愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 それからというもの、俺は渚について回るようになった。「一緒に帰ろう」と半ば強引についていき、体育の時間にペアを組めと言われれば、渚の元へと一目散に向かい、遠足の班決めの時も迷わず渚を誘った。
 それでも渚はなかなか心を開いてくれなかった。話しかければ、返事はしてくれる。でも、心の壁は分厚くしっかりと作られていた。
 俺が少しでも踏み込もうとすると、サッと引いてしまうような、怯えた野良猫のような警戒心がずっと残っていたのだ。
 そんな状態が続いたまま、時間はどんどんと過ぎ、もう卒業式の話題が出るようになった頃。
 クラスの中でいじめが行われるようになった。中学受験を控えている子もおり、今思うと、ちょっとしたストレス解消だったのだろう。
 そして標的になったのは、いつも無口で、誰とも群れずにいた渚だった。

「うわ、きたね。おばけ菌がつく」

 プリントを後ろに回す時、前の席の男子が露骨に嫌な顔をして指先でつまむ。すれ違いざまに、わざとらしく囁き合う。
 子供特有の、純粋で残酷な悪意。
 渚は怒りもせず、泣きもせず、ただ虚無の瞳で宙を見つめているだけだった。
 その反応は、いじめっ子の心をさらに逆撫でした。

「なぁ、お前臭いんだけど」

 クラスの中心だった男子が渚の席の前に立ち、わざとらしく鼻を摘みながら、嫌味な笑顔を浮かべる。

「別にそんなことないと思うけど」

 顔も上げず、冷静に返した渚に少し悔しそうな表情を浮かべつつも、いじめっ子は続ける。

「じゃあ聞いてみようぜ。みんな、臭いよな?」

 皆がくすくすと笑いだす。実際、匂いなんて全くしなかった。
 それなのにクラスメイトは皆、クラスの中心にいる彼に同調した。俺を含めみんな。
 あんなに話しかけていたのに、俺にはクラス全体を敵に回す勇気がなかったのだ。
 自分がひどく卑怯な人間に思えて、胃の奥がチクチクと痛んだ。渚はあの時、どんな気持ちだったのだろうか。怖くて、今でも聞くことができていない。

 それからも、見えない暴力は続いた。
 俺は、ずっと見て見ぬふりをしていた。ただの弱虫な小学生だった。
 そしてある日、事件が起きた。
 いじめっ子の主犯格だった男子の、ゲーム機がなくなったのだ。
 放課後の教室。帰りの会が終わった直後、その男子が騒ぎ出し、取り巻きの数人が渚の席を囲んだ。

「おい、霜月。お前だろ、取ったの」
「ちがう」
「嘘つけよ! お前、いっつも半額のパンしか食ってない貧乏人じゃん。どうせゲーム買えなくてパクったんだろ」

 同じようなものを俺だって食べているのに。そんな理不尽を平気で言えてしまうのが、いかにも子供らしかった。

「ちがう」

 渚は静かに否定するが、彼らは聞く耳を持たない。それどころか「証拠見せろよ」と、一人が渚のランドセルを乱暴に掴み、逆さまにして中身をぶちまけた。
 バサバサと音を立てて、教科書やノート、筆箱が冷たい床に散らばる。筆箱の蓋が開き、転がった鉛筆の芯が折れた。
 それでも、ゲーム機は出てこない。

「……おい、隠したんだろ。服の中も見せろよ」

 さらにエスカレートする悪意。
 それでも、渚は反撃しようともしなかった。ただ、床に散らばった自分の荷物を、一切の光が宿っていない真っ黒な瞳で見下ろしていた。
 どこか、諦めきっている顔だった。 
 ふと、運動会の日の渚の笑顔が浮かんだ。
 あんな笑顔ができるのに、今は魂の底から諦めている顔をしている。
 途端に、自分は何をやっているのだろうと思った。どうしてこんな顔をしているのに、何もしないでいるのだろうと。
 そう思うのに、体が硬直して、首を絞められているかのように息苦しくて声が出ない。
 その時、1人の男子が渚のポケットから何かを取り上げて、楽しそうに笑った。

「なんだこれ!」
「女の人の写真? ぐしゃぐしゃじゃん。ゴミだろ」
「やめて、返して!」

 渚が初めて声を上げて反論する。表情は見るからに焦り切っている。
 取り巻き達がニヤニヤと楽しそうに笑う。

「優しいから捨てといてやるよ!」
「お願い、やめて、返して」
「くしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に入れといてやるからな」

 渚は絶望したように俯いた。
 そして、ぽろりと涙を流し呟いた。

「……お母さん、ごめん」

 その瞬間、俺の中で張り詰めていた何かが、プツンと音を立てて切れた。
 気づいたら、体が勝手に動いていた。

「ふざけんなよ!!」

 教室中に響き渡る声。自分でも自分の声だとは思えなかった。
 俺は渚を囲んでいた男子たちを力任せに突き飛ばした。

「ふざけんな、ふざけんな! 渚がお前らに何したんだよ!」
「……なっ、燈、なにすんだよ! こいつがゲーム盗んだのが悪いんだろ!」
「見てないくせに言うな! 渚は絶対やってない!」
「はぁ!? お前も貧乏人の仲間かよ!」
「そうだよ! 貧乏人で悪かったな! 半額のパン食べて悪かったな! でもな……人のもの取るほど困ってねぇよ!」

 今思い出しても呆れる。俺はこの時、いったい誰のために怒っていたのだろうか。
 俺は床に這いつくばって渚の荷物をかき集め、無理やりランドセルに突っ込む。最後に写真を奪い返し、反対の手で渚の手首を強く掴んだ。

「行こう!」

 驚いたように目を見開く渚を引っ張り、教室を飛び出した。

「おい、逃げんなよ!」
「逃げるよ! 逃げて何が悪い!」

 何やらまだ後ろから罵声が聞こえてくるが、どうでもよかった。とにかく、この最悪な空間から渚を連れ出したかった。
 握りしめた渚の手首は、折れてしまいそうなくらい細くて、冷たかった。

 夕焼けで真っ赤に染まった土手を、息が切れて肺が痛くなるまで走った。川の匂いと、冷たい風が頬を切る。
 誰もいない河川敷の橋の下まで来たところで、立ち止まった。
 ぜぇぜぇと肩で息をして、膝に手をつく。渚も隣で、上がった息を落ち着かせようとしている。
 ようやく息が整った頃、渚がふっと息を漏らした。俺は慌てて、渚の方を見る。

「……だ、大丈夫!? 泣かな」
「ふっ…ははっ、何あの捨て台詞……!」
「へ……?」

 渚は何故か大笑いしている。訳がわからず、俺は目を丸くすることしかできない。

「えっ、なんで笑ってるの?」
「だって、逃げて何が悪いって、めっちゃダサい! 貧乏人なのも認めるし!」
「いや、ひどくない!?」

 渚は楽しそうにくすくすと笑う。
 仕方なく、俺はその様子を見つめていた。目にうっすら浮かんだ涙が、笑い涙だと良いなと、そんなことを思いながら。
 なんだか気が抜けて、へなへなと土手に座り込む。手に持った写真が視界に入った。

「あ、ごめん。これ」

 渚は写真を手に取り、両手で持ち直す。そのまま胸元にゆっくりと引き寄せた。大切な宝物なんだなと思った。
 なんて話しかけていいかわからなくて、黙っていると、これね、と声をかけられる。

「俺の母さん。死んじゃう前に撮った最後の写真」
「……そうなんだ」

 それしか言えない俺に、渚は首を傾げる。

「なんで助けてくれたの?」
「えっ」
「今までほっといてたじゃん。急になんで助けてくれたの」

 直球な言葉が心臓に突き刺さり、思わず、うっと唸り声を上げた。

「……なんか腹立って」
「急に?」
「まぁ……うん」
「ふーん。変なの」
「その、ごめん」
「何が?」
「ずっと、助けられなくて、ごめんなさい」

 しばらく反応がなく、たまらず下げた頭を上げると、渚はなんとも思っていないような、冷静な顔でこちらを見つめていた。

「別に。助けてほしいなんて思ってなかったし。まぁ、でも写真は助かった。ありがとう」

 その言葉に胸が痛んだ。不甲斐ない自分への苛立ちと、少しの嬉しさと。色々な感情がごちゃごちゃと混ざり、自分でもどうして良いかわからなかった。
 何故かわからないが、自然と涙が溢れた。

「えっ、何。なんで泣いてるの……」
「っ、わかんない……っけど、なんか悔しくてっ……! でも……お礼言われたのはっ……嬉しくてぇ!」
「ふっ、全部言うじゃん」

 渚が小さく笑う。何故だか、渚が笑うと嬉しかった。そして俺は勢いに任せて叫んだ。

「俺……もう逃げないから! っ絶対に……ずっとっ……味方でいるから!」

 渚の真っ黒な瞳が、一瞬だけ見開かれる。それからまた、目を細めた。
 
「……変なの。俺と一緒にいたら嫌われるよ」
「別に良い! 渚といる方が楽しいし!」
「楽しい? 俺と一緒にいるのが……?」
「うん!」
「……初めて言われた」
「そうなの?」
「うん……」
「ふーん。ねぇ、それより今日からまた一緒に帰ってくれる?」
「……いいよ」
「やった! スーパーの半額コーナー巡り、またやろうよ! 俺、最近パンばっかりだから、ご飯系がいいな〜」
「……うん、そうだね」

 この日を境に、俺たちの間の壁は、完全に消え去ったように思う。
 何をするのも一緒だった。
 渚は仲良くなると意外にも距離が近いタイプで、何をするのにも「燈、燈」とついてきた。
 単純な俺は、頼られていることが心底嬉しかった。
 そうして、おせっかいなほどに渚の世話を焼く俺が誕生した。
 無口なせいで、勘違いされがちな渚の言葉を代弁し、揉め事があれば仲裁に入り。
 そしていつの間にか、皆から公認の渚のお世話係となったのだ。