愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 どのくらいそうしていたのだろう。
 ベンチに座る体に、冷たい風が激しく吹き付ける。
 どこにいるんだっけと、あたりを見渡す。どこかの公園にいるようだった。小さい頃に来たことがあるような、ないような。
 まぁどちらでもいいかと、視線を下げた。
 頭の中が、妙に静かだ。
 怒りも、悲しみも、何も湧いてこない。
 なんだか、全てがどうでも良くなったように感じた。
 
「燈」

 誰かに名前を呼ばれた気がした。でも、顔を上げる気にも、声を出す気にもなれなかった。

「燈……!」

 どうしているんだよと、心の中で思った。
 けれど幻聴だと信じたくて、頑なに顔を上げなかった。こんな姿を見られたくない。

「ねぇ、どうしたの。何があったの」

 答えられない。言いたくない。
 一度言ってしまったら、止まらない気がしたから。

「燈、こっち見て」

 頬を掴まれ、強制的に視線が合わさる。真っ暗だった視界が、渚でいっぱいになる。
 抑えていたものが解けてきて、たった一つ言葉が浮かんだ。

「俺、いない方がいいのかな」

 渚の目が見開かれる。肩を強く掴まれた。

「……なんで、なんでそんなこと言うの。そんな酷いこと、なんで言うんだよ!」
「……な、なぎさ」

 どこかに行った思考が、驚きで少し戻ってくる。渚が声を荒げているところは見たことがなかったから。

「許さない、誰だよ」
「えっ」
「誰が燈にそんなこと言わせんだよ!」
「……はっ、おまえ」

 ありえない光景に思わず息を呑む。

「泣いてんのか?」

 渚が涙を流している。渚が泣いているのを見たのは、初めてだった。

「燈が泣かないから……」

 思わず、かすかに笑いが漏れた。

「……前と逆だな」

 かつて、俺が渚のために泣いた夜があった。
 今度は渚が、俺のために泣いてくれている。

「燈も泣きなよ」
「何その無茶振り」
「真似しないで」

 渚が拗ねたような顔をして、思わず目を細めた。不思議と、押さえていたはずの感情が、ゆっくりと浮かび上がっていく。

「……俺、どこで間違えたんだろ。……最初っからなのかな」

 心臓が熱くなる。

「……どっかで期待してたんだよ。優しくしてれば、いいことしてればって。でもさ、意味なかった」

 耐えていた何かが、心臓の奥から途端に迫り上がってくる。

「……なんなんだろうな。幸せな家庭で生きてる奴らって、前世にすごい徳積んだとかなのかね」

 自分でも自分が最悪だと思う。関係ない人に嫉妬して、大した事ない家庭環境に悲観して。
 どれほど性格が悪いのだろうと思う。
 だけど、それでも良いような気がした。良いことをしたって、我慢したって、不幸な人は不幸だし、幸せな人は幸せなのだから。
 神様なんて信じてはいない。けれどどこかで、いいことをすれば返ってくると思っていたのかもしれない。
 あんな母親にでも、怒らず嫌いにならず、優しくしていれば、いつかこちらを見てくれかもしれないと。
 実際はそんなことはありえないのに。母親にとっては俺が不幸の象徴なのだから。
 母親も馬鹿だと思う。俺が良い子を演じていたのは高橋さんの前じゃない。誰よりも良い子だと思って欲しかったのは、母親だったのに。
 今はなんだか、良い子を演じようとしてきた自分がひどくバカらしく感じる。

「……俺も前まではそう思ってたよ」

 渚がぽつりと呟いた。

「なんで、こんなクソ親父の元に産まれたんだろって。俺が何したんだよって。でも、最近は思わない」
「……なんで」
「燈がいるから」
「はっ、なんだよそれ……」

 笑いながらも目頭が熱くなっていくのを感じる。

「だって運動会の日に弁当を作ってくれるような親だったら、あの時、燈に話しかけてもらえなかったもん。そりゃ円満な家族って幸せだとは思うよ。でも、俺は燈といると楽しいし、幸せ。家族と燈なら、燈を取るよ」

 渚はいかにも真剣に、まっすぐ俺の瞳を見据えて、そう言った。随分恥ずかしいことを言ってる自覚はないのだろう。

「……ばかかよ」

 悪態をついてみたが、その声は震えていて格好がつかない。やはり俺は、渚みたいにかっこよくはいられないのだ。
 喉から瞳に、燃えるほどの熱さが迫り上がってくる。もう無理だった。悲しさも悔しさも、嬉しさも、全ての感情が決壊した。

「うっ……ううっ……」

 情けなくも声を出して泣く俺を、渚は頭ごと大きな両手で包み込んだ。力は強いのに、何故か痛くはない。暖かくて、優しくて。
 渚はもう何も言わなかった。
 ただ、ただ、俺を抱きしめて隣にいてくれた。
 自分が心底馬鹿だと思った。まるで、この世で1番不幸なんて、そんなふうに思い込んで。
 俺には渚がいるのに。こんなにも自分のことを大切に思ってくれる存在がいるのに。
 それだけで、どれほど幸せなことなのか、どれほど恵まれているのかを痛いほどに自覚した。

 その後、俺は泣き腫らした目で家に戻った。渚はついてくると言って聞かなかったが、これ以上情けない姿は見せたくないと、どうにか断った。
 それに、
 
『なんかあったら絶対連絡して、助けに行く』

 別れ際にもらったその言葉だけで、もう怖くはなかった。
 扉を開けると、家の中はひどく静まり返っている。
 嵐が過ぎ去ったあとのような惨状だった。
 空き缶やグラス、飾られていた洒落た置き物や写真、それらが全て床に落ちている。
 奥の部屋を覗くと、母親が丸くなり、引き攣った声で泣いていた。その背中はひどく小さく見えた。

「母さん。ただいま」
「燈……!」

 振り返った顔は、涙と鼻水でひどいことになっていた。母親はごめんねと繰り返しながら、強く抱きしめてくる。

「ごめんね……! 本当はあんなこと思ってないの! さっきはパニックになっちゃっただけで……」
「いいよ、わかってるから」
「ありがとう、優しい燈が大好きよ。あんな奴……早く忘れましょう。2人でもきっと大丈夫よ!」

 血走った目で母親が言う。前の父親が出て行った後も、同じようなやり取りがあった気がした。きっとまた同じようなことを繰り返すのだろうと、確信にも似た予感があった。
 母親を抱きしめ返す。それでも俺は、この人に期待することを、きっとやめられないのだろう。

 母親が落ち着き眠った頃、スマホに1通のメッセージが届いた。高橋さんからだ。

[すまない。これ以上は無理だ。僕のものはそのまま置いてくので、捨てるか、使えそうなのがあったら使って。何かあれば、すぐに連絡して]

 その文字を見た瞬間、不思議と感じたのは安堵だった。
 高橋さんは俺たちといるには優しすぎるから。
 スマホがバイブし、もう1通メッセージが届く。

[大丈夫? 明日サボるなら一緒にサボるからね]

 渚からのメッセージにふっと小さく笑いが溢れた。
 これだけで大丈夫な気がした。
 渚が俺を見てくれるだけで、必要としてくれるだけで大丈夫な気がした。
 この日から俺たちの関係はさらに深くなったように思う。互いにとって、唯一無二の存在に。
 他人が入り込むことができない、狭い世界を作り上げてしまったのだ。