アイドルと伝播する血液の怪異



 汐人は目線を上げて、俺をまっすぐ見た。まっすぐ見ているはずだが、少し遠いところを見るようで、その表情や目線からは気持ちが読み取れなかった。

「死と戦っていた頃、何を考えていたのか、か…」
  
 心臓がどきりと大きな音を立てる。汐人の声に、身体が緊張でこわばるのがわかる。

「僕はありふれた大学生だった。自分の人生がこの先も40年、50年と続いていくことを疑ったことはなかった。……なんだけど、ある時突然、前触れなく、病気を発症したんだ」

 生命力に満ち溢れた緑の葉が生い茂る河川敷。軽装の学生の集団が走り抜けていった。汐人はそれを指さす。

「それまではあの中の1人みたいな、普通の学生だったんだけど。中高大と部活もしてて、あんな風に毎日走ってた」

 突然、体内で異常な血液が作られるようになったのだ。その血はなぜか青白く発光する異様な見た目をしていた。
異常な血液は血液としての役割を果たさず、汐人の身体を滅ぼしていった。

 汐人は大学病院での入退院を繰り返す。闘病は熾烈なものになった。
 何度も死との境目を行き来する。健全な血液との入れ替えを目的に、幹細胞の移植を受ける。だが移植された細胞は体内の戦いに破れ、体の中で青白く発光する血液は増え続けた。

 大学病院の建物に並ぶ無数の病室の窓、その中の一つに、汐人は長いこといた。

 病棟を見渡せば、目につくのは老人や自分よりはるか年上の人間ばかり。なぜ自分がここにいるのだろうと、汐人はどこか冷めた気持ちで俯瞰している。

 広い敷地内には、患者の気持ちを紛らわすためか、手入れの行き届いた瑞々しい植栽がふんだんに植えられている。汐人はそれをガラス越しの別世界のように見下ろす。
 面会に訪れる友人、同級生の前では、大したことのないように、いつも通りの軽口をたたき、手を叩いて笑って話した。

「治療を乗り越えたら健康な体に戻れる。人生の続きをするのだと確信していた。でもだんだん理解せざるをえなくなっていった。俺に人生の続きはないんだって。どうか今で時を止めてほしいと願った。時が進めば、俺の命は失われるのは、火を見るより明らかだった。窓の外は、樹木ですら生命力に満ち溢れているのに。同窓の友人たちは、それぞれの生活を、今しかない学生生活を全力で謳歌しているのに。なぜ俺だけが、こんな病室で、一人で延々と死と戦っていなければならないのか。不条理さを受け入れきれていなかった。」


 何をする気も失った汐人は、病室でスマホを見ている。
 身辺の整理もしないといけない。両親が買い与えてくれたたくさんのスニーカーも、もう履くことがないかもしれない。フリマアプリを開く。

 そこで運命はどういうわけだか、俺、不破慧一と出会わせる。

「慧一は端正な外見とクールな性格とは裏腹に、内心に熱い意志を持ち光り輝いていた。過酷なレッスンを何年も続け、何度もオーディションに落ちていた。それでも決死の覚悟でアイドルへの道を掴もうとしていた。僕にとっては、慧一の存在は一編の美しい冒険譚だった」
 
 唐突な自分の登場に驚き、俺は目をぱちぱちとしばたたかせた。

「慧一は劣勢でも決して諦めない。自分の望みを阻む見えない敵をグッと睨みつけて、あらがうのだ。それが叶わなければ彼に待っているのは死なのか、それほどに慧一は必死に見えた。僕は何の自由もない病室で、慧一の人生を夢中で読んでいた」


 俺とSNSで軽口をたたきあう汐人。

 その時の彼は実は病室にいて、その腕には常になんらかの管が繋がっている。正常な血液を失いつつある汐人のために、いくつもの点滴が忙しく取り換えられる。赤い点滴、黄色い点滴。看護師が忙しく出入りする。
 毎日同じ時間に届けられる、トレーに並べられた味も色も薄い食事。

「このストーリーが最高に盛り上がるのは。苦労と努力の末、ついにデビューしアイドルになった慧一が、スターダムを駆け上がる展開だ。それを見届ける前に、読者の僕の命が尽きてしまうこともわかっていた」

 俺は汐人の気持ちを想像しようとした。だが言葉少なめに語られた、あまりに壮絶な情景は、実感を持って像を結ばなかった。
 気の利いた慰めの言葉を選んでかけられるほど、俺は器用な人間ではなかった。同情し寄り添えるほど、思いやりに満ちた人間でもなかった。

「気にしないで、健康な人間には見えない世界の話だ」

 汐人は俺の葛藤に気がついたようだが、気にしていないようだった。

「卒業して就職して結婚して、普通で平凡な人生を送りたかったし、成し遂げたいことは数えきれないほどあった。やり残したことは数え切れないほどある。だけど何よりも耐えられないことが一つある。忘れられること。忘れられると、僕の存在は今度こそこの世から亡きものになる。もちろん両親や友人は、いつまでも覚えていてくれるだろう。でもそれも時間とともにたまに思い出すものになっていくだろうね。仕方ないことだとは思うよ。でも僕は…」

 眼鏡の奥で穏やかに凪いでいた汐人の目が、急に剣呑な光を帯びた気がした。

「どうしても、生きている人間の記憶に残り続けたい」

 動機やいきさつは全く違うのに、どうして欲望が俺のものと極めて似ているんだろう。


「だからこうなったのかもしれない」

 汐人は自分の足元に目を落とし、自らを鑑みるような目をする。
 こうなったとは?思わず出てきそうになった疑問を俺は飲み込む。

「なんで慧一と僕の望みは似てるんだろう、驚いた」
「ああ…」
 
「その意志の強さで、慧一はいずれ必ず望みを叶えていくだろう。そんな慧一がアイドルになっていく姿を、余すところなく見ていきたいと思っていた。会ったことすらない慧一と、友人になりたいとさえ妄想していた」

 どうして妄想の内容も似ているんだろう。

 叶うことならその手を強く握って、「もちろん、こちらこそよろしく」と返したかった。

 俺は利己的でわがままな男で、そんな俺の不器用な戦いを、汐人は面白がっていつまでも聞いてくれるだろう。
 もちろん、汐人が困難に直面しているのなら、今度は俺が彼の立ち向かう力になりたかった。汐人と違い器用でも何でもない俺は無力で何もできないかもしれないが、持てる限りの力で支えたいと心の底から思った。

「慧一と会えるときに会っておけばよかった。会わなくても、気持ちを正直にしたためて送ればよかった。慧一のストーリーは最高で、クライマックスまで見ていたい。だけど、残念ながら僕にはそれはできないだろうって。そうすれば、ほんの一時でも、慧一の中に残ることはできただろう。僕には臆病でいる時間なんて、残されていなかったのに。死ぬ人間が、無限の生命力を燃やし輝く慧一に関わるのを臆してしまった」

 汐人は自身の感情をすらすらと言葉にしていった。

 自分を開示するコミュニケーションの仕方に慣れない俺は、自分の中の言葉を必死に探した。

「汐人のことは、ずっと覚えていたし、ずっと思っていた。汐人が想像してるよりずっと、僕の中で汐人の存在はどうしようもなく大きい。こんな性格だから、汐人の他に友達もいない」
 
 汐人は少しだけ微笑んで、もたもたと話す俺の目をじっと見ていた。

「今日会って、考えてたより慧一が僕のことを思ってくれてるのがわかった。今すごく嬉しい」

 汐人は本当に嬉しそうに笑うと、パチンとウインクを飛ばした。なんとなく対抗心を煽られて、俺もそれらしい表情とポーズを作ると、目を見つめてパチパチとウインクをし返した。

「待って、至近距離のアイドルのウインク、ヤバすぎ。好きになりそう」
「得意なんだ。一対一ならこれだけで心を奪える自信ある」
「愛を言葉にするのは苦手そうなのにな」
「ビジュで奪うからいい」

 軽口をたたきあっているうちに、いつの間にかあたりの空気が、音を立てるように変わりはじめていることに気が付く。

 視界の端に映る青々とした桜の葉の輝き、いつの間にかそれは失われ、燃えるような赤い光に飲み込まれようとしている。
日が落ち、黄昏が河川敷の雰囲気を急激に塗り替えて、別の場所へと変貌させていく。夜のとばりが下りる前、急激な変化が起きる短い時間が始まったのだ。

「慧一が見ただろう、僕のSNSに投稿された訃報は僕の親が投稿したもの。生前、親にパスワードを渡して、頼んでおいたんだ。確かに一年前の7月3日、瀬田汐人は灰になった。」

 長く伸びきった足元の二人分の濃い影が、じわじわと闇に溶け、死んでいく。

「それで、僕の22年の人生はおしまい。葬式に来てもらえなくてごめん、慧一の連絡先が分からなかったから、親に残せなかった」

 燃えるように真っ赤な、巨大な太陽が沈んでいく。

 生に特別な意味を見出さずともこれまで淡々と生きてこられた俺にとって、明日になったらまた陽が昇ってくることを疑うことなんて、想像だにしなかった。

 陽が再び昇るのを、二度と見られなくなる日が迫っている。そんな残酷な事実を嫌というほど突きつけられる。汐人はそんな想像を絶する日々を過ごしてきたのだろうか。
 どのくらいの時間、絶望と戦っていたのだろう。

 汐人の抱えていた思いは、何者も真には理解しきることはできないだろう。おそらく彼の愛する家族ですら。

「慧一にあえていうべきかはわからないが、家庭環境には恵まれていた。大好きな両親だった。僕は一人っ子だったんだ。だから両親にはあまりに悪いことをしてしまった」

 汐人は、その天命が人と比べて極めて短かったことさえのぞけ、幸せな男だったのだろう。

 嘆いてくれる家族がいるのは、純粋に羨ましいと。ふと場違いに思った。
 俺が死んだところで、汐人が死んだ今、嘆いてくれそうな人間が思い浮かばない。運命共同体になったグループのメンバーは嘆くくらいはしてくれるか。あとはセンセーショナルなストーリーを打って、グループを売り出すプロモーションのネタにされるくらいだろう。

「僕の墓は、両親が実家の近くに建ててくれた。一度見に行ったけど、この姿じゃ両親とは会えない」

 足元に落ちていた桜の枝の棒切れを拾い、汐人は自らの墓の場所の地図を、舗装されていない地面の砂に描いていく。あたりは闇の気配が強くなっていたが、かろうじて砂に書かれた図は認識できる。

 俺は汐人に会ってから、ずっと思っている疑問を、まだ口に出せずにいた。


 汐人が灰になったのなら、今ここにいる、死の気配を濃厚にまとったこの男は何なのだろう。


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