――――山と聞くと思い出すのは毎年今次期よりも少し後に登る東の山だろうか。
しかしそれでも山の中腹までだしあそこまでの標高はない。
夜で見えにくいものの夜空が隠れるほどの山陰だ。
「あの……私たちはどこまで登るんですか?」
馬車を下り紅鳶さんに問う。
「普通の登山だと八合目までだけど、今回は九合目までだよ」
「きゅう……」
今まで聞いたことのないような数字が出たような。しかもそれはほぼ山頂に近いのではないか。
「今晩は麓の宿屋で一泊するけど、雛は装備の大きさを合わせておいてくれ」
「わ、分かりました!」
そして私たちは宿屋の門を叩く。すると宿屋の扉が開き、一目散に鳴さまに飛び付くひと影がある。
年齢は15歳ほどであろうか。黒髪に水色の瞳、黒い角の少年だ。
「なず兄!到着が遅いから心配した!」
鳴砂さまの……弟さん?鳴砂さまは安心させるように弟さんの頭を撫でている。
「陸璃、まずは雛……鳴砂さまの花嫁の衣合わせがある。ひとまず中へ」
紅鳶さんの言葉に陸璃くんが私を見る。思いの外厳しい視線に肩がすくむ。歓迎……されてないのだろうか。
「本当に来たんだ」
「えと……」
「この山登りが何だか分かってるの?普通の登山なら途中下山も出来るけど……今回の儀式では一度山に入ったら登りきるまで下山は出来ない」
「え……っ」
儀式……と言う響きにも驚きを隠せないが途中下山が出来ないとは一体?
「あんたにその覚悟があるわけ?ま、ここでやめるのなら今のうち。その覚悟もないなら忌み鬼の嫁になんてなれない。分家の鬼にでも嫁げばいい」
「の……登ります!」
「え……っ」
陸璃くんが意表をつかれたように見てくる。
「私は……鳴砂さまの花嫁になりたいから」
鳴砂さまならと思った。あの時たったひとり手を差し伸べてくれた。だから鳴砂さまじゃないとダメなんだ。
「……」
鳴砂さまがこちら向き、そっと抱き締めてくれる。
言葉は交わせないけれど、その抱擁に答えの全てが隠されているように。
陸璃くんはばつが悪そうに視線を外す。
「あの子は既に覚悟なら出来ていたんだよ、陸璃」
紅鳶さんの言葉に陸璃くんが何とも言えない表情を浮かべる。
「……分かったよ」
そして諦めたように中へ通してくれる。中では登山の道具などが纏められており、忌面を着けた鬼たちが鳴砂さまを出迎える。
出迎えを受けつつも、夕飯までの時間に私は登山着の合わせをすることになった。
※※※
宿屋の一郭には既に幾つかの登山装備が並べられている。
「まずは登山靴ですね。こちらを」
一華が用意してくれた登山靴を試し履きしていれば、一華が厚手の足袋を用意してくる。
「こちらを履いて試してみてください」
「その……厚手すぎない?」
登山靴を履いていてもそこまでの悪路なのだろうか。厚手の足袋を履いて合わせていく。試しに歩いてみればむくんでも大丈夫な伸縮性のようだ。
「鎮命山は標高によって気温が変動します。今は夏ですが、八合目に到達する辺りから早朝の気温は冬並みなのですよ」
「そこまでの標高……」
地方の祭山の五合目付近までしか登ったことのない私に登りきれるのだろうか。
いや……だけど登らないと鳴砂さまのお嫁さんにはなれない……んだよね。気合いを入れないと。
「次は登山装ですね。こちらを」
「その……山伏と言うか修験者と言うか」
「ええ。忌み鬼と言うのは修験者のようなものなのです」
忌み鬼が修験者?慣れない響きに首を傾げつつも、登山装を合わせてみる。
「それから帽子と……八合目から必要になる外套も」
「あまり見慣れない形……」
着物の羽織りとも違うようだ。
「元々は海の向こうから入ってきた『コート』と呼ばれるものだそうです。羽織りに比べて暖を取るのには適しておりますから」
「うん、暖かいよ」
「ようございました。それとそうそう。登山杖も合わせてくださいませね」
一華が用意してくれたものの中で持ちやすいものを選出する。
「でもその……どのくらいの険しい道なんだろう」
やはり気になるのはそこである。
「鎮命山は昔から忌み鬼たちが登ってきた山。鬼たちはそれに敬意を示し登山道や山小屋を整備して参りました。道なき道ではないのでご安心されませ」
「う……うん!」
でも、どうして忌み鬼たちは昔から鎮命山に登ってきたのだろうか。
※※※
囲炉裏を囲む食事処で、簡単な夕食が振る舞われる。
「明日は早朝の出発だからね。しっかり食べて眠るようにね」
「は、はい。紅鳶さん」
「なず兄は平気?痛いところとか」
「……」
陸璃くんの言葉に大丈夫だと言うように鳴砂さまは頭を撫でてあげている。
何だか懐かしい……そう思いながらも。
今……何かが引っ掛かったような。
しかしゆっくりする間もなく寝支度に取りかかる様子に流されて結局考える間もなく床に着く。
今は明日に備えてしっかりと身体を休めるのが先だ。
※※※
――――翌朝。
目を覚ませば既に準備が始まっている。
宿屋から簡単な朝食をいただけば、装備を整え一華と外に繰り出す。
夏とはいえ……ほんのり肌寒い。山頂付近はどのくらいの寒さなのだろうか。
「雛、荷物をこちらへ」
「は、はい!紅鳶さん」
冬装備を入れた鞄を紅鳶さんに預ければそれを馬に積んでくれる。
「五合目までは馬だからね。雛は鳴砂さまと乗るといい」
「分かりました!」
ひとりでは馬に乗れないのだから仕方がない。それに鳴砂さまと乗れるのか。暫くすれば登山装に身を包んだ鳴砂さまが氷雨さんとやって来る。
しかし鳴砂さまの手は昨日よりも紫色の澱みが多いような気がする。
「鳴砂さま、手が……」
慌てて鳴砂さまの手を取れば、いつものようにすうっときれいな手に戻る。
「その……これは一体……」
鳴砂さまを見上げれば、代わりに氷雨さんが口を開く。
「何も聞いていないのか。自分の家系を」
「えっと……柊木家のことですか?」
「違う」
ではもしかしてお母さま……?
「鬼鳴村の祭りが関係してるってことですか?」
お母さまはそこの巫女の家系のはずである。
「それゆえなんだろうね」
紅鳶さんが答える。
「ほら、ぐずぐずしていると遅れる。早く馬に乗りな」
「は……はい。氷雨さん」
馬に乗ろうと近付けば、一華がとたとたとやって来る。
「雛さま、忘れずにこちらを」
「これ……忌面?」
「はい。我々忌み鬼に付き添う一行である証です。それから目を砂や細かな岩からも守ります」
一華が目元に忌面をつけてくれる。不思議なことに忌面ごしなのに周囲がよく見える。
そして鳴砂さまが馬に乗せてくれれば、後ろに乗ってくる。
「ぼくは紅鳶の前でいい?氷雨の前は荒っぽいから」
「それはもちろん。いいよ」
あちらでは陸璃くんも忌面をつけて紅鳶さんの前に乗っている。
「私は別に気にしませんので」
しかし一華は気にもせずに氷雨さんの前に乗る。
「はぁ……言っとくけど獣が出た時は鳴砂の警護を優先するから」
だから今も太刀を佩いているのか。
「私に当てる腕でもないでしょう?」
「はいはい」
氷雨さんって冷たいように見えるけど一華は動じていないと言うか、何だかんだで息が合っている気がするのは気のせいだろうか。
「さて、出発だ」
氷雨さんが告げれば鳴砂さまが頷き、一行は山道へと分け入る。
※※※
山道を進んでいれば、馬を操りながら鳴砂さまが何かを手渡してくる。
「その……これは、飴?」
「行動食だよ」
隣から紅鳶さんが教えてくれる。前に座った陸璃くんも飴を口に放り込んでいる。
「本格的に登り出したら必須品だから、今のうちに味に慣れておいて」
「は、はい!」
包みを開けてぱくっと含めば仄かに塩の味がする。
「鳴砂さまもなめる?」
後ろを振り返りながら飴を差し出せば、ぱくりと飴を受け取る。
「ふふっ」
何だか微笑ましく思える。
「はぁ……そんな惚気気分じゃ先が思いやられる」
「氷雨さん……その、ごめんなさい」
「雛さまは悪くありませんわ。あなたの頭が固いだけですもの。ほら、あなたも」
一華がぷんすかしながら後ろに飴を差し出せば氷雨さんは意外にも口に含む。
「……やっぱり仲良し?」
そう呟けば後ろからぷっと吹き出す音がした。

