愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 俺に2人目の父親ができたのは、高校に入学して間もない頃だ。1人目の父親は顔も知らない。酔っ払った母親曰く、浮気をして、ギャンブルをして、絵に描いたようなクズ男だったらしい。
 母親も生活能力が著しく低いので、似たもの同士なような気もするが。
 とはいえ、母親は毎日お金を置いていってはくれたし、生活に困ってはいなかった。
 そんなある日、母親が中年の男性を連れてきた。

「明日からこの人も一緒に住むから」

 優しそうな男性を示して、母親はそう言った。この時の俺は、ふぅん、そうなんだ程度にしか思わなかった。でも、なんとなく、ほんの少しだけ世界が明るくなったような気がした。
 近頃、母親の機嫌が良かったのは、きっとこの人のおかげだったから。そんな人と結ばれたなら、母親は幸せになれるのかもしれない。そう思ったからだ。
 高橋和也(たかはしかずや)と名乗る男性は、見た目通り優しくて穏やかな人だった。常にニコニコしていて、少し抜けたところもあって。
 頭の上のメガネを探しているのを見かけた時は、本当にこんな人がいるんだと驚いたものだ。
 1番驚いたのは、俺にも優しすぎるくらい優しかったこと。困っていることはないか、欲しいものはないか、母親と上手くやれているのか。
 同じようなことを、毎日繰り返して聞いてきた。だけど、俺は笑顔で「大丈夫」と言い続けた。血の繋がりすらない人にお願いをするなんて、俺にとっては考えられなかった。
 ところがある日、靴の底が剥がれてしまい、修復を試みてもどうしてもダメだったことがあった。母親が置いていくのは最低限の食費だけだし、始めたてのバイトの給料も、新学期の教材費などでほぼ使ってしまっていた。

『燈くん、本当に欲しいものはない? なんでもいいんだよ』

 いつものようにそう聞いてくる高橋さんに、俺は恐る恐る言った。

『……靴、壊れちゃって。本当に履ければなんでもいいんで、買ってもらうことって』
『もちろん!! 靴か、どんなやつがいいかな。今の子にはどんなのが流行ってるんだろう。早速今日の夜買いに行こうか!』

 彼は、こっちが恥ずかしくなるくらい喜んだ。与える方のはずなのに、まるで何かをもらった子供のように。こんなに喜んでくれるなら、少しは甘えてみてもいいのだろうかと、初めてそんな気持ちになった。
 その後も高橋さんの態度は変わらなかった。むしろどんどん甘くなっていたように思う。
 血は繋がっていないのに、我が子のように可愛がってくれた。そんな高橋さんのことを、俺ももちろん好意的に思った。こんなに良くしてもらって、ならないわけがない。
 けれど同時に、漠然とした恐怖心があった。あまりに幸せだと、反動で悪いことが起こる、そんな気がしたから。
 何もそれは、ただの直感だけではない。
 実際、俺に向ける母親の視線が、以前よりも冷ややかになっているのを感じていたからだ。
 そして、終わりは来た。
 その日は高橋さんが出張で外泊している日だった。母親はここぞとばかりに缶チューハイを空けていた。

「あんた、なんなの。和也さんの前でばっか、いい子ぶって」
「母さん、落ち着いて」
「私への嫌がらせなわけ? 私から和也さんを取って、不幸にしたいのね!」

 空き缶が飛んでくる。こうなると暴走は止まらない。

「結局、あんたもあのクズ男と一緒ね。私なんていなくなればいいって思ってるんでしょ!」
「思ってない、思うわけないだろ」
「顔を見ればわかるわ。その憎たらしい顔。和也さんの前では、嘘くさい笑顔浮かべてるくせに」

 伝わらない、この人には何を言っても伝わらないと思った。まるで違う言語の人と会話しているようだ。
 それなのに、なぜかこの人との会話を完全に諦めることができない。自分でも、自分がどうしたいのかがわからなかった。
 何も母親も、好きでこうなったわけではない。父親に捨てられた可哀想な人なのだ。
 母親が何かを叫びながら立ち上がる。足元はおぼつかない。倒れそうになる体を受け止めようとした、その時。
 ばちんと手を弾かれた。

「触らないで! 男に色目使うやつなんかに触られたくない!」
「は……? 色目ってなんだよ。そんなわけないだろ。そんな勘違い、高橋さんにも失礼だろ」
「あんたが和也さんの気持ちを語らないで!」

ため息が溢れ出る。さすがに思考が飛躍しすぎだ。母親は癇癪を起こした子供のように、叫び続ける。

「調子乗ってるあんたに教えてあげるわ! あんたはね、ただの身代わりなの」
「……なんだよ、それ」
「和也さんにはね、子供がいたの。前の奥さんとのね。事故で亡くなっちゃったらしいけど」
「え……」

 思わず息を呑む。あんな明るい人に、そんなに辛い過去があったなんて思いもしなかったから。
 そして同時に理解した。母親が言った「身代わり」という言葉の意味を。

「和也さんは、あんたをその子だと思って可愛がってんのよ。いい? あんたは実の子の身代わり。本当のあんたなんか、誰も愛していないのよ!」

 その言葉は、違和感なく頭に入ってきた。どうしてこんなにも可愛がってくれるのか、ずっと疑問に思っていたから。
 悲しくはない。もちろん、怒りも。感謝の気持ちだって変わらない。変わるわけがない。
 高橋さんが俺に良くしてくれた事実は、何も変わらないのだから。  
 それなのに、なぜか少しだけ心臓が重たくなったような感覚があった。母親が俺を傷つけるつもりで言ったのなら、きっと成功している。
 不意に、ははっと乾いた笑いが溢れた。
 その時、ガチャリと扉が開く音がした。

「……何をしてるんだ」

 出張中のはずの高橋さんが立っていた。
 見たこともない顔で。震える体は怒りからなのか、悲しみからなのか。表情だけではわからない。

「か、和也さん……なんで……」

 母親は顔面蒼白になり、唇を震わせる。

「新幹線が止まりそうだったから、1日早く帰ってきたんだ。……メッセージ見ていないのか」
「あっ……ごめんなさい、ちょっとバタついてて……」
「その空き缶はなんだ。ずっと酒を飲んでたのか」
「ち、ちがうの、これは……その……」

 否定しながらも二の句が告げない母親に、高橋さんは大きな舌打ちをした。母親も、俺も、びくりと肩を上下させる。明らかにいつもと様子が違ったからだ。

「もうそのことはいい。それより、さっきのはなんだ……」
「さっきのって……」
「お前が燈くんに言ってたことだよ。なんで……どうしたら、あんなこと酷いことが言えるんだ!」
「や、やめて! 大声出さないでよ!」
「……お前、まだそんな態度を!」
「高橋さん!」

 怒りの形相で母親に詰め寄った高橋さんの前に飛び出た。こんな母親なのに。それでも本能的に守らなければと思ってしまうのは何故なのだろうか。

「俺は平気なんで。母さんもちょっと酔ってただけだし」

 そう言って、ヘラッと笑って見せた。
 瞬間、強い力で体が締め付けられる。
 高橋さんが俺を抱きしめたようだ。肩に温かいものを感じる。なぜだかわからないが、高橋さんがぽろぽろと涙を流していた。

「……ごめん、ごめんな」
「えっ、なに、なんで高橋さんが謝るんですか」

 混乱する俺の言葉が届いているのか、いないのか。高橋さんは独り言のように呟く。

「……いつからだ、いつからこんな状態で。何かおかしいとは思ってたけど……ここまでとは……」

 『おかしい』。
 その言葉が耳に残り、やけに冷静になっていく。
 これが普通の家庭ではないことは、なんとなくわかってはいた。友人と話す時、ドラマや漫画を見た時、自分の知らない世界だなと思うことが多々あったから。
 それでも、生活に困ってはいなかったし、母親だって常にこんなんではなく、優しいときだってあった。
 普通ではないけれど、特別おかしくはない。そう思っていた。
 だが、高橋さんから見たら、俺と母親は相当おかしいのだろうか。
 高橋さんは体を離し、俺の両肩を掴む。視線が交わった。
 その瞳はどこか覚悟を決めたようであり、同時に憐れんでいるようにも感じられた。

「……出て行こう」
「……は?」

 放たれた言葉の意味がすぐには理解できない。

「出て行って、俺と一緒に暮らそう」

 放心してしまった俺を他所に、母親が顔を真っ赤にして叫ぶ。

「……ふざけんじゃないわよ! 出てく? 私を置いて2人で? そんなこと、許されるわけないでしょ!」
「許されなくても連れていく。君に燈くんは任せられない」
「母親は私よ!」
「関係ない。君が母親を語る資格はない」
「……はっ、なによえらそうに。あなただって人のこと言えないでしょ。死んだ息子の代わりにしようとしてるくせに」
「なっ……! 言っていいことと悪いことの区別もつかないのか!」

 高橋さんが母親を怒鳴りつける。母親は声を上げて泣き出した。
 そんな様子を俺はぼーっと見つめていた。今度は、2人を止める気にもならなかった。
 ただひたすらに、2人から投げられる言葉を受け止め続けていた。

「このっ偽善者め! 私のことだって、同情で養ってただけでしょ! 私より可哀想な人を見つけたから、捨てる。そういうことでしょう!」
「……なんてことを言うんだ! いい加減にしろ!」
「だって、そうじゃない! あなたのは優しさじゃないわ! 自分より不幸な人に同情して、優しくして自己満足に浸ってるだけよ!」
「……なっ、それは」
「ふっ、図星じゃない。燈、聞いてた? そういうことなのよ」

 母親の声が脳内でハウリングしたように、不快に響く。

「燈くん、違うからな。こんなこと聞く必要はない」

 どんな言葉も、不快に響く。

「こんなことってなによ、そんなに私のことを悪者扱いしたいのね!」
「もういい、話にならない。燈くん、行こう」

 高橋さんが俺の手を引っ張る。

「行かせない、絶対に行かせないわ! 燈を連れてくなんて許さない!」

 母親が俺を抱きしめる。母親に抱きしめられたのは一体いつぶりなのだろう。
 けれど、温もりは少しも感じない。感じるのは拘束感だけだ。

「燈、あんただけ幸せになるなんて、許さないからね! 私をこんなに不幸にしておいて!」
「おい、やめろ! 燈くん、行こう」

 手首を強く引っ張られ、母親の拘束が解ける。後ろから金切り声のような叫びが聞こえた。

「燈、あんた……また私から取るのね! 慎二だけじゃなくて、和也さんまでも!」
「……また?」
 
 無意識に足を止めた。慎二とは俺の本当の父親の名前だ。

「えぇ、そうよ。慎二はね、あんたができるまでは優しかったの! おかしくなったのはあんたができてからよ! 私が育てるから何もしなくていいって、そう言ったのに……。それなのに……!」

 あぁ、そうか、そうだったのかと理解する。
 父親が出て行ったのは俺のせいだったのか。……母親がこうなったのは、俺のせいなのかと。
 心臓が、頭が、じくじくと痛む。
 これ以上聞きたくない、聞いてはいけないと脳内でアラートが鳴り響く。

「産まなきゃ良かった……あんたさえ産まなきゃ、私は幸せだったのに!」

 ぐさりと鋭利なナイフで刺されたように感じた。痛い、痛くてたまらない。
 耐えられなくて、高橋さんの拘束を振り切った。
 全てから逃れたくて、俺は部屋から飛び出した。