「ガァ!!」
「うおおおっ!?」
思いがけない奇襲に、声を上げて飛び跳ねる。姿を忍ばせてまで、やってきたというのに、全く注意していなかった方向から隙を突かれたのだ。
およそ、人間とは思えない声の正体を探るべく、視線を右往左往させた。
「……?」
「ガァッ」
「あっ!!」
主張するように再び上がる一声は、思っていたよりも下のほうから聞こえていた。足元へ視線を落とすと、遂にそれと対峙する。
「――ペンギン?」
パチパチ、とまんまるのきらめくビー玉の瞳が瞬く。黒艶の滑らかでぺたりとした頭。長く弧を描くように伸びる嘴の先には、愛らしいピンク色の斑点があった。素朴な目元を覆う真っ黒な体毛に、目頭と嘴をつなげる淡い模様。平べったくヒレのような、しなやかな翼には青く光る腕輪が一つ。顎下から覗く一本の黒ラインは、細く、お腹の周りを駆け巡っていた。
まさに、〝あの日〟見ていた――ケープペンギンの姿そのもの。
秀輝は、後ずさるようにして一定の距離を取った。
「お、お前……まさか、比企田くん……?」
「ガァ」
「?! そ、そっか……、そんな秘密を抱えてたんだ……」
無駄に長い嘆息を吐きながら、しゃがみ込んだ。普段ならば、柵もなしに、これほど近い距離でペンギンの顔など見ることはない。少しでも油断していれば、嘴で突かれるか、翼で叩かれてしまう。
「俺ってペンギンに間違われるほど、変でした?」
「あ」とこぼすのも束の間、秀輝の顔に上から影が掛かった。おずおずと見上げれば、久しぶりに見るジト目が二つ。思いの外、覗き込まれていたことに、秀輝は固まってしまった。
「い、いや、冗談冗談……」
「……ふうむ」
「てか、どこいたんだよ」
「更衣室ですけど……」
上から、ラッシュガードを羽織っていたから気付かなかったが、確かにその下は水着だった。なぜか、ムキになってしまった秀輝は、顎を上げて鼻を鳴らす。そんな強情に歩は早々に諦めを付けて、さっさと退いた。
「このコは、なに?」
「ペンギンです」
「ですよねー……いや、いやいやいや、そうじゃなくて」
「あぁ、アリエルっていいます。名付け親は、俺じゃないです」
「へぇ……お前、アリエルかぁ」
大人しくプールサイドにお腹をくっつけて寛ぐペンギンを、なめるように観察する。アリエル、と呼ばれるペンギンの眠たそうな、どこを見つめているのか分からない瞳は、歩のさきほどのジト目を連想させた。
「まあ、オスなんですけどね」
「……。ま、可愛いから、いいんじゃない? なぁ、アリエル」
初対面のアリエルにうっとりしながら、顔を近づけていたら、間に歩が割入った。彼は、そのまま軽々とアリエルを両手で抱えあげる。飼育員以外の普通の人が、ペンギンというイレギュラーな動物の扱いに慣れている様に、心の底から感嘆の声が漏れた。満更でもないのか、歩は得意げに口端を上げている。相当、アリエルに熱があるらしい。しきりに、背中を撫でて顔を綻ばせるのだから。
「好きなんだな」
「お世話を頼まれてるだけですよ。……ただ、まあ、はい。可愛いです。純粋で、綺麗」
「あぁ! わかった」
「? なにがです」
「さっき、なんであんなにコソコソして、廊下歩いてんだって思ってたんだよ」
指をパチン、と小気味よく鳴らして、秀輝は立ち上がった。彼の一挙一動に、歩は珍しく目を白黒とさせている。ペンギンを抱いているから、癒しが彼の心の緩衝材にでもなっているのだろうか。心なしか、表情が柔らかい。
「まさか、ペンギンを連れてるなんてな……確かに、これはバレたら一大事だもんな」
「そこから見られてたんですね……」
きまりが悪そうに唇をもごもごとさせて、歩は目を伏せた。長く立派なまつ毛が、あっという間に瞳を隠してしまうから、すぐに表情が読めて、案外可愛げがあるものだ。
「でも、先輩が追いかけてくるなんて思ってなかったです」
「来ちゃマズかった?」
「……うーん、……期待してなかったと言ったら、嘘になりますかね」
「ふむ……比企田くんって、案外喋りやすいんだね」
一気に距離を詰めて、背けられる歩の双眸を捉えた。突如として、無理やり絡み合った視線に、歩は怖気づいている。複雑な心境であることが、彼の顔にまざまざと浮かんでいた。
不思議がって、秀輝は悪びれもなく微笑みかけてみる。その行動こそが、歩の中でせめぎ合う葛藤を膨らませている、ということに気付かないで。
「足……大丈夫だったんですか」
「ん? あぁ……フリースローね。怪我はないよ。全然大丈夫」
「恐怖症とか……俺、なにも知らないのに、無理やりプールに連れてくるようなことしちゃいました」
「しゃーないよ。知らなかったから、比企田くんは、あそこまでしてくれたんでしょ?」
秀輝は、歩の口下手で、言葉よりも行動で示す性格を既に見抜き始めていた。だからこそ、気になっていたのだ。歩が、一歩踏み出して、手を取って、秀輝に〝なにか〟を垣間見せようとしていたのを。
「無知は、人を傷つけることも出来るし、誰かの背中を押すことも出来る。俺にとって、比企田くんの無知は、後者だったってこと」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。現に今、俺は、プールに戻ってきてるからね? 意味があるかって言われたら、難しくて言葉にできないけど」
秀輝にとって、最も不要なものは気遣いそのもの。だから、海虎のような隔たりのない善性を振りまける親友がいて、真帆のように平等に心を開いてくれる友人がいる。
あの時の歩の突拍子もない行動は、突き詰めて考えてみれば、秀輝の性に合っていたのだ。それは、誰も否定できない、秀輝のみが知っている事実。
「俺は、多分、比企田くんの真っ直ぐなとこが良いって……嬉しい? って、思ったから、むしろ、追いかけて後悔はしてない」
「そう、ですか……」
「それでさ、……単刀直入に言っちゃうけど、比企田くん」
「……はい」
秀輝の中に残り続けた、たった一つの疑念。それは、さきほどまでの真帆と海虎のやり取りで、確信により近付いていた。
歩の得体のしれない経歴と異名。彼が、なぜ高校を転々とするのか。どうして、一人を選び続けるのか。これは彼が見せてくれた、ほんの小さな弱さと淡い希望に見せられた秀輝の早とちりに過ぎない。それでも、気になってしょうがないのだ。
――歩は、〝侵略者〟にならざるを得なかったのではないか、と。
「もう一度、泳いでほしい」
「……? 先輩の前で、ですか」
「うん。ぁ……いや、違うな。俺の存在は、忘れて」
「はい?」
眉をひそめて、お得意のジト目に元通り。秀輝は、プールサイドを見渡して、綺麗な青色の空を仰いだ。心地よさそうに深呼吸を混ぜた声色に、歩は、つい世界の音を忘れてしまいそうになった。秀輝の、優しく潮風で撫でるような澄んだ言葉しか、今は彼の耳に届かない。
「取材とか、テレビとか、観客とか、全部忘れて。誰一人として、比企田くんの泳ぎを見てないし、全員と無関係で赤の他人だ」
「……」
「泳いでくれる?」
しばしの沈黙が流れる。この間、二人が目を逸らすことは、一度たりともなかった。ただ、プールに際限なく注がれ続ける水の音と、わずかに吹く微風で掻き立てられる木々のどよめきのみが二人を見守っている。
どちらが、先に観念するかのにらめっこ。
「……はぁ」
先に白旗を上げたのは、歩だった。彼から立ち上っていた張り詰めた緊張の糸を、秀輝は解いてみせたのだ。
まだ、泳ぎも見せられてもないのに、早くから満足気に破顔する秀輝を見て、分が悪く感じたらしい。歩は、抱いていたアリエルを、わざと秀輝の眼前へ持ち上げ、鳴き声を一つ浴びせた。
「アリエルを、しっかり抱いててください」
「お、おうっ! やってやる」
「……不安だなぁ……」
秀輝の腕の中に移動してもなお、アリエルは我関せずと言った顔つきで、緩慢に嘴を持ち上げている。
歩は、しっかりと秀輝がアリエルを抱えられているのを確認してから、ラッシュガードを脱いだ。秀輝には伝えていないが、ペンギンという生物は全身に油を纏っている。そのため、ラッシュガードを着用して、抱くことにしているのだ。水族館のペンギンコーナーで漂う独特な匂いこそ、その正体。歩は、秀輝にではなく、秀輝の纏うバスケの練習着に向けて心の中で謝罪を送った。
「シャワー浴びてきます」
「おう! あの時のスタート台で待ってるから」
返事もなしに、建物の影に入っていった背中を見送って、安堵の息を漏らした。秀輝も秀輝なりに歩を刺激しないよう、必死に言葉を探していたのだ。
それも無事、功を奏して再び泳ぎを目にすることが叶う。漸く、答え合わせが出来るのだ。
秀輝は、期待感を滲ませて、スタート台のほうへ歩き出した。
「……これが比企田くんの、本当の姿」
広大な水槽でも、賑わう人工プールでもなんでもない。ただの湖や海を自由に駆け回る群れを離れた一匹の遊泳者。水面から覗く鍛えられた背中には、なんの歓声も視線も伸し掛かっていない。まるで、羽でも広げたかのように優雅に、筋肉が水と一緒に踊っている。
秀輝は、裸足がじりじりと熱されていくのも気にならないほどに、夢中で歩の泳ぎに見惚れていた。
もう彼から、夜宮水月という影を感じないのに、目が離せないのだ。
「知ってるじゃん。水の中の楽しさ」
久しぶりに自分の手で、足で、水の中に今すぐ飛び込みたいという気持ちが湧いていた。
あの時に見たプールと同じなのに、不思議と全く違う別のどこか、穏やかで晴れがましい場所に一瞬で彼は連れ去ってくれる。泳ぎという、とっておきの武器で。
水を掻き立てる音と揺蕩う波。上がる飛沫に神経が削がれて仕方がなかった蒸し暑い記憶。プールという箱庭だけの舞台装置が魅せる、秀輝を陥れるための恐怖演出など、もうそこには存在していない。
かねてより、秀輝は、ただただ目の前に広がる、碧く澄み渡った無垢な自由を掴まんと渇望していたんだ。
「あいつなら、きっと……」
水泳帽とゴーグル、おまけに水に被せられた歩の顔など見えるはずもなかった。それでも、既に折り返して、こちらへ向かってくる勢いの中に殺気迫るような残酷さは一つも滲んでいない。
歩自身も、それは水面を叩く爪先から、じわじわと伝わる高揚感として感じ取っていたのだ。水底から引っ張られるような重力も、上から身を劈く色めきも、どうして忘れられなかったのだろう。
今は、こんなにも素直に、自由になれているのに。
「……はっ!」
気付けば、壁に手が付いていた。五十メートルを自由形で一往復しただけだというのに、歩は興奮冷めやらぬ顔色で息を切らしている。水泳帽とゴーグルを一挙に取り去って、首から提げる余裕もなく、腕は水の中へ落ちていった。頭は真っ白で、一切の邪念も感じない。文字通り、歩は立ち尽くしていた。
「思ってた通りだ!」
頭上から降る声は、少しだけ震えていた。見上げると、スタート台に膝を乗せて、頭を突き出している。秀輝の影は、怖いもの知らずの子どものように、歩に覆いかぶさった。
彼の双眸には、一面の青と歩しか映っていない。水面を乱反射する、キラキラとした太陽の光が秀輝の瞳で沢山瞬いていて、今にも溢れそうだった。
歩は、そんな昼の星空を見上げて、降り注ぐ眩しさに目を細める。
「比企田くんの泳ぎ見てたら、俺も試したくなった」
抱えていたアリエルを器用に持ち直して、片方の腕を伸ばした。行き先は、紛れもなく歩のほうに向かっていて、頭上で手のひらを翳す。一歩間違えれば、水に触れる距離。歩は、秀輝の言葉に瞠り、躊躇った。
「勝手なお願い、聞いてくれる?」
「……」
早くその手を取らないと、きっとバランスを崩して、秀輝はアリエルごとプールに落ちてしまうだろう。伸ばされた指先が、まだ少しだけ震えているから、怖いことに変わりはないのだ。恐怖を目前にしても、彼は、懸命に歩と向き合おうとしている。
だから、これは、歩が自分自身にする叱咤だ。目を瞑っても、視界は真っ白にチカチカと鬱陶しく判断を急がせる。眉間に力を入れすぎて、目眩すら覚える。
――あぁ、どうして泳ぎきってしまったのだろう。
「教えてほしいんだ。比企田くん」
「……!」
「俺に、水の中で生きられる方法を教えて」
歩の中で渦巻いていた霧は、一瞬にして薙ぎ払われた。痛いほどに眩い無知な眼差しと、透き通っていく突飛な甘さは、干からびた心をソーダみたいに潤していく
手を取るまでの時間に躊躇いはなかった。
決心したならば、すぐに掴んでみせてこそ。そうやって、いつも前を向いてきたから。
「……っ、ぁ、……ありがとう」
「なんで、比企田くんが言うの。こっちのセリフでしょ」
「……ううん、……俺が伝えたいから、伝えたんです」
「そっか、……うん、俺も、ありがとう」
他者からの抑圧がない身軽さを取り戻した瞬間を、一生忘れないだろう。
無知から始まった当たり前の糸のすれ違いは、漸く綺麗に結ばれ始めた。
「じゃあ、ちょっとそのままアリエル抱えててください」
「……? おう……っおい、どこに」
「見ればわかりますから」
プールサイドに立てられたテントの中に移動して、秀輝は初めて腰を落ち着けた。
アリエルがやっと地上に降ろされたのを、嬉々としてはしゃいでいる。額から流れていた汗を、鞄から取り出したタオルで適当に拭き上げて、歩の到着を待った。
「ずっと暑かったよな、ごめんな」
ホースから流れる水をアリエルの背中に流して涼ませる。両腕に染み付いたペンギンの匂いに、「やられた」と歯をむき出し、急いで濯いだ。
「お待たせしました」
「あぁ、お、お前……俺の腕と練習着が、こんなになるの分かってたよな」
「良かったじゃないですか、学びが増えて。それでも、アリエルを抱えててくれたのは、先輩が優しいからですね」
「なんか、納得しないなぁ……」
歩は、片手に足踏み式ポンプ、もう片方になにやら圧縮された薄いなにかを持っていた。そそくさと床に広げて準備を始める様子を眺めていれば、いつものジト目が振り返る。無言の圧を感じて、秀輝は苦笑いに彼の奥に広げられたそれらを覗き込んだ。
どうやら、円形のソレ――ビニールプールを用意しているらしい。
「じゃあ、先輩からどうぞ」
「あ、はい」
ポンプを足元に置かれ、有無も言わず従順に立ち上がった。ビニールプールなど家にあったことがない秀輝は、目の前のしわくちゃな物体が一体、どう変化していくのかが気になり、思いっきりポンプを踏み込んだ。意外とすんなり押せてしまう空気に、余裕でも生まれたのか、口端を上げて歩を睨み返してみた。
「あとは俺に任せろ」とでも言いたげに、足踏みをする秀輝が、このあと痛い目を見ることなど、歩は分かりきっている。だから、面白がって、敢えてなにも応えなかった。
「これも全て学び、だよね。アリエル」
アリエルは、飽き性なのか、もう腹ばいになって退屈そうに寛いでいる。
「……何分経った?」
「まだ十五分程度ですかね」
「……うっす」
二人は、完成したビニールプールの中で優雅に揺蕩うアリエルを前に、三角座りで話し込んでいた。かれこれ、三十分以上はプールサイドのテントで休んでいるため、すっかり歩の全身は自然乾燥されきっている。はじめに見たラッシュガードではなく、水泳部のジャージを肩に掛けて身体が冷えないようにしていた。
「先輩は、水のことを怖がってるのに、どうして」
顔半分を膝に隠して、向かい側で自分と全く同じ姿勢の秀輝に問いかける。目だけが歩のほうを見て、なにも言わずにアリエルへ戻された。不思議と歩もつられて視線を下げる。
「比企田くんが言ったじゃん」
――先輩なら、生きられる。
「……俺は、それを信じただけだよ」
正直なところ、歩は、忘れ去られてしまっているものだと思っていた。なにせ、拒絶されて当然なほどに無理を強いたのだ。おまけに、淡い期待を抱かせた結果、本分であるバスケすら、直接ではないが邪魔をしてしまった。
だから、これは照れ隠しである。膝を抱える手元をまごつかせて、何度も握り直した。
秀輝は、アリエルをじっと眺め続けていて、特に返事などいらないように見える。本来ならば、早々に歩も黙り込んで会話は終わってしまうだろう。しかし、今だけは、永遠にこの瞬間に居座りたくて、嫌味な返事をついこぼす。
「ただの誘い文句ですよ」
「……その誘い文句に乗っかってやったんだよ」
「……」
弾まない会話に、「誰でも良いから助けてくれ」と歩は心のなかでのたうち回っていた。彼の会話スキルが人より劣っているというのは、秀輝も認識してくれたはず。しかし、どうしてペンギンに夢中で余裕綽々としていられるのか。歩には、それがイマイチ理解できなかった。てっきり、秀輝のほうから色々と突っ込んだ質問やらトークをかまされると身構えていたのに、この有様。
歩は、隠していた半分の顔を漸く持ち上げ、膝の上に置いた。やっとの思いで姿を表した表情は、子供のように唇を尖らせて、拗ねている。
「大体なんだよ、侵略者になりますかって」
「まぁ、はい……すみません、そこは、自分でも変だなって常々思ってます」
「だーもー!!!」
アリエルにかからないよう、秀輝は、歩を目掛けてプールの中の水を指で弾いた。咄嗟に逃げの体勢を取ったが、水飛沫はあっさりとプールの中だけに留まって落ちる。
「お前、陸に上がると、途端にちっさくなるのなんなんだよ」
「……べつに、なにも……」
「だからさぁ、あれだろ」
秀輝は、一拍置くように言い淀む。唇をもごもごと気まずそうに引き結び、突然立ち上がった。手のひらについた僅かな小石を振り払う姿は、さきほどの歩同様、照れ隠しを含ませている。
「……普通に、友達になりませんかって、言えばいいじゃん」
両手を腰に置いて、上半身は逸らしてしまった。高校三年とはいえ、真っ向から「友達作り」だなんて、中々しない発言である。ましてや、同じクラスや部活動であれば、自然と関係は構築されるもの。改めて、自分の得意とする範囲外の人間と信頼を築いていくことの気恥ずかしさが滲んでしまうのは、やむを得ないことだった。
そんな、複雑でいかにも若者らしい感情を向けられている当の本人は、本当になにも理解しきれていないのか、ただただポカンと秀輝の顔を一心に見上げている。
「……?」
「お前、自覚してないのか……」
がっくり、と肩を落とした勢いは、ビニールプールの水面を揺らすほど。いつの間にか、アリエルも立っていて、嘆息をこぼす秀輝を元気づけるようにすり寄ってきた。
「ありえるぅ……」
流れてもない涙を、声色に滲ませながら、背中を撫でる。
今しがた、秀輝は歩の顔を向き直して、まだまだ海虎のようにはいけないな、と身の振り方を考え直していたのだった。
それからのこと、二人は、部活終わりにプールに集合して、泳ぐ練習を始めた。
最初こそ、クロールをちょっとするだけでも息がすぐ上がっていた秀輝に、歩は「無理はするべきでない」と伝えたこともあった。
「金槌だったんですね」
「……言わなくても分かるだろ」
「すみません」
「謝るなって。なんのために、ここにいるんだよ」
秀輝は、歩の泳ぎを見たあとだからこそ、自分の泳げなさ、水に対する恐怖心の底知れなさを痛感していた。それでも、少しでも昔の自分から脱却したくて、ひたむきに水に触れ続けるのだ。
かくいう歩も、彼に少し甘さを見せていたのだろう。今更、「誰かの努力を蔑ろにするものでもない」と観念して、満更でもなく彼の練習に付き合っていたのだから。
「慣れてきましたね」
「あぁ、ちょっとだけ、だけど」
「十分すごいです」
「いいや、俺はもっと、今より長く水の中で息がしてみたい」
「……大変ですよ」
「そうだね」と微笑み返す秀輝の顔は、日々の疲労を滲ませているものの、数日前までの空虚さを拵えたソレとは全く異なっている。
彼には、確実に変化の兆しが芽生えていたのだ。もとより、秀輝の持つ運動に対するポテンシャルが輝いたことに違いない。伊達に、高校三年まで陸を走り続けてきたものである。歩という絶大な泳者の助言があれば、すぐに光れる原石の準備は出来ていたのだ。
だから、あとは磨き続けるだけ。
あっという間に、二五メートルのクロールをするのに、焦って呼吸をして息を切らすこともなくなった。これには、歩も目を瞠って彼の成長ぶりを静かに称えた。
「すごいです。また、二五メートルの記録更新しましたよ」
「よっしゃ! いい調子」
「……ふっ、どうです。水の中は」
「ん、……そうだな、想像の何億倍も生きた心地がして、楽しいよ」
疲れが蓄積した日は、たまに酷く息切れを起こすこともあった。
やはり、秀輝の恐怖症を完全に取り払うことなんて、物理で解決できるものじゃなかったのだ。精神疾患は決して侮ってはいけない。結局は、自分自身の心一つで戦わなければいけない病気なのだ。
ある時、また自己記録を塗り替えた秀輝は、肩を震わせて水の中でポツリと立ち尽くしていた。身を案じた歩が救出しようとスタート台からすぐに飛び込むと、その先に待っていたのは、キラキラと眼を見開く姿だった。
秀輝は、水にのまれるかもしれない、という恐怖を抱えながらも、地道に確実に成果を出している自分に感動して嬉しくて堪らなかったのだ。
「……ありがとう、歩」
あの頃の、〝水泳本来の楽しさ〟を取り戻した子供の無垢な笑顔。
懐かしむように、壊れないように、水面を両手で掬い上げて握り込む。そんな姿が眩しくて、歩にとって、この上ないくらい守らなければいけない純粋さになっていた。
上昇気流は、強く吹き上がる。日本の夏は、晴れの日も多いが、雨の日は更に厄介である。
――きっと、近いうちに雨が降る。
青を見上げて、忙しなく蠢く白い泡を目で追いかけた。
微かに鼻腔をくすぶるのは、濡れた土の匂い。近くの茂みから、カエルの鳴き声が聞こえる。
「――秀輝」
部活終わりの練習着は、ジメジメとした蒸し暑さで、いつもより身体に纏わりついてきて不愉快だった。
「うおおおっ!?」
思いがけない奇襲に、声を上げて飛び跳ねる。姿を忍ばせてまで、やってきたというのに、全く注意していなかった方向から隙を突かれたのだ。
およそ、人間とは思えない声の正体を探るべく、視線を右往左往させた。
「……?」
「ガァッ」
「あっ!!」
主張するように再び上がる一声は、思っていたよりも下のほうから聞こえていた。足元へ視線を落とすと、遂にそれと対峙する。
「――ペンギン?」
パチパチ、とまんまるのきらめくビー玉の瞳が瞬く。黒艶の滑らかでぺたりとした頭。長く弧を描くように伸びる嘴の先には、愛らしいピンク色の斑点があった。素朴な目元を覆う真っ黒な体毛に、目頭と嘴をつなげる淡い模様。平べったくヒレのような、しなやかな翼には青く光る腕輪が一つ。顎下から覗く一本の黒ラインは、細く、お腹の周りを駆け巡っていた。
まさに、〝あの日〟見ていた――ケープペンギンの姿そのもの。
秀輝は、後ずさるようにして一定の距離を取った。
「お、お前……まさか、比企田くん……?」
「ガァ」
「?! そ、そっか……、そんな秘密を抱えてたんだ……」
無駄に長い嘆息を吐きながら、しゃがみ込んだ。普段ならば、柵もなしに、これほど近い距離でペンギンの顔など見ることはない。少しでも油断していれば、嘴で突かれるか、翼で叩かれてしまう。
「俺ってペンギンに間違われるほど、変でした?」
「あ」とこぼすのも束の間、秀輝の顔に上から影が掛かった。おずおずと見上げれば、久しぶりに見るジト目が二つ。思いの外、覗き込まれていたことに、秀輝は固まってしまった。
「い、いや、冗談冗談……」
「……ふうむ」
「てか、どこいたんだよ」
「更衣室ですけど……」
上から、ラッシュガードを羽織っていたから気付かなかったが、確かにその下は水着だった。なぜか、ムキになってしまった秀輝は、顎を上げて鼻を鳴らす。そんな強情に歩は早々に諦めを付けて、さっさと退いた。
「このコは、なに?」
「ペンギンです」
「ですよねー……いや、いやいやいや、そうじゃなくて」
「あぁ、アリエルっていいます。名付け親は、俺じゃないです」
「へぇ……お前、アリエルかぁ」
大人しくプールサイドにお腹をくっつけて寛ぐペンギンを、なめるように観察する。アリエル、と呼ばれるペンギンの眠たそうな、どこを見つめているのか分からない瞳は、歩のさきほどのジト目を連想させた。
「まあ、オスなんですけどね」
「……。ま、可愛いから、いいんじゃない? なぁ、アリエル」
初対面のアリエルにうっとりしながら、顔を近づけていたら、間に歩が割入った。彼は、そのまま軽々とアリエルを両手で抱えあげる。飼育員以外の普通の人が、ペンギンというイレギュラーな動物の扱いに慣れている様に、心の底から感嘆の声が漏れた。満更でもないのか、歩は得意げに口端を上げている。相当、アリエルに熱があるらしい。しきりに、背中を撫でて顔を綻ばせるのだから。
「好きなんだな」
「お世話を頼まれてるだけですよ。……ただ、まあ、はい。可愛いです。純粋で、綺麗」
「あぁ! わかった」
「? なにがです」
「さっき、なんであんなにコソコソして、廊下歩いてんだって思ってたんだよ」
指をパチン、と小気味よく鳴らして、秀輝は立ち上がった。彼の一挙一動に、歩は珍しく目を白黒とさせている。ペンギンを抱いているから、癒しが彼の心の緩衝材にでもなっているのだろうか。心なしか、表情が柔らかい。
「まさか、ペンギンを連れてるなんてな……確かに、これはバレたら一大事だもんな」
「そこから見られてたんですね……」
きまりが悪そうに唇をもごもごとさせて、歩は目を伏せた。長く立派なまつ毛が、あっという間に瞳を隠してしまうから、すぐに表情が読めて、案外可愛げがあるものだ。
「でも、先輩が追いかけてくるなんて思ってなかったです」
「来ちゃマズかった?」
「……うーん、……期待してなかったと言ったら、嘘になりますかね」
「ふむ……比企田くんって、案外喋りやすいんだね」
一気に距離を詰めて、背けられる歩の双眸を捉えた。突如として、無理やり絡み合った視線に、歩は怖気づいている。複雑な心境であることが、彼の顔にまざまざと浮かんでいた。
不思議がって、秀輝は悪びれもなく微笑みかけてみる。その行動こそが、歩の中でせめぎ合う葛藤を膨らませている、ということに気付かないで。
「足……大丈夫だったんですか」
「ん? あぁ……フリースローね。怪我はないよ。全然大丈夫」
「恐怖症とか……俺、なにも知らないのに、無理やりプールに連れてくるようなことしちゃいました」
「しゃーないよ。知らなかったから、比企田くんは、あそこまでしてくれたんでしょ?」
秀輝は、歩の口下手で、言葉よりも行動で示す性格を既に見抜き始めていた。だからこそ、気になっていたのだ。歩が、一歩踏み出して、手を取って、秀輝に〝なにか〟を垣間見せようとしていたのを。
「無知は、人を傷つけることも出来るし、誰かの背中を押すことも出来る。俺にとって、比企田くんの無知は、後者だったってこと」
「……そうでしょうか」
「そうだよ。現に今、俺は、プールに戻ってきてるからね? 意味があるかって言われたら、難しくて言葉にできないけど」
秀輝にとって、最も不要なものは気遣いそのもの。だから、海虎のような隔たりのない善性を振りまける親友がいて、真帆のように平等に心を開いてくれる友人がいる。
あの時の歩の突拍子もない行動は、突き詰めて考えてみれば、秀輝の性に合っていたのだ。それは、誰も否定できない、秀輝のみが知っている事実。
「俺は、多分、比企田くんの真っ直ぐなとこが良いって……嬉しい? って、思ったから、むしろ、追いかけて後悔はしてない」
「そう、ですか……」
「それでさ、……単刀直入に言っちゃうけど、比企田くん」
「……はい」
秀輝の中に残り続けた、たった一つの疑念。それは、さきほどまでの真帆と海虎のやり取りで、確信により近付いていた。
歩の得体のしれない経歴と異名。彼が、なぜ高校を転々とするのか。どうして、一人を選び続けるのか。これは彼が見せてくれた、ほんの小さな弱さと淡い希望に見せられた秀輝の早とちりに過ぎない。それでも、気になってしょうがないのだ。
――歩は、〝侵略者〟にならざるを得なかったのではないか、と。
「もう一度、泳いでほしい」
「……? 先輩の前で、ですか」
「うん。ぁ……いや、違うな。俺の存在は、忘れて」
「はい?」
眉をひそめて、お得意のジト目に元通り。秀輝は、プールサイドを見渡して、綺麗な青色の空を仰いだ。心地よさそうに深呼吸を混ぜた声色に、歩は、つい世界の音を忘れてしまいそうになった。秀輝の、優しく潮風で撫でるような澄んだ言葉しか、今は彼の耳に届かない。
「取材とか、テレビとか、観客とか、全部忘れて。誰一人として、比企田くんの泳ぎを見てないし、全員と無関係で赤の他人だ」
「……」
「泳いでくれる?」
しばしの沈黙が流れる。この間、二人が目を逸らすことは、一度たりともなかった。ただ、プールに際限なく注がれ続ける水の音と、わずかに吹く微風で掻き立てられる木々のどよめきのみが二人を見守っている。
どちらが、先に観念するかのにらめっこ。
「……はぁ」
先に白旗を上げたのは、歩だった。彼から立ち上っていた張り詰めた緊張の糸を、秀輝は解いてみせたのだ。
まだ、泳ぎも見せられてもないのに、早くから満足気に破顔する秀輝を見て、分が悪く感じたらしい。歩は、抱いていたアリエルを、わざと秀輝の眼前へ持ち上げ、鳴き声を一つ浴びせた。
「アリエルを、しっかり抱いててください」
「お、おうっ! やってやる」
「……不安だなぁ……」
秀輝の腕の中に移動してもなお、アリエルは我関せずと言った顔つきで、緩慢に嘴を持ち上げている。
歩は、しっかりと秀輝がアリエルを抱えられているのを確認してから、ラッシュガードを脱いだ。秀輝には伝えていないが、ペンギンという生物は全身に油を纏っている。そのため、ラッシュガードを着用して、抱くことにしているのだ。水族館のペンギンコーナーで漂う独特な匂いこそ、その正体。歩は、秀輝にではなく、秀輝の纏うバスケの練習着に向けて心の中で謝罪を送った。
「シャワー浴びてきます」
「おう! あの時のスタート台で待ってるから」
返事もなしに、建物の影に入っていった背中を見送って、安堵の息を漏らした。秀輝も秀輝なりに歩を刺激しないよう、必死に言葉を探していたのだ。
それも無事、功を奏して再び泳ぎを目にすることが叶う。漸く、答え合わせが出来るのだ。
秀輝は、期待感を滲ませて、スタート台のほうへ歩き出した。
「……これが比企田くんの、本当の姿」
広大な水槽でも、賑わう人工プールでもなんでもない。ただの湖や海を自由に駆け回る群れを離れた一匹の遊泳者。水面から覗く鍛えられた背中には、なんの歓声も視線も伸し掛かっていない。まるで、羽でも広げたかのように優雅に、筋肉が水と一緒に踊っている。
秀輝は、裸足がじりじりと熱されていくのも気にならないほどに、夢中で歩の泳ぎに見惚れていた。
もう彼から、夜宮水月という影を感じないのに、目が離せないのだ。
「知ってるじゃん。水の中の楽しさ」
久しぶりに自分の手で、足で、水の中に今すぐ飛び込みたいという気持ちが湧いていた。
あの時に見たプールと同じなのに、不思議と全く違う別のどこか、穏やかで晴れがましい場所に一瞬で彼は連れ去ってくれる。泳ぎという、とっておきの武器で。
水を掻き立てる音と揺蕩う波。上がる飛沫に神経が削がれて仕方がなかった蒸し暑い記憶。プールという箱庭だけの舞台装置が魅せる、秀輝を陥れるための恐怖演出など、もうそこには存在していない。
かねてより、秀輝は、ただただ目の前に広がる、碧く澄み渡った無垢な自由を掴まんと渇望していたんだ。
「あいつなら、きっと……」
水泳帽とゴーグル、おまけに水に被せられた歩の顔など見えるはずもなかった。それでも、既に折り返して、こちらへ向かってくる勢いの中に殺気迫るような残酷さは一つも滲んでいない。
歩自身も、それは水面を叩く爪先から、じわじわと伝わる高揚感として感じ取っていたのだ。水底から引っ張られるような重力も、上から身を劈く色めきも、どうして忘れられなかったのだろう。
今は、こんなにも素直に、自由になれているのに。
「……はっ!」
気付けば、壁に手が付いていた。五十メートルを自由形で一往復しただけだというのに、歩は興奮冷めやらぬ顔色で息を切らしている。水泳帽とゴーグルを一挙に取り去って、首から提げる余裕もなく、腕は水の中へ落ちていった。頭は真っ白で、一切の邪念も感じない。文字通り、歩は立ち尽くしていた。
「思ってた通りだ!」
頭上から降る声は、少しだけ震えていた。見上げると、スタート台に膝を乗せて、頭を突き出している。秀輝の影は、怖いもの知らずの子どものように、歩に覆いかぶさった。
彼の双眸には、一面の青と歩しか映っていない。水面を乱反射する、キラキラとした太陽の光が秀輝の瞳で沢山瞬いていて、今にも溢れそうだった。
歩は、そんな昼の星空を見上げて、降り注ぐ眩しさに目を細める。
「比企田くんの泳ぎ見てたら、俺も試したくなった」
抱えていたアリエルを器用に持ち直して、片方の腕を伸ばした。行き先は、紛れもなく歩のほうに向かっていて、頭上で手のひらを翳す。一歩間違えれば、水に触れる距離。歩は、秀輝の言葉に瞠り、躊躇った。
「勝手なお願い、聞いてくれる?」
「……」
早くその手を取らないと、きっとバランスを崩して、秀輝はアリエルごとプールに落ちてしまうだろう。伸ばされた指先が、まだ少しだけ震えているから、怖いことに変わりはないのだ。恐怖を目前にしても、彼は、懸命に歩と向き合おうとしている。
だから、これは、歩が自分自身にする叱咤だ。目を瞑っても、視界は真っ白にチカチカと鬱陶しく判断を急がせる。眉間に力を入れすぎて、目眩すら覚える。
――あぁ、どうして泳ぎきってしまったのだろう。
「教えてほしいんだ。比企田くん」
「……!」
「俺に、水の中で生きられる方法を教えて」
歩の中で渦巻いていた霧は、一瞬にして薙ぎ払われた。痛いほどに眩い無知な眼差しと、透き通っていく突飛な甘さは、干からびた心をソーダみたいに潤していく
手を取るまでの時間に躊躇いはなかった。
決心したならば、すぐに掴んでみせてこそ。そうやって、いつも前を向いてきたから。
「……っ、ぁ、……ありがとう」
「なんで、比企田くんが言うの。こっちのセリフでしょ」
「……ううん、……俺が伝えたいから、伝えたんです」
「そっか、……うん、俺も、ありがとう」
他者からの抑圧がない身軽さを取り戻した瞬間を、一生忘れないだろう。
無知から始まった当たり前の糸のすれ違いは、漸く綺麗に結ばれ始めた。
「じゃあ、ちょっとそのままアリエル抱えててください」
「……? おう……っおい、どこに」
「見ればわかりますから」
プールサイドに立てられたテントの中に移動して、秀輝は初めて腰を落ち着けた。
アリエルがやっと地上に降ろされたのを、嬉々としてはしゃいでいる。額から流れていた汗を、鞄から取り出したタオルで適当に拭き上げて、歩の到着を待った。
「ずっと暑かったよな、ごめんな」
ホースから流れる水をアリエルの背中に流して涼ませる。両腕に染み付いたペンギンの匂いに、「やられた」と歯をむき出し、急いで濯いだ。
「お待たせしました」
「あぁ、お、お前……俺の腕と練習着が、こんなになるの分かってたよな」
「良かったじゃないですか、学びが増えて。それでも、アリエルを抱えててくれたのは、先輩が優しいからですね」
「なんか、納得しないなぁ……」
歩は、片手に足踏み式ポンプ、もう片方になにやら圧縮された薄いなにかを持っていた。そそくさと床に広げて準備を始める様子を眺めていれば、いつものジト目が振り返る。無言の圧を感じて、秀輝は苦笑いに彼の奥に広げられたそれらを覗き込んだ。
どうやら、円形のソレ――ビニールプールを用意しているらしい。
「じゃあ、先輩からどうぞ」
「あ、はい」
ポンプを足元に置かれ、有無も言わず従順に立ち上がった。ビニールプールなど家にあったことがない秀輝は、目の前のしわくちゃな物体が一体、どう変化していくのかが気になり、思いっきりポンプを踏み込んだ。意外とすんなり押せてしまう空気に、余裕でも生まれたのか、口端を上げて歩を睨み返してみた。
「あとは俺に任せろ」とでも言いたげに、足踏みをする秀輝が、このあと痛い目を見ることなど、歩は分かりきっている。だから、面白がって、敢えてなにも応えなかった。
「これも全て学び、だよね。アリエル」
アリエルは、飽き性なのか、もう腹ばいになって退屈そうに寛いでいる。
「……何分経った?」
「まだ十五分程度ですかね」
「……うっす」
二人は、完成したビニールプールの中で優雅に揺蕩うアリエルを前に、三角座りで話し込んでいた。かれこれ、三十分以上はプールサイドのテントで休んでいるため、すっかり歩の全身は自然乾燥されきっている。はじめに見たラッシュガードではなく、水泳部のジャージを肩に掛けて身体が冷えないようにしていた。
「先輩は、水のことを怖がってるのに、どうして」
顔半分を膝に隠して、向かい側で自分と全く同じ姿勢の秀輝に問いかける。目だけが歩のほうを見て、なにも言わずにアリエルへ戻された。不思議と歩もつられて視線を下げる。
「比企田くんが言ったじゃん」
――先輩なら、生きられる。
「……俺は、それを信じただけだよ」
正直なところ、歩は、忘れ去られてしまっているものだと思っていた。なにせ、拒絶されて当然なほどに無理を強いたのだ。おまけに、淡い期待を抱かせた結果、本分であるバスケすら、直接ではないが邪魔をしてしまった。
だから、これは照れ隠しである。膝を抱える手元をまごつかせて、何度も握り直した。
秀輝は、アリエルをじっと眺め続けていて、特に返事などいらないように見える。本来ならば、早々に歩も黙り込んで会話は終わってしまうだろう。しかし、今だけは、永遠にこの瞬間に居座りたくて、嫌味な返事をついこぼす。
「ただの誘い文句ですよ」
「……その誘い文句に乗っかってやったんだよ」
「……」
弾まない会話に、「誰でも良いから助けてくれ」と歩は心のなかでのたうち回っていた。彼の会話スキルが人より劣っているというのは、秀輝も認識してくれたはず。しかし、どうしてペンギンに夢中で余裕綽々としていられるのか。歩には、それがイマイチ理解できなかった。てっきり、秀輝のほうから色々と突っ込んだ質問やらトークをかまされると身構えていたのに、この有様。
歩は、隠していた半分の顔を漸く持ち上げ、膝の上に置いた。やっとの思いで姿を表した表情は、子供のように唇を尖らせて、拗ねている。
「大体なんだよ、侵略者になりますかって」
「まぁ、はい……すみません、そこは、自分でも変だなって常々思ってます」
「だーもー!!!」
アリエルにかからないよう、秀輝は、歩を目掛けてプールの中の水を指で弾いた。咄嗟に逃げの体勢を取ったが、水飛沫はあっさりとプールの中だけに留まって落ちる。
「お前、陸に上がると、途端にちっさくなるのなんなんだよ」
「……べつに、なにも……」
「だからさぁ、あれだろ」
秀輝は、一拍置くように言い淀む。唇をもごもごと気まずそうに引き結び、突然立ち上がった。手のひらについた僅かな小石を振り払う姿は、さきほどの歩同様、照れ隠しを含ませている。
「……普通に、友達になりませんかって、言えばいいじゃん」
両手を腰に置いて、上半身は逸らしてしまった。高校三年とはいえ、真っ向から「友達作り」だなんて、中々しない発言である。ましてや、同じクラスや部活動であれば、自然と関係は構築されるもの。改めて、自分の得意とする範囲外の人間と信頼を築いていくことの気恥ずかしさが滲んでしまうのは、やむを得ないことだった。
そんな、複雑でいかにも若者らしい感情を向けられている当の本人は、本当になにも理解しきれていないのか、ただただポカンと秀輝の顔を一心に見上げている。
「……?」
「お前、自覚してないのか……」
がっくり、と肩を落とした勢いは、ビニールプールの水面を揺らすほど。いつの間にか、アリエルも立っていて、嘆息をこぼす秀輝を元気づけるようにすり寄ってきた。
「ありえるぅ……」
流れてもない涙を、声色に滲ませながら、背中を撫でる。
今しがた、秀輝は歩の顔を向き直して、まだまだ海虎のようにはいけないな、と身の振り方を考え直していたのだった。
それからのこと、二人は、部活終わりにプールに集合して、泳ぐ練習を始めた。
最初こそ、クロールをちょっとするだけでも息がすぐ上がっていた秀輝に、歩は「無理はするべきでない」と伝えたこともあった。
「金槌だったんですね」
「……言わなくても分かるだろ」
「すみません」
「謝るなって。なんのために、ここにいるんだよ」
秀輝は、歩の泳ぎを見たあとだからこそ、自分の泳げなさ、水に対する恐怖心の底知れなさを痛感していた。それでも、少しでも昔の自分から脱却したくて、ひたむきに水に触れ続けるのだ。
かくいう歩も、彼に少し甘さを見せていたのだろう。今更、「誰かの努力を蔑ろにするものでもない」と観念して、満更でもなく彼の練習に付き合っていたのだから。
「慣れてきましたね」
「あぁ、ちょっとだけ、だけど」
「十分すごいです」
「いいや、俺はもっと、今より長く水の中で息がしてみたい」
「……大変ですよ」
「そうだね」と微笑み返す秀輝の顔は、日々の疲労を滲ませているものの、数日前までの空虚さを拵えたソレとは全く異なっている。
彼には、確実に変化の兆しが芽生えていたのだ。もとより、秀輝の持つ運動に対するポテンシャルが輝いたことに違いない。伊達に、高校三年まで陸を走り続けてきたものである。歩という絶大な泳者の助言があれば、すぐに光れる原石の準備は出来ていたのだ。
だから、あとは磨き続けるだけ。
あっという間に、二五メートルのクロールをするのに、焦って呼吸をして息を切らすこともなくなった。これには、歩も目を瞠って彼の成長ぶりを静かに称えた。
「すごいです。また、二五メートルの記録更新しましたよ」
「よっしゃ! いい調子」
「……ふっ、どうです。水の中は」
「ん、……そうだな、想像の何億倍も生きた心地がして、楽しいよ」
疲れが蓄積した日は、たまに酷く息切れを起こすこともあった。
やはり、秀輝の恐怖症を完全に取り払うことなんて、物理で解決できるものじゃなかったのだ。精神疾患は決して侮ってはいけない。結局は、自分自身の心一つで戦わなければいけない病気なのだ。
ある時、また自己記録を塗り替えた秀輝は、肩を震わせて水の中でポツリと立ち尽くしていた。身を案じた歩が救出しようとスタート台からすぐに飛び込むと、その先に待っていたのは、キラキラと眼を見開く姿だった。
秀輝は、水にのまれるかもしれない、という恐怖を抱えながらも、地道に確実に成果を出している自分に感動して嬉しくて堪らなかったのだ。
「……ありがとう、歩」
あの頃の、〝水泳本来の楽しさ〟を取り戻した子供の無垢な笑顔。
懐かしむように、壊れないように、水面を両手で掬い上げて握り込む。そんな姿が眩しくて、歩にとって、この上ないくらい守らなければいけない純粋さになっていた。
上昇気流は、強く吹き上がる。日本の夏は、晴れの日も多いが、雨の日は更に厄介である。
――きっと、近いうちに雨が降る。
青を見上げて、忙しなく蠢く白い泡を目で追いかけた。
微かに鼻腔をくすぶるのは、濡れた土の匂い。近くの茂みから、カエルの鳴き声が聞こえる。
「――秀輝」
部活終わりの練習着は、ジメジメとした蒸し暑さで、いつもより身体に纏わりついてきて不愉快だった。
