愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 夜の街を、ただ走った。
 足が地面を蹴る感覚すら曖昧だ。
 それでも、病院に行けば何か変わるかもしれない。それだけを信じて、足を動かし続けた。
 頭に浮かぶのは、旧校舎の幽霊と、渚の寂しそうな顔。
 手遅れになる前に、どうにかしなければ。
 その想いだけが体を動かしていた。

 病院の中は静かだった。
 夜特有の、無機質な静けさ。蛍光灯の白い光がやけに眩しく感じる。消毒液の匂いが鼻についた。
 夜のせいか、人は少ない。誰とすれ違うこともなく、渚の病室の前までたどり着いた。
 ちょうど中から、1人の看護師が出てきた。軽く会釈をしたが、気づかなかったのか、そのまま横を通り過ぎていく。
 不安か期待か。どちらかわからない胸の高鳴りと共に、病室の扉を開ける。
 ベッドの上に、渚がいた。
 点滴に繋がれ、静かに眠っている。

「……渚」

 近づいて、顔を覗き込む。胸がゆっくり上下している。
 
 ──生きている。

 張り詰めていたものが一気にほどけ、へたりと床に座り込んだ。
 息を吐く。長く、深く。ようやく、ちゃんと呼吸ができた気がした。

「……よかった」

 思わず声が漏れた。
 さっきまであれだけ速く打っていた心臓が、嘘みたいに落ち着いていく。
 透けていたのも、きっと戻る前兆だったのだ。このまま意識が戻れば、全部元に戻る。
 もう少しで、いつもの渚に戻るんだ。
 胸の奥がじんわりと温かくなる。
 また、くだらない話をして、文句を言いながら学校に行って。そういう日常が、ちゃんと戻ってくる。
 それでこれからも、2人で一緒にいられる。

「……ほんと、よかった……」

 涙と笑いが同時に溢れてきた、その時、ふと廊下で声がした。

「霜月さんの容体、どう?」
「だいぶ回復したみたい。このままいけば、数日で意識は戻ると思う」

 その言葉に、思わずまた笑顔が溢れる。
 
(もうすぐ、もうすぐ元通りになる。早く渚に伝えに──)

 そう思った、その時。

「でも一緒に運ばれてきたお友達は可哀想だったね……」
「……ああ、あの子は──
即死だったみたいだからね」

 思考がピタリと止まった。
 一緒に運ばれてきたお友達。
 即死。
 その言葉を、回らない頭の中で必死になぞる。まるで知らない外国語を聞かされたみたいに、意味が結びつかない。
 俺たちの他に、あの場に誰かいただろうか?
 事故の瞬間を思い出そうとした。トラックが迫ってきて、渚が俺を庇うように動いて……しかし、そこで記憶がノイズ混じりに途切れる。その先が、ない。

「……いや」

 小さく、掠れた声が漏れた。
 違う。そんなはずない。
 だって、俺はここにいる。さっきまで、自分の部屋で渚とパズルをして、くだらない話をして、触れ合っていたじゃないか。
 そんなわけがないと、俺は咄嗟に病室を出て、目の前の看護師に声をかけた。

「あの、すみません」

 応答がない。じわじわと不快な感覚が広がっていく。
 たまらず、その肩を力強く掴んだ。
 布の感触。確かな手応えがあった。

「……うわ、急に寒っ……。空調強すぎない?」

 看護師はこちらに見向きもせず、ただブルッと体を震わせただけだった。
 彼女は自分の肩を、俺が今まさに掴んでいるその場所をさすりながら、何事もなかったかのように歩き去っていく。
 全身の血が、一瞬で凍りついたような感覚だった。

「嘘だろ……おい……」

 廊下の真ん中で、放心したようにつぶやいた。
 近くを通りかかった若い医師、車椅子に乗ったお年寄り、すれ違う見舞い客。
 誰一人として振り向かない。
 廊下の真ん中、こんなに見えるところに、邪魔なところにいるのに。誰1人として見向きもしない、ぶつからない、文句を言わない。

(でも、でも……触れるんだ)

 俺は近くにあった待合用のパイプ椅子を両手で掴み、床に叩きつけた。
 ガシャンッ!と、静かな夜の病院に、金属の激しい衝突音が鳴り響いた。
 数人の看護師や医師がビクッと肩を跳ねさせ、音の鳴った方──俺の足元を一斉に見た。

「……え、何? 椅子が勝手に倒れた……?」
「風? ちょっと誰か、窓ちゃんと閉まってるから確認してちょうだい」

 彼らは、倒れたパイプ椅子を見て、不審そうに顔を見合わせている。
 そのパイプ椅子の真横にいる、俺には誰一人として気がつかない。
 俺の体を通り越して、向こう側の壁を見ている。

「はっ……ははっ……」

 乾いた笑いが漏れた。
 俺が物に触れても、動かしても、彼らには現象しか見えていない。網膜に俺の姿は映らない。
 ふと、少し先の壁に備え付けられた全身鏡が目に入った。

「ははっ……」

 また乾いた笑いが溢れた。
 映っていない。
 よろりと足がもつれる。その姿ともちろん映っていなかった。
 そこには、白いタイルの壁と蛍光灯の光が映っているだけ。

「……俺、死んでるのか?」

 自分の顔に触れてみる。頬の感触はある。髪の手触りもある。自分自身の存在は認識できるのに、この世界からは完全に切り離されている。
 病院の蛍光灯が、やけに白く、冷たく見えた。

(……なら、どうして渚は)

 ふと、渚の言葉が脳裏に蘇る。

『なんか生きてる時とあんまり変わんないよ。燈以外の人には見えないし、触れないみたいだけど』

(……あぁ、なるほど、そういうことか)

 自分でも驚くほど冷静に理解した。なぜ、渚にだけ触れられるのか。
 答えは簡単だ。
 渚が生き霊だからだ。
 渚も『こちら側』に来ているから、俺の姿が見え、触れることができたのだ。
 これならば、旧校舎の件も全て繋がる。
 今まで見えなかったものが、見えたのも納得がいく。

「……なんだよ、それ……」

 気づけば、足から崩れ落ちていた。冷たいはずの病院の床の温度すら、今はもう感じない。
 看護師は言った。『即死だった』と。
 もし、俺がトラックに轢かれて即死だったのだとしたら。

(……渚、お前はどこまで知っているんだ)

 俺が死んでいるとは知らずに来たのか、それとも知っていて来たのか。
 そう考え、答えはすぐに出た。
 先ほどの渚の行動を考えれば、一目瞭然だ。
 頑なに俺が病院に、学校に行くのを拒んだ渚。
 少し考えればわかったはずなのに。いつもの渚なら、幽霊になろうが、俺が外に行くならくっついてくる、それだけだ。
 胸がキリリと痛んだ。
 死んでいるというならこんな感覚なくしてくれれば良いのに。
 渚は、一体どんな気持ちでここ数日を過ごしていたのだろう。
 どんな気持ちで一緒にいたいと言っていたのだろう。
 想像するだけで、存在しないはずの心臓が握り潰されたように痛んだ。
 俺が死んだとき、渚は見ていたのだろうか。
 見ていてほしくないと、切実に思った。
 だって、そんなのを見たら、渚の心が壊れてしまう。

「…………ごめんっ」

 声を殺して泣いた。どうせ誰にも見えないのだから、思い切り泣けば良いのに。
 でも、それができない渚を思うと、自分だけ楽にはなってはいけない。
 逃げてはいけない。そう思った。
 自分が死んだという事実からも、渚に背負わせてしまった絶望からも。
 あの日、あの場所で何があったのか、思い出す義務がある。
 ふらつく足で立ち上がり、病院の出口へと向かった。
 自動ドアに手をかける。
 夜明け前の冷たい風も感じないまま、俺は事故の現場へと向かって歩き出した。