中学2年生の冬。俺と渚は初めて喧嘩をした。きっかけは、渚が俺と同じ高校に行くと言ったからだ。
中学は良かった。小学校からエレベーター式で、大半が同じところに進むようになっていたから。俺も渚も、当たり前のように同じ学校で、同じ時間を過ごした。
しかし、高校受験は多くの人が、自分の学力や、やりたいことに合わせて進路を決める。俺も御多分に洩れず、学力や学校の雰囲気、行事の多さから志望校を決めた。渚は俺より断然頭がいいし、人との付き合いは苦手なタイプだ。
だから絶対に違う学校に行くのだろうと、そう思って、放課後の教室で尋ねたのだ。
「渚はどこにすんの?」
「何が」
「志望校だよ。そろそろ進路希望調査、提出しなきゃだろ」
「あー、そうだった。プリントどこやったかな」
「……こういうのくらいしっかりしろよ。で、どこにすんの? 言いたくなかったら良いけど」
「青高」
思わず「は?」と、声が溢れる。それは、俺の第一志望の学校だったからだ。
「なんでだよ。お前なら、もっと上いけるだろ」
「別に行きたくないし。行く必要ないし」
「いや、まぁ学力だけで決める必要はないけど。それにしても、お前の好きな雰囲気じゃないだろ、あそこは」
「でも、燈は青高受けるんでしょ? なら迷う余地ないんだけど」
「は? お前、俺がいるから青高にするってことか!?」
「え、うん。そうだけど」
「……そうだけど、じゃねーよ」
深いため息をつく俺を、渚は不思議そうに見つめる。
「……おまえ、ちゃんと考えろよ。考えることを放棄すんな」
「だって、考える必要ないし」
「ないわけねぇだろ」
「ないよ。燈がいれば──」
「俺にばっか甘えんな!」
渚が、小さく目を見開く。
想像よりも大きな声が出て、しまったと思った。渚は困惑と不安が混ざったような、複雑な表情を浮かべている。
今思えば、この時の俺には余裕がなかったのだ。平たく言えば、渚に嫉妬していた。
きっかけは部活。
中学生の時、俺はバドミントン部に所属していた。自分と同じくらい小柄な先輩が高く跳躍し、鋭いスマッシュを打つ姿に憧れ、勉強以外の時間はすべて練習に費やしていた。
そんな努力の甲斐もあって、小さな大会で何度か優勝するくらいには力をつけていた。
俺にとってバドミントンは、数少ない「自分の武器」だったのだ。
だが、2年生に上がった春、後輩が誰も入部せず、団体戦に出られない危機に陥った。
焦った俺は、帰宅部だった渚に頭を下げた。
『頼む、渚! コートに立ってくれるだけでいいから!』
『えぇ……めんどくさい。汗かくの嫌いだし』
『いい汗は気持ちいいって教えてやるから!』
『うわ、体育会系の人の言葉』
『俺が基礎から全部教えるから! な? 俺と一緒にやって楽しくなかったことなんてないだろ?』
『……まぁ、燈がそこまで言うなら。あんまり期待はしないでよ』
そう言って、渚はしぶしぶ入部してくれたのだ。
とはいえ、渚はバドミントンなんてやったことがなかった。最低限のラリーさえできるようになれば良い。そんな風に思いながら、基礎的なことから教えていった。
が、渚はめきめきと上達していった。
『燈、これ、どう打つの?』
『あ、それは手首をこう返して……』
教えたことを、渚はスポンジのように吸収していった。
元の運動神経が異なるうえに、高い身長に長い手足。上から叩きつけるようなスマッシュは強烈だった。
そして、渚はすぐに俺を追い越した。
『おっ、今のいい感じじゃない? 燈の教え方が上手いからかも』
ネット越しに、渚が無邪気に笑う。
『……ああ、すごいじゃん。渚、才能あるよ』
口ではそう褒めながら、ラケットのグリップを握る手に、じわりと嫌な汗をかいているのを感じていた。
嬉しかった気持ちだってある。それは間違いない。
だけど、同時に、心の奥底でどす黒い感情が渦巻いていた。
(俺の方がずっと練習してきたのに。……バドミントンまで負けるのかよ)
渚は何も悪くない。俺のために嫌な部活に入ってくれて、ただ真面目に練習しただけだ。それなのに、俺は勝手に誘っておいて、勝手に惨めになって、勝手に渚を妬んでいる。
人間で一番醜い感情は、嫉妬だと思う。
どうして素直に喜べないのか。心から褒めてやれないのか。最悪な感情を抱く自分に、自分が一番吐き気を催していた。
せめてこの醜い感情だけは絶対に悟られないようにと、必死に蓋をしていたのに。
それでも、完全に制御することはできなかった。行き場を失ったドロドロとした自己嫌悪と嫉妬の混合物。
それが、この時の俺の「怒り」の正体だった。
「燈、なんで怒ってるの?」
「……別に、怒ってない」
「うそ、怒ってんじゃん」
「……悪い、今日は先帰るわ」
椅子から立ち上がったところで、渚に手首を掴まれた。
「待って、こんな感じで別れたくないんだけど」
「……明日からは普通にするから。今日はダメな日なんだ。悪いけど、今は一緒にいたくない」
「普通にしてほしいわけじゃない。ダメな日って何。言ってよ」
「言ったってなんも意味ないし……聞いてほしいわけじゃない」
「言ってってば。燈の嫌なこと、知っておきたい」
「……知る必要ねぇよ」
「燈!」
渚の声を置き去りに、俺は走って教室を出た。どうしてこんなにも自分は弱いのだろうかと、そんなジメジメした感情が、心を埋め尽くしていく。
家に帰っても、気持ちは晴れなくて、ベッドに転がって天井を見つめた。渚の顔が浮かんでは消えていった。自己嫌悪と罪悪感が、交互に心を殴ってくる。
(明日、ちゃんと謝ろう)
結局、悩みに悩んで、出た結論はそれだけだった。
決意が揺らがないうちに、目を閉じよう。
そう思った、その時。
──コンコン。
窓を叩く音がした。最初は聞き間違いだと思った。だって、ここは2階なのだ。
一度、家の鍵を忘れ、近くの木をつたって窓から入ったことはあるが、普通はこんなところに人がいるわけがない。
──コンコン。
2回目の音が聞こえる。きっと風の音が何かだろうと思った。が、このまま確かめないのもなんだか気持ちが悪い気がして、体を起こした。重い体を持ち上げ、音の方へ向かう。
カーテンを開け、思わずギョッとした。
中学は良かった。小学校からエレベーター式で、大半が同じところに進むようになっていたから。俺も渚も、当たり前のように同じ学校で、同じ時間を過ごした。
しかし、高校受験は多くの人が、自分の学力や、やりたいことに合わせて進路を決める。俺も御多分に洩れず、学力や学校の雰囲気、行事の多さから志望校を決めた。渚は俺より断然頭がいいし、人との付き合いは苦手なタイプだ。
だから絶対に違う学校に行くのだろうと、そう思って、放課後の教室で尋ねたのだ。
「渚はどこにすんの?」
「何が」
「志望校だよ。そろそろ進路希望調査、提出しなきゃだろ」
「あー、そうだった。プリントどこやったかな」
「……こういうのくらいしっかりしろよ。で、どこにすんの? 言いたくなかったら良いけど」
「青高」
思わず「は?」と、声が溢れる。それは、俺の第一志望の学校だったからだ。
「なんでだよ。お前なら、もっと上いけるだろ」
「別に行きたくないし。行く必要ないし」
「いや、まぁ学力だけで決める必要はないけど。それにしても、お前の好きな雰囲気じゃないだろ、あそこは」
「でも、燈は青高受けるんでしょ? なら迷う余地ないんだけど」
「は? お前、俺がいるから青高にするってことか!?」
「え、うん。そうだけど」
「……そうだけど、じゃねーよ」
深いため息をつく俺を、渚は不思議そうに見つめる。
「……おまえ、ちゃんと考えろよ。考えることを放棄すんな」
「だって、考える必要ないし」
「ないわけねぇだろ」
「ないよ。燈がいれば──」
「俺にばっか甘えんな!」
渚が、小さく目を見開く。
想像よりも大きな声が出て、しまったと思った。渚は困惑と不安が混ざったような、複雑な表情を浮かべている。
今思えば、この時の俺には余裕がなかったのだ。平たく言えば、渚に嫉妬していた。
きっかけは部活。
中学生の時、俺はバドミントン部に所属していた。自分と同じくらい小柄な先輩が高く跳躍し、鋭いスマッシュを打つ姿に憧れ、勉強以外の時間はすべて練習に費やしていた。
そんな努力の甲斐もあって、小さな大会で何度か優勝するくらいには力をつけていた。
俺にとってバドミントンは、数少ない「自分の武器」だったのだ。
だが、2年生に上がった春、後輩が誰も入部せず、団体戦に出られない危機に陥った。
焦った俺は、帰宅部だった渚に頭を下げた。
『頼む、渚! コートに立ってくれるだけでいいから!』
『えぇ……めんどくさい。汗かくの嫌いだし』
『いい汗は気持ちいいって教えてやるから!』
『うわ、体育会系の人の言葉』
『俺が基礎から全部教えるから! な? 俺と一緒にやって楽しくなかったことなんてないだろ?』
『……まぁ、燈がそこまで言うなら。あんまり期待はしないでよ』
そう言って、渚はしぶしぶ入部してくれたのだ。
とはいえ、渚はバドミントンなんてやったことがなかった。最低限のラリーさえできるようになれば良い。そんな風に思いながら、基礎的なことから教えていった。
が、渚はめきめきと上達していった。
『燈、これ、どう打つの?』
『あ、それは手首をこう返して……』
教えたことを、渚はスポンジのように吸収していった。
元の運動神経が異なるうえに、高い身長に長い手足。上から叩きつけるようなスマッシュは強烈だった。
そして、渚はすぐに俺を追い越した。
『おっ、今のいい感じじゃない? 燈の教え方が上手いからかも』
ネット越しに、渚が無邪気に笑う。
『……ああ、すごいじゃん。渚、才能あるよ』
口ではそう褒めながら、ラケットのグリップを握る手に、じわりと嫌な汗をかいているのを感じていた。
嬉しかった気持ちだってある。それは間違いない。
だけど、同時に、心の奥底でどす黒い感情が渦巻いていた。
(俺の方がずっと練習してきたのに。……バドミントンまで負けるのかよ)
渚は何も悪くない。俺のために嫌な部活に入ってくれて、ただ真面目に練習しただけだ。それなのに、俺は勝手に誘っておいて、勝手に惨めになって、勝手に渚を妬んでいる。
人間で一番醜い感情は、嫉妬だと思う。
どうして素直に喜べないのか。心から褒めてやれないのか。最悪な感情を抱く自分に、自分が一番吐き気を催していた。
せめてこの醜い感情だけは絶対に悟られないようにと、必死に蓋をしていたのに。
それでも、完全に制御することはできなかった。行き場を失ったドロドロとした自己嫌悪と嫉妬の混合物。
それが、この時の俺の「怒り」の正体だった。
「燈、なんで怒ってるの?」
「……別に、怒ってない」
「うそ、怒ってんじゃん」
「……悪い、今日は先帰るわ」
椅子から立ち上がったところで、渚に手首を掴まれた。
「待って、こんな感じで別れたくないんだけど」
「……明日からは普通にするから。今日はダメな日なんだ。悪いけど、今は一緒にいたくない」
「普通にしてほしいわけじゃない。ダメな日って何。言ってよ」
「言ったってなんも意味ないし……聞いてほしいわけじゃない」
「言ってってば。燈の嫌なこと、知っておきたい」
「……知る必要ねぇよ」
「燈!」
渚の声を置き去りに、俺は走って教室を出た。どうしてこんなにも自分は弱いのだろうかと、そんなジメジメした感情が、心を埋め尽くしていく。
家に帰っても、気持ちは晴れなくて、ベッドに転がって天井を見つめた。渚の顔が浮かんでは消えていった。自己嫌悪と罪悪感が、交互に心を殴ってくる。
(明日、ちゃんと謝ろう)
結局、悩みに悩んで、出た結論はそれだけだった。
決意が揺らがないうちに、目を閉じよう。
そう思った、その時。
──コンコン。
窓を叩く音がした。最初は聞き間違いだと思った。だって、ここは2階なのだ。
一度、家の鍵を忘れ、近くの木をつたって窓から入ったことはあるが、普通はこんなところに人がいるわけがない。
──コンコン。
2回目の音が聞こえる。きっと風の音が何かだろうと思った。が、このまま確かめないのもなんだか気持ちが悪い気がして、体を起こした。重い体を持ち上げ、音の方へ向かう。
カーテンを開け、思わずギョッとした。

