3日目の朝は、穏やかだった。
目が覚めると、隣で渚が寝ていた。規則正しい寝息に、寝癖ひとつない髪。
いつも通りの様子だ。
昨日のことを思い出すと、今でも少し怖い。渚が渚じゃないみたいだったから。
ありえない移動速度。引いても開かない扉。光を飲み込むような深い漆黒の瞳。蛇がまとわりつくような感覚。抑揚のない声。
あれは明らかに、人間ができるものではなかった。
(やっぱり、幽霊なんだ)
目の前ですやすやと眠る渚を見ながら、今更そんなことを思った。
髪に触れる。柔らかくて艶やかな手触り。
頬に触れる。陶器みたいに滑らかな手触り。
どれもこれもいつもの渚の感触だ。
手に触れる。冷たい。血が通っていないかのように。
実際、通っていないのだろう。
俺のことを何度も助けてくれた、優しくて温かい手は、ここにはないのだ。
いつも通りのようで、やはりそれは現実逃避なのだと実感する。
それでも渚は渚だ。自分の決意を心の中で繰り返す。
ふと、渚の瞳が開いた。
「えっち」
「……バカなこと言ってんなよ」
「おはよ」
「おはよう」
渚は大きくあくびをしながら、ゆっくり体を起こす。机に置きっぱなしの例のパズルに視線をやりながら、寝起きの掠れた声でつぶやく。
「だいぶ進んだね」
「真ん中はまだまだだけどな」
ベッドから降りた渚は、またパズルに向かった。俺も隣に座って、ピースを手に取る。
「佐藤は今頃、何してんだろうな」
言いながら、パズルをくれた友人をなんとなく頭に思い浮かべた。
「さあ。知らない」
「もうちょい興味持ってやれよ。あいつ、渚が心開いてくれないって、いつも落ち込んでんだぞ」
「別に最近は嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃない、で人は喜ばないんだよ」
「ふーん」と言う渚は心底興味がなさそうだ。ひどい!と嘘泣きする佐藤の様子が思い浮かぶ。
最近は、次第に渚と佐藤も普通に話すようになった。まぁ気を抜くとすぐに渚が不機嫌になるので、基本的に俺ありきで、だが。
今は、佐藤が渚と仲良くしたいと思ってくれていることが、素直に嬉しく思えるくらいには成長した。
「……心配してっかな」
気づけばふと、そんなことを呟いていた。
佐藤だけじゃなく、他のクラスメイトや、バイト先の店長や、先輩。自分と関わってきた人たちが次々と、頭に浮かぶ。
「平気だよ。受験シーズンだし、自分のことでいっぱいでしょ」
「……まぁ、そうか。そうだな」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
「それに、佐藤は彼女のことで頭いっぱいだよ、きっと」
「はぁ、彼女!?」
「なんかこの前告白されたって言ってたよ」
「俺、聞いてないんだけど!」
「燈に言うと悲しんじゃうから、とか言ってたよ」
「余計なお世話だわ!」
佐藤への申し訳なさが一瞬で吹っ飛んだ。
あの野郎、次会った時、覚えてろよ。
渚はさして興味なさそうに、ピースをひっくり返している。
「渚は、興味ないのか」
「何が」
「まぁ、あれだよ、恋人とか。欲しいと思わないのかなって」
「思わない」
「……即答。お前、モテんのに」
「燈だって、そこそこモテるでしょ」
「そこそこは余計だろ……」
「付き合っても長続きしないみたいだけどね」
「……ほっとけ」
歴代の彼女たちが頭に思い浮かぶ。振られる時に言われることは、大抵同じような内容だ。
──燈くんって私のこと本気で好きなの?
──私だけ好きって感じがして、辛いの。
恋人というのは厄介で、お互いが一番同士ではないといけないらしい。俺にとっては、恋人も、友人も、渚も等しく大切なのだが。
「3人目の人が1番面白かったけどね」
「なんかあったっけ?」
「教室乗り込んできたじゃん。私の燈くん取らないでって、何故か俺が怒られた」
「あー……あったな」
思い出すだけで頭が痛くなる。
「あれで、懲りたよ。しばらくは恋人いらないなって」
「そこでそうなるのが燈らしいよね」
渚はふっと小さく笑いながらそう言った。その言葉の意味が、いまいちピンとこない。
「どういうこと?」
「なんでもない。とりあえず燈は恋愛むいてないから作らなくていいと思うよ」
「……わかってるっつーの」
内心この野郎と思いつつ、再び手元に視線を落とす。
ピースを一つ拾い上げてみた。
くだらない会話をしながら、くだらないことをする。なんだかその時間が酷く幸せなように感じた。
パズルにピースをはめる。
外側の輪郭は埋まっているのに、肝心な真ん中だけが、まだ空白になっている。
「燈、そっちのピース、そこじゃない」
「……ああ、ほんとだ」
「その右下のとこじゃない?」
言われた通りに動かすと、ピタリとはまった。渚もぱちぱちと端から埋めていき、だんだんと黒い範囲が多くなっていく。
闇がじわじわと浸透していくかのように。
「一回、休憩しようぜ」
ほぼ無意識に口が動いた。なんだか胸がざわついたのだ。渚は少し不思議そうな表情を浮かべている。
「早くない? まぁ、いいけど」
「飲み物取ってくる。勝手に進めるなよ」
その場から逃げるように部屋を出る。
何故かはわからない。わからないけれど。
パズルが完成するのが、なんだか怖く感じたのだ。
部屋に戻ると、渚はぼんやりと漫画を読んでいた。
珍しい光景だ。そういえばこのところ、渚は漫画を読んだり、ゲームをしたりしている。
普段はテレビやスマホをぼっーっと見つめていることの方が多いのに。
「テレビ、つけないのか?」
そう声をかければ、渚はゆっくりと首を縦に振る。
「なんか調子悪いみたい」
「まじ?」
リモコンのスイッチを押せば、確かに映像が乱れていた。音も途切れ途切れで、うまく聞き取ることができない。
「……うわっ、マジじゃん。なんでだぁ? 天気悪いわけでもないのに」
雨は降っていないし、風も特別強くはなさそうだ。
でもそういえば、ここ数日は俺のスマホの調子も悪い。うまくネットに繋がらず、メッセージアプリはずっと開けないままだ。
回線障害か何かだろうか。
「とりあえず切るか……。なんか不気味だし」
「ふっ、燈ってこういうの意外と苦手だよね」
「だって、なんか気味わりぃだろ」
「目の前に幽霊いるのに。変なの」
その言葉に、思わず息を呑む。
急に現実に引き戻されたように感じた。
「……生き霊って、幽霊なのか人間なのかどっちなんだろうな」
「普通に幽霊じゃない? 字面的にも」
「まぁ、そうだけど。魂だけ抜けてる?みたいな感じだろ。体は生きてるわけだし。なんかイメージしてた幽霊とはちょっと違うよな」
「へぇ、昔見たやつとは、やっぱ違うんだ」
渚の言葉に、閉じかけていた記憶の扉が動き出す。
「……旧校舎」
「そう。燈にだけ見えたやつ」
記憶が徐々に蘇っていく。
目が覚めると、隣で渚が寝ていた。規則正しい寝息に、寝癖ひとつない髪。
いつも通りの様子だ。
昨日のことを思い出すと、今でも少し怖い。渚が渚じゃないみたいだったから。
ありえない移動速度。引いても開かない扉。光を飲み込むような深い漆黒の瞳。蛇がまとわりつくような感覚。抑揚のない声。
あれは明らかに、人間ができるものではなかった。
(やっぱり、幽霊なんだ)
目の前ですやすやと眠る渚を見ながら、今更そんなことを思った。
髪に触れる。柔らかくて艶やかな手触り。
頬に触れる。陶器みたいに滑らかな手触り。
どれもこれもいつもの渚の感触だ。
手に触れる。冷たい。血が通っていないかのように。
実際、通っていないのだろう。
俺のことを何度も助けてくれた、優しくて温かい手は、ここにはないのだ。
いつも通りのようで、やはりそれは現実逃避なのだと実感する。
それでも渚は渚だ。自分の決意を心の中で繰り返す。
ふと、渚の瞳が開いた。
「えっち」
「……バカなこと言ってんなよ」
「おはよ」
「おはよう」
渚は大きくあくびをしながら、ゆっくり体を起こす。机に置きっぱなしの例のパズルに視線をやりながら、寝起きの掠れた声でつぶやく。
「だいぶ進んだね」
「真ん中はまだまだだけどな」
ベッドから降りた渚は、またパズルに向かった。俺も隣に座って、ピースを手に取る。
「佐藤は今頃、何してんだろうな」
言いながら、パズルをくれた友人をなんとなく頭に思い浮かべた。
「さあ。知らない」
「もうちょい興味持ってやれよ。あいつ、渚が心開いてくれないって、いつも落ち込んでんだぞ」
「別に最近は嫌いじゃないよ」
「嫌いじゃない、で人は喜ばないんだよ」
「ふーん」と言う渚は心底興味がなさそうだ。ひどい!と嘘泣きする佐藤の様子が思い浮かぶ。
最近は、次第に渚と佐藤も普通に話すようになった。まぁ気を抜くとすぐに渚が不機嫌になるので、基本的に俺ありきで、だが。
今は、佐藤が渚と仲良くしたいと思ってくれていることが、素直に嬉しく思えるくらいには成長した。
「……心配してっかな」
気づけばふと、そんなことを呟いていた。
佐藤だけじゃなく、他のクラスメイトや、バイト先の店長や、先輩。自分と関わってきた人たちが次々と、頭に浮かぶ。
「平気だよ。受験シーズンだし、自分のことでいっぱいでしょ」
「……まぁ、そうか。そうだな」
自分に言い聞かせるように、そう呟いた。
「それに、佐藤は彼女のことで頭いっぱいだよ、きっと」
「はぁ、彼女!?」
「なんかこの前告白されたって言ってたよ」
「俺、聞いてないんだけど!」
「燈に言うと悲しんじゃうから、とか言ってたよ」
「余計なお世話だわ!」
佐藤への申し訳なさが一瞬で吹っ飛んだ。
あの野郎、次会った時、覚えてろよ。
渚はさして興味なさそうに、ピースをひっくり返している。
「渚は、興味ないのか」
「何が」
「まぁ、あれだよ、恋人とか。欲しいと思わないのかなって」
「思わない」
「……即答。お前、モテんのに」
「燈だって、そこそこモテるでしょ」
「そこそこは余計だろ……」
「付き合っても長続きしないみたいだけどね」
「……ほっとけ」
歴代の彼女たちが頭に思い浮かぶ。振られる時に言われることは、大抵同じような内容だ。
──燈くんって私のこと本気で好きなの?
──私だけ好きって感じがして、辛いの。
恋人というのは厄介で、お互いが一番同士ではないといけないらしい。俺にとっては、恋人も、友人も、渚も等しく大切なのだが。
「3人目の人が1番面白かったけどね」
「なんかあったっけ?」
「教室乗り込んできたじゃん。私の燈くん取らないでって、何故か俺が怒られた」
「あー……あったな」
思い出すだけで頭が痛くなる。
「あれで、懲りたよ。しばらくは恋人いらないなって」
「そこでそうなるのが燈らしいよね」
渚はふっと小さく笑いながらそう言った。その言葉の意味が、いまいちピンとこない。
「どういうこと?」
「なんでもない。とりあえず燈は恋愛むいてないから作らなくていいと思うよ」
「……わかってるっつーの」
内心この野郎と思いつつ、再び手元に視線を落とす。
ピースを一つ拾い上げてみた。
くだらない会話をしながら、くだらないことをする。なんだかその時間が酷く幸せなように感じた。
パズルにピースをはめる。
外側の輪郭は埋まっているのに、肝心な真ん中だけが、まだ空白になっている。
「燈、そっちのピース、そこじゃない」
「……ああ、ほんとだ」
「その右下のとこじゃない?」
言われた通りに動かすと、ピタリとはまった。渚もぱちぱちと端から埋めていき、だんだんと黒い範囲が多くなっていく。
闇がじわじわと浸透していくかのように。
「一回、休憩しようぜ」
ほぼ無意識に口が動いた。なんだか胸がざわついたのだ。渚は少し不思議そうな表情を浮かべている。
「早くない? まぁ、いいけど」
「飲み物取ってくる。勝手に進めるなよ」
その場から逃げるように部屋を出る。
何故かはわからない。わからないけれど。
パズルが完成するのが、なんだか怖く感じたのだ。
部屋に戻ると、渚はぼんやりと漫画を読んでいた。
珍しい光景だ。そういえばこのところ、渚は漫画を読んだり、ゲームをしたりしている。
普段はテレビやスマホをぼっーっと見つめていることの方が多いのに。
「テレビ、つけないのか?」
そう声をかければ、渚はゆっくりと首を縦に振る。
「なんか調子悪いみたい」
「まじ?」
リモコンのスイッチを押せば、確かに映像が乱れていた。音も途切れ途切れで、うまく聞き取ることができない。
「……うわっ、マジじゃん。なんでだぁ? 天気悪いわけでもないのに」
雨は降っていないし、風も特別強くはなさそうだ。
でもそういえば、ここ数日は俺のスマホの調子も悪い。うまくネットに繋がらず、メッセージアプリはずっと開けないままだ。
回線障害か何かだろうか。
「とりあえず切るか……。なんか不気味だし」
「ふっ、燈ってこういうの意外と苦手だよね」
「だって、なんか気味わりぃだろ」
「目の前に幽霊いるのに。変なの」
その言葉に、思わず息を呑む。
急に現実に引き戻されたように感じた。
「……生き霊って、幽霊なのか人間なのかどっちなんだろうな」
「普通に幽霊じゃない? 字面的にも」
「まぁ、そうだけど。魂だけ抜けてる?みたいな感じだろ。体は生きてるわけだし。なんかイメージしてた幽霊とはちょっと違うよな」
「へぇ、昔見たやつとは、やっぱ違うんだ」
渚の言葉に、閉じかけていた記憶の扉が動き出す。
「……旧校舎」
「そう。燈にだけ見えたやつ」
記憶が徐々に蘇っていく。

