神様、その契約、命がけで守ります

 誰かに後をつけられている。
さっきからずっと、そんな気がする。
けれど、後ろを振り返っても誰もいない。
西日が差すいつもの廊下。グラウンドのほうから遠く響く、運動部のかけ声。開け放たれた窓から吹き込む、春のそよ風。
普段と何ら変わりない風景だ。
だけど、何だろう。うなじのあたりをじろじろと見られているような、そんな居心地の悪さを感じる。


「……っ」


疲れてんのかな。昨日徹夜でコンクールに出す絵を仕上げてきたから、そのせいかもしれない。
キャンバスをぎゅっと抱え直し、俺は視線を前に戻した。
これを先生に見せる。そんでさっさと帰る。以上。
足早に前に進む。カツカツと聞こえてくるのは俺自身の足音だ。他には誰もいない。
背後の気配も薄らいで消え失せていったようだった。


――やっぱり気のせいだったか。


歩調を緩め、俺は溜め息をついた。
その時。
すっ、と周囲から音が消えた。


「……!?」


一瞬前まで聞こえていたはずの放課後の喧騒が、何もない。
それだけじゃない――肌に触れる空気も冷たくなっている。
視界は急な雨雲に遮られたみたいに薄暗くなっていた。


――何かがおかしい。


背後から感じるのは、息ができなくなりそうなくらいの圧迫感。
逃げたい。けれど身体が金縛りにあったみたいに固まってしまっている。

ぺちゃり。


ふいに聞こえたのは、湿った音だった。
音がなくなったはずの世界の中で、それだけが異様に響いていた。

ぺちゃり。ぺちゃり。


音は少しずつ近づいてきていた。
まるで誰かの足音のように、一歩、また一歩。


ぺちゃり。ぺちゃり。ぺちゃ――


ぴたっ、と。そこで足音が止まった。
粘っこくまとわりつくような気配。肩にのしかかる重苦しさ。
間違いない。
すぐ後ろに――いる。


「――――」


強ばっていた首をどうにか動かして、俺は、振り返った。
最初に視界に入ったのは、グレーのチェック柄のスラックス。
次いで、紺色のブレザー。青色のネクタイ。
なんだ、同じ学校のやつじゃないか。
俺はそいつの顔を見ようとして――見れなかった。


なかったのだ。顔が。


本来頭があるべきところにはモヤのようなものがかかっていて、ぼやけて見えない。
やばい、やばい、やばいっ。
何なんだこいつは。お化け? 幽霊? 俺は夢でも見てるのか?


「……ぁ」


言葉にならない掠れた音が、喉から漏れ出る。
逃げなきゃ。けれど身体が動かない。何かに縛り付けられているみたいだ。何に? こいつに? いや――


「――――ッ!!」


俺を縛っていたのはこいつなんかじゃない、俺自身の恐怖心だ。
硬直していた膝を無理やり動かして、俺は思いっきり床を蹴った。

「はっ、はっ、はぁっ……!!」


後ろを振り向かずに走る、走る、走る。
足がもつれそうになっても止まらない。抱えていたキャンバスを投げ出して、一足飛ばしに階段を駆け下りる。

「ぐっ!?」


腿に走る激痛。足が攣った。もう走れない。追いつかれる――。

「くそっ……!」


俺は這うように一番近くの教室へと近づき、どうにかそのドアを開けて中へ滑り込んだ。
扉に背中を預け、開いた隙間から廊下を窺う。
気配はしない。振り切ったのか。
上下する胸に手を当てて息を吐いた、その時だった。

ぺちゃり。


足音が再び、近づいてきていた。
階段を一段、また一段と、距離だけが確実に縮まってくる。

「……っ」


立ち上がれない。埃っぽい床を引っ掻くようにもがき、俺は少しでも遠くへ逃げようとした。
ぺちゃり。ぺちゃり。ぺちゃり。
一定のリズムで、じわじわと、迫ってくる。
だが――その足音がぴたりと、止まった。

ギィッ、ギィッ。

代わりに響いたのは軋むような音だった。
扉が、開く。
ブレザーの袖がぬっと伸びて、顔のない顔がこちらを覗いた。


「……ぁ、ぁあ……」


今度こそ終わりだ。もう逃げられない。ここで、死ぬ。
何もかもを諦めようとした、束の間。
光が差した。


「――えっ?」


薄闇を照らす眩い輝きに、目を瞬かせる。
光は立ち並ぶ本棚の奥から差し込んでいるようだった。
俺も幽霊も時間を止めるなか、その光の中から、何かが現れる。
人影。
またお化けの類いなのか――そう思った瞬間、露になったその姿に、俺は息を呑んだ。


「ひと……?」