かない。腕も、足も、全身の筋肉が痛みに痙攣して、言うことを聞かない。
動け。動け。動け。動け。動けよ。なんで――動かないんだ。
このままじゃ、シオリが――。
(何か言い残すことはありますか)
烏天狗がゆっくりと近づいて、冷たい刃のような声音で告げてくる。
宙を浮遊する羽根の切っ先がシオリの首筋に突き付けられた。
その光景を目にした瞬間。俺の中で何かが、臨界点を迎えた。
「――シオリッ!!!」
直後。力を失っていたはずのシオリの肩が、微かに動いた。
周囲を舞う羽根の刃たちが一斉に力を失い、地面に墜落する。
烏天狗が目を見開き反射的に飛びのくなか、シオリの足元からは白い光が立ち上り、その傷ついた身体を柔らかく包み込んでいった。
抉られた傷跡が再生し、引き裂かれた浴衣も綺麗さっぱり元の状態に戻っていく。
その奇跡的な光景に、俺の視界は奇妙に歪んでいた。
熱いものが目の端から滲み出て、静かに頬へ垂れていく。
これは、涙――?
息を震わせて瞬きを繰り返す俺へ、シオリは振り返り、いつもの勝気な笑みを浮かべる。
「本当に、お主という人間は……」
(何故です!? 限界まで追い詰めたはず! それなのに……!)
驚愕する烏天狗へとシオリは一歩、踏み出す。
気圧されたように後ずさる烏天狗を見上げ、シオリは静かに言い渡した。
「お主らがそれを理解できたなら、こうして戦うこともなかったじゃろうな……」
(貴様ッ――!!)
岩肌を蹴飛ばして烏天狗は拳で殴り掛かろうとした。
だが、それを光の壁が阻む。
直後、防壁から伸び上がった光の糸が烏天狗の四肢や翼に絡み付き、その動きを完全に縛った。
(菅原の子……あなたさえ依り代に出来れば、私は神をも超える霊体になれたというのに……!)
その怨嗟の声が、こいつの断末魔となった。
身体の先端から徐々に光の粒子となって浄化されていく烏天狗を、俺はただ、何も言わずに見送った。
鎧武者の怪異みたいに、こいつにも何かしらの大義があったのかもしれない。
だとしたら、これは本当に正しい結末なのか――?
「……文彦も、同じ顔をしておった」
え、と俺は呟いた。
烏天狗の立っていた虚空に視線を向けたまま、シオリは続ける。
「お主は、優しいのじゃな」
ゆっくりとこちらを振り返り、シオリは儚げな笑みを浮かべた。いつもの無邪気な笑みとは違う、うまく名前の付けられない表情だった。
シオリがいなくなった。
俺がそれに気づいたのは、夏祭りと烏天狗との戦いが終わった、次の日のことだった。
起きてすぐ隣にいるはずのシオリがいない。トイレにも風呂にも姿が見えない。
それ自体はさして珍しいことでもなかった。あいつがふらっと気ままに散歩に出かけることはしょっちゅうあったから、最初は大して気にも留めなかった。
「……遅いなぁ」
けれど。二時間が経っても、三時間が経っても、あいつは帰ってこなかった。
いつも昼飯の時間には必ず、餌を待つ子犬みたいにテーブルの前に座っているのに、今日は俺一人だった。
「シオリ……」
何かあったのか。散歩に行った先で、怪異にでも襲われたのか。
俺は手を付けてない二人分の冷やし中華にラップをかけ、冷蔵庫に雑にしまい込んだ。
スマホだけ片手に外へ出る。
俺はシオリのいそうな場所に片っ端から当たっていった。
コンビニ。公園。図書館。川沿いの遊歩道。学校。
だが、どこに行ってもシオリの姿は見当たらなかった。
見落としたはずはない。あの白髪と和装に気づかないなんて、まずあり得ない。
「シオリ! どこにいるんだよ、シオリ……!」
呼びかけても返事はない。
照りつける日差しの中、俺は電柱に手をついて流れる汗を袖で拭った。
なんでだよ。なんで何も言わずにいなくなっちまうんだよ。
出かけるなら一言いえよ。怪異に襲われたんならテレパシーでも送ってこいよ。神ならそのくらい余裕だろ。
「おい、シオリ! どっかで聞いてたら返事しろよ、シオリ!」
通行人から奇異の目で見られることも構わず、俺は周囲を見まわしながら声を上げた。
なんでこんなに必死になってるんだろう。
なんでこんなに、胸が重い。
所詮、俺たちは単なる契約関係だ。
あいつにとって菅原の血を引く俺は都合がよかっただけで、力を十分に取り戻した後はもう、どうでも良かったのかもしれない。
「くそっ……!」
それなのに、身体は動かない。腕も、足も、全身の筋肉が痛みに痙攣して、言うことを聞かない。
動け。動け。動け。動け。動けよ。なんで――動かないんだ。
このままじゃ、シオリが――。
(何か言い残すことはありますか)
烏天狗がゆっくりと近づいて、冷たい刃のような声音で告げてくる。
宙を浮遊する羽根の切っ先がシオリの首筋に突き付けられた。
その光景を目にした瞬間。俺の中で何かが、臨界点を迎えた。
「――シオリッ!!!」
直後。力を失っていたはずのシオリの肩が、微かに動いた。
周囲を舞う羽根の刃たちが一斉に力を失い、地面に墜落する。
烏天狗が目を見開き反射的に飛びのくなか、シオリの足元からは白い光が立ち上り、その傷ついた身体を柔らかく包み込んでいった。
抉られた傷跡が再生し、引き裂かれた浴衣も綺麗さっぱり元の状態に戻っていく。
その奇跡的な光景に、俺の視界は奇妙に歪んでいた。
熱いものが目の端から滲み出て、静かに頬へ垂れていく。
これは、涙――?
息を震わせて瞬きを繰り返す俺へ、シオリは振り返り、いつもの勝気な笑みを浮かべる。
「本当に、お主という人間は……」
(何故です!? 限界まで追い詰めたはず! それなのに……!)
驚愕する烏天狗へとシオリは一歩、踏み出す。
気圧されたように後ずさる烏天狗を見上げ、シオリは静かに言い渡した。
「お主らがそれを理解できたなら、こうして戦うこともなかったじゃろうな……」
(貴様ッ――!!)
岩肌を蹴飛ばして烏天狗は拳で殴り掛かろうとした。
だが、それを光の壁が阻む。
直後、防壁から伸び上がった光の糸が烏天狗の四肢や翼に絡み付き、その動きを完全に縛った。
(菅原の子……あなたさえ依り代に出来れば、私は神をも超える霊体になれたというのに……!)
その怨嗟の声が、こいつの断末魔となった。
身体の先端から徐々に光の粒子となって浄化されていく烏天狗を、俺はただ、何も言わずに見送った。
鎧武者の怪異みたいに、こいつにも何かしらの大義があったのかもしれない。
だとしたら、これは本当に正しい結末なのか――?
「……文彦も、同じ顔をしておった」
え、と俺は呟いた。
烏天狗の立っていた虚空に視線を向けたまま、シオリは続ける。
「お主は、優しいのじゃな」
ゆっくりとこちらを振り返り、シオリは儚げな笑みを浮かべた。いつもの無邪気な笑みとは違う、うまく名前の付けられない表情だった。
シオリがいなくなった。
俺がそれに気づいたのは、夏祭りと烏天狗との戦いが終わった、次の日のことだった。
起きてすぐ隣にいるはずのシオリがいない。トイレにも風呂にも姿が見えない。
それ自体はさして珍しいことでもなかった。あいつがふらっと気ままに散歩に出かけることはしょっちゅうあったから、最初は大して気にも留めなかった。
「……遅いなぁ」
けれど。二時間が経っても、三時間が経っても、あいつは帰ってこなかった。
いつも昼飯の時間には必ず、餌を待つ子犬みたいにテーブルの前に座っているのに、今日は俺一人だった。
「シオリ……」
何かあったのか。散歩に行った先で、怪異にでも襲われたのか。
俺は手を付けてない二人分の冷やし中華にラップをかけ、冷蔵庫に雑にしまい込んだ。
スマホだけ片手に外へ出る。
俺はシオリのいそうな場所に片っ端から当たっていった。
コンビニ。公園。図書館。川沿いの遊歩道。学校。
だが、どこに行ってもシオリの姿は見当たらなかった。
見落としたはずはない。あの白髪と和装に気づかないなんて、まずあり得ない。
「シオリ! どこにいるんだよ、シオリ……!」
呼びかけても返事はない。
照りつける日差しの中、俺は電柱に手をついて流れる汗を袖で拭った。
なんでだよ。なんで何も言わずにいなくなっちまうんだよ。
出かけるなら一言いえよ。怪異に襲われたんならテレパシーでも送ってこいよ。神ならそのくらい余裕だろ。
「おい、シオリ! どっかで聞いてたら返事しろよ、シオリ!」
通行人から奇異の目で見られることも構わず、俺は周囲を見まわしながら声を上げた。
なんでこんなに必死になってるんだろう。
なんでこんなに、胸が重い。
所詮、俺たちは単なる契約関係だ。
あいつにとって菅原の血を引く俺は都合がよかっただけで、力を十分に取り戻した後はもう、どうでも良かったのかもしれない。
「くそっ……!」
