勢いのままに事務所を出てきたマキシと礼真はしばらく無言で歩いていた。
「偉そうに言ったけどさ、どの状態になったら、俺ら勝ちなんだろう」
礼真はぽつりと言った。
「…レイマは勝ちたいわけじゃないでしょ」
「真美がもう誰にも迷惑かけないで、悪いこともしないって約束したら、成仏っていうの?それができるまであそこにいてもいいんじゃないかって…。俺も会いに行くし」
少し歯切れ悪く言った。
それが難しいだろうということは、礼真にもわかっていた。マキシは前を向いたままで、
「もし、あいつが聞き入れなかったら、俺が考えてるプランで行っていい?」
マキシは言うと、礼真の方を見た。
「いいよ。きっとマキシは間違えないから」
と、礼真は少し笑った。
その言葉と表情に、マキシの中のないはずの心臓が、高鳴ったような気がした。
「俺、わりと間違えるけど」
照隠しでマキシがそう言うと、礼真はまた少しだけ笑った。
「でも、文系の俺よりは正解率高いだろ」
「あーまだ気にしてたんだ、アレ」
初めてあった頃にマキシが礼真のことを文系ぽいーと笑ったのをまだ根に持っているらしい。そんなことまだ気にしてたんだと思う反面、気にしていた分マキシのことを思い出していたと思うと、たまらない気持ちになる。
「気にするだろ普通」
ぷいっとする礼真の横顔に笑ってしまう。
今からラスボス対決に行くというのにこれかよ…とマキシが思っていると、そのラスボスの家の玄関前に着いていた。
「着いちゃったな」
礼真が言う。
「だね。あっ礼真、スマホ貸して」
マキシは頷くと、手を出した。
「なに?」
言いながらも、礼真は出された手の上にスマホを置いた。
「朝と違って、日差しはもう家には入ってない。完全に家の中はあいつの領域だから、マキシホットラインはずっとつなげたままで」
「電波でつながってるとゼロ距離になるから…だっけ?」
「そうそう、スマホを通じて俺の霊力で礼真を包むから、あいつの影響も少ないはず。はいできた。どう?」
「うん…わかる。マキシが二人いるるみたい」
スマホを手にすると、そこからもマキシの気配のようなものを感じる。礼真はスマホを握ってから、ポケットに入れた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
マキシが先に立って、玄関を開けた。
マキシの後に続いて入った礼真は、玄関の光景に改めて息を飲んだ。
靴箱の上には灰色の埃が積もり、床には乾いた泥と砂が広がっている。玄関には、長いあいだ誰も出入りしていない空気が淀んでいた。
やっぱり、これが現実…と、無意識に下唇の内側を歯で押して、礼真は視線を落とした。
「レイマ」
マキシに声をかけられて、礼真は顔を上げると、マキシと一緒に居間に入る。
朝には光が入って居間は薄暗くなっていた。
「お帰りなさい、お兄ちゃん。やっぱり帰ってきてくれた」
真美が姿を見せた。居間へ入ってくる。
どう見ても、生きている人間にしか見えない。礼真にはそれが悲しかった。
「あら、お兄ちゃん、隣のお人形は私のお土産?くれるなら早くちょうだい。首ねじきって、手足引っこ抜くから」
笑顔も声も礼真が知るかわいい妹の真美だったが、その言葉と声の向こうにあるどす黒くねばつくものが見えてしまう。
「真美…」
「冗談よ、そんな木偶人形欲しくないわよ、私が欲しいのはお兄ちゃんだけ」
真美はちょっと首を傾げるようして上目つかいでねだってくる。
「真美」
のまれるな…と、自分に言い聞かせて礼真は呼びかけた。
「なあに?私のところに戻ってきてくれる?」
「このままじゃだめ?」
にっこり笑顔の真美に、礼真は精一杯いつも兄の顔で言った。
「は?」
瞬間、真美の笑顔が消えた。
「俺は真美から変な操作されなくても、真美のことは大事って思ってる。もう誰にも迷惑かけない、悪いことしないって約束して。それで、真美がここにいたいっていうなら、いていいよ。俺は真美に会いくるよ。それじゃだめ?」
「あはっバカなの?お兄ちゃんがこんなにバカだなんて!おかしいー」
礼真が柔らかく言った言葉を、真美は嘲笑して、叩き落とした。
「おい!レイマはお前のことを」
礼真がどれほど悩んで、考えたのか近くで見ていたマキシは思わずというように声を上げていた。
「私のこと?私のことをってなに?私の為にそんなバカみたいなこと考えたわけ?考えてくれなくてもいいのよ!思考をそんなことに使うくらいなら私の支配を受けて、なにも考えないで!私の傍にいてっ私がお兄ちゃんって呼んだら、真美って答えてくれるだけでいいのよっ!!」
真美の声は徐々に大きくなり、口調は早く激しくなる。最後の方はヒステリックな叫びになっていた。
初めて聞く真美のそんな声に、礼真は口を閉じたまま視線を落とした。これが現実だと、はっきりと理解した。
礼真は無意識に、横に立つマキシの手を握っていた。いきなり手を握られてマキシは、はっとして握られた手と礼真を見た。
礼真は別の空間を見ているような目で、じっとなにもない一点を見つめていた。
真美は礼真という存在そのものではなく、ただ忠実に役割をこなすだけのモノを礼真に求めている。
絶対に交わることがないと、真美の言葉はそれを礼真に突きつけていた。
「はぁ、話しにやらないな。悪霊ロリババア」
マキシは吐き捨てるように言った
「は?なんですって?」
聞き捨てならないと、真美がマキシを睨んだ。
「話しにならない、悪霊ロリババアって言ったんだけど」
「ババア?」
「礼真はお前に機会をくれたんだぞ。」
「はあ?うるさい、本当にうるさいわ、あんた!」
真美は叫ぶと傍らに落ちていたものをポルターガイストで飛ばしてマキシにぶつけてきた。
マキシは飛んできたものを右手で受けた。
ベチャと柔らかく溶けた感触のものが手にべったりついた。スーパーのビニールに入った腐ったイチゴだった。
マキシの手に当たって、ずるっ落ちていくそれを見ていた礼真の顔が歪んだ。
真美は赤黒く汚れたマキシの手と服をみて、
「やだぁちゃんと避けないと、生ゴミで汚れちゃったじゃなーい。汚ーい」
わざとらしく手で口を覆って、笑い出す。
その瞬間、ビリと空気が震えた。
「マキシ?」
ポケットの携帯から感じていたマキシの霊気があきらかに変わって、礼真はマキシを見た。
「霊は、食べられないから、腐るのはしょうがねぇよ。けど、生ゴミじゃねぇだろ!これは!レイマがお前の為に買ったヤツだろ!」
マキシが怒っていた。
怒りと、痛みと、悲しみで体を震わせていた。それに呼応するようにマキシから発せられている霊気も震える。
マキシは軽くて、余裕があって、楽しくて、そんな彼しか見たことがない礼真は呆然とその姿を見つめた。
マキシが怒っている。自分の為にこんな風に怒る人間がいる…こみあげてくるものを、礼真はやっとのことで堪えた。
「お前、これ買うときどんだけ礼真がお前のこと思ってたか、想像もできねぇだろうな!」
カオスのようだった事務所の片づけをしているとき、マキシと礼真はいろんな話をしていた。
その中で、礼真が自由にできる少ない小遣いで、なるべくきれいで、甘そうなイチゴを店員に変な目で見られるほど選びに選んで、真美に買ってやったのだと、自虐めいた調子で話していたのを、マキシは覚えていた。
マキシはその話を聞いて、礼真にそれほど心を砕かれている妹の存在に秘かに嫉妬していた。
「は?うるさ。別に頼んでないし、お兄ちゃんが勝手においていっただけじゃない。きれいなイチゴでも、高級メロンでも、腐れば生ゴミでしょ」
「じゃあ、お前も生ゴミだな」
面倒くさそうな真美が言い終わった瞬間に、マキシが突っ込みのようにその言葉を叩き落とす。
真美がギっとマキシを睨みつけた。マキシに対する反撃の言葉が続かず、結局出てきたのは、
「うるさいっうるさいっ」
だった。
ヒステリックに叫び続ける真美。それに呼応するように、居間のテーブルが浮き上がった。
「マキシっ」
後ろからの異様な気配に気付く。
振り向くと突っ込んで来たテーブルが目の前まで迫ってきていた。
マキシが左手でそれを払う。
音もなく、テーブルは切り裂かれて、バラバラになって床に落ちていた。
「すご」
マキシは自分の手の威力に驚く。
礼真は目の前にあるマキシの左手に目を見開いた。
指先が長く鋭利に尖り、木肌がそのままで、関節の稼働部がむき出しの腕があった。
「それが…アレ?」
「そう、これがアレ」
「アレすごいな」
「いや、俺もびっくり」
礼真の声の中にはわずかなわくわく感があった。マキシの同じだ。
こんな状況でも、男子のこういうものへのわくわくは抑えられないものらしい。
「なによ、その腕。人形の関節むき出しじゃない。見苦しい。」
真美が冷やかに言う。
「制作途中だからね。けど、大事な人を守るためならなりふりかまってられないだろ」
マキシは腕を見せつけるようにして、礼真の肩を抱いたまま、真美に向きなおった。
「マキシ…」
大事な人。さらりと言われた言葉に、礼真の鼓動が跳ねた。思わずマキシの横顔を見つめると、マキシも礼真を見ていた。
礼真の顔がじわっと赤くなる。
真美は二人の様子に、頬の辺りをぴくぴくさせながら、
「そうよね。そこは同意見だわ。なりふりかまってられないわよね」
こっちを向けっというように、ことさら大きくゆっくりと真美が言う。
真美のその言い方、言葉に礼真が反応した。
「…真美、お前なに考えてる」
「さすがお兄ちゃん、私のことやっぱりわかってくれてる」
「真美っ!」
「あのね、考えたの。お兄ちゃんがどうやったら、私のところに戻ってきてくれるかって。それでね、それでね、思いついたの。帰るところがなくなればいいんじゃないかって」
礼真の関心が引けたと、真美の口調は幼い子供のようなものになっていく。
「お兄ちゃんの本当の家族がいなくなったら、諦めてくれるよね。私の家族になってくれるよね」
真美は胸の前で手を合わせて、ちょこっと首を傾けた。
礼真になにかを強請るときのいつものポーズだった。
それがかわいいと思っていたのに、今は恐ろしい。
「悪霊ロリババアっお前」
マキシも不穏を察して、睨みつけた。
「お父さんに頼んだの。お兄ちゃんの本当の家族を壊してきてほしいって」
「…本当の…って母さんと…琉輝空のことか?」
礼真は一瞬、ひゅっと息を飲んで、絞り出すように聞いた。
「さあ?でも、お父さんは私の言うことはなんでも聞いてくれるから、今頃は…ねっ」
真美は楽しくてたまらないというように、笑っている。
「クソっ」
「あっ礼真」
礼真は居間から駆け出した。
「逃がすわけないでしょ」
真美が叫んで追いかけようとしたが、マキシが立ちはだかった。
「出られないわよ」
「どうかなぁ」
二人が入ってきた時点で、この家を「閉じた」状態にしていた真美はニヤっと笑ったが、マキシもニヤと応えた。
バァンと玄関のドアが勢いよく開く音がして、礼真が駆け出していく足音が聞こえて、真美は信じられないと目を見開いた。
「礼真っ一人で行かせてごめん、俺もすぐ追いかけるから」
マキシが言うと、
『大丈夫、つながってるだろ』
と、マキシのスマホから礼真の声がする。
「どうして…」
「さあ?それより、思う存分やろうか、最低悪霊ロリババア」
マキシは左手をかまえた。
目をぎらつかせて、口を歪めた真美が、部屋の中のものを浮かせる。
「軽口叩けるのも今のうちよ、バラバラしてやるわ、木偶!」
真美の家から走り出た礼真はふっとその足を緩めて、スマホを、取り出した。
四角いアイコンが並ぶ中で丸い形のマキシホットラインのアイコンが、ピコピコ光っている。
その光で確かにマキシと繋がっている…と、礼真はふっと強張っていた表情を緩めて、画面で時間を確認すると、また表情をひきしめた。
「この時間なら、琉輝空を学童に迎えに行ってる」
母はいつも仕事が終わるとそのまま琉輝空を学童に迎えにいく。
礼真は行き先を変えて走り出した。
走りながら、礼真はいつも自分を殴ってくる父を思い出していた。
大きな体でいつも、覆いかぶさるように礼真に暴力をふるっていた父は偽物だった。
幻に怯えさせられていたと、わかった今、父と対峙することは怖くなかった。
それよりもあの父が、母と琉輝空になにをしようとしているのか、二人は無事なのか、それを考える方が怖かった。
期待して裏切られるのも、傷つけられるのも、母が苦しんでいるのも、苦しくて痛くて、母のことも、弟のことも考えないようにしていたのに、今は二人の無事をひたすら祈っている。
走りながら礼真は笑っていた。
大通りに出た。礼真は荒い息をつきながら、足を緩めた。
もともと、体力がある方ではない。
脇腹が痛む。
礼真は脇腹をおさえて、辺りを見まわした。
「いた!よかった…」
横断歩道の向こう側、赤信号を待つ母と琉輝空の姿があった。
琉輝空のランドセルを持つ母と、琉輝空はお互いの顔を見合わせて、楽しそうに話している。
この楽しそうな会話は、いつも礼真の姿が見えるとブツと途切れる。
室温がほんの少し下がるようなあの空気を思い出して、礼真は二人から目をそらした。
このまま、こっそり二人のあとをつけようか…と考えていると、信号が青に変わった。
母と琉輝空は話しながら、信号を渡りはじめる。
そのとき、礼真の耳に異様なエンジンの音が聞こえた。
信号待ちをしている一台が、アクセルをふかしていた。
礼真はその車の運転手を見て、大きく目を見開いて、駆け出した。
真美がお父さんと呼ぶ、あの父だった。
車は突然、大きな音を立てて、礼真の母と琉輝空に向かって走り出した。
礼真は走った。
叫んだ。
手を伸ばした。
迷うことなく、母と琉輝空を着き飛ばすようにして、車と二人の間に入った。
礼真はハンドルを握る父を見据えた。
殴られているときは、目を閉じてしまって、まともに見たことがなかった父の顔。初めて正面から見たその顔は、見知らぬ人の顔になっていた。
その瞬間、礼真の体は衝撃に吹き飛ばされた。
礼真の視界がぐるっと回る。
蒼白になっている運転手、夕暮れの空。
もう一度全身に衝撃。
そして、アスファルト。横断歩道の白と流れている赤。
部屋中のものがマキシに向かって飛んでくる。
「もうっもう、壊れなさいよ、来ないでよ」
椅子、鏡台、箪笥の引き出し、自分に向かってくる全てを左手で薙ぎ払いながら、マキシは真美へ近づいていく。
真美の起こしたポルターガイストで、あらゆるものが飛び交う部屋の中、マキシは唯一床にそのままの状態で、ぴくりとも動いてないものを見つけていた。
それが真美が霊になっても力を保つことができる依り代だとマキシは予想していた。
マキシは真美を通り過ぎた。
「っ…え、ちょっと…」
真美が目を見開いた。マキシの意図を察した真美の顔がひきつった。
「やめて、や…えっ…」
自分を無視して、真っすぐに、床に敷かれた布団の掛け布団をはぐったマキシを止めようとした真美が固まった。がくがくと唇が震える。
「なっ…なにしてるのよ、お父さん…お兄ちゃんを壊しちゃったら意味ないじゃない!」
真美が叫んだ。と、同時にマキシは、そこにあったものに深く左手を突き立てた。
「えっ…」
「は…?」
真美は自分の霊力が消えていくことに、マキシは真美の叫んだ言葉に、声を上げた。
真美はマキシが引き裂いた、服も頬も薄汚れ、髪もぼさぼさに擦り切れてたミルク飲み人形の傍に崩れた。
育児放棄され、命を落とした真美にとって、それは唯一、自分が誰かに愛されていたと信じられるものだった。どこに行くこともできなかった真美の魂はそれを依り代にしていた。
が、マキシの手によってバラバラされたそれはもう依り代としての力を失っていた。
マキシは真美の言葉に呆然と立ち上がった。
「レイマ…レイマ!」
スマホに呼びかけるが、返事はない。
「レイマっ」
マキシは真美がどうなかったのか確認することもなく、真美の家を飛び出した。
マキシは走りながら、霊力を繋がっている礼真のスマホに飛ばして、その場所を特定する。
走っていくマキシの耳に、パトカーや救急車のサイレンが聞こえて、あるはずのない心臓がバクバクと脈打っているように感じて、マキシ胸を押さえた。
大通りに出ると、横断歩道の真ん中に、見慣れた形…礼真が横たわっていた。
救急隊員が礼真を担架にのせているのが見える。
が、マキシの目にはそれが、礼真だったものにしか見えなかった。
マキシはスマホを取り出すと、耳にあてた。
「所長、俺です。レイマの体作ってください。なる早で。魂は俺がつれていくんで。お願いします…」
マキシは一方的に言うと通話を切って、辺りを見まわした。
白く光る玉…礼真の魂がどこかにいるはずだとマキシは確信していた。
「どこかに…」
マキシは記憶をたどる。
500年前のあのとき、光る玉はどうしていたか。
マキシの頭の中に、いつもの場所で、生きていたときと同じように動く玉の姿が蘇る。
「いつもいた場所、レイマの好きな場所」
マキシは呟くと駆け出した。
礼真の学校に向かった。
真美の支配を受けながらも、礼真は学校にはちゃんと通っていた。
学校の門は閉ざされていたが、マキシはそれを軽々と乗り越える。
「レイマ」
入口は施錠させていたが、左手が壊して中に入った。
こっくりさんが行われていた教室に行き、礼真の教室も、ロッカーも開けたが、白い玉の姿はなかった。
「クソっどこだよ」
マキシは学校を出て、礼真の本当の家へ向かって、ちょっと考えてから、ゴールデンレトリバーのマックスの家の庭に入った。
マックスはもう家に入っているらしくあのふわもふの姿はなかった。
マキシは、子供の頃に礼真が住みたいと言っていたマックスの小屋を覗き込んだ。
が、そこにも白い球はなかった。
マキシは髪をガシガシとかきむしって、
「まさか、あそこか…」
と、嫌そうに呟くとまた走り出した。
そして、真美の家へ駆け込んだ。
「なによ、なにしてるの。もう、いいでしょ、やめて」
バラバラになっている人形の傍らで、怯えて声を上げる真美を完璧に無視して、マキシは無言で家探しの勢いで、玉が隠れていそうな場所をひっくり返してまわる。
「ちっ」
マキシは舌打ちすると、そのまま真美の家を出て行った。
「もう、どこに行けばいいんだよ…」
マキシは頭を抱えるようにしながら、走る足を緩めた。
スマホを取り出しす。
「所長…いや、まだ見つからなくって…はい、えっ…はい、一度戻ります…はい」
花子に戻って来いと言われ、疲れることはないはずの体をひきずるようにしながら、事務所への道を戻った。
戻りながらも、その目は白く光ものを探してしまう。
「レイマ…本当にどこにいるんだよ…」
マキシは祈るように呟いた。
ふよっその視界の端に、白く光る玉が見えた。
「っ!」
マキシははっと顔を上げて、駆け寄った。
白い玉は、花子の事務所、ミロクセキュリティが入っている雑居ビルの入口の陰で、控えめにふよふよ浮かんでいた。
「レイマ…」
マキシにはそれが礼真だということがすぐにわかった。
ゆっくりと近づいて手を伸ばすと、白い球は戸惑うように揺れながらも、マキシの傍にやってきた。
「もー中で待ってて良かったのに」
マキシが泣き笑いのように言うと、その口に白い球がむにゅとぶつかってきた。
「は?…え?」
マキシの口にむにゅとぶつかった玉は少し、しょもっと小さくなって、マキシから離れようとする。
「うわ、待って待ってぇレイマ…覚えててくれたんだ、愛情表現…ありがとう」
マキシが言うと、白い球はふわりと広げたマキシの腕の中に収まった。
礼真が、花子の作った人形に魂をうつして1週間がたっていた。
礼真は目を覚ましたときから、人形の体に違和感を感じることなく動いて花子を驚かせていた。
が、花子は事務所内をうろうろする礼真に眉をしかめる。
「まだ、完全に魂と身体がくっついてねぇんだよ。そんなに動きまわるな。」
増えてきた段ボールを片づけようと持ち上げていた礼真は、それを下ろした。
「はい、すみません」
手持ち無沙汰になった礼真はソファに座った。
「全然、元気なんだけど」
「お前の主観の問題じゃねぇんだよ。急いで作ったから外装もまだふにゃふにゃだし、魂と体もなじみきってないし、まったく」
ブツブツ言う花子を横目で見ながら、礼真の横に座ったマキシが、
「乾燥待ちのプラモデルみたい」
と笑う。
「それなっ!」
ひそひそ言い合っていると、
「あぁ、それから野良浮遊霊にも気をつけろ。あいつらは入れるものがあったら入り込もうとするからな。今の状態だと、お前が追い出されて身体取られるかもしれん」
花子が今思い出したように言う。
「え!怖!」
「そういうことは早く言って!だいたい所長、そういうところ、本当にいい加減なんだから、俺のときもさー」
「うるさい、だまれ、しゃべるな」
「レイマー所長がいじめるー」
「礼真、バカを甘やかすな」
マキシがわざとらしく泣きマネをして、花子がそれを冷たくあしらう。二人の定番のやりとりに入れてもらっていることが、礼真は嬉しく表情が緩むのが抑えられない。
そんな礼真の顔を見て、マキシと花子は一瞬目を合わせた。
数日が経った。
「じゃあ、行ってきます」
礼真は事務所のドアに手をかけて花子に言った。
花子から外出の許可が出たのだ。
「何度も言うが、野良浮遊霊には気をつけろよ。まだ、お前はあいつらと戦えないからな。マキシは引き続きボディーガード。」
花子が珍しく入り口まで出てきて、礼真とマキシを見送る。
「はーい!」
子どものように手を上げるマキシを軽くながして、
「今日は様子見だ。なるべく早く帰って来い」
と言いながらも、帰りにはマールボロ2箱買って来いと命じられた。
二人は花子とベア吉に送り出された。
「どこ行く?」
マキシは歩きながら右側の礼真を見た。
久しぶりの外の空気が嬉しいのか、礼真の顔は明るい。
「んー俺の家、ちょっと見てみたい」
礼真が少し考えて答えた。
礼真は人形として復活すると、家族について記憶だけをほとんど失っていた。
反面、マキシや花子についての記憶は鮮明だった。
「家か」
マキシは呟くと、真美の家へ向かう左の道を選んだ。
少し歩くと、もうそこに真美の家はなかった。更地になり、隣の空き地と同じように、売地の看板が立てられていた。
「ここが俺の住んでたとこ?もうなにもないんだな」
礼真が横に立つマキシに聞く。
「どう?なんか思い出す?」
マキシの問いに、礼真は空き地を見つめて、少し首をかしげた。
「ごめん、思い出せない。ただ、なんか怖かった気がする」
そう言う礼真の顔は、その怖さを覚えている気配はなかった。
「そっかそっかーいいよ思い出せないなら。それに、もう怖いことはなにもないよ」
マキシは優しく礼真に笑いかける。
礼真もその笑顔に、嬉しそうに笑みを返す。
マキシは礼真の頭に手を置いて、くしゃっとすると、
「ごめん、礼真、ちょっと先に行っててくれない?」
と、言った。
礼真は少し首を傾げると、
「なにかあった?」
と、少し不安そうに聞いて、まわりを見回した。
「ん、ちょっとね」
と答えるマキシ。
花子の話を思い出して礼真は表情を固くして、マキシに言われるままにその場所から離れた。
礼真が離れたことを確認したマキシは、元家の方に一歩近づいた。
「…に…ちゃ…、おに…ちゃ…っお兄ちゃん!お兄ちゃん!ここよ!私!ここよ!」
真美がいた。
あのときよりも薄く透けているが、礼真に向かって叫んでいる。
真美は、二人がここに来たときから、そこにいて叫んでいた。が、その姿も声も礼真には届いてはいなかった。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」
真美はかつての力を失い、その場から動くことはできないようだった。
マキシは真美を見て、うっすらと口元に笑みを浮かべた。
「その場所で、500年くらい地縛霊やってたら運命の人に出会えるかもしんないよ」
マキシはなんの温度もない声で言った。
真美の目が大きく見開かれた。
「いや、嫌よ!そんなの嫌よ!」
真美の声を聞きながら、マキシは小走りで少し先で待っている礼真に追いついた。
「なんかあったの?」
「ん?なんにもないよぉ」
マキシは、屈託なく聞いてくる礼真の腰に腕を回して、ぐっと自分に引き寄せると、見せつけるように振り向いて、笑って見せた。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!行かないでぇ」
真美の叫びは続いている。
「マキシ、もう帰りたい」
礼真が、マキシの肩に寄りかかる。
「疲れた?帰って休もう」
マキシは優しく言うと礼真を促した。
二人は並んで去って行く。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!おに…ちゃ…っ…に…ちゃ…」
届くことのない真美の声は途切れることなく続いていた。
「偉そうに言ったけどさ、どの状態になったら、俺ら勝ちなんだろう」
礼真はぽつりと言った。
「…レイマは勝ちたいわけじゃないでしょ」
「真美がもう誰にも迷惑かけないで、悪いこともしないって約束したら、成仏っていうの?それができるまであそこにいてもいいんじゃないかって…。俺も会いに行くし」
少し歯切れ悪く言った。
それが難しいだろうということは、礼真にもわかっていた。マキシは前を向いたままで、
「もし、あいつが聞き入れなかったら、俺が考えてるプランで行っていい?」
マキシは言うと、礼真の方を見た。
「いいよ。きっとマキシは間違えないから」
と、礼真は少し笑った。
その言葉と表情に、マキシの中のないはずの心臓が、高鳴ったような気がした。
「俺、わりと間違えるけど」
照隠しでマキシがそう言うと、礼真はまた少しだけ笑った。
「でも、文系の俺よりは正解率高いだろ」
「あーまだ気にしてたんだ、アレ」
初めてあった頃にマキシが礼真のことを文系ぽいーと笑ったのをまだ根に持っているらしい。そんなことまだ気にしてたんだと思う反面、気にしていた分マキシのことを思い出していたと思うと、たまらない気持ちになる。
「気にするだろ普通」
ぷいっとする礼真の横顔に笑ってしまう。
今からラスボス対決に行くというのにこれかよ…とマキシが思っていると、そのラスボスの家の玄関前に着いていた。
「着いちゃったな」
礼真が言う。
「だね。あっ礼真、スマホ貸して」
マキシは頷くと、手を出した。
「なに?」
言いながらも、礼真は出された手の上にスマホを置いた。
「朝と違って、日差しはもう家には入ってない。完全に家の中はあいつの領域だから、マキシホットラインはずっとつなげたままで」
「電波でつながってるとゼロ距離になるから…だっけ?」
「そうそう、スマホを通じて俺の霊力で礼真を包むから、あいつの影響も少ないはず。はいできた。どう?」
「うん…わかる。マキシが二人いるるみたい」
スマホを手にすると、そこからもマキシの気配のようなものを感じる。礼真はスマホを握ってから、ポケットに入れた。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
マキシが先に立って、玄関を開けた。
マキシの後に続いて入った礼真は、玄関の光景に改めて息を飲んだ。
靴箱の上には灰色の埃が積もり、床には乾いた泥と砂が広がっている。玄関には、長いあいだ誰も出入りしていない空気が淀んでいた。
やっぱり、これが現実…と、無意識に下唇の内側を歯で押して、礼真は視線を落とした。
「レイマ」
マキシに声をかけられて、礼真は顔を上げると、マキシと一緒に居間に入る。
朝には光が入って居間は薄暗くなっていた。
「お帰りなさい、お兄ちゃん。やっぱり帰ってきてくれた」
真美が姿を見せた。居間へ入ってくる。
どう見ても、生きている人間にしか見えない。礼真にはそれが悲しかった。
「あら、お兄ちゃん、隣のお人形は私のお土産?くれるなら早くちょうだい。首ねじきって、手足引っこ抜くから」
笑顔も声も礼真が知るかわいい妹の真美だったが、その言葉と声の向こうにあるどす黒くねばつくものが見えてしまう。
「真美…」
「冗談よ、そんな木偶人形欲しくないわよ、私が欲しいのはお兄ちゃんだけ」
真美はちょっと首を傾げるようして上目つかいでねだってくる。
「真美」
のまれるな…と、自分に言い聞かせて礼真は呼びかけた。
「なあに?私のところに戻ってきてくれる?」
「このままじゃだめ?」
にっこり笑顔の真美に、礼真は精一杯いつも兄の顔で言った。
「は?」
瞬間、真美の笑顔が消えた。
「俺は真美から変な操作されなくても、真美のことは大事って思ってる。もう誰にも迷惑かけない、悪いことしないって約束して。それで、真美がここにいたいっていうなら、いていいよ。俺は真美に会いくるよ。それじゃだめ?」
「あはっバカなの?お兄ちゃんがこんなにバカだなんて!おかしいー」
礼真が柔らかく言った言葉を、真美は嘲笑して、叩き落とした。
「おい!レイマはお前のことを」
礼真がどれほど悩んで、考えたのか近くで見ていたマキシは思わずというように声を上げていた。
「私のこと?私のことをってなに?私の為にそんなバカみたいなこと考えたわけ?考えてくれなくてもいいのよ!思考をそんなことに使うくらいなら私の支配を受けて、なにも考えないで!私の傍にいてっ私がお兄ちゃんって呼んだら、真美って答えてくれるだけでいいのよっ!!」
真美の声は徐々に大きくなり、口調は早く激しくなる。最後の方はヒステリックな叫びになっていた。
初めて聞く真美のそんな声に、礼真は口を閉じたまま視線を落とした。これが現実だと、はっきりと理解した。
礼真は無意識に、横に立つマキシの手を握っていた。いきなり手を握られてマキシは、はっとして握られた手と礼真を見た。
礼真は別の空間を見ているような目で、じっとなにもない一点を見つめていた。
真美は礼真という存在そのものではなく、ただ忠実に役割をこなすだけのモノを礼真に求めている。
絶対に交わることがないと、真美の言葉はそれを礼真に突きつけていた。
「はぁ、話しにやらないな。悪霊ロリババア」
マキシは吐き捨てるように言った
「は?なんですって?」
聞き捨てならないと、真美がマキシを睨んだ。
「話しにならない、悪霊ロリババアって言ったんだけど」
「ババア?」
「礼真はお前に機会をくれたんだぞ。」
「はあ?うるさい、本当にうるさいわ、あんた!」
真美は叫ぶと傍らに落ちていたものをポルターガイストで飛ばしてマキシにぶつけてきた。
マキシは飛んできたものを右手で受けた。
ベチャと柔らかく溶けた感触のものが手にべったりついた。スーパーのビニールに入った腐ったイチゴだった。
マキシの手に当たって、ずるっ落ちていくそれを見ていた礼真の顔が歪んだ。
真美は赤黒く汚れたマキシの手と服をみて、
「やだぁちゃんと避けないと、生ゴミで汚れちゃったじゃなーい。汚ーい」
わざとらしく手で口を覆って、笑い出す。
その瞬間、ビリと空気が震えた。
「マキシ?」
ポケットの携帯から感じていたマキシの霊気があきらかに変わって、礼真はマキシを見た。
「霊は、食べられないから、腐るのはしょうがねぇよ。けど、生ゴミじゃねぇだろ!これは!レイマがお前の為に買ったヤツだろ!」
マキシが怒っていた。
怒りと、痛みと、悲しみで体を震わせていた。それに呼応するようにマキシから発せられている霊気も震える。
マキシは軽くて、余裕があって、楽しくて、そんな彼しか見たことがない礼真は呆然とその姿を見つめた。
マキシが怒っている。自分の為にこんな風に怒る人間がいる…こみあげてくるものを、礼真はやっとのことで堪えた。
「お前、これ買うときどんだけ礼真がお前のこと思ってたか、想像もできねぇだろうな!」
カオスのようだった事務所の片づけをしているとき、マキシと礼真はいろんな話をしていた。
その中で、礼真が自由にできる少ない小遣いで、なるべくきれいで、甘そうなイチゴを店員に変な目で見られるほど選びに選んで、真美に買ってやったのだと、自虐めいた調子で話していたのを、マキシは覚えていた。
マキシはその話を聞いて、礼真にそれほど心を砕かれている妹の存在に秘かに嫉妬していた。
「は?うるさ。別に頼んでないし、お兄ちゃんが勝手においていっただけじゃない。きれいなイチゴでも、高級メロンでも、腐れば生ゴミでしょ」
「じゃあ、お前も生ゴミだな」
面倒くさそうな真美が言い終わった瞬間に、マキシが突っ込みのようにその言葉を叩き落とす。
真美がギっとマキシを睨みつけた。マキシに対する反撃の言葉が続かず、結局出てきたのは、
「うるさいっうるさいっ」
だった。
ヒステリックに叫び続ける真美。それに呼応するように、居間のテーブルが浮き上がった。
「マキシっ」
後ろからの異様な気配に気付く。
振り向くと突っ込んで来たテーブルが目の前まで迫ってきていた。
マキシが左手でそれを払う。
音もなく、テーブルは切り裂かれて、バラバラになって床に落ちていた。
「すご」
マキシは自分の手の威力に驚く。
礼真は目の前にあるマキシの左手に目を見開いた。
指先が長く鋭利に尖り、木肌がそのままで、関節の稼働部がむき出しの腕があった。
「それが…アレ?」
「そう、これがアレ」
「アレすごいな」
「いや、俺もびっくり」
礼真の声の中にはわずかなわくわく感があった。マキシの同じだ。
こんな状況でも、男子のこういうものへのわくわくは抑えられないものらしい。
「なによ、その腕。人形の関節むき出しじゃない。見苦しい。」
真美が冷やかに言う。
「制作途中だからね。けど、大事な人を守るためならなりふりかまってられないだろ」
マキシは腕を見せつけるようにして、礼真の肩を抱いたまま、真美に向きなおった。
「マキシ…」
大事な人。さらりと言われた言葉に、礼真の鼓動が跳ねた。思わずマキシの横顔を見つめると、マキシも礼真を見ていた。
礼真の顔がじわっと赤くなる。
真美は二人の様子に、頬の辺りをぴくぴくさせながら、
「そうよね。そこは同意見だわ。なりふりかまってられないわよね」
こっちを向けっというように、ことさら大きくゆっくりと真美が言う。
真美のその言い方、言葉に礼真が反応した。
「…真美、お前なに考えてる」
「さすがお兄ちゃん、私のことやっぱりわかってくれてる」
「真美っ!」
「あのね、考えたの。お兄ちゃんがどうやったら、私のところに戻ってきてくれるかって。それでね、それでね、思いついたの。帰るところがなくなればいいんじゃないかって」
礼真の関心が引けたと、真美の口調は幼い子供のようなものになっていく。
「お兄ちゃんの本当の家族がいなくなったら、諦めてくれるよね。私の家族になってくれるよね」
真美は胸の前で手を合わせて、ちょこっと首を傾けた。
礼真になにかを強請るときのいつものポーズだった。
それがかわいいと思っていたのに、今は恐ろしい。
「悪霊ロリババアっお前」
マキシも不穏を察して、睨みつけた。
「お父さんに頼んだの。お兄ちゃんの本当の家族を壊してきてほしいって」
「…本当の…って母さんと…琉輝空のことか?」
礼真は一瞬、ひゅっと息を飲んで、絞り出すように聞いた。
「さあ?でも、お父さんは私の言うことはなんでも聞いてくれるから、今頃は…ねっ」
真美は楽しくてたまらないというように、笑っている。
「クソっ」
「あっ礼真」
礼真は居間から駆け出した。
「逃がすわけないでしょ」
真美が叫んで追いかけようとしたが、マキシが立ちはだかった。
「出られないわよ」
「どうかなぁ」
二人が入ってきた時点で、この家を「閉じた」状態にしていた真美はニヤっと笑ったが、マキシもニヤと応えた。
バァンと玄関のドアが勢いよく開く音がして、礼真が駆け出していく足音が聞こえて、真美は信じられないと目を見開いた。
「礼真っ一人で行かせてごめん、俺もすぐ追いかけるから」
マキシが言うと、
『大丈夫、つながってるだろ』
と、マキシのスマホから礼真の声がする。
「どうして…」
「さあ?それより、思う存分やろうか、最低悪霊ロリババア」
マキシは左手をかまえた。
目をぎらつかせて、口を歪めた真美が、部屋の中のものを浮かせる。
「軽口叩けるのも今のうちよ、バラバラしてやるわ、木偶!」
真美の家から走り出た礼真はふっとその足を緩めて、スマホを、取り出した。
四角いアイコンが並ぶ中で丸い形のマキシホットラインのアイコンが、ピコピコ光っている。
その光で確かにマキシと繋がっている…と、礼真はふっと強張っていた表情を緩めて、画面で時間を確認すると、また表情をひきしめた。
「この時間なら、琉輝空を学童に迎えに行ってる」
母はいつも仕事が終わるとそのまま琉輝空を学童に迎えにいく。
礼真は行き先を変えて走り出した。
走りながら、礼真はいつも自分を殴ってくる父を思い出していた。
大きな体でいつも、覆いかぶさるように礼真に暴力をふるっていた父は偽物だった。
幻に怯えさせられていたと、わかった今、父と対峙することは怖くなかった。
それよりもあの父が、母と琉輝空になにをしようとしているのか、二人は無事なのか、それを考える方が怖かった。
期待して裏切られるのも、傷つけられるのも、母が苦しんでいるのも、苦しくて痛くて、母のことも、弟のことも考えないようにしていたのに、今は二人の無事をひたすら祈っている。
走りながら礼真は笑っていた。
大通りに出た。礼真は荒い息をつきながら、足を緩めた。
もともと、体力がある方ではない。
脇腹が痛む。
礼真は脇腹をおさえて、辺りを見まわした。
「いた!よかった…」
横断歩道の向こう側、赤信号を待つ母と琉輝空の姿があった。
琉輝空のランドセルを持つ母と、琉輝空はお互いの顔を見合わせて、楽しそうに話している。
この楽しそうな会話は、いつも礼真の姿が見えるとブツと途切れる。
室温がほんの少し下がるようなあの空気を思い出して、礼真は二人から目をそらした。
このまま、こっそり二人のあとをつけようか…と考えていると、信号が青に変わった。
母と琉輝空は話しながら、信号を渡りはじめる。
そのとき、礼真の耳に異様なエンジンの音が聞こえた。
信号待ちをしている一台が、アクセルをふかしていた。
礼真はその車の運転手を見て、大きく目を見開いて、駆け出した。
真美がお父さんと呼ぶ、あの父だった。
車は突然、大きな音を立てて、礼真の母と琉輝空に向かって走り出した。
礼真は走った。
叫んだ。
手を伸ばした。
迷うことなく、母と琉輝空を着き飛ばすようにして、車と二人の間に入った。
礼真はハンドルを握る父を見据えた。
殴られているときは、目を閉じてしまって、まともに見たことがなかった父の顔。初めて正面から見たその顔は、見知らぬ人の顔になっていた。
その瞬間、礼真の体は衝撃に吹き飛ばされた。
礼真の視界がぐるっと回る。
蒼白になっている運転手、夕暮れの空。
もう一度全身に衝撃。
そして、アスファルト。横断歩道の白と流れている赤。
部屋中のものがマキシに向かって飛んでくる。
「もうっもう、壊れなさいよ、来ないでよ」
椅子、鏡台、箪笥の引き出し、自分に向かってくる全てを左手で薙ぎ払いながら、マキシは真美へ近づいていく。
真美の起こしたポルターガイストで、あらゆるものが飛び交う部屋の中、マキシは唯一床にそのままの状態で、ぴくりとも動いてないものを見つけていた。
それが真美が霊になっても力を保つことができる依り代だとマキシは予想していた。
マキシは真美を通り過ぎた。
「っ…え、ちょっと…」
真美が目を見開いた。マキシの意図を察した真美の顔がひきつった。
「やめて、や…えっ…」
自分を無視して、真っすぐに、床に敷かれた布団の掛け布団をはぐったマキシを止めようとした真美が固まった。がくがくと唇が震える。
「なっ…なにしてるのよ、お父さん…お兄ちゃんを壊しちゃったら意味ないじゃない!」
真美が叫んだ。と、同時にマキシは、そこにあったものに深く左手を突き立てた。
「えっ…」
「は…?」
真美は自分の霊力が消えていくことに、マキシは真美の叫んだ言葉に、声を上げた。
真美はマキシが引き裂いた、服も頬も薄汚れ、髪もぼさぼさに擦り切れてたミルク飲み人形の傍に崩れた。
育児放棄され、命を落とした真美にとって、それは唯一、自分が誰かに愛されていたと信じられるものだった。どこに行くこともできなかった真美の魂はそれを依り代にしていた。
が、マキシの手によってバラバラされたそれはもう依り代としての力を失っていた。
マキシは真美の言葉に呆然と立ち上がった。
「レイマ…レイマ!」
スマホに呼びかけるが、返事はない。
「レイマっ」
マキシは真美がどうなかったのか確認することもなく、真美の家を飛び出した。
マキシは走りながら、霊力を繋がっている礼真のスマホに飛ばして、その場所を特定する。
走っていくマキシの耳に、パトカーや救急車のサイレンが聞こえて、あるはずのない心臓がバクバクと脈打っているように感じて、マキシ胸を押さえた。
大通りに出ると、横断歩道の真ん中に、見慣れた形…礼真が横たわっていた。
救急隊員が礼真を担架にのせているのが見える。
が、マキシの目にはそれが、礼真だったものにしか見えなかった。
マキシはスマホを取り出すと、耳にあてた。
「所長、俺です。レイマの体作ってください。なる早で。魂は俺がつれていくんで。お願いします…」
マキシは一方的に言うと通話を切って、辺りを見まわした。
白く光る玉…礼真の魂がどこかにいるはずだとマキシは確信していた。
「どこかに…」
マキシは記憶をたどる。
500年前のあのとき、光る玉はどうしていたか。
マキシの頭の中に、いつもの場所で、生きていたときと同じように動く玉の姿が蘇る。
「いつもいた場所、レイマの好きな場所」
マキシは呟くと駆け出した。
礼真の学校に向かった。
真美の支配を受けながらも、礼真は学校にはちゃんと通っていた。
学校の門は閉ざされていたが、マキシはそれを軽々と乗り越える。
「レイマ」
入口は施錠させていたが、左手が壊して中に入った。
こっくりさんが行われていた教室に行き、礼真の教室も、ロッカーも開けたが、白い玉の姿はなかった。
「クソっどこだよ」
マキシは学校を出て、礼真の本当の家へ向かって、ちょっと考えてから、ゴールデンレトリバーのマックスの家の庭に入った。
マックスはもう家に入っているらしくあのふわもふの姿はなかった。
マキシは、子供の頃に礼真が住みたいと言っていたマックスの小屋を覗き込んだ。
が、そこにも白い球はなかった。
マキシは髪をガシガシとかきむしって、
「まさか、あそこか…」
と、嫌そうに呟くとまた走り出した。
そして、真美の家へ駆け込んだ。
「なによ、なにしてるの。もう、いいでしょ、やめて」
バラバラになっている人形の傍らで、怯えて声を上げる真美を完璧に無視して、マキシは無言で家探しの勢いで、玉が隠れていそうな場所をひっくり返してまわる。
「ちっ」
マキシは舌打ちすると、そのまま真美の家を出て行った。
「もう、どこに行けばいいんだよ…」
マキシは頭を抱えるようにしながら、走る足を緩めた。
スマホを取り出しす。
「所長…いや、まだ見つからなくって…はい、えっ…はい、一度戻ります…はい」
花子に戻って来いと言われ、疲れることはないはずの体をひきずるようにしながら、事務所への道を戻った。
戻りながらも、その目は白く光ものを探してしまう。
「レイマ…本当にどこにいるんだよ…」
マキシは祈るように呟いた。
ふよっその視界の端に、白く光る玉が見えた。
「っ!」
マキシははっと顔を上げて、駆け寄った。
白い玉は、花子の事務所、ミロクセキュリティが入っている雑居ビルの入口の陰で、控えめにふよふよ浮かんでいた。
「レイマ…」
マキシにはそれが礼真だということがすぐにわかった。
ゆっくりと近づいて手を伸ばすと、白い球は戸惑うように揺れながらも、マキシの傍にやってきた。
「もー中で待ってて良かったのに」
マキシが泣き笑いのように言うと、その口に白い球がむにゅとぶつかってきた。
「は?…え?」
マキシの口にむにゅとぶつかった玉は少し、しょもっと小さくなって、マキシから離れようとする。
「うわ、待って待ってぇレイマ…覚えててくれたんだ、愛情表現…ありがとう」
マキシが言うと、白い球はふわりと広げたマキシの腕の中に収まった。
礼真が、花子の作った人形に魂をうつして1週間がたっていた。
礼真は目を覚ましたときから、人形の体に違和感を感じることなく動いて花子を驚かせていた。
が、花子は事務所内をうろうろする礼真に眉をしかめる。
「まだ、完全に魂と身体がくっついてねぇんだよ。そんなに動きまわるな。」
増えてきた段ボールを片づけようと持ち上げていた礼真は、それを下ろした。
「はい、すみません」
手持ち無沙汰になった礼真はソファに座った。
「全然、元気なんだけど」
「お前の主観の問題じゃねぇんだよ。急いで作ったから外装もまだふにゃふにゃだし、魂と体もなじみきってないし、まったく」
ブツブツ言う花子を横目で見ながら、礼真の横に座ったマキシが、
「乾燥待ちのプラモデルみたい」
と笑う。
「それなっ!」
ひそひそ言い合っていると、
「あぁ、それから野良浮遊霊にも気をつけろ。あいつらは入れるものがあったら入り込もうとするからな。今の状態だと、お前が追い出されて身体取られるかもしれん」
花子が今思い出したように言う。
「え!怖!」
「そういうことは早く言って!だいたい所長、そういうところ、本当にいい加減なんだから、俺のときもさー」
「うるさい、だまれ、しゃべるな」
「レイマー所長がいじめるー」
「礼真、バカを甘やかすな」
マキシがわざとらしく泣きマネをして、花子がそれを冷たくあしらう。二人の定番のやりとりに入れてもらっていることが、礼真は嬉しく表情が緩むのが抑えられない。
そんな礼真の顔を見て、マキシと花子は一瞬目を合わせた。
数日が経った。
「じゃあ、行ってきます」
礼真は事務所のドアに手をかけて花子に言った。
花子から外出の許可が出たのだ。
「何度も言うが、野良浮遊霊には気をつけろよ。まだ、お前はあいつらと戦えないからな。マキシは引き続きボディーガード。」
花子が珍しく入り口まで出てきて、礼真とマキシを見送る。
「はーい!」
子どものように手を上げるマキシを軽くながして、
「今日は様子見だ。なるべく早く帰って来い」
と言いながらも、帰りにはマールボロ2箱買って来いと命じられた。
二人は花子とベア吉に送り出された。
「どこ行く?」
マキシは歩きながら右側の礼真を見た。
久しぶりの外の空気が嬉しいのか、礼真の顔は明るい。
「んー俺の家、ちょっと見てみたい」
礼真が少し考えて答えた。
礼真は人形として復活すると、家族について記憶だけをほとんど失っていた。
反面、マキシや花子についての記憶は鮮明だった。
「家か」
マキシは呟くと、真美の家へ向かう左の道を選んだ。
少し歩くと、もうそこに真美の家はなかった。更地になり、隣の空き地と同じように、売地の看板が立てられていた。
「ここが俺の住んでたとこ?もうなにもないんだな」
礼真が横に立つマキシに聞く。
「どう?なんか思い出す?」
マキシの問いに、礼真は空き地を見つめて、少し首をかしげた。
「ごめん、思い出せない。ただ、なんか怖かった気がする」
そう言う礼真の顔は、その怖さを覚えている気配はなかった。
「そっかそっかーいいよ思い出せないなら。それに、もう怖いことはなにもないよ」
マキシは優しく礼真に笑いかける。
礼真もその笑顔に、嬉しそうに笑みを返す。
マキシは礼真の頭に手を置いて、くしゃっとすると、
「ごめん、礼真、ちょっと先に行っててくれない?」
と、言った。
礼真は少し首を傾げると、
「なにかあった?」
と、少し不安そうに聞いて、まわりを見回した。
「ん、ちょっとね」
と答えるマキシ。
花子の話を思い出して礼真は表情を固くして、マキシに言われるままにその場所から離れた。
礼真が離れたことを確認したマキシは、元家の方に一歩近づいた。
「…に…ちゃ…、おに…ちゃ…っお兄ちゃん!お兄ちゃん!ここよ!私!ここよ!」
真美がいた。
あのときよりも薄く透けているが、礼真に向かって叫んでいる。
真美は、二人がここに来たときから、そこにいて叫んでいた。が、その姿も声も礼真には届いてはいなかった。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」
真美はかつての力を失い、その場から動くことはできないようだった。
マキシは真美を見て、うっすらと口元に笑みを浮かべた。
「その場所で、500年くらい地縛霊やってたら運命の人に出会えるかもしんないよ」
マキシはなんの温度もない声で言った。
真美の目が大きく見開かれた。
「いや、嫌よ!そんなの嫌よ!」
真美の声を聞きながら、マキシは小走りで少し先で待っている礼真に追いついた。
「なんかあったの?」
「ん?なんにもないよぉ」
マキシは、屈託なく聞いてくる礼真の腰に腕を回して、ぐっと自分に引き寄せると、見せつけるように振り向いて、笑って見せた。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!行かないでぇ」
真美の叫びは続いている。
「マキシ、もう帰りたい」
礼真が、マキシの肩に寄りかかる。
「疲れた?帰って休もう」
マキシは優しく言うと礼真を促した。
二人は並んで去って行く。
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!おに…ちゃ…っ…に…ちゃ…」
届くことのない真美の声は途切れることなく続いていた。

