アイドルと伝播する血液の怪異


【3話】

 無数の桜の花が散り急いだあと、ほんの半月ほどで、生い茂る無数の緑の葉に入れ替わるように。
 彼の体内では、彼の中に突然現れた青白く発光する異様な血液へと、急速に置きかわりが進んでいった。

 次第に汐人は身体だけでなく、自我そのものまでもが侵食されていく感覚に襲われるようになる。

 正確には、汐人の自我が消え去ったわけではない。
 ただ、湧き上がる感情が異物によって干渉されているような、薄気味の悪い感覚。彼自身の純粋な感情が占める領域は、削り取られるように少なくなっていく。

 汐人が自身の感情を明確に掴んでいられる時間は、容赦なく短くなる。ついには、朝起きて夜眠るまでのうち、夕日が沈む前後の夕方の時間帯だけになっていた。

 異様な血液は血液としての役割をほとんど果たさない。
 ゆえに、汐人の正常な血液から置きかわりが進むと共に、身体の機能が急速に失われていった。

『汐人…!』
『汐人、汐人……!!』

「初夏の夕方。ちょうど燃えるような大きな夕陽が沈む時間帯だった。僕を呼ぶ両親の声が遠くで聞こえる。返事をしようとするけれど、返事ができているかわからない。だんだん声が遠くなった。それが最後の記憶」
 
 汐人が語るのは、自身の死に際の記憶。ちょうど今と同じ、初夏の夕刻の出来事。


「そして死すら、正常ではない異常な死が訪れた」

 自分の喉が、ひゅっと息を飲み込む音が聞こえた。

「この世に僕が存在した証として、紙切れ一枚の死亡届が作られた。僕はそこに書かれる情報だけの存在となったはずだった。だが、異常な死は、僕を無に返すことさえしなかった。こうやって、身体が滅んだあとも、血液に動かされている」
 
 少し高い視線から注がれる汐人のまなざしを、俺は真正面から受けていた。

 ずっと感じていた違和感の正体に気がつく。
 今日ここに汐人が現れてから一度も、彼が瞬きをするのを見ていないのだ。汐人はそれを気にかける様子もなさそうだった。一度も瞬きをしない目は、瑞々しく涼やか。瞬きをしない目、それは一度気が付くと強烈な違和感となる。

 日はとうに沈み、街灯のない河川敷はすっかり暗闇につつまれている。時折、頭上の橋を通っていく自動車のヘッドライトが、こうこうと周囲を白く照らし出す。

 今、目の前にいる青年は汐人なのだろうか。それとも別の何かなのだろうか。
 

「汐人がフォローした人間が順番に死んだこと。汐人と何か関係が…あるのか?」

 俺は意を決して、根幹に踏み込んでいくことにする。

「昭島駿」
「山沖奏斗」
「西山佳嗣」

 汐人はつらつらと抑揚なく氏名をとなえた。頭の後ろが、背筋がひやりと冷たくなってくる。

「彼らは僕が、正確には瀬田汐人の血液が、死に至らしめた。いずれも10代後半から20代の若い男」 

 汐人はそんなことを、顔色一つを変えずに話す男ではない。

「僕の体内に発生した異様な血液は、僕の死の直前、SNSを介し次の人間の体内に侵食した」

 浸食した先でまた異常な血液を作り、血液の置き換えを進めていく。そうして身体と自我を支配下に置き、その体を自分のものにしたのだ。

 だが、この異常な血液は生命を維持する機能に乏しい。
 ゆえに、侵食された身体は長くは持たない。
 体内に異様な血液の割合が増えすぎると、しばらくすると死ぬ。
 ゆえに死の直前、またSNSを介し別の新しい身体に移る。そこでまた、血液を作り続ける。


「次に死ぬのは黛壮汰。今の僕の、この身体」

 黛壮汰はどこにでもいそうな平凡な大学生。
 長身に細いフレームの眼鏡をかけ、性格は控えめだが責任感が強い。中高大と剣道部に所属し、高校ではインターハイに出場する。部活中は眼鏡をコンタクトに変える。その瞬間に見せる眼差しは、普段の彼からは想像もつかないほど鋭い。 仲間からは慕われ、高校、大学と部長を任されているという。

 俺は押し黙り、言葉を失った。言葉が出てくるまでしばらく時間がかかる。

「なぜそんなことを……」

「理由はわからない。お前がしでかしてるんだろうと思うだろうけど、気が付いたらそうなっているんだ。確かに自我は僕のものだ。でも、血液がそうしようとするから、遺伝子がそうしようとするから。僕自身も血液に支配されているからとしか、言えない」

「次の犠牲者となる人間は、どうして選ばれるんだ」

「それも明確に答えられない。結果から言うと、僕と年の近い若い男ばかり。体力があり細胞も若い、若い人間の方が都合がいいのだろう。あと少し僕に、瀬田汐人に似たところのある人間を、選んでいるように思う」
 
「わかることは、僕の血液と自我が現れているこの身体が、標的とした相手をフォローしてDMを送ること。そして、相手から返事が来ること。これらを満たすと、条件が完了する。僕の身体が死に瀕したとき、相手の体内で異常な血液が作り出されるようになる。そうなるとじきに、その人物の自我は僕――瀬田汐人の自我に取って代わる」

ドクンと心臓が跳ね、ひどくうるさくなったのがわかる。
俺も黛壮汰にフォローされ、DMを交わしている。


それまで淡々と達観したように話していた汐人は、急に自戒するような面持ちになる。

「慧一、僕とのことは忘れてほしい。今ならまだ……」

 今ならまだ、何も知らなかったことにして、引き返せるのだろうか。
 俺はそうは思わない。俺と汐人の感情はすでに、何もなかったことにはできないほど、互いに絡みつき合っている。
汐人も確証が持てないようで、それ以上は続けなかった。

「僕のことなんてすぐに忘れて、慧一らしく利己的に振舞えばよかったんだ。自らの望みのためだけに、振り返らずアイドルへの道を進めばよかったんだ」

 汐人は急に何かに葛藤するように、混乱したように早口になった。かと思えば、最後は耐えきれなくなったように落胆した様子に変わり、肩を落とした。

「僕はもう、慧一の知っている汐人じゃない。……こんなのになってしまった」

 俺の知る汐人と、彼の体を流れる異常な血液が、相反する意志を持っているのだろうか。
 戸惑いながらも、今伝えておかなければならないと、強く確信している言葉を口にする。

「汐人のことを忘れる気はない。ステージに上がるときはいつも、客席の中に汐人がいて、俺を見ていると思うようにしてる」
「……僕が? どうして?」
​「かつての俺は、観客に対する自分の愛のなさが透けて見えていたせいで、観客から愛を返してもらえなかった。だから俺は、どんな姿も見守っていてほしい人間が、暗い客席のどこかに必ずいると思い込むことにした。それが汐人だ。汐人がそこにいると信じることで、俺は初めて、目の前の見ず知らずの観客を愛せるようになったんだ」
 
汐人は驚愕し、それから何かを言いかけた。だが口にするのか躊躇ったように、しばらく黙った。

「……嬉しい」

 それは絞りだしたような、彼が決して外に出してはならないとしていたはずの、けれど抑えきれずにあふれ出てしまった密やかな喜び。


 生い茂る桜の木は、今や夜の闇に溶け込むように沈みきっていた。
 昼間はあんなに鮮やかだった葉の塊が、今や風もないのに時折ざわり揺れる黒い塊に変貌している。その枝は、俺たちを頭上から包み込もうとする無数の黒い手のようにも思えた。

 その下で一定の距離を保ち、それ以上近づこうとしなかった汐人が一歩踏み出す。川沿いの街灯の光が少し届く場所。そこに出てくることで、闇に紛れていた汐人の表情が、少しずつわかるようになる。
 だから、汐人の目に、今までに見たことのない光が宿っていくのに気が付いた。
 
 ――捕食者の光だ。

 それに気がつき、思わず一歩後ずさる。追い打ちをかけるように、汐人が呟いた。

「執着せずにいられない」
「………ッ」
 
 本能的な恐怖に射抜かれ、思わず身を縮こませる。

 こちらに向かって伸び、一気に間合いを詰めてくるその掌は、思ったより大きくて力強い。まだ触れられてさえいないのに、ひやりとした冷気が空気を伝って肌を刺す。
 だが、俺の喉元に触れようとした指先は、寸前で引き戻された。

 視線を上げると、汐人は自分ではない誰かの仕業を目の当たりにしたかのように、目を見開き立ち尽くしている。
 彼はしばらくそうしていたあと、静かに目を伏せた。

「慧一は魅力的だから、これまでもそうだったように、いろんな人間が君を欲しがるだろうね」

 俺たちの間に流れる空気は、ひどく不安定で、俺は戸惑いの中、俺は汐人の言葉の続きを待つ。 

 耳障りなスマホの着信音が、唐突に張り詰めた沈黙を破る。
 延々と鳴り続けるそれは、俺のポケットから聞こえていた。俺に連絡してくる人間は、事務所の人間だけだ。

「すぐにまた会えるよ、慧一。デビューおめでとう」

 汐人はそのまま背中を向けると、振り返ることなく、頭上を覆う桜の木の暗がりに消えていった。底の見えない暗闇の河川敷は彼の姿をすっかりと溶かしてしまう。
 俺は立ちすくみ、彼を飲み込んでいく闇を見送るしかできなかった。

 ポケットの中のスマホだけが、現実との接点のように執拗に鳴り続けていた。