「う…うぅ…」
マキシは息苦しさに呻いた。
人形の体なので、酸素が必要なわけではないが、制作者の花子のこだわりで、触覚や痛覚は感じられるように作られている。
当然、口を塞がれれば苦しく感じるようになっている。
さっきまで見ていた夢がまだ続いているのかと、顔の上のものを掴んで、自分から引き離した。
「ぷは!お前かよ!」
体を起こしたマキシは、顔の上に乗って眠っているベア吉を引き剥がして、ぽいっとソファにころがした。
「はぁー」
息をついていると、
「お前が目を覚ますの見るのは二度目だな」
と、すぐそばに花子が立っていた。
「所長」
「お前の人形を作って、お前の魂をいれて、目を覚ますまで、1カ月かかったな」
花子はデスクに戻って、椅子に座った。
「なかなか、うまくなじめなかったんですよ。身体から離れて500年近く地縛霊やってましたからね」
体を起こしたマキシは、肩をすくめた。生きているときは意識していなかったが、魂だけなって見ると、体を操作するのはなかなかやっかいだった。
「依り代から離れた魂は自由ではあるが、徐々に自我と形がなくなって消滅する。だいたい、500年も地縛霊やってるやつなんて初めて見た。規格外の記録だからな。地縛霊史上最長、マックスだ」
煙草を咥えて、頬杖をついた花子は、おもしろいものでも見ているようにマキシを見つめて笑う。
「え?俺のマキシってもしかして、そのマックスからきたの?」
マキシは、顔を上げた。
「人形と魂結びつけるのに名は必須だからな。薪って呼ばれたと言ってたが、お前、それを自分の名前と思ってなかっただろ?」
「…はい…」
「地縛霊マックスの地縛霊歴500年!マックス!マキシマム!マキシ!いい名前だろうが」
「ノリじゃないですか!だからってどんな名前がいいかって言われても、困るんですけど。けど、この身体をつくってくれたことには感謝してます」
完全に楽しんでいるだけの花子に、溜息をついたマキシだったが、少し神妙な顔になる。
人形の体を作ったときは、『俺の顔もっときれいでかわいかった!』と、文句しか言ってこなかったマキシの感謝の言葉に、
「気持ち悪いな」
花子はげっと眉をしかめる。
「いや、まぢで。所長に会った頃にはもう魂の形を保つのもやっとでしたからね。気抜いたら目玉ポロって落ちてましたから、まあ、それのおかげで俺は運命の出会いを!」
手を胸の前に組んで芝居かかった仕草で言うマキシに、
「また『お兄ちゃん、落としたよー』の話か、100回聞いたっ」
花子はうるさげに手をしっしっと振る。
「ちがいますよ!『お兄ちゃん、きれいなの、落としたよ』ですよ。そして、目玉を俺の掌に置いてくれたときの笑顔っあのときの衝撃!ビビビって本当にあるんですよ!」
興奮して続けるマキシに、
「101回聞いた」
花子は、はぁ…と溜息と煙を吐く。
「だから、本当に所長には感謝してます。会えるきっかけも作ってくれたんですから」
静かな口調に戻ったマキシが、花子に頭を下げた。
「あれは、本当に偶然だ。お前のビビビっの相手があの学校にいたのは偶然。仕事を手伝わせたのは、お前が「絶対あの子」って譲らなかったからだろうが。良かったじゃねぇか、地縛霊歴500年のお前が地縛霊やめて探してたヤツに会えたんだ」
煙草を灰皿に押し付けると、花子はめんどくさそうに、次の煙草を口にした。
「そこがゴールって思ってたましたよ。探しているときはね」
マキシは近寄ってきたベア吉を抱きあげて、膝にのせた。
「まじで、会えてよかったよ。あのときの一目惚れは思い込みなんかじゃないって、確信できたし、けど、会えたらゴールどころか、ぜんぜん終わりじゃない。もう、ジェットコースター」
ジェットコースターというところで、ベア吉を持った腕を下から上、上から下と動かして、マキシははぁ…と息をついた。
「お前…、バカだな。生きてりゃそれが、当たり前だ。」
花子が目を見開いて、少しだけ片方の眉を上げた。
「バカ…」
「人生は皿回しだ!」
いきなりわけのわからないことはを言われて、マキシは目を丸くした。
「と、ものの本で、読んだ。1枚の皿を回せたら次の皿を回し、最初の皿も落ちないよう回しながら、2枚、3枚、そうやって回せる皿を増やして、全部の皿うまく回していくのが人生だそうだ」
「めちゃくちゃつかれそうっすね」
皿回しのジェスチャーをする花子を見て、マキシははぁ…と声を上げた。見てるいるだけど疲れてくるが、素朴な疑問もわいてくる。
「所長も皿回すんですか?」
マキシの言葉に花子は、空気皿回しをやめると、
「は?誰がそんなめんどいことを。私は必死で皿回ししてるヤツを眺めとく」
ぽいっと投げ出すような仕草をして、ニヤっと笑った。
「皿を回すも、落とすも自分次第。回す皿を選ぶのも自分だ。ところで、お前が眠りこけている間、ずいぶんスマホが光ってたぞ」
花子はソファの前にテーブルの置かれているマキシのスマホを指さした。
「えーまぢかっ」
マキシは慌ててスマホを取って、一瞬固まると、ばっと立ち上がって、バタバタとパソコンを持ってきて、スマホと繋いだ。
「どうした?」
マキシのただならない様子に花子がやってきて、パソコンを横から覗く。
「レイマのスマホに仕込んでた俺のアプリが作動してたんすよ。」
パソコンのキーボードを叩きながらマキシが答える。
「サトウレイマから連絡でもきてたのか?」
「やーその、ホットラインじゃなくってセキュリティに書き換えたんですよ。ドラレコみたいに、なにかあったら録画とか録音とか自動でぇ…ほら、レイマの安全の為に」
「完璧ストーカーじゃねぇか」
マキシが礼真のことになると、常識も倫理もすっ飛ばすことはわかっていたが、花子は冷たい目を向けていたが、礼真の声が再生されると、身を乗り出した。
『…っごめ…ごめんなさない、父さん…ごめ…』
弱々しい声の後に、ガツと鈍い音が数回。
「これ…レイマが、お父さんになんかされてる…?」
「の…ようだな…」
マキシがパソコンの音声再生の画面を見つめたまま呟くと、花子も頷いた。
と、ガツっと大きな音がした途端に動画の撮影が開始されていた。
花子がどういうことだ?と、いうように…とマキシをちらっと見ると、
「殴られたときに、レイマのスマホがポケットから床に落ちて、光を感知して動画撮影が開始されたんだと思うけど、なにか映ってたらいいけど…」
言いながら、マキシは動画を再生させた。
動画は床に落ちたスマホがほぼ真上を撮影したものだったが、それはしっかりと映っていた。
マキシの目が一瞬見開かれて、すぐにぎゅっと眉をしかめられた。
「なんだよこれ…なんなんだよ!」
マキシは叫ぶと、バンッとテーブルを叩いた。
花子もすっと画面から目を反らすと、無言で立ち上がった。
「マキシ、行け」
命じたが、返事はない。
振り向くと、すでにマキシの姿はなく、事務所のドアが開けっ放しになっていた。
朝、学校へ向かう礼真は、なるべく顔をあげないで、歩いていた。
散髪代がもったいなくて、伸びてしまった髪をいつもは鬱陶しいと思っていたが、父に殴られて、痣が付いた目元を隠すのはちょうど良かった。
「痛…」
歩くと蹴られた脇腹も痛む。
「はぁ…バイト…もっとしないと…」
昨日、花子の事務所の片付けでもらった1万円に満たないバイト代は、父の機嫌を損ねるものになってしまった。
「なんか、また怪異系の手伝いあったらいいけど…俺だとマキシの足ひっぱるだけだろうし…」
こっくりさん事件の手伝いをしたときのバイト代を思い出して、礼真は溜息をついた。
なにもできないのに、報酬を期待してしまった自分が嫌になって、また溜息が出る。
それに、痣がついた顔で学校に行くのも憂鬱だった。
転んだ、ぶつかった…で、誤魔化してはいるが…その理由を考えるのもうんざりしてしまう。
「レイマ」
俯いたまま歩いている礼真は自分を呼ぶ声にはっと顔を上げた。
マキシがいつも場所に立っていた。
いつも通りの姿、声に、ガサガサにささくれていた礼真の心が少し潤う。
「マキシ」
嬉しくなって近づくと、マキシが笑顔を消して、じっと礼真の顔を見つめる。その視線は礼真の顔の痣に向けられている。
「それ」
「あっこれ?目立つだろ、転びそうになって!その…家の柱にぶつかっちゃった。本当、俺トロくて」
マキシから聞かれる前に、礼真は一気に言って俯いた。垂れてきた髪が礼真の目元を隠す。
マキシはその髪を、礼真の耳にかけて、痣にそっと触れると、
「そうだね、これは家の柱にぶつかった痣だね」
と、静かに頷いた。
「えっ…」
マキシがあっさり頷いたことに、礼真は驚いて顔を上げた。
いつものマキシなら、もっと痣のことを聞いてきて、心配して、少し怒って、それから…頭を撫でて…そこまで、考えて礼真はまた俯いた。
父親に殴れたことをなど誰にも知られたくはない。自分の事情に踏み込んで来るなと、学校の友人たちとも距離を取っていた。
なのに、マキシにしもっと傍に来てほしいと思っている自分に気付いて、礼真は愕然とする。
なにをマキシに期待しているのか、報酬のこと考えていたときより、自分が嫌になってくる。
「学校、始まるから」
耳にかかっていた髪を下して、俯いたまま、歩き出した礼真の腕をマキシが掴んだ。
「礼真きて!」
「なっなに?」
ぐっと掴んだまま、引っ張られる。
「ちょっと、マキシ。俺、今から学校。放せよ。」
「学校はいいよ」
「よくない!」
礼真はぐっと踏みとどまって、マキシの腕を振り払った。
いつも、自分のことを大事にして、尊重してくれるマキシの一方的な態度が悲しくて、叫ぶような声になっていた。
その声に驚いたように一瞬固まると、
「お願いだから、一緒に来て」
マキシは祈りのように静かに言って、礼真の両手を一回り大きな手で包んだ。
苛立っていた礼真だったが、マキシの顔が泣きそうに見えた。
「マキシ…大事なこと?」
礼真はマキシの顔を覗き込んだ。
「うん、すごく大事なこと」
はっきりと答えながらも、マキシの目が、わずかに震えていた。
マキシをここまで、動揺させるようなことが起きている。そして、それは自分が関係していること…と、礼真は思った。
「わかった。行く。だから、手放して」
礼真は頷くと、まだ握れたままの手を引こうとしたが、ぎゅっとさらに強い力で握られてしまった。
「ダメ、手はこのまま」
いつもの礼真をからかうとき表情でも声でもない。
こっくりさん事件のとき学校の敷地に入って、二人で言い合いをしたことを思い出した。マキシが礼真と手を繋ぐのは、ただ触れたいから好きだからという意味ではない。あのときは、礼真を守るために、マキシの霊力で包むためだった。
マキシの表情からも、繋いだ手にはなにか意味があるとわかって、礼真は息をつめた。
「俺から離れないで」
また歩き始めたマキシが言う。
礼真は返事の代わりに、つながれた左手でマキシの右手をぎゅっと握り返した。
マキシは迷いなくどんどん歩いていく。
最初はどこに行くのだろうと思っていた礼真だったが、だんだんとその表情が不審に曇っていく。
さっき自分で歩いて来た道を戻っているからだ。
このまま行けば、家に帰ることになる。
ダメだ、行きたくない…そんな思いが湧いてきいて、礼真の足を鈍らせるが、マキシはずんずんと歩いて行く。
そして、一軒の家の前で立ち止まった。
「ここ、俺の家」
朝、出てきたと変らない家。少し古いがごくごく普通の一軒家だ。
「礼真にはどう見えているの?」
「えっ…」
「俺には、廃墟に見えるよ」
「ひどいな、確かに築年数は経ってるけど、廃墟はないんじゃ…」
またマキシの冗談かと思いたくて、軽いツッコミで返そうとしたが、言葉は続かなかった。
マキシの顔は恐ろしいほど真剣だったからだ。
「行くよ」
マキシは礼真の手を引いて、家に入った。
朝、礼真が「いってきます」と靴を履いた玄関をマキシは土足のまま上がっていく。
「マキシ、ちょっ…靴、脱げ」
「無理、礼真もそのままでいいよ」
「はっ?よくない、ちょっ…」
礼真が靴を脱ごうしたが、そのままぐっと引っ張られて、家に上げられてしまう。
「礼真、ちゃんと見て」
マキシがぎゅっと礼真の手を握る。
「え…」
部屋の中の一瞬輪郭がぼやけたかと思うと、急にくっきりとクリアになった。
朝の光が差し込むリビングルームには、日に焼けて色を失い、表面はひび割れて、中のスポンジが黄色く覗いているソファ。
壁紙は湿気で波打ち、端からめくれている。天井には茶色染みと真っ黒い染みがいくつも浮き、穴があいているところもあった。
長い間、誰も住んでいない家だった。
礼真はゆっくりと足元を見た。
床は埃と泥でまだらに汚れ、足を動かすと、靴裏に砂が擦れるのを感じる。枯葉や虫の死骸まで転がっていて、素足で上がろうとはとても思えなかった。
「ここ…でもここには、真美と父さんがいて。今日の朝も普通で…こんなじゃ…なくて」
礼真の眼球が激しく動きまわり、呼吸は荒くなっている。
「そうだね。でもねそれは嘘なの」
マキシはゆっくりと静かに言って、スマホを取り出して、動画を再生させた。
『父さん!ごめんなさい!ごめんなさい!』
礼真の弱々しい声がマキシのスマホから再生される。
ひゅっと礼真が息を飲んだ。
「やめて、聞くな、見たくない!」
礼真は頭を抱えるようにして、手で顔を覆った。
「ダメ、見て」
マキシは短く言って、礼真の手を引いて、顔から外させると、その目の前に画面をつきつけた。
礼真は、画面を見た。
父から罵声をあびせられ、暴力をうける、自分の姿を覚悟する。
が、そこには映っているのは、礼真ひとりだった。
『父さん…やめ…止めて、痛い…』
礼真は誰もいない空間に向かって懇願しながら、自分で柱に顔や腕をうちつけていた。
画面をじっと見つめ固まったいた礼真の表情が弛緩したようになり、ついには笑い出す。
「あは…はは…フェイク動画作ったのかよ。マキシ趣味悪い」
礼真の言葉にマキシは痛みに耐えるように一瞬、顔を歪めてから静かに答えた。
「こんな胸くそ悪い動画、俺が作ると思ってるの?」
抑えてはいるが、その声の中にある怒りを感じて礼真はびくっとする。
「ごめん。そう思いたいよね」
「いや…俺の方こそごめん、マキシがそんなことしないってわかってる」
マキシが離れそうになっていた手をつなぎなおすと、礼真もまた握り返してきた。
「礼真…」
「これが…本当のこと、なんだ。」
礼真は殴れたと思っていた顔の痣にそっと触れた。
顔、腕、体にもたくさん痛みが残っている。それを自分がつけた。
信じられないが、今は自分よりマキシの方が信じられると思った。
そこまで考えた礼真ははっと顔を上げた。
「真美!真美は?真美はいるんだよな?」
マキシはゆっくり首をふった。
「いるよ、けど、いない。礼真が思ってる妹ちゃんはどこにもいないんだよ」
「そっんな」
「礼真は妹ちゃんとDV甲斐性ナシとこの家に家族として住んでるって思わされてたんだよ。」
「これ、見覚えない?」
荒れた居間のテーブルの上に、封筒が重なっていた。
1番上の封筒は「ミロクセキュリティー」とロゴが印刷されている。
礼真が花子からもらったバイト代が入っていた封筒だ。
礼真は震える手で、封筒をとって中を見た。
「っ!」
そこには明細の額そのままの金額が入っていた。礼真は、無言で次々に封筒をとって中身を確かめる。最後の封筒を確認して、礼真はその場に崩れた。
「全部、ある。そのままある」
「霊にはお金、必要ないからね」
「父さんは、父さんは俺のこと殴るけど、バ…バイト代渡したら褒めてくれて」
父は真っすぐに自分を見つめて、笑顔を作って、頭をがしがしと撫でてくれた。殴れるのは辛かったが、礼真のことを見て向き合ってくれているのが嬉しかったのだ。
「現実でも、それクソオヤジだから」
「そうだよ、クソだよ、真美をほったらしにして俺を殴って、金取って、本当クソ。クソだけど、それは現実じゃなかったのかよ!全部!嘘だったのかよ!」
礼真は叫ぶと、
「うわーぁぁあー…」
声を上げて、給料袋を握ったままの拳を床に何度もたたきつけた。
マキシは、床を叩こうと振り上げた礼真の手を掴んだ。
「痛いから止めて」
マキシが礼真の横に屈んで、そっと肩を抱いて礼真の顔を自分の胸に押しつけた。
「ごめんね、礼真を絶対に傷つけないって約束したのに、泣かせちゃった。ボディガード失格だね」
傷を負っているような、マキシの声を聞きながら礼真はマキシの背中に腕を回そうと手をあげた。
「本当に失格ね。お兄ちゃんのそばにいる資格ないわ。」
真美が、薄暗い奥から姿を見せた。かわいいパジャマ姿は礼真の知るいつもの妹だったが、その身体はうっすらと透けていた。
「本当に余計なことしてくれるわよね、あんたのせいで台無しよ。学校も怖い場所にして、お兄ちゃんが行きたくないって思いはじめていたにそれも邪魔したわね」
真美は居間に入ろうとして、そこに日が差していることに気づいて足を止めた。
「学校って…あのこっくりさんもお前が噛んでたのか」
マキシは声を上げた。
「おにちゃんを学校嫌いにして、暇な浮遊霊にお仕事させてあげて、一番になりたかったお姉さんを手伝ったあげる。みんなが幸せじゃない」
真美の言葉にマキシと礼真は言葉がなかった。
思い出すだけでも、気持ち悪くなるあのこっくりさんの空間。
こっくりさんが怖かったのではない。人間の歪んだ欲と、憎悪と、執着。それが幸せであるはずはなかった。
真美はにやっ笑うと、
「可哀想なお兄ちゃん、大丈夫よ。私がそばにいれば、怖いことも、いまの辛さも忘れられるよ」
すっと礼真に手をのばしてきた。
ぬっとなにかに触れられような感覚に掴まれて、頭の中をぐじゃっとされる。
礼真は頭を抱えた。
記憶が再生される。
礼真の前には、若い母と義父になる前の義父と小さい礼真がいた。
「礼真、新しいお父さんよ」
「よろしく、仲良くしよう、礼真くん」
「…」
「ホラ!早く握手よ!あーくーしゅ」
「…はは…礼真くんは恥ずかしがり屋さんかな?」
「っちが」
「そうなのー人見知りなの」
「人見知りなんかじゃない、知らないおじさんと握手するのが嫌だったんだよね」
いつの間にか傍らに真美がいて、礼真に囁いた。
ドラマのワンシーンを見せられているように、場面が変る。
母と義父が結婚してから移り住んだ家のリビング。母が異様にはしゃいでいた。
「男の子ですって!あなた、男の子が欲しいって言ってたもんね」
「名前どうする?」
「私、考えてるの。王に流れるの右側の琉、耀くの輝、空で、るきあ、素敵でしょ?」
「すごくいいね!オンリーワンって感じ」
「キラキラに輝いて空みたいに大きく広がってくれる子になってほしいなって」
「本当にすごい名前、ママの愛と夢が詰まってるね。お兄ちゃんのときはどうやって名前つけてくれたのかしら」
真美が笑う。
礼真は俯いた。礼真の名前は母がつけたものではないと聞いていた。そして、実の父の名前から一文字入っていると、母はいつもそのことを、嫌そうに話していた。
「お兄ちゃんのママは、お兄ちゃんの名前嫌なんだね」
礼真の心を見透かすように真美は言った。
次は、弟が生まれ数年後、礼真が中学になった頃の昼下がりの居間。
「本当に何考えてるかわからないよ。」
「中学生でしょ、反抗期じゃないの?」
母とその友達が居間で話していた。出かけようしていた礼真は廊下で足を止めた。
「反抗期?そんなんじゃないわよ、なんか言い返してくるとかならまたいいわよ!本当に気持ち悪い!」
「ちょっと、礼真くんいるでしょ?」
「聞こえないわよ、聞こえててもなんもないからあの子、本当にキモい」
母の言葉があの日と同じように礼真をずたずたにしていく。
「かわいそうなお兄ちゃん、聞こえていたよね。ひどい言葉」
真美が優しく礼真の頭を撫でる。
「ほらね、本当の家に帰っても誰もお兄ちゃんのこと見なかったでしょ。お兄ちゃんが帰ってくると、楽しそうな会話がピタって止まるんだよね」
「やめろ」
「『ただいま』って言っても、誰答えてくれいから、言うのやめたんだよね。でも本当は小さい声が言ってた」
「やめろ!やめて…」
礼真は震えながら声を絞り出した。
「レイマ、俺の声を聞いて、レイマこっち見て」
マキシはぎゅっと礼真を抱きしめる。
もうなにも聞きたくないと閉ざそうとしていた礼真の耳にマキシの声が入ってくる。
いつも声、軽やかで、優しくて、礼真の為だけにあるというように呼んでくれる。
そして、マキシが触れてくれている場所から、現実が戻ってくる。
「私を受け入れて、今まで通りよ。私とお父さんと3人で仲良くしましょう?」
真美は歌うように言って、にっこりと笑った。
お兄ちゃんと言って、笑ってくれるこの笑顔が好きだった。心の底から守ろうと思っていた。
礼真は込み上げてきそうになるものを堪えて、マキシの胸から顔を上げると、薄暗い中にいる真美を見つめた。
「真美、でも、それは嘘だから。」
「嘘のなにが悪いの?嘘を選んだのはお兄ちゃんよ」
礼真が言うと、真美はまた見えない手を伸ばしてきた。
ねばついたような湿度のあるそれを感じて、礼真は体をこわばらせる。
「汚いもんでレイマに触るな。まぢ穢れる」
マキシは自分の霊力でその迫ってきたものを弾いた。
今までそんな目にあったことがない真美は、ギリっとマキシを睨みつけた。
「邪魔するなって言ってんだろ!うせろっお前こそお兄ちゃんに触るんじゃねぇよっ!この木偶人形!中身空っぽの操り人形!」
真美は口を歪め、尖らせ、口汚くマキシを罵る。
「真美…」
顔はいつもの真美のはずなのに、汚い言葉を吐く醜悪で歪んだ口元を、礼真はただ呆然と見つめていた。
「レイマ、大丈夫?」
固まった礼真の顔をマキシが覗き込んだ。マキシと目が合った礼真は、
「マキシ、ごめん、ひどい言葉…」
ぐしゃっと顔を歪めた。
「まったく気にならないから俺。それより、ここ出よう。レイマの体に良くない。あいつから出てるの良くないヤツだから」
無意識に妹の言った言葉は兄の責任と感じてしまっているらしい礼真の謝罪に、マキシは軽口で返して、礼真を抱えるように立たせた。
昼間なら真美の力もそれほどではないだろうと思っていたマキシだったが、真美の感情が高まるにつれ、どんどんと邪な霊気が家の中にたまっていく。
「マキシ…」
ふらついている礼真を支えてマキシは居間を出て、玄関に向かう。
「お兄ちゃん!私のお兄ちゃんでしょ!守ってくれるって約束したじゃない!ずっと一緒にいるって!」
光が入ってきている居間からこっちには来ることができないのだろう真美の懇願するような甘えた叫び声だけが追ってくる。
「…ごめん」
礼真は言うと振り切るように家を飛び出した。
家の外は明るい昼間で、さっきまでのことが夢のように感じる。
礼真はその場で崩れ落ちるように倒れて意識を失った。
「礼真!」
ふわふわしたものが、顔の下の辺りで動いている感触がして、礼真は目をつぶったまま、それに触れた。
柔らかくて、ふわふわのものは礼真の手におさまって、すり寄ってくる。
優しい感触に、ほっとさせられる。
礼真はゆっくりと目を開けて、
「うわっ」
と、叫んだ。
目の前に、緑色の宝石のようなものが二つ。それがマキシの目だと気付いて思わず、声を上げて飛び起きた。腕の中にいたふわふわの正体、ベア吉を押しつぶしてしまった。
「ダメだよー急に起きちゃ」
心配そうに言ったマキシが手を伸ばしてきて、礼真の頬から、額に触れてくる。
「大丈夫…だけど、俺どうして…ここどこ?」
少し首をすくめて、マキシの手から逃げた礼真はきょろきょろと周りを見まわした。
窓のない部屋。自分が横になっていた簡素なパイプベッド、パソコンが置かれている机、マキシが座っている椅子だけで物が極端に少ない。
初めて見る部屋だったが、ベア吉がいるということは、花子の事務所の一室なのだろう。
「ここは俺の作業部屋だよ。礼真、あの家から出たところで倒れたの、覚えてない?」
マキシに言われて、礼真は真美と対峙したときの気持ち悪さが蘇ってきて、顔を歪めた。
「真美…」
礼真は深く息を吐いた。
『お兄ちゃん!私のお兄ちゃんでしょ!守ってくれるって約束したじゃない!ずっと一緒にいるって!』
追いかけてきた真美の言葉が蘇ってきて、礼真は腕の中のベア吉をぎゅっと抱きしめた。
ベア吉は手を伸ばして、礼真の顔のあざをよしよしするように撫でてくる。
ベア吉は、「ずっと一緒」という言葉に裏切られ続けて、人の腕にしがみ付いて離れない呪物になってしまったクマのぬいぐるみだったが、今はすっかり穏やかになって、花子の事務所で暮らしている。
くまのぬいぐるみでさえ、言葉一つで呪物になることだってある。まして真美は小さい女の子だ。
「俺が悪いんだよな」
ぽつりと礼真は呟いた。
「俺が、母さんと父さんと琉輝空と上手くやれないから。辛くてもちゃんと乗り越えて、しっかりしていれば、真美が俺の記憶を見て、自分が妹になろうなんて考えなかっただろうに…。」
深い息をついて、礼真はベア吉に顔をうずめた。自己嫌悪しかない。
「どうして、辛いときに乗り越えるなんて、もっとしんどいことしないといけないの?」
マキシは理解できないというように聞いてきた。
あまりのマキシの軽さに思わず礼真は顔を上げた。
「え…だって、普通はそうだろ。辛いことは、乗り越えるもんだろ?」
「えっ、それすごくしんどいじゃん。礼真はしんどいの好き?」
礼真は戸惑いながら答えると、マキシはさらに不思議そうな顔をして聞き返してくる。
そんな簡単な話じゃないだろ…と思いながらも、好きか嫌いかだけの話になれば、
「好きじゃないけど…」
という答えしかない。釈然としないままに言った礼真に、マキシはふっと頷いて、
「ならやめときなよ。それから、あいつがああなったのはレイマのせいじゃないから。」
さらりと言った。
「50年くらい前に、あの家で女の子が育児放棄されて死んでる。で、そのあと父親も死んでる。それ以来、あそこは空き家なんだけど、あの家の周辺で何人も人が消えてる。」
淡々と情報だけを読むようなマキシの言葉に、礼真の理解は追いつかない。
「あいつ、気に入ったやつを家に入れて、そのまま戻さない」
礼真みたいにね…と、マキシ小さく付け加えた。
真美から放たれたぬるっとしたもの触れた感触が思い出す。今まで見ていた真美の無邪気な笑顔が、50年という時間を考えると、急に怖くなる。
怖いと感じている自分が嫌になる。あれほど、守りたい、愛しいと思っていたのに…礼真はまた深く溜息をついた。
その礼真をじっと見つめていたマキシは、椅子からベッドに移動して、礼真の横に座った。
暗い顔で俯いている礼真の肩に腕を回したマキシは、ぐっと礼真を抱き寄せた。礼真が顔を上げると、すぐ近くにマキシの顔があって、それがさらに近づいてくる。
経験はないが、それがどういう意味かはわかる知識はある。
「っえっ…なに、近いっ近いっちょっと待って!なにしようとしてんのっ」
礼真はさっきまで血の気が引いていた顔を赤くして、マキシの胸の辺りを押して距離を取る。
「えーキスだよぉ。元気になってねーってときに好きな人にするんだよね」
マキシはにっこり笑って、さらに顔を近づけてくる。
「ちょっ待って、マキシのことは好きだけど…違うくて、そのキスって好き合ってる同士がーってこの場合は友達の好きじゃなくって、違う好きで…その愛情表現で…」
人間ではないマキシはどこがズレたところがある。「キス」に対してもズレた知識しかないのだろうと、礼真が声を上ずらせて必死で説明していると、ぶはっとマキシが吹き出した。
「ぶっははっ、知ってるー。あのさ、礼真って俺のこと常識知らずって思ってるでしょ。けどこうみえて、500年地縛霊やってたんだよーそっちの知識は礼真よりあります」
マキシは礼真から離れると、よほど焦ってた礼真がおかしかったのかまだ笑っている。
「なっこの、ふざけんなよっ」
別の意味で真っ赤になった礼真は、ドンとマキシを押した。
「礼真、元気になった」
ふふっと笑いながら、マキシがくちゃっと礼真の髪を撫でた。
礼真はむっとしていた表情を緩めた。
「もう…やりすぎ…だって」
確かにさっきまでの礼真は、自分自身、真美、自分の記憶…そんなものへの嫌悪と、それに対してなにもできない自分の無力さに押しつぶされそうになっていた。
が、今はそれが少し軽くなっていた。
礼真の口元に小さく笑みが浮かぶ。
それを見たマキシもまた笑みを作ると、
「キスしたいっていうのは本当。だから、レイマが俺に愛情表現のしたくなったら、レイマからして」
一方的に言ってマキシは立ち上がると、もう一度礼真の髪を撫でて、
「もう少し休んでていいよ、俺、なんか買ってくる。ほら、クマも来るんだよ。レイマが休むの邪魔するな」
と、礼真の膝に乗ろうとしていたベア吉を掴んで部屋を出て行った。
パタンと閉まったドアを見て一人になった礼真は、ベッドにうつ伏せになると、
「けど、やっぱり乗り越えないとダメだと思う…」
枕に顔を埋めたまま呟いた。
じたばたしているベア吉を離してやったマキシは、デスクについている花子を見て声をあげた。
「あれ、所長。どこ行ってたんですか?」
「ヤニ買いに」
花子はすぱーち煙を吐いた。
「話したのか?」
花子は、マキシが出てきた部屋へ目を向けた。
そこに礼真がいることはわかっているらしい。
「皿回すの大変です」
マキシは深く息をついて、むちゃくちゃに金髪をかき回した。
花子が片方の眉を上げた。
「そりゃそうだ、今まで皿をもってなかったヤツがいきなり回しているんだ。どうだ?もう落としたくなったか?」
面白いものを見ているように花子が笑う。
その言葉にマキシは、
「まさか、せっかく見つけた大事な皿ですよ」
挑戦的に言った。
いつも軽口で淡々と温度を感じさせないマキシがそんな言い方をするのは初めてだった。
花子はさらに笑みを深くした。
「それより、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「アレを…使いたいんです」
「使うのか…アレを…」
真剣なマキシの声にも花子が答える。
しばらく二人の視線は交差しあう。
「…アレってなんだ?」
と、首を傾げ、ふわーと気の抜けた煙を吐く。
マキシはがくっと肩を落とすと、
「だからーアレですって、所長が映画で見て、手の甲から爪みたいなのがシャキーンで出るのがかっこいいって、作ってたじゃないですか。アレっアレ」
マキシは身振り手振りで伝える。
それを見て花子も思い出したらしく、立ち上がった。
キャビネットを開けて、その中から肘から下の左手を取り出した。
「これなぁ、あれだぞ、シャキーンで出るのは構造が面倒だったらやめて、最初から指先が尖ってるしようにしたし、途中で飽きたから表皮被せてねぇぞ」
ほらっと腕を見せる。
その腕は、マキシのものとは違って、木肌がそのまま、関節の稼働部分もむき出しで、手指の先だけ鋭利に尖り、金属の光を放っていた。
「いいですよ、着飾って合わないといけない相手じゃないんで、使えるんでしょ?」
マキシが言うと、花子はその顔を見て、デスクに戻って煙草を灰皿に押し付けると、
「こっちに来い、つけてやろう」
とマキシを呼んだ。
花子はマキシの左腕の肘から外して、アレに付け替えた。
「これ、指先長くてグーできないじゃないっすか」
マキシグーパーして見せながら、花子に苦情を言う。
花子は煙草を咥えて、工具を雑に机の引き出しに片付けると、
「しょうがねぇだろ、ある程度、指長くないとシャキーン感が出ねぇだろ。それより一人で行く気か?」
花子はふぅ…と煙を吐いて、マキシの作業部屋の方を見た。
「はい、性悪、最低、最悪の悪霊ロリババアだけど、レイマにはやっぱの妹なんですよ。レイマにはやらせられないから」
「だとよ、サトウレイマ」
「は?」
マキシはばっと後ろを振り向いた。部屋にいるとばかり思っていた礼真がドアの前に立っていた。
「マキシさ、真美は確かに、性悪、最低悪霊だけどさ、さすがに悪霊ロリババアはひどくないか?」
礼真がマキシを睨みながら、近づいてくる。
マキシはすっと左手をパーカーのポケットに突っ込んで、へらっと笑った。
「だってさ、妹ちゃん実年齢にした還暦近いよー」
「にっしてもだよ。それに、マキシ一人で行くってなんだよ、置いて行く気かよ」
礼真はきっとマキシをさらに睨む。
マキシの顔から軽い表情が消える。
「でも、危ないよ。あいつは絶対にレイマを支配しようとしてくるよ」
「それは、マキシが守れよ。俺は、真美ともう一度話す」
「…レイマ、話すって聞いてくれる相手じゃ」
「わかってるよ、俺だって嫌だよ、人の頭の中弄って、操作して、マキシにひどいこと言って、最低なヤツだってわかってるよ。」
一気に言った礼真は、はっと息をついて、
「けど、お兄ちゃんって呼ばれて、返事したの、俺だし、守るって言ったのも俺だし。騙されたからって約束破るのはちげぇだろ」
きっぱりした口調で言い切った。
「レイマ…」
「サトウレイマ、これをやろう」
花子は机の引き出しから、小さい紙切れを出して礼真に差し出した。
こっくりさん事件のときに、マキシがもしものときに使おうと思っていたと言っていたものと似ていた。
「ヤツはお前を閉じ込めようとしてくるだろうから、それを破る札だ。持って行け」
「ありがとうございます」
花子と礼真の間で話が進んでいく。
「所長っ」
マキシが叫ぶように言うと、
「さぁそろそろ、皿追加してみせろ、できねぇのか?」
ニヤーと花子が笑った。
できても、できなくても、花子は面白がるに決まっている。
それなら、できて笑られる方がいい。
「ぐぬぬ…できるっ、できますよっ、レイマ行くよ。けど、絶対俺の言うこときいて、危なくなったら下がってね」
マキシは礼真に向き直って、ビシと注意をする。
そこは頷くだろうと思っていたが、礼真は別の方に反応していた。
「皿?」
「それはいいから」
「皿ってなに?」
突然出てきた、日用品が気になってしまったらしい礼真の腕を掴んで、マキシは事務所を出て行った。
マキシは息苦しさに呻いた。
人形の体なので、酸素が必要なわけではないが、制作者の花子のこだわりで、触覚や痛覚は感じられるように作られている。
当然、口を塞がれれば苦しく感じるようになっている。
さっきまで見ていた夢がまだ続いているのかと、顔の上のものを掴んで、自分から引き離した。
「ぷは!お前かよ!」
体を起こしたマキシは、顔の上に乗って眠っているベア吉を引き剥がして、ぽいっとソファにころがした。
「はぁー」
息をついていると、
「お前が目を覚ますの見るのは二度目だな」
と、すぐそばに花子が立っていた。
「所長」
「お前の人形を作って、お前の魂をいれて、目を覚ますまで、1カ月かかったな」
花子はデスクに戻って、椅子に座った。
「なかなか、うまくなじめなかったんですよ。身体から離れて500年近く地縛霊やってましたからね」
体を起こしたマキシは、肩をすくめた。生きているときは意識していなかったが、魂だけなって見ると、体を操作するのはなかなかやっかいだった。
「依り代から離れた魂は自由ではあるが、徐々に自我と形がなくなって消滅する。だいたい、500年も地縛霊やってるやつなんて初めて見た。規格外の記録だからな。地縛霊史上最長、マックスだ」
煙草を咥えて、頬杖をついた花子は、おもしろいものでも見ているようにマキシを見つめて笑う。
「え?俺のマキシってもしかして、そのマックスからきたの?」
マキシは、顔を上げた。
「人形と魂結びつけるのに名は必須だからな。薪って呼ばれたと言ってたが、お前、それを自分の名前と思ってなかっただろ?」
「…はい…」
「地縛霊マックスの地縛霊歴500年!マックス!マキシマム!マキシ!いい名前だろうが」
「ノリじゃないですか!だからってどんな名前がいいかって言われても、困るんですけど。けど、この身体をつくってくれたことには感謝してます」
完全に楽しんでいるだけの花子に、溜息をついたマキシだったが、少し神妙な顔になる。
人形の体を作ったときは、『俺の顔もっときれいでかわいかった!』と、文句しか言ってこなかったマキシの感謝の言葉に、
「気持ち悪いな」
花子はげっと眉をしかめる。
「いや、まぢで。所長に会った頃にはもう魂の形を保つのもやっとでしたからね。気抜いたら目玉ポロって落ちてましたから、まあ、それのおかげで俺は運命の出会いを!」
手を胸の前に組んで芝居かかった仕草で言うマキシに、
「また『お兄ちゃん、落としたよー』の話か、100回聞いたっ」
花子はうるさげに手をしっしっと振る。
「ちがいますよ!『お兄ちゃん、きれいなの、落としたよ』ですよ。そして、目玉を俺の掌に置いてくれたときの笑顔っあのときの衝撃!ビビビって本当にあるんですよ!」
興奮して続けるマキシに、
「101回聞いた」
花子は、はぁ…と溜息と煙を吐く。
「だから、本当に所長には感謝してます。会えるきっかけも作ってくれたんですから」
静かな口調に戻ったマキシが、花子に頭を下げた。
「あれは、本当に偶然だ。お前のビビビっの相手があの学校にいたのは偶然。仕事を手伝わせたのは、お前が「絶対あの子」って譲らなかったからだろうが。良かったじゃねぇか、地縛霊歴500年のお前が地縛霊やめて探してたヤツに会えたんだ」
煙草を灰皿に押し付けると、花子はめんどくさそうに、次の煙草を口にした。
「そこがゴールって思ってたましたよ。探しているときはね」
マキシは近寄ってきたベア吉を抱きあげて、膝にのせた。
「まじで、会えてよかったよ。あのときの一目惚れは思い込みなんかじゃないって、確信できたし、けど、会えたらゴールどころか、ぜんぜん終わりじゃない。もう、ジェットコースター」
ジェットコースターというところで、ベア吉を持った腕を下から上、上から下と動かして、マキシははぁ…と息をついた。
「お前…、バカだな。生きてりゃそれが、当たり前だ。」
花子が目を見開いて、少しだけ片方の眉を上げた。
「バカ…」
「人生は皿回しだ!」
いきなりわけのわからないことはを言われて、マキシは目を丸くした。
「と、ものの本で、読んだ。1枚の皿を回せたら次の皿を回し、最初の皿も落ちないよう回しながら、2枚、3枚、そうやって回せる皿を増やして、全部の皿うまく回していくのが人生だそうだ」
「めちゃくちゃつかれそうっすね」
皿回しのジェスチャーをする花子を見て、マキシははぁ…と声を上げた。見てるいるだけど疲れてくるが、素朴な疑問もわいてくる。
「所長も皿回すんですか?」
マキシの言葉に花子は、空気皿回しをやめると、
「は?誰がそんなめんどいことを。私は必死で皿回ししてるヤツを眺めとく」
ぽいっと投げ出すような仕草をして、ニヤっと笑った。
「皿を回すも、落とすも自分次第。回す皿を選ぶのも自分だ。ところで、お前が眠りこけている間、ずいぶんスマホが光ってたぞ」
花子はソファの前にテーブルの置かれているマキシのスマホを指さした。
「えーまぢかっ」
マキシは慌ててスマホを取って、一瞬固まると、ばっと立ち上がって、バタバタとパソコンを持ってきて、スマホと繋いだ。
「どうした?」
マキシのただならない様子に花子がやってきて、パソコンを横から覗く。
「レイマのスマホに仕込んでた俺のアプリが作動してたんすよ。」
パソコンのキーボードを叩きながらマキシが答える。
「サトウレイマから連絡でもきてたのか?」
「やーその、ホットラインじゃなくってセキュリティに書き換えたんですよ。ドラレコみたいに、なにかあったら録画とか録音とか自動でぇ…ほら、レイマの安全の為に」
「完璧ストーカーじゃねぇか」
マキシが礼真のことになると、常識も倫理もすっ飛ばすことはわかっていたが、花子は冷たい目を向けていたが、礼真の声が再生されると、身を乗り出した。
『…っごめ…ごめんなさない、父さん…ごめ…』
弱々しい声の後に、ガツと鈍い音が数回。
「これ…レイマが、お父さんになんかされてる…?」
「の…ようだな…」
マキシがパソコンの音声再生の画面を見つめたまま呟くと、花子も頷いた。
と、ガツっと大きな音がした途端に動画の撮影が開始されていた。
花子がどういうことだ?と、いうように…とマキシをちらっと見ると、
「殴られたときに、レイマのスマホがポケットから床に落ちて、光を感知して動画撮影が開始されたんだと思うけど、なにか映ってたらいいけど…」
言いながら、マキシは動画を再生させた。
動画は床に落ちたスマホがほぼ真上を撮影したものだったが、それはしっかりと映っていた。
マキシの目が一瞬見開かれて、すぐにぎゅっと眉をしかめられた。
「なんだよこれ…なんなんだよ!」
マキシは叫ぶと、バンッとテーブルを叩いた。
花子もすっと画面から目を反らすと、無言で立ち上がった。
「マキシ、行け」
命じたが、返事はない。
振り向くと、すでにマキシの姿はなく、事務所のドアが開けっ放しになっていた。
朝、学校へ向かう礼真は、なるべく顔をあげないで、歩いていた。
散髪代がもったいなくて、伸びてしまった髪をいつもは鬱陶しいと思っていたが、父に殴られて、痣が付いた目元を隠すのはちょうど良かった。
「痛…」
歩くと蹴られた脇腹も痛む。
「はぁ…バイト…もっとしないと…」
昨日、花子の事務所の片付けでもらった1万円に満たないバイト代は、父の機嫌を損ねるものになってしまった。
「なんか、また怪異系の手伝いあったらいいけど…俺だとマキシの足ひっぱるだけだろうし…」
こっくりさん事件の手伝いをしたときのバイト代を思い出して、礼真は溜息をついた。
なにもできないのに、報酬を期待してしまった自分が嫌になって、また溜息が出る。
それに、痣がついた顔で学校に行くのも憂鬱だった。
転んだ、ぶつかった…で、誤魔化してはいるが…その理由を考えるのもうんざりしてしまう。
「レイマ」
俯いたまま歩いている礼真は自分を呼ぶ声にはっと顔を上げた。
マキシがいつも場所に立っていた。
いつも通りの姿、声に、ガサガサにささくれていた礼真の心が少し潤う。
「マキシ」
嬉しくなって近づくと、マキシが笑顔を消して、じっと礼真の顔を見つめる。その視線は礼真の顔の痣に向けられている。
「それ」
「あっこれ?目立つだろ、転びそうになって!その…家の柱にぶつかっちゃった。本当、俺トロくて」
マキシから聞かれる前に、礼真は一気に言って俯いた。垂れてきた髪が礼真の目元を隠す。
マキシはその髪を、礼真の耳にかけて、痣にそっと触れると、
「そうだね、これは家の柱にぶつかった痣だね」
と、静かに頷いた。
「えっ…」
マキシがあっさり頷いたことに、礼真は驚いて顔を上げた。
いつものマキシなら、もっと痣のことを聞いてきて、心配して、少し怒って、それから…頭を撫でて…そこまで、考えて礼真はまた俯いた。
父親に殴れたことをなど誰にも知られたくはない。自分の事情に踏み込んで来るなと、学校の友人たちとも距離を取っていた。
なのに、マキシにしもっと傍に来てほしいと思っている自分に気付いて、礼真は愕然とする。
なにをマキシに期待しているのか、報酬のこと考えていたときより、自分が嫌になってくる。
「学校、始まるから」
耳にかかっていた髪を下して、俯いたまま、歩き出した礼真の腕をマキシが掴んだ。
「礼真きて!」
「なっなに?」
ぐっと掴んだまま、引っ張られる。
「ちょっと、マキシ。俺、今から学校。放せよ。」
「学校はいいよ」
「よくない!」
礼真はぐっと踏みとどまって、マキシの腕を振り払った。
いつも、自分のことを大事にして、尊重してくれるマキシの一方的な態度が悲しくて、叫ぶような声になっていた。
その声に驚いたように一瞬固まると、
「お願いだから、一緒に来て」
マキシは祈りのように静かに言って、礼真の両手を一回り大きな手で包んだ。
苛立っていた礼真だったが、マキシの顔が泣きそうに見えた。
「マキシ…大事なこと?」
礼真はマキシの顔を覗き込んだ。
「うん、すごく大事なこと」
はっきりと答えながらも、マキシの目が、わずかに震えていた。
マキシをここまで、動揺させるようなことが起きている。そして、それは自分が関係していること…と、礼真は思った。
「わかった。行く。だから、手放して」
礼真は頷くと、まだ握れたままの手を引こうとしたが、ぎゅっとさらに強い力で握られてしまった。
「ダメ、手はこのまま」
いつもの礼真をからかうとき表情でも声でもない。
こっくりさん事件のとき学校の敷地に入って、二人で言い合いをしたことを思い出した。マキシが礼真と手を繋ぐのは、ただ触れたいから好きだからという意味ではない。あのときは、礼真を守るために、マキシの霊力で包むためだった。
マキシの表情からも、繋いだ手にはなにか意味があるとわかって、礼真は息をつめた。
「俺から離れないで」
また歩き始めたマキシが言う。
礼真は返事の代わりに、つながれた左手でマキシの右手をぎゅっと握り返した。
マキシは迷いなくどんどん歩いていく。
最初はどこに行くのだろうと思っていた礼真だったが、だんだんとその表情が不審に曇っていく。
さっき自分で歩いて来た道を戻っているからだ。
このまま行けば、家に帰ることになる。
ダメだ、行きたくない…そんな思いが湧いてきいて、礼真の足を鈍らせるが、マキシはずんずんと歩いて行く。
そして、一軒の家の前で立ち止まった。
「ここ、俺の家」
朝、出てきたと変らない家。少し古いがごくごく普通の一軒家だ。
「礼真にはどう見えているの?」
「えっ…」
「俺には、廃墟に見えるよ」
「ひどいな、確かに築年数は経ってるけど、廃墟はないんじゃ…」
またマキシの冗談かと思いたくて、軽いツッコミで返そうとしたが、言葉は続かなかった。
マキシの顔は恐ろしいほど真剣だったからだ。
「行くよ」
マキシは礼真の手を引いて、家に入った。
朝、礼真が「いってきます」と靴を履いた玄関をマキシは土足のまま上がっていく。
「マキシ、ちょっ…靴、脱げ」
「無理、礼真もそのままでいいよ」
「はっ?よくない、ちょっ…」
礼真が靴を脱ごうしたが、そのままぐっと引っ張られて、家に上げられてしまう。
「礼真、ちゃんと見て」
マキシがぎゅっと礼真の手を握る。
「え…」
部屋の中の一瞬輪郭がぼやけたかと思うと、急にくっきりとクリアになった。
朝の光が差し込むリビングルームには、日に焼けて色を失い、表面はひび割れて、中のスポンジが黄色く覗いているソファ。
壁紙は湿気で波打ち、端からめくれている。天井には茶色染みと真っ黒い染みがいくつも浮き、穴があいているところもあった。
長い間、誰も住んでいない家だった。
礼真はゆっくりと足元を見た。
床は埃と泥でまだらに汚れ、足を動かすと、靴裏に砂が擦れるのを感じる。枯葉や虫の死骸まで転がっていて、素足で上がろうとはとても思えなかった。
「ここ…でもここには、真美と父さんがいて。今日の朝も普通で…こんなじゃ…なくて」
礼真の眼球が激しく動きまわり、呼吸は荒くなっている。
「そうだね。でもねそれは嘘なの」
マキシはゆっくりと静かに言って、スマホを取り出して、動画を再生させた。
『父さん!ごめんなさい!ごめんなさい!』
礼真の弱々しい声がマキシのスマホから再生される。
ひゅっと礼真が息を飲んだ。
「やめて、聞くな、見たくない!」
礼真は頭を抱えるようにして、手で顔を覆った。
「ダメ、見て」
マキシは短く言って、礼真の手を引いて、顔から外させると、その目の前に画面をつきつけた。
礼真は、画面を見た。
父から罵声をあびせられ、暴力をうける、自分の姿を覚悟する。
が、そこには映っているのは、礼真ひとりだった。
『父さん…やめ…止めて、痛い…』
礼真は誰もいない空間に向かって懇願しながら、自分で柱に顔や腕をうちつけていた。
画面をじっと見つめ固まったいた礼真の表情が弛緩したようになり、ついには笑い出す。
「あは…はは…フェイク動画作ったのかよ。マキシ趣味悪い」
礼真の言葉にマキシは痛みに耐えるように一瞬、顔を歪めてから静かに答えた。
「こんな胸くそ悪い動画、俺が作ると思ってるの?」
抑えてはいるが、その声の中にある怒りを感じて礼真はびくっとする。
「ごめん。そう思いたいよね」
「いや…俺の方こそごめん、マキシがそんなことしないってわかってる」
マキシが離れそうになっていた手をつなぎなおすと、礼真もまた握り返してきた。
「礼真…」
「これが…本当のこと、なんだ。」
礼真は殴れたと思っていた顔の痣にそっと触れた。
顔、腕、体にもたくさん痛みが残っている。それを自分がつけた。
信じられないが、今は自分よりマキシの方が信じられると思った。
そこまで考えた礼真ははっと顔を上げた。
「真美!真美は?真美はいるんだよな?」
マキシはゆっくり首をふった。
「いるよ、けど、いない。礼真が思ってる妹ちゃんはどこにもいないんだよ」
「そっんな」
「礼真は妹ちゃんとDV甲斐性ナシとこの家に家族として住んでるって思わされてたんだよ。」
「これ、見覚えない?」
荒れた居間のテーブルの上に、封筒が重なっていた。
1番上の封筒は「ミロクセキュリティー」とロゴが印刷されている。
礼真が花子からもらったバイト代が入っていた封筒だ。
礼真は震える手で、封筒をとって中を見た。
「っ!」
そこには明細の額そのままの金額が入っていた。礼真は、無言で次々に封筒をとって中身を確かめる。最後の封筒を確認して、礼真はその場に崩れた。
「全部、ある。そのままある」
「霊にはお金、必要ないからね」
「父さんは、父さんは俺のこと殴るけど、バ…バイト代渡したら褒めてくれて」
父は真っすぐに自分を見つめて、笑顔を作って、頭をがしがしと撫でてくれた。殴れるのは辛かったが、礼真のことを見て向き合ってくれているのが嬉しかったのだ。
「現実でも、それクソオヤジだから」
「そうだよ、クソだよ、真美をほったらしにして俺を殴って、金取って、本当クソ。クソだけど、それは現実じゃなかったのかよ!全部!嘘だったのかよ!」
礼真は叫ぶと、
「うわーぁぁあー…」
声を上げて、給料袋を握ったままの拳を床に何度もたたきつけた。
マキシは、床を叩こうと振り上げた礼真の手を掴んだ。
「痛いから止めて」
マキシが礼真の横に屈んで、そっと肩を抱いて礼真の顔を自分の胸に押しつけた。
「ごめんね、礼真を絶対に傷つけないって約束したのに、泣かせちゃった。ボディガード失格だね」
傷を負っているような、マキシの声を聞きながら礼真はマキシの背中に腕を回そうと手をあげた。
「本当に失格ね。お兄ちゃんのそばにいる資格ないわ。」
真美が、薄暗い奥から姿を見せた。かわいいパジャマ姿は礼真の知るいつもの妹だったが、その身体はうっすらと透けていた。
「本当に余計なことしてくれるわよね、あんたのせいで台無しよ。学校も怖い場所にして、お兄ちゃんが行きたくないって思いはじめていたにそれも邪魔したわね」
真美は居間に入ろうとして、そこに日が差していることに気づいて足を止めた。
「学校って…あのこっくりさんもお前が噛んでたのか」
マキシは声を上げた。
「おにちゃんを学校嫌いにして、暇な浮遊霊にお仕事させてあげて、一番になりたかったお姉さんを手伝ったあげる。みんなが幸せじゃない」
真美の言葉にマキシと礼真は言葉がなかった。
思い出すだけでも、気持ち悪くなるあのこっくりさんの空間。
こっくりさんが怖かったのではない。人間の歪んだ欲と、憎悪と、執着。それが幸せであるはずはなかった。
真美はにやっ笑うと、
「可哀想なお兄ちゃん、大丈夫よ。私がそばにいれば、怖いことも、いまの辛さも忘れられるよ」
すっと礼真に手をのばしてきた。
ぬっとなにかに触れられような感覚に掴まれて、頭の中をぐじゃっとされる。
礼真は頭を抱えた。
記憶が再生される。
礼真の前には、若い母と義父になる前の義父と小さい礼真がいた。
「礼真、新しいお父さんよ」
「よろしく、仲良くしよう、礼真くん」
「…」
「ホラ!早く握手よ!あーくーしゅ」
「…はは…礼真くんは恥ずかしがり屋さんかな?」
「っちが」
「そうなのー人見知りなの」
「人見知りなんかじゃない、知らないおじさんと握手するのが嫌だったんだよね」
いつの間にか傍らに真美がいて、礼真に囁いた。
ドラマのワンシーンを見せられているように、場面が変る。
母と義父が結婚してから移り住んだ家のリビング。母が異様にはしゃいでいた。
「男の子ですって!あなた、男の子が欲しいって言ってたもんね」
「名前どうする?」
「私、考えてるの。王に流れるの右側の琉、耀くの輝、空で、るきあ、素敵でしょ?」
「すごくいいね!オンリーワンって感じ」
「キラキラに輝いて空みたいに大きく広がってくれる子になってほしいなって」
「本当にすごい名前、ママの愛と夢が詰まってるね。お兄ちゃんのときはどうやって名前つけてくれたのかしら」
真美が笑う。
礼真は俯いた。礼真の名前は母がつけたものではないと聞いていた。そして、実の父の名前から一文字入っていると、母はいつもそのことを、嫌そうに話していた。
「お兄ちゃんのママは、お兄ちゃんの名前嫌なんだね」
礼真の心を見透かすように真美は言った。
次は、弟が生まれ数年後、礼真が中学になった頃の昼下がりの居間。
「本当に何考えてるかわからないよ。」
「中学生でしょ、反抗期じゃないの?」
母とその友達が居間で話していた。出かけようしていた礼真は廊下で足を止めた。
「反抗期?そんなんじゃないわよ、なんか言い返してくるとかならまたいいわよ!本当に気持ち悪い!」
「ちょっと、礼真くんいるでしょ?」
「聞こえないわよ、聞こえててもなんもないからあの子、本当にキモい」
母の言葉があの日と同じように礼真をずたずたにしていく。
「かわいそうなお兄ちゃん、聞こえていたよね。ひどい言葉」
真美が優しく礼真の頭を撫でる。
「ほらね、本当の家に帰っても誰もお兄ちゃんのこと見なかったでしょ。お兄ちゃんが帰ってくると、楽しそうな会話がピタって止まるんだよね」
「やめろ」
「『ただいま』って言っても、誰答えてくれいから、言うのやめたんだよね。でも本当は小さい声が言ってた」
「やめろ!やめて…」
礼真は震えながら声を絞り出した。
「レイマ、俺の声を聞いて、レイマこっち見て」
マキシはぎゅっと礼真を抱きしめる。
もうなにも聞きたくないと閉ざそうとしていた礼真の耳にマキシの声が入ってくる。
いつも声、軽やかで、優しくて、礼真の為だけにあるというように呼んでくれる。
そして、マキシが触れてくれている場所から、現実が戻ってくる。
「私を受け入れて、今まで通りよ。私とお父さんと3人で仲良くしましょう?」
真美は歌うように言って、にっこりと笑った。
お兄ちゃんと言って、笑ってくれるこの笑顔が好きだった。心の底から守ろうと思っていた。
礼真は込み上げてきそうになるものを堪えて、マキシの胸から顔を上げると、薄暗い中にいる真美を見つめた。
「真美、でも、それは嘘だから。」
「嘘のなにが悪いの?嘘を選んだのはお兄ちゃんよ」
礼真が言うと、真美はまた見えない手を伸ばしてきた。
ねばついたような湿度のあるそれを感じて、礼真は体をこわばらせる。
「汚いもんでレイマに触るな。まぢ穢れる」
マキシは自分の霊力でその迫ってきたものを弾いた。
今までそんな目にあったことがない真美は、ギリっとマキシを睨みつけた。
「邪魔するなって言ってんだろ!うせろっお前こそお兄ちゃんに触るんじゃねぇよっ!この木偶人形!中身空っぽの操り人形!」
真美は口を歪め、尖らせ、口汚くマキシを罵る。
「真美…」
顔はいつもの真美のはずなのに、汚い言葉を吐く醜悪で歪んだ口元を、礼真はただ呆然と見つめていた。
「レイマ、大丈夫?」
固まった礼真の顔をマキシが覗き込んだ。マキシと目が合った礼真は、
「マキシ、ごめん、ひどい言葉…」
ぐしゃっと顔を歪めた。
「まったく気にならないから俺。それより、ここ出よう。レイマの体に良くない。あいつから出てるの良くないヤツだから」
無意識に妹の言った言葉は兄の責任と感じてしまっているらしい礼真の謝罪に、マキシは軽口で返して、礼真を抱えるように立たせた。
昼間なら真美の力もそれほどではないだろうと思っていたマキシだったが、真美の感情が高まるにつれ、どんどんと邪な霊気が家の中にたまっていく。
「マキシ…」
ふらついている礼真を支えてマキシは居間を出て、玄関に向かう。
「お兄ちゃん!私のお兄ちゃんでしょ!守ってくれるって約束したじゃない!ずっと一緒にいるって!」
光が入ってきている居間からこっちには来ることができないのだろう真美の懇願するような甘えた叫び声だけが追ってくる。
「…ごめん」
礼真は言うと振り切るように家を飛び出した。
家の外は明るい昼間で、さっきまでのことが夢のように感じる。
礼真はその場で崩れ落ちるように倒れて意識を失った。
「礼真!」
ふわふわしたものが、顔の下の辺りで動いている感触がして、礼真は目をつぶったまま、それに触れた。
柔らかくて、ふわふわのものは礼真の手におさまって、すり寄ってくる。
優しい感触に、ほっとさせられる。
礼真はゆっくりと目を開けて、
「うわっ」
と、叫んだ。
目の前に、緑色の宝石のようなものが二つ。それがマキシの目だと気付いて思わず、声を上げて飛び起きた。腕の中にいたふわふわの正体、ベア吉を押しつぶしてしまった。
「ダメだよー急に起きちゃ」
心配そうに言ったマキシが手を伸ばしてきて、礼真の頬から、額に触れてくる。
「大丈夫…だけど、俺どうして…ここどこ?」
少し首をすくめて、マキシの手から逃げた礼真はきょろきょろと周りを見まわした。
窓のない部屋。自分が横になっていた簡素なパイプベッド、パソコンが置かれている机、マキシが座っている椅子だけで物が極端に少ない。
初めて見る部屋だったが、ベア吉がいるということは、花子の事務所の一室なのだろう。
「ここは俺の作業部屋だよ。礼真、あの家から出たところで倒れたの、覚えてない?」
マキシに言われて、礼真は真美と対峙したときの気持ち悪さが蘇ってきて、顔を歪めた。
「真美…」
礼真は深く息を吐いた。
『お兄ちゃん!私のお兄ちゃんでしょ!守ってくれるって約束したじゃない!ずっと一緒にいるって!』
追いかけてきた真美の言葉が蘇ってきて、礼真は腕の中のベア吉をぎゅっと抱きしめた。
ベア吉は手を伸ばして、礼真の顔のあざをよしよしするように撫でてくる。
ベア吉は、「ずっと一緒」という言葉に裏切られ続けて、人の腕にしがみ付いて離れない呪物になってしまったクマのぬいぐるみだったが、今はすっかり穏やかになって、花子の事務所で暮らしている。
くまのぬいぐるみでさえ、言葉一つで呪物になることだってある。まして真美は小さい女の子だ。
「俺が悪いんだよな」
ぽつりと礼真は呟いた。
「俺が、母さんと父さんと琉輝空と上手くやれないから。辛くてもちゃんと乗り越えて、しっかりしていれば、真美が俺の記憶を見て、自分が妹になろうなんて考えなかっただろうに…。」
深い息をついて、礼真はベア吉に顔をうずめた。自己嫌悪しかない。
「どうして、辛いときに乗り越えるなんて、もっとしんどいことしないといけないの?」
マキシは理解できないというように聞いてきた。
あまりのマキシの軽さに思わず礼真は顔を上げた。
「え…だって、普通はそうだろ。辛いことは、乗り越えるもんだろ?」
「えっ、それすごくしんどいじゃん。礼真はしんどいの好き?」
礼真は戸惑いながら答えると、マキシはさらに不思議そうな顔をして聞き返してくる。
そんな簡単な話じゃないだろ…と思いながらも、好きか嫌いかだけの話になれば、
「好きじゃないけど…」
という答えしかない。釈然としないままに言った礼真に、マキシはふっと頷いて、
「ならやめときなよ。それから、あいつがああなったのはレイマのせいじゃないから。」
さらりと言った。
「50年くらい前に、あの家で女の子が育児放棄されて死んでる。で、そのあと父親も死んでる。それ以来、あそこは空き家なんだけど、あの家の周辺で何人も人が消えてる。」
淡々と情報だけを読むようなマキシの言葉に、礼真の理解は追いつかない。
「あいつ、気に入ったやつを家に入れて、そのまま戻さない」
礼真みたいにね…と、マキシ小さく付け加えた。
真美から放たれたぬるっとしたもの触れた感触が思い出す。今まで見ていた真美の無邪気な笑顔が、50年という時間を考えると、急に怖くなる。
怖いと感じている自分が嫌になる。あれほど、守りたい、愛しいと思っていたのに…礼真はまた深く溜息をついた。
その礼真をじっと見つめていたマキシは、椅子からベッドに移動して、礼真の横に座った。
暗い顔で俯いている礼真の肩に腕を回したマキシは、ぐっと礼真を抱き寄せた。礼真が顔を上げると、すぐ近くにマキシの顔があって、それがさらに近づいてくる。
経験はないが、それがどういう意味かはわかる知識はある。
「っえっ…なに、近いっ近いっちょっと待って!なにしようとしてんのっ」
礼真はさっきまで血の気が引いていた顔を赤くして、マキシの胸の辺りを押して距離を取る。
「えーキスだよぉ。元気になってねーってときに好きな人にするんだよね」
マキシはにっこり笑って、さらに顔を近づけてくる。
「ちょっ待って、マキシのことは好きだけど…違うくて、そのキスって好き合ってる同士がーってこの場合は友達の好きじゃなくって、違う好きで…その愛情表現で…」
人間ではないマキシはどこがズレたところがある。「キス」に対してもズレた知識しかないのだろうと、礼真が声を上ずらせて必死で説明していると、ぶはっとマキシが吹き出した。
「ぶっははっ、知ってるー。あのさ、礼真って俺のこと常識知らずって思ってるでしょ。けどこうみえて、500年地縛霊やってたんだよーそっちの知識は礼真よりあります」
マキシは礼真から離れると、よほど焦ってた礼真がおかしかったのかまだ笑っている。
「なっこの、ふざけんなよっ」
別の意味で真っ赤になった礼真は、ドンとマキシを押した。
「礼真、元気になった」
ふふっと笑いながら、マキシがくちゃっと礼真の髪を撫でた。
礼真はむっとしていた表情を緩めた。
「もう…やりすぎ…だって」
確かにさっきまでの礼真は、自分自身、真美、自分の記憶…そんなものへの嫌悪と、それに対してなにもできない自分の無力さに押しつぶされそうになっていた。
が、今はそれが少し軽くなっていた。
礼真の口元に小さく笑みが浮かぶ。
それを見たマキシもまた笑みを作ると、
「キスしたいっていうのは本当。だから、レイマが俺に愛情表現のしたくなったら、レイマからして」
一方的に言ってマキシは立ち上がると、もう一度礼真の髪を撫でて、
「もう少し休んでていいよ、俺、なんか買ってくる。ほら、クマも来るんだよ。レイマが休むの邪魔するな」
と、礼真の膝に乗ろうとしていたベア吉を掴んで部屋を出て行った。
パタンと閉まったドアを見て一人になった礼真は、ベッドにうつ伏せになると、
「けど、やっぱり乗り越えないとダメだと思う…」
枕に顔を埋めたまま呟いた。
じたばたしているベア吉を離してやったマキシは、デスクについている花子を見て声をあげた。
「あれ、所長。どこ行ってたんですか?」
「ヤニ買いに」
花子はすぱーち煙を吐いた。
「話したのか?」
花子は、マキシが出てきた部屋へ目を向けた。
そこに礼真がいることはわかっているらしい。
「皿回すの大変です」
マキシは深く息をついて、むちゃくちゃに金髪をかき回した。
花子が片方の眉を上げた。
「そりゃそうだ、今まで皿をもってなかったヤツがいきなり回しているんだ。どうだ?もう落としたくなったか?」
面白いものを見ているように花子が笑う。
その言葉にマキシは、
「まさか、せっかく見つけた大事な皿ですよ」
挑戦的に言った。
いつも軽口で淡々と温度を感じさせないマキシがそんな言い方をするのは初めてだった。
花子はさらに笑みを深くした。
「それより、お願いがあるんですけど」
「なんだ?」
「アレを…使いたいんです」
「使うのか…アレを…」
真剣なマキシの声にも花子が答える。
しばらく二人の視線は交差しあう。
「…アレってなんだ?」
と、首を傾げ、ふわーと気の抜けた煙を吐く。
マキシはがくっと肩を落とすと、
「だからーアレですって、所長が映画で見て、手の甲から爪みたいなのがシャキーンで出るのがかっこいいって、作ってたじゃないですか。アレっアレ」
マキシは身振り手振りで伝える。
それを見て花子も思い出したらしく、立ち上がった。
キャビネットを開けて、その中から肘から下の左手を取り出した。
「これなぁ、あれだぞ、シャキーンで出るのは構造が面倒だったらやめて、最初から指先が尖ってるしようにしたし、途中で飽きたから表皮被せてねぇぞ」
ほらっと腕を見せる。
その腕は、マキシのものとは違って、木肌がそのまま、関節の稼働部分もむき出しで、手指の先だけ鋭利に尖り、金属の光を放っていた。
「いいですよ、着飾って合わないといけない相手じゃないんで、使えるんでしょ?」
マキシが言うと、花子はその顔を見て、デスクに戻って煙草を灰皿に押し付けると、
「こっちに来い、つけてやろう」
とマキシを呼んだ。
花子はマキシの左腕の肘から外して、アレに付け替えた。
「これ、指先長くてグーできないじゃないっすか」
マキシグーパーして見せながら、花子に苦情を言う。
花子は煙草を咥えて、工具を雑に机の引き出しに片付けると、
「しょうがねぇだろ、ある程度、指長くないとシャキーン感が出ねぇだろ。それより一人で行く気か?」
花子はふぅ…と煙を吐いて、マキシの作業部屋の方を見た。
「はい、性悪、最低、最悪の悪霊ロリババアだけど、レイマにはやっぱの妹なんですよ。レイマにはやらせられないから」
「だとよ、サトウレイマ」
「は?」
マキシはばっと後ろを振り向いた。部屋にいるとばかり思っていた礼真がドアの前に立っていた。
「マキシさ、真美は確かに、性悪、最低悪霊だけどさ、さすがに悪霊ロリババアはひどくないか?」
礼真がマキシを睨みながら、近づいてくる。
マキシはすっと左手をパーカーのポケットに突っ込んで、へらっと笑った。
「だってさ、妹ちゃん実年齢にした還暦近いよー」
「にっしてもだよ。それに、マキシ一人で行くってなんだよ、置いて行く気かよ」
礼真はきっとマキシをさらに睨む。
マキシの顔から軽い表情が消える。
「でも、危ないよ。あいつは絶対にレイマを支配しようとしてくるよ」
「それは、マキシが守れよ。俺は、真美ともう一度話す」
「…レイマ、話すって聞いてくれる相手じゃ」
「わかってるよ、俺だって嫌だよ、人の頭の中弄って、操作して、マキシにひどいこと言って、最低なヤツだってわかってるよ。」
一気に言った礼真は、はっと息をついて、
「けど、お兄ちゃんって呼ばれて、返事したの、俺だし、守るって言ったのも俺だし。騙されたからって約束破るのはちげぇだろ」
きっぱりした口調で言い切った。
「レイマ…」
「サトウレイマ、これをやろう」
花子は机の引き出しから、小さい紙切れを出して礼真に差し出した。
こっくりさん事件のときに、マキシがもしものときに使おうと思っていたと言っていたものと似ていた。
「ヤツはお前を閉じ込めようとしてくるだろうから、それを破る札だ。持って行け」
「ありがとうございます」
花子と礼真の間で話が進んでいく。
「所長っ」
マキシが叫ぶように言うと、
「さぁそろそろ、皿追加してみせろ、できねぇのか?」
ニヤーと花子が笑った。
できても、できなくても、花子は面白がるに決まっている。
それなら、できて笑られる方がいい。
「ぐぬぬ…できるっ、できますよっ、レイマ行くよ。けど、絶対俺の言うこときいて、危なくなったら下がってね」
マキシは礼真に向き直って、ビシと注意をする。
そこは頷くだろうと思っていたが、礼真は別の方に反応していた。
「皿?」
「それはいいから」
「皿ってなに?」
突然出てきた、日用品が気になってしまったらしい礼真の腕を掴んで、マキシは事務所を出て行った。

