上手く隠せていたつもりが、むしろ裏目に出てきてしまうことなんて、ざらにあること。それは、他人からの指摘や、自負するような経験がない限り、気付けないところも質が悪い。
秀輝も、そんなありふれた人の生の中で、無意識のうちに葛藤の渦に飲まれている。
「……はぁ」
八月の中旬に差し掛かった頃、ある早朝に誰よりも早く、秀輝は体育館に到着していた。
結局、あの日から脚の違和感は払拭されていない。朝練習の一時間前に個人のフリースロー練習に入る習慣がつくほど、ソレに固執しきっていた。
しかし、今日もボールは思うようにリングに迎えてもらえない。個人のシュート率も日々記録しているが、秀輝のスコアだけ右肩下がり。あらゆる策を海虎や櫛田コーチが提案してくれた。それでも、成功確率は六割以下。レイアップやバック、ダンクなど、フリースロー以外のものは当たり前に入るし、相当追い込まれない限り確実に入れられる。百かゼロのような実力が目に見えて数字となり、余計に彼を焦らせた。
それにしても、シュートを外したときほど、ボールの音が無駄に煩わしく感じることはない。くわえて、体育館にいるのは秀輝の一人のみ。当たり前のように、ボール一つ分とバッシュ一人分の音が、館内でなんの障壁に遮られることもなく反響する世界だ。ゴール下を通り過ぎるボールに掠る、リングから吊り下がるネットが奏でる音の脆弱さ。誰からも受け止めてもらえず、衝撃のまま体当たりしに行くボール。一度、床に落ちて壁に跳ねると、バウンドしながら大人しく秀輝のもとへ帰ってきた。
「……っ」
さきほどから、秀輝の出す音しかないはずなのに、妙に周りが気になって仕方がない。彼の予期せぬところで、焦りから伝播した感情が邪魔をし始めている証拠だろうか。
朝練習中、シュートが入らないことが続くと特に周りの目を伺うようになってしまった。それは、チームの仲間がいない個人練習でも時間を気にするのと同程度くらいに、なにもない空間、影もない隙間をキョロキョロと見るのだ。
せっかく、心地の良い早朝で扇風機すら独占できている空間なのに、彼はもう、げっそりと顔に不快感を浮かべている。拭うのを忘れた汗は、まつ毛にせき止められ、思わぬところで眼に突き刺さって滲んだ。襟ぐりで煩雑に顔を拭き上げる。
「ラスト一本……!」
指先に力を込める。全身の神経を研ぎ澄ませるように、ゆるく膝を落とした。力を抜くのは一瞬でいい。あとは、流れるように腕が伸びてくれる。
フォームは、誰がなんと言おうと間違っていない。そこからが問題なのだ。
跳び上がり、膝は伸びる。閉じられていた腕は、ゴール目掛けて伸び、両手からボールが離れていった。綺麗な湾曲状に空を駆けていくバスケットボールの行く先は、しっかりとリングを補足している。まだ宙にいた秀輝は、無表情に希っていた。
落ちろ。
落ちろ。
リングの中へ、落ちろ。
ボールがリングを眼前とした瞬間に、秀輝は体育館に降り立つ。
――はずだった。
「……っ!」
突如として、視点が高速で上下に動く。絶叫マシーンに乗っているかのように、垂直落下するのだ。あったはずの床も、持っていたはずの神経も体幹も、全部がデタラメだと現実は言い張る。
秀輝は、見えない足場を凝視して仰け反る。止めどない虚空へ落ちていく自分自身をもがくように捩った。さきほど、打ったはずのボールも一向に落ちてこない。
上を見るだけだ。シュートの結果を見るだけである。それなのに、秀輝は怖がって、拒絶して、見上げることをしなかった。それは、シュートは入らないと決めつける自己嫌悪からか。はたまた、遠のく空を見てしまうと、自分が落ち続けていることを認めてしまうからか。
だからといって、秀輝を待ち受ける底なしは、いつだって敵に違いない。不気味に乱反射する表面は、毅然とした態度で待ち受けているのだ。
(……落ちるっ……)
あの日見た悪夢の海が忘れられなかった。真っ白な腕が、こちらを掴もうと不気味な水底から這い出てくるのも。逃げたくても、波に邪魔されて、足が固まりきってしまうのも。
全部、全部。
勝手に、終わらせてくれなかった。
「いつか俺は本当に、水の中で死ぬのだろう」と、秀輝は目尻から汗か涙か、判別のつかない雫を流す。
水の中は、苦しいことを、彼は知っている。
だから、死から逃れたい。水から逃れたい。
――殺されたくなんか、ない。
「おはようございまーす!!!!」
真空の中を轟音が貫いた。視界は、一気に晴れていき水も引いていく。ふらふらと膝から力が抜けて、しゃがみ込んだ。
音の主は、チームの仲間たちが出したものだった。体育館の正面入口は、老朽化のために、それなりに力をかけないと開かないスライドドアだ。加減を知らない男たちが、朝から元気という名の猛威を振るってくれたらしい。
秀輝は、乱れた息を整えて、なんとか持ち直す。扇風機で汗や身体の調子にリセットを掛け、涼しい顔をするのだ。余計な詮索をされては、更に周りの目を増やすに違いない。彼は、至って平静な副キャプテンを装い、仲間たちに挨拶を返した。
「おはようー」
自分を保つことに精一杯な秀輝は、気付けない。
唯一無二は、目ざとく、秀輝のことを怪訝に見つめていることに。
夜のプールは、涼しくて自由で神秘的だ。
最後に人が使ってから数時間は経っているので、プールサイドのジメジメとした湿り気を気にする必要がない。くわえて、学校の屋外プールのような熱されたコンクリートの地面を素足で踏まなくて済む。
ここ――総合体育館にある屋内プールを貸し切って、他より贅沢な時間を過ごしているというのに、なぜだか彼は退屈そうにプールサイドで三角座りをしていた。
「乗り気じゃない?」
「……」
明らかに肩を落としていることは、彼が水着姿だから一目瞭然である。ゴーグルも水泳帽も傍らに放置して、水面を爪先で蹴っている。
「うまくいかないの? 歩」
「さぁ……結局、周りと同じだっただけですよ。あの人も、いずれ水に殺される」
「ふぅん」
プールサイドで背を丸める歩の背後に寄ると、プールの水面に全身が映った。細く引き締まった身体に、長い手足を持て余すかのように立つ男。シルエットだけでもモデルのような頭身だと思わせる次元超越者の風格は、反射する水面の上で蓮の花の如く咲いていた。
男の顔は、照度を低くした屋内では陰ってよく見えない。身長もそれなりにあるため、尚更、顔が水から遠いのだろう。
「差し入れだよ」
「なんです」
「ん~……特製ドリンク! 未発表の新作らしいから、内緒だよ」
面倒くさい、と思いつつも慣れたように、「ありがとうございます」と歩は、ペットボトルを受け取った。ラベルを見てみれば、確かに店舗で見たことのないスポーツ飲料水の新作フレーバーだった。早速、蓋をひねって一口試飲する。
「ちょっと、あまい」
「あっやっぱり? 俺も、それは同じ意見だった」
「まぁ……夏には、いいんじゃないんですか?」
「さすが、現役の感想は助かるよ」
男の言葉に鼻で笑った。彼も、まだ現役のスターだというのに。歩を導いた、否よくも見出した本人がなにを言うのだろう。
「始めます」
「うん、いつでもどうぞ」
最後に水面を思い切り蹴ると、ざぱ、と水沫が荒々しく跳ねた。重い腰を上げてスタート台へ向かえば、弾いた飛沫が漸く落ちるところだった。
水泳帽とゴーグルを装着して息を吸う。呼吸をする、前を見る、泳ぐ準備。
ゴーグルに覆われ、視界は黒く、レイヤーをかけられてしまった。
足の爪先でスタート台の縁を握り込んだ。すぅ、と肩を伸ばして、指先に全神経を研ぎ澄ませ合図を待つ。
――これで、良かったのだ。
プールサイドに立つ男の手に握られたスマホから電子音が鳴る。
コンマ一秒ほどの合図を、歩は聞き逃さない。少しでも遅れたり、フライングをしたりすることがあれば、選手人生の命取りとなるから。
思いっきり踏み込んで、スタート台を蹴った。ナイフのような切先で水面を切り裂き、己を投じていく。
あとは水そのものに身を委ねるだけ。自我を捨て、果てのない水の行き止まりを見つけるために泳ぐことだけを考える。
そうすれば、きっと、きっと――。
「歩は、消耗品なんかじゃない。……こんなに、綺麗に泳げるのに。お願い、歩を見つけて、神様……」
男の立つ陸地は、既に埋め立てられていて、水の届く隙間はなかった。
それでも、安全地帯と言えない。いつ、大地が裂けてもおかしくない。
だからこそ、男は今でも、足場の不安定な舞台の上で水底を見つめているのだ。
転がり落ちてしまった人を、見つけるために。
ある日の朝練習を終えた頃、ピロティにて三人は、優雅にランチョンマットを広げていた。昼練習に入った野球部の様子を、冷気の漂うコンクリート空間から眺めるだけで、優越感と背徳的な気分を同時に楽しめる。
ただ、この三人に至っては、そのような考えは微塵もなく、そもそも範疇になかった。
「へぇ~~これが中学の時の歩くん?」
「そうそう、すごいよねー! 見てコレ、金メダル提げてる」
「うおっ、マジだ、やべえ」
遠ざけていたはずの人物が、なぜか三人の中で共通の話題になっていた。どうやら、秀輝の話を聞いた真帆は、個人的に歩の経歴を調べていたという。
彼女の持つ広大なネットワークには、海虎も目を瞠るほどの人脈と、積み重ねてきた人望がつき詰まっている。なので、突然現れた正体不明の歩のような男でも、真帆の手にかかれば一瞬で仮面が剥がされてしまうのだ。
「シンリャクシャ? だっけ、あれ、あながち間違いじゃなかったんだねー」
「?……どういうこと」
「ん~、なんか、すごく小さい頃から、前線張ってる感じ? ま、比企田くん本人のやりたいことかは、分かんないけど」
真帆は、スマホに映る幼い姿の歩を指した。中学生だというのに、今とそう変わらない早熟した顔を貼り付けて表彰台に立っている彼。年相応の身体と、妙に大人びた顔つきは少々アンバランスで、しかし、二次元的な頭身とパーツは高校生の彼より浮き立っている。
例えるなら、まさに偶像到達点。あの金メダルすら、「窮屈です」と言いたげに胸元で煌めいている。
「ざっと、中学生が出る水泳関係の大会は全部調べたよ。どれも、比企田くんは出場してたし、軒並みメダル乱獲まつり。もはや、独壇場だよね」
「へぇ……でも、なんでうちの高校に来てるんだろうね。水泳で強いって話は、申し訳ないけど、聞かない……な」
「海虎がそんなこと言うの意外だな」
「誤解するなよ、弱いって言ってるわけじゃない。ただ、目立つことはないってだけ、だろ?」
「目立つ」
秀輝は、そのままオウム返しにボヤく。
彼の中で一つの仮説が生まれていた。比喩や冗談ではなく、本当に同族嫌悪から彼を拒絶していたのではないかと。そう考え始めたら、頭の中で知りもしない歩の過去が止めどなく溢れて勝手に同情すら覚える。
しかし、邪な私情は真帆の情報提供によって、ものの見事に打ち砕かれた。
「小学生から今までずっっっと、水泳漬けだね。ほら、これ。わりと有名なジュニアスイミングスクールらしいよ」
「……ほんと真帆って、どこでそれを拾ってくるの」
「ナイショ~」
小気味よく唇の片端を上げて、ふふん、と鼻を鳴らす真帆に、秀輝は完敗の面である。彼がなにかを考察し、発見するよりも、おそらく彼女から先に聞き出したほうが早いと悟ったのだ。
「あれ? でも、このちっちゃい歩くん、すっげーイメージと真逆でめっちゃはしゃいでない?」
「あ、海虎も気付いた? だよねー。でも、まああるでしょ。思春期到来ってやつ」
「ありえなくはないか」
「うんうん」
「思春期なんて海虎も秀輝も」と指をくるくる持て余し始めた真帆に、二人がかりで止めにかかった。高校デビューで少々から回っていた当時のことを思い出すのが痛いのだろう。にしし、と小悪魔に笑う彼女は、華麗に二人から身を躱し、話を続ける。
「ま、昔の君たちの性格なんて、今を形作るただの過程でしかないからね」
安堵の嘆息をこぼして体勢を戻した。海虎は、なにやら気恥ずかしそうに、珍しく顔を背けて口を覆っている。正直者で素直な真帆だから言えるキザな言葉に、弱いのだろう。
とどのつまり、「今の二人を見ている」ということだ。全く、憎めない可憐な女性であることに間違いはない。
「これ、去年? くらいに出てたスポーツ新聞の記事。比企田くんが、若手の選手として注目されてるんだけどね、ちょっと、おかしいんだよね」
「おかしい……? あ、これ、……『人魚の連れ子』って」
「そうそうソレ! カッコイイよねー」
「なにそれ?! やっばぁ……選手の特権?」
記事の見出しを彩る、だいそれた二つ名。
『人魚の連れ子、今年は温存か』
一面をざっと流し見た感じ、どうやら、歩の水泳に関するコラムと、これからのキャリアに対して考察するような内容だった。
「『自身を〝侵略者〟と名乗る比企田選手だが、独自調査によれば、彼本人が生み出した異名でないことが判明した』……はぁ~、そこまで調べてんの」
「ね、記者ってすごいよね」
「なんか、勝手に覗いてるみたいでフクザツ、だけど……」
「でも、背に腹は代えられないでしょ? 無知なままじゃ、比企田くんを傷付けちゃうかもしれないんだし」
「そうだけど……」
真帆と秀輝の真剣な話し合いに、海虎は耳だけを貸していた。食べかけのコンビニ弁当に箸を進めながら、あの日、ピロティで出会った歩のことを頭に浮かべて。
二人が熱心に討論する記事の内容を要約すると、このようになる。
まず、比企田歩という水泳選手は、中学一年にして、長水路標準記録を軽々と突破していった稀有な存在だということ。
そして、その記録は、水泳界の頂点であった夜宮水月の保持するジュニア記録に最も近く、塗り替える手前であった。
夜宮水月が、電撃引退してから数年。突如、現れた超新星は、新たなる希望の星――いや、星の再光として『人魚の連れ子』と呼ばれ、担がれ始めるのだ。
「『コーチは、小学生時代からお世話になっているスイミングスクールの先生。しかし、時折見せる〝人魚〟を彷彿とさせるような泳ぎは、ただの憧れだけで出来るものだろうか』……すごいな、やっぱり夜宮選手みたいだって思ったのは、間違ってなかった」
「夜宮選手ってあの、今じゃアイドルみたいにテレビに出まくってる人だよね」
「そうだね。選手だったときの縁で、スポーツ関係のアパレルもやってるみたいだけど」
「詳しいじゃん」
「……ちょっとね。でも、夜宮選手の本気の泳ぎは引退以来全く見てないから、……寂しいかな」
言葉尻悪く、しんとする。秀輝は、「今は、比企田くんの話だから」と右手を横に振って続きを促した。
話は戻り、それからのこと、歩の中学水泳時代は、全盛を極めていく。三年にもなれば、遂に、夜宮水月のジュニア記録を塗り替えた。
日々のメディア露出によって、観衆の目に晒される時間は次第に増えていき、彼は選手としての道を本格的に歩き始めることとなるのだ。
しかし、歩に秘められていた本来の力は、高校生になってから発揮され始めた。スカウトを受けていたため、当然のように水泳強豪校に入学するのだが――。
「『春季大会を待たずして、僅か一ヶ月で転校』……て、はぁ?」
「飽き性なのか、一人好きなのか……不思議ちゃんだねー比企田くんって」
「いや、いやいや……せっかくスカウト受けたのに、なんで蹴るようなことしてんだ?」
「それ、秀輝が言うの?」
無意識に自分自身から地雷を踏みに行っていたことを、真帆に痛く指摘された。なにも返せずに口を噤めば、海虎が肩を優しく叩き、秀輝の持参していた水筒を飲めと促す。猛暑の中だというのに、未だに保たれている冷気の残った水のおかげで、なんとか自重できた。
「比企田くんは、ずっと高校を転々としてるみたい。転校して、水泳部に入って、その部の記録を塗り替えて、すぐに立ち去る……そんなことを続けてるって」
「はぇ~~道場破り?」
「そう言っちゃうとカッコイイけど、やられた側は堪ったもんじゃないよねぇー」
「あぁ、だから〝侵略者〟なのか。嫌味だね」
水筒をちびちびと飲みながら、真帆と海虎の卒のないやり取りに感心する。頭の回転が早くて、あらゆる立場の人間の視点に立てて、言語化もそれなりに出来て、彼らにないものは逆になんなのだろう。
歩は、高校生になってから、公式大会に部活動や団体といった部門で出場することはめっきり無くなった。完全個人という非常にハードルの高い枠で神出鬼没に現れるのだ。
海虎の言う、道場破りな行動と、個人戦を好む得体の知れない脅威を加味すれば、彼が『侵略者』と揶揄されるのは十分すぎるほど頷ける。
歩自身が、「侵略者だ」と名乗っていたのは、紛れもなく自嘲だろう。
「でも、不思議だよね。比企田くん、わざわざ夏休みの時間使ってまで、うちの高校に留まってるの」
「だよなぁ。そこ、俺も引っかかってた」
「秀輝こそ、なにか気付かなかったの?」
「……えぇっ」
思ってもない疑問を投げかけられて、胡座のまま小首を傾げる。あの時の秀輝に、歩の本性を見抜けるような余裕や精神状態は到底無かった。今でさえ、さらなる追加情報で上の空になりかけていたというのに、思い出せる気概すら感じられない。秀輝は、とりあえず悩む素振りをするだけして、二人の視線を自分から外させた。
ふわふわ、ゆらゆら。上半身を左右に振り子のように揺らして、ピロティの渡り廊下へと続く奥を覗いてみる。この道を辿って、あの日、無理やりプールへ連行された。そして、比企田歩という、選手の姿を見せつけられたのだ。
あの場で見せられた泳ぎは、夜宮水月を思わせ、一瞬にして秀輝の心を水の中へと誘い込んだ。あまりにも突飛であると自覚しているから、二人には、「歩の泳ぎは、自分を殺している」なんてことまで話していない。
もし、彼の隠された秘密に秀輝だけが気付いているのならば、暴く資格はきっとある。本人から、まるで共犯者になれ、とでも言うような言葉も受け取った事実だってあるのだ。
(でも……だからといって……俺は……)
二人に気付かれない程度に息をこぼす。
いっそのこと、本人が登場して全てを話してくれれば――。
「――ぁ」
言霊の力とは、存外信用できないものでもない。
秀輝は、手に持っていた水筒を一気に飲み干して、足元に置いたままだったゴミ袋を鞄に詰め込んだ。
「ん? なんか用事でも思い出した?」
「あ、……あぁ~そんなとこ」
「そか、じゃあ今日は、この辺で帰るか」
「ごめん! ちょっと、別件があるから、一緒に帰れない。ごめん」
さきほどまで、呆然と黄昏れていた人とは思えないほど、きびきびとした身支度に海虎は、眉をひそめた。
秀輝の目線の先を捉えられたら、きっと止められるに違いない。だから、キョロキョロと敢えて視線を彷徨わせて、焦っていることを演出する。偶然にも、真帆が海虎の腕を取ってくれたおかげで、ついてこられるのを阻止できた。
適当な別れを告げ、足早に彼女の横を通り過ぎる。ふと、真帆の顔を横目に見れば、ぱちりと視線が合ったので、あいにく行き先には気付かれているらしい。
――ありがとう。
口の動きだけで伝える。
それを認めるなり、満更でもなさそうに真帆は視線を外した。遠ざかる背後から聞こえてくる彼女の声は、とても嬉しそうで、期待に満ちていて、心底安心する音をしている。
次は真帆にもお礼をしなければ、と眉を下げて秀輝は走った。
向かう、ピロティの奥。プールへと繋がる渡り廊下一直線。薄れていた影が近付いてくる。
まだ、数度しか見ていないのに、すっかり印象に残ってしまった背中は、前見たときよりも縮めていて、丸まっているように見えた。
秀輝も、そんなありふれた人の生の中で、無意識のうちに葛藤の渦に飲まれている。
「……はぁ」
八月の中旬に差し掛かった頃、ある早朝に誰よりも早く、秀輝は体育館に到着していた。
結局、あの日から脚の違和感は払拭されていない。朝練習の一時間前に個人のフリースロー練習に入る習慣がつくほど、ソレに固執しきっていた。
しかし、今日もボールは思うようにリングに迎えてもらえない。個人のシュート率も日々記録しているが、秀輝のスコアだけ右肩下がり。あらゆる策を海虎や櫛田コーチが提案してくれた。それでも、成功確率は六割以下。レイアップやバック、ダンクなど、フリースロー以外のものは当たり前に入るし、相当追い込まれない限り確実に入れられる。百かゼロのような実力が目に見えて数字となり、余計に彼を焦らせた。
それにしても、シュートを外したときほど、ボールの音が無駄に煩わしく感じることはない。くわえて、体育館にいるのは秀輝の一人のみ。当たり前のように、ボール一つ分とバッシュ一人分の音が、館内でなんの障壁に遮られることもなく反響する世界だ。ゴール下を通り過ぎるボールに掠る、リングから吊り下がるネットが奏でる音の脆弱さ。誰からも受け止めてもらえず、衝撃のまま体当たりしに行くボール。一度、床に落ちて壁に跳ねると、バウンドしながら大人しく秀輝のもとへ帰ってきた。
「……っ」
さきほどから、秀輝の出す音しかないはずなのに、妙に周りが気になって仕方がない。彼の予期せぬところで、焦りから伝播した感情が邪魔をし始めている証拠だろうか。
朝練習中、シュートが入らないことが続くと特に周りの目を伺うようになってしまった。それは、チームの仲間がいない個人練習でも時間を気にするのと同程度くらいに、なにもない空間、影もない隙間をキョロキョロと見るのだ。
せっかく、心地の良い早朝で扇風機すら独占できている空間なのに、彼はもう、げっそりと顔に不快感を浮かべている。拭うのを忘れた汗は、まつ毛にせき止められ、思わぬところで眼に突き刺さって滲んだ。襟ぐりで煩雑に顔を拭き上げる。
「ラスト一本……!」
指先に力を込める。全身の神経を研ぎ澄ませるように、ゆるく膝を落とした。力を抜くのは一瞬でいい。あとは、流れるように腕が伸びてくれる。
フォームは、誰がなんと言おうと間違っていない。そこからが問題なのだ。
跳び上がり、膝は伸びる。閉じられていた腕は、ゴール目掛けて伸び、両手からボールが離れていった。綺麗な湾曲状に空を駆けていくバスケットボールの行く先は、しっかりとリングを補足している。まだ宙にいた秀輝は、無表情に希っていた。
落ちろ。
落ちろ。
リングの中へ、落ちろ。
ボールがリングを眼前とした瞬間に、秀輝は体育館に降り立つ。
――はずだった。
「……っ!」
突如として、視点が高速で上下に動く。絶叫マシーンに乗っているかのように、垂直落下するのだ。あったはずの床も、持っていたはずの神経も体幹も、全部がデタラメだと現実は言い張る。
秀輝は、見えない足場を凝視して仰け反る。止めどない虚空へ落ちていく自分自身をもがくように捩った。さきほど、打ったはずのボールも一向に落ちてこない。
上を見るだけだ。シュートの結果を見るだけである。それなのに、秀輝は怖がって、拒絶して、見上げることをしなかった。それは、シュートは入らないと決めつける自己嫌悪からか。はたまた、遠のく空を見てしまうと、自分が落ち続けていることを認めてしまうからか。
だからといって、秀輝を待ち受ける底なしは、いつだって敵に違いない。不気味に乱反射する表面は、毅然とした態度で待ち受けているのだ。
(……落ちるっ……)
あの日見た悪夢の海が忘れられなかった。真っ白な腕が、こちらを掴もうと不気味な水底から這い出てくるのも。逃げたくても、波に邪魔されて、足が固まりきってしまうのも。
全部、全部。
勝手に、終わらせてくれなかった。
「いつか俺は本当に、水の中で死ぬのだろう」と、秀輝は目尻から汗か涙か、判別のつかない雫を流す。
水の中は、苦しいことを、彼は知っている。
だから、死から逃れたい。水から逃れたい。
――殺されたくなんか、ない。
「おはようございまーす!!!!」
真空の中を轟音が貫いた。視界は、一気に晴れていき水も引いていく。ふらふらと膝から力が抜けて、しゃがみ込んだ。
音の主は、チームの仲間たちが出したものだった。体育館の正面入口は、老朽化のために、それなりに力をかけないと開かないスライドドアだ。加減を知らない男たちが、朝から元気という名の猛威を振るってくれたらしい。
秀輝は、乱れた息を整えて、なんとか持ち直す。扇風機で汗や身体の調子にリセットを掛け、涼しい顔をするのだ。余計な詮索をされては、更に周りの目を増やすに違いない。彼は、至って平静な副キャプテンを装い、仲間たちに挨拶を返した。
「おはようー」
自分を保つことに精一杯な秀輝は、気付けない。
唯一無二は、目ざとく、秀輝のことを怪訝に見つめていることに。
夜のプールは、涼しくて自由で神秘的だ。
最後に人が使ってから数時間は経っているので、プールサイドのジメジメとした湿り気を気にする必要がない。くわえて、学校の屋外プールのような熱されたコンクリートの地面を素足で踏まなくて済む。
ここ――総合体育館にある屋内プールを貸し切って、他より贅沢な時間を過ごしているというのに、なぜだか彼は退屈そうにプールサイドで三角座りをしていた。
「乗り気じゃない?」
「……」
明らかに肩を落としていることは、彼が水着姿だから一目瞭然である。ゴーグルも水泳帽も傍らに放置して、水面を爪先で蹴っている。
「うまくいかないの? 歩」
「さぁ……結局、周りと同じだっただけですよ。あの人も、いずれ水に殺される」
「ふぅん」
プールサイドで背を丸める歩の背後に寄ると、プールの水面に全身が映った。細く引き締まった身体に、長い手足を持て余すかのように立つ男。シルエットだけでもモデルのような頭身だと思わせる次元超越者の風格は、反射する水面の上で蓮の花の如く咲いていた。
男の顔は、照度を低くした屋内では陰ってよく見えない。身長もそれなりにあるため、尚更、顔が水から遠いのだろう。
「差し入れだよ」
「なんです」
「ん~……特製ドリンク! 未発表の新作らしいから、内緒だよ」
面倒くさい、と思いつつも慣れたように、「ありがとうございます」と歩は、ペットボトルを受け取った。ラベルを見てみれば、確かに店舗で見たことのないスポーツ飲料水の新作フレーバーだった。早速、蓋をひねって一口試飲する。
「ちょっと、あまい」
「あっやっぱり? 俺も、それは同じ意見だった」
「まぁ……夏には、いいんじゃないんですか?」
「さすが、現役の感想は助かるよ」
男の言葉に鼻で笑った。彼も、まだ現役のスターだというのに。歩を導いた、否よくも見出した本人がなにを言うのだろう。
「始めます」
「うん、いつでもどうぞ」
最後に水面を思い切り蹴ると、ざぱ、と水沫が荒々しく跳ねた。重い腰を上げてスタート台へ向かえば、弾いた飛沫が漸く落ちるところだった。
水泳帽とゴーグルを装着して息を吸う。呼吸をする、前を見る、泳ぐ準備。
ゴーグルに覆われ、視界は黒く、レイヤーをかけられてしまった。
足の爪先でスタート台の縁を握り込んだ。すぅ、と肩を伸ばして、指先に全神経を研ぎ澄ませ合図を待つ。
――これで、良かったのだ。
プールサイドに立つ男の手に握られたスマホから電子音が鳴る。
コンマ一秒ほどの合図を、歩は聞き逃さない。少しでも遅れたり、フライングをしたりすることがあれば、選手人生の命取りとなるから。
思いっきり踏み込んで、スタート台を蹴った。ナイフのような切先で水面を切り裂き、己を投じていく。
あとは水そのものに身を委ねるだけ。自我を捨て、果てのない水の行き止まりを見つけるために泳ぐことだけを考える。
そうすれば、きっと、きっと――。
「歩は、消耗品なんかじゃない。……こんなに、綺麗に泳げるのに。お願い、歩を見つけて、神様……」
男の立つ陸地は、既に埋め立てられていて、水の届く隙間はなかった。
それでも、安全地帯と言えない。いつ、大地が裂けてもおかしくない。
だからこそ、男は今でも、足場の不安定な舞台の上で水底を見つめているのだ。
転がり落ちてしまった人を、見つけるために。
ある日の朝練習を終えた頃、ピロティにて三人は、優雅にランチョンマットを広げていた。昼練習に入った野球部の様子を、冷気の漂うコンクリート空間から眺めるだけで、優越感と背徳的な気分を同時に楽しめる。
ただ、この三人に至っては、そのような考えは微塵もなく、そもそも範疇になかった。
「へぇ~~これが中学の時の歩くん?」
「そうそう、すごいよねー! 見てコレ、金メダル提げてる」
「うおっ、マジだ、やべえ」
遠ざけていたはずの人物が、なぜか三人の中で共通の話題になっていた。どうやら、秀輝の話を聞いた真帆は、個人的に歩の経歴を調べていたという。
彼女の持つ広大なネットワークには、海虎も目を瞠るほどの人脈と、積み重ねてきた人望がつき詰まっている。なので、突然現れた正体不明の歩のような男でも、真帆の手にかかれば一瞬で仮面が剥がされてしまうのだ。
「シンリャクシャ? だっけ、あれ、あながち間違いじゃなかったんだねー」
「?……どういうこと」
「ん~、なんか、すごく小さい頃から、前線張ってる感じ? ま、比企田くん本人のやりたいことかは、分かんないけど」
真帆は、スマホに映る幼い姿の歩を指した。中学生だというのに、今とそう変わらない早熟した顔を貼り付けて表彰台に立っている彼。年相応の身体と、妙に大人びた顔つきは少々アンバランスで、しかし、二次元的な頭身とパーツは高校生の彼より浮き立っている。
例えるなら、まさに偶像到達点。あの金メダルすら、「窮屈です」と言いたげに胸元で煌めいている。
「ざっと、中学生が出る水泳関係の大会は全部調べたよ。どれも、比企田くんは出場してたし、軒並みメダル乱獲まつり。もはや、独壇場だよね」
「へぇ……でも、なんでうちの高校に来てるんだろうね。水泳で強いって話は、申し訳ないけど、聞かない……な」
「海虎がそんなこと言うの意外だな」
「誤解するなよ、弱いって言ってるわけじゃない。ただ、目立つことはないってだけ、だろ?」
「目立つ」
秀輝は、そのままオウム返しにボヤく。
彼の中で一つの仮説が生まれていた。比喩や冗談ではなく、本当に同族嫌悪から彼を拒絶していたのではないかと。そう考え始めたら、頭の中で知りもしない歩の過去が止めどなく溢れて勝手に同情すら覚える。
しかし、邪な私情は真帆の情報提供によって、ものの見事に打ち砕かれた。
「小学生から今までずっっっと、水泳漬けだね。ほら、これ。わりと有名なジュニアスイミングスクールらしいよ」
「……ほんと真帆って、どこでそれを拾ってくるの」
「ナイショ~」
小気味よく唇の片端を上げて、ふふん、と鼻を鳴らす真帆に、秀輝は完敗の面である。彼がなにかを考察し、発見するよりも、おそらく彼女から先に聞き出したほうが早いと悟ったのだ。
「あれ? でも、このちっちゃい歩くん、すっげーイメージと真逆でめっちゃはしゃいでない?」
「あ、海虎も気付いた? だよねー。でも、まああるでしょ。思春期到来ってやつ」
「ありえなくはないか」
「うんうん」
「思春期なんて海虎も秀輝も」と指をくるくる持て余し始めた真帆に、二人がかりで止めにかかった。高校デビューで少々から回っていた当時のことを思い出すのが痛いのだろう。にしし、と小悪魔に笑う彼女は、華麗に二人から身を躱し、話を続ける。
「ま、昔の君たちの性格なんて、今を形作るただの過程でしかないからね」
安堵の嘆息をこぼして体勢を戻した。海虎は、なにやら気恥ずかしそうに、珍しく顔を背けて口を覆っている。正直者で素直な真帆だから言えるキザな言葉に、弱いのだろう。
とどのつまり、「今の二人を見ている」ということだ。全く、憎めない可憐な女性であることに間違いはない。
「これ、去年? くらいに出てたスポーツ新聞の記事。比企田くんが、若手の選手として注目されてるんだけどね、ちょっと、おかしいんだよね」
「おかしい……? あ、これ、……『人魚の連れ子』って」
「そうそうソレ! カッコイイよねー」
「なにそれ?! やっばぁ……選手の特権?」
記事の見出しを彩る、だいそれた二つ名。
『人魚の連れ子、今年は温存か』
一面をざっと流し見た感じ、どうやら、歩の水泳に関するコラムと、これからのキャリアに対して考察するような内容だった。
「『自身を〝侵略者〟と名乗る比企田選手だが、独自調査によれば、彼本人が生み出した異名でないことが判明した』……はぁ~、そこまで調べてんの」
「ね、記者ってすごいよね」
「なんか、勝手に覗いてるみたいでフクザツ、だけど……」
「でも、背に腹は代えられないでしょ? 無知なままじゃ、比企田くんを傷付けちゃうかもしれないんだし」
「そうだけど……」
真帆と秀輝の真剣な話し合いに、海虎は耳だけを貸していた。食べかけのコンビニ弁当に箸を進めながら、あの日、ピロティで出会った歩のことを頭に浮かべて。
二人が熱心に討論する記事の内容を要約すると、このようになる。
まず、比企田歩という水泳選手は、中学一年にして、長水路標準記録を軽々と突破していった稀有な存在だということ。
そして、その記録は、水泳界の頂点であった夜宮水月の保持するジュニア記録に最も近く、塗り替える手前であった。
夜宮水月が、電撃引退してから数年。突如、現れた超新星は、新たなる希望の星――いや、星の再光として『人魚の連れ子』と呼ばれ、担がれ始めるのだ。
「『コーチは、小学生時代からお世話になっているスイミングスクールの先生。しかし、時折見せる〝人魚〟を彷彿とさせるような泳ぎは、ただの憧れだけで出来るものだろうか』……すごいな、やっぱり夜宮選手みたいだって思ったのは、間違ってなかった」
「夜宮選手ってあの、今じゃアイドルみたいにテレビに出まくってる人だよね」
「そうだね。選手だったときの縁で、スポーツ関係のアパレルもやってるみたいだけど」
「詳しいじゃん」
「……ちょっとね。でも、夜宮選手の本気の泳ぎは引退以来全く見てないから、……寂しいかな」
言葉尻悪く、しんとする。秀輝は、「今は、比企田くんの話だから」と右手を横に振って続きを促した。
話は戻り、それからのこと、歩の中学水泳時代は、全盛を極めていく。三年にもなれば、遂に、夜宮水月のジュニア記録を塗り替えた。
日々のメディア露出によって、観衆の目に晒される時間は次第に増えていき、彼は選手としての道を本格的に歩き始めることとなるのだ。
しかし、歩に秘められていた本来の力は、高校生になってから発揮され始めた。スカウトを受けていたため、当然のように水泳強豪校に入学するのだが――。
「『春季大会を待たずして、僅か一ヶ月で転校』……て、はぁ?」
「飽き性なのか、一人好きなのか……不思議ちゃんだねー比企田くんって」
「いや、いやいや……せっかくスカウト受けたのに、なんで蹴るようなことしてんだ?」
「それ、秀輝が言うの?」
無意識に自分自身から地雷を踏みに行っていたことを、真帆に痛く指摘された。なにも返せずに口を噤めば、海虎が肩を優しく叩き、秀輝の持参していた水筒を飲めと促す。猛暑の中だというのに、未だに保たれている冷気の残った水のおかげで、なんとか自重できた。
「比企田くんは、ずっと高校を転々としてるみたい。転校して、水泳部に入って、その部の記録を塗り替えて、すぐに立ち去る……そんなことを続けてるって」
「はぇ~~道場破り?」
「そう言っちゃうとカッコイイけど、やられた側は堪ったもんじゃないよねぇー」
「あぁ、だから〝侵略者〟なのか。嫌味だね」
水筒をちびちびと飲みながら、真帆と海虎の卒のないやり取りに感心する。頭の回転が早くて、あらゆる立場の人間の視点に立てて、言語化もそれなりに出来て、彼らにないものは逆になんなのだろう。
歩は、高校生になってから、公式大会に部活動や団体といった部門で出場することはめっきり無くなった。完全個人という非常にハードルの高い枠で神出鬼没に現れるのだ。
海虎の言う、道場破りな行動と、個人戦を好む得体の知れない脅威を加味すれば、彼が『侵略者』と揶揄されるのは十分すぎるほど頷ける。
歩自身が、「侵略者だ」と名乗っていたのは、紛れもなく自嘲だろう。
「でも、不思議だよね。比企田くん、わざわざ夏休みの時間使ってまで、うちの高校に留まってるの」
「だよなぁ。そこ、俺も引っかかってた」
「秀輝こそ、なにか気付かなかったの?」
「……えぇっ」
思ってもない疑問を投げかけられて、胡座のまま小首を傾げる。あの時の秀輝に、歩の本性を見抜けるような余裕や精神状態は到底無かった。今でさえ、さらなる追加情報で上の空になりかけていたというのに、思い出せる気概すら感じられない。秀輝は、とりあえず悩む素振りをするだけして、二人の視線を自分から外させた。
ふわふわ、ゆらゆら。上半身を左右に振り子のように揺らして、ピロティの渡り廊下へと続く奥を覗いてみる。この道を辿って、あの日、無理やりプールへ連行された。そして、比企田歩という、選手の姿を見せつけられたのだ。
あの場で見せられた泳ぎは、夜宮水月を思わせ、一瞬にして秀輝の心を水の中へと誘い込んだ。あまりにも突飛であると自覚しているから、二人には、「歩の泳ぎは、自分を殺している」なんてことまで話していない。
もし、彼の隠された秘密に秀輝だけが気付いているのならば、暴く資格はきっとある。本人から、まるで共犯者になれ、とでも言うような言葉も受け取った事実だってあるのだ。
(でも……だからといって……俺は……)
二人に気付かれない程度に息をこぼす。
いっそのこと、本人が登場して全てを話してくれれば――。
「――ぁ」
言霊の力とは、存外信用できないものでもない。
秀輝は、手に持っていた水筒を一気に飲み干して、足元に置いたままだったゴミ袋を鞄に詰め込んだ。
「ん? なんか用事でも思い出した?」
「あ、……あぁ~そんなとこ」
「そか、じゃあ今日は、この辺で帰るか」
「ごめん! ちょっと、別件があるから、一緒に帰れない。ごめん」
さきほどまで、呆然と黄昏れていた人とは思えないほど、きびきびとした身支度に海虎は、眉をひそめた。
秀輝の目線の先を捉えられたら、きっと止められるに違いない。だから、キョロキョロと敢えて視線を彷徨わせて、焦っていることを演出する。偶然にも、真帆が海虎の腕を取ってくれたおかげで、ついてこられるのを阻止できた。
適当な別れを告げ、足早に彼女の横を通り過ぎる。ふと、真帆の顔を横目に見れば、ぱちりと視線が合ったので、あいにく行き先には気付かれているらしい。
――ありがとう。
口の動きだけで伝える。
それを認めるなり、満更でもなさそうに真帆は視線を外した。遠ざかる背後から聞こえてくる彼女の声は、とても嬉しそうで、期待に満ちていて、心底安心する音をしている。
次は真帆にもお礼をしなければ、と眉を下げて秀輝は走った。
向かう、ピロティの奥。プールへと繋がる渡り廊下一直線。薄れていた影が近付いてくる。
まだ、数度しか見ていないのに、すっかり印象に残ってしまった背中は、前見たときよりも縮めていて、丸まっているように見えた。
