【二〇二九年、六月四日】
梶田斗真はその日の朝も、住んでいるマンションの屋上に向けて足を進めていた。
大学のために引っ越してきて早三年。
今ではすっかり生活も落ち着き、心身ともに余裕のある生活を送っていた。
きぃ、と音を立ててドアを開くと直後、優しい朝の光が差し込んでくる。
その向こうには、ひとつの人影。
「あ、おはよう斗真くん。今日も来たんだ」
振り返ったその女性は、梶田を見てにっこりと微笑む。
「おはようございます、美咲さん」
織川美咲。
梶田が住むマンションの人物で、年齢は二十四歳。
住んでいる部屋は分からないが、この屋上で知り合ってから世間話をする仲になった。
今では毎朝二人、ここで登りゆく朝日を見るのが日課となっている。
美咲は普段通りの花が咲いたような笑顔だが、斗真はその表情にどこか違和感を覚えた。
「もうすぐ朝日がよく見えるよ~。……今日も綺麗だね」
「ええ、そうですね……」
美咲の隣に立ち、柵に腕をあずけてもたれかかる斗真。
その横顔を見て、美咲が怪訝そうな声を上げた。
「あれ、斗真くん。大丈夫? 難しい顔してるけど、何か考え事?」
見抜かれた、と悟った斗真は柵から体を離し、美咲の方に向き直る。
きょとんとした様子の美咲に向かって、斗真は問いを発した。
「美咲さん、もしかしてなんですけど……何か悩んでいませんか?」
斗真がそう聞くと、美咲の顔が強張る。
しかしそれも一瞬のことで、すぐにいつもの明るく穏やかな笑顔に戻った。
「気のせいじゃないかな? 私はいつも通りだよ。まぁ、昨日はちょっと仕事が遅くまで続いちゃったから、そのせいで疲れてるかもしれないけど……」
言外に伝わってくる「これ以上は聞くな」というやんわりとした拒絶。
斗真は軽く頭を下げ、朝日に目を戻した。
「すみません、変なこと聞いちゃって。でも……」
「……でも?」
「もし、もし何か思い詰めてることがあったら、何でも言ってくださいね」
斗真がそういうと、美咲はくすりと笑う。
「うん、ありがとう。斗真くんは優しいね」
「そんなことは……」
美咲の表情に思わず顔が熱くなるのを感じる。
ちらりと腕時計を確認すると、午前六時四十分となっていた。
「大丈夫大丈夫! 私はこの通り、元気にぴんぴんしてるよ。それよりほら。もうそろそろ時間だよ、帰ろっか」
「はい」
斗真が振り向く先で、一足先に美咲が屋上のドアへと向かう。
そして最後に大きく手を振った。
「それじゃあ、斗真くん。また明日ね!」
「……はい、また明日」
やはり不安はどうしても拭えない。
何故なら、去り際──ドアが閉まり切る直前に見えた美咲の顔は、とても寂しくて悲しそうだったから。
◇
『ニュース速報です、今朝七時二十分、マンションから飛び降りたと思われる女性の遺体が発見されました。女性の部屋には遺書が置いてあり、警察は自殺と見て捜査を進めています』
◇
それからのことを、斗真はあまりよく覚えていない。
警察に話を聞かされて、彼女の部屋から斗真に向けて置いてあったという遺書を渡され、ふらふらとした足取りで自室に戻った。
食欲など湧くはずもなく、朝から晩に至るまで何も口にしていない。
頭の上まですっぽり被った布団の中で、斗真は呟いた。
「どうして……」
涙がぽたりと落ちて、まだ開封していない美咲の遺書の上にぽたりと落ちる。
美咲の遺体を引き取りに来た彼女の両親が見せてくれた美咲のSNSには、投稿がたった一件だけ遺されていた。
『朝日、明日も君と一緒に見たかった』
一度流れた涙は止まらない。
彼女の最後の言葉が、永遠にリフレインする。
「美咲さん……どうして……」
悲しみの中で、斗真の意識は闇に沈んでいった。
◇
鳥のさえずりで目が覚める。
どうやらいつの間にか泣き疲れて、そのまま朝になっていたらしい。
昨日の出来事に心をひきずられながら枕もとの時計を見て、斗真は凍り付いた。
【二〇二九年、六月四日】
ありえないと思った。
機械の故障かと思った。
慌ててスマホを見るが、やはり日付は昨日と同じ……六月四日。
次の瞬間、斗真の身体は弾かれるように屋上へと向かっていた。
バンっと扉を開けて屋上に入ると、そこには昨日と変わらずに美咲が立っていた。
彼女は驚いたようにこちらを振り返り、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「どうしたの、斗真くん? そんなに急いで。まだ朝日間に合うよ」
「違う……違うんです……」
肩で荒い息をくりかえし、両膝に手を置きながら斗真は首を横に振る。
そして深呼吸をして美咲の隣に立ち、真剣な顔で彼女を見た。
「美咲さん」
「んー?」
彼女は穏やかに返事をする。
「何か隠してること……思い詰めてること、ありますよね」
その言葉に美咲は一瞬驚いた顔をするが、すぐに表情を引き締める。
「何を言ってるの? 私、隠してることも辛いこともないよ。ただちょっと色々考えてだけ。……そんな気にしないで」
それは、昨日よりもありありと感じられる拒絶の意思。
だが、斗真は食い下がらない。
「……飛び降り」
彼が口に出したその言葉に、美咲の顔がこわばる。
「遺書も既に用意してありますよね」
「や、やだなぁ斗真くん。もしかして、怖い夢でも見ちゃった?」
美咲は一瞬息を飲み、目を見開く。
が、しかしすぐに無理矢理に作り笑いを浮かべた。
「もう、何言ってるの? 怖い冗談だね……私がそんなことするわけないじゃん。よしよし、そんなに怖い夢だったんだね」
美咲はそう言って斗真の頭を撫でる。
そうして自身の腕時計をちらりと見て、
「あ、もうこんな時間。そろそろ行かなきゃ、お仕事始まっちゃう」
そう言って屋上のドアの方へと歩いていく。
「あの、美咲さん!」
思わず、斗真はその背中に大きな声をかけた。
「ん、何? どうかしたの?」
美咲はこちらを振り返り、優しく微笑む。
「……明日も、ここで一緒に朝日を見るって約束してくれますか」
斗真がそう言うと、美咲は一瞬迷うような表情を見せ、それからにこりと微笑んだ。
「うん、わかった。約束。明日もここで待ってるね」
そうして今度こそ去っていく。
ドアの向こうで美咲が階段を降りていく音を聞きながら、斗真は柵を背に座り込んだ。
正直な話、信用はできない。
要所要所で見せた彼女の反応や表情が、瞼に焼き付いて離れないから。
だからこそ──
「決めた。今日俺は一日、ここでずっと待つ。美咲さんが来ないように……」
強い決意を込めて、眼前のドアを見つめた。
◇
『ニュース速報です、今朝七時二十分、マンション内の一室で若い女性の遺体が発見されました。女性の部屋には遺書が置いてあり、警察は自殺と見て捜査を進めています』
◇
月明りの射し込む暗い部屋のベッド。
斗真は膝を丸め抱えて座っていた。
「美咲さん……どうして……」
屋上を見張る作戦は完璧だった。
だから──いや、だからこそと言うべきだろうか。
今度は美咲は部屋で命を絶ってしまった。
斗真は恐る恐る、美咲が自分に宛てて遺したとされた遺書を開く。
そこには、斗真の名前が何度も記されていた。
遺書には梶田への感謝と「キミがいたから生きていられた」という言葉が記されていた。
そしてその下には震えた文字で「斗真くんへ。君の存在が私の支えだった」と書かれていた。
彼女の両親に譲ってもらった美咲の日記には、どのページをめくっても斗真の名前と「生きる意味」という言葉が綴ってあった。
斗真は続けて、美咲の両親から譲り受けた彼女のスマートフォンの電源を入れてみる。
スマホの中には斗真宛てのメールが一件あり「今日こそ、斗真くんに伝えたいことがあるんだ」と、未送信状態のまま残されていた。
そしてやはり、彼女のSNSにはたった一つだけ……
『朝日、明日も君と一緒に見たかった』
という投稿が遺されていた。
「うっ……うぁぁぁぁぁぁああああ……!」
全てを確認した斗真の口からは、声にならない嗚咽が漏れる。
美咲の遺書と日記、それからスマートフォンを抱きかかえながら、滂沱した。
どれだけ時間が経ったかもわからないほどに泣き続け、やがて彼の意識は暗い底に沈んでいく……。
◇
「っはぁ! はぁ、はぁっ……!」
斗真は飛び起きた。
呼吸は荒く、全身が汗に濡れ、服が肌にへばりついて気持ち悪いことこの上ない。
忘れられるはずもない、昨晩の記憶。
だが、どこを探しても彼女の日記や遺書は見つからない。
その時、ひとつの推論に思い当たる。
「まさか……!」
確認すると、やはり日付は【二〇二九年、六月四日】。
考えるまでもない。
斗真は今、このループする六月四日の中に取り残されたのだ。
斗真は急いで服を着替え、屋上へと走り出す。
息を切らせながら階段を登り、祈るように扉を開けると、そこには──
「あ、おはよう。って、あれ……? なんだかすごく汗かいてるけど、大丈夫?」
「美咲さん……」
穏やかに微笑む彼女を姿を見た瞬間、斗真の全身から力が抜けてその場にへたりこんでしまう。
「斗真くん、どうしたの!? 大丈夫!? 何があったの……?」
駆け寄ってくる美咲の手に安堵し、次から次へと涙が止まらない。
「美咲さん……いてくれた……まだ生きててくれた……!」
そして涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、美咲の手を取る。
「お願いです、美咲さん。死なないで……あなたがいない世界なんて、俺は……俺は……!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて。私が死ぬって……どういうこと? 何があったの?」
尋常でない様子の斗真に美咲はパニックを起こしながらも真剣な顔つきになり、斗真の前に片膝を突いて問いかける。
「隠さなくていい……抱え込まなくていい……。もう、無理に笑わなくったっていいんです。……俺、知ってるんです。美咲さんがずっと抱え込んでた気持ちも、これからしようとしてることも……」
その言葉に美咲は斗真の胸に顔を埋め、小さく震えながら嗚咽する。
「君にだけは、気付かないでいてほしかった……」
しばらくそうして泣く美咲の肩をさすり、斗真は意を決して、涙に濡れた表情で美咲を目を見つめる。
「……俺、美咲さんのことが大好きです。だから、絶対に死なせない」
「どうして、私が死のうとしていることを知ってるの……?」
声を震わせながら訊ねる美咲に、斗真は深呼吸をして真剣な顔つきになる。
「俺がこれからする話を、信じてくれますか」
美咲は唇を震わせながらも、小さく頷く。
「……信じる。だから聞かせて」
◇
それから、斗真はぽつりぽつりと語り出した。
この六月四日という日をループしていること。
今日が三回目であること。
どう対策を取っても、美咲は必ず自死を選んでしまうこと。
彼女が斗真に宛てた遺書の内容や、そこに綴られていた苦しみの丈を。
◇
「嘘……嘘、だよ……そんなの……」
茫然自失と譫言を呟く美咲に、斗真は真剣な声で言う。
「嘘じゃありません。全部、本当のことです」
「そんな……じゃあ、私はどうすれば……」
美咲は顔を覆って泣き出してしまった。
ずっと秘めてきた思い、押し殺してきた哀しみ、耐え続けてきた脆い足場。
それら全てが決壊し、今の美咲は壊れそうになっていた。
そんな美咲を見て、斗真はそっと彼女の肩に手を置く。
「美咲さんは遺書の中で、俺を生きる意味と言ってくれました。なら……本当の意味で、俺をあなたの生きる意味にならせてくれませんか?」
その言葉に美咲はハッと顔を上げ、すぐに両手の中で再び嗚咽を漏らす。
「どうして……? どうして、そこまで私のために……?」
来ると思っていた問。
斗真は一度深呼吸をして、覚悟を決めた表情で美咲の両手を握って顔を見ながら言う。
「だってそれは……俺が美咲さんを愛しているから」
「……私なんか、愛される資格ない……やめて……私なんかのために泣かないでよ……」
その言葉にハッとする。どうやら、斗真自身も泣いていたらしい。
それでも尚、斗真は優しく美咲の両手を包んで言う。
「苦しいなら、逃げてしまえばいい。辛いなら、一人で戦わなくていい。独りでは潰されてしまうような悲しさも、きっと二人でなら乗り越えられる」
美咲は嗚咽しながらも徐々に顔を上げ、斗真の目を見る。
その瞳は、不安と期待に揺れていた。
「本当に……一緒に、いてくれる……?」
「はい。絶対に……絶対にあなたをひとりにはしない」
「……信じる。これからは、二人で一緒に……」
その言葉に斗真は胸の奥の感情が沸き上がり、そっと美咲を抱き締めた。
彼の肩で美咲は涙に震えながら言う。
「ありがとう……二人で一緒に、生きていこう……」
そして少しの間抱き合った後、美咲はそっと顔を離す。
その瞳には決意が籠っており、しっかりと斗真を見据えていた。
「斗真くん……約束する。もう二度と……もう二度と一人で消えたりしない」
「……はい、約束です」
そうしてお互いに涙を流しながら、二人で笑い合った。
「これからも……ここで一緒に朝日を見ようね。……私たちの未来を」
◇
キッチンから良い匂いと、包丁が具材を切るトントンという音が軽快に響く。
美咲はソファに腰掛けながら、料理をする斗真の後ろ姿をぼーっと見つめていた。
「こんな風に……心から穏やかに過ごせる日がくるなんて……」
その言葉に、ふっと斗真は微笑む。
「今日は全部俺がやるから、美咲さんはゆっくり休んでてください」
「ありがとう……久しぶりにゆっくり休める……」
「俺、美咲さんのためなら何でもしますから」
「そう言ってくれるだけで……生きる勇気が湧いてくるよ」
ソファの背もたれに顔をあずけながら、美咲は微笑んだ。
それから少しして朝食ができあがり、完成した料理がテーブルに運ばれてくる。
「わぁ……美味しそう。もう食べてもいい?」
「もちろんです、どうぞ召し上がれ」
「い、いただきます……」
美咲が箸を口に運んだ途端、その瞳が輝く。
「凄く美味しい……! こんな味、久しぶり……!」
「本当ですか? よかったです」
美咲は箸を机に置き、ほっとした様子で微笑む。
「こんな幸せな朝……初めてかもしれない」
「そんなに喜んでもらえるなら、もっと頑張れます」
「うん……改めて、これからもよろしくね」
そうして少しの間二人で談笑しながら朝食をしているとき、斗真はふと、疑問に思っていたことをぶつけることにした。
「そういえば、美咲さん」
「どうしたの?」
「その……ひとつだけずっと気になってたことがありまして」
「何? 教えて……?」
不安そうに揺れる彼女の瞳に、安心させるように微笑んでから斗真は口を開く。
「その……以前のループ世界で、美咲さんは俺に対して一件の未送信メッセージを残していたんです。『今日こそは伝えたいことがある』と……。あれは、なんだったんでしょうか?」
そう問うと、美咲は目を伏せてテーブルの上で指を突き合わせ始める。
「それは、その……今から言うね」
「……はい」
互いに緊張する中、美咲は深呼吸をして口を開く。
「『ずっと前から、あなたのことが好きでした』……この一言を、あなたに伝えたかったの」
美咲の顔は酷く赤面している。
「……そっか。俺たち、ずっと同じ気持ちだったんですね」
「うん……でも、ずっと言えなくて……」
斗真は立ち上がると、そっと美咲の背後に回りこんで優しく抱きしめる。
美咲は一瞬硬直したが、すぐに体の力が抜けて安心したように斗真の腕の中で目を閉じた。
「私……生きたい。もっと、斗真と……」
「その言葉が聞けて嬉しいです」
「これからもずっと一緒……だよね?」
「もちろん。離れたりなんてしません」
暖かで、穏やかで、甘い時間。
ずっと続くかのように思われたその時間だったが、ふと、美咲が口を開いた。
「ねぇ、斗真」
「どうしました?」
「その……敬語やめて。名前の呼び方も、さんづけはいらない……」
一瞬面くらったような顔をする斗真だったが、すぐに微笑んで頷く。
「……わかった。これでいいか、美咲?」
「…………! うん! 嬉しい……」
斗真はそっと微笑んで、美咲の隣に腰を下ろす。
「ねぇ、美咲」
「うん、なに?」
「よかったら、デートに行かないか?」
「えっ……で、デート?」
斗真がそう誘うと、美咲は耳まで真っ赤になる。
口を開けたり閉じたりしてあわあわする様は、まるで金魚のようだ。
やがて少しして、美咲はおずおずと斗真の手を握った。
「い、行きたい……」
◇
ショッピングモールにて、斗真と美咲はウィンドウショッピングを楽しんでいた。
人が多く活気がある場所というだけで二人とも満足だったが、ふと、美咲の瞳が羨ましそうに服屋を向くのに斗真は気付いた。
「あそこ、行こっか」
「うん、行きたい! ……かも」
もじもじとする美咲を連れて服屋に入ると、先ほどまでの態度とは一変し、美咲は目を輝かせながら陳列された服を見始めた。
「ねぇ、斗真」
「どうした?」
「私、どんなのが似合うかな?」
キラキラと目を輝かせながらそう問うてくる美咲に、斗真は少し考えた後、白いオフショルダーブラウスを手に取る。
「これとかどう? 大人びてて綺麗な美咲に似合いそうだなって」
「綺麗だなんて、そんな……ありがとう、ちょっと着てくるね」
頬を赤らめながら試着室に向かう美咲の後ろ姿を、斗真は優しく見守る。
一体どんな姿になるだろうか……考えただけで、ワクワクが止まらない。
きっと彼女なら着こなせるだろう。
思いを馳せながら待っていると、試着室のカーテンが開いた。
「あの、ど、どうかな……?」
頬を赤く染めて不安気に佇む美咲の様子に、斗真は口をぽかんと開けて見惚れてしまった。
「変、だった……?」
斗真が何も言わないことを変に受け取ったのか、しゅんとした様子で美咲が呟く。
「ち、違くて! あまりにも似合ってるから、その、つい……見惚れちゃって」
「ほんと? えへへ……嬉しいな」
「~~~~~っ、可愛すぎるよ……」
「も、もうっ! 着替えてくる!」
斗真の反応にまるで茹でられたロブスターのように真っ赤になり、美咲は試着室の奥へと引っ込んで行ってしまう。
やがて元の服に着替えて出てきた美咲は、とてもにこにことしていた。
「ほんとに素敵だったよ。美咲の大人っぽいところと、たまに見せる少女っぽいところがよく反映されてて凄く綺麗だった」
「斗真は私のことを褒めて殺したいの……?」
会計を済ませて歩きながらそう言うと、美咲は再び赤面してもじもじする。
そうして歩いていると、ふと、美咲は切ない表情を浮かべた。
「ねぇ、私……こんなに幸せでいいのかな」
「当り前だよ。むしろ今まで沢山苦しんで、傷付いて、悩んだ分……これからはもっと幸せになろう」
「斗真……うんっ!」
そのまるでひまわりのような笑顔に心臓を高鳴らせつつも、斗真はこの笑顔を絶対に守ると誓った。
それから二人は映画を見て楽しみ、夕方になってショッピングモールを出る。
「今日はほんとに楽しかった……こういう気持ちになるのも、本当に久しぶり」
「また来よう。いつでも」
「……うん」
斗真がそう言うと、美咲は寂しそうな笑みを浮かべる。
「特別な時間だったな」
「二人で過ごす時間は、全部特別な時間だよ」
どちらともなく、二人の手が触れ……そして手を繋ぐ。
それは俗に言う恋人繋ぎというもので、互いの気持ちが本物だという証左だった。
「この心地いい風も……二人で感じるから特別だね」
「そうだね。美咲といると、全部が特別に感じるよ」
「そ、そんなこと言われたら……もっと好きになっちゃうよ……ばか」
「さっき美咲が言ってくれたことだろ?」
じゃれあいながらの帰路はあっという間だった。
夕食を済ませ、美咲が風呂に入り、斗真が風呂に入って少し経ったとき。
美咲は窓辺に座り、夜景を見ながら静かに手紙を書いていた。
やがて書き終えたのかペンを置き、深呼吸をする。
「あと少しだけ……この時間を、大切に……」
「美咲……?」
美咲がハッとして顔を上げると、斗真がリビングに立っていた。
「あ……斗真……お風呂、出てたんだね」
「……ごめん、聞こえちゃったんだ。『あと少しだけ』って、どういう意味……?」
その問いに、美咲の顔が強張る。が、すぐに無理矢理笑顔を作って。
「何でもないよ……ただの独り言、気にしないで」
「聞き逃せるわけないだろ。それに、さっき書いてた紙は……?」
「見ないで!」
思わず出た大きい声に斗真がビックリするのを見て、美咲は小さく「ごめん」と謝る。
「見ないで……お願い。これは……私の弱さなの……」
美咲は震える手で髪を掻き上げ、弱弱しく微笑む。
「…………」
斗真は真剣な顔で美咲の向かいに腰を降ろし、彼女の瞳をまっすぐ見つめる。
「……何があったんだ?」
美咲はゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄る。
「もう、終わりにしたいの……全部」
「何が君を、そこまで追い詰めてしまったんだ……?」
その問いに、美咲は力なく微笑んで首を横に振る。
「私の中にある闇……消せないの」
その言葉に斗真は少しだけ考え込み、静かに立ち上がって美咲を背後から抱き締める。
美咲はびくりと体を硬直させ、声を震わせながら言う。
「斗真、離して……お願い」
「嫌だ」
「お願い、分かって……これが、私の選択なの……」
斗真は少しだけ、美咲を抱き締める腕に力を籠める。
「なら、俺も君と一緒に死ぬ。独りになんて絶対させない」
「馬鹿なこと言わないで! 生きて……斗真には生きてほしいよ……」
激しく首を横に振りながらそう言う美咲に、斗真は穏やかな声音で語り続ける。
「美咲が俺にそう思ってくれるように、俺も美咲に生きててほしいって、ずっと思ってる」
美咲は手を震わせながらその手を斗真の頬に当て、涙を流す。
「なんで……そんなに、優しいの……」
「美咲が、俺を救ってくれたから」
「私が……?」
彼女の問いに、斗真はゆっくりと頷く。
「昔、全てが嫌になって屋上から飛ぼうとしてたんだ。でも、怖くて足が踏み出せなかった。美咲と知り合ったのは、そのときだよ」
「そんなことが……」
「初めてだったんだ。心の底から安心して、穏やかな気持ちで誰かと話せたのは」
「私も、斗真と話しているときだけは全てを忘れられた……」
それから少しだけ間をおいて、美咲はぽつりと口を開く。
「斗真……あなたが、私の希望だった……」
「……なら、これからも希望でいさせてくれないか?」
斗真はそっと美咲の手を取り、微笑んだ。
「わかった……生きる、あなたのために」
美咲は涙で声を詰まらせながら、斗真の手を握って微笑み返す。
月明りが、二人を優しく照らしていた。
◇
次の日の朝、朝食を食べていると美咲が重い雰囲気で口を開く。
「今日はね、病院に行こうと思うの」
「病院?」
彼女は頷く。
「診てもらわないと、いけないところがあるんだ」
「……そっか。なら、俺も行くよ」
「……いいの?」
斗真は優しく頷く。
「当り前だろ。美咲は俺の、大事な人なんだから」
「……ありがとう。斗真と一緒なら、きっと大丈夫……」
◇
待合室では、よく聞くようなオルゴールが流れていた。
斗真の隣に座る美咲は緊張した様子で、手を握り締める。
「大丈夫、斗真が一緒にいてくれる……」
斗真は彼女の手に自分の手を重ね、そっと握り合わせる。
「うん、大丈夫。俺が傍にいる」
「ありがとう……怖いけど、斗真がいてくれるだけで……」
彼女の恐怖は、握っている手がきつく締められていることから斗真に容易に伝わってくる。
斗真は安心させるように彼女の頭を自分の肩に乗せ、頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫……」
「斗真の手、温かい……」
そうしていると看護師が現れ、美咲の名前が呼ばれる。
「……ッ!」
斗真は再び彼女の手を優しく握り、頷く。
「大丈夫、俺もついてる」
「うん……」
そして診察室に入り、医師から真っ先に告げられた内容は地獄そのものだった。
「心臓に悪性腫瘍があります。既に末期……ここまで進んでしまっては手術で取ることもできず、恐らく余命はあと数日でしょう」
「そんな……」
悲痛な顔を浮かべる斗真とは裏腹に、美咲はどこか受け入れたような、穏やかな表情をしていた。
「治療法は……治療法はないんですか!?」
「これは今までに知られているどの悪性腫瘍とも違っています、今のところ、治療法らしい治療法は……」
医師は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「織川さん。今すぐに入院すれば、治療はできずとも延命は可能です。どうされますか?」
医師の問いに、美咲はゆっくりと首を横に振る。
「……いえ、家での安楽死を希望します。最後まで、彼と一緒にいたいですから」
そう言って、斗真の方を見る。
「……そうですか。力及ばず、申し訳ない」
◇
病院からの帰り道、空は美しいまでの夕焼けだった。
「………………」
「斗真、そんな悲しい顔しないで。あなたがいてくれて、本当に良かった」
「諦めない……俺は絶対に諦めないから……」
拳を強く握る斗真に、美咲は悲しそうに首を横に振る。
「もう、遅いの……」
「……いつから、気付いてたんだ?」
「半年前、くらいかな……」
それは、ちょうど斗真と美咲が屋上で知り合ったあたりの頃だった。
「毎日屋上で朝日を見ていたのは……現実から逃げてたから、なんだ」
「飛び降りようとしていたのも、それが原因で……?」
美咲は寂しそうに笑う。
「……そう。苦しんで死ぬのが怖くて、逃げたかった。情けないよね、私」
「そんなこと……そんなことない」
斗真は悔しそうに目を瞑りながら、首を横に振る。
その目からは一筋の涙がこぼれた。
「泣かないで……あなたが笑顔でいてくれることが、私の願い」
「みさ──」
そして彼女の方を斗真が見ようとした瞬間、美咲が苦しそうに胸に手を当ててかがんでいるのが見えた。
「美咲!」
斗真は近寄ると、慌てて担ぐ。
「病院、病院に行かないと!」
しかし、美咲は弱弱しい手で斗真の服を握った。
「家に、帰りたい……私たちの家に……」
「………………分かった」
彼女の願いを聞き届け、斗真は急いで、しかし彼女を揺らさないように家までの道程を走る。
そして家につき、ベッドに彼女を横たえた。
美咲の呼吸は浅く、顔色は悪い。
もう今すぐにでも、彼女の命の灯火が消えそうであることは明白だった。
「斗真……」
「うん、俺はここにいる。どうした?」
何かを探すように持ち上げられた美咲の手を握り、必死に呼びかける。
「ありがとう……最後まで、傍にいてくれて……」
「当たり前だ。ずっと、ずっと俺は君の傍にいる」
彼女は弱弱しく微笑み、もう片方の手を天井に伸ばす。
「私ね……本当に嬉しかったの」
「……何が?」
「毎朝斗真と朝日を見れたこと、壊れそうになっていた私を斗真が救ってくれたこと、斗真と恋人になれたこと、そして……最後を斗真が看取ってくれること」
「そんなこと……そんなこと言わないでくれ……俺たちの幸せは、まだここからが始まりだろ……?」
「ごめんね……」
彼女の謝罪に激しく首を横に振りながら、斗真は美咲の手に頭を擦り付ける。
美咲の呼吸はほぼ止まっているのと同義のように浅く、口から漏れ出る吐息は弱弱しい。
終わりが近付いていた。
斗真は意を決し、美咲の顔を覗き込む。
「……美咲」
「な、に……?」
「愛してる」
その言葉に、僅かに美咲の目が見開かれる。
「美咲のことを、世界で一番愛してる」
「嬉しい……私も、斗真のことを……ずっと、愛してる」
美咲の瞳から涙が溢れだし、震える口から言葉が紡ぎ出される。
「今、一番……幸せ……」
その言葉を聞き、斗真は声にならない嗚咽を漏らした。
「運命は、なんでこんなに残酷なんだ……」
しかし、その頬に美咲が手を添える。
「運命は、優しいよ……だって、あなたに出会えたから……」
「美咲……」
彼女は弱りながら、それでもしっかりと斗真を見て言葉を紡ぐ。
「斗真……ありがとう……愛してる……」
その言葉を聞いて、斗真は美咲の唇にそっとキスをした。
多分、世界で一番優しいキス。
「初めての……キス……」
「俺も、初めてだったんだ」
美咲は小さく微笑む。
「最高の……思い出……ありがとう……」
斗真は安心させるように、美咲の手を撫でる。
ゆっくりと美咲の瞼が閉じ始める。
「温かい……」
「ゆっくりおやすみ……美咲」
眠るように目を閉じ、穏やかな表情で彼女は最期に言った。
「ありがとう……斗真」
そして静かに呼吸が整い、穏やかな表情のまま動かなくなる。
手がするりと斗真の手から抜け、ベッドの上に落ちた。
「……美咲?」
美咲は反応せず、ただ穏やかな寝顔のままでそこにいる。
「……美咲」
斗真の瞳から、次々と涙が流れだす。
彼女の体からは、徐々に温もりが失われ出していた。
「嫌だ……こんな運命、嫌だ……!」
斗真は動かなくなった美咲の体に縋りつき、泣きじゃくる。
彼女はもう、動くことはない。
彼女はもう、笑うことはない。
彼女はもう、話すことはない。
◇
数時間後、泣き腫らした斗真は愛おしそうに美咲を撫で、立ち上がった。
ふと、思い出したのだ。
昨晩、美咲が何かを書いて隠していたことを。
「確かこの辺りに……」
それはすんなりと見つかった。
『斗真へ』
そう書かれた手紙の封を開け、中を確認する。
そこには、斗真への想いが綴られていた。
『斗真へ
いつもそばにいてくれて、ありがとう。
あなたの存在が、私の支えでした。
あなたの笑顔を見るとドキドキした。
あなたと傍にいると心が落ち着いた。
あなたと過ごした時間は全部宝物みたいで……ううん、私の一番の宝物。
先に逝ってしまって、ごめんなさい。
寂しい思いをさせてしまって、ごめんなさい。
でもね、私、ちっとも怖くなかったんだ。
あなたがいてくれるだけで、不思議と勇気が湧いてきて……
だから、覚悟はできてるの。
でも、もし許されるなら……また、あなたに会いたかったなぁ』
そう書かれた遺書の字は震えていた。
あの日の晩、彼女はどんな気持ちでこれを書いていたのだろうか。
斗真それを知ることは、もうできない。
「美咲……」
斗真はちらりと美咲の寝顔を見て、それからベランダに視線を移す。
その瞳には、悲しみの他にそれよりも強い決意の光が宿っていた。
「…………」
ベランダに出ると、優しい穏やかな風が頬を撫でた。
「美咲……もしかして、君なのか?」
その声に答えるように、再び風が斗真を撫でる。
「ははっ、君は……見守ってくれてるんだな……」
さっき枯れるほどの涙を流したというのに、また一筋の涙が斗真の頬を伝う。
「……俺は、神を信じる」
ふと呟かれたその声には、強い決意が宿っていた。
「もし美咲が言ったように、運命が優しいものだというのなら、きっとまた会わせてくれるはずだ」
何かを察したかのように、風が強く吹き始める。
斗真は柵に近付き、下を見る。
遥か眼下にはアスファルトが広がっており、通行人の姿は一人も見えない。
その時、強風が斗真を押し戻した。
「美咲……俺を、止めてくれてるのか?」
斗真は振り返り、最後にもう一度だけ美咲を見て、それから前を向く。
「……ごめんな、だとしても俺は」
後ろに下がり、助走をつける。
「守ってみせる、美咲がいる運命を!」
そして柵を乗り越え、飛んだ。
◇
『ニュース速報です、本日十七時三分、マンションの敷地で若い男性の遺体が発見されました。また、男性の部屋には女性の遺体が発見されており、警察は死体遺棄と自殺の両方の線で捜査を進めています』
◇
──ループ一七三九二回目。
自分の部屋で、斗真はゆっくりと目を覚ました。
慣れた手つきで時計を確認する。
日付は【二〇二九年、六月四日】。
いつものように目覚め、いつものようにシャワーを済ませる。
永い、永いループを過ごした。
しかしそれも今日で終わるかもしれない。
「待ってろ、美咲」
◇
今回も美咲の自殺を止めた後、斗真は一人、病院に向かっていた。
理由は当然、美咲の命を救うためだ。
もちろんこのルートは今までに何百回も試した。
だが、全てが失敗に終わった。
それでも今回は違う。
院内を歩いていると、とある医師を見つける。
美咲に余命宣告したあの医師だった。
斗真はその医師に駆け寄った。
「どうかしましたか?」
「お忙しい所申し訳ありません、実はどうしても救って欲しい女性がいるのです」
「……続けて」
「その女性は心臓に悪性腫瘍を持っています。ステージは既に末期で、彼女の名前は……織川美咲」
その名前を出した瞬間、医師の顔が曇る。
「あなたは、血縁者の方ですか?」
「いえ、恋人です。ですが、事情は全て知っています」
「そうでしたか……しかしあの方は、もう……」
医師が紡ごうとした言葉を制して、斗真は続ける。
「実は、適切な処置法を知っているんです」
「なんだって? 君は、医学界の者かい?」
「いえ、残念ながら……でも、本当です」
そう言うと、医師の顔に怒りが浮かぶ。
「人の命がかかっているんだ、軽々しくそのような冗談を言うんじゃない!」
しかしその怒気を受けてなお、斗真はまっすぐに医師の目を見つめる。
「確かに信じていただけないことは十分に理解しています。ですが、これは冗談でも適当でもありません。本当のことなんです。俺はただ、彼女を救いたいだけなんだ」
「何を根拠に……」
次の瞬間、斗真は医師に土下座をした。
「お願いします、彼女を救えるのは貴方しかいないんだ! どうか、どうか美咲を助けてください!」
斗真の必死な訴えに医師は混乱していたが、しばらく経っても斗真が顔を上げる様子がないのを見かねて、その肩に手を置いた。
「医療に携わる者として、君の話を聞き入れることは出来ない。だが、それでも話だけは聞こう。私の部屋へ」
「ありがとうございます……ありがとうございます!」
それから斗真は医師の部屋に案内され、そこで美咲の悪性腫瘍に関する話をした。
いずれも、この気の遠くなるようなループの中で必死にかき集め、勉強した努力の結晶だ。
医師は時折うなり、時折小さな質問を入れながらも最後まで話を聞いた。
「確かに、君の見解は医学的にも筋が通っている……君はいったい?」
「ただの恋人を救いたい大学生です」
医師は難しい顔をしながらも頷く。
「先ほども言ったように、君は医学界の人間ではない。君の発言を鵜呑みにして患者の命を危険に曝す可能性があるなど、言語道断だ」
「…………」
しかし次の瞬間、医師は斗真の肩にそっと手を置いて優しい声で言った。
「だが、約束しよう。全力を尽くすと。君が……君の恋人が諦めていないのに、私が諦めるわけにはいかない」
「先生……! お願いします!」
最後に斗真は医師に深く頭を下げ、病院を後にした。
◇
全力疾走で家に帰り、美咲に事情を説明した斗真はすぐに病院に向かった。
手術はすぐに始まった。
薄暗い待合室の中、いくつかの蛍光灯と『手術中』の赤いランプだけが転倒している。
「美咲……」
斗真は椅子に座り、祈るように手を組んで親指に額を置いている。
思い出すのは、彼女との想い出ばかり。
恋人となったのはたったの二日だが、それ以前の交流も、全てが彼にとって大切なものだった。
時間なんて関係ない、大切なのは絆の強さだった。
ループの中で、色々な場所に行った。
彼女の中には残らないが、斗真の記憶には全て残っている、かけがえのない思い出。
斗真が一番好きなのは、褒められたときに見せる照れくさそうな笑顔と、美味しいものを食べたときの桜のように儚く綺麗な笑顔。
また彼女が笑ってくれるのなら、斗真はこれから何百万、何千万回だってループをするだろう。
美咲を救うためなら、斗真は全てを捧げる覚悟だった。
どれだけの時間が経っただろうか。
斗真にとっては、もう何日も経ったような錯覚さえ覚えていた頃。
『手術中』のランプが消え、中から医師が出てくる。
「っ先生!」
斗真はその姿を見た瞬間、駆け寄る。
「結果は……美咲は無事ですか!?」
医師は斗真の目をじっと見つめる。
「結果は……」
斗真は祈るように、しかし医師からは絶対に目を離さずに言葉を待つ。
「成功です」
その言葉を聞いた瞬間、斗真は今まで張りつめていた全身の力が抜けたようにへたり込んだ。
「あ……あ…………あぁ……」
涙が溢れて止まらない。
言葉にできない感情が、彼の全身を駆け巡っていた。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます……!」
医師の足に縋るように、何度も何度も地面に頭を打ち付ける。
「奇跡という他ありません。ですが何より頑張ったのは、あなたとあなたの恋人……美咲さんです」
「美咲……美咲には会えますか?」
「今はまだ術後の麻酔が抜けていないので無理ですが、明日には」
「美咲……」
斗真はふらふらと立ち上がり、もう一度深く医師に頭を下げた。
「先生、美咲の命を救ってくださって、本当にありがとうございました……!」
◇
暖かな初夏の風が吹き込む病室。
そのベッドの上に、彼女はいた。
「美咲」
斗真がそう呼ぶと、彼女は嬉しそうにこちらに顔を向ける。
「斗真……来てくれたんだ」
「もちろん。手術成功、本当におめでとう」
「私……生きてる」
美咲は弱々しく斗真に手を伸ばす。
斗真は椅子を引いて美咲のベッドの横に座り、その手をしっかりと握りしめた。
「ありがとう……あなたのおかげ……」
斗真は首をゆっくり横に振る。
「頑張ったのは美咲だよ」
その言葉に美咲は弱々しく微笑み天井を見上げた。
「私ね、手術をしている間、長い夢を見てたの……」
「夢?」
斗真の問いかけに、美咲は頷く。
「沢山の……斗真との想い出。おかしいよね。私たち、まだデートもしたことないのに……色んなところに行って、色んなものを見て……」
その言葉に、斗真の心臓はドキリと跳ねる。
「一番嬉しかったのはね、夢の中で斗真が服を選んでくれたの。私に似合うからって、白いお洒落な服……斗真?」
気付けば、斗真の両眼からは涙が溢れていた。
美咲は微笑んで斗真の涙を拭おうとし、気付く。
「どうして、泣いてるの? ……あれ、何でだろう? 私まで泣いちゃってるや……」
「美咲」
「なに? 斗真」
「きっと、正夢にしような。これから二人でいろんな場所に行って、いろんなものを見て、いろんな経験をして、それでさ……」
「うん」
穏やかな顔で言葉の続きを待つ美咲の瞳を見つめ返し、斗真は意を決して言う。
「結婚しよう」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の目からぽろぽろと涙がこぼれ出る。
「私と、斗真が……?」
「うん」
「私なんかで、いいの……?」
「美咲だからいいんだ」
「これからは、ずっと一緒にいられるの……?」
「ああ、たとえ寿命で死んでも何回、何十回生まれ変わっても一緒だ」
「嬉しい…………」
そうして斗真と美咲は抱き合い、そっと唇を重ねた。
これからの運命は分からない。
だが、間違いなく二人を引き裂こうとしていた悲劇は消えたのだ。
◇
【二〇三〇年、六月四日】
「斗真ー! 起きて起きて! もう朝だよ」
「うーん……もうちょっとだけ」
「ダーメ、しゃきっとしなさい!」
シャッと音を立てて開かれたカーテン。
そこから射し込む眩しい朝の光に、斗真は思わず目を覚まして体を起こす。
「おはよう、美咲」
「おはよ、斗真」
美咲はエプロンを付けながら窓辺に立ち、空を見上げる。
「やっぱり朝は最高だね。生きてるって実感する!」
「ははっ、美咲もすっかり元気になったよな」
美咲はポニーテールを揺らして、明るく笑う。
「うん! 生きてるって本当に素晴らしい! もう二度と死のうなんて馬鹿な事考えなくなったよ」
その言葉に感無量になり、斗真は思わず美咲を背後から抱き締めた。
「もう~! 朝からべったりなんだから~!」
美咲は困ったように笑いながらも、幸せな表情を浮かべて抱き返す。
「ほら、行こ? もう朝ごはんできてるから」
「うん、美咲のご飯美味しいから楽しみだよ」
そうして二人で部屋の出口に向かう。
部屋を出る直前、美咲がくるっと振り返って太陽のような笑顔で言った。
「これからもよろしくね、旦那さん!」
梶田斗真はその日の朝も、住んでいるマンションの屋上に向けて足を進めていた。
大学のために引っ越してきて早三年。
今ではすっかり生活も落ち着き、心身ともに余裕のある生活を送っていた。
きぃ、と音を立ててドアを開くと直後、優しい朝の光が差し込んでくる。
その向こうには、ひとつの人影。
「あ、おはよう斗真くん。今日も来たんだ」
振り返ったその女性は、梶田を見てにっこりと微笑む。
「おはようございます、美咲さん」
織川美咲。
梶田が住むマンションの人物で、年齢は二十四歳。
住んでいる部屋は分からないが、この屋上で知り合ってから世間話をする仲になった。
今では毎朝二人、ここで登りゆく朝日を見るのが日課となっている。
美咲は普段通りの花が咲いたような笑顔だが、斗真はその表情にどこか違和感を覚えた。
「もうすぐ朝日がよく見えるよ~。……今日も綺麗だね」
「ええ、そうですね……」
美咲の隣に立ち、柵に腕をあずけてもたれかかる斗真。
その横顔を見て、美咲が怪訝そうな声を上げた。
「あれ、斗真くん。大丈夫? 難しい顔してるけど、何か考え事?」
見抜かれた、と悟った斗真は柵から体を離し、美咲の方に向き直る。
きょとんとした様子の美咲に向かって、斗真は問いを発した。
「美咲さん、もしかしてなんですけど……何か悩んでいませんか?」
斗真がそう聞くと、美咲の顔が強張る。
しかしそれも一瞬のことで、すぐにいつもの明るく穏やかな笑顔に戻った。
「気のせいじゃないかな? 私はいつも通りだよ。まぁ、昨日はちょっと仕事が遅くまで続いちゃったから、そのせいで疲れてるかもしれないけど……」
言外に伝わってくる「これ以上は聞くな」というやんわりとした拒絶。
斗真は軽く頭を下げ、朝日に目を戻した。
「すみません、変なこと聞いちゃって。でも……」
「……でも?」
「もし、もし何か思い詰めてることがあったら、何でも言ってくださいね」
斗真がそういうと、美咲はくすりと笑う。
「うん、ありがとう。斗真くんは優しいね」
「そんなことは……」
美咲の表情に思わず顔が熱くなるのを感じる。
ちらりと腕時計を確認すると、午前六時四十分となっていた。
「大丈夫大丈夫! 私はこの通り、元気にぴんぴんしてるよ。それよりほら。もうそろそろ時間だよ、帰ろっか」
「はい」
斗真が振り向く先で、一足先に美咲が屋上のドアへと向かう。
そして最後に大きく手を振った。
「それじゃあ、斗真くん。また明日ね!」
「……はい、また明日」
やはり不安はどうしても拭えない。
何故なら、去り際──ドアが閉まり切る直前に見えた美咲の顔は、とても寂しくて悲しそうだったから。
◇
『ニュース速報です、今朝七時二十分、マンションから飛び降りたと思われる女性の遺体が発見されました。女性の部屋には遺書が置いてあり、警察は自殺と見て捜査を進めています』
◇
それからのことを、斗真はあまりよく覚えていない。
警察に話を聞かされて、彼女の部屋から斗真に向けて置いてあったという遺書を渡され、ふらふらとした足取りで自室に戻った。
食欲など湧くはずもなく、朝から晩に至るまで何も口にしていない。
頭の上まですっぽり被った布団の中で、斗真は呟いた。
「どうして……」
涙がぽたりと落ちて、まだ開封していない美咲の遺書の上にぽたりと落ちる。
美咲の遺体を引き取りに来た彼女の両親が見せてくれた美咲のSNSには、投稿がたった一件だけ遺されていた。
『朝日、明日も君と一緒に見たかった』
一度流れた涙は止まらない。
彼女の最後の言葉が、永遠にリフレインする。
「美咲さん……どうして……」
悲しみの中で、斗真の意識は闇に沈んでいった。
◇
鳥のさえずりで目が覚める。
どうやらいつの間にか泣き疲れて、そのまま朝になっていたらしい。
昨日の出来事に心をひきずられながら枕もとの時計を見て、斗真は凍り付いた。
【二〇二九年、六月四日】
ありえないと思った。
機械の故障かと思った。
慌ててスマホを見るが、やはり日付は昨日と同じ……六月四日。
次の瞬間、斗真の身体は弾かれるように屋上へと向かっていた。
バンっと扉を開けて屋上に入ると、そこには昨日と変わらずに美咲が立っていた。
彼女は驚いたようにこちらを振り返り、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「どうしたの、斗真くん? そんなに急いで。まだ朝日間に合うよ」
「違う……違うんです……」
肩で荒い息をくりかえし、両膝に手を置きながら斗真は首を横に振る。
そして深呼吸をして美咲の隣に立ち、真剣な顔で彼女を見た。
「美咲さん」
「んー?」
彼女は穏やかに返事をする。
「何か隠してること……思い詰めてること、ありますよね」
その言葉に美咲は一瞬驚いた顔をするが、すぐに表情を引き締める。
「何を言ってるの? 私、隠してることも辛いこともないよ。ただちょっと色々考えてだけ。……そんな気にしないで」
それは、昨日よりもありありと感じられる拒絶の意思。
だが、斗真は食い下がらない。
「……飛び降り」
彼が口に出したその言葉に、美咲の顔がこわばる。
「遺書も既に用意してありますよね」
「や、やだなぁ斗真くん。もしかして、怖い夢でも見ちゃった?」
美咲は一瞬息を飲み、目を見開く。
が、しかしすぐに無理矢理に作り笑いを浮かべた。
「もう、何言ってるの? 怖い冗談だね……私がそんなことするわけないじゃん。よしよし、そんなに怖い夢だったんだね」
美咲はそう言って斗真の頭を撫でる。
そうして自身の腕時計をちらりと見て、
「あ、もうこんな時間。そろそろ行かなきゃ、お仕事始まっちゃう」
そう言って屋上のドアの方へと歩いていく。
「あの、美咲さん!」
思わず、斗真はその背中に大きな声をかけた。
「ん、何? どうかしたの?」
美咲はこちらを振り返り、優しく微笑む。
「……明日も、ここで一緒に朝日を見るって約束してくれますか」
斗真がそう言うと、美咲は一瞬迷うような表情を見せ、それからにこりと微笑んだ。
「うん、わかった。約束。明日もここで待ってるね」
そうして今度こそ去っていく。
ドアの向こうで美咲が階段を降りていく音を聞きながら、斗真は柵を背に座り込んだ。
正直な話、信用はできない。
要所要所で見せた彼女の反応や表情が、瞼に焼き付いて離れないから。
だからこそ──
「決めた。今日俺は一日、ここでずっと待つ。美咲さんが来ないように……」
強い決意を込めて、眼前のドアを見つめた。
◇
『ニュース速報です、今朝七時二十分、マンション内の一室で若い女性の遺体が発見されました。女性の部屋には遺書が置いてあり、警察は自殺と見て捜査を進めています』
◇
月明りの射し込む暗い部屋のベッド。
斗真は膝を丸め抱えて座っていた。
「美咲さん……どうして……」
屋上を見張る作戦は完璧だった。
だから──いや、だからこそと言うべきだろうか。
今度は美咲は部屋で命を絶ってしまった。
斗真は恐る恐る、美咲が自分に宛てて遺したとされた遺書を開く。
そこには、斗真の名前が何度も記されていた。
遺書には梶田への感謝と「キミがいたから生きていられた」という言葉が記されていた。
そしてその下には震えた文字で「斗真くんへ。君の存在が私の支えだった」と書かれていた。
彼女の両親に譲ってもらった美咲の日記には、どのページをめくっても斗真の名前と「生きる意味」という言葉が綴ってあった。
斗真は続けて、美咲の両親から譲り受けた彼女のスマートフォンの電源を入れてみる。
スマホの中には斗真宛てのメールが一件あり「今日こそ、斗真くんに伝えたいことがあるんだ」と、未送信状態のまま残されていた。
そしてやはり、彼女のSNSにはたった一つだけ……
『朝日、明日も君と一緒に見たかった』
という投稿が遺されていた。
「うっ……うぁぁぁぁぁぁああああ……!」
全てを確認した斗真の口からは、声にならない嗚咽が漏れる。
美咲の遺書と日記、それからスマートフォンを抱きかかえながら、滂沱した。
どれだけ時間が経ったかもわからないほどに泣き続け、やがて彼の意識は暗い底に沈んでいく……。
◇
「っはぁ! はぁ、はぁっ……!」
斗真は飛び起きた。
呼吸は荒く、全身が汗に濡れ、服が肌にへばりついて気持ち悪いことこの上ない。
忘れられるはずもない、昨晩の記憶。
だが、どこを探しても彼女の日記や遺書は見つからない。
その時、ひとつの推論に思い当たる。
「まさか……!」
確認すると、やはり日付は【二〇二九年、六月四日】。
考えるまでもない。
斗真は今、このループする六月四日の中に取り残されたのだ。
斗真は急いで服を着替え、屋上へと走り出す。
息を切らせながら階段を登り、祈るように扉を開けると、そこには──
「あ、おはよう。って、あれ……? なんだかすごく汗かいてるけど、大丈夫?」
「美咲さん……」
穏やかに微笑む彼女を姿を見た瞬間、斗真の全身から力が抜けてその場にへたりこんでしまう。
「斗真くん、どうしたの!? 大丈夫!? 何があったの……?」
駆け寄ってくる美咲の手に安堵し、次から次へと涙が止まらない。
「美咲さん……いてくれた……まだ生きててくれた……!」
そして涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を上げ、美咲の手を取る。
「お願いです、美咲さん。死なないで……あなたがいない世界なんて、俺は……俺は……!」
「ちょ、ちょっと落ち着いて。私が死ぬって……どういうこと? 何があったの?」
尋常でない様子の斗真に美咲はパニックを起こしながらも真剣な顔つきになり、斗真の前に片膝を突いて問いかける。
「隠さなくていい……抱え込まなくていい……。もう、無理に笑わなくったっていいんです。……俺、知ってるんです。美咲さんがずっと抱え込んでた気持ちも、これからしようとしてることも……」
その言葉に美咲は斗真の胸に顔を埋め、小さく震えながら嗚咽する。
「君にだけは、気付かないでいてほしかった……」
しばらくそうして泣く美咲の肩をさすり、斗真は意を決して、涙に濡れた表情で美咲を目を見つめる。
「……俺、美咲さんのことが大好きです。だから、絶対に死なせない」
「どうして、私が死のうとしていることを知ってるの……?」
声を震わせながら訊ねる美咲に、斗真は深呼吸をして真剣な顔つきになる。
「俺がこれからする話を、信じてくれますか」
美咲は唇を震わせながらも、小さく頷く。
「……信じる。だから聞かせて」
◇
それから、斗真はぽつりぽつりと語り出した。
この六月四日という日をループしていること。
今日が三回目であること。
どう対策を取っても、美咲は必ず自死を選んでしまうこと。
彼女が斗真に宛てた遺書の内容や、そこに綴られていた苦しみの丈を。
◇
「嘘……嘘、だよ……そんなの……」
茫然自失と譫言を呟く美咲に、斗真は真剣な声で言う。
「嘘じゃありません。全部、本当のことです」
「そんな……じゃあ、私はどうすれば……」
美咲は顔を覆って泣き出してしまった。
ずっと秘めてきた思い、押し殺してきた哀しみ、耐え続けてきた脆い足場。
それら全てが決壊し、今の美咲は壊れそうになっていた。
そんな美咲を見て、斗真はそっと彼女の肩に手を置く。
「美咲さんは遺書の中で、俺を生きる意味と言ってくれました。なら……本当の意味で、俺をあなたの生きる意味にならせてくれませんか?」
その言葉に美咲はハッと顔を上げ、すぐに両手の中で再び嗚咽を漏らす。
「どうして……? どうして、そこまで私のために……?」
来ると思っていた問。
斗真は一度深呼吸をして、覚悟を決めた表情で美咲の両手を握って顔を見ながら言う。
「だってそれは……俺が美咲さんを愛しているから」
「……私なんか、愛される資格ない……やめて……私なんかのために泣かないでよ……」
その言葉にハッとする。どうやら、斗真自身も泣いていたらしい。
それでも尚、斗真は優しく美咲の両手を包んで言う。
「苦しいなら、逃げてしまえばいい。辛いなら、一人で戦わなくていい。独りでは潰されてしまうような悲しさも、きっと二人でなら乗り越えられる」
美咲は嗚咽しながらも徐々に顔を上げ、斗真の目を見る。
その瞳は、不安と期待に揺れていた。
「本当に……一緒に、いてくれる……?」
「はい。絶対に……絶対にあなたをひとりにはしない」
「……信じる。これからは、二人で一緒に……」
その言葉に斗真は胸の奥の感情が沸き上がり、そっと美咲を抱き締めた。
彼の肩で美咲は涙に震えながら言う。
「ありがとう……二人で一緒に、生きていこう……」
そして少しの間抱き合った後、美咲はそっと顔を離す。
その瞳には決意が籠っており、しっかりと斗真を見据えていた。
「斗真くん……約束する。もう二度と……もう二度と一人で消えたりしない」
「……はい、約束です」
そうしてお互いに涙を流しながら、二人で笑い合った。
「これからも……ここで一緒に朝日を見ようね。……私たちの未来を」
◇
キッチンから良い匂いと、包丁が具材を切るトントンという音が軽快に響く。
美咲はソファに腰掛けながら、料理をする斗真の後ろ姿をぼーっと見つめていた。
「こんな風に……心から穏やかに過ごせる日がくるなんて……」
その言葉に、ふっと斗真は微笑む。
「今日は全部俺がやるから、美咲さんはゆっくり休んでてください」
「ありがとう……久しぶりにゆっくり休める……」
「俺、美咲さんのためなら何でもしますから」
「そう言ってくれるだけで……生きる勇気が湧いてくるよ」
ソファの背もたれに顔をあずけながら、美咲は微笑んだ。
それから少しして朝食ができあがり、完成した料理がテーブルに運ばれてくる。
「わぁ……美味しそう。もう食べてもいい?」
「もちろんです、どうぞ召し上がれ」
「い、いただきます……」
美咲が箸を口に運んだ途端、その瞳が輝く。
「凄く美味しい……! こんな味、久しぶり……!」
「本当ですか? よかったです」
美咲は箸を机に置き、ほっとした様子で微笑む。
「こんな幸せな朝……初めてかもしれない」
「そんなに喜んでもらえるなら、もっと頑張れます」
「うん……改めて、これからもよろしくね」
そうして少しの間二人で談笑しながら朝食をしているとき、斗真はふと、疑問に思っていたことをぶつけることにした。
「そういえば、美咲さん」
「どうしたの?」
「その……ひとつだけずっと気になってたことがありまして」
「何? 教えて……?」
不安そうに揺れる彼女の瞳に、安心させるように微笑んでから斗真は口を開く。
「その……以前のループ世界で、美咲さんは俺に対して一件の未送信メッセージを残していたんです。『今日こそは伝えたいことがある』と……。あれは、なんだったんでしょうか?」
そう問うと、美咲は目を伏せてテーブルの上で指を突き合わせ始める。
「それは、その……今から言うね」
「……はい」
互いに緊張する中、美咲は深呼吸をして口を開く。
「『ずっと前から、あなたのことが好きでした』……この一言を、あなたに伝えたかったの」
美咲の顔は酷く赤面している。
「……そっか。俺たち、ずっと同じ気持ちだったんですね」
「うん……でも、ずっと言えなくて……」
斗真は立ち上がると、そっと美咲の背後に回りこんで優しく抱きしめる。
美咲は一瞬硬直したが、すぐに体の力が抜けて安心したように斗真の腕の中で目を閉じた。
「私……生きたい。もっと、斗真と……」
「その言葉が聞けて嬉しいです」
「これからもずっと一緒……だよね?」
「もちろん。離れたりなんてしません」
暖かで、穏やかで、甘い時間。
ずっと続くかのように思われたその時間だったが、ふと、美咲が口を開いた。
「ねぇ、斗真」
「どうしました?」
「その……敬語やめて。名前の呼び方も、さんづけはいらない……」
一瞬面くらったような顔をする斗真だったが、すぐに微笑んで頷く。
「……わかった。これでいいか、美咲?」
「…………! うん! 嬉しい……」
斗真はそっと微笑んで、美咲の隣に腰を下ろす。
「ねぇ、美咲」
「うん、なに?」
「よかったら、デートに行かないか?」
「えっ……で、デート?」
斗真がそう誘うと、美咲は耳まで真っ赤になる。
口を開けたり閉じたりしてあわあわする様は、まるで金魚のようだ。
やがて少しして、美咲はおずおずと斗真の手を握った。
「い、行きたい……」
◇
ショッピングモールにて、斗真と美咲はウィンドウショッピングを楽しんでいた。
人が多く活気がある場所というだけで二人とも満足だったが、ふと、美咲の瞳が羨ましそうに服屋を向くのに斗真は気付いた。
「あそこ、行こっか」
「うん、行きたい! ……かも」
もじもじとする美咲を連れて服屋に入ると、先ほどまでの態度とは一変し、美咲は目を輝かせながら陳列された服を見始めた。
「ねぇ、斗真」
「どうした?」
「私、どんなのが似合うかな?」
キラキラと目を輝かせながらそう問うてくる美咲に、斗真は少し考えた後、白いオフショルダーブラウスを手に取る。
「これとかどう? 大人びてて綺麗な美咲に似合いそうだなって」
「綺麗だなんて、そんな……ありがとう、ちょっと着てくるね」
頬を赤らめながら試着室に向かう美咲の後ろ姿を、斗真は優しく見守る。
一体どんな姿になるだろうか……考えただけで、ワクワクが止まらない。
きっと彼女なら着こなせるだろう。
思いを馳せながら待っていると、試着室のカーテンが開いた。
「あの、ど、どうかな……?」
頬を赤く染めて不安気に佇む美咲の様子に、斗真は口をぽかんと開けて見惚れてしまった。
「変、だった……?」
斗真が何も言わないことを変に受け取ったのか、しゅんとした様子で美咲が呟く。
「ち、違くて! あまりにも似合ってるから、その、つい……見惚れちゃって」
「ほんと? えへへ……嬉しいな」
「~~~~~っ、可愛すぎるよ……」
「も、もうっ! 着替えてくる!」
斗真の反応にまるで茹でられたロブスターのように真っ赤になり、美咲は試着室の奥へと引っ込んで行ってしまう。
やがて元の服に着替えて出てきた美咲は、とてもにこにことしていた。
「ほんとに素敵だったよ。美咲の大人っぽいところと、たまに見せる少女っぽいところがよく反映されてて凄く綺麗だった」
「斗真は私のことを褒めて殺したいの……?」
会計を済ませて歩きながらそう言うと、美咲は再び赤面してもじもじする。
そうして歩いていると、ふと、美咲は切ない表情を浮かべた。
「ねぇ、私……こんなに幸せでいいのかな」
「当り前だよ。むしろ今まで沢山苦しんで、傷付いて、悩んだ分……これからはもっと幸せになろう」
「斗真……うんっ!」
そのまるでひまわりのような笑顔に心臓を高鳴らせつつも、斗真はこの笑顔を絶対に守ると誓った。
それから二人は映画を見て楽しみ、夕方になってショッピングモールを出る。
「今日はほんとに楽しかった……こういう気持ちになるのも、本当に久しぶり」
「また来よう。いつでも」
「……うん」
斗真がそう言うと、美咲は寂しそうな笑みを浮かべる。
「特別な時間だったな」
「二人で過ごす時間は、全部特別な時間だよ」
どちらともなく、二人の手が触れ……そして手を繋ぐ。
それは俗に言う恋人繋ぎというもので、互いの気持ちが本物だという証左だった。
「この心地いい風も……二人で感じるから特別だね」
「そうだね。美咲といると、全部が特別に感じるよ」
「そ、そんなこと言われたら……もっと好きになっちゃうよ……ばか」
「さっき美咲が言ってくれたことだろ?」
じゃれあいながらの帰路はあっという間だった。
夕食を済ませ、美咲が風呂に入り、斗真が風呂に入って少し経ったとき。
美咲は窓辺に座り、夜景を見ながら静かに手紙を書いていた。
やがて書き終えたのかペンを置き、深呼吸をする。
「あと少しだけ……この時間を、大切に……」
「美咲……?」
美咲がハッとして顔を上げると、斗真がリビングに立っていた。
「あ……斗真……お風呂、出てたんだね」
「……ごめん、聞こえちゃったんだ。『あと少しだけ』って、どういう意味……?」
その問いに、美咲の顔が強張る。が、すぐに無理矢理笑顔を作って。
「何でもないよ……ただの独り言、気にしないで」
「聞き逃せるわけないだろ。それに、さっき書いてた紙は……?」
「見ないで!」
思わず出た大きい声に斗真がビックリするのを見て、美咲は小さく「ごめん」と謝る。
「見ないで……お願い。これは……私の弱さなの……」
美咲は震える手で髪を掻き上げ、弱弱しく微笑む。
「…………」
斗真は真剣な顔で美咲の向かいに腰を降ろし、彼女の瞳をまっすぐ見つめる。
「……何があったんだ?」
美咲はゆっくりと立ち上がり、窓際に歩み寄る。
「もう、終わりにしたいの……全部」
「何が君を、そこまで追い詰めてしまったんだ……?」
その問いに、美咲は力なく微笑んで首を横に振る。
「私の中にある闇……消せないの」
その言葉に斗真は少しだけ考え込み、静かに立ち上がって美咲を背後から抱き締める。
美咲はびくりと体を硬直させ、声を震わせながら言う。
「斗真、離して……お願い」
「嫌だ」
「お願い、分かって……これが、私の選択なの……」
斗真は少しだけ、美咲を抱き締める腕に力を籠める。
「なら、俺も君と一緒に死ぬ。独りになんて絶対させない」
「馬鹿なこと言わないで! 生きて……斗真には生きてほしいよ……」
激しく首を横に振りながらそう言う美咲に、斗真は穏やかな声音で語り続ける。
「美咲が俺にそう思ってくれるように、俺も美咲に生きててほしいって、ずっと思ってる」
美咲は手を震わせながらその手を斗真の頬に当て、涙を流す。
「なんで……そんなに、優しいの……」
「美咲が、俺を救ってくれたから」
「私が……?」
彼女の問いに、斗真はゆっくりと頷く。
「昔、全てが嫌になって屋上から飛ぼうとしてたんだ。でも、怖くて足が踏み出せなかった。美咲と知り合ったのは、そのときだよ」
「そんなことが……」
「初めてだったんだ。心の底から安心して、穏やかな気持ちで誰かと話せたのは」
「私も、斗真と話しているときだけは全てを忘れられた……」
それから少しだけ間をおいて、美咲はぽつりと口を開く。
「斗真……あなたが、私の希望だった……」
「……なら、これからも希望でいさせてくれないか?」
斗真はそっと美咲の手を取り、微笑んだ。
「わかった……生きる、あなたのために」
美咲は涙で声を詰まらせながら、斗真の手を握って微笑み返す。
月明りが、二人を優しく照らしていた。
◇
次の日の朝、朝食を食べていると美咲が重い雰囲気で口を開く。
「今日はね、病院に行こうと思うの」
「病院?」
彼女は頷く。
「診てもらわないと、いけないところがあるんだ」
「……そっか。なら、俺も行くよ」
「……いいの?」
斗真は優しく頷く。
「当り前だろ。美咲は俺の、大事な人なんだから」
「……ありがとう。斗真と一緒なら、きっと大丈夫……」
◇
待合室では、よく聞くようなオルゴールが流れていた。
斗真の隣に座る美咲は緊張した様子で、手を握り締める。
「大丈夫、斗真が一緒にいてくれる……」
斗真は彼女の手に自分の手を重ね、そっと握り合わせる。
「うん、大丈夫。俺が傍にいる」
「ありがとう……怖いけど、斗真がいてくれるだけで……」
彼女の恐怖は、握っている手がきつく締められていることから斗真に容易に伝わってくる。
斗真は安心させるように彼女の頭を自分の肩に乗せ、頭を撫でた。
「大丈夫、大丈夫……」
「斗真の手、温かい……」
そうしていると看護師が現れ、美咲の名前が呼ばれる。
「……ッ!」
斗真は再び彼女の手を優しく握り、頷く。
「大丈夫、俺もついてる」
「うん……」
そして診察室に入り、医師から真っ先に告げられた内容は地獄そのものだった。
「心臓に悪性腫瘍があります。既に末期……ここまで進んでしまっては手術で取ることもできず、恐らく余命はあと数日でしょう」
「そんな……」
悲痛な顔を浮かべる斗真とは裏腹に、美咲はどこか受け入れたような、穏やかな表情をしていた。
「治療法は……治療法はないんですか!?」
「これは今までに知られているどの悪性腫瘍とも違っています、今のところ、治療法らしい治療法は……」
医師は申し訳なさそうに顔を伏せた。
「織川さん。今すぐに入院すれば、治療はできずとも延命は可能です。どうされますか?」
医師の問いに、美咲はゆっくりと首を横に振る。
「……いえ、家での安楽死を希望します。最後まで、彼と一緒にいたいですから」
そう言って、斗真の方を見る。
「……そうですか。力及ばず、申し訳ない」
◇
病院からの帰り道、空は美しいまでの夕焼けだった。
「………………」
「斗真、そんな悲しい顔しないで。あなたがいてくれて、本当に良かった」
「諦めない……俺は絶対に諦めないから……」
拳を強く握る斗真に、美咲は悲しそうに首を横に振る。
「もう、遅いの……」
「……いつから、気付いてたんだ?」
「半年前、くらいかな……」
それは、ちょうど斗真と美咲が屋上で知り合ったあたりの頃だった。
「毎日屋上で朝日を見ていたのは……現実から逃げてたから、なんだ」
「飛び降りようとしていたのも、それが原因で……?」
美咲は寂しそうに笑う。
「……そう。苦しんで死ぬのが怖くて、逃げたかった。情けないよね、私」
「そんなこと……そんなことない」
斗真は悔しそうに目を瞑りながら、首を横に振る。
その目からは一筋の涙がこぼれた。
「泣かないで……あなたが笑顔でいてくれることが、私の願い」
「みさ──」
そして彼女の方を斗真が見ようとした瞬間、美咲が苦しそうに胸に手を当ててかがんでいるのが見えた。
「美咲!」
斗真は近寄ると、慌てて担ぐ。
「病院、病院に行かないと!」
しかし、美咲は弱弱しい手で斗真の服を握った。
「家に、帰りたい……私たちの家に……」
「………………分かった」
彼女の願いを聞き届け、斗真は急いで、しかし彼女を揺らさないように家までの道程を走る。
そして家につき、ベッドに彼女を横たえた。
美咲の呼吸は浅く、顔色は悪い。
もう今すぐにでも、彼女の命の灯火が消えそうであることは明白だった。
「斗真……」
「うん、俺はここにいる。どうした?」
何かを探すように持ち上げられた美咲の手を握り、必死に呼びかける。
「ありがとう……最後まで、傍にいてくれて……」
「当たり前だ。ずっと、ずっと俺は君の傍にいる」
彼女は弱弱しく微笑み、もう片方の手を天井に伸ばす。
「私ね……本当に嬉しかったの」
「……何が?」
「毎朝斗真と朝日を見れたこと、壊れそうになっていた私を斗真が救ってくれたこと、斗真と恋人になれたこと、そして……最後を斗真が看取ってくれること」
「そんなこと……そんなこと言わないでくれ……俺たちの幸せは、まだここからが始まりだろ……?」
「ごめんね……」
彼女の謝罪に激しく首を横に振りながら、斗真は美咲の手に頭を擦り付ける。
美咲の呼吸はほぼ止まっているのと同義のように浅く、口から漏れ出る吐息は弱弱しい。
終わりが近付いていた。
斗真は意を決し、美咲の顔を覗き込む。
「……美咲」
「な、に……?」
「愛してる」
その言葉に、僅かに美咲の目が見開かれる。
「美咲のことを、世界で一番愛してる」
「嬉しい……私も、斗真のことを……ずっと、愛してる」
美咲の瞳から涙が溢れだし、震える口から言葉が紡ぎ出される。
「今、一番……幸せ……」
その言葉を聞き、斗真は声にならない嗚咽を漏らした。
「運命は、なんでこんなに残酷なんだ……」
しかし、その頬に美咲が手を添える。
「運命は、優しいよ……だって、あなたに出会えたから……」
「美咲……」
彼女は弱りながら、それでもしっかりと斗真を見て言葉を紡ぐ。
「斗真……ありがとう……愛してる……」
その言葉を聞いて、斗真は美咲の唇にそっとキスをした。
多分、世界で一番優しいキス。
「初めての……キス……」
「俺も、初めてだったんだ」
美咲は小さく微笑む。
「最高の……思い出……ありがとう……」
斗真は安心させるように、美咲の手を撫でる。
ゆっくりと美咲の瞼が閉じ始める。
「温かい……」
「ゆっくりおやすみ……美咲」
眠るように目を閉じ、穏やかな表情で彼女は最期に言った。
「ありがとう……斗真」
そして静かに呼吸が整い、穏やかな表情のまま動かなくなる。
手がするりと斗真の手から抜け、ベッドの上に落ちた。
「……美咲?」
美咲は反応せず、ただ穏やかな寝顔のままでそこにいる。
「……美咲」
斗真の瞳から、次々と涙が流れだす。
彼女の体からは、徐々に温もりが失われ出していた。
「嫌だ……こんな運命、嫌だ……!」
斗真は動かなくなった美咲の体に縋りつき、泣きじゃくる。
彼女はもう、動くことはない。
彼女はもう、笑うことはない。
彼女はもう、話すことはない。
◇
数時間後、泣き腫らした斗真は愛おしそうに美咲を撫で、立ち上がった。
ふと、思い出したのだ。
昨晩、美咲が何かを書いて隠していたことを。
「確かこの辺りに……」
それはすんなりと見つかった。
『斗真へ』
そう書かれた手紙の封を開け、中を確認する。
そこには、斗真への想いが綴られていた。
『斗真へ
いつもそばにいてくれて、ありがとう。
あなたの存在が、私の支えでした。
あなたの笑顔を見るとドキドキした。
あなたと傍にいると心が落ち着いた。
あなたと過ごした時間は全部宝物みたいで……ううん、私の一番の宝物。
先に逝ってしまって、ごめんなさい。
寂しい思いをさせてしまって、ごめんなさい。
でもね、私、ちっとも怖くなかったんだ。
あなたがいてくれるだけで、不思議と勇気が湧いてきて……
だから、覚悟はできてるの。
でも、もし許されるなら……また、あなたに会いたかったなぁ』
そう書かれた遺書の字は震えていた。
あの日の晩、彼女はどんな気持ちでこれを書いていたのだろうか。
斗真それを知ることは、もうできない。
「美咲……」
斗真はちらりと美咲の寝顔を見て、それからベランダに視線を移す。
その瞳には、悲しみの他にそれよりも強い決意の光が宿っていた。
「…………」
ベランダに出ると、優しい穏やかな風が頬を撫でた。
「美咲……もしかして、君なのか?」
その声に答えるように、再び風が斗真を撫でる。
「ははっ、君は……見守ってくれてるんだな……」
さっき枯れるほどの涙を流したというのに、また一筋の涙が斗真の頬を伝う。
「……俺は、神を信じる」
ふと呟かれたその声には、強い決意が宿っていた。
「もし美咲が言ったように、運命が優しいものだというのなら、きっとまた会わせてくれるはずだ」
何かを察したかのように、風が強く吹き始める。
斗真は柵に近付き、下を見る。
遥か眼下にはアスファルトが広がっており、通行人の姿は一人も見えない。
その時、強風が斗真を押し戻した。
「美咲……俺を、止めてくれてるのか?」
斗真は振り返り、最後にもう一度だけ美咲を見て、それから前を向く。
「……ごめんな、だとしても俺は」
後ろに下がり、助走をつける。
「守ってみせる、美咲がいる運命を!」
そして柵を乗り越え、飛んだ。
◇
『ニュース速報です、本日十七時三分、マンションの敷地で若い男性の遺体が発見されました。また、男性の部屋には女性の遺体が発見されており、警察は死体遺棄と自殺の両方の線で捜査を進めています』
◇
──ループ一七三九二回目。
自分の部屋で、斗真はゆっくりと目を覚ました。
慣れた手つきで時計を確認する。
日付は【二〇二九年、六月四日】。
いつものように目覚め、いつものようにシャワーを済ませる。
永い、永いループを過ごした。
しかしそれも今日で終わるかもしれない。
「待ってろ、美咲」
◇
今回も美咲の自殺を止めた後、斗真は一人、病院に向かっていた。
理由は当然、美咲の命を救うためだ。
もちろんこのルートは今までに何百回も試した。
だが、全てが失敗に終わった。
それでも今回は違う。
院内を歩いていると、とある医師を見つける。
美咲に余命宣告したあの医師だった。
斗真はその医師に駆け寄った。
「どうかしましたか?」
「お忙しい所申し訳ありません、実はどうしても救って欲しい女性がいるのです」
「……続けて」
「その女性は心臓に悪性腫瘍を持っています。ステージは既に末期で、彼女の名前は……織川美咲」
その名前を出した瞬間、医師の顔が曇る。
「あなたは、血縁者の方ですか?」
「いえ、恋人です。ですが、事情は全て知っています」
「そうでしたか……しかしあの方は、もう……」
医師が紡ごうとした言葉を制して、斗真は続ける。
「実は、適切な処置法を知っているんです」
「なんだって? 君は、医学界の者かい?」
「いえ、残念ながら……でも、本当です」
そう言うと、医師の顔に怒りが浮かぶ。
「人の命がかかっているんだ、軽々しくそのような冗談を言うんじゃない!」
しかしその怒気を受けてなお、斗真はまっすぐに医師の目を見つめる。
「確かに信じていただけないことは十分に理解しています。ですが、これは冗談でも適当でもありません。本当のことなんです。俺はただ、彼女を救いたいだけなんだ」
「何を根拠に……」
次の瞬間、斗真は医師に土下座をした。
「お願いします、彼女を救えるのは貴方しかいないんだ! どうか、どうか美咲を助けてください!」
斗真の必死な訴えに医師は混乱していたが、しばらく経っても斗真が顔を上げる様子がないのを見かねて、その肩に手を置いた。
「医療に携わる者として、君の話を聞き入れることは出来ない。だが、それでも話だけは聞こう。私の部屋へ」
「ありがとうございます……ありがとうございます!」
それから斗真は医師の部屋に案内され、そこで美咲の悪性腫瘍に関する話をした。
いずれも、この気の遠くなるようなループの中で必死にかき集め、勉強した努力の結晶だ。
医師は時折うなり、時折小さな質問を入れながらも最後まで話を聞いた。
「確かに、君の見解は医学的にも筋が通っている……君はいったい?」
「ただの恋人を救いたい大学生です」
医師は難しい顔をしながらも頷く。
「先ほども言ったように、君は医学界の人間ではない。君の発言を鵜呑みにして患者の命を危険に曝す可能性があるなど、言語道断だ」
「…………」
しかし次の瞬間、医師は斗真の肩にそっと手を置いて優しい声で言った。
「だが、約束しよう。全力を尽くすと。君が……君の恋人が諦めていないのに、私が諦めるわけにはいかない」
「先生……! お願いします!」
最後に斗真は医師に深く頭を下げ、病院を後にした。
◇
全力疾走で家に帰り、美咲に事情を説明した斗真はすぐに病院に向かった。
手術はすぐに始まった。
薄暗い待合室の中、いくつかの蛍光灯と『手術中』の赤いランプだけが転倒している。
「美咲……」
斗真は椅子に座り、祈るように手を組んで親指に額を置いている。
思い出すのは、彼女との想い出ばかり。
恋人となったのはたったの二日だが、それ以前の交流も、全てが彼にとって大切なものだった。
時間なんて関係ない、大切なのは絆の強さだった。
ループの中で、色々な場所に行った。
彼女の中には残らないが、斗真の記憶には全て残っている、かけがえのない思い出。
斗真が一番好きなのは、褒められたときに見せる照れくさそうな笑顔と、美味しいものを食べたときの桜のように儚く綺麗な笑顔。
また彼女が笑ってくれるのなら、斗真はこれから何百万、何千万回だってループをするだろう。
美咲を救うためなら、斗真は全てを捧げる覚悟だった。
どれだけの時間が経っただろうか。
斗真にとっては、もう何日も経ったような錯覚さえ覚えていた頃。
『手術中』のランプが消え、中から医師が出てくる。
「っ先生!」
斗真はその姿を見た瞬間、駆け寄る。
「結果は……美咲は無事ですか!?」
医師は斗真の目をじっと見つめる。
「結果は……」
斗真は祈るように、しかし医師からは絶対に目を離さずに言葉を待つ。
「成功です」
その言葉を聞いた瞬間、斗真は今まで張りつめていた全身の力が抜けたようにへたり込んだ。
「あ……あ…………あぁ……」
涙が溢れて止まらない。
言葉にできない感情が、彼の全身を駆け巡っていた。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます……!」
医師の足に縋るように、何度も何度も地面に頭を打ち付ける。
「奇跡という他ありません。ですが何より頑張ったのは、あなたとあなたの恋人……美咲さんです」
「美咲……美咲には会えますか?」
「今はまだ術後の麻酔が抜けていないので無理ですが、明日には」
「美咲……」
斗真はふらふらと立ち上がり、もう一度深く医師に頭を下げた。
「先生、美咲の命を救ってくださって、本当にありがとうございました……!」
◇
暖かな初夏の風が吹き込む病室。
そのベッドの上に、彼女はいた。
「美咲」
斗真がそう呼ぶと、彼女は嬉しそうにこちらに顔を向ける。
「斗真……来てくれたんだ」
「もちろん。手術成功、本当におめでとう」
「私……生きてる」
美咲は弱々しく斗真に手を伸ばす。
斗真は椅子を引いて美咲のベッドの横に座り、その手をしっかりと握りしめた。
「ありがとう……あなたのおかげ……」
斗真は首をゆっくり横に振る。
「頑張ったのは美咲だよ」
その言葉に美咲は弱々しく微笑み天井を見上げた。
「私ね、手術をしている間、長い夢を見てたの……」
「夢?」
斗真の問いかけに、美咲は頷く。
「沢山の……斗真との想い出。おかしいよね。私たち、まだデートもしたことないのに……色んなところに行って、色んなものを見て……」
その言葉に、斗真の心臓はドキリと跳ねる。
「一番嬉しかったのはね、夢の中で斗真が服を選んでくれたの。私に似合うからって、白いお洒落な服……斗真?」
気付けば、斗真の両眼からは涙が溢れていた。
美咲は微笑んで斗真の涙を拭おうとし、気付く。
「どうして、泣いてるの? ……あれ、何でだろう? 私まで泣いちゃってるや……」
「美咲」
「なに? 斗真」
「きっと、正夢にしような。これから二人でいろんな場所に行って、いろんなものを見て、いろんな経験をして、それでさ……」
「うん」
穏やかな顔で言葉の続きを待つ美咲の瞳を見つめ返し、斗真は意を決して言う。
「結婚しよう」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の目からぽろぽろと涙がこぼれ出る。
「私と、斗真が……?」
「うん」
「私なんかで、いいの……?」
「美咲だからいいんだ」
「これからは、ずっと一緒にいられるの……?」
「ああ、たとえ寿命で死んでも何回、何十回生まれ変わっても一緒だ」
「嬉しい…………」
そうして斗真と美咲は抱き合い、そっと唇を重ねた。
これからの運命は分からない。
だが、間違いなく二人を引き裂こうとしていた悲劇は消えたのだ。
◇
【二〇三〇年、六月四日】
「斗真ー! 起きて起きて! もう朝だよ」
「うーん……もうちょっとだけ」
「ダーメ、しゃきっとしなさい!」
シャッと音を立てて開かれたカーテン。
そこから射し込む眩しい朝の光に、斗真は思わず目を覚まして体を起こす。
「おはよう、美咲」
「おはよ、斗真」
美咲はエプロンを付けながら窓辺に立ち、空を見上げる。
「やっぱり朝は最高だね。生きてるって実感する!」
「ははっ、美咲もすっかり元気になったよな」
美咲はポニーテールを揺らして、明るく笑う。
「うん! 生きてるって本当に素晴らしい! もう二度と死のうなんて馬鹿な事考えなくなったよ」
その言葉に感無量になり、斗真は思わず美咲を背後から抱き締めた。
「もう~! 朝からべったりなんだから~!」
美咲は困ったように笑いながらも、幸せな表情を浮かべて抱き返す。
「ほら、行こ? もう朝ごはんできてるから」
「うん、美咲のご飯美味しいから楽しみだよ」
そうして二人で部屋の出口に向かう。
部屋を出る直前、美咲がくるっと振り返って太陽のような笑顔で言った。
「これからもよろしくね、旦那さん!」

