海獣だって走りたい

「今日も遅くまで、ありがとう」
「いいんですよ。先輩が頑張ってる、ってことは、俺の水泳に専念する時間も増えてるってことなので、気にしないでください」
「ふうむ、そうか? 疲れてないなら良いんだけど……」


 夏といえど夕日が差し掛かる頃には、練習を終えるようにしていた。昼間よりも、落ち着いた気温になっているせいか、やっとの思いで出てきた蝉たちが、鳴きはじめている。
 この数日で二人は、それなりに距離を縮め、それなりに信頼も置ける程度の関係にまで至っていた。まだまだ気遣いの部分は抜けきれていないが、それでも、その優しさを遠慮なく受け取れるくらいには、成長しているらしい。


「いつも、後片付け頼んでて悪いな」
「いえ、もともと水泳部の俺が、勝手に借りさせてもらってるので問題ないです」
「そっか、……なぁやっぱ、今日は」
「先輩。大会控えてるんでしょ? せっかくの週末なんで、早く帰って、身体を休めてください」


 決して、冷たくも、不機嫌でもない。それなのに、いつも上手いように躱されて、追い返されるような口ぶりに、今日も秀輝はしゅんと眉を下げて応える。
 二人は、水のない場所でのお互いを、全く知らなかった。
 何度か機会を伺って秀輝のほうから、歩を誘うことはあったのだが、その度に今日のような却下を食らって、挙句一人で帰宅する日々。もちろん歩には、なんの拒絶も嫌悪も感じられない。むしろ、彼なりの秀輝を慮る言動の表れなので、なにも言えないのだ。


「歩こそ、大会とか控えてないのかよ」


 未だ、乾ききっていない髪の毛を無造作にタオルでかき混ぜる。秀輝は、渋々と文句を垂れながら、しょぼくれたような、拗ねたような背中を見せて帰路につくのだった。




「いい子で待っててね」


 アリエルにハーネスを装着して、どこかにいってしまわないようにプールサイドの柵に輪っかを掛けた。
 歩は、圧縮させたビニールプールを片付けるために、用具倉庫を簡単に掃除している真っ最中。プール使用日は、必ずと言っていいほど窓を開放しているので、そこまで不快感のない空間である。


「う……このあと、絶対雨だ」


 しかし、最近は急な夕立が目立つため、どうにも土と湿気と汗の匂いが換気されずに、渦巻き続けている。歩もそれには気付いたらしく、眉根にシワを寄せて険しい顔つきをしていた。
 なにより、開放しているはずの窓から、一切の夕日も差し込んでいない。厚い雲が日を遮り始めているのだろう。当然、室内は真っ暗で、光源の閉ざされた虚ろな闇世界が広がっていた。


「……っ」


 たかが、用具倉庫。設備が新しくされているはずもなく。豆電球一個の心許ない明かりを見つけて、歩は、ビニールプールを隠すように倉庫の奥へ、奥へと慣れたルートを歩いた。
 まともに行き届いていない掃除のお粗末さは、プール特有の塩素と生徒らの汗が、壁から天井にまで全てにこびりついて、もう、きっと拭いきれないだろう。積み重ねられた使われているのかすら不明な用具の被った埃と、じめじめした湿気が嫌に絡み合って、蒸し暑さと共に立ち昇る。嗅覚が鋭かったり、アレルギーを持っていたりなどの症状持ちの人ならば、確実に一歩踏み込んだだけでアウトサインを出すに違いない。
 幸い、慣れている歩は、なんとも思わないのだが、そもそもプールに居座り続けたせいで感覚が麻痺している、と考えたほうが正しいだろう。若干、喉奥が噎せ返るような刺激はあるものの、多少の咳払いさえしてしまえば、どうとでもなる。


「よしっ……」


 両手にこびりついた汚れを叩き落としながら、出入り口のほうへ踵を返そうとした。


――ひた、ひた。


 「……?」


 背後で、奇妙な音が聞こえた。床に、軽やかに足をつけて、地を踏む音だ。
――ひた、ひた。ひた、ひた。


「アリエル?」


 振り向いて、下のほうを右往左往して視線を動かした。ペンギンが隠れるには、最適な空間で探すのには一苦労である。
――ひた、ひたひたひた。


「……っ」


 振り返る。いない。壁際には、いない。用具の奥にも、いない。
 足元にも、いない。どこにも、いない。
――ひたひた。


 ひたひたひた。ひた、ひた。ひたひた。


 どうにも、おかしい。
 ペンギンの足音だと感じていたソレは、ペンギンにしては重み(・・)がありすぎる。
 それは、歩だからこそ気付けた。気付いてしまった違和感。なにせ、ほぼ毎日アリエルの面倒を見ているのだから、間違えるはずがなかったのだ。
 だから、過剰に胸騒ぎがして止められなかった。この音の正体は一体なんなのか。何者なのかが、不透明で恐ろしかったから。


 ひた、ひた、ひた。


「……!」


 音は止まった。ちょうど、真後ろから聞こえて止まった。
 振り返るのも億劫だった。
 あいにく、ペンギンの足音でないと気付いたソレの正体を察してしまったのだ。きっと、ソレはここにいてはいけない何者。いては、おかしい存在。
 小気味よく床を蹴っていた。おそらく――子どもの無邪気な水を弾く足音。


「……っは」


 額から、止めどなく大粒の冷や汗が伝っていた。ぽた、と確実に己の流した雫が床にぶつかって散らばった音が聞こえるくらいに、静まり返った不気味さだ。
 湿気にあてられた豆電球が、チカチカと明滅する。決して、今起こるべきではない不可思議な現象に、全身の血の気が一斉に引いていく感覚だった。
 そこまで広くもない倉庫内は、走ってしまえば、あっという間に出口にたどり着けるというのに。歩は、真夏のこもりきった世界にただ一人だけ、氷のように固まって、動けなくて、青ざめている。


 振り返らない。いいや、振り返れない。


 歩は、息を殺して、自身の気配を消すことに集中した。
 もう、手遅れだと分かっている中で取れる行動なんて、ただただ、その悪い状況が勝手に去っていくことを無視して待ち続けるしかないのだ。


 そうだ、これは熱中症か、なにかが見せているストレスの兆しに違いない。
 ただの、疲れなのだ。


 言い聞かせるように、目を瞑っていた。しばらくすれば、激しく鳴り響いていた動悸が落ち着いてくる。心臓の音が聞こえなくなると、やがて、静寂が再び顔を出す。
 徐々に瞼を持ち上げると、豆電球の点滅は落ち着いていた。じじじ、と今にも切れそうな音は出しているが、途切れない輝きを放ち続けている。
 だから、油断した。
 ほう、と胸をなでおろしてしまった。


 ――ひた。


 「ッ!!!?」


 突如として、足首に襲いかかる冷えきった触感。何者かの手を、確実に肌で感じたのだ。
 歩は、驚きのあまり尻餅をついて、そのまま腰が砕け、立てないでいた。金縛りにあったように手足ももつれて動かない。だから、せめてもの思いで顔だけ俯かせる。
 地に伏せるように、小汚い床を眼前にして汗をしとどに落としていた。


「……っ!」


 視界の隅に現れる。真っ白な青年ほどの足が覗いていた。
 片方の足は、立っているのが不思議なくらいに、足首から下が渦を巻いて、ぐにゃりと歪み曲がっている。


「ひ……っ」


 咄嗟に、耳と目を塞いだ。
――ぴちゃぴちゃ。ぺたぺた。ひたひた。声は鳴り止まない。
――きゃはは、くふふ。わはは。もっともっと鳴り止まない気配。
 それは、男の子とも女の子とも判別できないノイズで、耳障りな不協和音。


 いつまで経っても消え去らない。
 あがいても、もがいても、いくら汗を流しても、嗚咽をこぼしても、容赦しない。


(とまれ、とまれ、とまれとまれ……ッ!!!)


――はやく、止まれ。


「――水の中で、息できないくらいなら、やめなよ」


 ぱたり、と声が止んでいた。
 その音は、言葉は、確かに囁かれた。鼓膜の奥で余韻を残して、薄気味悪くのたうち回っている。


 気づくと、そこはただの倉庫(・・・・・)に戻っていた。背中がやけに暑く感じたのは、後ろから西日が突き刺してきているからだった。
 誰かが出入り口を開けてくれたのだ。


「……?」


 眉間を抑えながら、なんとか首を持ち上げる。ゆっくりと背後を向けば、見慣れた影――ではなく、いつもよりも大柄なものだった。
 影は、部活の練習着のまま歩のことを見据えている。まるで、獲物を見つけたシャチのごとく、ゆっくり、ゆっくりと、その気迫は忍び寄って、最後にはものの一瞬で凌駕するのだろう。
 身も心も、さきほどの悪夢で疲れ切った歩にとって、それは抵抗できずに受け入れることしか出来ない。影から注がれる残酷な眼差しは、怒りでも、嫌悪でもない、ただの優しい嘘を想起させた。