週も明け、いよいよ八月下旬と夏休みの終わりが見えてきていた。あいも変わらず、猛暑と夕立が連日続いているせいで、土と草と、あらゆる生き物たちの活動が如実に盛んになっている。
「今週も夕方は、雨続きらしいよ」
「……忘れました、傘」
「土日挟むと抜けるよね。分かる。……俺は持ってきてるけど」
その日の練習は、薄暗くなり始めた空模様を見て、既に切り上げていた。着替えが済んだ二人は、気怠げに更衣室で暇を持て余しているところである。
ベンチに仰向けになって、間抜けに腹を出し、ハンディファンを片手に涼んでいる秀輝。相対するのは、練習中から上の空で、遠いところを見つめ続けている歩。
秀輝は、さきほど現れた好機を逃すはずもなく、なんとはなしにハンディファンのスイッチを切った。
「なぁ、……歩」
「……」
「歩?」
うんともすんとも言わない斜め後ろにいる背中。一体、なにを考え込んでいるのやら、秀輝はのそりと身を起こした。
「おい、歩。……大丈夫? 調子悪い?」
「あぁ、いや、……」
「無理しちゃダメだろ、さっさと帰ろうぜ。ほら、明日も……」
「……っいや、大丈夫です」
歩の向いてるほうへ回り込んで、見えていなかった顔を覗き込む。
「大丈夫って、なにが」と、ほんの少しだけ語気を強くしてしまった秀輝の腕を、歩は振り払ってしまった。
「大丈夫ですから! ……明日も、明後日も、明々後日も、今後一切練習はやめるので」
「……は? ぉ、おい、なに言ってんの。おまえ、……」
「もう、先輩との練習には付き合えないって言いたいんです」
怒りよりも、悲しみのほうが勝っていた。見慣れたはずのジト目には、微塵も軽蔑や拒絶など浮かべていなかったのだ。だから、感情の吐き方が分からなくて、秀輝はなにも返せぬまま茫然自失だった。
「結局、あの日からフリースローの改善がされてないんでしょう?」
「……っ!! 知ってたのか」
「すみません……咎めるつもりはないです」
歩は、あの日、用具倉庫でのひとときを思い出していた。
――まだ、あいつには、陸上の夢を持たせてやりたいんだ。
その言葉は、彼だからこそ言える、彼にしか言えない秘めた信念だった。ものの一言で頭をガツンと殴られる、ノックアウト寸前なほど驚異的な強さとでも言おう。
歩の背後に立ちはだかった影――海虎は、重要な話をするために、彼のもとまで赴いていた。彼の顔には、喜怒哀楽をぐちゃぐちゃに混ぜたような複雑さが貼り付けてあり、それでもなんとか自我を、理性を保とうと声を振り絞るのだ。
「俺が、ちゃんと止めるべきだった」
「……どういう意味です」
「……秀輝だよ。知らないだろうけどさ、アイツ……酷く怖がるようになったんだよ」
「っ?! ……それは」
「なにしてくれてんだよ……」
それは、海虎が自分自身に対する叱責であり、決して歩を責めたものではなかった。
ただただ、親友の進む道を手放しに見守るフリをしていたこと。秀輝が変わろうとした勇気そのものが、悪い方向へ進み始めているのを止められなかったこと。それら全てにおいて、自分を憂いているのだ。
海虎は、西日を遮ったまま、目の前にへたり込んでいる歩を見下ろした。
「アイツのフリースローが、日に日に悪くなってる……どうしてだと思う? フラフラしてんだよ。足を怪我するんじゃないかって。床に落ちる衝撃で、どうにかなるんじゃないかって」
自身のことでもないのに、悔しさを滲ませ一層眉根にシワを寄せている。海虎は、危惧していたのだ。秀輝が、極度の恐怖症を持っているからこそ、依存する可能性があることを。
そして、それは最悪なことに必中した。
歩は、プールでの秀輝の姿しか見ていないのだから、彼が体育館で見せる〝本来〟の姿を知る由もなかったのだ。
「頼むよ……まだ、あいつには、陸上の夢を持たせてやりたいんだ」
言葉の通り、秀輝のフリースローの完成度は、粗雑なものと化していた。軸もない、シュートも入らない、不発が続くだけ。仲間たちは都度励ましてくれるのだが、『彼が副キャプテンであることの信用を失いたくない』という疑心暗鬼からに過ぎない。秀輝がボールを手にすれば、忽ち接待フリースローの幕開け。
だからこそ、彼は、更に早い時間から朝練習に来るようになった。練習後には、苦手な水泳も控えているというのに。状況は、初期よりも明らかに悪いと言える事態を迎えているだろう。
「知らないだろうけどさ、秀輝って、陸上に愛された人間なんだよ」
海虎は、かいつまんで秀輝の過去を打ち明けた。
元来、陸上競技に専念していた選手だったが、あえなくバスケに転向したこと。それからも、類まれなる脚力と運動センスにより、一瞬でものにしてしまったこと。それこそ、まさに、陸上に愛されるべき本質なのだ、と。
だからこそ、水泳に力を注いでいる暇などない。
「それに、秀輝の水嫌いは、ほんの数年前まで全く平気だったんだ」
「……もしかして、金槌も」
「あぁ、……そうらしい。俺達は、アイツの水が平気だった時代を知らないから、アイツの口から出る言葉を信じてやるしか出来ないんだけどな」
陸上から逃げた秀輝が、それでも陸のスポーツを選ばざるを得なかった最もな理由は、あるトラウマが起因していた。
スランプに陥った際、しばし体面を気にして不登校になっていた頃がある。スポーツ推薦枠を蹴ったのも同時期。中学三年という重要な年に不憫が連続したせいで、彼は、せめてなにも考えられなくなるくらい、身体だけは動かしていたかった。所謂、自暴自棄。だから、それが祟ったのだ。
陸上から追いやられた気分でいた彼は、「水場でなら、記録を出せる」と慢心していたらしい。
事件は、前半期の成績が基本的に集約される水泳のテストで起きた。
「溺れちまったんだとよ。水分補給してなかったのと、不摂生がたたって、自律神経が乱れてたのが影響したらしい」
「そのとき、怪我は?」
「片足をつったんだ。プールの中央で」
しかし、金槌になったのは、それが直結しているわけではない。その後の状況が、彼の精神を水底へ陥れたのだ。
当時、何事もなく救出された秀輝の足を庇う姿に、周りの目は一斉に集まっていた。
『アイツ、陸上やめたやつだろ』
『水泳も出来ないのか』
『――あんなんだから、居場所失うんだろ』
そのような噂が実際に飛び交っていたのかなんて、断言できない。全て、秀輝の脳内が勝手に解釈して飲み込んでいただけかもしれない。それほどに、彼は憔悴しきっていたのだ。
秀輝が、次にプールに入ったときには、既に金槌で――神のいたずらなのか、海洋恐怖症までも発症するようになっていた。
歩は、最後に思い出す。
「そんな秀輝でも、陸だけは味方であってほしいんだ」と、こぼして去った海虎のことを。
「だから、すみません。もう、これ以上はやめましょう」
「……そんな、……歩まで、俺を見放すのか」
「違う!!!」
怯えて、口元を手で抑えた。秀輝の呼吸は乱れ始めていて、酷く戦慄いているのが分かる。反射で出た自身の咆哮に、歩はばつが悪くなり、更衣室から出て行ってしまうのだった。
「やっぱり、俺じゃ駄目なんだ……俺は、きっと、また殺してしまうから」
歩の掠れた脆弱な懺悔は、果たして、秀輝の耳に届いていたのだろうか。
その日の夜、秀輝は横になって思い直していた。
やはり、自分のような金槌で恐怖症持ちが、無謀なことをしているのだろうか。
バスケ部副キャプテンでありながら、休養も取らずに水泳にうつつを抜かしているから。いつまでも、学ばないから。だから、因果応報なのか、と。
「俺は……変わりたいだけなんだ」
あの頃のように、ヤケになっていたようだ。秀輝の中の苛立ちは、留まるところを知らない。
たとえ、歩がいなくとも、一人でだって泳げるようになっているはず。個人の自由で、練習はいつだって出来るはず。とにかく、自分が自分を認めてあげないと、気が済まない。
そう言い聞かせて、秀輝は、毎日一人残って、泳いで泳いで、泳ぎ続けることを決めた。
――それも全て、ある目標のために。
「もういいんだよ!!」
「うっせえ!!!! お前は、俺の保護者かよ!!」
「秀輝!!」
小雨がぱらつく、朝練習終わり。打ちっぱなしコンクリートのピロティでは、二人の怒声が反響して、雨の音をもかき消していた。
今日も今日とて、水泳バッグを片手にプールへ向かう秀輝を止めたのは、海虎である。
「そこまで追い込んで、なんになる!!! お前は、バスケ部の副キャプテンだろ? なぁ、違うのか」
両肩を掴まれて詰め寄られると、身長差と圧倒的力の違いに反吐が出そうだった。
秀輝は、顔を真っ赤にして、眼前に迫る親友に頭突きを食らわす勢いで反抗する。
「俺のこと理解したつもりでいるなら、勘違いもやめろ!! アンタの気遣いなんか、この世で一番いらない!!」
かっとなって言い返すと、覇気に殴られた海虎は、苦しそうに唇を噛み締める。項垂れながら、「ごめん……」と宥め、名残惜しくも秀輝を開放した。
(――俺は、変わりたいんだ)
プールへ一目散に走っていく秀輝は、一度たりとも海虎のほうを振り返らなかった。
「今週も夕方は、雨続きらしいよ」
「……忘れました、傘」
「土日挟むと抜けるよね。分かる。……俺は持ってきてるけど」
その日の練習は、薄暗くなり始めた空模様を見て、既に切り上げていた。着替えが済んだ二人は、気怠げに更衣室で暇を持て余しているところである。
ベンチに仰向けになって、間抜けに腹を出し、ハンディファンを片手に涼んでいる秀輝。相対するのは、練習中から上の空で、遠いところを見つめ続けている歩。
秀輝は、さきほど現れた好機を逃すはずもなく、なんとはなしにハンディファンのスイッチを切った。
「なぁ、……歩」
「……」
「歩?」
うんともすんとも言わない斜め後ろにいる背中。一体、なにを考え込んでいるのやら、秀輝はのそりと身を起こした。
「おい、歩。……大丈夫? 調子悪い?」
「あぁ、いや、……」
「無理しちゃダメだろ、さっさと帰ろうぜ。ほら、明日も……」
「……っいや、大丈夫です」
歩の向いてるほうへ回り込んで、見えていなかった顔を覗き込む。
「大丈夫って、なにが」と、ほんの少しだけ語気を強くしてしまった秀輝の腕を、歩は振り払ってしまった。
「大丈夫ですから! ……明日も、明後日も、明々後日も、今後一切練習はやめるので」
「……は? ぉ、おい、なに言ってんの。おまえ、……」
「もう、先輩との練習には付き合えないって言いたいんです」
怒りよりも、悲しみのほうが勝っていた。見慣れたはずのジト目には、微塵も軽蔑や拒絶など浮かべていなかったのだ。だから、感情の吐き方が分からなくて、秀輝はなにも返せぬまま茫然自失だった。
「結局、あの日からフリースローの改善がされてないんでしょう?」
「……っ!! 知ってたのか」
「すみません……咎めるつもりはないです」
歩は、あの日、用具倉庫でのひとときを思い出していた。
――まだ、あいつには、陸上の夢を持たせてやりたいんだ。
その言葉は、彼だからこそ言える、彼にしか言えない秘めた信念だった。ものの一言で頭をガツンと殴られる、ノックアウト寸前なほど驚異的な強さとでも言おう。
歩の背後に立ちはだかった影――海虎は、重要な話をするために、彼のもとまで赴いていた。彼の顔には、喜怒哀楽をぐちゃぐちゃに混ぜたような複雑さが貼り付けてあり、それでもなんとか自我を、理性を保とうと声を振り絞るのだ。
「俺が、ちゃんと止めるべきだった」
「……どういう意味です」
「……秀輝だよ。知らないだろうけどさ、アイツ……酷く怖がるようになったんだよ」
「っ?! ……それは」
「なにしてくれてんだよ……」
それは、海虎が自分自身に対する叱責であり、決して歩を責めたものではなかった。
ただただ、親友の進む道を手放しに見守るフリをしていたこと。秀輝が変わろうとした勇気そのものが、悪い方向へ進み始めているのを止められなかったこと。それら全てにおいて、自分を憂いているのだ。
海虎は、西日を遮ったまま、目の前にへたり込んでいる歩を見下ろした。
「アイツのフリースローが、日に日に悪くなってる……どうしてだと思う? フラフラしてんだよ。足を怪我するんじゃないかって。床に落ちる衝撃で、どうにかなるんじゃないかって」
自身のことでもないのに、悔しさを滲ませ一層眉根にシワを寄せている。海虎は、危惧していたのだ。秀輝が、極度の恐怖症を持っているからこそ、依存する可能性があることを。
そして、それは最悪なことに必中した。
歩は、プールでの秀輝の姿しか見ていないのだから、彼が体育館で見せる〝本来〟の姿を知る由もなかったのだ。
「頼むよ……まだ、あいつには、陸上の夢を持たせてやりたいんだ」
言葉の通り、秀輝のフリースローの完成度は、粗雑なものと化していた。軸もない、シュートも入らない、不発が続くだけ。仲間たちは都度励ましてくれるのだが、『彼が副キャプテンであることの信用を失いたくない』という疑心暗鬼からに過ぎない。秀輝がボールを手にすれば、忽ち接待フリースローの幕開け。
だからこそ、彼は、更に早い時間から朝練習に来るようになった。練習後には、苦手な水泳も控えているというのに。状況は、初期よりも明らかに悪いと言える事態を迎えているだろう。
「知らないだろうけどさ、秀輝って、陸上に愛された人間なんだよ」
海虎は、かいつまんで秀輝の過去を打ち明けた。
元来、陸上競技に専念していた選手だったが、あえなくバスケに転向したこと。それからも、類まれなる脚力と運動センスにより、一瞬でものにしてしまったこと。それこそ、まさに、陸上に愛されるべき本質なのだ、と。
だからこそ、水泳に力を注いでいる暇などない。
「それに、秀輝の水嫌いは、ほんの数年前まで全く平気だったんだ」
「……もしかして、金槌も」
「あぁ、……そうらしい。俺達は、アイツの水が平気だった時代を知らないから、アイツの口から出る言葉を信じてやるしか出来ないんだけどな」
陸上から逃げた秀輝が、それでも陸のスポーツを選ばざるを得なかった最もな理由は、あるトラウマが起因していた。
スランプに陥った際、しばし体面を気にして不登校になっていた頃がある。スポーツ推薦枠を蹴ったのも同時期。中学三年という重要な年に不憫が連続したせいで、彼は、せめてなにも考えられなくなるくらい、身体だけは動かしていたかった。所謂、自暴自棄。だから、それが祟ったのだ。
陸上から追いやられた気分でいた彼は、「水場でなら、記録を出せる」と慢心していたらしい。
事件は、前半期の成績が基本的に集約される水泳のテストで起きた。
「溺れちまったんだとよ。水分補給してなかったのと、不摂生がたたって、自律神経が乱れてたのが影響したらしい」
「そのとき、怪我は?」
「片足をつったんだ。プールの中央で」
しかし、金槌になったのは、それが直結しているわけではない。その後の状況が、彼の精神を水底へ陥れたのだ。
当時、何事もなく救出された秀輝の足を庇う姿に、周りの目は一斉に集まっていた。
『アイツ、陸上やめたやつだろ』
『水泳も出来ないのか』
『――あんなんだから、居場所失うんだろ』
そのような噂が実際に飛び交っていたのかなんて、断言できない。全て、秀輝の脳内が勝手に解釈して飲み込んでいただけかもしれない。それほどに、彼は憔悴しきっていたのだ。
秀輝が、次にプールに入ったときには、既に金槌で――神のいたずらなのか、海洋恐怖症までも発症するようになっていた。
歩は、最後に思い出す。
「そんな秀輝でも、陸だけは味方であってほしいんだ」と、こぼして去った海虎のことを。
「だから、すみません。もう、これ以上はやめましょう」
「……そんな、……歩まで、俺を見放すのか」
「違う!!!」
怯えて、口元を手で抑えた。秀輝の呼吸は乱れ始めていて、酷く戦慄いているのが分かる。反射で出た自身の咆哮に、歩はばつが悪くなり、更衣室から出て行ってしまうのだった。
「やっぱり、俺じゃ駄目なんだ……俺は、きっと、また殺してしまうから」
歩の掠れた脆弱な懺悔は、果たして、秀輝の耳に届いていたのだろうか。
その日の夜、秀輝は横になって思い直していた。
やはり、自分のような金槌で恐怖症持ちが、無謀なことをしているのだろうか。
バスケ部副キャプテンでありながら、休養も取らずに水泳にうつつを抜かしているから。いつまでも、学ばないから。だから、因果応報なのか、と。
「俺は……変わりたいだけなんだ」
あの頃のように、ヤケになっていたようだ。秀輝の中の苛立ちは、留まるところを知らない。
たとえ、歩がいなくとも、一人でだって泳げるようになっているはず。個人の自由で、練習はいつだって出来るはず。とにかく、自分が自分を認めてあげないと、気が済まない。
そう言い聞かせて、秀輝は、毎日一人残って、泳いで泳いで、泳ぎ続けることを決めた。
――それも全て、ある目標のために。
「もういいんだよ!!」
「うっせえ!!!! お前は、俺の保護者かよ!!」
「秀輝!!」
小雨がぱらつく、朝練習終わり。打ちっぱなしコンクリートのピロティでは、二人の怒声が反響して、雨の音をもかき消していた。
今日も今日とて、水泳バッグを片手にプールへ向かう秀輝を止めたのは、海虎である。
「そこまで追い込んで、なんになる!!! お前は、バスケ部の副キャプテンだろ? なぁ、違うのか」
両肩を掴まれて詰め寄られると、身長差と圧倒的力の違いに反吐が出そうだった。
秀輝は、顔を真っ赤にして、眼前に迫る親友に頭突きを食らわす勢いで反抗する。
「俺のこと理解したつもりでいるなら、勘違いもやめろ!! アンタの気遣いなんか、この世で一番いらない!!」
かっとなって言い返すと、覇気に殴られた海虎は、苦しそうに唇を噛み締める。項垂れながら、「ごめん……」と宥め、名残惜しくも秀輝を開放した。
(――俺は、変わりたいんだ)
プールへ一目散に走っていく秀輝は、一度たりとも海虎のほうを振り返らなかった。
