――かつて病床にいた汐人もこんな気持ちになったのだろうか。
あの頃、病床から切り取られた夕日を見ていた汐人が抱いていた、しかし口に出そうとはしなかった底の無い絶望。
大事に思ってくれる愛する家族がいて友達もいて、こんな気持ちになるのは辛かっただろう。
おまえは平凡な大学生で、卒業して就職して、結婚して子供を作って、誰もが妥当だと思う長さの時間を過ごして老いて死ねばよかったんだ。失うものなどなかった俺が代われればよかったのに。
「病室にいた汐人の気持ちが、今、ほんの少しだけ少し分かった気がする」
汐人はしばらく何も言わなかった。
「慧一は。僕が思っていたより優しい。人の気持ちを慮ってくれようとする。友達がいない人間の思考じゃない」
「もしそうだとしたら、汐人と…おまえの死によって変わったんだ」
自らに課せられた運命は何かの間違いではないか。姿の見えない何かに対して怒りをぶつけ、治療に耐え治療を変え祈り、なんとか生きられないか。それでも逃れられない運命を受け入れられず深く沈み込む。どこにも理解者なんていない。彼は天命を受容できるに至ったのだろうか。
汐人は、普通の人間が享受するはずの様々な経験を得られないことは、すでに受容したと言っていた。だが、忘れられることだけは耐えられなかった、とも。
河川敷で汐人は、「異常な死は、僕を無に返すことさえしなかった」と、言った。
汐人の漂流はいつまで続くのだろうか。
「汐人はどうすれば救われるんだ…。汐人もまた、望みが叶えば終われるのか。汐人が望むことは何だ」
「僕の望み……」
「異常な血液は、浸食された者の感情に浸潤する」
「自己を拡散するために都合の良い特定の感情だけが、腫れるように肥大化していく。僕の場合は…『忘れられたくない』。今の俺はそれが肥大化した行く末。俺は忘れられたくない恐怖に支配され、SNSで自己を発信し、次々と新しい宿主を探し、浸食し身体を支配していった」
汐人は生前、忘れられることへ恐怖を持ちながらも、それを抑えて他者を思いやれる人間だった。だが異常な死を経て、汐人は変質した。
「忘れられたくないこととは別に、本当の汐人の望みがあるということか…?」
「……慧一は、本当に察しがいいね。他人との関わりを拒んできたはずの慧一は、誰よりも他人の思考を鋭く読み取る」
「……誰も信じないで生きるには、人の顔色をうかがう必要があったからだ」
汐人は周りを見渡した。
その視線の先にあるものは、部屋の中のティーセット、デスクの引き出し、デスクの上にある、さっきから場違いに甘いにおいをただよわせているフルーツ。体調が悪いから早めに休むと言ったら届けられたものだ。
汐人はテーブルの上にあるフルーツのわきに置いてあった、果物ナイフを手に取る。手に取られた刃物の鈍い光に、俺の身体は本能的な恐怖でこわばる。
「これ、借りるよ」
「何を……」
俺の怯えを意に介さず、汐人は果物ナイフを自らの腕に当てる。
そして容赦なく果物ナイフを持つ手に力を入れ、自分の腕の血管の集中している部分を躊躇なく切り裂いた。
「ッ」
「!」
ビチャッという水音が響く。
汐人の腕の切り傷に沿って、青白く淡く発光する液体が溢れだす。
腕を伝い、床に水溜まりを作っていく。これが汐人の血液。俺はそれに目を奪われる。水銀のような銀色の鏡面状の光沢。光を反射して輝いている。
「あまり慧一に教えたくない方法だけど。一定量脱血すると、血液の支配がほんの一時的にだけど弱くなる。出しすぎるとこの身体が死んでしまうから加減がいるけど。本当……、本当の望……、本当の望み……、本当の望みは………、」
汐人は絶えず自らの腕の中をかき回し、ボトボトと出血が続く。
「言えそうだ。本当の望みは。血液に歪められたいびつな欲望に、支配されるのはお終いにしたい」
汐人の腕から青白く光る液体が腕から滴り落ちるのがいつのまにか止まっている。出血が止まったのだ。
「……汐人、俺にはやり残したことがあるのを思い出した」
「やり残したこと?」
俺が死ぬだけでは終わらないのなら、まだ死ぬわけにはいかない。この呪われた血液の伝播を断たなければ。諦め弛緩しかけていた体を、無理やり奮い立たせる。
なぜ一時でも諦めようとしてしまったんだ。
汐人の血液は、意思を持って汐人の感情を操作している。俺の身体を支配し死が近づくと、さらに次の伝播先を探すだろう。
瀬田汐人⇒昭島駿⇒山沖奏斗⇒西山佳嗣⇒黛壮太⇒不破慧一⇒【????】
そして次の伝播先が選ばれる。
同年代の若い男、汐人と似たところがある、最後の犠牲者とSNS上でつながりがあること…。それ以外は、どうやって選ばれるのかはわからないと汐人は言っていたが、もし俺に比較的近い人間が選ばれるとしたら。
俺と急速に距離を縮めていった、同年代の男であるアイドルたちは。次の伝播先として、汐人が彼らの誰かを選ぶ可能性は。
特に俺との距離が近かった同室のLIOは。
俺を気遣うLIOを、拒絶してしまったことはその後謝った。LIOは何も気にしてないといい、言葉の通り、微塵も気にする様子も見せなかった。
悪いことに、LIOはどこか汐人に似ているのだ。
育ちの良さを感じさせる佇まいや、周囲に人が絶えない気さくな性格。それでいて、俺という人間に真っ向から関心を持ち、観察し、何かを咀嚼するように深く考え込む様子を見せる。そんな彼だからこそ、俺は物理的にも精神的にも、メンバーの中で最も深い部分を許していた。
「汐人、最後の頼みを聞いてくれないか。夜空が見たい…。このホテルに屋上があるんだ」
俺の死と同時に今ここで汐人の、現在の黛壮汰の命も絶つ。
そうすれば、この呪われた血液の伝播を、ここで終わらせることができるかもしれない。
【5話へ】
