愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 相変わらず、テーブルの上には黒いピースが散らばっている。昨日よりは進んでいる。が、中心はまだスカスカだ。

「……これ、終わるのか?」
「終わらないことはないでしょ」
「そりゃそうだけど。一体何日かかんだよ」
「さあ。でも、時間あるし、ちょうどいいんじゃない」

 渚はそう言って、するすると指を動かす。

(時間はある、か……)

 その言葉を聞く度、なんだかぎくりとした。まるで、悪いことをしているみたいに。

 ──生き霊。

 それは、何かしらの強い未練や執着によって、生きたまま魂が肉体を離れることで発生する……らしい。ネットで調べた答えなので、完全に正確かはわからないが。
 まぁ、おおよそ間違ってはいないだろう。いくつか見たことがあるフィクションの中でも、大抵そんな感じだった。

(渚の未練……)

 あまりピンと来なかった。基本、何事にも無頓着な奴なのだ。

(……ストレートに聞いてみるか? でも言わなそうなんだよな。てか、自分でもわかってなさそう)

 目の前の渚をじっと観察してみる。
 うん、いつも通り。
 やはり、それ以外に得られる情報はないようだ。渚はうーんと大きく腕を伸ばし、あくびを一つこぼす。そして一言。

「飽きてきた」
 
 そうそう、これこれ。
 渚はこんなふうに気分屋でマイペースなやつなのだ。今回の件だって、事故が起きたことに気づかず魂だけ動いているだとか、痛いのや退屈なのが嫌で抜け出してしまっただとか、そういった感じの方が渚らしい。

「まぁ、こんなの連日やるもんじゃないかもな」
「なんか違うことしよ」
「……とりあえず、飲み物持ってくるわ」

 そういえば、昨夜分かった衝撃の事実がある。どうやら渚は普通に飲み食いできるらしい。生き霊だけ、もしくは渚だけなのか、それは不明だが。
 見る人によってはコップやお菓子だけが浮いているような状態になるのかと思うと、かなりホラーだ。
 冷蔵庫を開ければ、水と缶チューハイ、それから高そうな洋菓子屋の箱が入っている。
 すっからかんな小さな冷蔵庫に似合わないソレは、母親が客にでももらってきたものだろう。

(置いてくなって、言ってんのに)

 母親は時折帰ってきては、客の愚痴を言って、少しばかりのお金を置いて出ていく。数日前に帰ってきたばかりなので、しばらくは帰ってこないだろう。
 まぁ、今回ばかりは助かった。
 独り言が聞こえてくれば、いくら俺に興味がない母親でも不審がるだろう。精神科に連れていかれたりでもしたら、たまったものではない。想像しただけで、胃がきりきりと痛んだ。

(……やめだやめ。今はそっちに割く頭ないんだから)

 手前のペットボトルを取ると、後ろにはもう何も無い。そういえば買い出しに行ったのは随分前だった気がする。冷蔵庫の横の戸棚を見れば、常備しているカップ麺やお菓子も大分少なくなっている。
 まぁ暇ではあるし、買い出しに行くにはちょうど良いタイミングだ。

(渚はまぁ、留守番かな……)

そもそも本当に俺だけにしか見えていないのかもわからないが、もし隣で超常現象が起こったら大変だ。そうなれば俺の妄想だという線は消えるので、それはそれで悪くはないけれど。
 だが、リスクが高すぎる。
 例えば、もし霊媒師とかがその辺にいて、渚が祓われてしまったらどうすれば良いのだ。ドラマやアニメの見過ぎかもしれないが、リスクは0ではない。
 もしそんな恐ろしいことが起きてしまったら……と考えかけて止まる。
 果たしてそれは、悪いことなのだろうか。
 そもそも渚は生き霊だ。
 死んではいない。となると、霊媒師にお願いすれば体に戻れたりするのだろうか?
 というか、渚の体は大丈夫なのだろうか。もし本体が死んだらどうなるのだろうか──。
 すっと思考が妙に冷静になる。
 対照的に背中には冷や汗がつたい、手が震える。
 思考は冷静なのに、体は動揺しきっていた。

(……何が時間はある、だ。あるわけがない。……このままじゃなんの解決にもならない)

 渚が「時間がある」と言うのは、現実逃避をしている顕だろう。そりゃあそうだ。
 自分が生き霊になっているなんて、簡単に受け入れられることではない。
 だからこそ、俺は冷静でいないといけない。渚に流されず、しっかりと対応策を考えないと。
 ここにずっと2人でいる、それだけでいい。
 そう思う気持ちが全くないわけではない。けれどそれは、本質的な解決にはならない。それで本当にずっと一緒にいられるならいいが、そうじゃないなら話は別だ。
 渚の戻る先がなくなったら、消えてしまうかもしれない。そう思うと、何かをする恐怖より、何もしない恐怖の方が大きくなっていく。

(まずは病院だ。渚の容体を確認しないと)

 ふと、「寂しい。いかないで」と言った渚の様子を思い出した。今の渚は、俺が外に出ることを許してくれるだろうか。
 こんな不安を抱くなんて、なんだか子供の頃に戻ったみたいだ。
 仲良くなりたての頃、渚は俺が他の子と遊ぶと、不機嫌になり寂しがった。
 そう、あの時もこんなふうに──

『燈、他の子のとこ行かないで』
『なんで? 今のクラスはみんないい奴らだよ。渚も一緒に遊ぼうよ。俺がみんなに紹介してやるよ』
『いい。いらない。俺、燈とだけ遊びたい』
『そうなの? 俺とだけじゃ飽きない?』
『飽きない。その……燈は飽きちゃった……? 俺のこと嫌いになっちゃった?』

 そう言って、小さい渚は俺のシャツの裾を掴んできた。なんだか小動物みたいで可愛くて、抱きしめたことを覚えている。「そんなわけないよ、絶対嫌いにならないよ!」と、そんなことを言いながら。
 思い出してくすりとした。
 今思うと、渚の発言はなんだかメンヘラっぽい。渚に言ったら恥ずかしがりそうだなと、くすくすとさらに笑い溢れる。

「何1人で笑ってるの」
 
 振り返れば怪訝な表情をした渚が立っている。

「水取るだけなのに、時間かかりすぎじゃない?」
「ふっ、渚くんは寂しがり屋ですね」
「何そのテンション」
「いや、面白いこと思い出してさ。小学生の時のお前、可愛かったなって」
「今はかっこいいってこと?」
「……お前のそういうとこ、本当に羨ましいよ」
「で、何してたの」
「別に何も。なんか色々ストック足りねえなって思ってただけ」

 言いながら、こんな能天気なことを考えている場合ではなかったと思い出す。なんとか渚を説得して、病院に行かなければ。
 とはいえ、なかなか難易度は高そうだ。寂しがっているのもそうだが、渚は俺が傷つくことを極端に恐れている。
 多分、自分の酷い状態を見せたくないのだろう。
 俺だって見たいかと問われれば、見たくはない。一度見て、逃げ出してしるし。冷静に見れる自信は今でもない。
 けれど、渚を救うためだと思えば、見に行ける気もした。そもそも、俺のせいなのだから、いい加減に現実を受け止めなければならない。

「俺、コンビニ行ってくるわ。すぐ戻る」

 本当の行き先は病院だ。
 とはいえ、嘘というわけではない。順番が反対なだけ。
 渚からの返事はない。

「渚」
「聞こえてる」

 そうは言うものの、渚は顔を上げない。
 床をただ、じっと見ている。
 こうなると長そうだ。サッと行ってサッと帰ってくれば問題ないだろう。

「ちょっと行ってくるだけだから。パズル進めてろよ」
 
 そう言い残して部屋を出ようとした、その時。
 気づいたら、渚が扉の前に立っていた。
 おかしい。
 さっきまで俺の後ろにいたのに。今は目の前に立っている。

「……は、なに今の」

 渚は答えない。

「なに、なんか幽霊らしいじゃん」

 そう笑ってみせるが、全身の血管が脈打っているのを感じる。だが、ここで止まるわけにも行かない。声が震えないように、グッと喉に力を入れる。

「退けよ」

 渚は退かない。ただ、扉の前に立ちはだかっている。その体が、なんだか妙に大きく見えた。

「退けって言ってる」

 語気を強めれば、渚が顔をあげた。しかし、視線は合わない。俺の少し上、どこか遠いところを見ている。

「渚」

 名前を呼んだ。ゆっくりと視線が降りてくる。
 目の奥が、暗い。
 光を飲み込むあの漆黒。
 この前と同じ感覚が、皮膚の上を這った。

「……渚、どうしたんだよ」
「嘘」
「……え」

 ようやく話したかと思えば、渚は空虚を見つめて「嘘、嘘だ」と繰り返す。伝わらない、何も伝えることができないと思った。

「どうして嘘つくの?」

 深い深い漆黒が俺を捕らえる。渚の視線が、声が、まるで蛇のように全身にまとわりつく感覚。何かに縛られているかのように体が硬直する。かろうじて動くのは、震える口だけだ。

「う、嘘なんて」
「嘘。燈は嘘をついてる」

 抑揚のない声。それなのに、逆らえないような圧力をはらんでいる。
 なんとなく、これ以上嘘はつけない、ついてはいけないと思った。

「……病院。病院に行かせてくれ」
「なんで?」
「……お前の体の様子を見に行きたいんだ。やばい状態なら早めに戻らないとだろ? もし体に戻れなかったりしたら──」
「だめ?」

 渚はそう呟いて、首を傾けた。
 訳がわからない、そんな顔だった。
 こちらの言葉の意味が、本当にわかっていない。そんな顔。

「どうして戻らないといけないの」
「はぁ……? どうしてって……本当のお前は、まだ病院で寝てて……」
「違うよ。ここにいる。今の俺も本当の俺だ」

 平坦な声。感情がどこか違う場所にあるような気がした。
 俺の言葉は届かない。まるで違う国の言語を話しているかのように。本質的に違う場所にいる気がした。
 目の前にいる人物の輪郭がぼやけて見えるような感覚。

 ──この渚は、本当に渚なのだろうか。

 途端に息がしにくくなる。この場から逃げたくて仕方がない。外に出たい。
 渚の肩を掴んで、押しのける。
 すぐにドアノブを握って、引いた。
 引いたはずなのに。
 体で押してもびくともしない。鍵はかかっていない。ドアノブはしっかり下まで降りている。ドアの前に障害物はない。
 それなのに、扉は開かない。
 視線を感じて振り返る。
 渚がすぐ後ろに立っていた。

「……お前がやってるのか」
「わからない」

 渚は答えた。表情は、穏やかだった。穏やかというより、何かを諦めている、そんな表情だった。

「わからないけど、燈がいなくなるって思うと、頭の中が真っ暗になるんだ」
「……なぁ、とりあえず、ここ開けてくれよ」
「開けたら行っちゃうでしょ」
「……渚が納得するまで行かない。一旦開くことだけ確かめたいだけ」
「嘘だ」
「嘘じゃない、渚、よく聞いてくれ。お前の体は今──」
「燈」

 遮られた。
 渚が、一歩こちらに踏み出した。呼吸音すら聞こえるほどの距離。

「何が不満なの? 燈がいる。俺がいる。それ以外に必要なものなんてないでしょ?」

 問いかけなのに、答えを求めていない声だった。
 言葉が出ない。そんな聞き方をしないでほしい。
 渚の手が伸びてくる。
 頬に触れた。
 冷たい。相変わらず血の通っていない冷たさだ。
 こんなのの、どこが渚だと言うのだろうか。やはり人間ではない、そう思わせる冷たさだ。
 それなのに、思考がぼんやりする。このままでいいか、そんな諦念。
 だめだ。心の奥でかろうじて聞こえる声が、だんだんと小さくなっていく。
 次第に、渚の手の冷たさが、心地よくなっていく。

「燈」

 名前を呼ばれた。
 今度は感情が入っている声だった。いつもの渚の声。俺を救ってくれる、受け入れてくれる、温かい声。
 足の力が抜ける。意識が遠くなる。
 崩れ落ちる体を、渚が抱き止めてくれた。
 冷たい、冷たすぎるのに、やはりここは1番落ち着く場所だった。