愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 玄関の扉を開けると、ひどく静かな空気が流れ込んできた。
 人の気配はあるはずなのに、どこか現実から切り離されたような、歪んだ静寂。普段なら微かに聞こえるはずの冷蔵庫のモーター音すら聞こえない。まるで世界からこの一室だけが切り取られ、時間が止まってしまったかのような錯覚に陥る。
 ゆっくりと、見慣れた部屋に足を踏み入れる。
 カーテンが閉め切られた薄暗い部屋の中央、そこに渚がいた。
 床に座り込んだまま、微動だにせず、ただ一点を見つめている。まるで糸の切れた人形のように。
 床にはパズル。ほとんど埋まった盤面。
 中央だけが、ぽっかりと空白を残していた。

「……渚」

 声をかける。ゆっくりと首だけがこちらを向く。焦点の合わない虚ろな瞳が、俺の姿を捉える。
  
「……おかえり」

 そう言う渚の口元は、不気味に微笑んでいた。いつも通りのようで、どこか中身の抜けた響き。
 
「どこ行ってたの」

 問いかけられて、一瞬言葉に詰まる。けれど、もう誤魔化そうとは思わなかった。

「全部、思い出したよ」

 ビクッと渚の肩が跳ねた。
 反応があったことに少し安心して、言葉を続ける。

「あの日、何があったのか思い出した。死んでるのは──」
「燈……っ」

 渚の瞳が大きく見開かれ、弾かれたように立ち上がった。俺の元へ駆け寄ろうと踏み出すが、その足元がおぼつかず、膝から崩れ落ちそうになる。俺は咄嗟に手を伸ばし、その肩を支えた。
 触れられる。
 それは俺たちは今、同じ『こちら側』にいるからだ。
 静寂の中、渚の乾いた笑い声が響く。
 
「……ははっ、燈、なに言ってんの?」

 見たことがない引き攣った笑顔。ひどく無理をして作った、張り付いたような笑顔。
 こんな顔が見たいわけじゃないのに。やるせなさが込み上げてくる。
 それを押し込めて、なるべく優しく、いつものように名前を呼んだ。

「……渚、渚聞いて」
「燈、疲れてるんだよ。変な夢でも見たんでしょ」

 けれど、渚には届かない。

「夢じゃない、夢じゃないんだよ」
「夢だよ! 全部夢だ!」

 それは、渚の悲痛な叫びだった。まるで、自分に言い聞かせるような。
 夢だと思いたくて、俺のことも、自分自身のことも騙し続けていたのだろうか。
 そんな辛さを渚が一人で抱えていたのかと思うと、忘れていた自分に嫌気がさした。
 俯く俺を見て、渚は少し焦ったように笑顔に切り替える。

「普通に喋れてるし、触れるし、歩けるし。何も変わってないじゃん。ねぇ、いつもと一緒でしょ?」
「……っ」

 縋るような瞳で見つめられ、思わず言葉を失った。
 あぁ、そうかと、唐突に理解する。
 もう、とっくにおかしくなっていたのだ。
 渚の心はもう、とっくに限界を迎えている。
 たまらなくなって、渚の両肩を強く掴んだ。触れられるうちに、話せるうちに伝えなければ。

「なぁ、もう終わりにしよう……このままじゃ、おまえ──」
「うるさいっ!」

 大きな声に、反射的に手を離した。渚はまた慌てたようにぎこちない笑顔に切り替え、俺の手を握る。

「ご、ごめん。大声出して。燈が変なこと言うから」
「なぁ、渚、聞いてくれ」
「ねぇ、もうこの話やめようよ。そうだパズルの続き──」
「やめない。話したいんだ、お前と。もう、逃げるのはやめたい」

 渚の表情が一瞬曇り、同情心を掻き立てられる。
 逆の立場だったらと考えると、胸の奥がじくりと痛んだ。それでも、もう誤魔化そうとは思わなかった。このままじゃ、渚が壊れてしまうから。

「渚、いいか。俺はもう死んでる。けど、お前はまだ生きてる」
 
 子供に言い聞かせるみたいに目を見て、ゆっくり伝える。

「やめて」
「お前の体は、あと数日もすれば」
「やめろよ!」

 渚の叫びが部屋中に響き、空気が揺れる。部屋がわずかに狭くなったような圧迫感が、じわりと広がった。
 渚が俺の肩を強く掴む。その動きに押し出されたかのように、渚の言葉が堰を切った。

「外に出るから、外に出るから変なこと考えるんだ! だから、ずっとここにいればいいって言ったのに! なんで約束破るんだよ!」

 早口で捲し立てるその瞳は、狂乱の色に染まっていた。
 正常な判断など、もうできなくなっている。心が壊れるのを防ぐために、必死に現実を黒く塗りつぶそうとしている。
 本当は俺だって、そうしたい。一緒に辛い現実なんて塗り潰して、見えなくしてしまいたい。けれど、そうしてきた結果が今なのだ。
 お互いの傷を舐め合い、閉ざされたぬるま湯の中で、沈んでいってしまった。上から伸ばされる手も見えないふりをして。
 そうして結局、一緒にいるという約束すら叶わなくなってしまったのだ。
 だからもう、渚に流されてはいけない。彼を否定しなければいけない。

「……目を覚ませ、渚」
「何言ってるの。おかしいのは燈の方だ」
「もう一緒にはいられない、わかるだろ?」
「わからない! そんなの、わかるわけない! 俺から離れるなんて、絶対に許さない」
「……もういい」

 小さく呟いて、視線を落とす。そのまま背を向けた。
 俺がここにいる限り、渚を救うことはできないと思った。結局、渚を苦しめているのは、おかしくしているのは俺という存在だから。
 ドアに向かって歩き出す。
 どこか遠くへ行こう。渚が見つけられない遠い場所へ。そして、そのまま俺を忘れてくれればいい。
 今は渚を傷つけてしまうかもしれないが、きっとこれが正解だったと思う日が来る。そんな気がした。

「どこ行くの」

 聞こえてないふりをした。

「ねぇ、どこに行くんだって」

 振り向いたら、決意が緩んでしまいそうな気がした。

「……ごめん、渚」

 振り返らずにドアノブに手をかけた、その時。

「行かせない」

 背後から、氷のように冷たい声がした。
  
「今度は絶対に行かせない。もう絶対に」

 気づけば、渚は俺とドアの間に立ち塞がっていた。こちらを冷たく見つめる瞳は、再び闇に支配されているようだった。

「もう絶対、二度と、外には出さない」

 一歩ずつ、こちらへ近づいてくる。
 本能的な恐怖を感じて後ずさった。俺だって、幽霊のはずなのに。

「ずっとここにいよう? 誰にも邪魔させないから」

 今度は子供のように寂しそうな表情でこちらを見つめてくる。 性質(たち)が悪い。
 こんな寂しそうな子供を、力づくで振り払うことなんて、到底できない。

「……現実を見てくれ、渚……!」
「見てるよ。今こうやって話して、一緒にいる。それが現実だ」
「……俺は死んでて、お前は生きてる。そんな状況でずっと一緒にいられるわけがないだろ。今話せてることが、むしろ奇跡なんだよ」

 沈黙が落ちる。
 少しは届いたのだろうか、そう思ったその時。
 渚は数歩後ずさり、ふらふらと頭を横に振った。そして、虚空を見つめたまま、クスクスと笑い始めた。

「……ははっ、そうか。そうだよ……」
「渚……?」
「……そっか、俺の体が『生きてる』から、いけないってことだよね。
なら、あの体、殺してやればいいんだ」

 ぞくりと、背筋に冷たいものが走った。 
 こいつは一体何を言っているのだ。

「病院に行ってさ、機械のスイッチ切っちゃえばいいんだ。そうすれば、俺は完全にこっち側になれる。燈と一緒になれる」
「ふざけんな!」
「ふざけてなんかない!」

 気圧され、言葉が続かない。
 濁りきった暗い瞳を見て悟る。今の渚には死への恐怖など微塵もない。あっさりと命を投げ捨ててしまいそうだ。

(本気だ……。このままじゃ本当に……)

「だって……」

 聞こえてきた声に、ふと顔を上げた。

「渚……?」

 いつもの渚の声が聞こえた気がしたから。 

「だって、そうすれば……
燈はもう俺を置いていかないでしょ……?」

「……っ!」

 心臓が痛い。死んでいるくせに、痛くて痛くてたまらない。足元から氷水に浸かったような寒気が這い上がってくる。
 あの日、トラックに撥ねられた時の、あの骨が砕ける痛みよりも、ずっと深く、冷たい恐怖。
 俺はあの日、渚を生かそうとして、体を包み込んだ。生きていてほしかったから。
 それなのに、俺が死んだせいで、渚は死のうとしている。結局、俺の決断が、渚を殺そうとしている。

(俺は……俺は、なんてことをしてしまったんだろう……。渚をここまで追い詰めて……歪ませて……)

 喉の奥が、きつく絞られた感じがして、熱いものが込み上げてくる。涙が出るのを、必死で堪えた。
 何が正解だったんだろうと考える。
 あの時、あの場面で、俺たちはどうしたら良かったのだろうと。
 お互いを守ることしか考えていなかった。
 自分がいなくなることが、どんなに相手を悲しませるかなんて、考えてもいなかった。
 俺たちには無理だ。だって、そういう生き方を、愛され方をしてこなかったから。
 一体、どこで間違えてしまったんだろうか。
 いつからお互いの存在が、猛毒になってしまっていたのだろうか。

(どうすればいい……。どうすれば、渚を助けられる……)

 もう出ていくという選択肢を選ぶことはできない。ここで俺が無理やり姿を消せば、渚は絶望して、すぐにでも自分の体を殺しに行くだろうから。
 かといって、このままここに居ても結果は変わらない。渚が肉体に戻って、もし俺の姿が見えなくなったら。
 渚は間違いなく、自分の命を捨てるだろう。
 そんなことは絶対にさせたくない。させない。
 でも、今の渚を説得する材料が見つからなかった。2人で一緒にいる、その結果にならない限り、彼は決して納得しないだろう。

(……俺は死んでるんだ。一緒に居れる方法なんて……)

 悔しいが、渚と同じようなことしか思い浮かばなかった。だが、そんなことのために、俺は死んだんじゃない。渚を守りたくて、生きてほしくて。
 ふと、あの時の光景が蘇る。
 意識が遠のく直前、俺は何かを言った。声には出なかったかもしれないが。でも確かに……。

──またな、渚。

 そう言ったのだ。

「……ははっ」

 場違いにも笑いが溢れた。
 死の淵だというのに、いや、だからこそかもしれないが。俺はあの時、すごく楽観的なことを考えていた。楽観的で、口に出すのも恥ずかしいくらいメルヘンチックなことを。

(来世でも会いたい、か……)

 酷く幼稚で現実性のない願い。馬鹿らしい、馬鹿らしいけど──。

「もうそれくらいにしか縋れないよな……」

 渚は、不安そうな瞳でこちらを見つめている。

「……燈、さっきから何考えてるの」

 安心させるように微笑みかけた。
 
「渚、俺とずっと一緒にいたいか?」
「うん、いたい」
「そうか。俺もだよ」
「……燈!」

 わかりやすく嬉しそうな顔をする渚は、本当に子供の時に戻ったようだ。俺について回っていた、あの時のように。
 次はもっと小さい頃に出会いたいなと思った。生まれた時からずっと一緒に居て、少しだって寂しい思いをさせたくないなと。
 夢物語なんてことは、わかっている。でも今の状況だって、なかなかファンタジーだ。
 俺たちはお互いのために、お互いを思って、こんな姿でも、もう一度出会えた。
 それなら、生まれ変わりくらい信じたっていいじゃないか。
 でも、そのためにはいくつか問題がある。