愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 少し離れた階段の踊り場まで来て、ようやく足を止めた。
 肩で息をしながら、渚が俺を睨みつける。

「……なんであんなとこ行ったんだよ」
「確かめるため。それからお前に見せるため。今なら見えただろ」
「意味、わかんない」

 渚が眉をひそめる。本当は、きっとなんとなく俺の言葉の意味を察しているのだろう。
 渚の体に視線を落とした。

「お前、それ、自覚あんの」

 視線の先には渚の手。透けている手。指先から、少しずつ輪郭が空気に溶け出している。
 渚はビクッと体を震わせ、両手を後ろに隠した。

「隠したって、逃げたって意味ない。わかってんだろ。もうタイムオーバーだ。」
「……どうにかする」
「いいか。お前はもうすぐ体に戻る。そしたら、俺たちはもう」
「……どうにかするってば! もし、もし体に戻っても、また会える方法が」
「無理だよ」
「……なんでっ」

 渚の顔がくしゃりと歪んだ。落ち着かせるように微笑みかける。

「思い出したんだ。俺がこうなった理由を」
「俺を庇ったから──」
「そういうことじゃなくて。俺が幽霊になってまでここにいる理由だよ」
「……俺に会いたかったからでしょ?」

 思わずふっと笑いが溢れる。自信家のところが渚らしくて、安心する。

「間違ってはねぇけど、正解でもねぇな」
「じゃあ何」
「心配だったから」
「え?」
「お前の状態がわかんなくて心配だったんだよ。確かめるまで死ねないってな。つまり、お前が目を覚ませば、俺は安心して成仏できる」

 渚の反応は概ね予想通りだった。
 ハンマーで殴られたような表情。瞳にはじわじわと絶望の色が浮かんでいく。

「……ったく、成仏するって言ってんだから少しは喜べよな」
「無理……無理に決まってるだろ!」
「渚、聞け」
「聞かない!」

 癇癪を起こした子供のように耳を塞いだかと思えば、今度は独り言のように呟いた。

「……燈のいない世界なんて。そんなの、そんなの……。やっぱり俺も死ん」
「見ただろ、渚。自殺した人がどうなるか」

 言葉と共に突き当たりの奥の教室を指差した。彼女がいる教室を。

「なぁ、見ただろ。あの霊は、あの部屋から一生出られない。泣きながらあそこで永遠に過ごすんだ」
「……っ」
「俺は、お前が元気に起きてくれれば、未練はなくなる。きっとちゃんと成仏して、生まれ変わったりするよ」

 突拍子もないことを言っている自覚はある。別に俺だって、本気で生まれ変わりや天国を信じているわけではない。けれど、そんなことに縋りたくなるくらいには、諦めたくないと思っている。
 渚との日々を終わらせたくないと。

「……それなのに、お前があんな風になったら会えないだろ。もう二度と、会えなくなっちゃうだろ……!」

 伝われ、伝われと胸の奥の方から声を出して、渚を見つめた。その輪郭はぼやけていて、やるせない気持ちになる。
 ふいに渚が顔を上げた。
 その表情を見て、微笑んだ。
 よかった、伝わる。ちゃんと伝わる。
 きっと、もうすぐ──。

「俺は……」

 心の奥底に押し込めていた、バカみたいな希望。
 それを口にするのは、照れ臭くて、柄じゃなくて。
 でも、それでも……

「俺は、来世でも、渚に会いたいよ」

 渚の顔がくしゃりと歪む。
 悲しいのか、嬉しいのか、自分でも処理しきれていないような表情。

「なに、それ……。来世なんて……そんなのあるわけ──」
「この状況で言うか。俺たち今、幽霊同士で喋ってんだぜ」

 ふっと笑う俺に、渚は少し拗ねたような表情を浮かべた。幽霊になってからの方が、渚の表情は豊かになったかもしれない。

「まぁ確かに、死んだらどうなるかなんてわかんねぇよ。でもさ、俺たちこんな状態になってまで一緒にいるんだ。我ながら、なかなか執念深いだろ」
「……それは……まぁ、うん」

 お互いが離れられなかった。死にかけても、死んでもなお、離れることができなかったのだ。
 それはまぁ、もう仕方ないと思った。だって、俺と渚だから。
 なんだか吹っ切れてきて、言葉が溢れていく。

「そもそもさ、俺たちが出会えたこと自体、奇跡だろ? こんな良い奴に、俺のことを理解してくれる奴に会えるなんて。俺はラッキーだなって思ってる。神様に感謝しなきゃって」
「……燈のことを死なせた神様に感謝なんて絶対にしない」
「ははっ、調子出てきたじゃん」
「……燈はずるい。いつもそうだ」
「なにが?」
「……俺が1番弱い言葉を選ぶ」
「それだけは得意だからな」

 ニッと笑ってみせれば、渚は呆れたようにため息をつく。楽しいなと思う。こんなやりとりをずっとできればいいのにと。

「俺は渚の気持ちを読むのが得意だ。昔からな」
「知ってるよ」
「だから、俺にはわかる。お前は諦めないよ。執念深いもん、お前。悪霊になりかけたくらいには。まぁ、俺も人のこと言えねぇけど」

 渚の顔がまた少し歪む。
 つられないよう努めて明るく続ける。

「だから、また会えるよ。俺たちなら」
「……燈」
 
 なんの根拠もない理論だ。それでも、そう信じるしかない。信じたい。

「渚とまた会えるように、俺は上で徳でも積んどくから」

 渚の瞳が揺れる。

「だから、お前もちゃんと生きろ」 

 渚の瞳から、ぽろりと涙が落ちた。
 堰を切ったように、首を横に振りながら、小さな子供のように泣きじゃくる。

「無理だよ、燈……っ。燈と会えないなんてっ、そんなの嫌だよ……っ」

 たまらなくなって、渚を抱きしめる。

「……ばか。俺とまた会うためだろ」
「……っ、うぅっ……」
「今の俺はもう死んでるんだ。それはどうやっても変えられない。……でも、渚とまた会いたい。会えるって信じたい」

 俺の腕の中で、渚は声を上げて泣き続ける。
 その体はもう、向こう側の景色が透けて見えるほどに薄くなっている。

「お前は、今の俺じゃないと嫌か? 俺が女になったり、すげぇ年上だったり、禿げて太ってたりしたら嫌?」

 冗談めかして聞くと、渚が激しく首を横に振る。

「嫌じゃない……っ、そんなの、関係ないっ」
「じゃあ大丈夫だ」

 強く、強く抱きしめる。薄れつつある感触に抗うように。手のひらの砂がこぼれ落ちてしまうような、不確かな感触に抗うように。

「それでも……」

 腕の中から震えた声が聞こえた。
 
「それでも……今の燈に会えないのは、寂しいよ……っ」

 ああ、本当に……。
 本当にその通りだ。
 その気持ちをどうにか押し込めて、笑顔で続ける。

「大丈夫。またすぐ会える。そしたら、きっとまた、お互いが大切な存在になるから」

 渚が顔を上げる。
 涙でぐしゃぐしゃで、いつもの整った顔が見る影もない。
 それでも、なんだか綺麗だと思った。

「ははっ、お前がこんなに泣いてるの、初めて見た」
「……燈の、せいだ……っ。俺が泣くのは、いつも、燈が原因だと……」
「ひどい言いようだな」
「……知らない感情を教えてくれるのは、いつだって燈だ……」
「……渚」

 瞳の奥が熱くなる。たくさんの言葉が、感情が、溢れそうで堪らなくなる。

「……ありがとう、燈」
「そんなの……こっちの台詞だよっ……」

 涙がこぼれないように、必死で奥歯を噛み締めた。
 くだらないことで笑い合った帰り道、隣に並んで寝た優しい時間、一人じゃ耐えられなかった寒い夜。
 数え切れないほどの温かい記憶が、脳裏を駆け巡る。
 そして、その時、

「……燈、いやだっ」

 悲痛な声に、視線を向ける。
 窓から、鮮やかなオレンジ色の光が差し込んでくる。冷たく淀んだ旧校舎の廊下を、温かく燃えるような朝陽が一直線に貫いた。
 その眩しい光に溶け込むように、渚の体が、光の粒子のように消え始めていた。

「……渚!」
 
 何度も心の準備をしていたのに、抱きしめていた体が消えていく感覚に、感じたことのない絶望感を覚えた。
 渚の体は急速に消え、顔だけが宙に浮いている状態になる。
 慌てて、その顔を引き寄せた。
 
(……嫌だ、離れたくない)

 感情が溢れ出そうになるのを、どうにか、どうにか抑え込む。
 渚に言った言葉を、自分にも言い聞かせるように反芻する。
 濡れた頬に触れ、必死に笑顔を浮かべた。
 渚が優しい時間を過ごせますようにと、そんな祈りを込めて。

「渚……ちゃんと生きて。俺のために。俺に、もう一度会うために」
「燈っ──」

 渚が俺の名前を呼んだ、その瞬間。
 パチンと弾けるように、渚の姿が消えた。
 腕の中に、ただ冷たい旧校舎の空気だけが残される。
 静寂が降りてくる。
 さっきまでの騒がしさが嘘のように、音のない世界。
 窓から差し込む、燃えるような朝陽の光。真っ暗だった旧校舎の真ん中で、その光だけがやけに鮮やかに、俺のいる場所を照らしていた。
 熱いものが迫り上がってきた。胸の辺りを超えて、喉元に上がってくる。
 堪えていたものが、一気に決壊した。