「……渚!」
窓の外、わずかに張り出した石の縁に渚が立っていた。雨でびしょ濡れ、だけならどれほど良かったか。
渚の唇の端は切れ、右目の周りは青紫になっている。誰がどう見ても殴られた顔だ。
慌てて、窓を開ければ、冷たい風と共に、渚が入ってくる。
「……その顔、どうしたんだよ」
頬に触れると、そこはいつもより熱を持っていた。腫れているようだ。
「誰かと喧嘩したのか?」
「まぁ、そんな感じ」
「誰にやられたんだよ。チンピラか? それとも学校のやつ?」
「どっちも違う。大したことないから平気。それより──」
「平気なわけないだろ!」
思わず叫んだ。1日で2回も怒鳴ってしまうなんて、とことんついていない。
「……とりあえず手当てするから。大人しくしてろ」
「うん」
大人しく頷いた渚に、少しだけ安心した。
手当てなんて言ったものの、消毒液なんて家にはなく。水で濡らしたタオルで汚れを拭き、かろうじてあった絆創膏を傷口に貼り付けた。
「今はこんくらいしかできないけど。明日、ちゃんと病院行けよ」
「うん」
「で、誰にやられたんだよ」
「言うほどのことじゃない。それより俺は燈に」
「言わないならお前の話聞かない」
渚の視線が少し泳ぐ。悩んでいる時の癖だ。
「……言わなきゃダメ?」
「ダメ。うそ言っても、わかるからな」
「ふっ、こわ」
「笑い事じゃねーっつーの」
「父親」
ぴたりと止まった。思考も、開いた口も。渚の言葉を咀嚼するのには時間が必要だった。
ようやく動いた口からは、「は……?」と情けない声が溢れる。
「だから、父親だよ。酒癖悪いんだ。てか、俺の家が普通じゃないことくらい、燈も察してたでしょ」
頷いていいかもわからず、とはいえ嘘をつくこともできず、視線を降ろす。
察してはいた。が、まさかここまで酷いとは思っていなかった、というのが正直なところだった。
渚の両親を見たことは、一度もない。小学校、中学校でさまざまな行事があったが、一度もだ。ただそれは、自分の家庭も同じだった。
そのせいで、なんとなく抱える問題も同じくらいだと思ってしまっていたのだ。
不幸度なんて比べるものではない、そうはわかってはいる。けれど、自分より遥かに酷い状況のように感じた。
俺は、両親に殴られたことはない。
自分の親に殴られるのは、どんな気持ちなんだろうか。もし、俺があの人に殴られたら、どんな気持ちになるだろうか。
「痛い?」
渚の頬に触れ、問いかける。けれど答えなんて聞かなくてもわかっていた。
痛いに決まっている。体はもちろん、心も。
「痛くない。今、痛くなくなった」
渚が俺の手に触れ、微笑む。
「……大丈夫。悪い人じゃないんだ」
「え?」
「母さんが病気で死んでから、親父、人が変わったみたいに酒に逃げてさ。自分一人じゃ何も抱えきれない、ただの弱い人間なんだよ」
淡々と語る渚の声には、父親への怒りも、悲しみすらもなかった。
悪い人じゃない、この言葉を人から聞くと、こんなにやるせない気持ちになるのかと思った。
心臓が痛んだ。何度こんな思いをしてきたんだろう。誰にも言わずに、たった一人で耐えてきたのだろうか。
「……だからって、お前を殴っていい理由にはなんねぇだろ」
「大丈夫。本当に。そんな大袈裟なやつじゃないから」
「でも」
「いつもはさ、こんなヘマしないんだ。酒の入ったおっさんだよ? 全然俺のが力強いっての」
「じゃあ、その怪我、なんで……」
「それは……」
「わざと殴られたのか?」
「違う違う。そんな無駄なことしないって。……考え事してたんだよ。そしたら不意打ちつかれた。それだけ」
そう言って、渚は静かに微笑んだ。
珍しく言い淀んだうえに、誤魔化すような笑顔。
なんとなくピンときた。
「俺のこと、考えてた……?」
「ちがう。燈は関係ない」
渚はわかりやすいやつなのだ。嘘をつくときはいつも、耳に髪をかける。顕になった耳も少しだけ赤くなっていて、後で手当てしてやらなきゃなと思う。
心臓が痛む。自己嫌悪で吐き気がする。
過去の経験からわかっていたのに。俺と喧嘩した時、渚がどれ程、落ち込むか。
普段は落ち着いていて、飄々としているのに、俺と喧嘩したとき、渚は焦りに焦るのだ。そして、自分が何が悪いかすら、わかっていないのにとにかく謝ってくる。
それなのに、勝手に不貞腐れて、こんなにも純粋な渚を傷つけてしまった。
俯く俺を、渚が心配そうに見つめる。
「こんな状況で会いに来てごめん。燈に心配かけるってわかってたのに。でも、どうしても謝りたくて」
「おまえが謝る必要ないだろ……。全部俺が」
「燈を傷つけたのは事実だ。どんな理由でも。だから謝りたい。それから理由を教えてほしい。もう同じことは絶対にしたくないから」
まっすぐで、切実な瞳に、思わず吸い込まれそうになる。
「……なんで、そこまで」
「俺には、燈しかいないから」
悲しさと悔しさと怒りと。それからほんの少しの喜びと。
自分でもわからない感情が折り重なっていく。
父親に殴られ、渚は雨風が吹き荒れるなか外に出た。きっと外にはひとっこ一人いなかっただろう。痛む体、孤独な空間。
そんな中で、俺のことを思い浮かべたのだとしたら。俺までいなくなるかもしれないと恐怖したのだとしたら。
そんな状況でも俺のことを考えてると思うなんて、自惚れかもしれない。もはや自惚れであってほしい。
でも、長年付き合っているからわかる。直感的にわかってしまう。これが自惚れではないことを。
渚の顔を見る。こんなにも純粋で、綺麗な顔に、傷をつけた奴が許せないと思う。
ずしりと胃が重くなって、喉の奥がつかえる感じがした。頬に熱いものがつたわる。
「燈、泣いてるの?」
渚は驚いたように瞳を小さく見開く。俺は泣いていい立場じゃない。泣いたら、渚が余計に気を使うことなんて、分かりきっているのに。それなのに、耐えられなかった。
「……ごめんな」
「なんで、燈が謝るの」
「だって、俺のくだらない嫉妬でお前を傷つけた……っ」
「俺は傷ついてないよ」
「傷ついてんだよ! ……渚はもっと痛がらないとダメだ。痛いに決まってるんだ……」
言いながらさらに涙が溢れた。みっともなく嗚咽も止まらない。
「ちょっと、燈、大丈夫? さすがに泣きすぎじゃない?」
「っるさい……お前も泣け……!」
「えぇ、急な無茶振り」
「……泣かないなら、俺が泣く……っ」
「何その理論」
渚がふっと笑顔をこぼす。
「ねぇ、それより俺のこと許してくれるの?」
「……そもそも最初から怒ってない」
「嘘ばっか」
「嘘じゃねえって……」
「まぁ許してくれるならもう聞かないけど。でも、嫌なことは言ってよ。俺のこと嫌いになる前に」
「……嫌いになんかなんない」
「わかんないじゃん。この世に絶対なんてない。好き嫌いなんて特にね。俺、燈に嫌われたら今度こそ無理だ」
渚はそれ以上は何も言わず、俺の肩に頭を乗せた。
今度こそ、という言葉が耳に残る。その意味を完全に理解することはできないが、なんとなくわかるような気がした。
孤独を感じている時に渚と出会った。それから今まで、ずっと一緒にいる。
渚がいなくなったら、俺はやっていけるのだろうか。
胸の中がざわついて、誤魔化すように渚に頭を重ねた。
沈黙のなか、夜が更けていく。しばらくすると規則正しい寝息が聞こえてきた。
渚の寝顔を見つめる。相変わらず彫刻みたいに整った顔だった。
しかし、口元にはいつもない傷がついている。それが、今夜何があったのかを物語っていた。
守りたい、とは思わなかった。そんなことを思うのは烏滸がましい気がしたから。
ただ、隣にいたいと思った。
それが俺にできる、たったひとつのことだと。

