アイドルと伝播する血液の怪異



 設定温度を下げていた空調からの冷たい風が、酷く熱を帯びた両腕の肌を撫でていく。

 汐人はやにわに俺を起こし、俺を背中から抱きしめるように、腕を回してくる。抵抗しようと、その胸を押し返そうとして、気が付く。これは抱きしめられているのではない、拘束されているんだ。

 恐る恐る汐人の顔を振り返ろうとする。しかし真後ろに陣取った汐人の表情はうかがいしれない。汐人は耳元ですまなそうに告げた。

「もう一つ謝ることがある。実は…痛いのはこれからが本番なんだ」

「な………」

 両腕に隙間なく刻まれた赤黒い歯型。それがふいに青白く発光し始める。内側から強く発光する。これまで見た中で最も強い輝きを放つ。

「あッッ…………!!!」

 耐え難い苦痛。
 暴れる身体を汐人の腕が押さえつけてくる。
 
 腕の傷を介して直接送り込まれた汐人の遺伝子が、爆発したように暴れ始めたのがわかる。これまでのじわじわとした浸食とは様相の異なる劇的な浸食。

 その下層から薄っすら顔をのぞかせていく、自分でないなにか。俺を侵食し拡散し広がっていく。自分の身体が明け渡されていく現実を、なすすべもなく受け入れさせられる。

「はァ、はッ、はぁッ…!!……ッ……」

 冷静さを欠き、何も考えられなくなってくる。思考が散らかり、際限なく拡散していく。
 無残な両腕を隠さないと。明日のコンサートの衣装を調整してもらわなければならない。しかしなんと言えばいいのだろう。

 明日はステージで、身体に叩き込んだ振付、初めて獲得した居場所、オーディション番組、外見がトラブルの種になり阻害される日々、汐人との出会い、他人が信じられないこと、汐人の死。
 暗くなっていく視界。これまでの人生がチカチカと瞬きながら交錯していく。

 次第に煌めきは幼少期の頃の記憶にまでさかのぼっていく。
 施設。少年の頃の自分。
 どうして僕には僕のことを無条件で大事にしてくれる人がいないんだろう。
 どうして。

 いないなら獲得しにいくしかない。無償で永久に約束される愛、恋人にそれを求めるべきなんだろう。
 だがその対象がたった一人だと信用ができない、何らかの拍子に失われないとどうして言えようか。できるだけ多く、多くの人間に。

「……気が強くて、したたかで、傷つきやすくて、人を信じられなくて、でも信じてみたいと思っている、慧一。できる限り多くの他人に深く刺さり記憶に残り続けたい強い望みを持つ、可愛い慧一。」

「!!」

 ふいに俺の左の中指と薬指がピクリと動いた。
 気のせいだろうか、俺の意思と関係なく。俺でない何かが俺の指を動かしている。そう察して、ぞっとするものが背中を駆け上がる。

「なに……?」
「動いた」

 耳元で汐人が囁いた。
 動いたとはどういう意味だろう。気味が悪くなって、抵抗するように指先に力を入れる。

 だが、今度は明確に俺の意志ではない力で、左手の指がバラバラに動く。動きを確認するようにうごめいている。
 自分の身体が意志と関係なく勝手に動く、未知のおぞましい感覚に本能的に身の毛がよだつ。

「動く、慧一の指…」
「ひッ………」
「細やかに動く、ダンスで磨いた先端まで妖艶に魅せる指先」

 自分の意志では指一本左手を動かせなくなっていて、左の手を動かす権限を完全に奪われたことがわかる。
 次に勝手に左の肘がぎこちなく動いていく。手首、肘、肩関節。左腕全体の制御を完全に奪われるのを、俺は戦慄して見ていることしかできなかった。

「しなやかに動く、しっかり筋肉がついていて柔軟性も非常に高い。慧一の執念と努力の結晶。素敵な腕だね」

 隙間なく歯型の模様が刻まれ、内側から強く発光する異様な様相の左腕。
 それが確認するように、ゆっくりと明確に意思を持ち、覚えのある動きをしていく。美しく動かされる指先。これは叩き込んだ振付だ。身体に覚えこませたこともできるらしい。勝手に動き続ける左腕。

 次に勝手に動き始めるのは右手の小指と薬指。
 俺は抵抗しようと、右手の指に力をこめ、必死で頭を左右に振ったが、汐人の肩のあたりに頭を擦り付けただけだった。

「嫌だ……」

 ――この命はとっくに汐人の手中にある。いつから。

 汐人と出会い、汐人由来の血液がこの身に発生した時か。それとももっと前、死んだはずの汐人の気配を、黛壮汰のSNSに見出したときか。

 隙間なく噛まれた、一切の自由が利かない両腕からは、絶えず燃えるような激痛が襲い来る。脈動するたびに、もうこの腕は汐人のものであると、支配を主張してくる。

 支配した両腕で渾身の力で俺の首を絞め、謎の怪死を遂げさせることもできる。脚を支配することも時間の問題だろうから、窓に向かって歩いていき、居場所がバレるのや盗撮の防止に1cmも開けることを禁じられているカーテンを開け放つと、そこから音もなく飛び降りることもできる。

 数日はネットニュースやSNSは、奇怪な訃報で持ちきりになるだろう。
 大型合同フェスへの出演を翌日に控えた、飛ぶ鳥を落とす勢いの新人アイドル。けれどそれも、新たな話題が投下されれば嘘のように忘れられていくだろう。

 アイドルらしく、なるべく美しく殺してもらえると、メンバーたちが被る被害は最小限で済む。戦略に長けた事務所は、俺の死さえもセンセーショナルにエモーショナルに仕立て上げて、プロモーションの材料に使うだろう。事務所にとっては、俺の存在なんてその程度の材料でしかない。

 急にいろいろな考えが脳内を巡って、現実から逃避したい防衛本能だったのかもしれない。
 不意にその思考の糸が途切れた瞬間、せき止めていたはずの混じりけのない本音が一気に満ちる。

「助けて…」

 瞬く間に、原始的な恐怖感が脳内を覆いつくす。
  
 死にたくない。
 死にたくない。死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたく………

「………どうしてこんなことをするんだ。おまえの血が望むからなのか」

 背中からの拘束はもうとっくに解かれていた。そうする必要がなくなったからだ。両腕は完全に制御を奪われ、肩からだらりと垂れ下がっているだけになっている。

 怯え逃れようとした勢いで、ベッドから転げ落ちる。しまったと思い、アイドルとしての矜持が、無意識に顔を庇おうと肩を先に出そうとする。
 だが間に合わず顔を強打する寸前。汐人の手のひらが、床と俺の頬の間に入る。力強いそれが、俺の顔をすくい上げ、床とぶつかる衝撃から守る。

 力なく床に転がったまま、汐人の表情をうかがう。毛足の長めのカーペットが、脚にまとわりつく。

「……どういうつもりだ」
「慧一。今の慧一の気持ち、とてもよくわかる。思い出して、目の前が真っ暗になるほどに」

 汐人は感情の読めない目をしていた。
 彼の目を見ているうちに、ふと自分に起きることを受け入れるだけで、いっぱいいっぱいになっていた思考が拡散する。


 汐人はそれまでの扱いが嘘のような手つきで、丁寧に、俺の身体を抱き上げる。全体重を預ける形になり、緊張が走る。だが汐人はそれを意に介さない様子で、丁寧に俺の身体をベッドの上に戻す。

 汐人は、俺が先ほど床に叩き落としたティッシュの箱を拾う。何枚か引き出すと、俺の顔を丁寧に拭うことを何度か繰り返す。ひどい顔をしているだろう。乱れた髪に軽く手櫛を通して整える。俺の顔を正面から覗き込み、こぎれいになったか確認する。

 テーブルセットの椅子を引くと、汐人はそこに腰掛ける。少しの物理的な距離が生まれ、ほんの少しだけ俺は安堵の息をついた。


「今日来たのは。慧一に会いたかったのと、浸食の具合を確認したいのもあるけど。知りたいことがあって来たんだ」
「……知りたいこと?」
「慧一が強く持つ望み――『できるだけ多くの他人に深く突き刺さり、忘れなくさせる』。それを叶えたあと、慧一は何を考えて何をしようとするのか、知りたい」

 それは友人に語りかけるような口調だった。

「以前も言ったように。生前の僕は、SNSで綴られる慧一のストーリーを楽しみにしていた。才能にあふれるが、人を信じられない性格の慧一が、アイドルを目指す冒険譚。慧一がどんな環境で成長して、どうして今の価値観を身につけたかは気になっていたけど、これは慧一自身から聞いて、全てが繋がった。今は、この話の終わり方について考えてる。この話は、慧一が生来の望みを叶えたら、もうやることがなくなるんじゃないかって」

 俺は毒気を抜かれ、脱力して考える。
 汐人はなぜこんなことを突然聞くのだろう。確かに生前、彼は他者への興味と好奇心に満ちていた。

 血だらけのスニーカーを出品しているエピソードから始まる、俺の生きざま。それは死が迫る汐人にとって、病室で嗜む興味深いドキュメンタリー・ショー、あるいは一編の小説のようなものだったのかもしれない。

 侵食してきた汐人の血によって獲得した魔性。
 それは見る者を虜にする異形の魔性と言っていい。食虫植物のごとく、異形の血液が次の獲物を罠にかけるため、哀れな犠牲者を魅力的な姿に変貌させているのだろうか。
 それによって、反則的ではあるが、おそらく俺の望みはもうすぐ叶う。それは甘美な誘惑として俺の脳を甘く痺れさせる。ひどく絶望的で香しい誘惑。代償として死に限りなく近づくとしても。


 そのためには明日のコンサートに立たなくては。
 KEIの姿を、客席を埋める観客に残らず深く突き刺さす。俺のことを忘れられないように。それが最後の俺のステージになっても。

 望みを叶えた後、俺は何を思うのだろう。死んでもいいと思うのだろうか。

「望みを叶えた後、俺が何を思うかは……まだわからない。想像がつかない」
「慧一のことを忘れられなくなった人間が、幸せになってほしいと思う?」
「別に思わない。不幸だろうと幸福だろうと、俺のことを忘れられなければ、それでいい」
「慧一らしいね、鋭い刃物みたいな価値観」
「……そう思っていた。でも俺の考えは変わったと思う。汐人の死によって」
「僕?」
「生前の汐人の味わった苦悩。これまで生に特別な意味を見出さずとものうのうと生きてこられた俺にはその片鱗さえも、想像だにできていないだろう。汐人のような思いをする者は…これ以上増やすべきじゃない」
 
 汐人はこちらをまっすぐ見ていたが、その瞬きしない目からは感情が読み取れなかった。

「異様な血液の伝播が成立する条件について確認したい。これは俺の仮説だが。これまでがたまたまSNSのフォローとDMを介して伝播しているだけで、他の手段でも伝播が成立することもあるんじゃないか。例えばフォローではなく姿を目に入れること、DMでなくても言葉をを交わすこと…」
「やってみないとわからないな。可能性はある気がする」
「……例えば、一人のアイドルが、この血に支配されていたとする」

 汐人の目に宿る光が、鋭くなったような気がした。

「ファンがアイドルのSNSをフォローしたり、その姿を動画で目にしたり、あるいはステージを直接目にする。それからアイドルと……俺と言葉を交わせば。ファンイベントで直接会うなどはもちろん。ステージ上の俺の呼びかけに応えることでも、言葉を交わすことが成立するとしたら。これまでがたまたま1対1で伝播していただけで、もしかしたら1対多の伝播も起こりうるのではないだろうか。俺から、多数の人間に向けて一気にこの血が拡散されるんじゃないか」

 汐人はすぐには何も言わなかった。何か考えているように、間が空く。

「慧一の発想は面白いな。すごく面白い」
「どうなんだ?」
「試してみたらわかるんじゃないかな」

 たとえ俺の身体を乗っ取ろうと、俺の自我が失われてしまえば、アイドルのKEIとして立ち振る舞うのは困難だろう。
俺を殺さずに生かしておけば。
 アイドルの俺なら、一般人のSNSなどとは桁違いの拡散力を持っている。イベントに全通しようとするコアなファンの数はまだ数万人規模だろうか、動画やSNSを追うだけの何十万人規模をターゲットにすることができる。俺はその心を奪い、この血液を拡散することができる……。

 そうやって、今ここで命乞いをすれば、死を免れることはできるかもしれない。

「――人を殺す呪われた血液の拡散装置になるくらいなら。望みなんて叶わなくていい」

 汐人は静かに頷く。

「慧一は自らの望みを叶えることを断念し、物語は終わる。意志の強い慧一に相応しくない。そんな結末は思っても見なかった。けれどそれもまた…慧一が望んだことなら。読者として……納得はいくかな」

 それが合図のように、汐人の異常な血液が音を立てて俺の中に満ちていく。末梢の指先から、腹の中の臓器にまで血液がめぐっていく。

 腕の歯型からにじみ出てくるのは、それ自体が強く青白く発光する液体。血液にしてはありえない色をした何か。じわじわとにじみ出て床に溢れていく。ところどころに赤い血液が混じっている。これは俺の本来の血液だろう。

 もはや溺れまいと水面に顔を出して必死に息をするごとく、呼吸するだけで全神経が焼かれるよう。身体中の皮膚が透き通り青白く輝く。

「ぐ………ハァッ………はァ………あァ……」
「受け入れてしまったら…楽になるよ」

 血液を汐人のものに100%置き換えられたタイミングで、不破慧一としての自我はおそらく死を迎える。
 身体は今の黛壮汰のように、しばらく汐人に支配され続ける。
 やがて異形の血液では生命活動を維持できなくなり、身体も死を迎える。

「俺には訃報を投稿してくれる家族がいないから、どうなるんだろうな。事務所がそのくらいはするか」

 静まり返った室内に、捨鉢になった俺の投げやりな声が響く。
 
「望みを叶えるのは道半ばだったが、短い時間、アイドルとして活動していたKEIの姿を、いくらかの人間はしばらく覚えているだろう。練習生時代から見ている人間も少しばかりいるだろう。願わくば俺の姿をいつまでも覚えていてくれることを…」

「安心して慧一。アイドルの慧一に魅入られた人間は、慧一のことをきっと長く覚えている。オーディション番組でヒールを演じさせられているより、ステージの上で輝く姿の方がずっと相応しかった。慧一の姿は鮮烈だった。ステージの上に何人いても、一目で慧一の立ち位置がわかる」

「そうか、よかった……。デビューしてステージに立つ動画、見てくれたんだな」


 家族がいない友人もいない、自分の外見に振り回されたろくでもない人生だった。
 だが、まあ自分の願いを叶える直前まではいくことができた。友達もできた。怪異になったそいつに殺されるけど。まあこれも友人だった汐人が望むことならば、受け入れよう。

 長いこと知らなかった居場所たる場所にも、短い間だったがいることができた。そこでできた仲間、LIOやJJ、メンバーたちなら、きっと俺のことをしばらく覚えていてくれるだろう。
 そう思えることが少しだけ俺の心を軽くする。

 言われた通り、抵抗を止めてされるがままに受け入れると苦痛は軽減していく。
 俺は全部を投げ出すことにして、まだ自分の意志で動かせる瞼を閉じた。
 腕から染み出していく激しく青白く発光する異形の血液と、ところどころ混ざる自分の血によって、水たまりができていく。髪がじっとりと濡れていく。