愛しい君は、生き霊になっても俺を離さない。

 ふと、意識が浮上する。カーテンの隙間から、温かい光が差し込んでいるのを感じ、瞼を開いた。
 いつもと変わらない天井になんだか安堵し、大きなあくびを一つしてから、寝転んだままグッーっと両腕を天井に伸ばす。
 良い朝だなと、そんな呑気なことを考える。
 が、隣を見て、だんだんと脳が動き出す。
 隣には、規則正しく寝息を立てる渚がいる。
 事故のこと。病院でのこと。ここにいるはずのない渚のこと。
 山積みの問題が、再び全身にのしかかる。それを無理やり押しのけるようにして、体を起こした。時計を見る。時刻は11時35分。

「……やば」

 完全に寝過ぎた。アラームをかけずに寝たのは久しぶりだ。ベッドから降り、机の上のノートに手を伸ばす。開きっぱなしのページには、途中で止まったままの課題。提出期限は確か明日だったはずだ。こんな時でも、やけに冷静にペンを持った。いや、こんな時だからこそかもしれない。
 昔から勉強は嫌いじゃない。やればやるほど結果がついてきて、集中している間は余計なことを考えずに済むからだ。
 そんな感じなのに、意外と成績いいんだね、そう言われたことは数知れず。そんな感じってなんだよ。

「何してるの」 

 ペンを走らせていると、背後から声が飛んできた。聞き慣れた、寝起きの掠れた声。
 振り返れば、布団の中からこちらを見ている渚と目が合う。寝癖ひとつない髪に、相変わらず整いすぎた顔。傷も、包帯もついていない。いつもとなんら変わらない。

「何って、課題だけど」
「課題? なんで?」
「……なんでって明日提出だから」
「明日?」
「……なんだよ。明日提出するには今日やらなきゃだろ。どうしたんだよ、寝ぼけてんのか」
「燈こそどうしたの?」
「は?」

 何かがおかしい。話が噛み合っていないようだ。渚が想定外のことを言うのはしょっちゅうだが、考えていること自体わからないのは珍しかった。
 渚がゆっくりと体を起こす。
 そして、ぴたりと背後に寄ってきた。

「学校、行く気?」

 低く抑揚のない声。
 思わず、ごくりと唾を飲み込んだ。
 なんら変わらない、いつも通りの日常。
 そんな文字が少しだけ歪んだ気がした。

「あ、当たり前だろ。俺が皆勤賞狙ってるの知っ」
「約束破るの?」
「……は?」
 
 わからない。渚の感情が、思考が。

「一緒にいるって言ったよね」
 
 歪む。空間が、渚の顔が。
 そんなはずないのに、錯覚だと、そう分かっているのに。一気に世界が歪んで、空気が薄くなったように感じた。
 沈黙が落ちる。その沈黙を埋めるように、渚の手がゆっくりと頬に伸びてきた。

「燈はさ」

 冷たい。血が通っていないのだとわかる冷たさだ。

「ここにいればいいんだよ」

 渚がどこか冷ややかに微笑む。
 体がピシリと固まった。金縛りにあった時のような不思議な感覚。強く意識しないと、呼吸が止まってしまいそうな感覚。 

「燈」
「……っ!」

 ばちりと視線が交わり、思わず手を思いっきり振り払った。
 なんだか息がしにくくて、意識的に呼吸を繰り返す。吸って、吐いて、吸って、吐いて。作業的に繰り返していると、背中を優しく撫でられた。
 背後からは「燈……」と、なんだか泣きそうな子供のような声が聞こえる。
 振り返れば、眉を下げ、眉間に皺を寄せた渚がいる。

「大丈夫? 具合悪いの?」

 そう言う渚は、声も表情も、いつもの様子だ。
 空気がようやく体内に入ってきて、息がしやすくなる。

「……いや、平気」
「そう? ならよかった」
「……さっきの何」
「さっきのって?」
「……その約束破るなとか、ここにいろだとか」
「だって、燈いないと暇だし」

 先ほどの雰囲気が嘘だったかのように、渚は軽く言いのけた。
 思わず、がっくりと肩が落ちる。

「なんだよそれ……。びびらせんなよな」
「びびらせる? 俺が?」
「……いや、なんでもない」

 きっと俺の勘違いだ。
 なんだかんだ、まだ混乱しているんだと思う。
 切り替えるように、いつものトーンで続けた。

「でもまぁ、学校は行かないと」
「え、やだ」
「やだって、おまえな。何、寂しいの?」
「うん、寂しい。行かないで」
「……即答かよ」

 この甘ったれな感じは久しぶりで、思わず呆れた笑いが溢れる。
 昔はよくあった。他の子と遊ぼうとすると、渚は迷子の子犬のような瞳でこちらを見つめてきたのだ。
 今は流石に子犬ほどは可愛くはないが。なんだろう。顔面の圧が強い。
 どうしたものかとため息をつくと、渚が不思議そうに尋ねてくる。

「行きたいの?」
「……」
 
 行きたいか、と聞かれると、答えに詰まる。
 ただ、行かなきゃいけない、とは思う。真面目なこと、それくらいしか自分には取り柄がないのだから。

「……行かなきゃダメだろ。意外と真面目キャラでやってんだよ、俺は」
「行きたいかどうかって聞いてるんだけど」
「だから」
「燈が行きたいか、だよ。ちなみに俺は行かないでほしい。1人になると……さすがに不安なんだ。考えなくていいことまで考えちゃう」
「渚……」

 こんな風に弱音を吐く渚は珍しい。甘ったれで正直なやつだが、自分の痛さには鈍感なのだ。そんな渚が、不安がるなんて……。
 ずしりと心が重くなる。

「ねぇ、燈。行きたいの? 俺がいない学校、行きたい?」
「……別に行きたいわけではないけど」
「でしょ?」

 渚は満足そうに頷いた。

「じゃあ、いいじゃん。ここにいようよ」

 その言い方は、あまりにも自然で、あまりにも正しいように聞こえた。思考が、少しずつ鈍っていく。
 なんだか、昨日からぼんやりすることが多い。まぁ、これだけ非現実的なことが起きているのだから、当然といえば当然なのかもしれない。
 そもそもこれが、現実なのかもわからないのだ。そう思うと、途端に感情が投げやりになっていく。

(……まぁ、夢なら──
このままでいいか)

「燈?」
「いいよ、行かない」
「ほんと?」
「うん。たまには部屋でだらだらするのも悪くないしな」
「ありがとう。燈」

 渚はわかりやすいくらい嬉しそうな笑顔を浮かべる。単純なやつだなと、思わず笑ってしまう。目の前のノートをパタリと閉じて、引き出しにしまう。視界に入らないように。
 少しだけ罪悪感にも似た感情が湧いた。しかし、同時にどこか安心もしていた。
 学校に行ったら、現実に戻ってしまう気がしたから。渚がいないことを、実感してしまう気がしたから。この都合のいい夢が終わってしまうような気がしたから。

「燈、あのパズルしようよ。佐藤(さとう)がくれた全部黒のやつ」
「あーよほど暇な時しかやんないなって言ってたやつか」
「そう」
「いいな。やるか。時間はたくさんあるしな」

 時間はたくさんある。
 そんなわけがないと、心の奥底では、なんとなくわかっていた。わかっていたのに。
 それなのに俺は、違和感を、鍵のついた引き出しにしまったのだ。