【5話】
腕の動かせない俺の代わりに、汐人が音を立てないように扉を開く。
俺と汐人は、扉の隙間から身を潜めて廊下に顔を出した。
「玄関ホールのほうにファンらしい人間が何人か見えたと連絡した。非常階段の前に立っていたスタッフが様子を見に行っているはずだ。行くなら今だ」
汐人にスマホを操作してもらい、嘘の連絡で人を払ったあと。
時刻は21時半。重厚な趣の長い廊下には、すべての音を吸収するような赤い絨毯が敷きつめられている。人影はなく、静まり返っている。
「慧一がいないのが見つかったら、大騒ぎにならない?」
「なる。でもホテルの中なら、まだマシ」
「ファンの子に見つかったら?」
そのあたりに置いてあったキャップを、汐人が俺にかぶせてくる。
「それらしい女子にさえ気をつければ、薄暗いところならわかりやしない。そこまで知名度ないし」
「そうかな。こないだ河原で会ったとき、離れていても慧一はキラキラ光って目を引いてた。通りすがる女の子は皆、慧一を好きになりそうな目で見てたよ」
廊下を駆け抜ける俺の後ろを、汐人がついてくる。毛足の長い絨毯が、二人分の足音を吸い込んでいく。
エレベーターは関係者とはち合わせしないとも限らない。非常階段の前に人はいない。音をたてないように、足早に非常階段を駆け上がっていく。
「……目立つのは昔からだから、今に限ったことじゃない。そんなことより汐人はどうやってここまで来たんだ。事務所の人間が見張って、このフロアに入れないようになってただろ」
「どうだっけな。僕もアイドルに見えたのかも?」
「……そうかもな」
「冗談だって」
軽口を叩く汐人に合わせて言葉を返してはいた。
だが、全く力の入らない両腕が垂れ下がった状態で、階段を駆けあがるのには、思うようにバランスが取れず難儀する。階段を曲がろうとして、何度も姿勢を崩しかける。汐人はそのたびに俺の身体を支えた。
何階ぶん登ったか分からなくなった頃、終着点である屋上に辿り着いた。屋上に続く古めかしい扉に汐人が手をかけると、音を立てて開いた。開いたとたん、熱気がまとわりつく。
季節は真夏。まとわりつく熱気と湿気をはらんだ夜風が、生温かく肌を舐めていく。
さほど広くもない屋上には人の気配はない。
入り口こそ建物の照明が淡く届いているものの、奥に向かうにつれ暗闇に閉ざされていた。立ち入り禁止の札がかかっている先、それを越えて進むと、塀が低くなっている場所がある。少し足を上げるだけで容易に乗り越えられる高さ。
汐人は何も言わずに、立ち入り禁止の札をすり抜ける俺の後ろからついてくる。
俺はこの屋上の造りを知っている。
「見晴らしがいいな。市街地が一望できる。慧一はここに来たことがあるのか?」
「以前、この屋上を借りたMVの撮影に、バックダンサーとして出たことがあるんだ」
それは偶然だったが事実だった。たまたま以前撮影に使ったホテルと、同じホテルが今日の宿泊先。ゆえにこの屋上が最高の眺望と、容易に死を招く危うさを併せ持っていることを俺は知っていた。
俺たちは並んで下界を眺める。
「明日の会場、あそこらへんかな」
「さあ」
汐人は市街地のまだらな光の群れの一角を指さす。今日、会場はリハーサルで訪れていたが、それとはよく分からなくて、俺はあいまいな返事をした。
「慧一が出るのって、大型の合同フェスだろ。知ってるアーティストが何組も出る」
「よく知ってるな」
「緊張したりする?」
汐人は友達に話しかけるように楽しそうに言った。ニッと歯を見せた何事もなかったような人好きのする笑顔。興味と好奇心に満ちたその目は、先ほどまで俺を殺そうとした人間のものだとは思えなかった。
何を信じたらいいのかわからなくなり、戸惑う。
「別に…飽きるほど練習してるから、観客の前で披露できる楽しみの方が強いな。この腕がなんとかなればの話だけど」
「慧一はあんまり緊張とかしなそうだもんな。傷は隠してもらうしかないけど」
「最悪だ」
「腕が動かせないのは、慧一の中で、慧一と僕の血液が制御を取り合って争ってるから。浸食が急激に進んでいるからね」
軽口を叩いていた汐人は不意に、意識的に外に追いやっていた出来事の核心を突く。
夜の夏の空気は湿気をはらみまとわりついてくるのに、体の芯は妙に熱を感じずに冷えている。
「……じきに身体の全てを奪われて、俺は殺されるんだな」
「殺さないよ」
汐人はこともなげに言った。先ほどまで受けた所業を思い出し、俺は汐人が何を言いたいのか理解しかねて眉をひそめる。
「……? さっき殺されかけたけど」
「苦痛を与えたのは事実だし、謝るけど。浸食が終われば腕も動かせるようになる」
「完全に浸食されたら死ぬんだろ」
「僕が慧一を殺す? そんなことするわけない」
「???」
意を得られず固まった俺を見て、はははは、と汐人は手を叩き楽しそうに笑った。気の置けない友人の前で振る舞うように。汐人はしばらく一人で声を出して笑っていた。
何がおかしいのかわからず、俺はそれを見ているしかない。
「身勝手だけど、慧一には生きていて欲しい。慧一を望む人がたくさんいるだろう。僕もその一人」
「………じゃあどうする気だったんだ」
「生命維持に…いや、身体活動に支障がでないギリギリまで侵食する」
さっきまで手を叩いて笑っていた汐人は、いつの間にか真顔に戻っていた。
彼は無言で俺の二の腕を掴むと、そのまま俺の心の奥まで暴こうとするかのように、顔を覗き込んできた。
その目からはもう感情が読み取れなくなっていた。
「一度始まった侵食は止められない。ただでさえ慧一の中ではすでに劇的な侵食が進んでいる。だが慧一なら自我を維持したまま、異常な血液と共存できる可能性がある」
「共存……?」
汐人は頷く。両腕の動かせない俺はされるがままになるしかない。
「慧一は、異常な血液の伝播に最も都合の良い感情を、極めて強い望みとして持っている」
俺の根幹を貫く望みは、『できるだけ多くの他人に深く突き刺さり、いつまでも記憶に残したい』。
「それが僕や今までの犠牲者と決定的に違なっている。ゆえに慧一の自我を奪ったり浸潤する必要がない。むしろ干渉しない方がいいくらいだ。下手に干渉すると、アイドルとしての振る舞いに支障が出る」
「それはそうだろうな」
アイドルが人目にさらされる強度は一般人の比ではない。
人目の前に出れば最後、あらゆる角度から終始撮影され、立ち振る舞い、表情、話す内容を観察される。ダンスや語学はいわずもがなだ。不破慧一の中身が別人になってしまえば、アイドルとしての立ち振る舞いはまず不可能。
「問題は、異常な血液は生命維持に関わる機能に乏しいこと。一定割合、浸食率が70%を超えると身体活動に支障をきたし、90%を超えると死に至る。浸食を一定の割合で止め、その状態を維持し続けることなら可能かもしれない」
「浸食を止め、維持する? どうやって…?」
「僕自身を、異常な血液のDNAに組み込む。それによって僕の意思が少しだけ介入できる。異常な血液が慧一の血液を食い尽くすのを、内側から食い止め続けよう。ある意味慧一の血液の一部であり続けるだろうが、僕の自我が表出するほどじゃない」
そこまで言うと、汐人は俺の二の腕を掴んでいた手をふと離した。
一度目を閉じ、再び開いた時には、ポジティブな感情を器用に表出する汐人に戻っていた。先ほどまでの真顔がなかったかのように。
彼は目を伏せ、自嘲するようにすこし笑った。
「今ここにある僕の自我は、この身体が死を迎えると同時に、死を迎えるだろう。すでに僕は一度死んでるし、それでいい」
「ありがたい申し出だけど」
俺はそれを遮った。汐人は意外そうにし、俺の言葉の続きを待った。
「血液が伝播しようと意思を持ち続けるなら。今度は俺によって、この血が拡散されるんだろう。拡散の源になるなら、俺の命はいらない。俺で終わりにしよう」
「慧一…そんなこと言うなよ。慧一は生きていて」
汐人は俺の背中にそっと手を回すと、友人にするような軽さでバンバンと叩いた。
「血液に利用されて拡散源になるなんて、ごめんだね」
「なあ、慧一……」
俺は顔を伏せて、目を合わせない。俺を言い伏せるのを諦めたのか、汐人はふっと顔を背けた。
「異常な血液は、自らの拡散に都合の良い感情を増幅するとはすでに言ったね。言ってないことがある」
――それから恐ろしいことを、さらりと言ってのける。
「異常な血液は、自らの拡散に都合の悪い感情を抑制することもする」
「な………ッ」
俺は思わず後ずさった。
「都合の悪い感情…すなわち、拡散を抑制しようとしたり、自発的に生命活動を断つようなこと」
汐人は自発的に生命活動を、のところを特に強調する。俺の考えは、見抜かれていた。
汐人を巻き込んで、ここで共に死ぬつもりであることを。俺の両腕は一切の力が入らず、だらりと肩から垂れさがるだけになったままだ。両腕を使わず、汐人と俺を同時に殺すには。体当たりし、もろとも転落するしかない。
脚はまだ自分の意志で動かせる。弾かれたように脚の力だけで、助走をつけて汐人に飛び掛かった。汐人の背後は、踏み出せば簡単に超えられそうな、膝より低い程度の高さの塀しかない。
だが汐人は飛びかかる俺を躱すと、俺の腕を強く掴む。そして身体ごと強く引いた。かぶっていたキャップが吹き飛ぶ。
「あッ!!」
身体が引き戻されたかと思うと、身体が地面に叩きつけられる。手をつくことができないので、胸をしたたかに打ち、息が止まる。続いて顔を打ち付ける。
もはや、見えるところに怪我をしないようにとか、明日のステージがどうかとか、そんなことに構っていられなかった。キャップははるか下の下界へと落ちていったようだった。
「かはッ……」
「危ないよ、慧一」
地面に倒れ伏せる俺に、ひざまずいた汐人は手を差し出してくる。手を出した後、俺の腕が使えないのを思い出したらしく、床にキスする俺の身体をひっくり返して仰向きにした。
「俺の考えは、お見通しだったんだな…」
「血液は脳の細胞に接触しないから、慧一の考えていることを覗けたりはしない。慧一は意外と、思っていることが、素直に態度や顔に出るんだな」
張り詰めた空気にそぐわず、脇に座った汐人はいたずらっぽく歯を見せて笑った。友達に見せるような気を許した自然体の笑顔。
その笑顔が、身体を打ち付けた痛みが、気力を奪っていく。考えるのも抵抗ももう止めて、汐人の意思に身を任せたら、楽になれるかもしれない。
動かない腕の重みが、現実へと引き戻してくる。このままでは明日のステージに立てない。
アイドルとしての矜持が、俺に鞭打つ。
「……汐人は過酷で壮絶な体験を重ね、希望と絶望を幾度も行き来し、あまりに若いままこの世を去った。同じ悲劇を繰り返してはいけない。おまえと同じ凄惨な苦しみを味わう人間を、これ以上増やしてはいけない。おまえだけじゃない、おまえの家族や友人と同じ思いをする人間もだ。……俺とおまえが同時に……死ねば、この血液を完全に断てる」
汐人は黙って聞いていた。それから、仰向けに倒れる俺にそっと覆いかぶさってきた。
組み伏せられる形になり、俺は行き場を失った視線をさまよわせた。見上げると、キスでもしそうな距離で視線がぶつかる。
汐人は聞き分けのない子供でもあやすような目で見下ろしていた。そして優しく言いくるめるように、ささやいた。
「死ぬだって? だめだ。僕が、友達の慧一に死んでほしくない」
それから俺の髪に手を差し込む。なだめるようにこめかみのあたりの髪を梳く。
「他人を信じられずに、自らの力だけを信じて望みをかなえるためだけに生きていた、孤高で美しかった慧一。僕にはそんな慧一の姿が眩しかった。人生の最後に見届ける、美しいものだと捉えていた。だが、仲間ができたことで慧一は、仲間のため、見知らぬ人間のため、あるいはその家族のために命さえ捨てられる人間に変わっていったんだな。慧一がここまで変わっていたとは思ってもいなかった。本音を言うと少し妬ける。でも今の慧一は、以前より増して魅力的になった…」
場違いに優しく頭皮を撫でられる感覚。丁寧に繰り返されるそれが、逆立った神経を宥めていく。汐人は俺の髪を梳くのをいつまでも止めようとしない。
場違いに、目を細めてそれに身を任せていたい誘惑にかられる。
「慧一、この血は君の魅力をさらに、悪魔的に増幅させる。見る者すべてを虜にするようになる。皆、慧一のことを忘れられなくなる。慧一の望みは叶う。死んだら何も叶わないよ……」
それを聞いた瞬間、本能的な戦慄が背筋を駆け上がる。
同時に、それまで大人しくしていた汐人の血液が、音を立てて動き出す。
「あ……」
急激な侵食が再開したのだ。
異常な血の造血が加速度的に進み、俺の中に満ちていくのがわかる。
侵食による苦痛が再び訪れるのを覚悟し、歯を食いしばる。今度は脚の動きを奪われるのだろうか。
だが不思議と今度は、どれだけ待てども、気の狂うようなあの苦痛はもたらされなかった。
今度の血液の目的は、身体を浸食することではない。感情への浸潤。自らの拡散に都合の悪い感情を抑制しはじめたのだ。何かが感情に干渉してくる、侵食してくる。未知の感覚に凍り付くような悪寒が、背中を走り抜けていく。
「あ………」
――――突き刺さりたい。
深く突き刺さって俺のことを忘れられなくさせたい。
俺を見て、俺を覚えていて、俺のことを考えて。
どんな手段を使ってでも、一人でも多くの人間の中に、俺の存在を深く突き刺して、いつまでもそこに残り続けたい。
思考がみるみる間に変質していくのが、かろうじて認識できる。
俺の自我、感情、思考は変わらずここにありながらも、自らと汐人を殺して、この連鎖を終わらせなければという衝動が。大量の水に溶けるように薄まっていく。水の中に離散していく。
「ああッ……」
そして、もともと俺の根幹に存在する望み。他人に深く突き刺さり自分を拡散したい欲望が、じわじわと主張してくる。
と同時に、重しとしての役割しか果たしていなかった腕の感覚が、唐突に戻ってくる。
感情への浸潤があらかた終わったのか。もう開放しても問題ないと、血液が判断したのだろうか。
「うあああああああああああああッ!!」
腕が自由になったのを認識した瞬間、俺は力を振り絞った。
汐人の肩を掴み、床に引き倒した。汐人のかけていたシルバーの眼鏡が、金属音を立てて地面に落ちる。虚をつかれ仰向けに倒れた汐人に、すかさず飛び乗り馬乗りになり、その首に両手をかける。ひんやりとした皮膚の感覚に一瞬ひるむ。
そのまま全体重と力を込め、首を締め付けた。
汐人は両目を見開いて驚愕し、必死の形相であろう俺を見上げた。
「慧一………ッ!!」
「汐人………ごめん、俺もこのあとすぐ」
余計なことを考えると、決意が揺らいでしまう。
俺は思考を振り払うと、喉を締め付ける指に力を込めることだけに集中しようとする。
無我夢中で抵抗する汐人の腕が、俺の顔を薙ぎ払おうとする。手首の骨が激しく額にぶつかる。
一瞬意識が飛びかける。もう一度。今度は眼球のわずかに上に激しく当たる。皮膚が裂けた気配がして、血のようなものが目にかかる。
汐人の手は俺の顔を傷つけたことに気づき、一瞬躊躇するような動きを見せる。それから俺の腕をつかみ、引き剝がそうと渾身の力をこめてくる。骨に届きそうな勢いで、容赦なく腕を掴まれ、ミシミシと軋む。
「けいい……………」
「………この血液をここで絶つ。今ここで汐人を殺して俺も死ぬ。ここで絶たなければ、新しい犠牲者が生まれてしまう。汐人が一番わかってるだろ」
血液が伝播される新たな犠牲者はLIOかもしれないし、俺に魅入られたファンかもしれない。
あるいはまったく関係のないまた同年代の若い男。
さらに悪いことに、俺を介して拡散した場合は、犠牲者が同時に複数生まれる可能性さえある。
終わらせなければ、断たなければ、断たなければ、断た―――――――――――――――――――――――――――――
一度水に溶けて広がったものを必死にかき集めた感情が、再び水に溶けていく。
薄まり、拡散し、目視できなくなっていく。
――――――駄目だ、溶けないで。
この血を――――――――――――――――――――――――――――――
断たな―――――――――――――――――――――――――――けれ――――――――ば――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――…
腕の動かせない俺の代わりに、汐人が音を立てないように扉を開く。
俺と汐人は、扉の隙間から身を潜めて廊下に顔を出した。
「玄関ホールのほうにファンらしい人間が何人か見えたと連絡した。非常階段の前に立っていたスタッフが様子を見に行っているはずだ。行くなら今だ」
汐人にスマホを操作してもらい、嘘の連絡で人を払ったあと。
時刻は21時半。重厚な趣の長い廊下には、すべての音を吸収するような赤い絨毯が敷きつめられている。人影はなく、静まり返っている。
「慧一がいないのが見つかったら、大騒ぎにならない?」
「なる。でもホテルの中なら、まだマシ」
「ファンの子に見つかったら?」
そのあたりに置いてあったキャップを、汐人が俺にかぶせてくる。
「それらしい女子にさえ気をつければ、薄暗いところならわかりやしない。そこまで知名度ないし」
「そうかな。こないだ河原で会ったとき、離れていても慧一はキラキラ光って目を引いてた。通りすがる女の子は皆、慧一を好きになりそうな目で見てたよ」
廊下を駆け抜ける俺の後ろを、汐人がついてくる。毛足の長い絨毯が、二人分の足音を吸い込んでいく。
エレベーターは関係者とはち合わせしないとも限らない。非常階段の前に人はいない。音をたてないように、足早に非常階段を駆け上がっていく。
「……目立つのは昔からだから、今に限ったことじゃない。そんなことより汐人はどうやってここまで来たんだ。事務所の人間が見張って、このフロアに入れないようになってただろ」
「どうだっけな。僕もアイドルに見えたのかも?」
「……そうかもな」
「冗談だって」
軽口を叩く汐人に合わせて言葉を返してはいた。
だが、全く力の入らない両腕が垂れ下がった状態で、階段を駆けあがるのには、思うようにバランスが取れず難儀する。階段を曲がろうとして、何度も姿勢を崩しかける。汐人はそのたびに俺の身体を支えた。
何階ぶん登ったか分からなくなった頃、終着点である屋上に辿り着いた。屋上に続く古めかしい扉に汐人が手をかけると、音を立てて開いた。開いたとたん、熱気がまとわりつく。
季節は真夏。まとわりつく熱気と湿気をはらんだ夜風が、生温かく肌を舐めていく。
さほど広くもない屋上には人の気配はない。
入り口こそ建物の照明が淡く届いているものの、奥に向かうにつれ暗闇に閉ざされていた。立ち入り禁止の札がかかっている先、それを越えて進むと、塀が低くなっている場所がある。少し足を上げるだけで容易に乗り越えられる高さ。
汐人は何も言わずに、立ち入り禁止の札をすり抜ける俺の後ろからついてくる。
俺はこの屋上の造りを知っている。
「見晴らしがいいな。市街地が一望できる。慧一はここに来たことがあるのか?」
「以前、この屋上を借りたMVの撮影に、バックダンサーとして出たことがあるんだ」
それは偶然だったが事実だった。たまたま以前撮影に使ったホテルと、同じホテルが今日の宿泊先。ゆえにこの屋上が最高の眺望と、容易に死を招く危うさを併せ持っていることを俺は知っていた。
俺たちは並んで下界を眺める。
「明日の会場、あそこらへんかな」
「さあ」
汐人は市街地のまだらな光の群れの一角を指さす。今日、会場はリハーサルで訪れていたが、それとはよく分からなくて、俺はあいまいな返事をした。
「慧一が出るのって、大型の合同フェスだろ。知ってるアーティストが何組も出る」
「よく知ってるな」
「緊張したりする?」
汐人は友達に話しかけるように楽しそうに言った。ニッと歯を見せた何事もなかったような人好きのする笑顔。興味と好奇心に満ちたその目は、先ほどまで俺を殺そうとした人間のものだとは思えなかった。
何を信じたらいいのかわからなくなり、戸惑う。
「別に…飽きるほど練習してるから、観客の前で披露できる楽しみの方が強いな。この腕がなんとかなればの話だけど」
「慧一はあんまり緊張とかしなそうだもんな。傷は隠してもらうしかないけど」
「最悪だ」
「腕が動かせないのは、慧一の中で、慧一と僕の血液が制御を取り合って争ってるから。浸食が急激に進んでいるからね」
軽口を叩いていた汐人は不意に、意識的に外に追いやっていた出来事の核心を突く。
夜の夏の空気は湿気をはらみまとわりついてくるのに、体の芯は妙に熱を感じずに冷えている。
「……じきに身体の全てを奪われて、俺は殺されるんだな」
「殺さないよ」
汐人はこともなげに言った。先ほどまで受けた所業を思い出し、俺は汐人が何を言いたいのか理解しかねて眉をひそめる。
「……? さっき殺されかけたけど」
「苦痛を与えたのは事実だし、謝るけど。浸食が終われば腕も動かせるようになる」
「完全に浸食されたら死ぬんだろ」
「僕が慧一を殺す? そんなことするわけない」
「???」
意を得られず固まった俺を見て、はははは、と汐人は手を叩き楽しそうに笑った。気の置けない友人の前で振る舞うように。汐人はしばらく一人で声を出して笑っていた。
何がおかしいのかわからず、俺はそれを見ているしかない。
「身勝手だけど、慧一には生きていて欲しい。慧一を望む人がたくさんいるだろう。僕もその一人」
「………じゃあどうする気だったんだ」
「生命維持に…いや、身体活動に支障がでないギリギリまで侵食する」
さっきまで手を叩いて笑っていた汐人は、いつの間にか真顔に戻っていた。
彼は無言で俺の二の腕を掴むと、そのまま俺の心の奥まで暴こうとするかのように、顔を覗き込んできた。
その目からはもう感情が読み取れなくなっていた。
「一度始まった侵食は止められない。ただでさえ慧一の中ではすでに劇的な侵食が進んでいる。だが慧一なら自我を維持したまま、異常な血液と共存できる可能性がある」
「共存……?」
汐人は頷く。両腕の動かせない俺はされるがままになるしかない。
「慧一は、異常な血液の伝播に最も都合の良い感情を、極めて強い望みとして持っている」
俺の根幹を貫く望みは、『できるだけ多くの他人に深く突き刺さり、いつまでも記憶に残したい』。
「それが僕や今までの犠牲者と決定的に違なっている。ゆえに慧一の自我を奪ったり浸潤する必要がない。むしろ干渉しない方がいいくらいだ。下手に干渉すると、アイドルとしての振る舞いに支障が出る」
「それはそうだろうな」
アイドルが人目にさらされる強度は一般人の比ではない。
人目の前に出れば最後、あらゆる角度から終始撮影され、立ち振る舞い、表情、話す内容を観察される。ダンスや語学はいわずもがなだ。不破慧一の中身が別人になってしまえば、アイドルとしての立ち振る舞いはまず不可能。
「問題は、異常な血液は生命維持に関わる機能に乏しいこと。一定割合、浸食率が70%を超えると身体活動に支障をきたし、90%を超えると死に至る。浸食を一定の割合で止め、その状態を維持し続けることなら可能かもしれない」
「浸食を止め、維持する? どうやって…?」
「僕自身を、異常な血液のDNAに組み込む。それによって僕の意思が少しだけ介入できる。異常な血液が慧一の血液を食い尽くすのを、内側から食い止め続けよう。ある意味慧一の血液の一部であり続けるだろうが、僕の自我が表出するほどじゃない」
そこまで言うと、汐人は俺の二の腕を掴んでいた手をふと離した。
一度目を閉じ、再び開いた時には、ポジティブな感情を器用に表出する汐人に戻っていた。先ほどまでの真顔がなかったかのように。
彼は目を伏せ、自嘲するようにすこし笑った。
「今ここにある僕の自我は、この身体が死を迎えると同時に、死を迎えるだろう。すでに僕は一度死んでるし、それでいい」
「ありがたい申し出だけど」
俺はそれを遮った。汐人は意外そうにし、俺の言葉の続きを待った。
「血液が伝播しようと意思を持ち続けるなら。今度は俺によって、この血が拡散されるんだろう。拡散の源になるなら、俺の命はいらない。俺で終わりにしよう」
「慧一…そんなこと言うなよ。慧一は生きていて」
汐人は俺の背中にそっと手を回すと、友人にするような軽さでバンバンと叩いた。
「血液に利用されて拡散源になるなんて、ごめんだね」
「なあ、慧一……」
俺は顔を伏せて、目を合わせない。俺を言い伏せるのを諦めたのか、汐人はふっと顔を背けた。
「異常な血液は、自らの拡散に都合の良い感情を増幅するとはすでに言ったね。言ってないことがある」
――それから恐ろしいことを、さらりと言ってのける。
「異常な血液は、自らの拡散に都合の悪い感情を抑制することもする」
「な………ッ」
俺は思わず後ずさった。
「都合の悪い感情…すなわち、拡散を抑制しようとしたり、自発的に生命活動を断つようなこと」
汐人は自発的に生命活動を、のところを特に強調する。俺の考えは、見抜かれていた。
汐人を巻き込んで、ここで共に死ぬつもりであることを。俺の両腕は一切の力が入らず、だらりと肩から垂れさがるだけになったままだ。両腕を使わず、汐人と俺を同時に殺すには。体当たりし、もろとも転落するしかない。
脚はまだ自分の意志で動かせる。弾かれたように脚の力だけで、助走をつけて汐人に飛び掛かった。汐人の背後は、踏み出せば簡単に超えられそうな、膝より低い程度の高さの塀しかない。
だが汐人は飛びかかる俺を躱すと、俺の腕を強く掴む。そして身体ごと強く引いた。かぶっていたキャップが吹き飛ぶ。
「あッ!!」
身体が引き戻されたかと思うと、身体が地面に叩きつけられる。手をつくことができないので、胸をしたたかに打ち、息が止まる。続いて顔を打ち付ける。
もはや、見えるところに怪我をしないようにとか、明日のステージがどうかとか、そんなことに構っていられなかった。キャップははるか下の下界へと落ちていったようだった。
「かはッ……」
「危ないよ、慧一」
地面に倒れ伏せる俺に、ひざまずいた汐人は手を差し出してくる。手を出した後、俺の腕が使えないのを思い出したらしく、床にキスする俺の身体をひっくり返して仰向きにした。
「俺の考えは、お見通しだったんだな…」
「血液は脳の細胞に接触しないから、慧一の考えていることを覗けたりはしない。慧一は意外と、思っていることが、素直に態度や顔に出るんだな」
張り詰めた空気にそぐわず、脇に座った汐人はいたずらっぽく歯を見せて笑った。友達に見せるような気を許した自然体の笑顔。
その笑顔が、身体を打ち付けた痛みが、気力を奪っていく。考えるのも抵抗ももう止めて、汐人の意思に身を任せたら、楽になれるかもしれない。
動かない腕の重みが、現実へと引き戻してくる。このままでは明日のステージに立てない。
アイドルとしての矜持が、俺に鞭打つ。
「……汐人は過酷で壮絶な体験を重ね、希望と絶望を幾度も行き来し、あまりに若いままこの世を去った。同じ悲劇を繰り返してはいけない。おまえと同じ凄惨な苦しみを味わう人間を、これ以上増やしてはいけない。おまえだけじゃない、おまえの家族や友人と同じ思いをする人間もだ。……俺とおまえが同時に……死ねば、この血液を完全に断てる」
汐人は黙って聞いていた。それから、仰向けに倒れる俺にそっと覆いかぶさってきた。
組み伏せられる形になり、俺は行き場を失った視線をさまよわせた。見上げると、キスでもしそうな距離で視線がぶつかる。
汐人は聞き分けのない子供でもあやすような目で見下ろしていた。そして優しく言いくるめるように、ささやいた。
「死ぬだって? だめだ。僕が、友達の慧一に死んでほしくない」
それから俺の髪に手を差し込む。なだめるようにこめかみのあたりの髪を梳く。
「他人を信じられずに、自らの力だけを信じて望みをかなえるためだけに生きていた、孤高で美しかった慧一。僕にはそんな慧一の姿が眩しかった。人生の最後に見届ける、美しいものだと捉えていた。だが、仲間ができたことで慧一は、仲間のため、見知らぬ人間のため、あるいはその家族のために命さえ捨てられる人間に変わっていったんだな。慧一がここまで変わっていたとは思ってもいなかった。本音を言うと少し妬ける。でも今の慧一は、以前より増して魅力的になった…」
場違いに優しく頭皮を撫でられる感覚。丁寧に繰り返されるそれが、逆立った神経を宥めていく。汐人は俺の髪を梳くのをいつまでも止めようとしない。
場違いに、目を細めてそれに身を任せていたい誘惑にかられる。
「慧一、この血は君の魅力をさらに、悪魔的に増幅させる。見る者すべてを虜にするようになる。皆、慧一のことを忘れられなくなる。慧一の望みは叶う。死んだら何も叶わないよ……」
それを聞いた瞬間、本能的な戦慄が背筋を駆け上がる。
同時に、それまで大人しくしていた汐人の血液が、音を立てて動き出す。
「あ……」
急激な侵食が再開したのだ。
異常な血の造血が加速度的に進み、俺の中に満ちていくのがわかる。
侵食による苦痛が再び訪れるのを覚悟し、歯を食いしばる。今度は脚の動きを奪われるのだろうか。
だが不思議と今度は、どれだけ待てども、気の狂うようなあの苦痛はもたらされなかった。
今度の血液の目的は、身体を浸食することではない。感情への浸潤。自らの拡散に都合の悪い感情を抑制しはじめたのだ。何かが感情に干渉してくる、侵食してくる。未知の感覚に凍り付くような悪寒が、背中を走り抜けていく。
「あ………」
――――突き刺さりたい。
深く突き刺さって俺のことを忘れられなくさせたい。
俺を見て、俺を覚えていて、俺のことを考えて。
どんな手段を使ってでも、一人でも多くの人間の中に、俺の存在を深く突き刺して、いつまでもそこに残り続けたい。
思考がみるみる間に変質していくのが、かろうじて認識できる。
俺の自我、感情、思考は変わらずここにありながらも、自らと汐人を殺して、この連鎖を終わらせなければという衝動が。大量の水に溶けるように薄まっていく。水の中に離散していく。
「ああッ……」
そして、もともと俺の根幹に存在する望み。他人に深く突き刺さり自分を拡散したい欲望が、じわじわと主張してくる。
と同時に、重しとしての役割しか果たしていなかった腕の感覚が、唐突に戻ってくる。
感情への浸潤があらかた終わったのか。もう開放しても問題ないと、血液が判断したのだろうか。
「うあああああああああああああッ!!」
腕が自由になったのを認識した瞬間、俺は力を振り絞った。
汐人の肩を掴み、床に引き倒した。汐人のかけていたシルバーの眼鏡が、金属音を立てて地面に落ちる。虚をつかれ仰向けに倒れた汐人に、すかさず飛び乗り馬乗りになり、その首に両手をかける。ひんやりとした皮膚の感覚に一瞬ひるむ。
そのまま全体重と力を込め、首を締め付けた。
汐人は両目を見開いて驚愕し、必死の形相であろう俺を見上げた。
「慧一………ッ!!」
「汐人………ごめん、俺もこのあとすぐ」
余計なことを考えると、決意が揺らいでしまう。
俺は思考を振り払うと、喉を締め付ける指に力を込めることだけに集中しようとする。
無我夢中で抵抗する汐人の腕が、俺の顔を薙ぎ払おうとする。手首の骨が激しく額にぶつかる。
一瞬意識が飛びかける。もう一度。今度は眼球のわずかに上に激しく当たる。皮膚が裂けた気配がして、血のようなものが目にかかる。
汐人の手は俺の顔を傷つけたことに気づき、一瞬躊躇するような動きを見せる。それから俺の腕をつかみ、引き剝がそうと渾身の力をこめてくる。骨に届きそうな勢いで、容赦なく腕を掴まれ、ミシミシと軋む。
「けいい……………」
「………この血液をここで絶つ。今ここで汐人を殺して俺も死ぬ。ここで絶たなければ、新しい犠牲者が生まれてしまう。汐人が一番わかってるだろ」
血液が伝播される新たな犠牲者はLIOかもしれないし、俺に魅入られたファンかもしれない。
あるいはまったく関係のないまた同年代の若い男。
さらに悪いことに、俺を介して拡散した場合は、犠牲者が同時に複数生まれる可能性さえある。
終わらせなければ、断たなければ、断たなければ、断た―――――――――――――――――――――――――――――
一度水に溶けて広がったものを必死にかき集めた感情が、再び水に溶けていく。
薄まり、拡散し、目視できなくなっていく。
――――――駄目だ、溶けないで。
この血を――――――――――――――――――――――――――――――
断たな―――――――――――――――――――――――――――けれ――――――――ば――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――…
