布団に入っても、なかなか寝付けなかった。
さっきの光景が、頭に焼きついて離れない。
揺れた輪郭。
あれがどういう意味なのか、考えたくなかった。考えれば、きっと良くない答えに辿り着く。
それでも思考は止まってくれない。もし、あれが。
──消えかけている、のだとしたら。
「……っ」
再び息が苦しくなる。心臓を握りつぶされたかのようだ。
縋るように隣を見る。
渚は気持ちよさそうに眠っている。どこも透けてはいない。
いつもとなんら変わらないように見える。
(大丈夫、大丈夫だ。さっきのは、きっと見間違い。こんなあり得ないことが続いてるんだ。疲れて変な幻覚を見ただけ。明日にはきっと元通りだ──)
そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
部屋は暗く、静まり返っている。
枕元の時計の針だけが、チクタクと音を立てている。
その音になんとなく安堵しながら、隣に視線を向ける。
瞬間、全身の血が冷える。
ひゅっと喉が鳴った。
瞬きをする。もう一度見る。変わらない。
心臓が嫌な音を立てているのに、視線がそこから動かせない。
渚の腕の輪郭が、ぼんやりと布団に溶けかけていた。
さっきよりも広い範囲で、はっきりと。
比べ物にならないほど、明確に消えかけていた。
「……渚」
小さく呼ぶ。返事はない。
手を伸ばす。
スッと空気を切った。
「渚……なぁ、渚……」
消えかけている。
渚が、消えかけている。
このまま少しずつ、気づかないうちに、渚がいなくなる。
「嫌だ、嫌だ……やめてくれ」
胸の奥がざわつく。嫌な想像ばかりが浮かぶ。渚のいない世界が、やけに現実味を持って迫ってくる。
「……渚、起きろ」
肩を揺らす。肩はまだ触れられる。
透けていない。
まだ、まだ手遅れじゃない。
「おい、起きろって」
少し強めに揺らす。
「渚! 起きろよ!」
力の限り声を出した。
というより、出さずにはいられなかった。
俺の声を、俺のわがままを、渚に伝えずにはいられなかった。
ピクリと渚の瞼が動いた。
「……なに」
「渚!」
目を開けた渚を力の限り抱きしめた。
ここにいるのだと、まだ大丈夫だと、全身で感じたくて。
「ちょっ、なに、どうしたの」
「お前、腕が……!」
「え、腕?」
自身の透けた腕を見て、渚は「あっ」と気の抜けた声を漏らす。そして、いかにも冷静に言う。
「透けてんじゃん」
「透けてんじゃん、じゃねぇーよ! どうすんだよ、これ。なぁ……このまま消えたりしないよな!?」
「それは困る。燈といられなくなる。なにこれ、本体回復し出したのかよ」
渚の言葉に、ふと冷静になる。
頭が少しずつ回っていく。
(あれ、そうじゃん……。渚って生き霊だから、死んでないわけで……。生き霊が消えるってことは──)
「本体に戻れるってことか?」
「え、いや、どうだろ」
珍しく渚が狼狽える。冷静に見えて、流石にこの状況は焦っているのかもしれない。
「いや、そうだよ、そうじゃん! お前の体が回復して、もうすぐ元に戻れるのかも!」
これで元通りだ。またいつもの日常を2人で過ごせる。落ち込んでいた気持ちがどんどんと上昇していく。
だが、渚の表情はなぜか晴れない。俯き、何か考え込んでいるようだった。
まぁ自分の体が消えかけているのだ、不安になるのも当然だ。それに、これが本当に戻る兆候なのかの確信もない。
とにかくまずは──。
「病院行ってくる。渚の容体確かめないと」
渚の返事はない。まだ頭が回っていないのかもしれない。
こういう時くらい、俺がしっかりしないとと、冷静に思考を巡らせる。
「あんま詳しくないけどさ、回復傾向にあるなら、透けてるのってきっと悪い意味じゃないだろ? それにもしかしたら近づけば、戻るとか……なんかそういうのもあるかも──」
「戻らないよ」
渚が被せるように言った。その声は低く、どこか威圧感がある。冷静だった頭の中に、再び不調和音が鳴り響く。
「……そんなのわかんねーだろ。試してみないと」
「わかる。とにかく病院には行かない」
「なんでだよ。なぁ、何をそんなに怖がってんだ。お前も早く戻りたいだろ? こんな生活じゃ」
「戻りたくない」
「……は?」
言葉と共に、思わず引き攣った笑いがこぼれた。
同時に、怒りと困惑。
「おまえ、それどういう意味だよ」
「そのままの意味。俺はこのままでいい。燈と2人でここにいられれば、それで──」
「いいわけないだろ! お前このままじゃなんもできないんだぞ!?」
「できてる。燈と喋って、ご飯食べて、ゲームして、寝て。それでいいじゃん。何が違うの」
「……なっ」
渚はごく当然のように言った。
頭が混乱する。
だって、渚の言っていることは破綻している。
確かにできてはいるが、そんなのは元の体に戻らなくていい理由にはならない。
だって、そんなことは元の体でも当たり前にできることなのだから。今の体じゃ、学校に行くことも、他の人と話すこともできない。これから待っているであろう人生のイベントを何も経験することができないじゃないか。
卒業があって、大学生活が始まって。きっと文句を言いながら就職活動をして。第三希望くらいの会社に就職して、くたびれた姿でお酒を飲んで。なんだかんだ言いながら互いに結婚をして、友人代表のスピーチをして。そうやってちゃんとした家族を作って。普通の家庭を作って。それでも俺たち会う時は、変わらずくだらない話をして。
今のままじゃそんな未来を、1つも描くことができないんだ。それでいいと言う渚の感情が、全くわからなかった。
「渚、お前おかしいよ……。なぁ、普通に考えればわかるだろ。お前、今冷静じゃないんだよ」
「俺は冷静だよ。冷静に考えたうえで、答えは一つ。ここに2人でいたい。外には出たくない」
「戻ってから2人でいればいいだろ。てか、今までだって、ずっと2人で」
「ちがう……燈は、燈には俺以外の世界もあるだろ!」
部屋に響き渡る声に、肩が跳ねる。渚のこんなに大声を聞いたのは初めてだった。
渚の感情がわからない。
渚の目的がわからない。
「俺は今の方が幸せ」
わかるのは、どこかで渚がおかしくなってしまったということだけだ。
どこでだろう。
俺たちはどこで間違えてしまったのだろうか。
「わかった。もういい」
このままではいけない。何が正解なのかわからないなか、それだけははっきりしていた。
俺たちは多分、狭い世界に、2人きりで居過ぎたのだ。
このままでいたいと思う気持ちがないわけではない。温かくて、安全で、心地が良い場所。
けれど、このままでは俺たちはダメになる。現に、渚はもうおかしくなりかけている。
渚にとって、俺しかいない世界。そんなのが幸せな世界のわけがないのだ。
だから、まずは俺から先にこの温かい場所から抜け出そう。外は酷く寒いかもしれないけれど、きっとその先でしか得られないものがたくさんある。
「燈、どこ行くの」
立ち上がり、扉へ向かう。
手首を、強く掴まれた。
「行かせない」
低い声だった。
「離せよ」
「ダメだ」
みしりと腕の骨が軋む音がする。
「行くな」
「離せって」
「ダメだ」
同じやり取りを繰り返す。
「行かせない」
じわじわと力が強くなる。
「行かせない」
繰り返す。
「行かせない」
「渚、いい加減に──」
渚の顔を見て、思わずぞくりとした。
瞳の奥に広がる闇。あり得ないほど力強い力。首が、不自然な角度で傾いていた。
旧校舎で見た光景と重なった。
まずいと思った。このままでは渚もあんなふうになるのではないかと。
いつか、心を無くしてしまうのではないかと。
でも同時に、まだ間に合うと思った。
「渚……そんな顔すんなよ」
だって、渚の表情にはどこか寂しさが残っていたから。運動会のときに見た、渚の小さな背中と重なった。あの時みたいに、俺が手を引っ張ってあげないと。
目の前の小さな頭を抱きしめた。
「……燈」
渚の瞳に光が宿る。手の力が弱まる。
まだ間に合う。渚の心は、まだここにある。
「大丈夫。絶対戻ってくるから」
「だめ、お願い、行かないで」
「俺、このままは嫌だよ。お前とずっと一緒にいたいもん。渚もそうだろ?」
「……そうだけど、でも」
「だったら俺を信じろ、渚。これからも一緒にいるために、そのために行ってくるだけだから」
そんな無責任な言葉をおいて、俺は部屋を飛び出した。
さっきの光景が、頭に焼きついて離れない。
揺れた輪郭。
あれがどういう意味なのか、考えたくなかった。考えれば、きっと良くない答えに辿り着く。
それでも思考は止まってくれない。もし、あれが。
──消えかけている、のだとしたら。
「……っ」
再び息が苦しくなる。心臓を握りつぶされたかのようだ。
縋るように隣を見る。
渚は気持ちよさそうに眠っている。どこも透けてはいない。
いつもとなんら変わらないように見える。
(大丈夫、大丈夫だ。さっきのは、きっと見間違い。こんなあり得ないことが続いてるんだ。疲れて変な幻覚を見ただけ。明日にはきっと元通りだ──)
そう自分に言い聞かせて、目を閉じた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
部屋は暗く、静まり返っている。
枕元の時計の針だけが、チクタクと音を立てている。
その音になんとなく安堵しながら、隣に視線を向ける。
瞬間、全身の血が冷える。
ひゅっと喉が鳴った。
瞬きをする。もう一度見る。変わらない。
心臓が嫌な音を立てているのに、視線がそこから動かせない。
渚の腕の輪郭が、ぼんやりと布団に溶けかけていた。
さっきよりも広い範囲で、はっきりと。
比べ物にならないほど、明確に消えかけていた。
「……渚」
小さく呼ぶ。返事はない。
手を伸ばす。
スッと空気を切った。
「渚……なぁ、渚……」
消えかけている。
渚が、消えかけている。
このまま少しずつ、気づかないうちに、渚がいなくなる。
「嫌だ、嫌だ……やめてくれ」
胸の奥がざわつく。嫌な想像ばかりが浮かぶ。渚のいない世界が、やけに現実味を持って迫ってくる。
「……渚、起きろ」
肩を揺らす。肩はまだ触れられる。
透けていない。
まだ、まだ手遅れじゃない。
「おい、起きろって」
少し強めに揺らす。
「渚! 起きろよ!」
力の限り声を出した。
というより、出さずにはいられなかった。
俺の声を、俺のわがままを、渚に伝えずにはいられなかった。
ピクリと渚の瞼が動いた。
「……なに」
「渚!」
目を開けた渚を力の限り抱きしめた。
ここにいるのだと、まだ大丈夫だと、全身で感じたくて。
「ちょっ、なに、どうしたの」
「お前、腕が……!」
「え、腕?」
自身の透けた腕を見て、渚は「あっ」と気の抜けた声を漏らす。そして、いかにも冷静に言う。
「透けてんじゃん」
「透けてんじゃん、じゃねぇーよ! どうすんだよ、これ。なぁ……このまま消えたりしないよな!?」
「それは困る。燈といられなくなる。なにこれ、本体回復し出したのかよ」
渚の言葉に、ふと冷静になる。
頭が少しずつ回っていく。
(あれ、そうじゃん……。渚って生き霊だから、死んでないわけで……。生き霊が消えるってことは──)
「本体に戻れるってことか?」
「え、いや、どうだろ」
珍しく渚が狼狽える。冷静に見えて、流石にこの状況は焦っているのかもしれない。
「いや、そうだよ、そうじゃん! お前の体が回復して、もうすぐ元に戻れるのかも!」
これで元通りだ。またいつもの日常を2人で過ごせる。落ち込んでいた気持ちがどんどんと上昇していく。
だが、渚の表情はなぜか晴れない。俯き、何か考え込んでいるようだった。
まぁ自分の体が消えかけているのだ、不安になるのも当然だ。それに、これが本当に戻る兆候なのかの確信もない。
とにかくまずは──。
「病院行ってくる。渚の容体確かめないと」
渚の返事はない。まだ頭が回っていないのかもしれない。
こういう時くらい、俺がしっかりしないとと、冷静に思考を巡らせる。
「あんま詳しくないけどさ、回復傾向にあるなら、透けてるのってきっと悪い意味じゃないだろ? それにもしかしたら近づけば、戻るとか……なんかそういうのもあるかも──」
「戻らないよ」
渚が被せるように言った。その声は低く、どこか威圧感がある。冷静だった頭の中に、再び不調和音が鳴り響く。
「……そんなのわかんねーだろ。試してみないと」
「わかる。とにかく病院には行かない」
「なんでだよ。なぁ、何をそんなに怖がってんだ。お前も早く戻りたいだろ? こんな生活じゃ」
「戻りたくない」
「……は?」
言葉と共に、思わず引き攣った笑いがこぼれた。
同時に、怒りと困惑。
「おまえ、それどういう意味だよ」
「そのままの意味。俺はこのままでいい。燈と2人でここにいられれば、それで──」
「いいわけないだろ! お前このままじゃなんもできないんだぞ!?」
「できてる。燈と喋って、ご飯食べて、ゲームして、寝て。それでいいじゃん。何が違うの」
「……なっ」
渚はごく当然のように言った。
頭が混乱する。
だって、渚の言っていることは破綻している。
確かにできてはいるが、そんなのは元の体に戻らなくていい理由にはならない。
だって、そんなことは元の体でも当たり前にできることなのだから。今の体じゃ、学校に行くことも、他の人と話すこともできない。これから待っているであろう人生のイベントを何も経験することができないじゃないか。
卒業があって、大学生活が始まって。きっと文句を言いながら就職活動をして。第三希望くらいの会社に就職して、くたびれた姿でお酒を飲んで。なんだかんだ言いながら互いに結婚をして、友人代表のスピーチをして。そうやってちゃんとした家族を作って。普通の家庭を作って。それでも俺たち会う時は、変わらずくだらない話をして。
今のままじゃそんな未来を、1つも描くことができないんだ。それでいいと言う渚の感情が、全くわからなかった。
「渚、お前おかしいよ……。なぁ、普通に考えればわかるだろ。お前、今冷静じゃないんだよ」
「俺は冷静だよ。冷静に考えたうえで、答えは一つ。ここに2人でいたい。外には出たくない」
「戻ってから2人でいればいいだろ。てか、今までだって、ずっと2人で」
「ちがう……燈は、燈には俺以外の世界もあるだろ!」
部屋に響き渡る声に、肩が跳ねる。渚のこんなに大声を聞いたのは初めてだった。
渚の感情がわからない。
渚の目的がわからない。
「俺は今の方が幸せ」
わかるのは、どこかで渚がおかしくなってしまったということだけだ。
どこでだろう。
俺たちはどこで間違えてしまったのだろうか。
「わかった。もういい」
このままではいけない。何が正解なのかわからないなか、それだけははっきりしていた。
俺たちは多分、狭い世界に、2人きりで居過ぎたのだ。
このままでいたいと思う気持ちがないわけではない。温かくて、安全で、心地が良い場所。
けれど、このままでは俺たちはダメになる。現に、渚はもうおかしくなりかけている。
渚にとって、俺しかいない世界。そんなのが幸せな世界のわけがないのだ。
だから、まずは俺から先にこの温かい場所から抜け出そう。外は酷く寒いかもしれないけれど、きっとその先でしか得られないものがたくさんある。
「燈、どこ行くの」
立ち上がり、扉へ向かう。
手首を、強く掴まれた。
「行かせない」
低い声だった。
「離せよ」
「ダメだ」
みしりと腕の骨が軋む音がする。
「行くな」
「離せって」
「ダメだ」
同じやり取りを繰り返す。
「行かせない」
じわじわと力が強くなる。
「行かせない」
繰り返す。
「行かせない」
「渚、いい加減に──」
渚の顔を見て、思わずぞくりとした。
瞳の奥に広がる闇。あり得ないほど力強い力。首が、不自然な角度で傾いていた。
旧校舎で見た光景と重なった。
まずいと思った。このままでは渚もあんなふうになるのではないかと。
いつか、心を無くしてしまうのではないかと。
でも同時に、まだ間に合うと思った。
「渚……そんな顔すんなよ」
だって、渚の表情にはどこか寂しさが残っていたから。運動会のときに見た、渚の小さな背中と重なった。あの時みたいに、俺が手を引っ張ってあげないと。
目の前の小さな頭を抱きしめた。
「……燈」
渚の瞳に光が宿る。手の力が弱まる。
まだ間に合う。渚の心は、まだここにある。
「大丈夫。絶対戻ってくるから」
「だめ、お願い、行かないで」
「俺、このままは嫌だよ。お前とずっと一緒にいたいもん。渚もそうだろ?」
「……そうだけど、でも」
「だったら俺を信じろ、渚。これからも一緒にいるために、そのために行ってくるだけだから」
そんな無責任な言葉をおいて、俺は部屋を飛び出した。

