海獣だって走りたい

 窓に張り付いた雨のしずくが流れ落ちる。
 歩は、後部座席から、未だ晴れぬ外を見つめ黄昏れていた。車中に響き渡るほどのナニモノの音も通さない雨の騒々しさは、彼がずっと求めていたはずのもの。


「最近、また記録が伸び悩んでるね。本当に選手やめるの?」


 信号に止められた車中は、より雨の音を籠もらせる。運転席に座った男は、ハンドルを握ったまま独りごちた。
 彼の気遣いに、よくも〝人魚の連れ子〟なんて皮肉を、と歩は鼻で笑う。


「ごめんな」


 漸く振り返った男は、セットされた前髪が湿気のせいで崩れかけている。
 歩のコーチである彼――夜宮水月は、ツリ目気味な瞳を震わせ、愛弟子を憂いた。






『水泳界に君臨した人魚』


 それは、かつて世間を席巻したとする、ある水泳選手に付けられた異名である。
 夜宮水月――高校三年目にして、夏大会に突如現れた超新星。
 その無名選手は、歴代のトップ記録に殿堂入りするほどの泳ぎを見せたことで、世間から注目され始めた。
 中性的で愛くるしいルックスと、水泳選手でありながら、偏りのない均等に鍛えられた肉体美。身長は百八十もないが、脚の長さと小顔で、実にバランスの良い黄金比のような骨格。天は二物を与えずというが、彼は遥かに逸脱していた。紛うことなき、不老不死という伝説を持つ〝人魚〟に準える存在だったのだ。
 高校卒業後も彼の活躍は、誰にも止められなかった。水月の出る競技において、彼以外の選手が金メダルを取ることなど不可能に近しかったのだ。国内で水泳ブームが形成されたのも、その頃である。
 しかし、二十前半代にして競泳界最多の金メダル獲得数にあと一歩届くというところで、彼は電撃引退を発表した。
 そして、その数年後。水月は、ある子供のコーチを務め始めることになる。彼に見出された――歩は、当時中学生にして並々ならぬ実力を見せていた。最も、水月の残していたジュニア時代の記録を塗り替えた際こそ、大胆にメディアに露出したといっても過言ではない。
 もちろん、歩の持つジト目で年相応の甘いマスクは、水月をなくした水泳界にとっても、アイドルのような存在だった。こうして、彼は、担ぎ上げられるのだ。
――『人魚の連れ子』として。






 たかが、連れ子。
「人魚」になれない「人間の子供」
「人魚」を輝かせるための、アクセサリーに過ぎない。
 歩は、その言葉が嫌いだった。第二の水月として見られることは、更に嫌だった。


「信号、青ですよ」
「はーい」


 相変わらず、ご機嫌斜めな歩の様子に水月は、にこやかに返していた。
 だって、笑うことしかできないのだ。アイドルという偶像として社会に育てられ、夜宮水月を演じ続けるという人生を選んでしまったのだから。
 それは、引退後もテレビなどのメディアを通して輝きを、若さを、現役に劣らない強さを見せ続けている彼にとって、造作もないこと。


「俺には、無理だったのかな」


 水月は、歩に聞こえないくらいに声を絞ってうわ言のように呟く。目的地は、もうすぐそこまで来ていた。


「雨、弱くなってきてるけど、まだ降ってるから気をつけて」
「ありがとうございます」


 歩は、急ぎ傘を差して、校舎へ駆け出していったのだった。






 「……なに、やって」


 ただの偶然だった。夏休みも終わり間近であるため、アリエルのビニールプールが顧問にバレる前に回収しなければならなかったのだ。だから、雨の日にわざわざ潜んでまで取りに来たというのに。


「なにやってんですか!」


 それは、雨が落ちる音でも、水たまりを思わず踏んでしまった音でもない。
 風は強くなくても、水かさが増えて、明らかに波が大きく揺らいでいるのが分かる。
 こちらへと水飛沫を上げて戻ってくる彼に、忽ち怒声を上げたのは、歩だ。
 ならば、今、彼の前で泳いでいるのは――。


「よっ、久しぶり」


 へりに捕まって顔を出した彼は、息を一つも上げておらず、調子の良い挨拶をしてみせる。動揺する歩を前に呑気に身を漂わせて、気持ち良さそうに見上げてくるのだ。


「なにそこで突っ立ってんだよ、歩」
「……先輩」
「大丈夫。俺は大丈夫だから」


 頭を振って言葉を遮る。いつの間にか、ゴーグルと水泳帽を取り去って、秀輝は誠意と覚悟を書いた眼差しで、歩と向き合っていた。
 そして、立ち竦む彼へと両手を伸ばすのだ。


「一緒に泳ごう」


 あの日、伸ばされた腕は、水の中にいた。
――今度は、目を細めずに、彼の昼の星空のような双眸を見られているだろうか。


 その満点の太陽は、歩の中で張り詰めていたものを一瞬で溶かしていく。ゆるりと力が抜けて、傘を持っていた腕を落とした。
 気付けば、雨は止んでいた。






 二人は、スタート地点に足をつけると、掛け時計を凝視した。雨の後だから、プールは普段よりぬるく感じる。むしろ、二人の熱気が水温を凌駕しているのかもしれない。
 カチ、カチと時計の針は進む。一分一秒と、時がじっくり刻まれていく。
 長針が一回転する――あと少しで12を指し示す。逸る気持ちに急かされて、臨戦態勢に入った。


 三、二、一。


――ビーッ。


 スタート台に置かれた防水カバー越しにスマホから、開始のブザーが鳴り響く。
 水に潜ったのは、どちらが先かなんて判別できないほど。二人は、息ぴったりに壁を勢いよく蹴った。伸びる、伸びる、まだ伸びる。両腕を思いっきり伸ばして、頭をうずめる。水が身体にぶつかる面積を出来る限り減らして、抵抗なく、軽快なスピード感のあるスタートだ。
 二人の泳ぎは、瓜二つだった。クロールの手さばきも、息継ぎのタイミングも、掻き立てる飛沫も、鏡のよう。
 折り返し地点にいち早くついたのは秀輝。歩よりも、直前まで練習に励んでいたから、力が有り余っているのだろう。しかし、現役選手というのは伊達じゃない。歩もすぐさまターンに入る。壁を蹴るために折りたたまれる身体。そして、彼方まで飛ぶ勢いで伸びる長い脚は、秘密を隠し持ったペンギンそのもの。ぐんぐん、追い詰めていく。
 一度のターンで形勢を逆転させる歩の気迫を、秀輝は足先からひしひしと感じ取っていた。すぐ、足元にいる。容赦なく食らいついてくる。
 最終局面に入るのも、ほぼ同時だった。ゴールを示すラインを視認して、一挙に己を追い込んでいく。ここからは、完全に自分との戦いだ。
 遂に、二人が並ぶ。ゴールはもう目前。


 追い込め。もがけ、もがけ、もがき続けろ。


 壁を叩くと共に、顔を持ち上げる。ただの一回勝負に肩を使って息をするほど、高まっていたようだ。いつまで経っても整わない呼吸に、二人は顔を見合わせて、誰からともなく吹き出した。
 タイマーを止める者はいない。彼らも止める気はない。この五十メートルに記録なんて、数字なんていらないのだ。
 たとえ、勝負の結果が歩の勝ちだったとしても、秀輝にとっては痛くも痒くもない。なにせ、歩と心から通じ合うことが一番の目標だったのだから。


「はぁ~! おっしいなぁ~~! マジの本気でやりにいったのに」
「ははっ、えぇ。中々にしぶとかったです」
「おっ?! だろ」


 秀輝は、コースロープの上から隣のレーンにいる歩に飛びかかった。両肩を揺すってくる元気な彼に、歩は気前よく鼻を鳴らしている。
 すると、雲に隠されていた西日が、プールを朱色に染め始めた。


「なぁ、俺、すっげぇ生きた心地したよ」
「? そうですか」
「そうだよ」


 秀輝は、とても眩しそうに夕焼けを眺めていた。その哀愁漂う横顔に、「彼にも、眩しくて直視できないものはあるのだな」と呆けて言葉を失ってしまう。


「だってさ、まじになって勝負するのって楽しいから」
「俺と、ですか?」
「当たり前だろ」


 夕焼けを除ける手をどけて、二人の視線が混ざりあった。昼は青を映して、夕方は赤を映す。そんな、表情豊かな秀輝の瞳は、自由そのものだ。八月を通して日焼けをした健康的な肌は、決して、初めて出会った時の青白さなど残していなかった。


「友達だから、楽しいんだよ」


 歩は、また言葉を探していた。こういった状況での適切な回答を持ち得ないから。
 だから、秀輝は、彼の背中を叩くのだ。返事はいらないのだ、と。


「っしゃ。帰ろうぜ、……もう、おそ、ぃ――」
「っ?! 先輩!!」


 へりに乗り上げた秀輝は、突如両腕から脱力し、身体を打ち付けた。異常を察知した歩は、彼の倒れ込んだほうへ回り込んだ。
 か細い呻き声に、さきほどとは違う身体の震え。夕焼けに染められて気付けなかったが、頬は紅潮しており、それだけで事態の深刻さが分かる。


 歩は、激しくなる動悸を無理やり押さえつけるべく己の胸を叩いた。


(どうして、こんなにも動揺している)


――辛いのは、自分じゃないのに。




「先輩……」