病院に着いた頃には、空はすっかり朝の色に変わっていた。白んだ光が窓ガラスに反射して、妙に現実感がない。
さっきまで幽霊だの旧校舎だの、生まれ変わりだの、そんな話をしていたせいだろうか。病院の白い壁も、行き交う看護師たちも、全部が遠い世界の出来事みたいに見えた。
受付の横を通り抜ける。
誰ともぶつからない。
誰も俺に気づかない。
当たり前だ。俺はもう死んでいるのだから。
その事実を、今さらみたいに噛み締めながら、廊下を歩いた。
あの病室の前で、足を止める。絶望したあの場所。今思うと、少し滑稽だ。
あの時の自分に教えてやりたい。
大丈夫。ギリギリ、渚の命は守ったぞって。
まぁ、俺を庇って怪我をしたことに変わりはないし、違う意味でさらに傷つけてしまったのだが。
あの時とは少し違う気持ちで、扉の前に立つ。
自分が死んだと自覚してからは、壁をすり抜けることなんて造作もなくなった。受け入れ難くて、なんとなく人の真似事をしていたけど。
でも今はもう、受け入れた。自分が死んでいることを受け入れたうえで、今ここにいる。
扉をすり抜けて、ゆっくりと中に入った。
個室の中央にあるベッド。
そこに、渚はいた。
体を起こし、窓の外を見ている。
「……渚」
思わず名前を呼んだ。
やはり、その声は届かない。
渚は窓の外を見続けていた。放心したように。
何を見ているのかは、わからない。
もしかしたら、何も見ていないのかもしれない。
顔色が悪い。目の下に濃い影がある。頬が、少しこけている。
それでも、生きている。
ちゃんと、生きているんだ。
安堵で、足の力が抜けた。へたりと座り込む俺に、伸ばされる手はない。
それでも、嬉しかった。
寂しさより、断然嬉しさが勝っていた。
ベッドの傍らに行き、その横顔を見つめる。暗い顔が、きらきらと朝日に照らされていて、なんだかアンバランスだった。
こうやって少しずつ光を浴びて、いろんな人の優しさに触れて、そうして元気になっていてほしいと思う。どうか幸せになってほしいと思う。
「……燈」
聞こえてきたのは掠れたひどく小さな声。
瞬きをせずに虚空を見つめる渚の瞳から、ツーッと涙がこぼれ落ちる。
どんな涙なのだろう。絶望の涙なのか、寂しさの涙なのか、優しさの涙なのか。
思わず渚の手の上に、自分の手を重ねた。
当たり前にすり抜けた。
それでも良かった。すり抜けたままの位置に、手を置いた。
「……渚。ちゃんと飯食えよ。ちゃんと寝て、ちゃんと運動もして。佐藤とも話してやれよ」
届かないおせっかいを唱えてみる。
聞こえないとわかっていても、これはもう癖みたいなものなのだ。不器用で、勘違いされがちで、自分のことをおざなりにする渚。
俺との約束はきっと守ってくれると思う。俺との約束を破ったりはしないはず。
そう思っていても、心配する気持ちを完全になくすことは不可能だった。
命は捨てないかもしれない。けれど、渚が本当の意味で生きていくためには、まだ時間がかかるだろう。
「……しょうがないな、お前は」
呆れたように、けれど、どこか充足感を感じながら呟いた。
俺の体の輪郭は、今もなお、くっきりと保たれている。
なんとなく、わかってはいた。俺はまだ成仏することはできないだろうと。
こんな渚を置いていけるわけがない。
少しの寂しさはある。でももう、不安はない。
渚の隣に座る。
まだここに、いさせてもらうことにしよう。
渚がちゃんと生きれるようになるまで。
俺が、渚をちゃんと手放せるようになるまで。
「ずっとここで、見守ってるからな」
差し込んできた朝陽が、俺たちのいる病室を優しく照らす。
言葉はもう、届かないけれど。
俺はいつものように、渚の隣で笑った。
さっきまで幽霊だの旧校舎だの、生まれ変わりだの、そんな話をしていたせいだろうか。病院の白い壁も、行き交う看護師たちも、全部が遠い世界の出来事みたいに見えた。
受付の横を通り抜ける。
誰ともぶつからない。
誰も俺に気づかない。
当たり前だ。俺はもう死んでいるのだから。
その事実を、今さらみたいに噛み締めながら、廊下を歩いた。
あの病室の前で、足を止める。絶望したあの場所。今思うと、少し滑稽だ。
あの時の自分に教えてやりたい。
大丈夫。ギリギリ、渚の命は守ったぞって。
まぁ、俺を庇って怪我をしたことに変わりはないし、違う意味でさらに傷つけてしまったのだが。
あの時とは少し違う気持ちで、扉の前に立つ。
自分が死んだと自覚してからは、壁をすり抜けることなんて造作もなくなった。受け入れ難くて、なんとなく人の真似事をしていたけど。
でも今はもう、受け入れた。自分が死んでいることを受け入れたうえで、今ここにいる。
扉をすり抜けて、ゆっくりと中に入った。
個室の中央にあるベッド。
そこに、渚はいた。
体を起こし、窓の外を見ている。
「……渚」
思わず名前を呼んだ。
やはり、その声は届かない。
渚は窓の外を見続けていた。放心したように。
何を見ているのかは、わからない。
もしかしたら、何も見ていないのかもしれない。
顔色が悪い。目の下に濃い影がある。頬が、少しこけている。
それでも、生きている。
ちゃんと、生きているんだ。
安堵で、足の力が抜けた。へたりと座り込む俺に、伸ばされる手はない。
それでも、嬉しかった。
寂しさより、断然嬉しさが勝っていた。
ベッドの傍らに行き、その横顔を見つめる。暗い顔が、きらきらと朝日に照らされていて、なんだかアンバランスだった。
こうやって少しずつ光を浴びて、いろんな人の優しさに触れて、そうして元気になっていてほしいと思う。どうか幸せになってほしいと思う。
「……燈」
聞こえてきたのは掠れたひどく小さな声。
瞬きをせずに虚空を見つめる渚の瞳から、ツーッと涙がこぼれ落ちる。
どんな涙なのだろう。絶望の涙なのか、寂しさの涙なのか、優しさの涙なのか。
思わず渚の手の上に、自分の手を重ねた。
当たり前にすり抜けた。
それでも良かった。すり抜けたままの位置に、手を置いた。
「……渚。ちゃんと飯食えよ。ちゃんと寝て、ちゃんと運動もして。佐藤とも話してやれよ」
届かないおせっかいを唱えてみる。
聞こえないとわかっていても、これはもう癖みたいなものなのだ。不器用で、勘違いされがちで、自分のことをおざなりにする渚。
俺との約束はきっと守ってくれると思う。俺との約束を破ったりはしないはず。
そう思っていても、心配する気持ちを完全になくすことは不可能だった。
命は捨てないかもしれない。けれど、渚が本当の意味で生きていくためには、まだ時間がかかるだろう。
「……しょうがないな、お前は」
呆れたように、けれど、どこか充足感を感じながら呟いた。
俺の体の輪郭は、今もなお、くっきりと保たれている。
なんとなく、わかってはいた。俺はまだ成仏することはできないだろうと。
こんな渚を置いていけるわけがない。
少しの寂しさはある。でももう、不安はない。
渚の隣に座る。
まだここに、いさせてもらうことにしよう。
渚がちゃんと生きれるようになるまで。
俺が、渚をちゃんと手放せるようになるまで。
「ずっとここで、見守ってるからな」
差し込んできた朝陽が、俺たちのいる病室を優しく照らす。
言葉はもう、届かないけれど。
俺はいつものように、渚の隣で笑った。

