愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 小さい頃から何度も通った道を歩く。そんなの意味がないのに、信号を守り、右側の歩道を歩いた。
 見上げれば、空がわずかに白み始めていた。もうすぐ夜が明ける。
 ボロボロの小料理店を通って、小さな交差点に出る。
 辺りを見回した。
 電柱が等間隔に並んでいる。
 
「……はっ、ははっ」

 思わず笑いが溢れた。
 電柱の前にはたくさんの花や、飲み物、お菓子が備えられていた。
 その前にへたりと座り込んだ。
 意味がわからない。わかりたくない。
 それでも、目を閉じた。懸命に、あの日のことを思い出そうとした。
 その時、目の前をトラックが横切った。

「……っぁ!」

 頭が激しく痛む。あの日の光景が、走馬灯のように駆け巡る。
 空は重く、嫌な湿気が肌にまとわりついていた。  
 俺たちは並んで歩いていた。  
 くだらない話をしていた。  
 渚がふっと笑った。  
 突然、鼓膜を劈くような甲高いブレーキ音と、タイヤがアスファルトを削る不快な音が響き渡った。  
 振り向いた。  
 視界いっぱいに、猛スピードで突っ込んでくるトラックの影が迫っていた。  
 夕闇を切り裂くような、眩すぎるヘッドライト。  
 その瞬間。  
 渚が、動いた。  
 俺の前に出た。俺を庇おうとして、その体を投げ出してきたのだ。  
 驚愕と、焦りで歪んだ渚の顔が、スローモーションのように視界に映る。

(……ばかっ!)

 そう思った時には、もう体が動いていた。     
 俺は渚の頭を、両腕で力一杯抱え込んだ。
 そして、次の瞬間。

──ドゴォォォンッ!

 何かが、体の中心を貫いた。  
 骨が砕ける音。肉がひしゃげる音。それは人間の体から発せられる音とは思えない、重く鈍い破裂音だった。  
 体が宙を舞う。  
 景色が、トラックのヘッドライトが、アスファルトの黒が、天地を忘れてぐるぐると回る。     
 そして、地面に叩きつけられた。
 痛みは感じなかった。ただ全身が、燃えるように熱かった。    
 音は聞こえない。
 恐ろしいほどの静寂の中、ゴムが焦げる匂いと、むせ返るような鉄の匂いが鼻を突いた。
 体から流れ出した大量の血が、アスファルトにどんどんと浸透していくのがわかる。生温かい命が、冷たい地面に吸い込まれていく。  
 意識が遠のこうとするなか、必死で瞼を持ち上げた。

(渚……渚は……)

 頭を動かすことはできなくて、瞳だけを必死に動かして、その姿を探した。  
 視界の端。俺の腕の中で守られていたはずの渚は、歩道の端まで吹き飛ばされている。
 渚も血だらけだ。それなのに、必死に起き上がろうとしていた。  
 渚がひどく痛そうな顔をしているのを見て、心底不甲斐なく思った。
 
(……なんだよ、全然……守れてないじゃん)

 起きあがることは諦めたのか、渚は両腕で這うようにして、こちらに向かってくる。

(おい、動くなよ……。安静にしてろよ……)    

 そう思うのに、声が出ない。
 口から漏れ出るのは赤黒い血の塊だけだ。手も足も少しも動かなかった。  
 閉じそうになる瞼を必死に開けて、渚の顔を見た。なんとなく、今見ておかなければいけないと思った。  
 渚は今まで見たことがない顔をしていた。  
 見たことがないほど辛そうな顔。顔は色をなくし、瞳は見開かれていて、唇が激しく震えている。  
 何かを叫んでいるようだが、声は聞こえなかった。  
 渚の心臓が壊れる音が聞こえた気がした。
 俺が死ぬせいで、一生消えない傷を植え付けてしまうかもしれない。それが何よりも怖かった。
 慰めてやらないと、俺が守ってやらないと。  
 そう思うと、不思議と少しだけ腕が軽くなった。  
 鉛のように重い腕を、必死の思いで持ち上げた。  
 いつのまにか目の前にあった渚の頬を撫でる。  
 俺は大丈夫、そう伝えたかったけど、声は出ない。  
 渚は俺の手を強く握りしめ、やはり何か言っているようだった。必死に、何かを伝えようとしているような。泣かないでくれ。そんな顔を見せないでくれ。

(……渚、こんな状態で……一人にしたくないな……)

 それなのに、次第に瞼の重さに耐えられなくなっていく。不思議と体はもう熱さを感じていなかった。相変わらず痛くもないし、これならきっとすぐに良くなる。そう思うと同時に、なんとなく察していた。これが、渚と会える最後だろうと。

「……───」

 最後の力で何かを伝えた気がした。声に出ていたかはわからないが。
 そのまま俺は、意識を手放した。