アイドルと伝播する血液の怪異



 汐人の喉に絡みついていた指から、力が抜けていく。

 自分がなぜそうしているのかわからなくなり、俺は汐人の喉から指を解いた。

「ゲホッ、ゲホゲホッ…… ゲホ」

 汐人が勢いよく咳き込んでいるのか聞こえる。
 彼の顔は蒼白で、脂汗が浮かんでいる。どういうわけか俺は汐人に馬乗りになっていて、胸を圧迫しているのかと慌てて降りる。

「汐人……? 大丈夫か……?」
「ううん………ちょっと喉の調子悪くて」

 汐人の喉に手を当てて、しばらく苦しそうにしていた。それから俺の顔を見る。俺の額、左の眼窩のあたりに手を伸ばしてくる。戻っていった汐人の手には血がついていた。

「ごめん慧一。無我夢中で…顔を傷つけてしまった。許されようとしてるわけじゃないけど、今の慧一は傷の治りも普通の人間のそれと違う。明日には傷の場所すら分からなくなるだろう。ステージには立てるよ」

「そうか……」

「僕はもうすぐ死ぬけど、そうは言ってもまだ、ここで事故死するわけにはいかないんだ。黛壮太にも、家族と友人がいる。彼らとの別れはきちんとしなければ。一度経験したからわかる。別れ方が悪いと、残された方の後悔としていつまでも残るんだよ」

 黛壮汰と周囲の人間の間に、別れの儀式がいる。それは汐人なりの、侵食先の黛壮汰への贖罪なのかもしれなかった。


 夏の夜のぬるい風が、髪を撫でていく。
 遠くに一面に広がる闇の塊。昼間見ればそれは海なのだろう。
 それより手前に広がる、少し減ってきた市街地の放つ光を、俺たちは並んで見ていた。

「慧一はそろそろ戻った方がいいだろ。探されてたら大変だ」

 汐人はそう言うと、こちらに向き直った。それはもっともで、そろそろ俺を心配した事務所の関係者が、部屋を訪れているだろう。悪いことに、スマホも部屋に置きっぱなしだった。
 俺の思考を察したように、汐人は微笑んだ。

「友達になれてよかったよ。今度こそ本当にお別れ。この…黛壮汰の身体もあと1か月ももたないだろう」
「これで汐人は、本当の死を迎えられるのか?」
「きっとね。あの世からなんかできたら合図するから」
「そうか…絶対気が付くようにする」
「慧一がシャンプーしてるとき、後ろに立つとかな」
「……怖すぎる、髪が洗えない」

 汐人は楽しそうにふふふと笑った。

 俺はどうしたらいいのかわからずに、一歩引いたまま汐人の顔を見ていた。汐人はむにっと口元を緩めると、パチパチと音の出そうなウインクをした。

「慧一、友達は遠慮しなくたっていい。こういうときはハグして別れるんだ」

 そう言うと、汐人はその場で両腕を大きく広げ、白い歯を見せて屈託なく笑った。意外な展開に、俺の動きは一瞬止まる。それからつられて笑みがこぼれる。

 巨大な鳥のように、腕を広げたまま待っている汐人の身体に近づくと、その肩に顔を埋め、背中に腕を回した。汐人の掌が俺の肩や背中を掴み、抱きしめ返してくる。俺も負けずに背中に回した腕に力をこめる。意外と厚みのある体だった。だが体温は感じられず、ひんやりとしていた。

「ハグすると、落ち着くんだな。人に近づきすぎると、落ち着かないと思ってたから、初めて知った」
「ふふ…自分の身体で慧一に会って、こうしたかったな」

 しばらくの間、そうしていた。

「明日のコンサート、頑張って。バイバイ」

 それから汐人は俺から身体を離した。微笑むと手を振り、くるりと背を向けて遠ざかっていった。建物の中に戻る扉を開き、一度だけ振り返ってまた手を振った。そうして汐人の姿は建物の中に消えていった。

 その姿が見えなくなった後も、俺は立ち尽くしたまま、汐人が消えた扉を見つめていた。


 非常階段を降り、貸し切られたフロアに戻ると、俺がいなくなったことがバレていた。

 戻るや否や、事務所の使っている部屋に連れ出され、大目玉を食らう。
 スマホを置き去りにしたことが、さらに話をややこしくしていた。
 心配そうに部屋の外で様子をうかがっているメンバーたちにも、連帯責任で何らかのペナルティがあるはずだ。彼らに悪いことをしたとは思う。俺たちに対する外出禁止の監視は、これまでの比ではなく厳しくなるだろう。
 俺の私用のスマホは没収されるし、きっと反省文を書かされる。考えていることを言葉にするのは苦手なので、憂鬱だ。

 だが、俺が顔に怪我をしていること。そして異様な両腕が見つかると、それどころではなくなった。明らかに男による大きな歯形が、隙間なく刻まれているのだ。
 その場で服を脱がされ、身体を隅々まで調べられる。
 地面に身体を打ち付けたことによる、頬、肩、腰をはじめ、至るところの打撲傷と擦過傷も見つかった。病院、警察、とスタッフは大騒ぎになる。問い詰められたが、自分でやったのだと答えた。

 隙間なく歯型のある腕、したたかに地面に打ち付けた頬、それらは一晩ひどく熱を持った。数日は腫れあがるだろう。
 だが翌朝には、腕の傷も顔の打撲も、何事もなかったように跡形もなく滑らかな肌に戻っていた。ほんのわずかに残った擦過傷はメイクで容易に隠れた。本来持つ力とかけ離れた異様な修復、回復力。これも、あの血の影響なのだろう。
 俺の傷が何事もなかったようになくなったことで、大騒ぎになっていた周囲はトーンダウンした。

 翌日夜、予定通りステージに立った。 
 ノースリーブの衣装には、念のため腕を隠すように、二の腕までを覆うロンググローブが追加された。
 10分間の時間は、息もつかせぬほどの密度で観客を圧倒し、客席は瞬きさえ惜しませる濃密な熱量で満たされた。ジャケットを脱ぎ捨て、2曲目は俺がセンターに立つ。嵐のような歓声の中、俺たちは最高潮の盛り上がりの中で舞台を降りた。

 今回のステージの反響を受けて、いくつかの合同フェスの参加に加えて、単独のステージも組まれることが決まった。
 
 俺の無断外出のペナルティは、メンバー全員に及んだ。
 連帯責任として、命じられたのは、無期限の位置情報常時共有。だが皆、俺を責めることはおろか、不満一つ漏らさなかった。俺に何か言うことはなかったし、接し方も変わらなかった。そのあまりに無条件の受容は、逆に俺の罪悪感を煽った。

「だって何があったんだろ。KEIがそうしないといけないと思う、言えない何かが。仲間だし、そのくらいは信じてる。ありがたいことに…プライベートで外出する暇もないから。位置情報取られても困るようなことないし」

 LIOと相部屋の自室。
 寝る前に明日の資料を確認していたLIOは、そう言った。そうして、俺を安心させるように、完璧な歯並びの白い歯を見せて笑った。

 それになぜか、汐人の笑顔が脳裏をかすめた。
 顔立ちは全く似ていないのに。それなのに、何か思い出さなければいけないことがあるような、不可解な焦燥が一瞬よぎったような気がしたが。だが、それが何なのかはわからなかった。

「そうか…」

 俺は黙って、いきなりLIOのベッドに潜り込んだ。
 スマホもないので、そのまま目を閉じる。LIOが少し驚く気配が伝わってきたあと、俺の肩のあたりに手が回ってくる。その手は、なだめるように肩をしばらく撫でていた。