海獣だって走りたい

 寝覚めは、そう悪いものでもなかった。目の前に広がる世界は、未だ薄らぼんやりと不明瞭だが、真っ白なものに囲まれていることが分かる。


「秀輝……!」


 首だけ動かす彼を見て、声の主――秀輝の母は胸をなでおろした。少しも落ち着ける暇がなかったのだろう。前髪が乱れたまま、口紅も薄まっている。
 秀輝が起き上がろうと腕に力を入れたとき、チクりと右腕に痛みを感じた。布団に隠されて気付かなかったが、点滴を打たれていたのだ。


「疲労ですって、もう……秀輝、無理しすぎ」
「ごめん」


 背中を支えられて、起き上がった。
 まだ、指先にうまく力が入らないが、やわく拳を作ることは出来る。倒れた瞬間の壮絶な息苦しさと吐き気は消え去っていた。


「謝るのは、まずお友達にしなさい」
「! 歩、いるのか」


 閉じられたカーテンの下から、控えめにスニーカーがこちらを覗いていた。中を伺うように、ひょこりと現れた白い腕は、思っていた数倍もの勢いでカーテンを開け放つ。
 しかし、当の本人である歩の顔は俯いていて、一体なにを考えているのか分からない。足早にベッドまで迫ってくる姿に、ただ事ならぬ威圧感がある。行き過ぎたことをしていた自覚のある秀輝は、頭の一つや二つでも叩かれるべきだ、と自ら顎を引いた。
 ピタ、と視界の隅でさきほど見たスニーカーが止まる。いつも裸足な彼のことばかり見ていたから、靴を履かされたつま先に、呑気に感心しそうになった。


「――本当に、殺されたら……ダメじゃないですか」
「……ぇ」


 囁くような声音が気になって見上げる。彼の肩は震えていて、それでも、頑なにこちらを向いてくれなかった。


「歩くんとあの人がいなければ、秀輝は大事になってたのよ。お母さん、とりあえず看護師さん呼んでくるから、その間にちゃんとお礼しときなさいね」
「あ……うん、ありがとう」


 てっきり、歩が学校の関係者なり、救急車なりを呼んでくれたのかと思い込んでいたが、もう一人助力してくれていたらしい。それが誰なのかを聞き出す前に母は、ある男と出入り口ですれ違って、出ていった。




「おはよう。調子はどうかな」
「っ!!?  え!?」
「良さそうだね」


 マスクとキャップを目深に被っていたから、パッと見では気付けなかった。ただ、スタイルの良いモデルのような輪郭――まさか、それが夜宮水月だなんて。
 秀輝は、とびきり目を丸くして、大きな声を上げた。その反応も当たり前。彼にとって水月は、届きもしない水の世界の住人であり、テレビ越しに眺めていた存在なのだから。


「はじめまして、夜宮水月と言います。私、比企田歩選手のコーチを務めおります」
「あぁ……あ……そういう……。僕、鳶巣秀輝って言います」
「よろしくね、秀輝くん。いつも、うちの歩が世話になってるよ」
「いや、……いえ、むしろお世話されてるのは、僕です」


 最初こそ、尊敬する芸能人の登場に取り乱していた。それでも、色眼鏡で見ない秀輝の、落ち着き払って挨拶を返す様子は、水月の興味をひくのに十分だった。


「あの……ありがとうございます」
「いやいや、救急だったからね。そこまで深くお礼されるほど、俺は大したことやってないよ」
「いえ……その、今回助けてもらったこともありますが、僕個人として、貴方がた二人のおかげで救われたところがあるんです」


「なるほど」腑に落ちた水月は目を細めた。
 あの歩が、なぜ彼に固執したのか。彼のなにが、歩をつき動かしたのか。
 それは、今、水月と歩に深々と頭を下げる秀輝の真心にこそ、はっきりと表れていた。


――秀輝は、最初から歩と水月を、決して重ねてはいなかった。


「歩くんとの水泳を通して僕は、沢山のものを手に入れられました。そんな歩くんのコーチである夜宮さんには、もっと前から、感謝してもしきれないほどの恩があります」
「すごく嬉しいけど、大袈裟だね」
「大袈裟なんかじゃありません」


 力強く頭を振る秀輝の意思は堅く、その目に確かな真実として、二人の姿を捉えて離さない。
 水月は、珍しくぎこちない笑みで、彼の言葉を飲み込んだ。


「夜宮さんがいなければ、歩くんはきっと、僕と出会わなかったから」
「……そうかな」
「そうだと、僕は信じています」


 秀輝の言葉で思い出す――歩の記録が突如、伸び悩み始めた頃のこと。孤独な深海を漂う彼を見かねたのは、水月本人であったはずなのに。彼は、「あぁ、どうして」と胸中で、己に舌打ちをした。


「ありがとう。歩のこと見つけてくれて」
「……夜宮さん」
「これからも、友達でいてあげてよ」


 衝動のまま、秀輝の脱力しきった手を取った。まだ、しっかりと拳を作りきれない彼の指先を丸めて、念を閉じ込めるように唱える。


――無理じゃ、なかったみたいだ。


 じっとされて気恥ずかしくなった秀輝は、次第に瞬きの数が増えていった。手を握ったまま項垂れる水月の背後から、たまりかねた歩が声をかける。
 なにやら、スッキリした面持ちで姿勢を戻した水月は、スイッチが入ったと錯覚するほどに絢爛な芸能人フェイスに戻っていた。その計り知れなさは、まさに嵐の如く。彼は、後腐れもなく、さっさと病室から出て行ってしまった。
 名残り惜しく、秀輝は水月の背中を見つめて、別れの手を振り返した。


「なぁ、歩」


 二人ぼっち病室に残されて、先に静寂を打ち破ったのは秀輝。つい数秒前まで水月のいたところへ、歩は踏み出した。


「俺、目標が果たせたよ。無理させてごめん、そんで、ありがとう」
「目標……」


 それは、歩と心から通じ合うという、ちっぽけな目標のこと。
 中学の頃、陸上を捨て、水泳でも見放されて、溺れて、脚も怪我をした。
 彼は、あの時、泳ぎきれなかった五十メートルという恐怖の通過点を逃げず、乗り越えたのだ。それは、紛れもなく彼が成し遂げたことでもあるが、一番は――。


「歩がいたから。歩が隣で走ってくれたから、俺はやりきれたんだ」


 侵略者である歩のことを理解するには、同じ土俵に自分から這い上がるしかない。だから、秀輝は「彼を知りたい」その一心で己を変える努力が出来た。
 勝負の結果はどうであれ、秀輝は、あの瞬間に確かに歩の心を掴んだと確信している。それは、逆も然り。秀輝は、身ごと歩にぶつける気で勝負を仕掛けたのだ。当然、歩が秀輝という存在を掴んだことに間違いはない。
 それでもなお、今の歩にとって秀輝の目を直視するには、まだ早すぎたらしい。逸らされる視線を追いかけるように問いかけた。


「まだ、怖い?」
「なにが……あぁ、いえ。……先輩は、もう大丈夫ですよ」
「いや、俺のことじゃなくって」


 降ろされていた無防備な腕を掴んで、ゆるりと引き寄せた。こうでもしないと、彼は秀輝を見てくれない。


「……もう無理して、一人で死ななくてもいいだろ」


 歩は、離してくれない眼前の慈悲に、言葉を失った。
――それは、友達という存在を作ったことによる枷。同時に思い出す、鮮烈な記憶。


『片足をつったんだ。プールの中央で――』


『あいつには、陸上の夢を――』




――いたい、いたいよ。


『あぁぁぁ、いたいぃ』






『――水の中で、息できないくらいなら、やめなよ』






 歩は、強い力で彼の腕を振り払っていた。点滴針に少しだけ振動が伝わって、狼狽える秀輝は弱々しく首をひねる。
 目の前に立ちはだかる冷たい生き物は、どれだけ手を取って温めても、すぐに水の中へ戻ってしまうようだった。


「それをいう先輩が、勝手に死ぬようなことをしないでくださいよ」


 感情の見えない言葉は、無惨に吐き出される。
 黙り込んでしまった秀輝に、業を煮やした歩は、なにも言わずに出ていってしまった。