愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 外へ出ると、早朝の冷たく澄んだ空気が頬を撫でる。新聞配達のバイクの音が遠くで響き、カラスが鳴いている。
 世界は当たり前のように、新しい一日を始めようとしている。  
 だが、誰一人として、俺たちの方を見ない。
 隣を歩く渚の横顔には、朝の光は一切届いていないようだった。
 ただひたすらに俺の手を強く握りしめ、まるで俺が急に煙になって消えてしまうのを恐れているかのように、一歩一歩を確かめるように歩いている。
 その手の冷たさが、今の俺たちの絶望的な状況を物語っていた。
 ゆっくり、ゆっくり歩いたのに、意外とあっという間に目的地についてしまった。
 旧校舎特有のカビと埃の混じった冷たい空気が、体に纏わりついてくる。
 歩を進めるたびに、ミシミシと軋む床板の音が廊下に響いた。
 渚は、どこか警戒するように辺りを見回している。

「……ねぇ、こっちじゃないよ」
「わかってる」

 答えながら、足を動かし続ける。

「なんで」
「いいから」

 突き当たりまで来たところで、足を止める。
 一番奥の教室。
 あの夜、2人で行ったあの場所。
 
「ここって……。なんで」

 渚の声に、明らかな動揺が混じった。
 その声を無視して、俺は冷え切った扉に手をかけた。
 重い扉を、ゆっくりと押し開ける。

 空気が、変わった。
 重い。
 じっとりと、体に纏わりついてくるような重く淀んだ空気。
 教室の奥。
 倒れた椅子の上。
 いた。
 あの夜と同じ場所に、同じ姿で、彼女はいた。
 セーラー服のまま、俯いて、ぴくりとも動かない。白い手は、だらりと垂れ下がっている。

「……っ」
 
 覚悟していたのに、思わず息を呑んだ。本能が『これ以上近づくな』と警鐘を鳴らしている。

「出よう」

 強張った俺の腕を、渚が掴む。
 その手を振り払った。目的を達成してないのに、ここで引き下がるわけにはいかない。
 彼女から視線を逸らさず、ゆっくりと歩み寄る。
 正直に言えば、怖くて仕方なかった。
 けれど、今の俺は、あの時とは違う。
 彼女と“同じ側”にいる今、彼女に聞きたいことがあるのだ。
 一歩。
 また一歩。
 彼女に近づいていった。
 あと数歩のところまで来た時、ノイズのような何かが聞こえた。
 それが、声だと気づくのに数秒かかった。
 くぐもっていて、聞き取りにくい。
 でも確かに声だった。引き攣るような声。まるで泣いているような声。
 彼女の首が、あの時のようにグルンと回った。
 視線が合う。
 真っ黒の瞳。持っていかれそうな瞳。
 今度はその瞳から目を離さなかった。
 その奥に感情が残っているのではないか、そう思って。
 
「とも、行くよ! 早く!」

 背後から腕を強く引っ張られるが、必死で足を踏ん張る。
 そして、震える声で問いかけた。

「……なぁ、ずっとここにいるのか?」

 ピクリと、ほんの少し、ほんの少しだけ彼女の体が揺れた気がした。
 長い前髪の隙間から覗く、虚ろな瞳が俺をより深く捉える。
 真っ黒の瞳が揺れる。言葉はなかった。
 けれど、ほんの少し、弱々しく首が縦に動いた気がした。目元が光ったように見えたのは、窓から差し込む朝日のせいだろうか。

「……どこにも行けないのか?」

 問いかければ、言葉ではない何かが流れ込んでくる。断片的な感情だけが、体に直接流れ込んでくる。

 “行けない”
 “戻れない”
 “終われない”
 “ひとりは、さみしい”

 どうしようもない同情が胸に湧き上がった。
 彼女はずっと後悔して、暗闇の中で泣き続けているのだ。もう何年も、何十年も。誰にも見つけてもらえないまま。

「……そうか」

 それ以上、何も言えなかった。
 俺には何もできない。
 助けることも、終わらせることも。
 俺は自分のためだけに、ここに来たのだ。
 渚を説得するための道具として、彼女を使うためだけに。

「燈、もういいでしょ」

 渚の声が、強張っている。その声に小さく頷いた。
 踵を返す。背を向けた瞬間、彼女が何かを言った気がした。
 置いていかないで、と聞こえた気がした。
 その声から逃げるように部屋を出る。

(……ごめんなさい、ごめんなさい)

 自己満足な謝罪だけを心の中で繰り返した。最低なことをしたと思う。
 でも、後悔はしない。
 俺はどんな手を使っても、目の前のこいつを救いたいのだ。
 扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。